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『資本論』抄録 第1章(si004-03)

『資本論』抄録 第1章 商品

『資本論』経済学批判 第1版 第2版 文献比較研究
抄録 si004-01 序文 はこちら 『資本論』序文・説明
si004-02 第1章 1節はこちら 第1節商品の2要素
si004-03 第1章 2節はこちら 第2節労働の二重性
si004-04 第1章 3節はこちら 第3節価値形態または交換価値
si004-05 第1章 4節はこちら 第4節商品の物神的性格
si004-06 第2章はこちら 第2章 交換過程
si004-07 『経済学批判』 第1編資本一般 第1章 商品 
『経済学批判』A 商品分析の歴史
si004-08 第3節価値形態 概要  貨幣発生の証明の概要
 

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  第2節 商品に表わされた労働の二重性

 第1版   第2版 文献比較研究 -第2節-
・中見出しー編集部作成 第2版・岩波文庫    第1版・国民文庫 
1. 商品の両面性ー使用対象 p.78-81 p.29-33
2. 商品の両面性ー商品価値 p.82-85 p.33-39
3. 商品に表わされた労働の二重性 p.85-87 p.39-40
*参考文献 『経済学批判』第1編 資本一般 第1章 商品
 

『資本論』 経済学批判   ( 第2版 岩波文庫 )
第1篇 商品と貨幣  第1章 商品
第1章 第2節

   ■キーワードー「第1版」または「ヘーゲル論理学」との関連
 ・社会の富 ・商品集積 ・成素形態 ・『経済学批判』 ・1-5 交換価値
 .................................................................................

 


 第2節 商品に表わされた労働の二重性

  〔1.商品の両面性ー使用対象

2-1 最初商品はわれわれにとって両面性のものとして、すなわち、使用価値および交換価値として現われた。後には、労働も、価値に表現されるかぎり、もはや使用価値の生産者としての労働に与えられると同一の徴表をもたないということが示された。商品に含まれている労働の二面的な性質は、私がはじめて批判的に証明したのである。この点が跳躍点であって、これをめぐって経済学の理解があるのであるから、この点はここでもっと詳細に吟味しなければならない。

  (12)『批判』12、13ページおよびその他の諸所〔ディーツ版『全集』第13巻、22、23ページ以下。邦訳、岩波文庫版、33・35ページ以下、その他。新潮社版『選集』第7巻、64、65ページ、その他〕。

2-2  二つの商品、例えば1着の上衣と10エレの亜麻布とをとろう。前者は後者の2倍の価値をもっており、したがって、10エレの亜麻布がWとすれば、1着の上衣は2Wであるとしよう。

2-3  上衣は特別の欲望を充足させる一つの使用価値である。これを作るためには、一定の種類の生産的活動を必要とする。生産的活動はその目的、作業法、対象、手段および成果によって規定される。労働の有用性が、かくて、その生産物の使用価値に表わされ、すなわちその生産物が一つの使用価値であるということのうちに表わされているばあい、この労働を簡単に有用労働と名づける。この観点のもとでは、労働はつねにこの利用効果と結びつけて考察される。

2-4  上衣と亜麻布とが質的にちがった使用価値であるように、その存在を媒介する労働は、質的にちがっている。―裁縫と機織。もしそれらのものが質的にちがった使用価値でなく、したがって、質的にちがった有用労働の生産物でないとすれば、これらのものは、決して商品として相対することはありえないであろう。上衣は上衣に対しては交換されない。同一使用価値は同一使用価値と交換されることはない。

2-5  各種の使用価値または商品体の総体の中に、同じく属・種・科・亜種・変種等々というように、種々様々のちがった有用労働の総体が現われている。― 社会的分業である。この分業は商品生産の存立条件である。商品生産は逆に社会的分業の存立条件ではないのであるが。古代インドの共同体では、労働に、社会的に分割されているが、生産物が商品となることはない。あるいはもっと近い例をあげると、あらゆる工場で労働は系統的に分割されている。だが、この分割は、労働者がその個人的生産物を交換するということによって媒介されてはいない。お互いに商品として相対するのは、独立的でお互いに分かれている私的労働の生産物だけである。

2-6  したがって、こういうことが明かとなる。すなわち、すべての商品の使用価値の中には、一定の目的にそった生産的な活動または有用労働が含まれている。もし使用価値の中に、質的にちがった有用労働が含まれていないとすれば、使用価値は商品として相対することはできない。その生産物が一般に商品の形態をとる社会においては、すなわち、商品生産者の社会においては、独立生産者の私業として相互に独立して営まれる有用労働のこのような質的な相違は、多岐に分かれた労働の体制に、すなわち社会的分業に発展する。

