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『資本論』と『小論理学』 (sn007)


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  マルクス 『資本論』序文 より

 私が用いた分析の方法は、まだ経済上の問題に適用されたことのなかったものであって、初めての諸章を読むのはかなりむずかしいのです。

 経済的諸形態の分析では、顕微鏡も化学的試薬も用いるわけにはいかぬ。抽象力なるものがこの両者に代わらなければならぬ。しかしながら、ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態は、経済の細胞形態である。

 私は、公然と、かの偉大な思想家の弟子であることを告白した。そして価値理論にかんする章の諸所で、ヘーゲルに特有の表現法を取ってみたりした。弁証法は、ヘーゲルの手で神秘化されはしたが、しかし、そのことは、決して、彼がその一般的な運動諸形態を、まず包括的に意識的な仕方で証明したのだということを妨げるものではない。弁証法は彼において頭で立っている。神秘的な殻につつまれている合理的な中核を見出すためには、これをひっくり返さなければならない。

 そしてただ、学問の急峻な山路をよじ登るのに疲労こんぱいをいとわない者だけが、輝かしい絶頂をきわめる希望をもつのです。

   ***  ***


 『資本論』と『小論理学』抄録 ページ構成 (2020.01.20 作業中)

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    『資本論』
-物神性・「対象的外観」の研究
 6. 
 
 ・・・最下段に『資本論』、『小論理学』当該ドイツ語原本 ―検索に利用―

  『資本論』目次  資本論ワールド編集部による探究と検索
(段落) 第1篇 商品と貨幣
第1章 商 品 第2章 交換過程
1-1~
1-18
 第1節 商品の2要素 使用価値と価値
     (価値実体、価値の大いさ)
第3章 貨幣または商品流通
2-1~
2-16
 第2節 商品に表わされた労働の二重性  第1節 価値の尺度 
3-1~
3-
 第3節 価値形態または交換価値  第2節 流通手段
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態   a 商品の変態
 1 価値表現の両極、
      すなわち相対的価値形態と等価形態 
  b 貨幣の流通 ウムラウフ
 2 相対的価値形態   c 鋳貨 価値標章
  a 相対的価値形態の内実  第3節 貨幣
  b 相対的価値形態の量的規定性   a 貨幣退蔵
 3 等価形態   b 支払手段
 4 単純な価値形態の総体   c 世界貨幣
B 総体的または拡大された価値形態
 1 拡大された相対的価値形態 第2篇 貨幣の資本への転化 
 2 特別な等価形態  第4章 貨幣の資本への転化
 3 総体的または拡大された価値形態の欠陥
C 一般的価値形態
 1 価値形態の変化した性格
 2 相対的価値形態と等価形態の発展関係
 3 一般的価値形態から貨幣形態への移行
D 貨幣形態
第4節 商品の物神的性格とその秘密
    ヘーゲル小論理学_本質論
 『小論理学』第2部 本質論 目次
 §112 ― §156
 第2部 本質 Wesen 論
 (112-159)Die Lehre vom Wesen
A 現存在の根拠とっしての本質 (115-130)
a 純粋な反省規定 (115-122)
  a. Die reinen Reflexionsbestimmungen
 イ 同一性 (115) α. Identität
 ロ 区別 (116-120) β. Der Unterschied
 ハ 根拠 (121-122) γ. Der Grund
b 現存在 (123-124) b. Die Existenz
c 物 (125-130) c. Das Ding
B 現象 (131-141) B. Die Erscheinung
a 現象の世界 (131)
    a. Die Welt der Erscheinung
b 内容と形式 (133-134)
    b. Inhalt und Form
c 相関 (135-141) c. Das Verhältnis
C 現実性 (142-149) C. Die Wirklichkeit
a 実体性の相関 (150-152)
    a Substantialitätsverhältnis
b 因果性の相関 (153-154)
    b Kausalitätsverhältnis
c 交互作用 (155-159)
    c Die Wechselwirkung

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成素形態 経済学批判 アリストテレス バーボン 価値方程式 方程式
商品種 膠状物 凝結物
対象的外観
商品 物神的性格 変態 資本物神
同一性 区別 根拠 現存在
ヘーゲル『小論理学』 マルクス『経済学批判』
ヘーゲル仮象と対象的外観

 


『資本論』 向坂逸郎訳 岩波書店
 (1969年1月16日 岩波文庫版発行)

  
 ■資本論ワールドによる編集注意事項
 マルクスによる本文「注」は「原注」と表記。編集部による「注」は「*1」のように「*」の後に数字を記入し、リンクを貼った。また、本文中のドイツ語等外国語の挿入は、向坂訳ではドイツ語の同じ単語であっても必要に応じて意訳があり、元のドイツ語を表示した。

第1篇 商品と貨幣 第1章 商品

第1章 第1節

 
      第1節 商品の2要素 使用価値と価値 (価値実体、価値の大いさ)

1-1 資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積*1(原注1)」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態*2 として現われる。したがって、われわれの研究は商品 の分析をもって始まる。

 (注1) カール・マルクス『経済学批判』1859年、新潮社版第7巻p.57
「市民社会の富は、一見して、巨大な商品集積であり、個々の商品はこの富の成素的存在で あることを示している。しかして、商品は、おのおの、使用価値と交換価値(1)という二重の観点で現われる。」
   〔*『経済学批判』アリストテレスの注(1):「何故かというに、各財貨の使用は二重になされるからである。・・・・その一つは物そのものに固有であり、他の一つはそうではない。例えていえば、サンダ ルの使用は、はきものとして用いられると共に交換されるところにある。両者共にサンダル の使用価値である。何故かというにサンダルを自分のもっていないもの、例えば食物と交換 する人も、サンダルを利用しているからである。しかし、これはサンダルの自然的な使用法 ではない。何故かいうに、サンダルは交換されるためにあるのではないからである。他の諸 財貨についても、事情はこれと同じである。」(新潮社版p.57)

資本論ワールド編集部の注(*1:巨大なる商品集積)、(*2:成素形態)

1-2 商品はまず第一に外的対象である。すなわち、その属性によって人間のなんらかの種類の欲望を充足させる一つの物である。こ れらの欲望の性質は、それが例えば胃の腑から出てこようと想像によるものであろうと、こ との本質を少しも変化させない(注2)。ここではまた、事物が、直接に生活手段として、すなわち、享受の対象としてであれ、あるいは迂路をへて生活手段としてであれ、いかに人 間の欲望を充足させるかも、問題となるのではない。
   
(原注2)「願望をもつということは欲望を含んでいる。それは精神の食欲である。そして身体にたいする飢餓と同じように自然的なものである。・・・大多数(の物)が価値を有するのは、それが精神の欲望を充足させる3 からである」(ニコラス・バーボン『新貨幣をより軽く改鋳することにかんする論策、ロック氏の「考察」に答えて』 ロンドン、1696年、2-3ページ)。

1-3 鉄・紙等々のような一切の有用なる物は、質と量にしたがって二重の観点から考察され るべきものである。このようなすべての物は、多くの属性の全体をなすのであって、したが って、いろいろな方面に役に立つことができる。物のこのようないろいろの側面と、したがってその多様な使用方法を発見することは、歴史的行動(原注3)である。有用なる物の量をはかる社会的尺度を見出すこともまたそうである 。商品尺度の相違は、あるばあいには測定さるべき対象の性質の相違から、あるばあいには 伝習から生ずる。

 (注3)「物は内的な特性(vertue ― これはバーボンにおいては使用価値の特別な名称である)をもっている。物の特性はどこに行っても同一である。例えば、磁石は、どこにいっても鉄を引きつける」(同上、6ページ)。磁石(関連コラム)の鉄を引きつける属性は、人がその性質を利用して磁極性を発見する4にいたって初めて有用となった。

3:精神の欲望を充足させる)、(4:磁極性を発見する)

1-4 一つの物の有用性は、この物を使用価値にする(原注4)。しかしながら、この有用性は 空中に浮かんでいるものではない。それは、商品体の属性によって限定されていて、商品体なくしては存在するものではない。だから、商品体自身が、鉄・小麦・ダイヤモンド等々というように、一つの使用価値または財貨である。このような商品体の性格は、その有効属性を取得することが、人間にとって多くの労働を要するものか、少ない労働を要するものか、ということによってきまるものではない。使用価値を考察するに際しては、つねに、1ダースの時計、1エレの亜麻布、1トンの鉄等々というよ うに、それらの確定した量が前提とされる。商品の使用価値は特別の学科である商品学(原注5)の材料となる。使用価値は使用または消費されることによってのみ実現される。使用価値は、富の社会的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容をなしている。われわれがこれ から考察しようとしている社会形態においては、使用価値は同時に-交換価値の素材的な担 い手をなしている。

1-5 交換価値は、まず第一に量的な関係として、すなわち、ある種類の使用価値が他の種類 の使用価値と交換される比率として、すなわち、時とところとにしたがって、絶えず変化する関係として、現われる(原注6)。したがって、交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に 相対的なるものであって、商品に内在的な、固有の交換価値(valeur intrinseque)という ようなものは、一つの背理(原注7)*(contradictio in adjecto)のように思われる。われわ れはこのことをもっと詳細に考察しよう。

1-6 一定の商品、1クォーターの小麦は、例えば、x量靴墨、またはy量絹、またはz量金等々 と、簡単にいえば他の商品と、きわめて雑多な割合で交換される。このようにして、小麦は 、唯一の交換価値のかわりに多様な交換価値をもっている。しかしながら、x量靴墨、同じく y量絹、z量金等々は、1クォーター小麦の交換価値であるのであるから、x量靴墨、y量絹、z 量金等々は、相互に置き換えることのできる交換価値、あるいは相互に等しい大いさの交換 価値であるに相違ない。したがって、第一に、同一商品の妥当なる交換価値は、一つの同一 物を言い表している。だが、第二に、交換価値はそもそもただそれと区別さるべき内在物の 表現方式、すなわち、その「現象形態」でありうるにすぎない。

1-7 さらにわれわれは二つの商品、例えば小麦と鉄をとろう*。その交換価値がどうであれ、 この関係はつねに一つの方程式に表わすことができる。そこでは与えられた小麦量は、なん らかの量の鉄に等置される。例えば、1クォーター小麦=aツェントネル鉄というふうに。こ の方程式は何を物語るか?
二つのことなった物に、すなわち、1クォーター小麦にも、同様にaツェントネル鉄にも、同一大いさのある共通なものがあるということである。したがって、両つのものは一つの第三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身 としては、前の二つのもののいずれでもない。両者のおのおのは、交換価値である限り、こ うして、この第三のものに整約しうるのでなければならない。

1-8 一つの簡単な幾何学上の例がこのことを明らかにする。一切の直線形の面積を決定し、それを比較するためには、人はこれらを三角形に解いていく 。三角形自身は、その目に見える形と全くちがった表現-その底辺と高さとの積の2分の1― に整約される。これと同様に、商品の交換価値も、共通なあるものに整約されなければなら ない。それによって、含まれるこの共通なあるものの大小が示される。

1-9 この共通なものは、商品の幾何学的・物理的・化学的またはその他の自然的属性である ことはできない。商品の形体的属性は、ほんらいそれ自身を有用にするかぎりにおいて、し たがって使用価値にするかぎりにおいてのみ、問題になるのである。しかし、他方において 、商品の交換価値をはっきりと特徴づけているものは、まさに商品の使用価値からの抽象で ある。この交換価値の内部においては、一つの使用価値は、他の使用価値と、それが適当の 割合にありさえすれば、ちょうど同じだけのものとなる。あるいはかの老バーボンが言って いるように、「一つの商品種は、その交換価値が同一の大いさであるならば、他の商品と同 じだけのものである。このばあい同一の大いさの交換価値を有する物の間には、少しの相違 または差別がない(原注8)。」

1-10 使用価値としては、商品は、なによりもまずことなれる質のものである。交換価値と しては、商品はただ量をことにするだけのものであって、したがって、一原子の使用価値を も含んでいない。

1-11 いまもし商品体の使用価値を無視するとすれば、商品体に残る属性は、ただ一つ、労働生産物という属性だけである。だが、われわれにとっては、この労働生産物も、すでにわ れわれの手中で変化している。われわれがその使用価値から抽象するならば、われわれは労 働生産物を使用価値たらしめる物体的な組成部分や形態からも抽象することとなる。それは もは指物労働の生産物でも、建築労働や紡績労働やその他なにか一定の生産的労働の生産物 でもない。労働生産物の有用なる性質とともに、その中に表わされている労働の有用なる性 質は消失する。したがって、これらの労働のことなった具体的な形態も消失する。それらは もはや相互に区別されることなく、ことごとく同じ人間労働、抽象的に人間的な労働に整約される。

1-12 われわれはいま労働生産物の残りをしらべて見よう。もはや、妖怪のような同一の対象性いがいに、すなわち、無差別な人間労働に、いいかえればその支出形態を考慮すること のない、人間労働力支出の、単なる膠状物というもの意外に、労働生産物から何物も残って いない。これらの物は、ただ、なおその生産に人間労働力が支出されており、人間労働が累 積されているということを表わしているだけである。これらの物は、おたがいに共通な、こ の社会的実体の結晶として、価値―商品価値である。

1-13 商品の交換関係そのものにおいては、その交換価値は、その使用価値から全く独立しているあるものとして、現われた。もしいま実際に労働生産物の使用価値から抽象するとすれば、いま規定されたばかりの労働生産物の価値が得られる。商品の交換比率または交換価値に表われている共通なものは、かくて、その価値である。研究の進行とともに、われわれは価値の必然的な表現方式または現象形態としての交換価値に、帰ってくるであろう。だが、この価値はまず第一に、この形態から切りはなして考察せらるべきものである。

1-14 このようにして、一つの使用価値または財貨が価値をもっているのは、ひとえに、その中に抽象的に人間的な労働が対象化されているから、または物質化されているからである。そこで、財貨の価値の大いさはどうして測定されるか? その中に含まれている「価値形成実休」である労働の定量によってである。労働の量自身は、その継続時間によって測られる。そして労働時間には、また時・日等のようか一定の時間部分としてその尺度標準がある。

1-15 もしある商品の価値が、その生産の間に支出された労働量によって規定されるならば、ある男が怠惰であり、または不熟練であるほど、その商品は価値が高いということになりそうである。というのは、その商品の製造に、この男はそれだけより多くの時間を必要とするからである。だが、価値の実体をなす労働は、等一の人間労働である。同一人間労働力の支出である。商品世界の価値に表わされている社会の全労働力は、ここにおいては同一の人間労働力となされる。もちろんそれは無数の個人的労働力から成り立っているのであるが。これら個人的労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力の性格をもち、またこのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間をのみ用いるというかぎりにおいて、他のものと同一の人間労働力なのである。社会的に必要な労働時間とは、現に存する社会的に正常な生産諸条件と労働の熟練と強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値仝造り出すために必要とされる労働時間である。例えば、イギリスに蒸気織機が導入されたのちには、一定量の撚糸を織物に変えるために、おそらく以前の半ばほどの労働で足りた。イギリスの手織職人は、この織物に変えるために、実際上は前と同じように、同一の労働時間を要した。だが、彼の個人的労働時間の生産物は、いまではわずかに半分の社会的労働時間を表わしているだけとなった。したがって、その以前の価値の半ばに低落した。

1-16 そんなわけで、ある使用価値の価値の大いさを規定するのは、ひとえに、社会的に必要な労働の定量、またはこの使用価値の製造に社会的に必要な労働時間にほかならないのである(原注9)。個々の商品は、このばあい要するに、その種の平均見本にされてしまう。(原注10)同一の大いさの労働量を含む商品、または同一労働時間に製作されうる商品は、したがって、同一の価値の大いさをもっている。ある商品の価値の他の商品のそれぞれの価値にたいする比は、ちょうどその商品の生産に必要な労働時間の、他の商品の生産に必要な労働時間にたいする比に等しい。
「価値としては、すべての商品は、ただ凝結せる労働時間の一定量であるにすぎない。」(原注11)

 (原注9) 第二版への注。「使用対象の価値は、それらが相互に交換されるときには、その生産に必然的に要せられ、通例として投下される労働の量によって規定される」(『一般金利、とくに公債等における金利にかんする二、三の考察』ロンドン、三六ページ)。この注目すべき前世紀の匿名書には日付がない。だが、それがジョージ2世治下、およそ1739年または1740年に刊行されたものであることは、その内容から明らかである。

 (原注10)「すべて同一種の産物は、本来、その価格が一般的にかつ特別の事情を考慮することなく規定される一つの集塊であるにすぎない」(ル・トゥローヌ『社会的利益について』893ページ)。

 (原注11)カール・マルクス『批判』6ページ〔ディーツ版『全集』第13巻、18ページ。邦訳、岩波文庫版、26ページ。新潮社版『選集』第7巻、60ページ〕。

1-17 したがって、ある商品の価値の大いさは、もしその生産に必要な労働時間が不変であるならば、不変である。しかしながらこの労働時間は、労働の生産力における一切の変化とともに変化する。労働の生産力は、種々の事情によって規定される。なかでも、労働者の熟練の平均度、科学とその工学的応用の発展段階、生産過程の社会的組み合わせ、生産手段の規模と作用力とによって、さらに自然的諸関係によって、規定される。同一量の労働は、例えば豊年には 8ブッシェルの小麦に表わされるが、凶年には僅か4ブッシェルに表わされるにすぎない。同一量の労働は、富坑においては、貧坑におけるより多くの金属を産出する、等々。ダイヤモンドは、地殼中にまれにしか現われない。したがって、その採取には、平均して多くの労働時間が必要とされる。そのために、ダイヤモンドは、小さい体積の中に多くの労働を表わしている。ジェーコブは、金はいまだかつてその価値を完全に支払われたことはあるまい、といっている。このことは、
もっとつよくダイヤモンドにあてはまる。エッシュヴェーゲによれば、1823年、ブラジルのダイヤモンド坑80年間の総産出高は、ブラジルの砂糖栽培とコーヒー栽培の1ヵ年半の平均生産物の価格にも達しなかった。ダイヤモンド総産出高の方が、より多くの労働を、したがってより多くの価値を表わしていたのは勿論のことであったが。より豊かな鉱山では、同一の労働量がより多くのダイヤモンドに表わされ、その価値は低下するであろう。もし少量の労働をもって、石炭がダイヤモンドに転化されうるようになれば、その価値は練瓦以下に低下することになるだろう。一般的にいえば、労働の生産力が大であるほど、一定品目の製造に要する労働時間は小さく、それだけその品目に結晶している労働量は小さく、それだけその価値も小さい。逆に、労働の生産力が小さければ、それだけ一定品目の製造に必要な労働時間は大きく、それだけその価値も大きい。したがって、ある商品の大きさは、その中に実現されている労働の量に正比例し、その生産力に逆比例して変化する。

  *第1版には、次の一文がつづく。「われわれは、いまや価値の実体を知った。それは、労働である。われわれは価値の大いさの尺度を知った。それは労働時間である。価値をまさに交換価値にしてしまうその形態は、これから分析する。だが、その前に、すでにここで見出された規定を、いま少し詳しく述べておかなければならぬ。」―ディーツ版編集者

1-18  物は、価値でなくして使用価値であるばあいがある。その物の効用が、人間にとって労働によって媒介せられないばあいは、それである。例えば、空気・処女地・自然の草地・野生の樹木等々がそうである。物によっては、有用であり、また人間労働の生産物であって、商品でないばあいがある。自分の生産物で自身の欲望を充足させる者は、使用価値はつくるが、商品はつくらない。商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他の人々にたいする使用価値、すなわち、社会的使用価値を生産しなければならぬ。
(そしてただに他の人々にたいして生産するだけではない。中世の農民は封建領主のために年貢の穀物を、僧侶のために10分の1税の穀物を生産した。しかし、この年貢穀物も10分の1税穀物も、それらが他の人々のために生産されたということによって、商品となったわけではない。商品となるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他の人にたいして、交換によって移譲されるのでなければならない。(11a))最後にどんなものでも、使用対象でなくして、価値であることはできない。それが効用のないものであるならば、その中に含まれている労働も効用がなく、労働のうちにはいらず、したがってまた、なんらの価値をも形成しない。(11a)第4版への注。私はこのカッコ内の文句を入れた。というのは、この文旬を除くと、生産者以外の人々によって消費される生産物はすべてマルクスにおいて商品と考えられているという誤解が、きわめてしばしば生じたからである。― F・E(Friedrich Engels フリードリヒ・エンゲルス)

第1章 第2節



  第2節 商品に表わされた労働の二重性

2-1 最初商品はわれわれにとって両面性のものとして、すなわち、使用価値および交換価値として現われた。後には、労働も、価値に表現されるかぎり、もはや使用価値の生産者としての労働に与えられると同一の徴表をもたないということが示された。商品に含まれている労働の二面的な性質は、私がはじめて批判的に証明したのである。この点が跳躍点であって、これをめぐって経済学の理解があるのであるから、この点はここでもっと詳細に吟味しなければならない。

  (12)『批判』12、13ページおよびその他の諸所〔ディーツ版『全集』第13巻、22、23ページ以下。邦訳、岩波文庫版、33・35ページ以下、その他。新潮社版『選集』第7巻、64、65ページ、その他〕。

2-2  二つの商品、例えば1着の上衣と10エレの亜麻布とをとろう。前者は後者の2倍の価値をもっており、したがって、10エレの亜麻布がWとすれば、1着の上衣は2Wであるとしよう。

2-3  上衣は特別の欲望を充足させる一つの使用価値である。これを作るためには、一定の種類の生産的活動を必要とする。生産的活動はその目的、作業法、対象、手段および成果によって規定される。労働の有用性が、かくて、その生産物の使用価値に表わされ、すなわちその生産物が一つの使用価値であるということのうちに表わされているばあい、この労働を簡単に有用労働と名づける。この観点のもとでは、労働はつねにこの利用効果と結びつけて考察される。

2-4  上衣と亜麻布とが質的にちがった使用価値であるように、その存在を媒介する労働は、質的にちがっている。―裁縫と機織。もしそれらのものが質的にちがった使用価値でなく、したがって、質的にちがった有用労働の生産物でないとすれば、これらのものは、決して商品として相対することはありえないであろう。上衣は上衣に対しては交換されない。同一使用価値は同一使用価値と交換されることはない。

2-5  各種の使用価値または商品体の総体の中に、同じく属・種・科・亜種・変種等々というように、種々様々のちがった有用労働の総体が現われている。― 社会的分業である。この分業は商品生産の存立条件である。商品生産は逆に社会的分業の存立条件ではないのであるが。古代インドの共同体では、労働に、社会的に分割されているが、生産物が商品となることはない。あるいはもっと近い例をあげると、あらゆる工場で労働は系統的に分割されている。だが、この分割は、労働者がその個人的生産物を交換するということによって媒介されてはいない。お互いに商品として相対するのは、独立的でお互いに分かれている私的労働の生産物だけである。

2-6  したがって、こういうことが明かとなる。すなわち、すべての商品の使用価値の中には、一定の目的にそった生産的な活動または有用労働が含まれている。もし使用価値の中に、質的にちがった有用労働が含まれていないとすれば、使用価値は商品として相対することはできない。その生産物が一般に商品の形態をとる社会においては、すなわち、商品生産者の社会においては、独立生産者の私業として相互に独立して営まれる有用労働のこのような質的な相違は、多岐に分かれた労働の体制に、すなわち社会的分業に発展する。

2-7  だが、上衣にとっては、それを裁縫職人が着るか、その顧客が着るかは、どうでもいいことなのである。そのいずれのばあいでも、上衣は使用価値として作用している。同じように、上衣とこれを生産する労働との関係は、それ自身としては、裁縫が特別の職業となること、社会的分業の独立の分肢となることによって、変化することはない。着物を着るという欲望が人間に強要するかぎり、人間は、ある男が裁縫職人となる以前に、幾千年の永きにわたって裁縫した。しかしながら、上衣・亜麻布等、自然に存在しない素材的富のあらする要素が現存するようにたったことは、特別な人間的要求に特別な自然素材を同化させる特殊的な目的にそった生産活動によって、つねに媒介されなければならなかった。したがって、使用価値の形成者として、すなわち、有用なる労働としては、労働は、すべての社会形態から独立した人間の存立条件であって、人間と自然との間の物質代謝を、したがって、人間の生活を媒介するための永久的自然必然性である。

2-8  上衣・亜麻布等々の使用価値、簡単に商品体は、自然素材と労働という二つ要素の結合である。上衣・亜麻布等々に含まれているちがった一切の有用労働の総和を引き去るならば、つねに入間の加工なしに自然に存在する物質的基盤が残る。人間は、その生産において、自然みずからするようにするほか仕方のないものである。すなわち、ただ素材の形態を変更するほかに仕方のないものである(13)。さらに、この製作の労働そのものにおいても、人間はたえず自然力の援けをかりている。したがって、労働はその生産する使用価値の、すなわち素材的富の、唯一の源泉ではない。ウィリアム・ペティがいうように、労働はその父であって、土地はその母である。

