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『資本論』の構図と岡崎次郎訳『資本論』の誤訳翻訳問題 |
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■目次 |
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A 商品の使用価値と使用価値用語の革命 (2) |
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『資本論』の構図 tk002_01
A商品の使用価値と使用価値用語の革命(2)
「資本の経済学」(1)
◆労働力商品の歴史的-論理的形成の条件◆
資本論ワールド 序文
資本の経済学(1)
『資本論』で語られる商品生産の歴史過程について、
第1部では、重商主義段階を「歴史的に」検証し、
第2部は、重点を「論理的に」絞り、商人資本にかんする歴史的考察を取り上げ、
そして
第3部で、重商主義から資本主義へ「歴史的に、論理的に」、「商品と価値」を基軸とした発展と労働力商品の形成過程をたどってゆきます。
「資本の経済学」(2)
第4部 労働力の商品化.1
第4章 商品の使用価値と使用価値用語の革命(2)
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第4部 労働力の商品化.1
第4章 商品の使用価値と使用価値用語の革命(2)
ー資本の経済学(2)ー
序文
1. 価値創造
「その商品の使用価値自身が、価値の源泉であるという独特の属性をもっており、したがって、その実際の消費が、それ自身労働の対象化であって、かくて、価値創造であるというのでなければならぬ。そして貨幣所有者は、市場でこのような特殊な商品を発見する―労働能力または労働力がこれである。」『資本論』第1巻第4章第3節(岩波文庫p.291)
「 資本は、生産手段および生活手段の所有者が、自由なる労働者を、彼の労働力の売り手として市場に見出すところにおいてのみ成立する。そして、この一つの歴史的条件は、世界史を包括する。したがって、資本は、初めから、社会的生産過程のある時代を告知するのである。 」 (岩波文庫p.296)
2. 使用価値の解消としての貨幣存在
W-G-Wなる循環は、一つの商品の極から発出して、他の商品の極をもってとじられる。この商品は、流通から出て消費に帰着する。したがって、消費、すなわち欲望の充足、一言でいえば、使用価値が、その最終目的である。これに反して、G-W-Gなる循環は、貨幣の極から発出して、結局同じ極に帰着する。したがって、その推進的動機と規定的の目的は、交換価値そのものである。(岩波文庫p.260)
単純なる商品流通においては、両極は同一の経済形態をもっている。それらはともに商品である。それらは、また同一価値量の商品でもある。しかし、それらは、質的にちがった使用価値であって、たとえば穀物と衣服である。生産物交換、すなわち社会的労働の表わされているちがった素材の交替が、ここでは運動の内容をなしている。G-W-Gなる流通においては、それとちがっている。この流通は、一見しては無内容に見えるというのは、同じものの繰返しであるからである。両極は同一経済形態をもっている。それは双方ともに貨幣である。したがって、何ら質的にちがった使用価値ではない。なぜかというに、貨幣はまさに商品の転化した態容Gestaltであって、この中では、商品の特別なる使用価値は解消している。 (岩波文庫p.261)
(中略)
3. 剰余価値 Mehrwert(surplus value: 英語,越えてsur 加えたplus)
したがって、G―W―Gなる過程は、その内容を、両極の質的な相違から受取るのでなく、ただその量的な相違から受取るのである。なぜかというに、その両極はともに貨幣であるからである。結局流通からは、はじめ投入されたより多くの貨幣が取去られる。100ポンドで買われた綿花は、たとえば再び100プラス10ポンド、すなわち110ポンドで売られる。この過程の完全なる形態は、したがって、G―W―G´であって、このばあい G´=G+ΔG´ すなわち、最初に前貸しされた貨幣額プラス増加分である。
この増加分、すなわち最初の価値〔rsprünglichenもともとの Wert価値〕をこえる剰余〔Überschuß 過剰:必要な程度や数量を越えて多いこと〕を、私は――剰余価値(surplus value)と名づける。
..............................................................................
〔「剰余」価値の誤訳翻訳問題:Dieses Inkrement 増加,増量 oder den Überschuß過剰 über den ursprünglichen Wert nenne ich - Mehrwert (surplus value).
戦前から「剰余」なる用語が使用されたため、本来の〔Überschuß 過剰:必要な程度や数量を越えて多いこと〕が失われてしまった。〕
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したがって、最初に前貸しされた価値は、流通において自己保存をするだけでなく、ここでその価値の大いさを変化させ、剰余価値を付加する。すなわち、価値増殖をなすのである。そしてこの運動が、この価値を資本に転化する。〔この価値を資本にverwandeln:変貌させるのである。〕(岩波文庫p.262)
4.