2-7  だが、上衣にとっては、それを裁縫職人が着るか、その顧客が着るかは、どうでもいいことなのである。そのいずれのばあいでも、上衣は使用価値として作用している。同じように、上衣とこれを生産する労働との関係は、それ自身としては、裁縫が特別の職業となること、社会的分業の独立の分肢となることによって、変化することはない。着物を着るという欲望が人間に強要するかぎり、人間は、ある男が裁縫職人となる以前に、幾千年の永きにわたって裁縫した。しかしながら、上衣・亜麻布等、自然に存在しない素材的富のあらする要素が現存するようにたったことは、特別な人間的要求に特別な自然素材を同化させる特殊的な目的にそった生産活動によって、つねに媒介されなければならなかった。したがって、使用価値の形成者として、すなわち、有用なる労働としては、労働は、すべての社会形態から独立した人間の存立条件であって、人間と自然との間の物質代謝を、したがって、人間の生活を媒介するための永久的自然必然性である。

 


  〔2. 商品の両面性ー商品価値

2-9 われわれは、使用対象という限度内で商品を論じたのであるが、これから商品価値に移ろう。

2-10 われわれの想定によれば、上衣は亜麻布の2倍の価値をもっている。しかしながら、このことは量的な相違にすぎないのであって、いまのところわれわれの関心を惹くものではない。したがって、われわれは、もし1着の上衣の価値が10エレの亜麻布の価値の2倍の大いさであるとすれば、20エレの亜応布は1着の上衣と同一の価値の大いさをもっているということを思い起こすのである。価値として、上衣と亜麻布とは同一実体のものであり、同一性質の労働の客観的表現である。しかしながら、裁縫と機織とは質的にちがった労働である。だが、こういう社会状態がある。そこでは同一人間が交互に裁縫したり織ったりする、したがって、この二つのちがった労働様式は、同一個人の労働の変形にすぎないもので、ちがった個人の特殊な固定した機能にまだなっていないのであって、ちょうど今日われわれの裁縫職人の作る上衣と明日彼のつくるズボンとが、同一の個人的労働の変化であるにすぎないことを前提するのと同じである。さらに、われわれは日頃こういうことを目で見ている。すなわち、われわれの資本主義社会では、労働需要の方向の変化によって、一定分の人間労働が交互に裁縫の形態で供給されたり、機織の形態で供給されたりするのである。このような労働の形態変更は、摩擦なく行なわれるわけではあるまいが、しかし、行なわれざるをえないものである。生産的活動の特定性、したがってまた労働の有用な性格を見ないとすれば、労働に残るものは、それが人間労働力の支出ということである。裁縫と機織とは、質的にちがった生産的活動ではあるが、両者ともに、人間の頭脳・筋肉・神経・手等々の生産的支出であって、この意味では両者ともに人間労働である。それは人間労働力を支出する二つのちがった形態であるにすぎない。もちろん、人間の労働力それ自身は、どの形態でも支出されうるためには、多少とも発達していなければならぬ。しかしながら、商品の価値は人間労働そのものを、すなわち人間労働一般の支出を表わしている。さてブルジョア的社会では、将軍または銀行家が大きな役割を演じ、人間そのものは、これに反して、きわめてみすぼらしい役割を演ずる(14)ように、このばあいでも人間労働は同じ取り扱いをうけている。この労働は、すべての普通の人間が特別の発達もなく、平均してその肉体的有機体の中にもっている単純な労働力の支出である。単純なる平均労働自身は、国のことなるにしたがい、また文化時代のことなるにしたがって、その性格を変ずるのではあるが、現にある一定の社会内においては与えられている。複雑労働は、強められた、あるいはむしろ複合された単純労働にすぎないものとなるのであって、したがって、複雑労働のより小なる量は、単純労働のより大なる量に等しくなる。この整約が絶えず行なわれているということを、経験が示している。ある商品はもっとも複雑な労働の生産物であるかもしれない。その価値はこの商品を、単純労働の生産物と等しい関係におく。したがって、それ自身、単純労働の一定量を表わしているにすぎない(15)。それぞれちがった種類の労働が、その尺度単位としての単純労働に整約される種々の割合は、生産者の背後に行なわれる一つの社会的過程によって確定され、したがって、生産者にとっては慣習によって与えられているように思われる。ことを簡単にするために、以下においてはどの種類の労働力も直接に単純労働力であると考えられる。これによってただ整約の労をはぶこうというのである。

  (14) ヘーゲル『法の哲学』ベルリン、1840年、250ページ、第190節参照。
  (15) 読者に注意して貰わなければならぬことは、ここでは、労働者が例えば一労働日にたいして受け取る賃金または価値について論じているのではなくして、その労働日が対象化されている商品価値について論じているということである。労働賃金という範疇は、そもそもわれわれの説明のこの段階では、まだ問題にはならない。