 (13) 「宇宙の一切の現象は、それが人間の手によってもたらされようと、物理学の一般法則によってもたらされようと、事実上の新創造ではなくして、単に素材の形態変更であるにすぎない。複合と分離は、人間精神が再生産の観念の分析にあたって、いかなるときにも見出す唯一の要素である。そして、価値(使用価値のこと。むろん、ヴェリはこのばあいその重農学派にたいする論争において、どんな種類の価値について自分が語っているのかを、自分ではよく知らないのである)と富の再生産についても、土地・空気および水が、耕地で穀物に転化されるばあい、あるいはまた人間の手によってある種の昆虫の分泌物が絹糸に転化され、あるいは若干の金属の小片が一つの時打ち懐中時計をつくるために組み立てられるばあいで見るように、ことは同様である」(ピエトロ・ヴェリ『経済学にかんする考察』―初版、1771年―。クストディの『イタリアの経済学者』版で刊行。近代篇、第15巻、21、22ページ)。

2-9 われわれは、使用対象という限度内で商品を論じたのであるが、これから商品価値に移ろう。

2-10 われわれの想定によれば、上衣は亜麻布の2倍の価値をもっている。しかしながら、このことは量的な相違にすぎないのであって、いまのところわれわれの関心を惹くものではない。したがって、われわれは、もし1着の上衣の価値が10エレの亜麻布の価値の2倍の大いさであるとすれば、20エレの亜応布は1着の上衣と同一の価値の大いさをもっているということを思い起こすのである。価値として、上衣と亜麻布とは同一実体のものであり、同一性質の労働の客観的表現である。しかしながら、裁縫と機織とは質的にちがった労働である。だが、こういう社会状態がある。そこでは同一人間が交互に裁縫したり織ったりする、したがって、この二つのちがった労働様式は、同一個人の労働の変形にすぎないもので、ちがった個人の特殊な固定した機能にまだなっていないのであって、ちょうど今日われわれの裁縫職人の作る上衣と明日彼のつくるズボンとが、同一の個人的労働の変化であるにすぎないことを前提するのと同じである。さらに、われわれは日頃こういうことを目で見ている。すなわち、われわれの資本主義社会では、労働需要の方向の変化によって、一定分の人間労働が交互に裁縫の形態で供給されたり、機織の形態で供給されたりするのである。このような労働の形態変更は、摩擦なく行なわれるわけではあるまいが、しかし、行なわれざるをえないものである。生産的活動の特定性、したがってまた労働の有用な性格を見ないとすれば、労働に残るものは、それが人間労働力の支出ということである。裁縫と機織とは、質的にちがった生産的活動ではあるが、両者ともに、人間の頭脳・筋肉・神経・手等々の生産的支出であって、この意味では両者ともに人間労働である。それは人間労働力を支出する二つのちがった形態であるにすぎない。もちろん、人間の労働力それ自身は、どの形態でも支出されうるためには、多少とも発達していなければならぬ。しかしながら、商品の価値は人間労働そのものを、すなわち人間労働一般の支出を表わしている。さてブルジョア的社会では、将軍または銀行家が大きな役割を演じ、人間そのものは、これに反して、きわめてみすぼらしい役割を演ずる(14)ように、このばあいでも人間労働は同じ取り扱いをうけている。この労働は、すべての普通の人間が特別の発達もなく、平均してその肉体的有機体の中にもっている単純な労働力の支出である。単純なる平均労働自身は、国のことなるにしたがい、また文化時代のことなるにしたがって、その性格を変ずるのではあるが、現にある一定の社会内においては与えられている。複雑労働は、強められた、あるいはむしろ複合された単純労働にすぎないものとなるのであって、したがって、複雑労働のより小なる量は、単純労働のより大なる量に等しくなる。この整約が絶えず行なわれているということを、経験が示している。ある商品はもっとも複雑な労働の生産物であるかもしれない。その価値はこの商品を、単純労働の生産物と等しい関係におく。したがって、それ自身、単純労働の一定量を表わしているにすぎない(15)。それぞれちがった種類の労働が、その尺度単位としての単純労働に整約される種々の割合は、生産者の背後に行なわれる一つの社会的過程によって確定され、したがって、生産者にとっては慣習によって与えられているように思われる。ことを簡単にするために、以下においてはどの種類の労働力も直接に単純労働力であると考えられる。これによってただ整約の労をはぶこうというのである。

  (14) ヘーゲル『法の哲学』ベルリン、1840年、250ページ、第190節参照。
  (15) 読者に注意して貰わなければならぬことは、ここでは、労働者が例えば一労働日にたいして受け取る賃金または価値について論じているのではなくして、その労働日が対象化されている商品価値について論じているということである。労働賃金という範疇は、そもそもわれわれの説明のこの段階では、まだ問題にはならない。

2-11  したがって、上衣や亜麻布という価値においては、その使用価値の相違から抽象されているように、これらの価値に表わされている労働においては、その有用なる形態である裁縫や機織の相違から抽象されている。上衣や亜麻布という使用価値が、目的の定められた生産的な活動と布や撚糸との結合であるように、上衣や亜麻布という価値が、これと反対に、単なる同種の労働膠状物であるように、これらの価値に含まれている労働も、布や撚糸にたいするその生産的な結びつきによるのでなく、ただ人間労働力の支出となっているのである。上衣や亜麻布という使用価値の形成要素は、裁縫であり、機織である。まさにそれらの質がちがっていることによってそうなるのである。それらの労働が上衣価値や亜麻布価値の実体であるのは、ただそれらの特殊な質から抽象され、両者が同じ質、すなわち人間労働の性質をもっているかぎりにおいてである。

2-12  しかしながら、上衣と亜麻布とは、ただ価値そのものであるだけではなく、一定の大いさの価値である。そしてわれわれの想定によれば、1着の上衣は10エレの亜麻布の2倍だけの大いさ心価値である。どこから、それらの価値の大いさの相違が生ずるのか? それは、亜麻布がただ上衣の半分だけの労働を含んでいること、したがって、上衣の生産には、労働力が亜麻布の生産にくらべて2倍の時間、支出されなければならぬということから来るのである。

2-13  したがって、使用価値にかんしては、商品に含まれている労働がただ質的にのみ取り上げられているとすれば、価値の大いさについては、労働はすでに労働であること以外になんら質をもたない人間労働に整約されたのち、ただ量的にのみ取り上げられているのである。前者では、労働は、如何になされるかということ、何を作るかということが問題であるが、後者では、労働のどれだけということ、すなわち、その時間継続ということが問題なのである。ある商品の価値の大いさは、ただそれに含まれている労働の定量をのみ表わしているのであるから、商品はある割合をもってすれば、つねに同一の大いさの価値でなければならぬ。

2-14  例えば、1着の上衣の生産に必要な一切の有用労働の生産力が不変であるこすれば、上衣の価値の大いさは、それ自身の量とともに増大する。もし1着の上衣がX労働日を表わすそすれば、2着の上衣は2x労働日を表わす、等々である。しかしながら、1着の上衣の生産に必要な労働が2倍に増大するか、または半分だけ減少するという場合を仮定しよう。第一のばあいにおいては、1着の上衣は、以前の2着の上衣と同じ価値をもつものとなる。後のばあいには、2着の上衣が、以前の1着の上衣と同じ価値をもつにすぎないこととなる。もちろん、二つのばあいにおいて、1着の上衣は依然として同一のはたらきを果たし、それに含まれている有用労働は、依然として同一品質のものにとどまっているのであるが。ところが、その生産に支出されている労働量は、変化しているのである。

2-15  より大きな量の使用価値は、それ自身としてはより大きな素材的富をなしている。2着の上衣は1着よりは多い。2着の上衣では、2人の人に着せることができる。1着の上衣では、1人の人に着せることができるだけである、等々。だが、素材的富の量が増大するのにたいしては、その価値の大いさの同時的低下ということが、相応じうる。この相反する運動は、労働の両面的な性格から生じている。生産力は、もちろんついに有用な具体的な労働の生産力である。そして実際にただ与えられた期間における、目的にしたがった生産的活動の作用度を規定しているだけである。したがって、有用労働は、その生産力の増大あるいは低下と正比例して、より豊富な生産物源泉ともなれば、より貧弱なそれともなる。これに反して、生産力の変化は、価値に表わされている労働それ自身には、少しも触れるものではない。生産力は、労働の具体的な有用な形態がもっているものであるから、労働が、この具体的な有用な形態から抽象されるやいなや、当然にもはや労働に触れることはできない。したがって、同一の労働は、同一の期間に、生産力がどう変化しようと、つねに同一大いさの価値を生む。しかしながら、生産力は同一期間に、ちがった量の使用価値をもたらす。生産力が増大すればより多く、それが低下すればより少ない。労働の生産度を増大させ、したがって、これによってもたらされる使用価値の量を増加させる同じ生産力の変化は、このようにして、もしこの変化がその生産に必要な労働時間の総計を短縮するならば、この増大した総量の価値の大いさを減少させる。同じように、逆のばあいは逆となる。

2-16  すべての労働は、一方において、生理学的意味における人間労働力の支出である。そしてこの同一の人間労働、または抽象的に人間的な労働の属性において、労働は商品価値を形成する。すへての労働は、他方において、特殊な、目的の定まった形態における人間労働力の支出である。そしてこの具体的な有用労働の属性において、それは使用価値を生産する(16)。

  (16) 第2版への注。「労働のみがすべての商品の価値を、あらゆる時代に、評価し、比較しうる終局的な真実な尺度である」ということを証明するために、A・スミスはこう述べている。「同一量の労働は、あらゆる時代あらゆる場所において、労働者自身のために同一価値をもっていなければならぬ。労働者の健康・力および活動の正常な状態において、そして彼のもっていると考えられる熟練の平均度とともに、彼は、つねにその安息、その自由およびその幸福の、それ相応の部分を犠牲としなければならぬ」(『諸国民の富』第1篇第5章〔E・G・ウェイクフィールド版、ロンドン、1836年、第1巻、104ページ以下。邦訳、大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』岩波文庫版、第1分冊、155―156ページ〕)。一方A・スミスは、ここで(どこででもというわけではない)、商品の生産に支出された労働量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と混同している。したがって、同一量の労働が、つねに同一価値をもつことを証明しようと企てる。他方では彼は、労働が商品の価値に表わされるかぎり、労働力の支出としてのみ考えられるものであることを感じているが、この支出をまた、ただ安息・自由および幸福の犠牲とのみ解していて、正常な生活活動とも解していない。もちろん、彼は近代賃金労働者を眼前に浮かべている。
―注(9)に引用した匿名のA・スミスの先駆者は、はるかに正しくこう述べている。
「一人の男がこの欲望対象の製造に1週間をかけた。……そして彼に他の対象を交換で与える男は、彼にとって同じ大いさの労働と時間を費やさせるものを計算するよりほかには、より正しく実際に同価値であるものを算定することができない。このことは、事実上ある人間が一定の時間に一つの対象に費消した労働と、同一時間に他のある対象に費消された他の人の労働との、交換を意味している」(『一般金利……にかんする二、三の考察』 39ページ)。―{ 第4版に。英語は、労働のこの二つのことなった側面にたいして、二つのことなった言葉をもっているという長所がある。使用価値を作り出し、質的に規定される労働を Work といい、Labour に相対する。価値を作り出し、ただ量的にのみ測定される労働を Labour といって、Workに相対する。英語訳14ページの注を参照されよ。-F・E }。
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第1章 第3節

  第3節 価値形態または交換価値

3-1 商品は使用価値または商品体の形態で、すなわち、鉄・亜麻布・小麦等々として、生まれてくる。これが彼等の生まれたままの自然形態である。だが、これらのものが商品であるのは、ひとえに、それらが、二重なるもの、すなわち使用対象であると同時に価値保有者であるからである。したがって、これらのものは、二重形態、すなわち自然形態と価値形態をもつかぎりにおいてのみ、商品として現われ、あるいは商品の形態をもつのである。

3-2 諸商品の価値対象性は、かのマダム・クィックリ 〔シェイクスピアの『ヘンリー4世』等の中の人物。……訳者〕とちがって、一体どこを摑まえたらいいか、誰にもわからない。商品体の感覚的に手触りの荒い対象性と正反対に、諸商品の価値対象性には、一分子の自然素材もはいっていないのである。したがって、一々の商品をどう捻りまわして見ても、それを価値物として摑むことはできない。だが、もし諸商品が同一の社会的等一性である人間労働の表現であるかぎりでのみ、価値対象性を有ち、したがってそれらの価値対象性は、純粋に社会的であるということを想い起こして見るならば、おのずから価値対象性が、ただ商品と商品との社会的関係においてのみ現われうるものであるということも明らかとなる。われわれは、実際において商品の交換価値から、または交換比率から出発して、その中にかくされている商品の価値をさぐりえたのである。いまわれわれは、価値のこの現象形態に帰らなければならぬ。

3-3 人は、何はともあれ、これだけは知っている、すなわち、諸商品は、その使用価値の雑多な自然形態と極度に顕著な対照をなしているある共通の価値形態をもっているということである。―すなわち、貨幣形態である。だが、ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一事をなしとげようというのである。すなわち、この貨幣形態の発生を証明するということ、したがって、商品の価値関係に含まれている価値表現が、どうしてもっとも単純なもっとも目立たぬ態容から、そのきらきらした貨幣形態に発展していったかを追求するということである。これをもって、同時に貨幣の謎は消え失せる。

3-4 最も単純な価値関係は、明らかに、ある商品が、他のなんでもいいが、ただある一つの自分とちがった種類の商品に相対する価値関係である。したがって、二つの商品の価値関係は、一つの商品にたいして最も単純な価値表現を与えている。



 A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態



3-5
  A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

3-6   x量商品A = y量商品B あるいは、x量の商品Aは y量の商品B に値する (亜麻布20エレ = 上衣1着 または20エレの亜麻布は1着の上着に値する)。


3-7 1 価値表現の両極。すなわち、相対的価値形態と等価形態

 一切の価値形態の秘密は、この単純なる価値形態の中にかくされている。したがって、その分析が、まことの難事となるのである。

3-8 ここでは、2種の異なった商品 AとB、われわれの例でいえば、亜麻布と上衣とは、明白に二つのちがった役割を演じている。亜麻布はその価値を上衣で表現している。上衣はこの価値表現の材料の役をつとめている。第一の商品は能動的の役割を演じ、第二の商品は受動的のそれを演じている。第一の商品の価値は、相対的価値として表わされている。いいかえると、第一の商品は相対的価値形態にあるのである。第二の商品は等価として機能している。すなわち等価形態にあるのである。

3-9 相対的価値形態と等価形態とは、相関的に依存しあい、交互に条件づけあっていて、離すことのできない契機であるが、同時に相互に排除しあう、または相互に対立する極位である。すなわち、同一価値表現の両極である。この両極は、つねに価値表現が相互に関係しあうちがった商品の上に、配置されるものである。私は、例えば亜麻布の価値を、亜麻布で表現することはできない。亜麻布20エレ = 亜麻布20エレというのは、なんら価値表現とはならない。方程式はむしろ逆のことをいっている。すなわち、20エレの亜麻布は、20エレの亜麻布にほかならないということ、亜麻布という使用対象の一定量にほかならないということである。したがって、亜麻布の価値はただ相対的にのみ、すなわち、他の商品においてのみ、表現されうるのである。したがって、亜麻布の相対的価値形態は、何らかの他の商品が、自分にたいして等価形態にあるということを予定している。他方において、等価の役を引き受けているこの他の商品は、みすから同時に相対的価値形態にあるというわけにはいかぬ。この商品は自分の価値を表現しているのではない。この商品はただ他の商品の価値表現に、材料を供給しているだけである。

3-10 むろん、亜麻布20エレ=上衣1着 または20エレの亜麻布は1着の上衣に値するという表現は、上衣1着=亜麻布20エレ または1着の上着は20エレの亜麻布に値するという逆関係をも今んではいる。しかしながら、上衣の価値を相対的に表現するためには、方程式を逆にしなければならぬ。そして私がこれを逆にしてしまうやいなや、亜麻布は上衣のかわりに等価となる。したがって、同一の商品は同一価値表現において、同時に両形態に現われることはできない。この二つの形態は、むしろ対極的に排除しあうのである。

3-11 それで、ある商品が相対的価値形態にあるか、これに相対立する等価形態にあるかということは、もっぱら価値表現におけるその時々の位置にかかっているのである。ということは、ある商品がその価値を表現するものであるか、それともその商品によって価値が表現されるものであるか、にかかっているということである。


 
2 相対的価値形態

 
a



 

  2 相対的価値形態 

  b 相対的価値形態の量的規定性   

1. 価値の表現せられるべきあらゆる商品は、15シェッフェルの小麦、100ポンドのコーヒー等というように、一定量の使用対象である。この与えられた商品量は、人間労働の一定量を含んでいる。したがって、価値形態は、ただに価値一般を表現するだけでなく、量的に規定された価値、すなわち価値の大いさをも表現しなければならぬ。商品Aの商品Bにたいする価値関係、亜麻布の上衣にたいする価値関係においては、したがって、上衣なる商品種は、ただに価値体一般として亜麻布に質的に等しいと置かれるだけでなく、一定の亜麻布量、例えば20エレの亜麻布にたいして、価値体または等価の一定量、例えば1着の上衣が等しいと置かれるのである。


2. 亜麻布20エレ=上衣1着 または亜麻布20エレは上衣1着に値する」という方程式は、1着の上衣のなかにまさに20エレの亜麻布の中におけると同じだけの量の価値実体がかくされているということ、両商品量は、したがって、おなじだけの労働が加えられている、または同一大いさの労働時間がかけられているということを前提とする。しかしながら、20エレの亜麻布または1着の上衣の生産に必要なる労働時間は、機織または裁縫の生産力における一切の変化とともに変化する。そこで、価値の大いさの相対的表現に及ぼすこのような変化の影響が、もっと詳細に研究されなければならぬ。


3.  I 亜麻布の価値は変化するが(19)、上衣価値は不変であるとするばあい。亜麻布の生産に必要な労働時間が、例えば亜麻栽培地の豊度の減退の結果、2倍となったとすれば、その価値は2倍となる。亜麻布20エレ=上衣1着のかわりに、われわれは亜麻布20エレ=上衣2着という式をもつことになる。というのは、1着の上衣は、いまでは20の亜麻布の半ばだけの分量の労働時間を含むにすぎないのであるからである。これに反して、亜麻布の生産に必要な労働時間が半分だけ、例えば織台改良の結果、減少するとすれば、亜麻布価値は半分だけ低下する。したがってこんどは亜麻布20エレ=上衣1/2着となる。商品Aの相対的価値、すなわち、その商品Bに表現された価値は、このようにして、商品Bの価値を同一としても、商品Aの価値に正比例して上騰したり、低下したりするのである。

 (19) 「価植」(„Wert“)という表現は、ここでは、すでに以前に時々あちこちでやったたように、量的に規定された価値、すなわち、価値の大いさという意味に用いられている。


4.  Ⅱ 亜麻布の価値は不変であって、上衣価値が変化するばあい。この事情のもとでは上衣の生産に必要な労働時間が、例えば羊毛剪截〔せんせつ:はさみで断ち切ること〕が不便とたったために、2倍となったとすれば、われわれは亜麻布20エレ=上衣1着という式のかわりに、いまでは亜麻布20エレ=上衣1/2着という式を得る。これに反して、上衣の価値が半分に低下したとすれば、亜麻布20エレ=上衣2着という式を得ることになる。したがって商品Aの価値を不変としても、商品Bで表現されるその相対的価値は、Bの価値変化と反比例で、低下したり上騰したりするのである。

5.  I および Ⅱの項における各種のばあいを比較すると、次のような結果が生ずる。すなわち、相対的価値の同一なる量的変化が、全く相反した原因から発生しうるということである。このようにして、亜麻布20エレ=上衣1着という式から、(1)、亜麻布20エレ=上衣2着という方程式が出てくる。それは亜麻布の価値が2倍となったのか、または、上衣の価値が半ばに低下したのかによるのである。さらに、(2)、亜麻布20エレ=上衣1/2着という方程式も出てくる。それは亜麻布の価値が半分に低下したのか、または上衣の価値が2倍にのぼったからである。


6.  Ⅲ 亜麻布と上衣の生産に必要な労働量は、同時に同一方向に同一割合で変化することもある。このばあいには、その価値がどんなに変化しても、依然として亜麻布20エレ=上衣1着である。この価値変化を発見するには、これらの二つの商品を、価値不変なる第三の商品と比較しさえすればよいのである。一切の商品の価値が、同時に同一割合で上騰または低下するならば、その相対的価値は不変にとどまるであろう。こんどは、この実際の価値変化は、同一労働時間に、以前より大きな商品量か、小さな商品量かが、同じように供給されるということから明らかとなるであろう。


7.  Ⅳ 亜麻布と上衣の生産にそれぞれ必要な労働時間、したがって、それらの価値は、同時に同一の方向に変化するとしても、ちがった程度に変化するばあい、または反対の方向に変化するばあい等々がある。一商品の相対的価値にたいする、この種のあらゆる可能な組み合わせの影響は、簡単にI、Ⅱ、Ⅲのばあいの応用によって明らかとなる。
 このようにして価値の大いさの現実の変化は、その相対的な表現において、あるいは相対的価値の大いさにおいて、曖昧さを残さず反映されるわけでも、剰(あま)すところなく反映されるわけでもない。一商品の相対的価値は、その価値が不変であっても変化しうる。その相対的価値は、その価値が変化しても、不変でありうる。そして最後に、その価値の大いさとその価値の大いさの相対的表現とにおける同時的変化は、決して相互に一致するわけのものではないのである(20)。

 (20) 第2版への注。価値の大いさとその相対的表現との間のこの不一致は、俗学的経済学によってもちまえの鋭敏さで、利用しつくされている。例えば、「かりに、Aが低落するのは、その間にAにたいして支出される労働は減少しないとしても、その交換されるBが上騰するからであるということを承認するとしたらどうか。そうなったら、諸君の一般的な価値原理は崩壊するであろう。……もし、Aの価値は相対的にBにたいして上騰し、Bの価値は相対的にAにたいして低下するということを承認するならば、リカードが、一商品の価値はつねにこれに体現されている労働の量によって規定されるという、彼の大命題を樹立した基礎は、ゆらぐ。なぜかというに、もしAの費用における変化が、それが交換されるBにたいする比率において、それ自身の価値を変化させるだけでなく、Bの生産に要する労働量においてなんらの変化が起こらなかったにもかかわらず、相対的にAの価値にたいするBの価値をも変化させるとする力らば、一商品にたいして支出される労働量が、その価値を規制するということを主張する教義は、崩壊するだけでなく、一商品の生産費がその価値を規制するという教義も、亡びることになるからである」(J・ブロードハースト『経済学にかんする論策』ロンドン、1842年、11・14ページ)。
  ブロードハースト氏は、これと同じように、こうも言うことができたのだ。こころみに10/20、10/50、10/100等々という数的比率を考えて見るといい。10なる数に変わりはない。だがしかし、その比、その分母たる20,50,100にたいする相対的な大いさは、不断に減少している。だから、10というような整数の大いさが、例えば、これに含まれている1の倍数によって「規制」されるという大原理は、崩壊してしまう、と。

・・・以上、「b 相対的価値形態の量的規定性」 終わり・・・
『資本論』B_1拡大された相対的価値形態
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『資本論』第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 

 B 総体的または拡大せる価値形態

 z量商品A= u量商品B または v量商品C または = w量商品D または = x量商品E または =その他
(亜麻布20エレ=上衣1着 または =茶10ポンド または =コーヒー40ポンド または =小麦1クウォーター または =金2オンス または =鉄1/2トン または =その他 )

 1 拡大された相対的価値形態


1. 一商品、例えば、亜麻布の価値は、いまでは商品世界の無数の他の成素に表現される。すべての他の商品体は亜麻布価値の反射鏡となる(23)。こうしてこの価値自身は、はじめて真実に無差別な人間労働の凝結物として現われる。なぜかというに、価値を形成する労働は、いまや明瞭に、一切の他の人間労働がそれに等しいと置かれる労働として、表わされており、その労働がどんな自然形態をもっていようと、したがって、それが上衣に対象化せられようと、小麦や鉄または金等々に対象化せられようと、これを問わないからである。したがって、いまや亜麻布は、その価値形態によって、もはやただ一つの個々の他の商品種と社会関係にあるだけでなく、商品世界と社会関係に立っているのである。それは、商品としてこの世界の市民なのである。同時に、この市民たる表現の無限の序列の中にあるから、商品価値は、使用価値が、どんな形態であろうと、その特別の形態にたいして、無関心であることにもなるわけである。

(23) それゆえに、人は亜麻布の価値が上衣で示されるばあいには、亜麻布の上衣価値について語り、これを穀物で示すばあいには、その穀物価値について語ることになる、等々。上衣、穀物等々の使用価値に現われるのが、亜麻布の価値であるということを、すべてこのような表現は言っていることになる。「あらゆる商品の価値は、〔なんらか他の商品との〕交換におけるその比率を示すのであるから、われわれは価値について、その商品が比較される商品にしたがって、それぞれ穀物価値、布価値……という風に語ることができるわけである。したがってまた、それぞれちがった数千の価値種があり、商品のあるかぎり、これと同じ数の価値がある。そしてすべての価値が、同じように真実であり、また同じように名目的である」(『価値の性質、尺 度および原因にかんする批判的一論考、主としてリカード氏とその追随者たちの著作に関連して』『所信の形成と公表にかんする諸論』の著者による。ロンドン、1825年、39ページ〔邦訳、鈴木鴻一郎訳『リカアド価値論の批判』日本評論社、世界古典文庫、54ページ〕)。S・ベイリーが、当時イギリスで大さわぎをひき起こしたこの匿名の著作の著者であるが、彼は、このように同一商品価値の相対的表現の乱雑さを指摘することによって、価値の一切の概念規定を破壊したと妄信している。だが、彼自身の偏狭固陋にもかかわらず、リカードの理論の痛い所を探り当てていたということを、リカード学派の彼を攻撃した激昂が証明した。例えば『ウェストミンスター・レヴュー』所載。