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.A 商品の使用価値と使用価値用語の革命
ー『経済学批判』向坂逸郎訳ー
第1章
ー『経済学批判』第1章前半 *HM翻訳問題A01
1. 古典派時代と共通の「商品分析」対象とそれに伴う当面の帰結
重商主義の時代とウィリヤム・ペティの「商品と価値」について
→ペティと政治算術 (marx2016.com)
2. 使用価値と交換価値との関係ー『経済学批判』の分析
交換価値は使用価値が相互に交換される量的な比率、この比率において使用価値は同じ交換の大いさー正しい割合で同じ値となる。商品は一定の分量で等置され、交換されてお互いを置き換え、等価物Äquivalenteとして通用し、同一の等一物Einheit である。
3. 諸使用価値の労働時間はその使用価値を交換価値にする
*1オンスの金、1トンの鉄、1クォーターの小麦及び20エルレの絹が、大いさを等しくする*交換価値であるとしよう。
これらの使用価値は、その質的相違が消えているこのような等価物としては、同一労働の等しい量を表わしている。
同時にその商品の使用価値に対象化されている労働時間は、これらの使用価値を交換価値とし、したがって商品とする実体であると同時に、またそれらのものの定められた価値の大いさを測るものでもある。
4. 等価 Äquivalent:等価物
同一労働時間が対象化されているちがった使用価値の相関的な量が等価〔 Äquivalent :等価物〕である。あるいはすべての使用価値は、同一の労働時間がついやされ、対象化されている割合に応じて等価〔 Äquivalent:等価物
〕である。
5. *交換価値としては、すべての商品は、膠結した労働時間 festgeronnener Arbeitszeit の一定の量であるにすぎない。
6. *1ポンドの鉄と1ポンドの金とが、物理学的に化学的にちがった性質であるにもかかわらず、同一量の重さを表わすように、同一労働時間を含む商品の二つの使用価値は、同一の交換価値を表わしている。かくて、交換価値は、使用価値の社会的な性質規定性 gesellschaftliche Naturbestimmtheit として、すなわち、これらの物としての使用価値に与えられる規定性として表われる。
そしてこの性質規定のために、これらの使用価値は交換過程で、ちょうど単純な化学的元素 chemische Stoffe が一定の量的比率で化合し、化学的等価〔当量〕chemische Äquivalent
をなしているように、一定の量的比率で置き換えられ、等価をなしている。(『経済学批判』p.63)
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〔 以下は、『資本論』第1版に注記された
「第2節商品に表わされた労働の二重性 」に該当する当該「節」〕
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ー古典派経済学の”総括”とペティの当該文ー
7. 〔ー使用価値を生む労働と交換価値を生む労働ー〕
ウィリアム・ペティが「労働は富の父であり、土地はその母である」といい、またはバークリ僧正が、「四大(地水火風)とその中における人間の労働が富の真の源泉であるのではないか」と問い、・・・ これらのすべての考え方は、交換価値の源泉である抽象的労働
abstrakten Arbeit については少しも論じなくて、素材的富の源泉としての具体的な労働について、簡単に言えば、使用価値を生むかぎりにおいての労働について論じている。(中略)
一方交換価値を生む労働が、一般的等価として諸商品が等しい〔Gleichheit der Waren:諸商品の同等性〕 ということに実現されているとすれば、合目的的な生産的活動としての労働は、その使用価値の無限の多様性 unendlichen Mannigfaltigkeit ihrer Gebrauchswerte のうちに実現されている。
交換価値を生む労働が、抽象的で一般的なそして等一の労働abstrakt allgemeine und gleiche Arbeit であるとすれば、使用価値を生む労働は、具体的で, 特殊な労働 konkrete und besondere Arbeit、であって、この労働は形態Form と素材 Stoff にしたがって無限に違った労働様式Arbeitsweisen に分れる。〔使用価値は社会的分業として現れていることと同義である〕(『経済学批判』p.65)
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注:下記参照引用は『資本論』第1版岡崎次郎訳