〔 ペティ ー使用価値による価値形成論 〕
2-8  上衣・亜麻布等々の使用価値、簡単に商品体は、自然素材と労働という二つ要素の結合である。上衣・亜麻布等々に含まれているちがった一切の有用労働の総和を引き去るならば、つねに入間の加工なしに自然に存在する物質的基盤が残る。人間は、その生産において、自然みずからするようにするほか仕方のないものである。すなわち、ただ素材の形態を変更するほかに仕方のないものである(13)。さらに、この製作の労働そのものにおいても、人間はたえず自然力の援けをかりている。したがって、労働はその生産する使用価値の、すなわち素材的富の、唯一の源泉ではない。ウィリアム・ペティがいうように、労働はその父であって、土地はその母である。

 (13) 「宇宙の一切の現象は、それが人間の手によってもたらされようと、物理学の一般法則によってもたらされようと、事実上の新創造ではなくして、単に素材の形態変更であるにすぎない。複合と分離は、人間精神が再生産の観念の分析にあたって、いかなるときにも見出す唯一の要素である。そして、価値(使用価値のこと。むろん、ヴェリはこのばあいその重農学派にたいする論争において、どんな種類の価値について自分が語っているのかを、自分ではよく知らないのである)と富の再生産についても、土地・空気および水が、耕地で穀物に転化されるばあい、あるいはまた人間の手によってある種の昆虫の分泌物が絹糸に転化され、あるいは若干の金属の小片が一つの時打ち懐中時計をつくるために組み立てられるばあいで見るように、ことは同様である」(ピエトロ・ヴェリ『経済学にかんする考察』―初版、1771年―。クストディの『イタリアの経済学者』版で刊行。近代篇、第15巻、21、22ページ)。



  〔3.商品に表わされた労働の二重性

2-11  したがって、上衣や亜麻布という価値においては、その使用価値の相違から抽象されているように、これらの価値に表わされている労働においては、その有用なる形態である裁縫や機織の相違から抽象されている。上衣や亜麻布という使用価値が、目的の定められた生産的な活動と布や撚糸との結合であるように、上衣や亜麻布という価値が、これと反対に、単なる同種の労働膠状物であるように、これらの価値に含まれている労働も、布や撚糸にたいするその生産的な結びつきによるのでなく、ただ人間労働力の支出となっているのである。上衣や亜麻布という使用価値の形成要素は、裁縫であり、機織である。まさにそれらの質がちがっていることによってそうなるのである。それらの労働が上衣価値や亜麻布価値の実体であるのは、ただそれらの特殊な質から抽象され、両者が同じ質、すなわち人間労働の性質をもっているかぎりにおいてである。

2-12  しかしながら、上衣と亜麻布とは、ただ価値そのものであるだけではなく、一定の大いさの価値である。そしてわれわれの想定によれば、1着の上衣は10エレの亜麻布の2倍だけの大いさ心価値である。どこから、それらの価値の大いさの相違が生ずるのか? それは、亜麻布がただ上衣の半分だけの労働を含んでいること、したがって、上衣の生産には、労働力が亜麻布の生産にくらべて2倍の時間、支出されなければならぬということから来るのである。

2-13  したがって、使用価値にかんしては、商品に含まれている労働がただ質的にのみ取り上げられているとすれば、価値の大いさについては、労働はすでに労働であること以外になんら質をもたない人間労働に整約されたのち、ただ量的にのみ取り上げられているのである。前者では、労働は、如何になされるかということ、何を作るかということが問題であるが、後者では、労働のどれだけということ、すなわち、その時間継続ということが問題なのである。ある商品の価値の大いさは、ただそれに含まれている労働の定量をのみ表わしているのであるから、商品はある割合をもってすれば、つねに同一の大いさの価値でなければならぬ。

2-14  例えば、1着の上衣の生産に必要な一切の有用労働の生産力が不変であるこすれば、上衣の価値の大いさは、それ自身の量とともに増大する。もし1着の上衣がX労働日を表わすそすれば、2着の上衣は2x労働日を表わす、等々である。しかしながら、1着の上衣の生産に必要な労働が2倍に増大するか、または半分だけ減少するという場合を仮定しよう。第一のばあいにおいては、1着の上衣は、以前の2着の上衣と同じ価値をもつものとなる。後のばあいには、2着の上衣が、以前の1着の上衣と同じ価値をもつにすぎないこととなる。もちろん、二つのばあいにおいて、1着の上衣は依然として同一のはたらきを果たし、それに含まれている有用労働は、依然として同一品質のものにとどまっているのであるが。ところが、その生産に支出されている労働量は、変化しているのである。