2. 亜麻布20エレ=上衣1着 という第1の形態においては、これら二つの商品が、一定の交換比率で交換されるということは、偶然の事実であるかもしれない。これに反して、第二の形態では直ちに、偶然の現象と本質的に区別され、かつこれを規定する背景が、露われている。亜麻布の価値は、上衣で示されようと、コーヒーや鉄等々で示されようと、種々雑多な所有者に属する無数にちがった商品で示されようと、同じ大いさである。二人の個人的な商品所有者の偶然的な関係はなくなってしまう。交換が商品の価値の大いさを規制するのでなく、逆に商品の価値の大いさが、その交換比率を規制するのであるということは、明瞭となっている。

 2 特別な等価形態

 上衣、茶、小麦、鉄等々というような商品は、それぞれ亜麻布の価値表現においては、等価として、したがってまた価値体として働いている。これらの商品のおのおのの特定なる自然形態は、いまでは多くの他の商品とならんで、一つの特別な等価形態である。同じように、各種の商品体に含まれている特定の具体的な有用な多種多様の労働種は、いまではそれと同じ数だけ、無差別の人間労働を、特別な実現形態または現象形態で示すことになっている。

 3 総体的または拡大された価値形態の欠陥

1. 第一に、商品の相対的な価値表現は未完成である。というのは、その表示序列がいつになっても終わらないからである。一つの価値方程式が、他のそれを、それからそれとつないでいく連鎖は、引きつづいてつねに、新しい価値表現の材料を与えるあらゆる新たに現われる商品種によって引き延ばされる。第二に、それは崩壊しがちな雑多な種類の価値表現の色とりどりの寄木細工をなしている。最後に、あらゆる商品の相対的価値は、この拡大された形態で表現されざるをえないのであるが、そうなると、あらゆる商品の相対的価値形態は、すべての他の商品の相対的価値形態とちがった無限の価値表現の序列である。―拡大された相対的価値形態の欠陥は、これに相応する等価形態に反映する。すべての個々の商品種の自然形態は、ここでは無数の他の特別な等価形態とならんで、一つの特別な等価形態であるのであるから、一般にただ制限された等価形態があるだけであって、その中のおのおのは他を排除するのである。これと同じように、すべての特別な商品等価に含まれている特定の具体的な有用労働種は、ただ人間労働の特別な、したがって十全でない現象形態である。人間労働は、その完全な、または総体的な現象形態を、かの特別な現象形態の総体的広がりの中にもってはいるか、なんら統一的の現象形態をもたない。
2. だが、拡大された相対的価値形態は、ただ単純な相対的価値表現、または第一形態の諸方程式の総和から成っているだけである。例えば
    亜麻布20エレ=上衣1着
    亜麻布20エレ=茶10ポンド 等々
3. これらの諸方程式のおのおのは、だが、両項を逆にしても同じ方程式である、
    上衣1着=亜麻布20エレ
    茶10ポンド=亜麻布20エレ 等々
4. 実際上、一人の男がその亜麻布を多くの他の商品と交換し、したがってその価値を、一連の他の商品の中に表現するとすれば、必然的に多くの他の商品所有者もまた、その商品を亜麻布と交換し、したがって、彼らの種々の商品の価値を同一の第三の商品、すなわち、亜麻布で表現しなければならぬ。―かくて、もしわれわれが、亜麻布20エレ=上衣1着 または =茶10ポンド または =その他 というような序列を逆にするならば、すなわち、われわれが、実際にはすでに序列の中に合まれていた逆関係を表現するならば、次のようになる。

 〔 以下、「 C 一般的価値形態 」につづく 〕

  
C 一般的価値形態


 Ⅲ. 第3形態 C 一般的価値形態
  


  上着1着 =    
 茶10ポンド =
 コーヒー40ポンド  =
 小麦1クォーター =  亜麻布20エレ
 金2オンス =
 鉄1/2トン =
 A商品x量 =
 その他の商品量 =

 1 価値形態の変化した性格  Veränderter Charakter der Wertform

 諸商品は、その価値をいまでは第一に、唯一の商品で示しているのであるから、単純に表わしていることになる。また第二に、同一商品によって示しているのであるから、統一的に表わしていることになる。それら商品の価慎形態は、単純で共同的であり、したがって一般的である。
 第一および第二の形態は、二つとも、一商品の価値を、その商品自身の使用価値、またはその商品体から区別したあるものとして表現するために、生じたものにすぎなかった。


 第一の形態は、上衣1着 = 亜麻布20エレ、茶10ポンド = 鉄1/2トン 等々というような価値方程式を作り出した。上衣価値は亜麻布に等しいものとして、茶価値は鉄に等しいものとして、というようなふうに表現される。しかしながら、亜麻布に等しいものと鉄に等しいもの、このような上衣および茶の価値表現は、亜麻布と鉄とがちがっているのと同じようにちがっている。この形態が明瞭に実際に現われるのは、ただ、労働生産物が、偶然的な、そして時折の交換によって商品に転化されるような、そもそもの端緒においてである。
 第二の形態は、第一のそれより完全に、商品の価値を、それ自身の使用価値から区別する。なぜかというに、例えば上衣の価値は、ここではその自然形態に、あらゆる可能な形態で、例えば亜麻布に等しいものとして、鉄に等しいもの、茶に等しいもの等として、すなわちただ上衣に等しいものでないだけで他の一切のものに等しいものとして、相対するからである。他方において、ここには商品のあらゆる共通な価値表現は、ただちにできなくされている。なぜかというに、ここでは一商品ごとに価値表現を行なって、すべての他の商品は、ただ等価の形態で現われるにすぎないからである。ある労働生産物、例えば家畜がもはや例外的にでなく、すでに習慣的に各種の他の商品と交換されるようになると、まず拡大された価値形態が、事実上出現するのである。


 新たに得られた形態は、商品世界の諸価値を、同一なる、この世界から分離された商品種で表現する、例えば亜麻布で、そしてすべての商品の価値を、かくて、その亜麻布と等しいということで示すのである。亜麻布に等しいものとして、あらゆる商品の価値は、いまやただそれ自身の使用価値から区別されるだけでなく、一切の使用価値から区別されるのである。そしてまさにこのことによって、この商品とあらゆる商品とに共通なるものとして表現される。したがって、この形態にいたって初めて現実に、商品を価値として相互に相関係させ、またはこれらを相互に交換価値として現われさせるようになる。


 先の二つの形態は、商品の価値を唯一の異種の商品をもってするばあいと、この商品と異なる多くの商品の序列をもってするばあいとの違いはあるが、いずれにしても一商品ごとに表現するのである。両場合ともに、価値形態を与えられるのは、個々の商品のいわば私事である。そして個々の商品は他の商品の協力なしに、このことをなすのである。他の諸商品は、先の一商品にたいして等価形態という単なる受動的の役割を演ずるのである。これに反して一般的価値形態は、商品世界の共通の仕事としてのみ成立するのである。一商品が一般的価値表現を得るのは、ただ、同時に他のすべての商品がその価値を同一等価で表現するからである。そして新たに現われるあらゆる商品種は、これを真似なければならない。このことによって、こういうことがはっきりとしてくる、すなわち、諸商品の価値対象性も、それがこれら諸物の単なる「社会的存在」であるのであるから、その全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって、その価値形態は、社会的に妥当する形態でなければならないということである。


 亜麻布に等しいものの形態において、いまではあらゆる商品が、ただに質的に等しいもの、すなわち価値一般としてだけでなく、同時に量的に比較しうる価値の大いさとしても現われる。すべての商品が、その価慎の大いさを同一材料で、亜麻布で写し出すのであるから、これらの価値の大いさは、交互に反映し合うのである。例えば 茶10ポンド = 亜麻布20エレ、さらに コーヒー40ポンド = 亜麻布20エレ. したがって、茶10ポンド = コーヒー40ポンド というようにである。あるいは1ポンドのコーヒーには、ただ1ポンドの茶におけるものの4分の1だけの価値実体、すなわち、労働が含まれているというようにである。


 商品世界の一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価商品である亜麻布に、一般的等価の性質をおしつける。亜麻布自身の自然形態は、この世界の共通な価値態容であり、したがって、亜麻布は他のすべての商品と直接に交換可能である。この物体形態は、一切の人間労働の眼に見える化身として、一般的な社会的な蛹化(ようか)としてのはたらきをなす。機織という亜麻布を生産する私的労働は、同時に一般的に社会的な形態、すなわち、他のすべての労働との等一性の形態にあるのである。一般的価値形態を成立させる無数の方程式は、順次に亜麻布に実現されている労働を、他の商品に含まれているあらゆる労働に等しいと置く。そしてこのことによって、機織を人間労働そのものの一般的な現象形態にするのである。このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実的労働のすべての具体的形態と有用なる属性とから抽象された労働として、たんに否定的に表示されるだけではない。それ自身の肯定的性質が明白に現われるのである。それは、すべての現実的労働を、これに共通なる人間労働の性質に、人間労働力の支出に、約元したものなのである。
 労働生産物を、無差別な人間労働のたんなる凝結物として表示する一般的価値形態は、それ自身の組立てによって、それが商品世界の社会的表現であるということを示すのである。このようにして、一般的価値形態は、この世界の内部で労働の一般的に人間的な性格が、その特殊的に社会的な性格を形成しているのを啓示するのである。


  ・・・以上、「1 価値形態の変化した性格」 終わり・・・
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『資本論』 第1章 第3節 価値形態または交換価値


  C 一般的価値形態 

  2 相対的価値形態と等価形態の発展関係


1. 相対的価値形態の発展程度に、等価形態の発展程度が応ずる。しかしながら、そしてこのことはよく銘記されなければならぬのであるが、等価形態の発展は相対的価値形態の発展の表現であり、結果であるにすぎない。

2. ある商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的な等価にする。相対的価値の拡大された形態、一商品の価値の他のすべての商品におけるこのような表現は、これらの商品に各種の特別な等価の形態を刻印する。最後に、ある特別な商品種が一般的等価形態を得る。というのは、他のすべての商品が、これを自分たちの統一的一般的な価値形態の材料にするからである。

3. しかしながら、価値形態一般が発展すると同じ程度で、その二つの極たる相対的価値形態と等価形態の間の対立もまた発展する。

4. すでに第一の形態―亜麻布20エレ=上衣1着―がこの対立を含んでいる。しかしまだ固定してはいない。同じ方程式が順に読まれるか、逆に読まれるかにしたがって、亜麻布と上衣というような両商品極のおのおのが、同じように、あるときは相対的価値形態に、あるときは等価形態にあるのである。このばあいにおいては、なお両極的対立を固着せしめるのに骨が折れる。

5. 第二の形態では、依然としてまだ各商品種ごとに、その相対的価値を全体として拡大しうるのみである。言葉をかえていえば、各商品種自身は、すべての他の商品がこれにたいして等価形態にあるから、そしてそのかぎりにおいて、拡大せる相対的価値形態をもっているにすぎないのである。このばあいにおいては、もはや価値方程式―亜麻布20エレ=上衣1着 または =茶10ポンド または =小麦1クォーター等々―の両項を移し換えると、その総性格を変更し、これを総体的価値形態から一般的価値形態に転換させてしまうほかはないことになる。

6. 最後の形態である第三形態は、ついに商品世界にたいして一般的社会的な相対的価値形態を与える、それは、唯一の例外を除いて、この世界に属するすべての商品が一般的等価形態から排除されるからであり、またそのかぎりにおいてである。ある商品、すなわち亜麻布は、したがって、他のすべての商品と直接的な交換可能性の形態に、あるいは直接的に社会的な形態にある。というのは、他の一切の商品がこの形態をとっていないからであり、また、そのかぎりにおいてである(24)。

 (24) 人は、一般的な直接的な交換可能性の形態について、その形態が対立的な商品形態であって、直接的な交換可能性でない形態から、一つの電極
の陽性が他の極の陰性にたいすると同じように、分離しえないものであることを、事実上すこしも見ようとしない。したがって、すべての商品に、同時に直接的交換可能性の刻印を押しつけることができるという風に、妄想を描いているようである。ちょうどあらゆるカトリック信者を、教皇にすることができると思いこんでいる人があるように。商品生産に人間の自由と個人の独立の nec plus ultra (絶頂)を見る小市民にとっては、この形態に結びつけられている不都合を、ことに商品の直接に交換可能でないということを、除くことは、むろんきわめて願わしいことであろう。この俗人的空想境の色どりを示しているのは、プルードンの社会主義である。それは、私が他の所で示したように、独創という功績すらもっていないのであって、彼よりずっと以前にグレーやブレーその他の人々によって、はるかにうまく展開されたのである。このことは、このようなこざかしさが、今日ある仲間で「科学」の名で流行するというようなことをさまたげないのである。プルードン学派ほどに、「科学」という言葉を乱用した学派はかつてなかった。なぜかというに、 「ちょうど概念のない所へ詞(ことば)が猶予なく差し出ているものだ」〔ゲーテ『ファウスト』第1部、1995、森林太郎訳による〕から。



7. 逆に、一般的等価という役割を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがって一般的な相対的価値形態から排除される。亜麻布が、すなわち、一般的等価形態にあるなんらかのある商品が、同時に一般的相対的価値形態にもなるとすれば、その商品は、自分自身にたいして等価としてつかえるということにならなければなるまい。そうすると、われわれは、亜麻布20エレ=亜麻布20エレという式を得ることになる。これは内容のない繰り返しであって、そこには価値も価値の大いさも表現されてはいない。一般的等価の相対的価値を表現するためには、われわれはむしろ第三形態を引っくり返さなければならない。一般的等価は、他の商品と共同の相対的価値形態をもってはいないのであって、その価値は、すべての他の商品体の無限の序列の中に相対的に表現されるのである。このようにして、いまでは拡大せる相対的の価値形態または第二形態は、等価商品の特殊的な相対的価値形態として現われる。

 ・・・以上、 2 相対的価値形態と等価形態の発展関係 終わり・・・


 C 一般的価値形態

 3 一般的価値形態から貨幣形態への移行


 D 貨幣形態


  第4節 商品の物神的性格とその秘密

第4節 商品の物神的性格とその秘密 

  Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis

 ■検索
 1. 感覚的にして超感覚的な物
 2. お互いの労働は社会的の形態を得る
 3. 謎にみちた性質はこの形態から
 4. 商品形態の神秘・・・物神的性格・・・
 5. 私的労働の複合が社会的総労働
 6. 私的労働の二重の社会的性格
 7. 労働生産物の価値発見は人類史上の画期・・・新約聖書「ヨハネの黙示録」
 8. 彼等の社会的運動は物の運動形態をとる
 9. 価値性格の確定は貨幣表現から
 10. 商品世界の神秘

 
 第4節 商品の物神的性格とその秘密 

   〔 感覚的にして超感覚的な物 〕

1. 一つの商品は、見たばかりでは自明的な平凡な物であるように見える。
これを分析して見ると、商品はきわめて気むずかしい物であって、形而上学的小理屈(けいじじょうがくてきこりくつ)と神学的偏屈(へんくつ)にみちたものであることがわかる。商品を使用価値として見るかぎり、私がこれをいま、商品はその属性によって人間の欲望を充足させるとか、あるいはこの属性は人間労働の生産物として得るものであるとかいうような観点のもとに考察しても、これに少しの神秘的なところもない。人間がその活動によって自然素材の形態を、彼に有用な仕方で変えるということは、真昼のように明らかなことである。例えば材木の形態は、もしこれで一脚の机を作るならば、変化する。それにもかかわらず、机が木であり、普通の感覚的な物であることに変わりない。しかしながら、机が商品として現われるとなると、感覚的にして超感覚的な物に転化する。机はもはやその脚で床(ゆか)の上に立つのみでなく、他のすべての商品にたいして頭で立つ。そしてその木頭から、狂想を展開する、それは机が自分で踊りはじめるよりはるかに不可思議なものである(注1)。

    (注1)シナと机とは、他のすべての世界が静止しているように見えたときに踊りはじめた(他の人々を元気づけるために)、ということが想い起こされる。



  〔 お互いの労働は社会的の形態を得る 〕

2. だから、商品の神秘的性質はその使用価値から出てくるものではない。それは、同じように価値規定の内容から出てくるものでもない。なぜかというに、第一に、有用な労働または生産的な活動がどんなにいろいろあるにしても、これが人間有機体の機能であり、かかる機能のおのおのが、その内容その形態の如何にかかわらず、本質的に人間の脳髄と神経と筋肉と感覚器官等の支出であるということは、生理学的真理であるからである。第二に、価値の大いさの規定の基礎にあるものは、すなわち、それらの支出の継続時間、または労働の量であるが、この量は、労働の質から粉(まご)うかたなく区別できるといってよい。どんな状態においても、生活手段の生産に用いられる労働時間は、発展段階のことなるにしたがって均等であるとはいえないが、人間の関心をもたざるをえないものである(注2)。 最後に、人間がなんらかの仕方でお互いのために労働するようになると、その労働は、また社会的の形態をも得るのである。
   
 (注2)第二版への注。古代ゲルマン人においては、一モルゲンの土地の大いさは、一日の労働にしたがって はかられた。したがって、一モルゲンは(日仕事)(男仕事)(男力)(男草地)(男刈地)等々と呼ばれた。ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・マウレル『マルク・農園・村落および都市諸制度ならびに公権の歴史序説』ミュンヘン、1854年



  〔 謎にみちた性質はこの形態から 〕

3. それで、労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎にみちた性質はどこから発生するのか?明らかにこの形態自身からである。人間労働の等一性は、労働生産物の同一なる価値対象性の物的形態をとる。人間労働力支出のその継続時間によって示される大小は、労働生産物の価値の大いさの形態をとり、最後に生産者たちの労働のかの社会的諸規定が確認される、彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態をとるのである。



  〔 商品形態の神秘 ・・・物神的性格・・・ 〕

4. それゆえに、商品形態の神秘に充ちたものは、単純に次のことの中にあるのである。すなわち、商品形態は、人間にたいして彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として、反映するということ、したがってまた、総労働にたいする生産者の社会的関係をも、彼らのほかに存する対象の社会的関係として、反映するということである。このquid proquo(とりちがえ)によって、労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または社会的な物となるのである。このようにして、ある物の視神経にたいする光印象は、視神経自身の主観的刺激としてでなく、眼の外にある物の対象的形態として示される。しかしながら、視るということにおいては、実際に光がある物から、すなわち外的対象から、他のある物、すなわち眼にたいして投ぜられる。それは物理的な物の間における物理的な関係である。これに反して、商品形態とそれが表われる労働諸生産物の価値関係とは、それらの物理的性質やこれから発出する物的関係をもっては、絶対にどうすることも出来ないものである。このばあい、人間にたいして物の関係の幻影的形態をとるのは、人間自身の特定の社会関係であるにすぎない。したがって、類似性を見出すためには、われわれは宗教的世界の夢幻境にのがれなければならない。ここでは人間の頭脳の諸生産物が、それ自身の生命を与えられて、相互の間でまた人間との間で相関係する独立の姿に見えるのである。商品世界においても、人間の手の生産物がそのとおりに見えるのである。私は、これを物神礼拝 Fetischismus と名づける。それは、労働生産物が商品として生産されるようになるとただちに、労働生産物に付着するものであって、したがって、商品生産から分離しえないものである。

 〔 商品世界の物神的性格・・・労働の独特な社会的性格・・・〕

5. 商品世界のこの物神的性格は、先に述べた分析がすでに示したように〔*注1〕、商品を生産する労働の独特な社会的性格から生ずるのである。


   〔 私的労働の複合が社会的総労働の形成 〕

6. 使用対象が一般に商品となるのは、もっぱらそれが相互に相独立して営まれる私的労働の生産物であるからである。これらの私的労働の複合が社会的総労働をなす。生産者たちは、彼らの労働生産物の交換によって、はじめて社会的接触にはいるのであるから、彼らの私的労働の特殊的に社会的なる性格も、この交換の内部においてはじめて現われる。いい換えると、私的労働は、事実上、交換のために労働生産物が、そしてこれを通じて生産者たちが置かれる諸関係によって、はじめて社会的総労働の構成分子たることを実証する。したがって、生産者たちにとっては、彼らの私的労働の社会的連結は、あるがままのものとして現われる。
すなわち、彼らの労働自身における人々の直接に社会的な諸関係としてでなく、むしろ人々の物的な諸関係として、また物の社会的な諸関係として現われるのである。



  〔 私的労働の二重の社会的性格 〕

7. 労働生産物はその交換の内部においてはじめて、その感覚的にちがった使用対象性から分離された、社会的に等一なる価値対称性を得るのである。労働生産物の有用物と価値物とへのこのような分裂は、交換がすでに充分な広さと重要さを得、それによって有用物が交換のために生産され、したがって事物の価値性格が、すでにその生産そのもののうちで考察されるようになるまでは、まだ実際に存在を目だたせるようにはならない。この瞬間から、生産者たちの私的労働は、事実上、二重の社会的性格を得るのである。これらの私的労働は、一方においては特定の有用労働として一定の社会的欲望を充足させ、そしてこのようにして総労働の、すなわち、社会的分業の自然発生的体制の構成分子であることを証明しなければならぬ。これらの私的労働は、他方において、生産者たち自身の多様な欲望を、すべてのそれぞれ特別に有用な私的労働がすべての他の有用な私的労働種と交換されうるかぎりにおいて、したがって、これと等一なるものとなるかぎりにおいてのみ、充足するのである。(全く)ちがった労働が等しくなるということは、それが現実に不等一であることから抽象されるばあいにのみ、それらの労働が、人間労働力の支出として、抽象的に人間的な労働としてもっている共通な性格に約元されることによってのみ、ありうるのである。
私的生産者の脳髄は、彼らの私的労働のこの二重な社会的性格を、ただ実際の交易の上で、生産物交換の中で現われる形態で、反映するのである。すなわち――したがって、彼らの私的労働の社会的に有用なる性格を、労働生産物が有用でなければならず、しかも他人にたいしてそうでなければならぬという形態で――異種の労働の等一性の社会的性格を、これらの物質的にちがった物、すなわち労働生産物の共通な価値性格の形態で、反映するのである。



  〔 労働生産物の価値発見は人類史上の画期をなす 〕

8. したがって、人間がその労働生産物を相互に価値として関係させるのは、これらの事物が、彼らにとって同種的な人間的労働の、単に物的な外被(がいひ)であると考えられるからではない。逆である、彼らは、その各種の生産物を、相互に交換において価値として等しいと置くことによって、そのちがった労働を、相互に人間労働として等しいと置くのである。彼らはこのことを知らない。しかし、彼らはこれをなすのである。したがって、価値のひたいの上には、それが何であるかということは書かれていない。〔→新約聖書「ヨハネの黙示録」〕 価値は、むしろあらゆる労働生産物を、社会的の象形文字(しょうけいもじ)に転化するのである。後になって、人間は、彼ら自身の社会的生産物の秘密を探(さぐ)るために、この象形文字の意味を解こうと試みる。なぜかというに、使用対象の価値としての規定は、言語と同様に彼らの社会的な生産物であるからである。労働生産物が、価値である限り、その生産に支出された人間労働の、単に物的な表現であるという、後の科学的発見は、人類の発展史上に時期を画するものである。しかし、決して労働の社会的性格の対象的外観を逐(お)い払うものではない。この特別なる生産形態、すなわち、商品生産にたいしてのみ行なわれているもの、すなわち、相互に独立せる私的労働の特殊的に社会的な性格が、人間労働としてのその等一性にあり、そして労働生産物の価値性格の形態をとるということは、かの発見以前においても以後においても、商品生産の諸関係の中に囚(とら)われているものにとっては、あたかも空気をその成素に科学的に分解するということが、物理学的物体形態としての空気形態を存続せしめるのを妨げぬと同じように、終局的なものに見えるのである。



  〔 物の運動の形態をとりその運動に規制される 〕

9. 生産物交換者がまず初めに実際上関心をよせるものは、自分の生産物にたいしてどれだけ他人の生産物を得るか、したがって、生産物はいかなる割合で交換されるかという問題である。このような割合は、ある程度習慣的な固定性をもつまでに成熟すると同時に、労働生産物の性質から生ずるように見える。したがって、例えば1トンの鉄と2オンスの金とは、1ポンドの金と1ポンドの鉄が、その物理学的化学的属性を異にするにかかわらず同じ重さであるように、同じ価値であることになる。事実、労働生産物の価値性格は、価値の大いさとしてのその働きによってはじめて固定する。この価値の大いさは、つねに交換者の意志、予見、行為から独立して変化する。彼ら自身の社会的運動は、彼らにとっては、物の運動の形態をとり、交換者はこの運動を規制するのではなくして、その運動に規制される。相互に独立して営まれるが、社会的分業の自然発生的構成分子として、あらゆる面において相互に依存している私的労働が、継続的にその社会的に一定の割合をなしている量に整約されるのは、私的労働の生産物の偶然的で、つねに動揺せる交換諸関係において、その生産に社会的に必要なる労働時間が、規制的な自然法則として強力的に貫かれること、あたかも家が人の頭上に崩れかかるばあいにおける重力の法則のようなものであるからであるが(注3)、このことを、経験そのものの中から科学的洞察が成長してきて看破するに至るには、その前に完全に発達した商品生産が必要とされるのである。
労働時間によって価値の大いさが規定されるということは、したがって、相対的商品価値の現象的運動のもとにかくされた秘密である。その発見は、労働生産物の価値の大いさが、単なる偶然的な規定であるという外観をのぞくが、しかし、少しもその事物的な形態をなくするものではない。