(第2版第2節「商品に表わされる労働の二重性」に相当する箇所)
『資本論』第1版第1章商品と貨幣 (p.29)
(1)商品
「はじめから商品はわれわれにたいして二面的なものとして、使用価値および交換価値として、現われた。さらに詳しく考察すれば、商品のなかに含まれている労働もまた二面的である、ということが明らかになるであろう。この点は、私によってはじめて批判的に説明されたのであって(現注3)、経済学の理解がそれをめぐっている跳躍点である。
(現注3)カール・マルクス『経済学批判』〔国民文庫版大月書店p.34-35〕
『資本論』第2版岡崎次郎訳 第1章第2節商品に表わされる労働の二重性p.82
「最初から商品はわれわれにたいして二面的なものとして、使用価値および交換価値として、現われた。次には、労働も、それが価値に表わされているかぎりでは、もはや、使用価値の生みの母としてのそれに属するような特徴をもってはいないということが示された。このような、商品に含まれている労働の二面的な性質は、私がはじめて批判的に指摘したものである(原注3)。この点は、経済学の理解にとって決定的な跳躍点であるから、ここでもっと詳しく説明しておかなければならない。
(原注3)カール・マルクス『経済学批判』〔国民文庫版大月書店p.34-35〕
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〔(原注3)の『経済学批判』(向坂訳の当該節p.64-65)〕
〔『資本論』第2版向坂逸郎訳第1章第2節(岩波文庫p.78)に該当〕
〔 第2節商品に表わされた労働の二重性 〕
ー古典派経済学の”総括”とペティの当該文ー
7. 〔ー使用価値を生む労働と交換価値を生む労働ー〕
商品の交換価値が事実上、個々の人々のおたがいの間の等一〔同等〕にして一般的なものとしての労働の関係に外ならず、労働の特殊的に社会的な形態の対象的な表現に外ならないのを見れば、労働が交換価値の唯一の源泉であり、したがって、交換価値からなる限り、富の唯一の源泉である、というようなことをいうのは、無意味である。同じように、自然素材は、少しの労働も含んでいないから、そのものとしては何らの交換価値をもたない、また交換価値は、そのものとしては何等の自然素材を含んでいない、というようなことを教えるのも、無意味なのである。しかし、ウィリアム・ペティが「労働は富の父であり、土地はその母である」といい、またはバークリ僧正が、「四大(地水火風)とその中における人間の労働が富の真の源泉であるのではないか」と問い、(中略)、これらのすべての考え方は、交換価値の源泉である抽象的労働
abstrakten Arbeit については少しも論じなくて、素材的富の源泉としての具体的な労働について、簡単に言えば、使用価値を生むかぎりにおいての労働について論じているのである。(中略)
一方交換価値を生む労働が、一般的等価として諸商品が等しい〔Gleichheit der Waren:諸商品の同等性〕 ということに実現されているとすれば、合目的的な生産的活動としての労働は、その使用価値の無限の多様性
unendlichen Mannigfaltigkeit ihrer Gebrauchswerte のうちに実現されている。交換価値を生む労働が、抽象的で一般的なそして等一の労働abstrakt
allgemeine und gleiche Arbeit であるとすれば、使用価値を生む労働は、具体的で, 特殊な労働 konkrete und besondere Arbeit、であって、この労働は形態/形式 Form と素材 Stoff
にしたがって無限に違った労働様式Arbeitsweisen に分れる。
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A 商品の使用価値と使用価値用語の革命
ー『経済学批判』向坂逸郎訳ー
第2章 ー『経済学批判』と『資本論』の使用価値論(変容)のはじまり
1. 〔社会的生産諸力の前進的な展開〕
さまざまな使用価値は、その不等な分量の中に、同一の労働時間または同一の交換価値を含んでいる。一定量の労働時間を含んでいるある商品の使用価値の分量が、他の使用価値と比較して小さければ小さいほど、この商品の特殊な交換価値は大きい。いろいろの使用価値がおたがいの間に特別の交換価値の系列をつくっており、それらの交換価値が、正確に同じ数の比例Zahlenverhältnis
をなしてはいなくとも、例えば、金、銀、銅、鉄、または小麦、裸麦、大麦、燕麦というように、相互に上位下位の一般関係をたもっているとするならば、すなわち、社会的生産諸力の前進的な展開は、かの各種の商品の生産のために必要な労働時間に作用して、これを均等に、あるいは近似的に均等にしてゆくということである。
2.