2-15  より大きな量の使用価値は、それ自身としてはより大きな素材的富をなしている。2着の上衣は1着よりは多い。2着の上衣では、2人の人に着せることができる。1着の上衣では、1人の人に着せることができるだけである、等々。だが、素材的富の量が増大するのにたいしては、その価値の大いさの同時的低下ということが、相応じうる。この相反する運動は、労働の両面的な性格から生じている。生産力は、もちろんついに有用な具体的な労働の生産力である。そして実際にただ与えられた期間における、目的にしたがった生産的活動の作用度を規定しているだけである。したがって、有用労働は、その生産力の増大あるいは低下と正比例して、より豊富な生産物源泉ともなれば、より貧弱なそれともなる。これに反して、生産力の変化は、価値に表わされている労働それ自身には、少しも触れるものではない。生産力は、労働の具体的な有用な形態がもっているものであるから、労働が、この具体的な有用な形態から抽象されるやいなや、当然にもはや労働に触れることはできない。したがって、同一の労働は、同一の期間に、生産力がどう変化しようと、つねに同一大いさの価値を生む。しかしながら、生産力は同一期間に、ちがった量の使用価値をもたらす。生産力が増大すればより多く、それが低下すればより少ない。労働の生産度を増大させ、したがって、これによってもたらされる使用価値の量を増加させる同じ生産力の変化は、このようにして、もしこの変化がその生産に必要な労働時間の総計を短縮するならば、この増大した総量の価値の大いさを減少させる。同じように、逆のばあいは逆となる。

2-16  すべての労働は、一方において、生理学的意味における人間労働力の支出である。そしてこの同一の人間労働、または抽象的に人間的な労働の属性において、労働は商品価値を形成する。すへての労働は、他方において、特殊な、目的の定まった形態における人間労働力の支出である。そしてこの具体的な有用労働の属性において、それは使用価値を生産する(16)。

  (16) 第2版への注。「労働のみがすべての商品の価値を、あらゆる時代に、評価し、比較しうる終局的な真実な尺度である」ということを証明するために、A・スミスはこう述べている。「同一量の労働は、あらゆる時代あらゆる場所において、労働者自身のために同一価値をもっていなければならぬ。労働者の健康・力および活動の正常な状態において、そして彼のもっていると考えられる熟練の平均度とともに、彼は、つねにその安息、その自由およびその幸福の、それ相応の部分を犠牲としなければならぬ」(『諸国民の富』第1篇第5章〔E・G・ウェイクフィールド版、ロンドン、1836年、第1巻、104ページ以下。邦訳、大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』岩波文庫版、第1分冊、155―156ページ〕)。一方A・スミスは、ここで(どこででもというわけではない)、商品の生産に支出された労働量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と混同している。したがって、同一量の労働が、つねに同一価値をもつことを証明しようと企てる。他方では彼は、労働が商品の価値に表わされるかぎり、労働力の支出としてのみ考えられるものであることを感じているが、この支出をまた、ただ安息・自由および幸福の犠牲とのみ解していて、正常な生活活動とも解していない。もちろん、彼は近代賃金労働者を眼前に浮かべている。
―注(9)に引用した匿名のA・スミスの先駆者は、はるかに正しくこう述べている。
「一人の男がこの欲望対象の製造に1週間をかけた。……そして彼に他の対象を交換で与える男は、彼にとって同じ大いさの労働と時間を費やさせるものを計算するよりほかには、より正しく実際に同価値であるものを算定することができない。このことは、事実上ある人間が一定の時間に一つの対象に費消した労働と、同一時間に他のある対象に費消された他の人の労働との、交換を意味している」(『一般金利……にかんする二、三の考察』 39ページ)。―{ 第4版に。英語は、労働のこの二つのことなった側面にたいして、二つのことなった言葉をもっているという長所がある。使用価値を作り出し、質的に規定される労働を Work といい、Labour に相対する。価値を作り出し、ただ量的にのみ測定される労働を Labour といって、Workに相対する。英語訳14ページの注を参照されよ。-F・E }。

>第1版・国民文庫  【第1章 商品と貨幣】

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   第2節 商品に表わされた労働の二重性  

第1版   第2版  文献比較研究 -第2節-
第2版・岩波文庫  第1版・国民文庫 
1. 商品の両面性ー使用対象 p.78-81 p.29-33
2. 商品の両面性ー商品価値 p.82-85 p.33-39
3. 商品に表わされた労働の二重性 p.85-87 p.39-40
 

 『資本論』第1版  第1章 商品と貨幣       ■第1版 国民文庫

  (1) 商 品    (18-50)   〔商品に表わされた労働の二重性〕

『資本論』第1版1-18 第1版19-50 第1版51-79  第1版80-93

      〔商品に表わされた労働の二重性〕

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 1. 商品の両面性ー使用価値
 2. 商品の両面性ー交換価値
 3. 商品に表わされた労働の二重性


 〔1.商品の両面性ー使用価値

19. はじめから商品はわれわれにたいして二面的なものとして、使用価値および交換価値として、現われた。さらに詳しく考察すれば、商品のなかに含まれている労働もまた二面的である、ということが明らかになるであろう。この点は、私によってはじめて批判的に説明されたのであって(12)、経済学の理解がそれをめぐっている跳躍点てある。
     