    (注3)「周期的な革命によってのみ貫徹されうる法則を何と考えるべきであろうか?それはまさしく一つの自然法則であって、関与者たちの無意識にもとづいているものなのである」 (フリードリヒ・エンゲルス 『国民経済学批判大綱』、『独仏年誌(アーノルト・ルーゲおよびカール・マルクス編、パリ、1844年)

  〔 価値性格の確定は、貨幣表現から 〕

10. 人間生活の諸形態に関する思索、したがってまたその科学的分析は、一般に現実の発展とは対立した途を進む。このような思索は、(後から)始まり、したがって、発展過程の完成した成果とともに始まる。労働生産物に商品の刻印を捺(お)し、したがって、商品流通の前提となっている形態が、すでに社会生活の自然形態の固定性をもつようになってはじめて、人間は、彼らがむしろすでに不変であると考えている、このような諸形態の歴史的性質についてでなく、それらの形態の内包しているものについて、考察をめぐらすようになる。このようにして、価値の大いさの規定に導いたのは、商品価格の分析にほかならず、その価値性格の確定に導いたのは、商品が共同してなす貨幣表現にほかならなかったのである。ところが、私的労働の社会的性格を、したがって、私的労働者の社会的諸関係を明白にするかわりに、実際上蔽いかぶせてしまうのも、まさに商品世界のこの完成した形態――貨幣形態――である。私が、上衣、深靴等々は、抽象的人間的労働の一般的体現としての亜麻布に関係しているというとすれば、この表現の倒錯(とうさく)は、目を射るように明らかである。しかし、もし上衣や深靴等々の生産者たちが、これらの商品を一般的等価としての亜麻布に――あるいは事実上すこしもことなるところはないのだが、金や銀に―関係せしめるとすれば、彼らにとっては、その私的労働の社会的総労働にたいする関係は、正確にこの倒錯した形態で現われる。


   〔 商品世界の一切の神秘、一切の魔術と妖怪は、他の諸生産形態に移って見ると消えてなくなる 〕

11. このような形態が、まさにブルジョア的経済学の諸範疇(しょはんちゅう)をなしているのである。それは、この歴史的に規定された社会的生産様式の、すなわち、商品生産の生産諸関係にたいして、社会的に妥当した、したがって客観的である思惟形態なのである。それゆえに、商品生産にもとづく労働生産物を、はっきり見えないようしている商品世界の一切の神秘、一切の魔術と妖怪は、われわれが身をさけて、他の諸生産形態に移って見ると消えてなくなる。


12 経済学はロビンソン物語を愛好するから、まず、ロビンソンをかれの島に出現させよう。本来彼は控え目な男ではあったが、それでもとにかく彼は、各種の欲望を充足せしめなければならない。したがってまた、各種の有用労働をなさなければならない。道具を作り、家具を製造し、ラクバを馴らし、漁りし、猟をしなければならない。祈禱その他のことはここでは語らない。というのは、われわれのロビンソンは、このことに楽しみを見出し、このような活動を休息と考えているからである。彼の生産的な仕事がいろいろとあるにもかかわらず、彼は、それらの仕事が同じロビンソンのちがった活動形態にすぎないことを知っている。したがって、人間労働のちがった仕方であるにすぎないことを知っている。必要そのものが、彼の時間を、正確にそのちがった仕事の間に分配しなければならないようにする。
彼の総活動の中で、どの仕事が割合をより多く、どのそれがより少なく占めるかということは、目的とした有用効果の達成のために克服しなければならぬ困難の大小にかかっている。経験が彼にこのことを教える。そして、時計、台帳、インクおよびペンを難破船から救い出したわがロビンソンは、よきイギリス人として、まもなく自分自身について記帳しはじめる。彼の財産目録は、彼がもっている使用対象、彼の生産に必要な各種の作業、最後に、これら各種の生産物の一定量が、平均して彼に支出させる労働時間の明細表を含んでいる。ロビンソンと彼の自分で作り出した富をなしている物との間の一切の関係は、ここではきわめて単純であり、明白であって、M・ヴィルト氏すら、特別に精神を緊張させることなくとも、これを理解できるようである。そしてそれにもかかわらず、この中には価値の一切の本質的な規定が含まれている。

 (注29) 第2版への注。リカードにも彼のロビンソン物語がないわけではない。「彼は原始漁夫と原始猟師を、ただちに商品所有者にして魚と野獣とを交換させる、これらの交換価値に対象化されている労働時間に比例して。このおり、彼は、原始漁夫と原始猟師とが、彼らの労働要具の計算のために、1817年ロンドンの取引所で行なわれるような減価計算表を利用するという、時代錯誤に陥っている。″オーウェン氏の平行四辺形″は、彼がブルジョア的社会形態以外に識っている唯一の社会形態であるように見える」(カール・マルクス『批判』38.39ページ〔岩波文庫版、69.70ページ。新潮社版『選集』第7巻、86.87ページ〕)。

14 いまわれわれは、ロビンソンの明るい島から陰惨なヨーロッパの中世に移ろう。ここでは独立人のかわりに、すべての人が非独立的であるのを見出す―農奴と領主、家臣と封主、俗人と僧侶という風に。人身的な隷属ということが、物質的生産の社会的諸関係にも、その上に築かれている生活部面にも、特徴となっている。しかしながら、与えられた社会的基礎をなしているのは、まさしく人身的隷属関係であるのであるから、労働と生産物とは、その実在性とちがった幻想的な態容ihrer Realität verschiedne phantastische Gestaltをとる必要はない。それらのものは、奉仕として、また現物貢納として、社会の営為の中にはいる。労働の自然形態Die Naturalform der Arbeitと、そして商品生産の基礎におけるようにその一般性Allgemeinheitではなく、その特殊性Besonderheitとが、ここでは労働の直接に社会的な形態unmittelbar gesellschaftliche Formである。径役労働は、商品を生産する労働と同じように時間によってはかられる。だが、各農奴は、彼がその主人の仕事のために支出するのが、彼の個人的労働力の一定量であるということを知っている。

僧侶にたいして納むべき10分の1税は、僧侶の祝福よりずっとはっきりしている。したがって、人々がここで相対して着ている仮装die Charaktermaskenをどう観るにしても、彼らの労働における人々の社会的関係は、いずれにしても彼ら自身の人的の関係persönlichen Verhältnisseとして現われ〔gegenübertreten:向かい合って歩み出る〕、 物の、すなわち、労働生産物の社会的関係に扮装してはいないsind nicht verkleidet in gesellschaftliche Verhältnisse der Sachen, der Arbeitsprodukte.。

15 共同的な、すなわち直接に社会的となっている労働を考察するために、われわれはその自然発生的な形態、すなわち、すべての文化民族の歴史の入口で、われわれが出会うような形態に帰る必要はない。もっと身近な例をあげると、自家の欲望のために穀物や家畜や撚糸や亜麻布や衣服等を生産している、農家の田園的家父長的な産業がある。これら各種の物は、家族にとって、その家族労働のそれぞれの生産物である。しかしそれがお互いに商品として相対するのではない。これらの生産物を作り出す各種の労働、すなわち、農耕、牧畜、紡績、機織、裁縫等々は、それぞれの自然形態のままで社会的な機能gesellschaftliche Funktionenをなしている。というのは、それらは、商品生産と同じように、それ自身の自然発生的な分業naturwüchsige Teilung der Arbeitをもって行なわれている家族の機能であるからである。性別や年齢別、ならびに季節の変化とともに変化する労働の自然諸条件が、家族間における労働の分配と個々の家族員の労働時間とを規制する。しかしながら、継続時間によって測定される個人的労働力の支出は、ここでは、初めから労働自身の社会的規定として現われる。というのは個人的労働力は、本来家族の共同の労働力の器官としてのみ作用するからである。

 (注30) 第2版への注。
「自然発生的な共有財産制の形態が、特殊的にスラブ人的の形態であるとか、さらには、ロシア以外にはない形態であるなどというような主張は、最近拡がっている笑うべき偏見である。それは、ローマ人、ゲルマン人、ケルト人に立証されうる原始形態であるが、これについては、いろいろな見本でいっぱいの見本帳が、インド人の間に、部分的には崩壊しているが、なお依然として存している。アジア的な、とくにインドの共有財産形態のより正確な研究は、各種の自然発生的共有財産制の形態から、いかにその崩壊の種々の形態が出てくるかということを証明するであろう。こうして例えば、ローマ人やゲルマン人の私有財産制の各種の原型を、インド共有財産制の種々なる形態から導き出すことができるのである」(カール・マルクス『批判』10ページ〔ディーツ版『全集』第13巻、21ページ。邦訳、岩波文庫版、31ページ。新潮社版『選集』第7巻、63ページ〕)。


  〔 社会の生産有機体

16 最後にわれわれは、目先きを変えて、自由な人間の一つの協力体を考えてみよう。人々は、共同の生産手段をもって労働し、彼らの多くの個人的労働力を、意識して一つの社会的労働力として支出する。ロビンソンの労働の一切の規定がここで繰り返される。ただ、個人的であるかわりに社会的であることがちがっている。ロビンソンのすべての生産物は、もっぱら彼の個人的な生産物であった。したがってまた、直接に彼のための使用対象であった。この協力体の総生産物は一つの社会的生産物である。この生産物の一部は、再び生産手段として用いられてそれは依然として社会的である。しかしながら、他の部分は生活手段として、協力体の成員によって費消される。したがって、この部分は彼らの間に分配されなければならぬ。この分配の様式は、社会的生産有機体 〔gesellschaftlichen Produktionsorganismus :社会の生産有機体 〕自身の特別な様式とともに、またこれに相応する生産者の歴史的発展の高さとともに、変化するであろう。ただ商品生産と比較するために、各生産者の生活手段にたいする分け前は、その労働時間によって規定されると前提する。したがって、労働時間は二重の役割を演ずるであろう。労働時間の社会的に計画的な分配は、各種の労働機能が各種の欲望にたいして正しい比例をとるように規制する。他方において、労働時間は、同時に生産者の共同労働にたいする、したがってまた共同生産物の個人的に費消さるべき部分にたいする、個人的参加分の尺度として役立つ。人々のその労働とその労働生産物とにたいする社会的な連結は、このばあい生産においても分配においても簡単明瞭であることに変わりない。

17 商品生産者の一般的に社会的な生産関係は、彼らの生産物に商品として、したがって価値として相対し、また、この物的な形態の中に、彼らの私的労働が相互に等一の人間労働として相連結するということにあるのであるが、このような商品生産者の社会にとっては、キリスト教が、その抽象的人間の礼拝をもって、とくにそのブルジョア的発展たるプロテスタンティズム、理神論等において、もっとも適応した宗教形態となっている。古代アジア的な、古代的な、等々の生産様式においては、生産物の商品への転化、したがってまた人間の商品生産者としての存在は、一つの副次的な役割を演ずる。だが、この役割は、その共同体が没落の段階にすすむほど、重要となってくる。本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、あるいはポーランド社会の小穴の中のユダヤ人のように、古代世界の合間合間にのみ、存在している。かの古代の社会的生産有機体は、ブルジョア的なそれにくらべると、特別にずっと単純であり明瞭である。しかし、それは個々の人間が、他の人間との自然的な種族結合の臍の緒をまだ切り取っていない、その未成熟にもとづくか、あるいは直接的な支配関係または隷属関係にもとづいているのである。これらの諸関係は、労働の生産諸力の発展段階が低いということ、これに応じて、人間の物質的な生活をつくり出す過程の内部における諸関係、したがって相互間と自然とにたいする諸関係が、狭隘であるということによって、条件づけられている。このような実際の狭隘さは、思想的には古い自然宗教や民族宗教に反映されている。現実世界の宗教的反映は、一般に、実際的な日常勤労生活の諸関係が、人間にたいして、相互間のおよび自然との間の合理的な関係を毎日明瞭に示すようになってはじめて、消滅しうるものである。社会的生活過程、すなわち、物質的生産過程の態容は、それが自由に社会をなしている人間の生産物として、彼らの意識的な計画的な規制のもとに立つようになってはじめて、その神秘的なおおいをぬぎすてるのである。だが、このためには、社会の物質的基礎が、いいかえると一連の物質的存立条件が、必要とされる。これらの諸条件自体は、また永い苦悩にみちた発展史の自然発生的な産物である。


18 さて経済学は不完全ではあるが (注31) 価値と価値の大いさを分析したし、またこれらの形態にかくされている内容を発見したのではあるが、それはまだ一度も、なぜにこの内容が、かの形態をとり、したがって、なぜに労働が価値において、また労働の継続時間による労働の秤量が、労働生産物の価値の大いさの中に、示されるのか?(注32)という疑問をすら提起しなかった。生産過程が人々を支配し、人間はまだ生産過程を支配していない社会形成体に属するということが、その額に書き記されている諸法式は、人問のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものと同じように、自明の自然必然性と考えられている。したがって、社会的生産有機体の先ブルジョア的形態は、あたかも先キリスト教的宗教が、教父たちによってなされたと同じ取扱いを、経済学によって受けている(注33)。

 (注31) リカードの価値の大いさの分析
 ―そしてこれは最良のものである―に不十分なところがあることについては、本書の第3および第4巻で述べる。しかしながら、価値そのものについていえば、古典派経済学はいずこにおいても、明白にそして明瞭な意識をもって、価値に示されている労働を、その生産物の使用価値に示されている同じ労働から、区別することをしていない。古典派経済学は、もちろん事実上区別はしている。というのは、それは労働を一方では量的に、他方では質的に考察しているからである。しかしながら、古典派経済学には労働の単に量的な相違が、その質的な同一性または等一性を前提しており、したがって、その抽象的に人間的な労働への整約を前提とするということは、思いもよらぬのである。リカードは、例えば、デステュット・ド・トラシがこう述べるとき、これと同見解であると宣言している、すなわち「われわれの肉体的および精神的の能力のみが、われわれの本源的な富であることは確かであるから、これら能力の使用、すなわち一定種の労働は、われわれの本源的な財宝である。われわれが富と名づけるかの一切の物を作るのが、つねにこの使用なのである。……その上に、労働が作り出したかの一切の物は、労働を表わしているにすぎないことも確かである。そしてもしこれらの物が、一つの価値をもち、あるいは二つの相ことなる価値をすらもっているとすれば、これらの物は、これをただ自分がつくられてくる労働のそれ(価値)から得るほかにありえない」(リカード『経済学および課税の原理』第三版、ロンドン、1821年、〔邦訳、岩波文庫版、下巻、19ページ〕。〔デステュット・ドゥ・トラシ『観念学概要』第四・第五部、パリ、1826年、35・36ページ、参照〕)。われわれはリカードが、デステュットにたいして、彼自身のより深い意味を押しつけていることだけを示唆しておく。デステュットは、事実、一方では富をなす一切の物が「これを作り出した労働を代表する」と言っているが、他方では、それらの物が、その「二つのちがった価値」(使用価値と交換価値)を「労働の価値」から得ると言っている。彼は、これをもって、俗流経済学の浅薄さに堕ちている。俗流経済学は、一商品(この場合労働)の価値を前提して、これによって後で他の商品の価値を規定しようとするのである。リカードは彼をこう読んでいる、すなわち、使用価値においても交換価値においても、労働(労働の価値ではない)が示されていると。しかし彼自身は、同じく二重に表示される労働の二重性を区別していない。したがって、彼は、「価値と富、その属性の相違」という章全体にわたって、苦心してT・J・B・セイ程度の男の通俗性と闘わなければならない。したがって、最後にまた彼は、デステュットが、彼自身と価値源泉としての労働について一致するが、また他方で価値概念についてセイと調和することを、大変に驚いている。

 (注32) 古典派経済学に、商品の、とくに商品価値の分析から、まさに価値を交換価値たらしめる形態を見つけ出すことが達成されなかったということは、この学派の根本欠陥の一つである。A・スミスやリカードのような、この学派の最良の代表者においてさえ、価値形態は、何か全くどうでもいいものとして、あるいは商品自身の性質に縁遠いものとして取り扱われている。その理由は、価値の大いさの分析が、その注意を吸いつくしているということにだけあるのではない。それはもっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式のもっとも抽象的な、だがまたもっとも一般的な形態であって、この生産様式は、これによって社会的生産の特別なる種として特徴づけられ、したがって同時に歴史的に特徴づけられているのである。したがって、もし人あって、これを社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的に価値形態の、したがってまた商品形態の、さらに発展して、貨幣形態、資本形態等の特殊性をも看過することになる。それゆえに、労働時間による価値の大いさの秤定について全く一致する経済学者に、貨幣、すなわち一般的等価の完成体についての、もっとも混乱した、 そしてもっとも矛盾した観念を見ることになるのである。このことは、はっきりと、例えば銀行制度の取扱いにあらわれる。ここでは、貨幣の陳腐な定義だけでは、もはや間に合わなくたる。反対に、価値を社会的形態とだけ考え、あるいはむしろその実体のない幻影としか見ないような新装の重商主義(ガニール等々)が、ここに発生した。―これを最後にしておくが、私が古典派経済学と考えるものは、W・ペティ以来の一切の経済学であって、それは俗流経済学と反対に、ブルジョア的生産諸関係の内的関連を探究するものである。俗流経済学は、ただ外見的な関連のなかをうろつき廻るだけで、いわばもっとも粗けずりの現象を、尤もらしくわかったような気がするように、またブルジョアの自家用に、科学的な経済学によってとっくに与えられている材料を、絶えず繰りかえして反芻し、しかもその上に、ブルジョア的な生産代理者が、彼ら自身の最良の世界についてもっている平凡でうぬぼれた観念を、体系化し、小理窟づけ、しかもこれを永遠の真理として言言する、ということに限られているのである。

 (注33) 「経済学者たちは一種独特のやり方をするものだ。彼らにとっては、制度に二種類があるだけである。人工的なそれと、自然的なそれである。封建体制の制度は人工的のそれであり、ブルジョアジーの制度は自然的である。彼らはこの点では神学者に似ている。彼らも同じように二種の宗教をたてる。彼らの宗教でない宗政は、すべて人間の作ったものであるが、彼ら自身の宗教は神の啓示である。―かくて、歴史はそのようにつづいたのであるが、もはや歴史は終わった」(カール・マルクス 『哲学の貧困。プルードン氏の″貧困の哲学″に答えて』 1847年、112ページ〔ディーツ版『全集』第4巻、139ページ。邦訳、山村喬訳『哲学の貧困』岩波文庫版、132-133ページ。新潮社版『選集』第3巻、93-94ページ〕)。古代ギリシア人やローマ人が掠奪だけで生きていたと思っているバスティア氏は、まことにおかしい考え方だ。しかし、もし数世紀を通じて掠奪で生きられるとすれば、絶えず何か掠奪さるべきものが、ここになければならない。いいかえれば、掠奪の対象が継続的に再生産されなければならない。したがって、ギリシア人もローマ人も、一つの生産過程をもっていたようである。したがって、ブルジョア経済が今日の世界の物質的基礎をなしているのと全く同じように、彼らの世界の物質的基礎をなしていた経済をもっていたようである。それともバスティアは、奴隷労働にもとづく生産様式が、一つの掠奪体制によるものであるとでも考えているのだろうか? こうなると、彼の立っている土台があぶないことになる。アリストテレスほどの巨人思想家が、奴隷労働の評価において過っているとすれば、バスティアのようなこびと経済学者が、どうして賃金労働の評価において正しいことをいえようか?―私はこの機会を摑んで、私の著書『経済孚批判』(1859年)の刊行に際して、一ドイツ語アメリカ新聞によってなされた抗議を駁しておきたい。この新聞は、こういうのである、私の見解、すなわち、一定の生産様式とこれにつねに相応する生産諸関係、簡単にいえば「社会の経済的構造が、法律的政治的上部構造のよって立ち、かつこれにたいして一定の社会的意識形態が相応する現実的基礎である」ということ、「物質的生活の生産様式が社会的政治的および精神的生活過程一般を条件づける」〔ディーツ版『全集』第13巻、8-9ページ。邦訳、岩波文庫版、13ページ。新潮社
版『選集』第7巻、54ページ〕ということ、―すべてこれらのことは、物質的利益が支配している今日の社会にとっては正しいが、カ
トリック教が支配していた中世にたいしても、政治が支配していたアテネやローマにたいしても、当たらないというのである。まず第一に、おかしなことは、中世と古代世界にかんする、よく人の言うこれらのきまり文句を、誰か知っていない者がいると、前提したがる男がいることである。これだけのことは明らかである。すなわち、中世はカトリック教によって生きていられたわけでなく、古代世界は政治によって生きえたのでもない。彼らがその生活を維持していた仕方が、逆に、なぜ古代に政治が主役をつとめ、なぜ中世にカトリック教が主役であったかを説明するのである。なお、土地所有の歴史が、その秘密を語っているということを知るためには、例えばローマ共和国の歴史にそれほど通暁している必要はない。他方において、すでにドン・キホーテは、遍歴騎士が、社会のどんな経済形態とでも同じように調和するものだ、と妄信していた誤りにたいして、充分につぐないをうけた。


19 一部の経済学者が、どんなに商品世界に付着している物神礼拝、または社会的な労働規定の対象的外観gegenständlichen Scheinによって、謬(あやま)らされたかということを証明するものは、ことに、交換価値の形成における自然の役割についてなされた、退屈で愚劣な争論である。交換価値は、ある物の上に投ぜられた労働を表現する一定の社会的な仕方であるのだから、それはちょうど為替相場と同じように、少しの自然素材Naturstoffも含みえない。

20 商品形態は、ブルジョア的生産のもっとも一般的でもっとも未発達の形態であり、そのために商品形態は今日と同じように支配的で、したがって特徴的な仕方ではないが、すでに早く出現しているのであるから、その物神的性格Fetischcharakterは、比較的にはもっと容易に見破られていいように思われる。より具体的な形態を見ると、この単純さの外観dieser Schein der Einfachheit.すら消える。重金主義(モネタル・ジュステム)の幻想はどこから来たか?重金主義は、金と銀とにたいして、それらのものが貨幣として一つの社会的生産関係を表わしているが、特別の社会的属性をもった自然物の形態で、これをなしているということを見なかった。そして上品に重金主義を見下している近代経済学も、資本を取扱うようになると、物神礼拝Fetischismusにつかれていることが明白にならないか?地代が土地から生じて、社会から生ずるものでないという重農主義的な幻想は、消滅して以来どれだけの歳月を経たか?