商品の交換価値は、それ自身の使用価値のうちに表われるものではない。だか、一商品の使用価値は、一般的な社会的労働時間の対象化として、他の商品の使用価値と比例関係Verhältnisseにおかれる。この一商品の交換価値は、このように、他の商品の使用価値で表明されているmanifestiert。
実際上、他の一商品の使用価値に表現された一商品の交換価値が等価(物) Äquivalent である。例えば、1エルレの亜麻布は2ポンドのコーヒーに値するとすると、亜麻布の交換価値は、コーヒーという使用価値で、しかもこの使用価値の特定の量で表現されている。この割合
Proportion が与えられているとすれば、亜麻布のいかなる分量でもその価値をコーヒーでいい表わすことができる。
3. 〔 多数の方程式の形成と連立方程式 〕
したがって、この個々の商品の交換価値を十分に〔余すところなく〕表現するには、他のすべての商品の使用価値がその〔個々の商品の〕等価Äquivalentをなしている無限に多数の方程式をもってくる外ない。これらの方程式の総計(合計)Summe dieser Gleichungen、または一商品〔1エルレ 亜麻布〕が他のあらゆる商品と交換される種々の比例関係 Proportionen の総体(全部・全体) Gesamtheit においてのみ、この商品は一般的/普遍的等価(物) allgemeines Äquivalent として、あますところなく表現される。
例えば方程式の系列Reihe 〔連立方程式〕 〔編集部注〕
1エルレ 亜麻布 = 1/2 ポンド 茶 〔①〕
1エルレ 亜麻布 = 2 ポンド コーヒー 〔②〕
1エルレ 亜麻布 = 8 ポンド パン 〔③〕
1エルレ 亜麻布 = 6 エルレ キャラコ 〔④〕
は、次のように表わされうる、
1エルレ 亜麻布 = 1/8 ポンド 茶 + 1/2 ポンド コーヒー +
2 ポンド パン + (1+1/2) エルレ キャラコ 〔⑤〕
4. 〔方程式の系列ー価値方程式は、拡大される「連立方程式」で表示される〕
一商品の価値の大いさは、その商品の外に他の種類の商品が、沢山あるか少ないか、ということによるのではない。しかしながら、その交換価値が実現される方程式の系列が、大きいか小さいかは、他の商品の多様性が大きいか小さいかにかかっている。*例えば、コーヒーの価値が表わされる方程式の系列Reihe は、その交換可能性の範囲を、すなわち、コーヒーが交換価値として機能する限界を言い表わしている。一般的社会的労働時間の対象化としての一商品の交換価値に対して、*無限に多様な使用価値におけるその商品の等価性の表現 Ausdruck ihrer Äquivalenz が相応じている。
*編集部注:系列と序列の差異について・キーワード解説
5.〔 商品の交換価値は使用価値で表現 〕
すべての商品の交換価値は、この使用価値の整数量で示す〔例えば、2倍、3倍など〕にしても、その分数量で示す〔1/2、あるいは1/3など〕にしても、すべて他の商品の使用価値で表現される。交換価値としては、すべての商品は、それに対象化されている労働時間そのものと同じように分割することのできるものである。諸商品の交換価値を合計することは、これらの商品の使用価値がつくり変えられて一つの新しい商品になるさいに、現実にどんな形態転化Formwechsel がおこるかということに対してどうでもいいのと同じように、諸商品の等価性 Die Äquivalenz der Waren ist は、使用価値としてのこれら諸商品の物的可分性とは無関係である。
〔編集部注:第3部ー後出の「使用価値の「抽象化(捨象)」と資本物神性の成立」へ〕
6. 〔 商品相互の関係ー交換過程 〕
これまで、商品は、使用価値としてまた交換価値として、二重の観点で、いずれも一方的に、考察された。だが商品は、商品としては、直接に使用価値と交換価値の統一Einheit
である。同時に商品は、他の諸商品との関係におかれてはじめて商品である。商品相互の現実の関係は、その交換過程である。おたがいに独立している個人が結び合うのは、まさにこの社会的な過程である。
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7.