(12) カール・マルクス『経済学批判』、12、13ページおよび所々。

20. 二つの商品、たとえば1着の上着と10エレのリンネルとをとってみよう。前者は後者の2倍の価値をもっているものとし、したがって、10エレのリンネル=Wとすれば 1着の上衣=2Wであるとしよう。



21. 上着は、ある特殊な欲望を満足させる使用価値である。それを生産するためには、一定種類の合目的的に生産的な活動が必要である。この活動は、目的、作業様式、対象、手段、結果に応じて規定されている。このように労働の有用性が、その生産物の使用価値において、すなわちその生産物が使用価値であるということにおいて、表わされるならば、ここでは簡単にするためにその労働をただ単に有用労働と呼ぶことにしよう。この観点のもとでは、労働は、つねに、労働がその生産を目的としているところの有用効果に関連して考察されているのである。

22. 上着とリンネルとが質的に違っている使用価値であるように、それらの存在を媒介する労働も質的に違っている―裁縫労働と織布。もし、これらの物が質的に違っている使用価値ではなくて、したがって質的に違っている諸有用労働の生産物ではないならば、これらの物はけっして諸商品として相対することはありえないであろう。上着は上着とは交換されないのであり、同じ使用価値は同じ使用価値とは交換されないのである。



23. いろいろに種類の違う諸使用価値または諸商品体の総体においては、同じように多種多様な、属や種や科や亜種によって異なる諸有用労働の総体が現われている-社会的分業。この社会的分業は商品生産の存在条件である。といっても。逆に商品生産が社会的分業の存在条件であるわけではないが。古代インドの共同体においては、生産物が商品になるということなしに、労働は社会的に分割されている。あるいはまた、もっと手近な例をとってみれば、どの工場においても労働は組織的に分割されているが、この分割は、労働者たちが彼らの個人的な生産物を交換するということによって媒介されてはいない。ただ、独立に行なわれていて互いに依存し合ってはいない私的労働の諸生産物だけが、互いに諸商品として相対するのである。

24. こうして次のようなことがわかったわけである。すなわち、どの商品の使用価値にも一定の合目的的に生産的な活動または有用な労働が含まれているのである。諸使用価値は、もしそれらのなかに質的に違った有用な労働が含まれていないならば、諸商品として相対することはできない。ある社会の諸生産物が一般的に商品という形態をとっているような社会においては、すなわち、商品生産者たちの社会においては、独立生産者たちの私的事業として互いに独立して営まれている諸有用労働のこのような質的な相違は、一つの多肢的な組織に、すなわち社会的分業というものに、発展するのである。



25. それにしても、上着にとっては、それを着用する人が仕立屋であろうと仕立屋の顧客であろうと、どちらでもかまわない。どちらの場合にも、その上着は使用価値として働いているのである。同じように、上着とそれを生産する労働との関係も、それ自体としては、裁縫労働が特殊な職業になり社会的分業の独立な分肢になるということにょっては、変化させられてはいないのである。人間は、衣服着用の必要が彼に強制したところでは、ある一人の人間が裁縫師になったよりも何千年もまえから裁縫をやってきた。しかし、上着でもリンネルでも、素材的な富のどの天然に存在してはいない要素でも、その存在は、つねに、特殊な諸自然素材を特殊な諸人間欲望に適合させる特殊な、合目的的に生産的な活動によって、媒介されていなければならなかった。それゆえ、労働は、諸使用価値の形成者としては、有用労働としては、どの社会形態からも独立した、人間の存在条件なのであり、人間と自然とのあいだの物質代謝を、したがってまた人間の生活を、媒介するための、永遠な自然必然性なのである。

26. 上着やリンネルなどという諸使用価値、要するに諸商品体は、自然素材と労働という二つの要素の諸結合物である。上着やリンネルなどに含まれているすべての違った有用労働の総合計を取り去ってしまえば、あとに残るのは、つねに、人間の助力なしに天然に存在する物質的な土台である。人間は彼の生産においては、ただ自然そのものがやるとおりにやることができるだけである。すなわち、ただ諸素材の諸形態を変えることができるだけである。それだけではない。この形づくるという労働そのものにおいても人間はつねに諸自然力によって助けられている。それだから、労働は、それによって生産される諸使用価値の、素材的な富の、ただ一つの源泉なのではない。ウィリアム・ペティが言っているように、労働は素材的な富の父なのであって、土地はその母なのである。