21 だが、あまり先まわりしないために、ここではなお商品形態自身について、一例をあげるだけで沢山だろう。もし商品が話すことが出来たら、こういうだろう、われらの使用価値が人間の関心事なのであろう。使用価値は物としてわれらに属するものではない。が、われらに物として与えられているものは、われらの価値である。商品物としてのわれら自身の交易が、このことを証明している。われらはお互いに交換価値としでのみ、関係しているのである。そこでいかに経済学者が商品の心を読みとって語るかを聴け。曰く「価値(交換価値)は物の属性であり、富(使用価値)は人の属性である。この意味で価値は必然的に交換を含んでいるが、富はそうでない(注34)」。「富(使用価値)は人間の特性であるが、価値は商品の特性である。一人の人間または一つの社会は富んでいる。一個の真珠または一個のダイヤモンドには価値がある。……一個の真珠または一個のダイヤモンドは、真珠またはダイヤモンドとして価値をもっている(注35)」。

 (注34) „Value is a property of things, riches of men. Value,in this sense, necessarily implies exchange, riches do not.“ (『経済学におけるある種の言葉の争いについての考察、とくに価値ならびに需要および供給に関連して』ロンドン、1821年、16ページ)

 (注35) „Riches are the attribute of man, value is the attribute of commodities. A man or a community is rich, a pearl or a diamond is valuable. ・・・・・ A pearl or a diamond is valuable as a pearl or diamond.“ (S・ベイリー『価値の性質、尺度および原因にかんする批判的一論考』165ページ〔邦訳、鈴木鴻一郎訳『リカード価値論の批判』151ページ〕)

22 これまでまだ、一人の化学者として、真珠またはダイヤモンドの中に、交換価値を発見したものはない。しかし、特別の深い批判力をもっているこの化学的実体の経済学的発見者たちは、物財の使用価値が、その物的属性から独立しているのに反して、その価値は、物としての属性に属しているということを発見している。彼らがここで立証することは、物の使用価値は人間にとって交換なしで実現され、したがって、物と人間との間の直接的関係において実現されるのに、逆にそれらの価値は交換においてのみ、すなわち、社会的過程においてのみ実現されるという特別の事態である。誰かここであの愛すべきドッグベリを思い出さないであろうか。彼は夜警人のシーコールにこう教えている、「立派な容貌の男であるのは境遇の賜物だが、読み書きが出来るということは生まれつきだ(注36)」〔シェイクスピア『むだ騒ぎ』。……訳者〕。

 (注36) 『考察』の著者およびS・ベイリーは、リカードを非難して、彼は交換価値を、相対的にすぎないものから、何か絶対的なものに転化したと言っている。逆だ。彼は、これらの物、例えばダイヤモンドと真珠とが交換価値として有する仮装相対性を、この外観の背後にかくれている真の関係に、すなわち、人間労働の単なる表現としてのそれらの物の相対性に、約元したのである。リカード派の人々がベイリーにたいして粗雑に答えて、的確に答えなかったとすれば、これはただ彼らが、リカード自身に、価値と価値形態または交換価値との間の内的関連について、少しも解明を見出さなかったからであるにすぎない。

・・・以上、第4節 終わり・・・

 第2章 交換過程


  第2章 交換過程
 
1. 商品は、自分自身で市場に行くことができず、また自分自身で交換されることもできない。したがって、われわれはその番人を、すなわち、商品所有者をさがさなければならない。商品は物であって、したがって人間にたいして無抵抗である。もし商品が従順でないようなばあいには、人間は暴力を用いることができる。言葉を換えていえば、これを持って歩くことができる。これらの物を商品として相互に関係せしめるために、商品の番人は、お互いに人として相対しなければならぬ。彼らの意志がそれらの物の中にひそんでいる。したがって、ある一人は、他人の同意をもってのみ、したがって各人は、ただ両者に共通な意志行為によってのみ、自身の商品を譲渡して他人の商品を取得する。したがって、彼らは交互に私有財産所有者として、認め合わなければならぬ。契約という形態をとるこの法関係は、適法的なものとして進行するかどうかは別として、一つの意志関係である。この関係に経済的関係が反映されている。この法関係または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている。人々はここではただ相互に商品の代表者として、したがってまた商品所有者として存在している。叙述の進行とともに、われわれは、一般に、人々の経済的仮装は経済的諸関係の人格化にすぎず、この経済的諸関係の担い手として、彼らが相対しているということを見るであろう。


 (37)―略―
 (38)―略―

2. 商品所有者をとくに商品から区別するものは、商品にとっては、すべての他の商品体が、ただ自分の価値の現象形態と考えられるにすぎないという事情である。だから、生まれつきの平等主義者で皮肉屋である商品は、つねに、他のあらゆる商品と、自分はマリトルネス〔セルヴァンテスの『ドン・キホーテ』に出てくる醜い女中。・・・訳者〕よりもっと醜い様子をしていても、心だけでなく、肉体も換える用意をしている。商品に欠けているこの商品体の具体的なるものにたいする感覚を、商品所有者は、彼自身の五感ないし六感で補うのである。彼の商品は、彼にとってはなんら直接の使用価値ではない。そうでなければ、彼はこれを市場に心ってば行かない。商品は他人にたいする使用価値をもっているのである。彼にとっては、商品は直接には、交換価値の担い手であり、したがって交換手段であるという使用価値をもっているだけである(39)。それゆえに、彼はこれを、その使用価値が彼に満足を与える商品にたいして譲渡しようとする。すべての商品は、その所有者にたいしては非使用価値であり、その非所有者にたいしては使用価値である。商品は、こうして全般的に持ち手を換えなければならない。しかし、この持ち手変更がその交換をなすのである。そしてこの交換が商品を価値として相互に関係させる。さらにこれを価値として実現する。したがって、商品は、それが使用価値として実現されうる前に、価値として実現されなければならない。


(39) 「なぜかというに、すべての財貨の使用は二重であるからである。―その一つは物自体に固有であり、他はそうではない。サンダルのように、はくことに用いられると同時に交換されうるものである。両者ともにサンダルの使用価値である。なぜかというに、サンダルを、自分でもっていないものと、例えば、食物と交換する人でも、サンダルはサンダルとして利用するのであるからである。しかしながら、その自然の使用方法で利用するのではない。なぜかというに、サンダルは、交換のだめにあるのではないからである」(アリストテレス『デ・レプブリカ』第1巻、第9章)。
〔注:この注(39)は、『経済学批判』では第1章最初の第1回の注となっている。『アリストテレス全集』第15巻岩波書店p.23〕

3. 他方において、商品は、それが価値として実現されうる前に、使用価値であることを立証しなければならない。なぜかというに、商品に支出された人間労働は、それが他人にたいして有用な形態で支出されるかぎりでのみ、かかる人間労働の性質を受け取るからである。その労働が他人に有用であるか、したがって、その生産物が他人の欲望を充足させるかどうかは、だが、諸商品が交換されてはじめて証明しうることである。

4. あらゆる商品所有者は、その商品を、ただ彼の欲望を充足させる使用価値をもつ他の商品にたいして譲渡するだけである。そのかぎりにおいて、交換は彼にとって個人的な過程であるにすぎない。他方において、彼はその商品を価値として、したがって、同一価値をもっている任意のあらゆる他の商品に実現しようとする。ここでは彼自身の商品が他の商品の所有者にとって、使用価値をもっているかどうかは問題でない。そのかぎりにおいて、交換は彼にとって、一般的に社会的な過程である。だが、この同じ過程が、同時にすべての商品所有者にたいして、もっぱら個人的であって、同時にまたもつぱら一般的に社会的であるというようなことはありえない。

5. もっと詳細に見るならば、すべての商品所有者にたいして、あらゆる他人の商品は、彼の商品の特別な等価besondres Äquivalentとなっている。したがって彼の商品は、また他のすべての商品の一般的な等価allgemeines Äquivalentとなる。しかしながら、すべての商品所有者が、同一のことをするのであるから、いずれの商品も一般的の等価allgemeines Äquivalentではなく、したがって、諸商品は、それが価値として等置され、また価値の大いさとして比較さるべき、なんらの一般的相対的価値形態allgemeine relative Wertformをもっていない。したがって、諸商品は一般に商品として対立するのではなくして、ただ生産物または使用価値として対立するのである。

6. わが商品所有者たちは、困りはてて、ファウストのように考える。初めに行ないありき。したがって彼らは、彼らが考える前にすでに行なっていたのである。商品性質Warennaturの諸法則は、商品所有者の自然本能Naturinstinktの中に活動していた。彼らは、その商品をただ価値としてのみ、それゆえにまたただ商品としてのみ、相互に相関係せしめることができるのであるが、それをなすのに彼らは商品を、対立的に、一般的等価としてのなんらかの他の商品にたいして相関係せしめていたのである。これを商品の分析は明らかにした。しかし、ただ社会的行為のみが、一定の商品を一般的等価となすことができるのである。したがって、すべての他の商品の社会的行動は、諸商品が全般的にその価値を表示する一定の商品を除外する。このことによって、この商品の自然形態は、社会的に用いられる等価形態となる。一般的な等価であることは、社会的の過程によって、この除外された商品の特殊的に社会的な機能となる。こうして、この商品は―貨幣となる。「彼らは心を一つにして己が能力と権威とを獣にあたう。この徽章をもたぬすべての者に売買することを得ざらしめたり。その徽章は獣の名、もしくは其の名の数字なり」(ヨハネ黙示録、第17章13節および第13章17節)。

7. 貨幣結晶は交換過程の必然的な生産物である。交換過程で、種類のちがう労働生産物がおたがいに事実上等しく置かれ、したがってまた、事実上商品に転化される。交換の歴史的な拡がりと深化は、商品性質の中にねむっている使川価値と価値の対立を展開させる。この対立を、交易のために外的に表示しようという欲求は、商品価値の独立形態の成立へとかり立てる。そしてこの独立形態〔einer selbständigen Form des Warenwerts:selbständig-独立する、一本立ちする。〕が、商品を商品と貨幣とに二重化することによって、終局的に確立されるまでは、安定し憩うことを知らない。したがって、労働生産物の商品への転化が行なわれると同じ程度に、商品の貨幣への転化が行なわれる(40)。

 (40) このことによって、小ブルジョア社会主義の狡猾さを判断してもらいたい。それは商品生産を永久化し、同時に「貨幣と商品の対立」を、したがってまた貨幣自身を―なぜかというに貨幣はただこの対立があってのみ存するのであるから―なくそうとするのである。これと同じように、人は教皇をなくして、カトリック教を存続させることができるかもしれない。このことにかんするもっと詳細なことは、拙著『経済学批判』61ページ以下〔・・・邦訳、岩波文庫版、103ページ以下。新潮社版『選集』第7巻、106ページ以下〕において見られたい。

8. 直接的な生産物交換は、一方において単純なる価値表現の形態をもち、他方においてまだこれをもたない。かの形態はA商品x量=B商品y量であった。直接的な生産物交換の形態は、A使用対象x量=B使用対象y量である(41)。AおよびBという物は、交換前には、このばあいまだ商品でなくして、交換によってはじめて商品となる。ある使用対象が可能性の上から交換価値となる最初の様式は、使用対象が非使用価値として、すなわち、その所有者の直接的欲望を超える使用価値のある量として、存在するということである。物は、それ自身としては人間にたいして外的のものである。したがってまた譲渡しうるものである。この譲渡が相互的であるためには、人間はただ暗黙の間に、かの譲渡さるべき物の私的所有者として、またまさにこのことによって、相互に相独立せる個人として、たいすることが必要であるだけである。だが、このような相互に分離している関係は、一つの自然発生的な共同体の成員にとっては存しない。それがいま家父長的家族の形態をとろうと、古代インドの村やインカ国等々の形態をとろうと、同じことである。商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる。しかしながら、物はひとたび共同体の対外生活において商品となると、ただちに、また反作用をおよぼして、共同体の内部生活においても商品となる。その量的交換比率は、まず初めは全く偶然的のものである。それらの物は、その所有者が、これを相互的に譲渡し合おうという意志行為によって、交換されうるものである。だが、他人の使用対象にたいする欲望は、次第に固定化する。交換の絶えざる反復は、これを一つの規則的な社会過程とする。したがって時の経過とともに、少なくとも労働生産物の一部は、故意に交換のために生産されなければならなくなる。この瞬間から、一方においては直接的欲望のための物の有用性と、その交換のための有用性との間の分裂が固定化する。その使用価値はその交換価値から分離する。他方において、それらが交換される量的関係は、その生産自身に依存するようになる。習慣は、それらの生産物を価値の大いさとして固定化する。

 (41)まだ二つのちがった使用対象が交換されず、われわれがこれをしばしば未開人に見るように、雑多なものが、第三の一つの物にたいして等価として提供されるかぎり、直接の生産物交換自身は、やっとその玄関にある。

9. 直接的な生産物交換においては、すべての商品は、直接にその所有者にとっては交換手段、その非所有者にとっては等価Äquivalentである。もちろん、それがこの非所有者にとって使用価値であるかぎりにおいてである。したがって、交換物品は、まがたんらそれ自身の使用価値から、または交換者の個人的欲望から、独立した価値形態を得ていない。この形態の必然性は、交換過程にはいる商品数が増大し、多様化されるとともに発展する。課題は、その解決の手段と同時に発生する。商品所有者が自分の物品を、ほかのいろいろな物品と交換し、比較する交易は、各種の商品所有者の各種の商品が、その交易の内部で同一の第三の商品種と交換され、また価値として比較されるということを必ず伴う。このような第三の商品は、各種の他の商品にたいして等価Äquivalentとなることによって、狭い限界内においてではあるが、直接に、一般的なまたは社会的な等価形態allgemeine oder gesellschaftliche Äquivalentformとなる。このような一般的等価形態は、これを発生させた瞬間的な社会的接触とともに成立し、消滅する。この一般的等価形態は、あの商品へこの商品へと、常なくかわるがわる与えられる。しかし、商品交換の発達とともに、一般的等価形態は、もっぱら特別な商品種besondere Warenartenに付着する、すなわち、結晶して貨幣形態kristallisiert zur Geldformとなる。どの商品種に付着してしまうかは、まず初めは偶然である。だが、大体においては二つの事情が決定する。貨幣形態は、あるいは、外域からのもっとも重要な交換品目に付着する。それらの物品は事実上、領域内生産物の交換価値の自然発生的な現象形態である。あるいはまた、例えば家畜のように、領域内の譲渡しうべき所有物の主要素をなす使用対象に付着する。遊牧民族が、最初に貨幣形態Formを発展させる。というのは、彼らの一切の財産は動かしうる、したがって直接に譲渡しうる形態にあるからであり、また彼らの生活様式は、彼らをつねに他の共同体と接触させ、したがって、生産物交換をひき起こしていくからである。人間は、しばしば人間自身を、奴隷の姿で最初の貨幣材料にした。しかしまだかつて、土地を貨幣材料にしたことはない。このような思想は、ただ、すでに完成したブルジョア社会においてのみ、出現することができた。それは17世紀の最後の3分の1期にあらわれた。そしてその実行は、国民的規模において、やっと一世紀後にフランス人のブルジョア革命で試みられたのである。



10. 商品交換が全く地方的な束縛を突き破るのに比例して、したがって、商品価値が人間労働一般の体化物Materiaturに拡がっていくのに比例して、貨幣形態は、本来一般的等価の社会的機能に適する商品、すなわち、貴金属に移行する。


11. そこで「金と銀はほんらい貨幣ではないが、貨幣はほんらい金と銀である(42)」ということが、それらのものの自然属性とその機能との一致を示している(43)。だが、これまでわれわれは、商品価値の現象形態として役立ち、または商品の価値の大いさが社会的に表現される材料として役立つという、貨幣の一つの機能を識っているのみである。価値の適当な現象形態、または抽象的な、したがってまた等一な人間労働の体化物となりうるものは、ただその見本のどれをとっても、同一の、ことなるところのない質をもっているような物質だけである。他方において、価値の大いさの差異は、純粋に量的なものであるから、貨幣商品は、純粋に量的差異を表わしえなければならない。したがって、随意に分割しえ、またその分割部分を再び合体させうるものでなければならぬ。しかして金と銀とは、このような属性をほんらいもっている。

(42) カール・マルクス『経済学批判』〔新潮社版『選集』第7巻166ページ〕「これらの金属は・・・ほんらい貨幣である」(ガリアニ『貨幣について』クストディの叢書、近代篇、第3巻、72ページ)

(43) これにかんする詳細は、私のすぐ前に引用した著書の「貴金属」の節にある。

12. 貨幣商品の使用価値は二重となる。商品としてのその特別な使用価値、例えば、金は、むし歯を充填するためとか。奢侈商品の原料等々に用いられるほかに、その特殊な社会的機能から生ずる、一つの形式的な使用価値〔formalen Gebrauchswert:形式上の使用価値〕を得るのである。

13. すべての他の商品は、貨幣の特別の等価besondre Äquivalente des Geldesにすぎず、貨幣はそれらの一般的等価allgemeines Äquivalentなのであるから、それらの商品は、一般的商品allgemeinen Ware(44)としての貨幣にたいして、特別の商品besondre Warenとしてたいするわけである。

  (44)「貨幣は一般的商品である」(ヴェリ『経済学にかんする考察』16ページ)。

14. 貨幣形態は、ただ、他の一切の商品の関係が、一商品に固着して反射されているものであるにすぎないことを知ったのである。したがって、貨幣が商品であること(45)は、その完成した姿から出発して、後からこれを分析しようとする人にとって、一つの発見であるにすぎない。交換過程は、貨幣に転化する商品に、その価値を与えるのではなく、その特殊な価値形態を与えるのである。両規定を混同すると、金と銀の価値を想像的なものと考えるような誤りにおちいる(46)。貨幣は一定の機能においては、それ自身の単なる標章によって置き代えられうるのであるから、貨幣が単なる標章であると考えるような、他の誤りも生じた。他方において、この誤りの中には、物の貨幣形態は、物自身にとっては外的のものであり、その背後にかくされている人間関係の単なる現象形態であるという予感がはいっていた。この意味では、あらゆる商品は一つの標章であろう。というのは、価値としては、ただ商品に支出された人間労働の物財的の外被にすぎないからである(47)。しかしながら、人は、物財が一定の生産様式の基礎の上に得る社会的性格、または労働の社会的規定が一定の生産様式の基礎の上に得る物財的性格、これらのものを、単なる標章と称えることによって、同時にこれらのものを人間の恣意的な想像の産物と称することになるのである。それは第18世紀愛好の啓蒙風であって、成立過程をまだ解くことのできなかった人間的諸関係の謎のような形相〔rätselhaften Gestalten:謎のような状態、形状〕から、少なくとも一応無知の外観を除こうとしたのである。

 (45) 「われわれが『貴金属』という一般的な名称で表わしうる銀と金そのものが、・・・商品・・・であって、価値・・・において上騰したり低落したりする。もし、その比較的小量にたいして、生産物またはその国の製造品等の比較的大量を取得することができるならば、貴金属により高い価値のあることが判定できる」(『相互関係として観た貨幣、商業および為替の一般的観念にかんする一論。一商人著』ロンドン、1695年、7ページ)。「銀と金とは、鋳造されようと、されまいと、すべての他の物にたいする尺度標準として用いられるが、しかし、葡萄酒、油、煙草、布、または服地と同じように商品である」(『商業、とくに東インドのそれにかんする一論』ロンドン、1689年、2ページ)。わが王国の財産と富とは、貨幣からのみ成っているわけではない。また金と銀とを商品でないと考えるのも、当をえない」(〔トーマス・パピロン〕、『最も有利な貿易としての東インド貿易』ロンドン、1677年、4ページ)。

(46) 「金と銀は、それが貨幣である前に、金属として価値をもっている」(ガリアニ『貨幣について』72ページ)。ロックはこう述べている、「人間の一般的な合意は、銀にたいして、その貨幣に適した性質のために、一つの想像的価値を与えた」〔ジョン・ロック『利子低下の諸結果にかんする若干の考察』1691年。『著作集』版、1777年。第2巻、15ページ〕と。これにたいしてローは、「どうしていろいろの国民が、なんらかの物財に想像的の価値を与えることができようか。・・・・あるいは、どうしてこの想像的な価値が、保持されえたであろうか?」といっている。しかし、その彼自身は、どんなに事柄を理解していなかったかを次のことが示している。すなわち「銀は、それがもっていた使用価値にしたがって交換された。すなわち、その実際の価値にしたがって。その貨幣・・・・としての性質によって、銀は付加的の価値(une valeur additionelle)を得た」(ジョン・ロー『鋳貨と商業にかんする考察』、『第18世紀の金融経済学者』デール版、469・470ページ)。

(47) 「貨幣はその(商品の)標章である」(V・ドゥ・フォルボネ『商業の基礎概念』新版、ライデン、1766年、第2巻、143ページ)。「標章として、貨幣は、商品によって引きつけられる」(前掲書、155ページ)。「貨幣は物財の標章であって、これを代表している」(モンテスキュー『法の精神』、『全集』ロンドン、1767年、第2巻、3ページ〔邦訳、宮沢俊義訳『法の精神』岩波文庫版、下巻、98ページ〕)。「貨幣は、決して単純な標章ではない。なぜかというに、貨幣自身が富であるからである。貨幣は価値物を代表するのではない。それは価値物にたいして価値を等しくするのである」(ル・トゥローヌ。『社会的利益について』910ページ)。「価値の概念を考察するならば、物財そのものは、ただ一つの標章と考えられるのみである。物財はそれ自身として意味をもつことなく、それが値するところのものとして、意味をもつのである」(ヘーゲル『法の哲学』100ページ)。経済学者たちよりずっと以前に、法律家は、貨幣の観念を、単なる標章として、また貴金属の純粋に想像的な価値として、大いに論じていたのであった。彼らは、これで王権にお追従のつとめをしていたのである。その鋳貨の悪鋳権を、彼らは、全中世を通じて、ローマ帝国の伝統とパンデクテンの貨幣概念によって支持していたのであった。その呑込のいい生徒たる、フィリップ・ドゥ・ヴァロアは、1346年の勅令でこう言っている、「貨幣事務、鋳造、品位、在高および鋳貨をわれらの自由に一定の価格で流通に投ずるに必要な一切の鋳貨関係命令、これらのことが全くわが国とわが陛下の権能に属するということは、何びとも疑いえず、また疑うべからざるものである」。皇帝が貨幣価値を制定するということは、ローマ法の信条であった。貨幣を商品として取り扱うことを、明文をもって禁じていた。「だが貨幣を買うことは、何びとにも許さるべきでない。なぜかというに、一般の使用のために作られたるものであって、それは商品であってはならないからである」。G・F・パニニのこれらにかんするすぐれた論議がある。G・F・パニニ『ローマ人の物の正当価格。正しき鋳貨価値および商業にかんする試論』1751年(クストディ編、近代篇、第2巻)。とくにこの書の第2部で、パニニは法律家諸君にたいして論駁している。

15. 先に述べたように、ある商品の等価形態は、その価値の大いさの量的規定を含んでいない。金が貨幣であり、したがって、すべての他の商品と直接に交換されうるということを知っても、これによっては、例えば10ポンドの金は、どれだけの価値をもっているかを知ったことにはならない。すべての商品と同じように、金〔カウツキー版・ポール英訳版では金、初版から第3版までは貨幣、エンゲルス版も貨幣、アドラツキー版・ディーツ『全集』版も貨幣であるが、前後の関係から金とした。……訳者〕は、それ自身の価値の大いさを、相対的に、他の商品で表現するほかない。それ自身の価値は、その生産に要した労働時間によって規定される。そして一切の他の商品の一定量で表現される。これら商品にも同一量の労働時間が凝結している(48)。このように金の相対的な価値の大いさの確定は、その生産源でなされる直接の物々交換で行なわれる。それが貨幣として流通にはいると同時に、その価値はすでに与えられている。すでに第17世紀の最後の10年間に、貨幣が商品であるということを知るために、ずっと突き進んだ貨幣分析の開始がなされているのであるが、これはやはり開始にすぎないものである。困難は、貨幣が商品であるのを理解することよりも、商品は、いかにして、なぜに、何によって、貨幣であるかを理解することにある(49)。

 (48) 「人間が1オンスの銀をペルーの地中から、1ブッシェルの穀物を生産するために要すると同一時間で、ロンドンにもって来ることができるとすれば、前者は後者の自然価格である。もし彼がいま新しい、より生産的な鉱山の採掘によって、以前の1オンスと同一の投下時間に2オンスの銀を得ることができるとすれば、穀物は、以前に1ブッシェル当り5シリングの価格であったのが、いまでは10シリングの価格となるであろう、caeteris paribus(他の条件を同一とすれば)」(ウィリアム・ペテイ『租税および貢納にかんする論策』ロンドン、1667年、31ページ)。

(49)ロッシェル教授がわれわれに、「貨幣のあやまれる定義は二つの主要群に分かたれる、すなわち、一つは貨幣を商品以上のものに考え、一つはこれを商品以下のものに考えているのである」ということを教えてくれたのち、貨幣制度にかんする混乱した著書目録が続く。これによっては、理論の真実の歴史へのかすかな洞察さえも見られない。それにお説教が続く、「しかして、大多数の近代国民経済学者が、貨幣を他の商品から区別する(では、一体商品以上のものか以下のものか?)諸特性を、充分に念頭に浮かべていないということは、否定すべくもない。……そのかぎりにおいて、ガニールの半重商主義的反動は、……全く理由のないことでもない』(ヴィルヘルム・ロッシェル『国民経済学大綱』第3版、1858年、207-210ページ)。以上―以下―充分でない―そのかぎり―全く・・・・ではない! そしてこのような折衷的な大学教授的たわごとを、ロッシェル氏は謙遜して経済学の「解剖学的・生理学的方法」と名づけている! だが、一つの発見だけは、彼に負うものである。すなわち、貨幣は「快適な商品」であるということである。

16. A商品x量=B商品y量というもっとも単純な価値表現において、すでに、ある他の物の価値の大いさを表示している一物が、その等価形態を、この関係から独立して社会的の自然属性としてもっているように見えるということを、われわれは知ったのである。われわれは、この誤った外観〔falschen Scheins:誤った仮象〕がどうして固定していくかを追究した。この外観は、一般的等価形態が、ある特別な商品種の自然形態と合生し〔verwachsen:合体する、合生する〕、または貨幣形態に結晶する〔kristallisiert:結晶する、明確な形をとる〕とともに、完成するのである。一商品は、他の諸商品が全面的にその価値を、それで表示するから、そのために貨幣となるのであるようには見えないで、諸商品は、逆に一商品が貨幣であるから、一般的にその価値をこれで表わすように見える。媒介的な運動は、それ自身の結果を見ると消滅しており、なんらの痕跡をも残していない。諸商品は、自分では何もするところなく、自分自身の価値の姿が、彼らのほかに彼らと並んで存在する商品体として完成されているのを、そのまま見出すのである。これらのもの、すなわち、土地の内奥から取り出されてきたままの金と銀とは、同時にすべての人間労働の直接的な化身Inkarnationである。このようにして貨幣の魔術が生まれる。人間がその社会的生産過程で、単に原子的な行動を採っているにすぎぬということ、したがって、彼らの規制と彼らの意識した個人的行為とから独立した彼ら自身の生産諸関係の物財的な姿sachliche Gestaltは、まず、彼らの労働生産物が一般的に商品形態をとるということの中に現われるのである。したがって、貨幣物神の謎は、商品物神の目に見えるようになった、眩惑的な謎であるにすぎないのである。

・・・以上、第2章終わり・・・

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  第3章 貨幣または商品流通

  第1節 価値の尺度


 (第3章_第1節-第1段落=3s_1-1)