個々の商品は、使用価値の観点では本来独立の物として現われたのであったが、これと反対に、交換価値としては初めからすべての他の商品に対する関係において考察された。だが、この関係は、ただ理論的な、考えられた関係にすぎなかった。この関係は、交換過程においてはじめて実証される。
他方において、商品は、一定量の労働時間がその中に投入されており、したがって商品が対象化された労働時間であるかぎりにおいて、交換価値であるが、しかし、商品を直接的に見るかぎりでは、それは、特別の内容をもって対象化された個人的な労働時間であって、一般的労働時間ではない。
したがって、商品は直接的に交換価値ではなくて、まず交換価値とならなければならぬのである。まず第一に、商品は、一定の役に立つかぎりで、したがって労働時間をある使用価値に表わしているかぎりで、はじめて一般的労働時間の対象化となることができる。このような素材的な条件があって、この条件のもとではじめて、商品に含まれている労働時間が、一般的な社会的な労働時間として前提されたのであった。
8.
したがって、商品が、交換価値として実現されてはじめて使用価値となりうるとすれば、商品は、他方では、その譲り渡しで使用価値であることを実証されて初めて交換価値として実現されることが出来るのである。商品は、使用価値となることができるには、それが使用価値となるような、つまり特別の欲望の対象となるような一定の人に引きわたされる外はない。他方では、商品は他の商品と引きかえにのみ引渡される。あるいは、もしわれわれが他の商品の所有者の側に立つとすれば、この所有者、同じように自分の商品が対象となる特別の欲望と、その商品を接触させて譲り渡し、または実現することができるだけである。
したがって、諸商品は使用価値として全面的に譲り渡されて、その特殊な性質にもとづいて特別の欲望を充足させる特別の物として、素材的な相違にしたがって、おたがいにあい関係させられる。しかし、このような単なる使用価値としては、諸商品はおたがいにどうでもよい存在である、むしろまったく無関係である。
使用価値としては、それらは、ただ特別の欲望に関係して交換されうるものであるにすぎない。しかし、それらの商品が交換されることができるのは、ひとえに等価であるからである。そして、それらが等価であるのは、対象化された労働時間の等量であるからである。こうなると、使用価値としての諸商品の自然的属性、したがってまた特殊な欲望に対する諸商品の関係、に対する顧慮はなくなっている。商品は、むしろ等価として、任意に定められた他のあらゆる商品の量に代り、他の商品の所有者にとってそれが使用価値であるかどうかにまったくかかわりなくなってはじめて、交換価値であることを証明するのである。
9.29. 〔商品の”価値表現”としてー”価値方程式”は連立方程式となる〕
〔 方程式の表示内容 ー 生成してゆくこと〕
一商品の交換価値がその*現実の表現をおこなっている
*方程式の総計〔連立方程式のこと〕を考察すると、例えばこうである。
1エルレ 亜麻布 = 2ポンド コーヒー
1エルレ 亜麻布 = 1/2ポンド 茶
1エルレ 亜麻布 = 8ポンド パン 等々
これらの方程式は、なるほど等しい大いさ gleicher Grӧße の一般的、社会的労働時間が、1エルレの亜麻布、2ポンド コーヒー、 ポンド 茶等々に対象化されているということを示してはいるが、しかし、実際上、これらの特殊な使用価値に表われている個人的な労働は、それらの使用価値が現実にその中に含まれている労働の継続時間の割合でおたがいに交換されてはじめて、一般的な、そしてこの一般的という形で社会的な労働になるのである。
社会的な労働時間は、いわば潜在的にこれらの商品の中にあるだけであって、その交換過程ではじめて発現するのである。
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A 商品の使用価値と使用価値用語の革命
ー『経済学批判』向坂逸郎訳ー
第3章 ー交換過程
『経済学批判』の「流通過程」
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1. 〔商品所有者たちがおたがいにその一般的社会的労働
allgemeine gesellschaftliche Arbeit としての労働に関係する〕
交換過程では、すべての商品が、商品一般としての排他的商品に、すなわち、ある特別のbesondern 使用価値Gebrauchswert に一般的労働時間allgemeinen
Arbeitszeit を体現(Dasein)している商品に、関係するのである。
したがって、すべての商品は、それぞれ特別のbesondere商品Warenとして、一般的allgemeinen 商品Ware としてのある特別の商品に相対立する。このようにして商品所有者たちがおたがいにその一般的社会的労働
allgemeine gesellschaftliche Arbeit としての労働に関係するということは、次のような形で示されている、すなわち、彼等がその交換価値としての商品に対してあい関係しあっているということ、また交換過程における交換価値としての諸商品の相互関係が、それらの商品の交換価値の適合した表現としてのある特別な商品に対するその全面的な関係として現われているということ、このことは、逆にまた、この特別の商品の他のすべての商品に対する特殊な関係として、したがってまた、一定のいわばある物の自然発生的に社会的な性格として現われる、ということである。