  (13)「世界のあらゆる現象は、人間の手によってひき起こされようと、物理学の一般的諸法則によってひき起こされようと、事実上の創造ではなくて、ただ単に素材の変形であるにすぎない。結合と分離とは、再生産の観念の分析にさいして人間精神が絶えず繰り返し見いだす唯一の要素である。そして、価値(使用価値のこと、とはいえ、ヴェリは、この対重農学派論戦では、自分がどの種類の価値のことを言っているのか、自分でもわかってはいないのだが)や富の再生産についても同じことである。すなわち、土地や空気や水が畑で穀物に変えられる場合とか、ある種の昆虫の分泌物が人間の手によって絹に変えられる場合とか、あるいはまたいくつかの金属片が組み合わされて時打ち時計が組み立てられる場合とかがそれである。」(ピエトロ・ヴェリ『経済学に関する考察』(最初は1773年に印刷された)、クストディ編、イタリア経済学者、近世篇、第15巻、22ページ。)



  〔2. 商品の両面性ー 商品-価値

27.  そこで次に、使用対象であるかぎりでの商品から、商品-価値に移ろう。

28. われわれの想定によれば、上着はリンネルの2倍の価値をもっている。しかし、こういうことはただ量的な相違にすぎないのであって、このような相違はさしあたりはまだわれわれの関心をひくものではない。そこで、われわれが思い出すのは、もし一着の上着の価値が10エレのリンネルの価値の2倍であるならば、20エレのリンネルは1着の上着と同じ大いさの価値をもっている、ということである。価値としては、上着とリンネルとは、同じ実体をもつ諸物であり、同じ種類の労働の客体的な諸表現である。しかし、裁縫労働と織布とは、質的に違う労働である。とはいえ、次のような社会状態もある。すなわち、そこでは同じ人間が裁縫をしたり織布をしたりしているので、これらの二つの違った労働様式は、ただ同じ個人の労働の諸変形でしかなくて、まだ別々な諸個人の特殊な固定した諸機能にはなっていないのであって、それは、ちょうど、われわれの仕立屋が今日つくる上着も、彼が明日つくるズボンも、ただ同じ個人労働の諸変形を前提しているにすぎない、のと同じことである。さらに、一見してわかるように、われわれの資本主義社会においては、労働需要の方向の変化に応じて、人間労働の一定の部分が、あるときは裁縫という形態で、あるときは織布という形態で供給される。このような、労働の形態転換は、摩擦なしにはすまないかもしれないが、とにかくそれは行なわれなければならない。生産的な活動の被規定性を、したがってまた労働の有用的な性格を無視するならば、労働に残っているものは、それが人間の労働力の支出であるということである。裁縫労働と織布とは、質的に違う生産的な活動であるとはいえ、両方とも人間の脳や筋肉や神経や手などの生産的な支出なのであって、この意味において両方とも人間労働である。それらは、ただ、人間の労働力を支出する二つの違う形態でしかないのである。もちろん、人間の労働力そのものも、あの形態やこの形態で支出されるためには、多かれ少なかれ発達していなければならない。しかし、諸商品の価値は、単なる人問労働を、人間の労働力一般の支出を、表わしている。ところで、ブルジョア社会においては将軍や銀行家は大きな役割を演じており、これに反して単なる人間はひどくみすぼらしい役割を演じているのであるが(14)、この場合の人間労働についても同じことである。この人間労働は、だれでも普通の人問が、特別に発達することなしに、自分の肉体的有機体のなかにもっている単純な労働力の支出である。たとえば、農僕の労働力は単純な労働力とみなされ、したがってまた、その労働力の支出は単純な労働、すなわち、それ以上に修飾のついていない人間労働とみなされるであろうが、これとは反対に裁縫労働は、より高度に発達した労働力の支出とみなされるであろう。それだから、農僕の一労働日は、たとえば1/2Wという価値表現で示されるが、裁縫師の1労働日はWという価値表現で示されるのである(15)。とはいえ、この相違はただ量的であるにすぎない。もし上着が裁縫師の1労働日の生産物であるならば、それは農僕の2労働日の生産物と同じ価値をもっている。しかし、こうして裁縫労働はつねにただ何倍かされた農民労働としてのみ数えられるのである。いろいろな労働種類がそれらの度量単位としての単純労働に換算されるいろいろな割合は、一つの社会的な過程によって生産者たちの背後で確定されるのであって、それゆえに生産者たちにとっては慣習によって与えられているもののように思われるのである。簡単にするために、以下では各種の労働力を直接に単純な労働力とみなすのであるが、それはただ換算の労を省くためだけなのである。



  (14) ヘーゲル『法哲学。ベルリン、1840年』、250ページ、第190節参照。
  (15) 読者に注意してもらいたいのは、ここでは、たとえば1労働日について労働者が受け取る賃金または価値のことを言っているのではなくて、彼の労働日が対象化されている諸商品価値のことを言っいるのだ、ということである。労働賃金という範躊は、われわれの叙述のこの段階ではまだ全然存在しないのである。