 私は説明を簡略にするために、この著作では何処でも、金が貨幣商品であると前提する。
 金の第一の機能は、商品世界にたいして、その価値表現の材料を供し、または商品価値を同分母をもつ大いさ、すなわち質的に等一で、量的に比較のできる大いさとして、表示することにある。こうして、金は価値の一般的尺度として機能し、この機能によってはじめて金という特殊的な等価商品が、まず貨幣となる。
 諸商品は貨幣によって通約しうべきものとなるのではない。逆だ。すべての商品は、価値として対象化された人間労働であり、したがって、それ自体として通約しうるものであるから、その価値を同一の特殊な商品で、共通に測り、このことによってこの商品を、その共通の価値尺度、または貨幣に転化しうるのである。価値尺度としての貨幣は、商品の内在的な価値尺度である労働時間の必然的な現象形態である(50)。



 (50) なぜ貨幣が直接に労働時間そのものを代表しないか、したがって、例えば一紙幣がX労働時間を表わすというようにならぬのかという問題は、きわめて簡単に、なぜ商品生産の基礎の上においては、労働生産物が商品として表示されねばならぬか、という問題に帰着するのである。なぜかというに、商品の表示は、この商品が商品と貨幣商品に二重化するということを含んでいるからである。あるいはなぜ私的労働は直接に社会的労働として、すなわち、その反対物として、取り扱われることができないかの問題に帰着する。私は商品生産を基礎とする「労働貨幣」ということが浅薄な空想であるわけを、他の個所で詳しく論じておいた(カール・マルクス『批判』61ページ以下〔邦訳、岩波文庫版103ページ以下。新潮社版106ページ〕



 ある商品の金における価値表現―A商品x量=貨幣商品y量―は、その商品の貨幣形態であり、またはその価格である。こうなると、鉄1トン=金2オンスというような個々の方程式は、鉄価値を社会的に通用するように表示するために、充分なものとなる。方程式は、これ以上、他の諸商品の価値方程式と隊伍を組んで行進する必要がない。というのは、等価商品である金は、すでに貨幣の性質をもっているからである。したがって、商品の一般的な相対的価値形態は、いまや再びその本源的な、単純な、または個々的な相対的価値形態の姿をとるにいたっている。他方において、拡大された相対的価値表現、または相対的価値表現の無限の列は、貨幣商品の特殊的に相対的な価値形態となっている。しかしながら、この列は、いまやすでに商品価格で社会的に与えられている。物価表を逆に読めばいいのだ。そうすれば、可能な、ありとあらゆる商品における貨幣の価値の大いさが、表示されていることを知るのである。これに反して、貨幣は価格をもっていない。このような他の諸商品の統一的な相対的価値形態に参加するためには、貨幣は自分自身にたいして、自分自身の等価として、関係しなければなるまい。



 商品の価格または貨幣形態は、その価値形態一般と同じく、手でつかみうるような、その実在的の物体形態とちがった、したがって理念的または観念化された形態にすぎない。鉄、亜麻布、小麦等々の価値は、見ることはできないが、これらの物そのものの中に存在している。それはこれらの物の金との等一性によって、すなわち、金にたいするいわばその頭脳の中に棲んでいる連結によって、表示される。したがって、商品番人は商品の代弁をしてやるか、商品に紙片をはりつけてやるかして、その価格を外界に知らせねばならない。金における商品価値の表現は、観念的なものであるから、この表現を実際に行なうためには、また観念的の、または理念としての金が用いられればいいのである。どんな商品番人も、自分が商品の価値に価格の形態を、または観念となった金形態を与えても、まだ決して彼の商品を金に化しているのではないということ、そして金で幾百万の商品価値を評価するためには、一片の現実の金をも必要としないということを、知っている。したがって貨幣は、その価値尺度の機能においては、―ただ観念となった貨幣、または理念的の貨幣としてのみ用いられる。この事情は、きわめて馬鹿げた理論を考え出させるにいたった。観念となった貨幣のみが価値尺度の機能に用いられるとしても、価格は全く実在的な貨幣材料に依存しているのである。価値、すなわち、例えば1トンの鉄の中に含まれている人間労働の一定量は、同一量の労働を含んでいる一定の観念化された貨幣商品の量の中に表現される。したがって、金、銀または銅が、価値尺度として用いられるにしたがって、それぞれ1トンの鉄の価値は、全くちがった価格表現を受ける。いいかえれば、全くちがった量の金、銀または銅で表わされる。


 
 したがって、例えば金および銀なる二つのちがった商品が、同時に価値尺度として用いられるとすれば、すべての商品は二つのちがった価格表現をもつことになる。金価格と銀価格であって、銀の金にたいする価値比率が不変であつて、例えば1対15であるかぎり、これは悠々と並んで行なわれる。だが、この価値比率が少しでも変化すると、商品の金価格と銀価格の比率は撹乱される。このようにして価値尺度の二重化が、その機能に矛盾することは、事実の上で立証される。

 価格のさだまった商品は、すべてA商品a量=金x量、B商品b量=金z量、C商品c量=金y量 等々の形態で表示される。このばあい、a、b、cは商品種A、B、Cの一定量を、x、z、yは金の一定量を表わすのである。したがって、商品価値は各種の大いさの観念化された金量に転化される。だから、商品体の種類は雑多であるが、同一名目の大いさ、すなわち、金の大いさに表わされる。それらの商品価値は、このような各種の金量として、相互に比較され、測定される。そして技術的に、これらの価値を、尺度単位としての一つの固定した量目の金にたいして、関係させようとする必然性が展開してくる。この尺度単位自身は、さらに各可除部分に分割されて、尺度標準に発展する。金や銀や銅は、貨幣となる以前に、すでにその金属重量で、このような尺度標準をもっている。こうして、例えば1ポンドが尺度単位として用いられ、一方には、さらに小分されてオンス等になり、他方では加算されてツェッントネル等になるのである。したがって、すべての金属流通においては、既存の重量尺度標準の名称が、貨幣尺度標準、すなわち、価格の尺度標準の最初の名称ともなっている。


  (第3章_第1節-第8段落=3s_1-8)
  価値の尺度として、また価格の尺度標準として、貨幣は二つの全くちがった機能を行なう。貨幣は、人間労働の社会的化身として、価値の尺度である。確定した金属重量としては、価格の尺度標準である。貨幣は、価値尺度としては、雑多にちがっている商品の価値を価格に、すなわち、観念化された金量に転化するために用いられる。価格の尺度標準としては、貨幣はこの金量を測るのである。価値の尺度において、商品は価値として測られ、これに反して、価格の尺度標準は、金量を一定の金量で測るのであって、ある金量の価値を他のそれの重量で測るのではない。価格の尺度標準にとっては、一定の金の重量が尺度単位として固定されなければならない。ここでは、他のすべての同名目の大いさの尺度を定める場合のように、尺度比率の固定ということが必ずなされなければならぬものになる。したがって、価格の尺度標準は、同一量の金が、尺度単位として変わることなく用いられるほど、その機能をよりよく充たす。価値の尺度として金が用いられうるのは、ひとえに金そのものが、労働生産物であり、したがって、可能性の上から、可変的な価値であるからである。

  ・・・中略・・・

 

 (第3章_第1節-第13段落=3s_1-13)

 さてわれわれは価格形態の考察に帰ろう。・・・

 (第3章_第1節-第13段落=3s_1-16~21)

 価格、または商品の価値が観念的に転化している金定量は、このようにしていまや貨幣名、または法的に通用する金尺度標準の計算名で表現される。したがって、1クォーターの小麦は、1オンスの金に等しいというかわりに、イギリスでは、それは3ポンド・スターリング17シリング10ペンス1/2に等しいと言われるであろう。商品は、このようにしてその貨幣名をもって、どれだけの価値があるかということを示すのである。そして、ある物財が価値として、したがって貨幣形態で一定されるということが必要となるごとに、貨幣は計算貨幣として用いられる。

 一物財の名称は、その性質にとっては全く外的のものである。私は、かりにある人がヤコブスということを知っても、その人間についてなんら知ることにはならない。これと同様に、ポンド、ターレル、フラン、ドゥカート等々の貨幣名において、価値関係のあらゆる痕跡は消えている。このような秘教的な標章の秘義にかんする混乱は、貨幣名が商品の価値を、そして同時に、ある金属重量の、すなわち、貨幣尺度標準の可除部分を表現するだけに、ますます大きくなっている。他方において、価値が商品世界の雑多な物体から区別されて、このような分りにくい物財的な、しかしまた単純に社会的な形態に発展するということは、必然的である。

 価格は商品に対象化されている労働の貨幣名である。商品と、みずからの名を商品の価格としている貨幣定量とが、等価であるということは、したがって、同じ言葉の反復である。ちょうどそれは一般に1商品の相対的価値表現が、つねに2商品の等価たることの表現であるというのと同様である。しかしながら、価格が商品の価値の大いさの指数として、その貨幣との交換比率の指数であるとしても、逆に、商品の貨幣との交換比率の指数は、必然的にその価値の大いさの指数であるという結論にはならない。同一大いさの社会的に必要な労働は、1クォーターの小麦や2ポンド・スターリング(約1/2オンス金)に表示されるとしよう。そこで2ポンド・スターリングは1クォーターの小麦の価値の大いさの貨幣表現であり、すなわちその価格である。事情がこの価格を、3ポンド・スターリングに引き上げることを許し、またはこれをIポンド・スターリングに引き下げざるを得ざらしめるとすれば、1ポンド・スターリングと3ポンド・スターリングは、小麦の価値の大いさの表現としては、小にすぎまたは大にすぎる。しかし、それらはたしかに小麦の価格である。なぜかというに、第一にそれは小麦の価値形態で、貨幣である。そして第二にその貨幣との交換比率の指数であるからである。労働の生産諸条件が同一であり、労働の生産力に変化がなければ、依然として1クォーターの小麦の再生産には、同一量の社会的労働時間が支出されなければならない。この事態は、小麦生産者の意志にも他の商品所有者の意志にも、よるものではない。したがって、商品の価値の大いさは、一つの必然的な、その形成過程に内在している社会的労働時間にたいする関係を、表現している。価値の大いさが価格に転化するとともに、この必然的な関係は、一商品の、その外部にある貨幣商品との交換比率として現われる。しかし、この比率では、商品の価値の大いさも、商品が与えられた事情のもとで手ばなされる大小も、表現せられうる。価格と価値の大いさとの量的な不一致の可能性、すなわち価値の大いさに対する価格偏差の可能性は、かくて、価格形態そのものの中にある。このことは少しもこの形態の欠陥ではなく、逆にこれを一生産様式によく当てはまる形態にするのである。この生産様式では、規律は、もっぱら無規律性の盲目的に作用する平均法則としてのみ、貫かれうるのである。

 だが、価格形態は、価値の大いさと価格との、すなわち、価値の大いさとそれ自身の貨幣表現との間の、量的不一致の可能性をもたらすのみならず、一つの質的矛盾をも生ぜしめうるのである。つまり、そのために、貨幣は商品の価値形態であるにほかならないのに、価格が一般に価値表現たることをやめることにもなる。それ自体としてなんら商品でない物、例えば良心、名誉等々も、その所有者は貨幣にたいして売ることができるし、かくてまた、これらのものがその価格によって、商品形態を得ることができる。したがって、ある物は価値をもたないでも、形式的に一つの価格をもつことができる。価格表現はここでは、ちょうど数学におけるある量〔虚数:die imaginäre Zahl〕のように、想像的のものとなる。他方において、例えば、すこしの人間労働もその中に対象化されていたいために、なんら価値をもたない未耕地の価格のような想像的な価格形態も、現実的な価値関係、またはそれから派生した結びつきを隠していることがある。〔Der Preisausdruck wird hier imaginär wie gewisse Größen der Mathematik. Andrerseits kann auch die imaginäre Preisform, wie z.B. der Preis des unkultivierten Bodens, der keinen Wert hat, weil keine menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht ist, ein wirkliches Wertverhältnis oder von ihm abgeleitete Beziehung verbergen.〕

 相対的な価値形態一般と同じように、価格は一商品、例えばIトンの鉄の価値を、次のようにして表現する、すなわち、一定量の等価、例えば1オンスの金が、直接に鉄と交換されうるということによってである。しかし、決して逆に、鉄の方が直接に金と交換されうるということによって、表現するのではない。したがって、実際に一つの交換価値の作用をなしうるために、商品はその自然的な肉体をぬぎ去らなければならない。すなわち、観念的な金であるにすぎないものから、現実の金に転化されなければならない。もちろん、商品にとってこのような化体は、へーゲルの「概念」にとって、必然から自由への移行や、ざりがににとって、その甲殻の破壊や、あるいは教父ヒエロニムスにとって、おのれの罪を脱ぎ捨てることよりも、少し「骨の折れる」ことかも知れない。例えば、鉄というその実在的な姿のほかに、商品は価格という観念的な価値の姿、または観念化された金の姿をもつことができる。しかし、商品は同時に現実的に鉄であって、また現実的に金であるということはできない。その価格を提示するには、観念化された金をこれに等しいと置けば足りる。その所有者にたいして、一般的等価の役目を果たすためには、商品は、金によって代置されなければならない。鉄の所有者が、例えば、現世快楽的商品の所有者に相対するとすれば、そして貨幣形態であるところの鉄価格を指して、これで貨幣になったと言ったとすれば、この現世快楽者は、天国でペテロが、自分の前に信仰個条を読唱したダンテにたいして答えたように答えるであろう。
  「究めつくされたり、これら鋳貨の品位と重さは。 だが、語れ、汝がこれを汝の財布の中にもっているかを」 〔ダンテ『神曲』第3篇、第24歌、83―85。カウツキー版による。……訳者〕。

 価格形態は、諸商品の貨幣にたいする売り渡し可能性と、かかる売り渡しの必然性を包含している。他方において金は、すでに交換過程で貨幣商品として歩き廻っているからこそ、観念的価値尺度として機能するのである。したがって、価値の観念的な尺度の中に、硬い貨幣が待ち伏せているのである。


  ・・・以上、第3章貨幣または商品流通 第1節価値の尺度 終わり・・・

・・・以下、省略・・・


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 『資本論』 商品の変態


 第3章 貨幣または商品流通

 第2節 流通手段 a 商品の変態


  a 商品の変態


1. 商品の交換過程は、矛盾したお互いに排除し合う関係を含んでいることを知った。商品の発達は、これらの矛盾を止揚しないで、それが運勤しうる形態を作り出している。これがとりもなおさず、一般に現実の矛盾が解決される方法である。例えば、ある物体が不断に他の物体に落下しながら、同じく不断にこれから飛び去るというのは、一つの矛盾である。楕円は、その中でこの矛盾が解決され、また実現されてもいる運動形態の一つである。
2. 交換過程は、諸商品を、それが非使用価値である持ち手から、使用価値となる持ち手に移すかぎり、社会的な物質代謝である。ある有用な労働様式の生産物が、他のそれとかわる。商品はひとたび使用価値として用いられる個所に達すると、商品交換の部面から消費の部面にはいる。ここでわれわれの関心事となるのは、前の方の部面のみである。したがって、われわれは全過程を、その形式的側面から、したがって、ただ商品の形態変化または社会的物質代謝を媒介する、その変態をのみ、考察しなければならぬ。


3. この形態変化を、きわめて不充分にしか理解しないのは、価値概念そのものにかんしてはっきりしていないのを別とすれば、次の事情によるのである。すなわち、ある商品の形態変化は、すべて二つの商品、すなわち、普通の商品と貨幣商品の交換において行なわれるということである。この素材的要素である商品と金との交換をのみ固執すると、人は、まさに見なければならぬもの、すなわち、形態について起こることを看過する。金は単なる商品としては貨幣でないということ、そして他の諸商品自身がその価格を金で表わすことによって、金は商品そのものの貨幣態容となっているということ、人はこれを見のがしている。

4. 商品は、まず最初は金メッキもされないで、砂糖もふりかけられないで、あるがままの姿で交換過程にはいる。交換過程は、諸?商品の商品と貨幣とへの二重化を生ぜしめる。すなわち、一つの外的な対立を生ぜしめる。この対立の中に、商品は、使用価値と価値の内在的対立を示しているのである。この対立において、諸商品は使用価値として、交換価値としての貨幣に相対する。他方において、対立の両側は商品である。したがって、使用価値と価値の統一である。しかしながら、この差別の統一は、両極のおのおのにおいて逆に表示されている。そしてこのことによって、同時に、両極の相互関係が示されているのである。商品は現実に使用価値である。その価値たることは、ただ観念的に価格に現われる。価格は、商品を、その実在的な価値態容として対立する金に、関係せしめる。逆に、金材料は価値体化物として、貨幣としてのみ働いている。したがって、貨幣は現実に交換価値である。その使用価値は、ただ観念的に相対的な価値表現の序列の中に現われるにすぎない。この表現において貨幣は、相対する諸商品に、これをその現実的な使用態容の全範囲として関係する。商品のこれらの対立的な形態は、その交換過程の現実的な運動形態である。


5. われわれはいま、誰か一人の商品所有者、例えばわれわれの旧いなじみの亜麻布織職について、交換過程の場面、すなわち商品市場に行って見よう。その商品である20エレの亜麻布は、価格が定められている。その価格は2ポンド・スターリングである。彼はこの商品を2ポンド・スターリングと交換する。昔気質のこの男は、この2ポンド・スターリングをもって、再び同一価格の家庭用聖書と交換する。亜麻布は、彼にとって商品、すなわち価値の担い手であるにすぎないが、金、すなわち、その価値態容にたいして売り渡される。そして、この態容からまた他の商品、すなわち、聖書にたいして売り渡される。この聖書は、こうして、使用対象として織職の家にやってきて、ここで教化欲望を充足させるわけである。したがって、この商品の交換過程は、二つの対立した、そして相互に補足し合う変態―商品の貨幣への転化と貨幣から商品への反転 ― となって遂行される(65)。商品変態の契機は、同時に商品所有者の取引―売り、すなわち商品の貨幣との交換、買い、すなわち貨幣の商品との交換、さらにまた買うために売るというこの両行為の統一 ― である。

 (65) 「ヘラクレイトスはこう言った、だが、すべてのものが火……から成り、そして火は一切から成る。それはあたかも金から財貨が、財貨から金が成るようなものである、と」(F・ラッサール『暗き人ヘラクレイトスの哲学』ベルリン、1858年、第1巻、222ページ)。この個所にたいするラッサールの注(224ページ、注3)は、貨幣を単なる価値標章と説いているが、謬りである。

6. そこで亜麻布織職にとって大事なことは、その取引の最終結果であるが、彼は亜麻布のかわりに聖書を、すなわち彼の最初の商品のかわりに、同一価値の、しかし有用性をことにする他の商品をもっている。同様にして、彼は、その他の生活手段と生産手段とを獲得する。彼の立場からすれば、この全過程は、ただ彼の労働生産物を他の人の労働生産物と交換すること、すなわち生産物交換を媒介するだけである。

7. 商品の交換過程は、こうしてつぎのような形態変化をなして遂行される。
   商品―貨幣―商品
    W - G - W


8. W-Wなる運動、商品の商品にたいする交換は、その素材的内容からいえば、社会的労働の物質代謝であって、その結果としてこの過程自身が消滅する。

9. W―Gすなわち、商品の第一の変態または売り。商品価値の商品体から金体への飛躍は、私が他のところで名づけたように〔『経済学批判』岩波文庫版、110ページ〕、商品の salto mortale (生命がけの飛躍)である。この飛躍が失敗すれば、商品は別に困ることもないが、商品所有者は恐らく苦しむ。社会的分業は、彼の労働を一方的に偏せしめると同時に、彼の欲望を多方面にする。まさにこのゆえに、彼の生産物が彼にとって用をなすのは、交換価値としてだけであることになる。しかしその生産物が一般的な社会的に通用する等価形態を得るのは、貨幣としてだけである。そして貨幣は、他人のポケットの中にあるのである。これを引き出すためには、商品は、とくに貨幣所有者にたいして使用価値でなければならない。すなわち、この商品にたいして支出された労働は、かくて社会的に有用なる形態で支出されていなければならない。あるいは社会的分業の一環たることを立証しなければならない。しかしながら、分業は、自然発生的生産有機体をなしているのであって、その繊維は商品生産者の背後で織られたのであり、またつづいて織られているのである。商品は、ある新しい労働様式の生産物であって、これは新しく現われた欲望をまず充足させるためになされたものであるかもしれないし、あるいは自分の力で、欲望をまず呼び起こそうとするものであるかもしれない。昨日なお同一商品生産者の多くの機能の中の一機能であっても、ある特別の労働操作が、今日はおそらくこの関連から脱して、独立化し、まさにこのゆえに、その部分生産物を、独立の商品として市場におくる。事情は、この分離過程にとって熟しているかもしれず、熟していないかもしれない。生産物は今日は社会の欲望を充足させる。おそらく明日は、これは、全くまたは部分的に、他の類似の生産物種によって、その地位から追われるかもしれない。わが亜麻布織職のそれのように、労働は社会的分業の特許つきの一環であっても、彼のこの20エレの亜麻布の使用価値は、これでは確保されはしない。もし亜麻布にたいする社会的の欲望が、そしてこれは他の一切のものと同じく、限界をもっているのであるが、すでに競争者である亜麻布織職によって充たされているならば、わが友人の生産物は過剰となり、無用となり、したがってまた、有用性のないものとなる。もらい物のあらさがしをするな、という諺もあるが、彼は贈り物するために市場に出てきたのではない。しかし、がりに彼の生産物の使用価値が立証され、したがって貨幣がこの商品によって引き寄せられると仮定しよう。だが、さてどれだけの貨幣が?という問題がある。答えは、もちろんすでに商品の価格、その価値の大いさの指数によって先廻りして与えられている。われわれは、商品所有者が、純粋に主観的な、いって見れば、計算の誤りをする、というようなことを無視しよう。これは、市揚でただちに客観的に訂正される。彼は、その生産物にたいして、社会的に必要な労働時間の平均だけを支出したであろう。したがって、商品の価格は、その中に対象化されている社会的労働の定量の貨幣名であるにすぎない。しかし、わが亜麻布織職の許しなく、または彼の知らないうちに、亜麻布織職の古くから行なわれている生産諸条件が、はげしく動いていたかもしれない。昨日疑いもなく1エレの亜麻布の生産にたいして、社会的に必要な労働時間であったものが、今日では、そうでなくなっているかもしれない。このことを、貨幣所有者が熱心に、わが友人のいろいろな競争者の値段づけから、明らかにしてくるのである。彼にとって不幸なことには、世の中には多くの織職がいる。最後に、市場にあるすべての亜麻布が、社会的に必要な労働時間のみを含んでいると仮定しよう。それにもかかわらず、これら各布片の総額は、不用に支出された労働時間を含んでいることもありうる。市場の胃の俯が、亜麻布の総量を、1エレ当り2シリングの正常価格で吸収しえないとすれば、このことは、亜麻布機織の形態で、社会的総労働時間の過大なる部分が、支出されたことを証明する。結果は、各個々の亜麻布織職が、彼の個人的生産物にたいして、社会的に必要なる労働時間より多くのものを投じたのと同様である。このばあい、ともに捕われともに絞首にされるとでも言うべきである。市場にあるすべての亜麻布は、ただ一つの取引品目として作用し、各布片は、ただその可除部分であるにすぎない。そして実際において、個々別々の布各エレの価値もまた、同一種の人間労働の同一なる社会的に一定した分量を、体化しているものであるにすぎない。


10. 商品は貨幣を愛する。が、「まことの恋がおだやかに実を結んだためしはない」〔シェイクスピア『夏の夜の夢』第1幕、第1場、邦訳、土井光知訳、岩波文庫版、38ページ〕ことを、われわれは知っている。

11. 分業体制の中に、その肢体(membra disjecta)が八方に分岐していることを示している社会的生産有機体の量的構成は、 質的なそれと同じように、自然発生的で偶然的である。したがって、わが商品所有者は、彼らを独立の私的生産者となす同じ分業が、社会的生産過程とこの過程における彼らの関係を、彼ら自身から独立のものとしていること、人々相互の独立性が、全般的な物的依存の体制となって補足されているということを、発見するのである。

12. 分業は、労働生産物を商品に転化する。そしてこのことによって、労働生産物の貨幣への転化を必然的にする。この分業は同時に、この化体が成就するかどうかを、偶然的のものにする。だが、ここでは現象が純粋に考察さるべきである。したがって、その正常な進行が前提さるべきである。そこで、ことは、ともかく滑かに進行し、したがって、商品は売れ残るようなことがないとすれば、その形態変化がつねに行なわれているということになる。むろん、この形態変化が正常に行なわれないことになれば、実体―価値の大いさ―が失われたりするかもしれない。

13. 一方の商品所有者には、金がその商品にかわり、他方の商品所有者には商品が金にかわる。目立つ現象は商品と金との、20エレの亜麻布と2ポンド・スターリングとの持ち于変更、または場所変更、すなわちその交換である。だが、商品は何と交換されるか? 自分自身の一般的価値態容と。そして金は何と交換されるか? その使用価値の特別な態容と。なぜ金は亜麻布にたいして貨幣として相対するか? 亜麻布の2ポンド・スターリングという価格、またはその貨幣名が、亜麻布をすでに貨幣としての金に関係せしめているからである。本来の商品形態を脱することは、商品の売渡しによって、すなわち、その使用価値が、その価格の中において観念としてのみ存している金を、現実に引きつける瞬間に、行なわれるのである。価格の実現、または商品の観念的に存するにすぎない価値形態の実現は、したがって、同時に逆に観念的にのみ存する貨幣の使用価値の実現である。すなわち、商品の貨幣への転化は、同時に貨幣の商品への転化である。この一つの過程が、商品所有者の極からは売りであり、貨幣所有者の反対の極からは、買いであるという二面の過程である。言葉を換えていうと、売りは買いである。W-G は同時に G-W である(66)。