このようにすべての商品の交換価値の適合した体現であることを示している特別のbesondere 商品Ware、あるいは、諸商品の、ある特別なbesondere,排他的な〔独占的な:ausschließliche 〕商品としての交換価値、これが貨幣Geld である。
2.〔*相互に交換価値として現われるためには、新しい形態規定性〔neue Formbestimmtheit ――新しい形式の規定
それは、諸商品が交換過程そのものの中で形成するおたがいの交換価値の結晶である。したがって、一方で諸商品は、交換過程の内部ですべての形態規定性をはぎとり、その直接的な素材態容であい関係し合うことによって、おたがいのための使用価値となるとすれば、*相互に交換価値として現われるためには、新しい形態規定性〔neue Formbestimmtheit〕をとり、貨幣形成〔価格形態の成立〕にすすまなければならない。貨幣は象徴ではない。それは使用価値が商品として存在しても、象徴でないのと同じである。個人たちの外に存する対象として社会的生産関係が、すなわち個人たちの社会的生活の生産過程で結ばれる一定の諸関係が、一の物の特殊な属性として表わされるということ、この錯倒と想像的でない、散文的に現実的な神秘化とが、交換価値を生む労働のすべての社会形態を特徴づけている。貨幣においては、この神秘化は、商品におけるよりはるかに驚嘆に値するものとなっているだけのことである。
〔編集部注:商品の貨幣形態においてと同様に、商品生産物の形式にも、新しい形態規定性〔neue Formbestimmtheit が生まれる〕
3. 社会的労働の総体ー商品と分業-使用価値の多様性
〔『経済学批判』36. https://www.marx2019.com/bs001_02.html〕
商品世界では分業の発達が前提となっている。あるいは分業の発達は、むしろ直接に使用価値の多様性に表われているといってよい。それらの使用価値は、特殊の商品として相対し、その中に、同じように多様な労働様式がかくされている。
特別な生産的活動様式の全体としての分業は、素材的側面から見た社会的労働の総体が、使用価値を生産する労働として考察されたものである。しかしながら、このような労働として、商品の立場から交換過程の内部で見るならば、分業は、ただこの労働の結果に、すなわち商品そのものが特殊のものに分れるということに存するものである。
4. 交換過程の全体が、流通過程
商品の交換は、社会的物質代謝、すなわち、私的個人の特殊の生産物の交換が、同時に一定の社会的生産諸関係の生産となる過程であって、諸個人はこの物質代謝においてこの生産諸関係を結んでいるのである。
諸商品がおたがいに働きかけ合う関係は、一般的等価関係のさまざまな規定になって結晶し、したがって、交換過程は同時に貨幣の形成過程である。別々の過程の経過となって表われる交換過程の全体が、流通過程である。
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2023.09.01
A 商品の使用価値と使用価値用語の革命
ー『資本論』第2版 向坂逸郎訳ー
第4章 ー商品の使用価値と ”使用価値” 用語の革命
ー資本の経済学ー
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■資本論ワールド 編集部
ー資本の経済学2ーについて
この一つの歴史的条件は、世界史を包括する。
したがって、資本は、初めから、社会的生産過程のある時代を告知するのである。
ー『資本論』第4章第3節労働力の買いと売り(岩波文庫p296)
資本の経済学1
第1部では
「諸使用価値の労働時間はその使用価値を交換価値にする」
第2部では
「多数の方程式の形成と連立方程式 ー使用価値論(変容)のはじまり
第3部では
「商品の交換は、社会的物質代謝
ー交換過程は同時に貨幣の形成過程である」
「新しい形式の規定ー相互に交換価値として現われるためには、
新しい形態/形式 規定性 neue Formbestimmtheit」
資本の経済学2
第4部では
絶対的剰余価値と相対的剰余価値の生産
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文献資料
1.分業とマニュファクチャ ・使用価値の分解と抽象化・・・
http://www.marx2016.com/010bungyoutomanyufakutyua04.html
2.使用価値の「抽象化(捨象)」と資本物神性の成立
http://www.marx2016.com/010sihonbusinnoseiritukatei001.html
3.「歴史的に、論理的に」 商品と価値の発展過程の研究
http://www.marx2016.com/099jyuusyousyugi00sihonsyugi01.html
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