 29. つまり、上着もリンネルも価値においてはそれらの使用価値の相違が捨象されているように、これらの価値が表わしている労働においても、この労働が一方では裁縫労働であり他方では織布であるという有用的な諸形態の相違は捨象されているのである。上着とリンネルという使用価値は、目的を規定されている生産的な諸活動と布や糸との結合物であり、これに反して、上着とリンネルという諸価値は単なる同種の労働凝固物なのであるが、それと同じように、これらの価値のなかに含まれている労働も、布や糸にたいするその生産的な行動によってではなく、ただ人間の労働力の支出としてのみ、認められるのである。裁縫労働と織布とは、まさにそれらの質の相違によってのみ、上着とリンネルという諸使用価値の形成要素なのであり、裁縫労働と織布とが上着価値とリンネル価値との実体であるのは、ただ、裁縫労働と織布との特殊な質が捨象されで、両方が同じ質を、人間労働という質を、もっているかぎりにおいてのみのことなのである。

30. しかし、上着とリンネルとはただ諸価値一般であるだけではなくて、特定の大きさの諸価値なのであって、われわれの想定によれば、1着の上着には10エレのリンネルの2倍の価値がある。いったいどこから、このような、それらの価値の大きさの相違は生ずるのであろうか?それは、リンネルは上着に比べて半分の労働しか含んでおらず、したがって、上着の生産にはリンネルの生産に比べて2倍の時間にわたって労働力が支出されなければならない、ということから生ずるのである。

31. つまり、商品のなかに含まれている労働は、使用価値との関連においては、ただ質的にのみ認められるとすれば、それは、価値の大きさとの関連においては、もはやそれ以外には質のない人間労働に還元されていて、ただ量的にのみ認められるのである。前のほうの場介には、労働の、どのようにして、と、どんな、とが問題なのであり、あとのほうの場合には、労働の、どれだけ、すなわち、労働の継続時間が問題なのである。ある一つの商品の価値の大きさは、ただ、その商品のなかに含まれている労働の量だけを表わしているのだから、ある一定の割合をなしている諸商品はつねに等しい大きさの価値でなければならないのである。



32. たとえば一着の占看の生産に必要とされるすべての有用な労働の生産力が不変のままであるならば、上着の価値の大きさは上着そのものの量が増すにつれて増大する。もし1着の上着がx労働日を表わしているならば、2着の上着は2x労働日を表わしている、等々。ところで、1着の上着の生産に必要な労働が2倍に増すか、または半分だけ減る、と仮定してみょう。前のほうの場合には1着の上着は、以前に2着の上着がもっていたのと同じだけの価値をもっており、あとのほうの場合には2着の上着がただ以前に1着の上着がもっていただけの価値しかもっていない。といっても、どちらの場合にも上着は相変わらず同じ役だち方をするのであり、上着のなかに含まれている有用な労働は相変わらず同じ良否のものなのであるが。しかし、上
着の生産において支出された労働量は変化したのである。

33. より大きい量の使用価値は、それ自体として、より大きい素材的な富をなしている。たとえば、二着の上着は一着の上着よりも多い。二着の上着では二人の人間に着せることができるが、一着の上着ではたった一人の人間にしか着せることができない、等々。それだのに、素材的な富の増大に、その富の価値の大きさの同時的な低下が対応することかおりうる。このような相反する運動は、労働の二面的な規定から発生している。生産力は、もちろん、つねに、有用な、具体的な労働の生産力である。それは、じっさい、ただ、与えられた時間内における合目的的な生産的な活動の作用程度を表現しているだけである。それだから、有用な労働は、その生産力の上昇または低下に正比例して、より豊富な、またはより貧弱な、生産物源泉になるのである。これに反して、生産力の変動は、価値に表わされている労働そのものにはけっして影響を及ぼさない。生産力は労働の具体的な有用な形態に属するのだから、労働の具体的な有用な形態が捨象されてしまえば、もちろん生産力はもはや労働に影響を及ぼすことはできないのである。それだから、たとえ生産力がどんなに変動しようとも、同じ労働は同じ時間にはつねに同じ価値の大きさに表わされるのである。しかし、その労働が同じ時間内にいろいろに違った量の使用価値を供給する。すなわち、生産力が上昇すればより多くを、生産力が低下すればより少なくを。前のほうの場合には、2着の上着が以前に1着の上着が含んでいたよりも少ない労働を含んでいる、ということもありうる。それゆえ、労働の豊度を増大させ、したがってまた、労働によって供給される諸使用価値の量を増大させるような、生産力の同じ変動が、増大した総量さえもの価値の大きさを減少させる、ということもありうるのである。すなわち、生産力のその変動が、使用価値総量の生産に必要な労働時間を短縮する場合には、そうなのである。逆の場合も同じことである。