 (66) 「あらゆる売りは買いである」(ドクトル・ケネー『商業と手工業者の労働にかんする対話』、『重農学派』第1部、パリ、1846年、170ページ)。あるいはケネーが彼の『一農業国における経済政策の一般原理』で言っているように「売ることは買うことである」。

14. われわれは、これまで人間の経済関係を、ただ商品所有者の関係としてだけ見てきた。これは、商品所有者たちが、もっぱら自己の労働生産物を手離して、他人の労働生産物を取得する関係である。したがって、一方の商品所有者にたいして、他方の商品所有者は、ただ貨幣所有者としてのみ、相対することができる。それができるのは、彼の労働生産物がほんらい貨幣形態をとっており、したがって貨幣材料であり、金等々であるからであるか、あるいは彼自身の商品がすでに脱皮して、その最初の使用形態を脱ぎ去ったからであるかである。貨幣として機能するためには、金はもちろんいずれかの点で、商品市場にはいり込まねばならない。この点は、その生産源にある。ここで金は直接の労働生産物として、同一価値の他の労働生産物と交換される。しかしながら、この瞬間から、たえず、金は実現された商品価格を表わしている(67)。商品と金のその生産源における交換を別とすれば、金はすべての商品所有者の手中で、彼の売渡した商品の脱皮した姿となっている。すなわち、売りの生産物、または W-G なる最初の商品変態の生産物である(68)。金が観念的の貨幣、または価値尺度となったのは、すべての商品がその価値を金で測り、かくてこれをその使用態容の観念化された反対物、すなわち、その価値態容となしたからである。金が実在的な貨幣となるのは、諸商品がその全面的な売渡しによって、金を諸商品の現実に脱皮した、または転化した使用態容となし、したがって、諸商品の現実の価値態容となすからである。その価値態容においては、商品は、その自然発生的にもっている使用価値、そしてその成立を負っている特別な有用労働の、あらゆる痕跡をはらい落としている。こうして、無差別な人間労働の一様な社会的な体化物に蛹化していくのである。したがって、人は貨幣にたいしては、貨幣に転化された商品がどんな種類のものかということを、少しも顧みない。どんな商品もその貨幣形態においては、他のそれと寸分たがわぬ顔つきをしている。だから、もちろん糞尿は貨幣ではないが、貨幣は糞尿であることもある。わが亜麻布織職が、その商品を売り渡した2個の金貨は、1クウォーターの小麦の転化した姿であると想定しよう。亜麻布の売り、W-G は、同時にその買い G-W である。しかしながら、亜麻布の売りとしては、この過程は一つの運動を始めている。この運動は、その反対物、すなわち聖書の買いで終わる。亜麻布の買いとしては、この過程は、一つの運動を終えている。それは、この過程の反対物、すなわち、小麦の売りをもって始まったのである。W―G(亜麻布-貨幣)という W-G-W (亜麻布-貨幣-聖書)の第一段階は、同時にG-W(貨幣-亜麻布)で、他の運動W-G-W(小麦―貨幣-亜麻布)の最後の段階である。ある商品の最初の変態、その商品形態から貨幣への転化は、つねに同時に、他の商品の第二の相対立した変態、すなわちその貨幣形態から商品への再転化である(69)。

(67) 「ある商品の価格は、ただ他の商品の価格をもってのみ、支払うことができる」(メルシェ・ドゥ・リヴィエール『政治社会の自然的本質的秩序』、『重農学派』テール版、第2部、554ページ)。
(68) 「この貨幣を得るためには、人は売っているはずである」(同上、543ページ)。
(69) 先に述べたように、例外をなすのは、金または銀生産者であって、彼はその生産物を、あらかじめ売っておかないで交換する。

15. G-W 商品の第二、または終局変態、すなわち、買い。―貨幣は、すべての他の商品の脱皮した姿、またはその一般的な売渡しの産物であるから、それは、絶対的に売渡しうる商品である。貨幣は、すべての価格を逆読みにする。そしてこのようにして、貨幣は、彼自身が商品となるための献身的な材料であるすべての商品体に、反映されている。同時に、諸商品が彼にウィンクする愛のまなざし、つまり価格は、彼の転化能力の限界、すなわち彼自身の量を示している。商品は、貨幣となることによって消滅するのであるから、人が貨幣について見るところは、貨幣がその所有者の手中にどうして達したか、または何が貨幣に転化したかということではない。どんな生まれであろうと、お金はくさくないものだ(„non olet“)。貨幣は、一方で売られた商品を代表するとすれば、他方で買いうべき商品を代表する(70)。

  (70) 「貨幣は、われわれの手中で、われわれが買いたいと思う物を示すのであるが、またわれわれがこの貨幣のために売った物をも示している」(メルシェ・ドゥ・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的本質的秩序』586ページ)。

16. G-W 買いは同時に売り W-G である。したがって、ある商品の最後の変態は、同時に他の商品の最初の変態である。われわれの亜麻布織職にとっては、彼の商品の生涯は、聖書をもって閉じられる。この聖書に、彼は、その2ポンド・スターリングを再転化させたのである。しかしながら、聖書販売者は、亜麻布織職から得た2ポンド・スターリングを、ウィスキーに転化する。G-WというW-G-W(亜麻布-貨幣―聖書)の終局段階は、同時にW-GなるW-G-W(聖書-貨幣-ウィスキー)の第一段階である。商品生産者は、一方的な生産物を供給するにすぎないのであるから、彼はこれを比較的大量に頻繁に売る。他方、彼は、その多方面な欲望のために、実現した価格を、または売上げて得た貨幣量を、つねに多数の買いに分散させなければならない事情にある。したがって、一つの売りは、各種の商品の多くの買いに流れこむ。ある商品の終局変態は、このようにして、他の商品の最初の変態の総和をなしている。

17. いまある商品の、例えば亜麻布の総変態を考察するとすれば、われわれは、まず第一に、それが二つの相対立した、そして相互に補足する運動W-G-WおよびG-Wからなることを見るのである。商品のこの二つの相対立した変転は、商品所有者の二つの相対立した社会的過程として行なわれ、その二つの相対立した経済的役柄に反映される。彼は、売りの担い手としては売り手であり、買いの担い手としては買い手である。しかし、商品のあらゆる変転の中に、その両形態、すなわち商品形態と貨幣形態が、同時に、しかしただ相対立した極に存するように、同一商品所有者が売り手である場合には、他の買い手が、買い手であるときは他の売り手が、彼に相対している。同一商品が、二つの逆の変転をひきつづいて経過して、商品から貨幣が、また貨幣から商品が生ずるように、同じ商品所有者は、売り手と買い手の役割を交代して演ずる。したがって、売り手や買い手になることは、決して固定した役柄なのではなくて、商品流通の内部で、絶えず人を交代させる役柄である。

18. 一商品の総変態には、その最も単純な形態において、四つの極と三人の登揚人物が想定される。最初に、商品に、たいして貨幣が、その価値態容として相対する。それは彼方に、他人の懐の中に、物的に硬い実在性をもっている。こうして、商品所有者に、貨幣所有者が相対する。商品がいま貨幣に転化されるやいなや、貨幣は商品の消過的な等価形態となる。貨幣のがわからいうと、その使用価値または内容は、他のいろいろの商品体の中にある。第一の商品変転の終局点として、貨幣は、同時に第二のそれの出発点である。このようにして、第一幕の売り手は第二幕の買い手となる。第二幕ではこの買い手に、第三の商品所有者が、売り手として相対する(71)。

  (71)「これによれば、4つの終局点と3人の契約当事者がある。このうち一人は2度関与する」(ル・トゥローヌ『社会的利益について』908ページ)。

19. 商品変態の二つの逆の運動段階が、一つの循環をつくり上げている。すなわち、商品形態-商品形態の脱却-商品形態への帰還である。もちろん、商品自身は、ここでは対立的な性質を示している。出発点では商品は、その所有者にとって非使用価値であり、終局点では使用価値である。このようにして、貨幣は、まず商品の転化した堅い価値結晶として現われ、後にはその単なる等価形態として消え去る。

20. 一商品の循環をなす二つの変態は、同時に、二つの他の商品の逆の部分変態をなす。この同じ一つの商品(亜麻布)は、それ自身の変態の序列を開始し、他の一商品(小麦)の総変態を閉ざす。第一の変転、売りの間に、この商品は、身一つでこの二つの役割を演ずる。これに反して、それ自身死という万物の運命をたどるはかない金の蛹として、商品は、同時に第三の商品の第一の変態を終結させることになる。各商品の変態序列が描く循環は、こうして他の商品の循環と入りまじっていて解けない。総過程は商品流通として表われる。

21. 商品流通は、形式だけでなく、本質的にも、直接的な生産物交換とはちがっている。その進行過程を、ちょっと見てみればわかる。亜麻布織職は、無条件に亜麻布を聖書と、自分の商品を他人のそれと交換した。しかし、この現象は、彼にとって真実であるだけである。冷いものより熱いものを選んだ聖書販売人は、亜麻布を聖書に代えようとは考えてもみなかった。ちょうど亜麻布織職は、小麦がその亜麻布と交換されたというようなことを、少しも知らないように。等々。Bの商品は、Aの商品に代わる。しかし、AとBとは、お互いにその商品を交換することはない。実際上AとBとが、お互いの間で交互に買い合うということも起こりうる。しかし、このような特別の結びつきは、決して商品流通の一般的関係から必ず生ずるわけではない。むしろ一方において、ここに示されているのは、商品交換が、直接的な生産物交換のもつ個人的地方的の限界を、どうして突き破り、人間労働の物質代謝を発展させるかということである。他方において、行動する各個人の手ではどうにもしがたい社会的な自然関連の大きな範囲が、発展してくる。織職が亜麻布を売りうるのは、ひとえに農民が小麦を売ったからであり、短慮者が聖書を売りうるのは、ひとえに織職が亜麻布を売ったからであり、火酒製造者が熱い水を売りうるのは、ひとえに他の者が永遠の生命の水を、すでに売ったからである、等々。

22. 流通過程は、それゆえに、直接の生産物交換のように、使用価値の場所変更、または持ち手変更で、消滅することはない。貨幣は消失することはない、というのは、それは結局ある商品の変態序列から、脱げて出てくるものであるからである。貨幣は、つねに商品が席をあけた流通個所に沈澱する。例えば、亜麻布の総変態、亜麻布―貨幣―聖書において、はじめに亜麻布が流通から脱落し、貨幣がその個所に進み、次に聖書が流通から脱し、貨幣がそのあとに進む。商品が商品によっておき代えられると、同時に、貨幣商品は第三の手にとどまる(72)。流通は絶えず貨幣を発汗している。

  (72) 第二版への注。この現象は、このように明瞭なるにもかかわらず、しかも経済学者によって、とくに俗流自由貿易論者によって、多くは看過されている。

23. あらゆる売りが買いであり、またその逆であるのであるから、商品流通は、売りと買いの必然的な均衡を含んでいるものであるというドグマほど、とんまな考えはあるまい。もしこのことが、現実に行なわれた売りの数は買いの同じ数に等しいと、いおうとするのだとすれば、これはなんの内容もない空しい言葉である。だが、問題は、売り手が自分自身の買い手を市場につれてくるということを、証明することにある。売買は、二人の対極的に対立している人、すなわち、商品所有者と貨幣所有者の間の相互関係としては、同一の行動である。それは同一人の行為としては、二つの対極的に対立した行動をなしている。したがって、売りと買いの一致は次のことを含んでいる、商品は、もし流通の錬金術的レトルトの中に投ぜられて、貨幣として出てこないとすれば、すなわち、商品所有者によって売られず、したがって貨幣所有者によって買われないとすれば。無用となるということである。さらに、先の一致は次のことを含んでいる、すなわち、この過程は、もしそれが成功すれば、商品の一つの静止点を、すなわち、長くあるいは短くつづきうる商品の生涯のくぎりをなしているのである。商品の第一の変態は、同時に売りと買いであるから、この部分過程は同時に独立の過程である。買い手は商品を、売り手は貨幣、すなわち、遅かれ早かれ再び市場に現われる流通能力ある形態を保持する一商品を、もっている。何びとも、他人が買うことなくしては、売ることはできない。しかし何びとも、彼自身が売ったから、直接に買わなければならぬということはない。流通は、生産物交換の時間的、場所的および個人的な限界をうち破るのであるが、それはこうしてである、すなわち、流通そのものが、自分の労働生産物を交換に出し、他人のそれと交換してくるという生産物交換に存する直接の一致を、売りと買いの対立に分裂させることによってである。独立的に相互に相対する過程が、内的統一をなすということは、同じくその内的統一が、外的の対立をなして運動するということを意味する。相互に補足し合うのであるから、内的には非独立的である者が、外的に独立している。この独立が一定の点まで進展すると、統一は強力的に一つの ―
恐慌によって貫かれる。商品に内在している対立、使用価値と価値、同時に直接的に社会的なる労働を表わさなければならない私的労働、同時にただ抽象的に一般的な労働となされる特別な具体的労働、物の人格化と人の物化 〔 Personifizierung der Sache und Versachlichung der Personen 〕。― というようなこの内在的矛盾は、商品変態の対立の中に、その発展した運動形態を保持している。したがって、これらの形態は、恐慌の可能性を、だがまたその可能性のみを、含んでいる。この可能性の現実性への発展は、単純な商品流通の立場からは、まだ少しも存在していない諸関係の全範囲を、必要とするのである(73)。

  (73) 『批判』74-76ページ〔邦訳、岩波文庫版、121一122ぺ-ジ。新潮社版『選集』第七巻、117ページ〕におけるジェイムズ・ミルにかんする、私の叙述を参照されよ。経済学的弁護論の方法の特徴的な点は二つある。第一に、商品流通と直接の生産物交換とを、それらの区別から単純に抽象することによって、  同一視するということである。第二に、資本主義的生産過程の矛盾をば、その生産代理者の諸関係を、商品流通から生ずる単純な諸関係に解消することによって、否定し去ろうという試みである。しかしながら、商品生産と商品流通とは、その範囲と深さとを異にしてではあるが、きわめて多種類の生産様式に属する現象である。したがって、これらに共通な抽象的な商品流通の範疇を識っただけでは、これらの生産様式のもつ differentia specifica (種差)について、すこしも知ることにならない。したがってまた、これを判断することはできない。経済学以外のいかなる科学においても、初歩的な陳腐なことを、このようにもったいぶって語ることは、行なわれていない。例えばJ・B・セイは、彼が商品は生産物であるということを知っているから、恐慌について権威ぶることができると思い上がっている。

24. 商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段の機能を得る。

 ・・・・以上、a 商品の変態 終わり・・・・

 第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣




    ヘーゲル小論理学_本質論
 『小論理学』第2部 本質論 目次
 §112 ― §156
 第2部 本質 Wesen 論
 (112-159)Die Lehre vom Wesen
A 現存在の根拠とっしての本質 (115-122)
a 純粋な反省規定 (115-122)
  a. Die reinen Reflexionsbestimmungen
 イ 同一性 (115) α. Identität
 ロ 区別 (116-120) β. Der Unterschied
 ハ 根拠 (121-122) γ. Der Grund
b 現存在 (123-124) b. Die Existenz
c 物 (125-130) c. Das Ding
B 現象 (131-141) B. Die Erscheinung
a 現象の世界 (131)
    a. Die Welt der Erscheinung
b 内容と形式 (133-134)
    b. Inhalt und Form
c 相関 (135-141) c. Das Verhältnis
C 現実性 (142-149) C. Die Wirklichkeit
a 実体性の相関 (150-152)
    a Substantialitätsverhältnis
b 因果性の相関 (153-154)
    b Kausalitätsverhältnis
c 交互作用 (155-159)
    c Die Wechselwirkung

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仮象 (Schein) 反照 (Scheinen) 相等性 (Gleichheit) 質料 (Materie) 実体 (Substanz) 事柄 (Sache)
形式 (Form) 形式規定 (Form) 転化 概念 (Begriff) 肢体 統一 (Einheit)
比 (Verhlätnis) 活動 (Tätigkeit) 極・分極性 (Polarität) 人格 媒介 (Vermittlung) 直接性 (unmittelbares)
個 (個別) (Einzelnheit) 特殊性 (Besonderheit) 普遍 (Allgemeinheit)
商品 物神的性格 変態 資本物神 資本物神




『小論理学』(下) 村松一人訳 岩波書店 1952年発行

  
 ■資本論ワールドによる編集注意事項
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第2部 本 質 論

§112


§112 本質(Wesen)は媒介的に定立された概念(gesetzter Begriff)としての概念である。その諸規定は本質においては相関的であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ反省したものとして存在していない。したがって概念はまだ向自(Fürsich)として存在していない。本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するものである。もっとも、この他者そのものが有的なものとしてではなく、定立され媒介されたものとして存在している。-有は消失していない。本質はまず、単純な自己関係として有である。しかし他方では、有は、直接的なものであるという一面的な規定からすれば、単に否定的なもの、すなわち、仮象(Schein)へひきさげられている。―したがって本質は、自分自身のうちでの反照(Scheinen)としての有である。
  絶対者は本質である。―この定義は、有も同じく単純な自己関係であるかぎり、絶対者は有であるという定義と同じである。しかしそれは同時により高い定義である。というのは、本質とは、自己のうちへはいっていった有であるからである。言いかえれば、本質の単純な自己関係は、否定的なものの否定、自己のうちでの自己媒介として定立された自己関係であるからである。しかし、絶対者を本質と定義するとき、人々はしばしば否定性をあらゆる特定の述語の捨象という意味にとる。すると、この捨象という否定的行為は、本質に無関係なものとなり、本質そのものは特定の諸述語という前提を持たぬ成果、捨象のかすとして存在するにすぎなくなる。しかしこの否定性*注は、有に外的なものではなくて、有自身の弁証法なのであるから、有の真理である本質は、自己のうちへはいっていった有、あるいは自己のうちにある有である。本質と直接的な有との相違をなすものは、先に述べた反省、すなわち、本質が自分自身のうちへ反照するということであって、これが本質そのものに特有の規定である。

(*注:否定性Negativität は、有自身の弁証法。§116参照。なお弁証法の「止揚、揚棄」の類語: aufheben, アウフヘーベン。「あるものをそのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生かすこと。」「矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。」(止揚はウィキペディアより)。
 訳者註。gesetztという言葉は、即自にたいしては、顕現の意味をもって使われるが、ここでは、他のものによってsetzen〔設定
〕される、すなわち媒介されるという意味である。

§112 補遺


§112 ▼補遺 本質と言う場合、われわれはそれを直接的なものとしての有から区別し、有を本質との関係においては単なる仮象とみる。しかしこの仮象は全く無いもの、無ではなく、揚棄されたもの〔aufheben〕としての有である。―本質の立場は一般にReflexion(反省)も立場である(訳者注)。Reflexionという言葉はまず、光が直進して鏡面にあたり、そしてそこから投げ返される場合、光にかんしては用いられる(*注-DSKの反射)。したがってここには二つのものがある。すなわち、一つは直接なもの、有的なものであり、もう一つは媒介されたもの、あるいは定立されたものである。このことは、われわれが或る対象をreflektieren(反省)する、あるいは、普通言われているようにnachdenken(反省〔熟考〕)する場合でも同じである。というのは、その場合われわれは対象を直接態においてでなく、媒介されたものとして知ろうとするからである。普通、人々は哲学の課題あるいは目的は、事物の本質を認識することにあると考えている。そして人々の理解するところによれば、このことはまさに、事物はその直接態のままに放置さるべきではなく、他のものによって媒介あるいは基礎づけられたものとして示されなければならないことを意味するにすぎない。ここでは事物の直接的存在は、言わばその背後に本質がかくされている外皮あるいは幕als eine Rinde oder als ein Vorhangと考えられているのである。--さらに、あらゆる事物は一つの本質を持つと言われるならば、それは、事物の真の姿は直接にあらわれているとおりのものではないことを意味する。単に一つの質から他の質への変転や、また単に質的なものから量的なものへの進展Fortgehen、およびその逆やですべてが終ったのではなく、事物のうちには不変なものがある。そしてこの不変なものがまず本質なのである。

Wesen(本質)というカテゴリーのその他の意味および用法について言えば、まず次のことを指摘することができる。われわれドイツ人は助動詞 sein において、過ぎ去った有を gewesen と呼ぶことによって、その過去を示すに Wesen (本質)という表現を用いる。この不規則な用法には、有と本質との関係にかんする正しい観念が含まれている。というのは、本質は過ぎ去った有とみることができるからである。この場合なお注意すべきことは、過ぎ去ったものはそのために全く否定されているのではなく、揚棄されているにすぎず、したがって同時に保存されてもいるのだ、ということである。
・・・以下、省略・・・

(訳者注) 
 Reflexion, reflektieren という言葉は、ヘーゲルでは独自な意味に使われている。もともと、ラテン語のrflexio は、まがりもどることを意味する。ここから、光については、反射の意味となる。自己をかえりみるという場合の反省も、原意と無関係ではない。しかし、ヘーゲルは相関関係のうちにある二つのものを、その一方から出発して考察するとき、Reflexion という言葉を使う。例えば、支配者というものは、支配される者なしには存在せず、考えられず、自分自身のみからは理解できないものである。このような相関は、そこに存在しているのであるが、われわれが今支配者というものを理解しようとすれば、支配されるものへいき、そして再び支配者へ帰ってこなければならない。相関においては、かくして相関する互の側から、このようReflexion が行われるわけである。これがReflexion の全体的な意味である。しかし、他者へのReflexion というように、この言葉が使われるとき、それは、とりあえず関係という意味しか表面に持っていない。ヘーゲルにおいては、概念が自覚する形をも持つから、反省と訳すが、十分ではない。エンチクロペディーの初版では、ヘーゲルは、「本質の領域では、相関性が支配的な規定をなしている」と言っている。マルクスは、『資本論』で、相対的価値形態を述べたところの、註のうちで Reflexionsbestimmung に言及し、次のように言っている。「Reflexionsbestimmung というものは、一般に、独特なものである。例えば、特定の人間が王であるのは、ただ他の人々が臣下としてかれにたいするからである。ところが、この人々は、かれが王であるからこそ、自分たちは臣下なのだと思っている。」なお、主観的思惟に Reflexion という言葉をヘーゲルが使うとき、それは、すでにこれまでの訳者註に述べたように、関係的、相関的思惟である。

§113


§113  本質における自己関係(Beziehung‐auf‐sich)は、同一性( Identität、自己内反省(Reflexion-insich)という形式である。これは有の直接性(Uumittelbarkeit)に代ってあらわれたものであって、両者はいずれも自己関係という抽象である。
  制限され有限なもののすべてを有るものとみる感性の無思想は、それを自己と同一なもの、自己のうちで自己と矛盾しないものと解する悟性の固執へ移っていくのである。

§114


§114  この同一性は、有から由来するものであるから、最初はただ有の特性にのみまとわれてあらわれ、外的なものと関係するように有と関係するにすぎない。有がこのように、本質から切りはなされて理解されるとき、有は非本質的なもの(das Unwesentliche)と呼ばれる。しかし本質は内在性であって、それは自分自身のうちに自己の否定、他者への関係、媒介を持つかぎりにおいてのみ、本質的である。したがって本質は、非本質的なものを自分自身の反照(Scheinen)として自己のうちに持っている。しかし反照あるいは媒介の作用には区別の作用が含まれており、区別されたものは、自分がそこから由来しながらそのうちに自分が存在しないところの、すなわち仮象として存在しているところの、同一性との区別のうちで、それ自身同一性の形式を持つようになるから、自己へ関係する直接性あるいは有として存在する。

これによって本質の領域は、直接性と媒介性とのまだ完全でない結合となる。ここではすべてが、自己に関係しながら同時に自己から出ているというように定立されている。それは反省の有(ein Sein der Reflexion)であり、自己のうちに他者が反照するとともに、他者のうちに反照する有である。― 本質の領域はしたがって、有の領域では即自的にのみ存在していた矛盾の定立された領域である。    

一つの概念があらゆるものの根抵にあるのであるから、本質の発展のうちには、反省的形式においてではあるが、有の発展におけると同じ諸規定があらわれてくる。したがって、有と無との代りに今や肯定的なもの(das Positive)と否定的なもの(das Negative)とがあらわれ、前者はまず同一性として対立なき有に対応し、後者は区別として展開される(自己のうちで反照することによって)。さらに成は定有の根拠(Grund)であり、定有は、根拠へ反省したものとしては、現存在(Existenz)である。等々。―論理学の(最も難解な)この部分は、主として形而上学および科学一般の諸カテゴリーを含んでいる。これらは反省的悟性の産物であって、この悟性は区別された二つのものを独立的なものとみると同時に、またその相関性を定立し、しかも、この独立性と相関性とを並列的あるいは継起的に「また」によって結合するにすぎず、これら二つの思想を綜合し、概念に統一することはしないのである。