  〔3. 商品に表わされた労働の二重性

34. 以上に述べたことからは次のような結論が出てくる。すなわち、商品のなかには、もちろん、二つの違った種類の労働が含まれているわけではないが、しかし、同じ労働が、その労働の生産物としての商品の使用価値に関連して見られるか、それとも、その労働の単に対象的な表現としての商品価値に関連して見られるか、にょって、違った規定を受けるし、また、対立的にさえ規定されている、ということである。商品は、価値であるためには、なによりもまず使用対象でなければならないのであるが、それと同様に、労働も、人間の労働力の支出として、しがってまた単なる人間労働として、数えられるためには、なによりもまず有用な労働、すなわち目的を規定された生産的な活動でなければならないのである。

35. これまではただ価値の実体と価値の大きさとが規定されただけなので、今度は価値の形態の分析のほうに方向転換することにしよう。

36. まず第一に、ふたたび商品価値の第一の現象形態に立ち帰ってみょう。
 
37. 二つの量の商品をとってみて、それらはそれらの生産に等しい労働時間かかかる、つまり、それらは等しい大きさの価値である、とすれば、40エレのリンネル=2の上衣、すなわち、40エレのリンネルは2着の上着に値する、ということになる。われわれが見るのは、リンネルの価値が一定量の上着で表現されている、ということである。ある一つの商品の価値は、このように別の一つの商品の使用価値で表わされている場合には、その商品の相対的な価値と呼ばれる。



37. 一商品の相対的な価値は、その商品の価値が不変のままであっても、変動することがありうる。逆に、その商品の相対的な価値は不変のままでありうる。たとえその価値は変動しようとも。すなわち、40エレのリンネル=2着の上衣という等式が前提しているのは、両方の商品に同じ量の労働が費やされている、ということである。しかし、それらの商品を生産する労働の生産力に変動が生ずれば、そのつど、それらの商品の生産に必要な労働時間は変動するのである。そこで、このような変動が相対的な価値に及ぼす影響を考察してみょう。

38. I. 上着の価値が不変なままであるときに、リンネルの価値が変動する、としよう。たとえば亜麻を栽培する土地の豊度の低下の結果として、リンネルの生産のために支出される労働時間が2倍になるとすれば、リンネルの価値は2倍になる。40エレのリンネル=2着の上衣にかわって、40エレのリンネル=4着の上衣となるであろう。なぜならば、2着の上着は今では40エレのリンネルの半分だけの労働時間しか含んでいないからである。これとは反対に、たとえば織機の改良の結果として、リンネルの生産に必要な労働時間が半分だけ減少するとすれば、リソネルの価値は半分だけ低下する。したがって今度は40エレのリンネル=1着の上衣となる。それだから、商品Aの相対的な価値、すなわちその商品の価値が商品Bで表現されたものは、商品Bの価値が不変のままであれば、商品Aの価値に正比例して上がり下がりするのである。



39. Ⅱ. 上着の価値が変動するときに、リンネルの価値は不変のままである、としよう。こういう事情のもとで上着の生産に必要な労働時間が、たとえば羊毛刈り取りの不調の結果として、2倍になるならば、40エレのリンネル=2着の上衣にかわって、今度は40エレのリンネル=1着の上衣となる。これに反して、上着の価値が半分だけ減少するならば、40エレのリンネル=4着の上衣となる。それゆえ、商品Aの価値が同じままであるならば、商品Aの相対的な、商品Bで表現される価値は、Bの価値変動に反比例して、低下したり上昇したりするのである。                       

40. ⅠとⅡとのいろいろな場合を比較してみると、次のような結果になる。すなわち、相対的な価値の同じ変動がまったく反対の諸原因から生ずることがありうる、ということである。たとえば、40エレのリンネル=2着の上衣が(1)等式〔方程式〕40エレのリンネル=4着の上衣になるのは、リンネルの価値が2倍になるか、または上着の価値が半分だけ低下するからであって、(2)等式〔方程式〕40エレのリンネル=1着の上衣になるのは、リンネルの価値が半分だけ低下するか、または上着の価値が2倍に上昇するからである。



41. リンネルと上着との生産に必要な諸労働量が、同時に、同じ方向で、同じ割合で、変動する。こういう場合には、たとえリンネルと上着との価値がどのように変えられていようと、相変わらず40エレのリンネル=2着の上衣である。それらの価値変動は、それらと、その価値が不変のままだった第三の一商品と比較してみれば、すぐに発見される。もしすべての商品の価値が同時に同じ割合で上昇または低下するならば、すべての商品の相対的な諸価値は不変のままである。それらの商品の現実の価値変動は、同し労働時間で今や一般的に以前よりもより大きいかまたはより小さい商品量が供給されるであろう、ということから推知されるであろ
う。

42. Ⅳ リンネルと上着とのそれぞれの生産に必要な労働時間、したがってまたそれらの物の価値は、同時に同じ方向においてではあるが違った程度において、あるいはまた反対の方向、等等において、変動することがありうるであろう。あらゆる可能なその種の組み合わせが一商品の相対的な価値に及ぼす影響は、IとⅡとⅢとの場合の適用によって簡単に明らかになるのである。


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