 A 現存在の根拠としての本質 (115-130)
 (Das Wesen als Grund der Existenz)
 
 a 純粋な反省規定 (115-122)
  (Die reinen Reflexionsbestimmungen)
イ 同一性 (Identität)

§115


§115 
 本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性(ldentität mit sich)である。
  この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、抽象とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。
 同一性を、命題の主語としての絶対者と結合すると、絶対者は自己同一なものであるという命題がえられる。―この命題はきわめて真実ではあるが、しかしそれがその真理において言われているかどうかは疑問であり、したがってそれは、少くとも表現において不完全である。なぜなら、ここで意味されているのが抽象的な悟性的同一性、すなわち本質のその他の諸規定と対立しているような同一性であるか、それとも自己内で具体的な同一性であるか、はっきりしないからである。後者の場合には、後でわかるように、それはまず根拠であり、より高い真理においては概念である。―絶対的という言葉さえ、抽象的という意味しか持たないことが多い。絶対的空間、絶対的時間というような言葉は、抽象的な空間、抽象的な時間を意味するにすぎない。
  ・・・以下、省略・・・

§115 補遺


§115 ▼補遺 同一性はまず、われわれが先に有として持っていたものと同じものであるが、しかしそれは直接的な規定性の揚棄によって生成したものであるから、観念性としての有である― 同一性の本当の意味を正しく理解することは、非常に重要である。そのためにはまず第一に、それを単に抽象的な同一性として、すなわち、区別を排除した同一性として解さないことが必要である。これが、あらゆるつまらない哲学と本当に哲学の名に値する哲学とが分れる点である。本当の意味における同一性は、直接的に存在するものの観念性として、宗教的意識にたいしても、その他すべての思惟および意識にたいしても、高い意義を持つカテゴリーである。神にかんする真の知識は、神を同一性、絶対の同一性として知ることからはじまる、と言うことができる。そしてこのことは同時に、世界のあらゆる力と光栄とは神の前に崩れ去り、ただ神の力および光栄の映現としてのみ存在しうることを意味する。――人間を自然一般および動物から区別するものも、自己意識という同一性である。動物は、自分が自我であること、すなわち自己のうちにおける純粋な統一であることを理解する点まで達していないのである。
―思惟にたいして同一性が持っている意義について言えば、何よりも大切なことは、有およびその諸規定を揚棄されたものとして内に含んでいる本当の同一性と、抽象的な、単に形式的な同一性とを混同しないことである。思惟は一面的であるとか、融通がきかないとか、内容がないとかというような、特に感情および直観の立場から非常にしばしば思惟に加えられる非難は、思惟の働きがただ抽象的な同一性の定立にのみあるとする、誤った前提にもとづいているのである。そして本節で述べたような、いわゆる最高思惟法則を掲げることによって、こうした誤った前提を確認するものは、ほかならぬ形式論理学である。もし思惟が抽象的同一性を出ないとすれば、われわれはそれをこの上もなく無用で退屈な仕事と言わなければならないであろう。概念、より進んでは、理念は、確かに自己同一なものではある。しかしそれらは、同時に自己のうちに区別を含んでいるかぎりにおいてのみ、そうなのである。

 

口 区 別 (Der Unterschied)


§116


§116 本質は、それが自己に関係する否定性、したがって自己から自己を反撥するものであるときのみ、純粋な同一性であり、自分自身のうちにおける反照である。したがって本質は、本質的に区別(Unterschied)の規定を含んでいる。
  ここでは他在はもはや質的なもの、規定性、限界ではない。今や否定は、自己へ関係するものである本質のうちにあるのであるから、同時に関係として存在する。すなわちそれは区別であり、定立されて有るもの(Gesetztsein)であり、媒介されて有るもの(Vermitteltsein)である。


§128 ▼補遺


§116  ▼補遺 同一はいかにして区別となるかというような質問をする人があるとすれば、こうした質問のうちには、同一性は、単なる同一性すなわち抽象的な同一性として、単独に存在するものであり、区別も同様に単独に存在する或る別なものである、という前提が含まれている。このような前提をしていては、呈出された質問にたいする答は不可能である。同一を区別と別なものとみれば、そこにわれわれが持つのは区別だけである。進展の径路を問う者にとって、進展の出発点が全く存在しないのであるから、区別への進展を示そうにも、示しようがないわけである。したがってこうした質問は、よく考えてみると、全く無意味である。こんな質問をする人があったら、われわれはまず、かれは同一性という言葉のもとに何を考えているのかときいてみるといい。すると、その人が何も考えていないこと、その人にとって同一性とは空虚な名称にすぎないことがわかるであろう。なお、すでに考察したように、同一性は否定的なものではあるが、しかし抽象的な、空虚な無ではなく、有およびその諸規定の否定である。したがって同一性は同時に関係であり、しかも否定的な自己関係、言いかえれぼ、自分自身から自己を区別するものである。


§117 〔差別 Verschiedenheit と 相等性 Gleichheit〕


§117 (1) 区別は、第一に、直接的な区別、すなわち差別(Verschiedenheit)である。差別のうちにあるとき、区別されたものは各々そ
れ自身だけでそうしたものであり、それと他のものとの関係には無関心である。したがってその関係はそれにたいして外的な関係である。差別のうちにあるものは、区別にたいして無関心であるから、区別は差別されたもの以外の第三者、比較するもののうちにおかれることになる。こうした外的な区別は、関係させられるものの同一性としては、相等性(Gleichheit)であり、それらの不同一性としては、不等性(Ungleichheit)である。

 比較というものは、相等性および不等性にたいして同一の基体を持ち、それらは同じ基体の異った側面および見地でなければならない。にもかかわらず悟性は、これら二つの規定を全く切りはなし、相等性はそれ自身ひたすら同一性であり、不等性はそれ自身ひたすら区別であると考えている。
 差別も同じく一つの命題に変えられている。「すべてのものは異っている」とか、「互に全く等しい二つのものは存在しない」という命題がそれである。ここではすべてという主語に、最初の命題において与えられていた同一性という述語とは反対の述語が与えられている。したがって、最初の命題に矛盾する法則が与えられているわけである。しかし差別は外的な比較に属するにすぎないから、或るものは、それ自身としては、ひたすら自己と同一であり、この第二の命題は第一の命題と矛盾しない、という弁解も成立する。そうするとしかし、差別は、或るものすなわちすべてのものに属さず、このような主語の本質的な規定をなさないことになり、第二の命題は全く語ることのできないものとなる。―或るもの自身が、第二の命題に言われているように、異っているとすれば、それは或るもの自身の規定性によってそうなのである。これがライプエッツの命題の意味でもある。

 ▼補遺 ・・・省略・・・


§118


§118  相等性とは、同じでないもの、互に同一でないものの同一性であり、不等性とは、等しくないものの関係である。したがってこの二つのものは、無関係で別々の側面あるいは見地ではなく、互に反照しあうものである。かくして差別は反省の区別、あるいは、それ自身に即した区別、特定の区別となる。
  ▼補遺 単に差別されたものは互に無関係であるが、相等性と不等性とは、これに反して、あくまで関係しあい、一方は他方なしには考えられないような一対の規定である。単なる差別から対立へのこうした進展は、すでに普通の意識のうちにも見出される。というのは、相等を見出すということは、区別の現存を前提してのみ意味を持ち、逆に、区別するということは、相等性の現存を前提してのみ意味を持つ、ということをわれわれは認めているからである。区別を指摘するという課題が与えられている場合、その区別が一見して明かなような対象(例えばペンと駱駝のように)しか区別しえないような人に、われわれは大した慧眼を認めないし、他方、よく似ているもの(例えば「ぶな」と「かし」、寺院と教会)にしか相等性を見出しえないような人を、われわれは相等性を見出す勝れた能力を持っている人とは言わない。つまりわれわれは、区別の際には同一性を、同一性の際には区別を要求するものである。にもかかわらず、経験科学の領域では、人々はこれら二つの規定の一方のために他方を忘れることが非常に多く、或るときは学問的関心がひたすら現存する区別を同一性へ還元することに向けられ、また或るときは、同じく一面的に、ひたすら新しい区別の発見に向けられている。こうしたことは特に自然科学において行われている。人々はそこで、一方では新しい、ますます多くの新しい物質、力、類、種、等々を発見しようとしており、これまでは単純と考えられていた物体が複合物であることを示そうとしている。そして近代の物理学者や化学者は、たった四つの、しかも単純でさえない元素で満足していた古代人をわらっている。他方ではしかしかれらは、今度はまた単なる同一性をのみ眼中におき、例えば電気と化学的過程とを本質において同じものとみるにとどまらず、消化や同化作用のような有機的過程をも単なる化学的過程とみるのである。すでに103節の ▼補遺で述べたように、人々はしばしば現代の哲学を嘲笑的に同一哲学と呼んでいるが、哲学特に思弁的論理学こそまさに、もちろん単なる差別には満足せず、現存するすべてのものの内的同一性の認識を要求しはするけれども、区別を看過する単なる悟性的同一性の無価値を示すものなのである。


§119


§119 (2) 自己に即した区別は本質的な区別、肯定的なものと否定的なものである。肯定的なものは、否定的なものでないという仕方で自己との同一関係であり、否定的なものは、肯定的なものでないという仕方でそれ自身区別されたものである。両者の各々は、それが他者でない程度に応じて独立的なものであるから、各々は他者のうちに反照し、他者があるかぎりにおいてのみ存在する。したがって本質の区別は対立(Entgegensetzung)であり、区別されたものは自己にたいして他者一般をではなく、自己に固有の他者(sein Anderes)を持っている。言いかえれば、一方は他方との関係のうちにのみ自己の規定を持ち、他方へ反省しているかぎりにおいてのみ自己へ反省しているのであって、他方もまたそうである。つまり、各々は他者に固有の他者である。

  本質的な区別は、「すべてのものは本質的に区別されたものである」、あるいは別な言い方によれば、「二つの対立した述語のうち、一方のみが或るものに属し、第三のものは存在しない」という命題を与える。――この対立の命題は、きわめて明白に同一の命題に矛盾している。というのは、後者によれば或るものは自己関係にすぎないのに、前者によればそれは対立したもの、自己に固有の他者へ関係するものと考えられているからである。このような矛盾した二つの命題を、くらべることさえしないで、法則として並べておくということは、抽象に固有な無思想である。―排中の原理は、矛盾を避けようとし、しかもそうすることによって矛盾を犯す、有限な悟性の命題である。Aは+Aか-Aでなければならない、とそれは言う。しかしこれに・・・中略・・・
 ・・・・・・・・・
 物理学で大きな意義を持っている分極性(Polarität)〔*注〕という表象は、対立に関する正しい規定を含んでいる。にもかかわらず物理学は、思想にかんしては、普通の論理学に頼っている。もし分極性という表象を発展させて、そのうちに含まれている思想に達したら、物理学はおどろくであろう。

〔*注〕分極性(Polarität) 『資本論』1-1節 
1-3 〔磁極性〕
「鉄・紙等々のような一切の有用なる物は、質と量にしたがって二重の観点から考察され るべきものである。このようなすべての物は、多くの属性の全体をなすのであって、したが って、いろいろな方面に役に立つことができる。物のこのようないろいろの側面と、したがってその多様な使用方法を発見することは、歴史的行動(注3)である。有用なる物の量をはかる社会的尺度を見出すこともまたそうである 。商品尺度の相違は、あるばあいには測定さるべき対象の性質の相違から、あるばあいには 伝習から生ずる。」(注3)バーボンの磁極性参照
http://www.marx2016.com/ss_001.html#1-3_jikyokusei


§119 ▼補遺 1


§119 ▼補遺 1 肯定的なものは再び同一性であるが、しかしより高い真理における同一性であって、それは自分自身への同一関係であると同時に、否定的なものでないものである。否定的なものは、それ自身としては、区別そのものにほかならない。同一そのものは、まず無規定のものである。これに反して肯定的なものは、自己同一なものではあるが、他のものにたいするものとして規定されているものであり、否定的なものは、同一性でないという規定のうちにある区別そのものである。すなわち、否定的なものは自分自身のうちにおける区別の区別である。―人々は肯定的なものと否定的なものとを絶対の区別と考えている。しかし両者は本来同じものであり、したがってわれわれは、肯定的なものをまた否定的なものと呼ぶこともできるし、逆に否定的なものを肯定的なものと呼ぶこともできる。

例えば、財産と負債とは、特殊の、独立に存在する二種の財産ではない。一方の人、すなわち債務者にとって否定的なものは、他方の人、すなわち債権者にとっては肯定的なものである。東への道程の場合でも同じことであって、それは同時に西への道程である。肯定的なものと否定的なものとは、したがって、本質的に制約しあっているもの、相互関係においてのみ存在するものである。
磁石Magnetの北極Nordpolは南極Südpolなしには存在しえず、南極Sdpolは北極Nordpolなしには存在しえない。磁石を切断すれば、一片には北極が、他方には南極があるというようなことはない。同様に電気Elektrizitätにおいても、陽電気と陰電気とは独立に存続する別々の流動体ではない。

一般に対立においては、区別されたものは自己にたいして単に或る他物を持つのでなく、自己に固有の他者を持つのである。普通の意識は、区別されたものは相互に無関係であると考えている。例えば、われわれは、私は人間であり、私の周囲には空気、水、動物、および他者一般がある、と言う。ここではすべてのものが別々になっている。哲学の目的は、これに反して、このような無関係を排して諸事物の必然性を認識することにあり、他者をそれに固有の他者に対立するものとみることにある。例えば、われわれは無機的自然を単に有機的なものとは別なものとのみみるべきではなく、有機的なものに必然な他者とみなければならない。両者は本質的な相互関係のうちにあり、その一方は、それが他方を自分から排除し、しかもまさにそのことによって他方に関係するかぎりにおいてのみ、存在するのである。同様に自然もまた精神なしには存在せず、精神は自然なしには存在しない。物を考える場合、「なお別なことも可能だ」と言う段階を脱するのは、一般に重要な一歩前進である。こういう言い方をする場合、われわれはまだ偶然的なものから脱していないのであって、これに反して、先に述べたように、真の思惟は必然的なものの思惟である。―現代の自然科学は、まず磁気において極(Polaritat)として知られた対立を、全自然をつらぬいているもの、普遍的な自然法則と認めるにいたっているが、これは疑もなく学問上本質的な進歩である。ただこの場合大切なことは、折角それまで進みながら、またしても無造作に単なる差別を対立と同等なものと認めないことである。しかし人々は、よくそうしたことを行っている。例えば、人々は一方では正当にも色を二つの極のように対立するもの(いわゆる補色)とみながら、他方ではまた、赤、黄、緑、等々を、互に無関係な、また単に量的な区別とみている。


§119 ▼補遺2


§119 ▼補遺2 われわれは、抽象的悟性の命題である排中の原理にしたがって語るかわりに、むしろ「すべてのものは対立している」と言うべきであろう。悟性が主張するような抽象的な「あれか、これか」は実際どこにも、天にも地にも、精神界にも自然界にも存在しない。あるものはすべて具体的なもの、したがって自分自身のうちに区別および対立を含むものである。事物の有限性は、その直接的定有が、それが即自的にあるところのものに適合していないことにある。例えば無機的自然において酸は即自的には同時に塩基である。すなわち、それに固有の他者に関係しているということのみが、その有をなしているのである。だから酸はまた対立のうちに静かにとどまっているものではなく、常に自己の即自を実現しようと努めているものである。一般に、世界を動かすものは矛盾である。矛盾というものは考えられないと言うのは、わらうべきことである。このような主張において正しい点はただ、矛盾は最後のものではなく、自分自身によって自己を揚棄するということである。揚棄された矛盾は、しかし、抽象的な同一性ではない。同一性はそれ自身対立の一項にすぎないからである。矛盾として定立された対立の最初の結果は根拠(Grund)であって、それはそのうちに同一性ならびに区別を、揚棄され単なる観念的モメントヘおとされたものとして、含んでいるものである。


§120


§120  肯定的なものとは、向自的であると同時に自己の他者へ無関係であってはならないような、差別されたものである。否定的なものも同様に独立的で、否定的とはいえ自己へ関係し、向自的でなければならない。しかしそれは同時に、否定的なものとして、こうした自己関係、すなわち自己の肯定的なものを、他のもののうちにのみ持たなければならない。両者はしたがって定立された矛盾であり、両者は潜在的に同じものである。また、両者はそれぞれ他方の否定であるとともに自分自身の否定であるから、両者は顕在的にも同じものである。両者はかくして根拠へ帰っていく。―あるいは、直接的に言えば、本質的な区別は即自かつ対自的な区別であるから、それはただ自分自身から自己を区別するのであり、したがって同一的なものを含んでいる。したがって、区別の全体、即自かつ対立的にある区別には、区別自身のみならず同一性も属するのである。―自分自身へ関係する区別と言えば、それはすでに、この区別が自己同一的なものであることを言いあらわしているのであり、対立したものは一般に、或るものとその他者、自己と自己に対
立したものとを自己のうちに含んでいるものである。本質の内在性がこのように規定されるとき、それは根拠である。


ハ 根 拠 (Der Grund)


§121


§121  根拠(理由)は同一と区別との統一、区別および同一の成果の真理、自己へ反省すると同じ程度に他者へ反省し、他者へ反省すると同じ程度に自己へ反省するものである。それは統体性として定立された本質である。
  すべてのものはその十分な根拠を持っているというのが、根拠の原理である。これはすなわち、次のことを意味する。或るものの真の本質は、或るものを自己同一なものとして規定することによっても、異ったものとして規定することによっても、これをつかむことができず、また或るものを単に肯定的なものと規定しても、単に否定的なものとして規定することによっても、つかむことができない。或るものは、他のもののうちに自己の存在を持っているが、この他のものは、或るものの自己同一性をなすものとして、或るものの本質であるようなものである。そしてこの場合、この他者もまた同じく、単に自己のうちへ反省するものではなく、他者のうちへ反省する。根拠とは、自己のうちにある本質であり、そしてこのような本質は、本質的に根拠である。そして根拠は、それが或るものの根拠、すなわち或る他のものの根拠であるかぎりにおいてのみ、根拠である。


§121  ▼補遺


§121  ▼補遺 根拠は同一と区別との統一であると言う場合、われわれはこの統一を抽象的な同一と考えてはならない。・・・・・・以下、省略・・・


§122


§122 本質はまず自己のうちで反照し媒介されているものである。しかし媒介が完成されたからには、本質の自己統一は今や区別の揚棄、したがって媒介の揚棄として定立されている。したがってこれは直接態あるいは有の復活である。が、この有は媒介の揚棄によって媒介されている有、すなわち現存在(Existenz)である。
根拠は絶対的に規定された内容を持たず、また目的でもない。したがってそれは活動的でも産出的でもなく、現存在は根拠から単にあらわれ出るにすぎない。したがって特定の根拠と言ってもやはりそれは形式的なものである。言いかえれば、それはどんな規定性でもいいのであって、ただそれと連関している直接的な現存在との関係において、自己関係的なもの、肯定的なものとして定立されているものであればいいのである。それは根拠でありさえすれば、同時にしかるべき根拠でもある。というのは、しかるべきという言葉は、全く抽象的には、肯定的ということを意味するにすぎず、われわれがなんらかの仕方で明白に肯定的なものとして言いあらわしうる規定性は、すべてしかるべきものであるからである。だから、われわれは、あらゆるものにたいして、なんらかの根拠を見出し挙げることができ、しかるべき根拠(例えば行動のしかるべき動機)なるものは、何事かをひきおこすかもしれないし、またひきおこさないかもしれない、結果を持つかもしれないし、また持たないかもしれない。例をもって示せば、しかるべき理由は、意志のうちへ取り入れられてはじめて何事かをひきおこす動機となるのであり、意志がはじめてそれを活動的なもの、原因とするのである。


b 現 存 在 (Die Existenz)


§123


§123 現存在は、自己のうちへの反省と他者のうちへの反省との直接的な統一である。したがってそれは、自己のうちへ反省すると同時に他者のうちへ反照し、相関的であり、根拠と根拠づけられたものとの相互依存および無限の連関からなる世界を形成する、無数の現存在である。ここでは根拠はそれ自身現存在であり、現存在も同じく、多くの方面に向って、根拠でもあれば根拠づけられたものでもある。
  ▼補遺 Existenz〔現存在〕という言葉は、ラテン語のexistere〔出現する〕という動詞から作られたものであって、出現している有(Hervorgegangensein)を示す。すなわち現存在とは、根拠から出現し、媒介を揚棄することによって回復された有である。本質は揚棄された有であるから、まず自己のうちにおける反照であり、そしてこの反照の諸規定は同一、区別、および根拠であった。根拠は同一と区別との統一であり、したがって同時に自己を自分自身から区別するものである。

ところで、根拠から区別されたものは、根拠そのものが単なる同一性でないように、単なる区別ではない。根拠は自己を揚棄するものである。そして根拠が自己を揚棄して移っていくもの、すなわち根拠の否定の結果が、現存在である。これは根拠から出現したものであるから、根拠をその内に含んでおり、そして根拠は現存在の背後にとどまっているものではなく、自己を揚棄して現存在へ移っていくものである。こうした関係は、普通の意識のうちにも見出される。われわれが或るものの根拠を考察する場合、この根拠は単に内面的なものではなく、それ自身再び一つの現存在である。例えば、われわれは火事の根拠として或る建物に点火した電光を考え、同様にまた或る民族の政体の根拠としてその民族の風習および生活関係を考える。これが一般に、現存在する世界が最初にわれわれの反省の前にあらわれる姿である。それは、自己へ反省すると同時に他者へ反省し、互に根拠および根拠づけられたものとして関係しあっている無数の現存在である。現存在するものの総括としての世界のうちに行われている、このような種々様々の関係のうちには、まずどこにも確かな拠りどころが見出されない。すべては、他のものに制約されるとともに、他のものを制約する相対的なものとしてのみあらわれている。反省的悟性はこれらの全面的関係を探り追求することを仕事としているのであるが、それでは、究極目的は何かという問題は解決されないままに残る。したがって概念をとらえようとする理性は、論理的理念の一層の発展とともに、このような単なる相対性の立場を越えて進んで行くのである。


§124


§124  しかし、現存在するものの他者への反省は、自己への反省と不可分である。なぜなら、根拠は両者の統一であって、現存在はこの統一からあらわれ出たものだからである。したがって、現存在するものは、相関性、すなわち諸他の現存在と自分とのさまざまな連関を、自分自身のうちに含み、根拠としての自己のうちへ反省している。かくして、現存在するものは物(Ding)である。
  カント哲学においてあんなに有名になった物自体(Ding-an-sich)は、ここでその発生において示される。すなわちそれは、他者への反省および一般に異った諸規定が排除されて、そうした諸規定の空虚な基礎である抽象的な自己内反省が固執されているものである。


§124 ▼補遺


§124 ▼補遺 物自体は認識できないものであるという主張は、次のような意味でのみ正しい。すなわち、認識するとは、対象を具体的な規定性においてとらえることを意味するのに、物自体は、全く抽象的で無規定の物一般にすぎないのである。のみならず、もし物自体というようなことが言えるとすれば、同じ権利をもってわれわれは、質自体とか量自体とか言うこともできるであろうし、さらにその他のすべてのカテゴリーについても同様のことが言えるであろう。・・・以下、省略・・・



c 物(Das Ding)


§125


§125 物は根拠と現存在という二つの規定が発展して一つのもののうちで定立されているものとして、統体である。それは、そのモメントの一つである他者内反省からすれば、それに即してさまざまの区別を持ち、これによってそれは規定された、具体的な物である。 
(イ) これらの諸規定は相互に異っており、それら自身のうちにではなく、物のうちにその自己内反省を持っている。それらは物の諸性質(Eigenschaften)であり、それらと物との関係は、持つという関係である。
  今や“ある”の代りに、持つという関係があらわれる。“或るもの”も自己に即してさまざまの質を持ってはいるが、このように持つという言葉を有的なものへ転用するのは正確ではない。なぜなら、質としての規定性は、或るものと直接に一体であって、或るものがその質を失うとき、或るものは存在しなくなるからである。しかし物は自己内反省であり、区別から、すなわち自己の諸規定から区別されてもいるところの同一性である。―Haben〔持つ〕という言葉は、多くの言語において過去をあらわすに用いられているが、これは当然である。というのは、過去とは揚棄された有であるからである。精神は過去の自己内反省であって、過去は精神のうちでのみなお存立を持っているが、しかし精神はまたこの自己のうちで揚棄された有を自己から区別してもいる。


§124 ▼補遺


§125 ▼補遺 物において、すべての反省規定が、現存在するものとして再びあらわれてくる。かくして物は、まず物自体としては、自己同一なものである。しかし、すでに述べたように、同一は区別なしには存在しない。そして物が持っている諸性質は、現存在している区別-差別のかたちにおける―である。以前は、差別されたものは相互に無関係であって、外的な比較がそれらの相互関係を作り出したのであるが、今やわれわれは物において、さまざまの性質を相互に結合する紐帯を持っている。

なお、われわれは性質Eigenschaftと質Qualitätとを混同してはならない。われわれは、或るものが質を持っているというような言い方をしないでもない。しかし、持つという言葉は、その質と直接に同一である或るものにはまだ属しないような独立性を示すから、こうした言い方は適当でないのである。或るものは、その質によってのみ或るものである。これに反して物は、諸性質を持つかぎりにおいてのみ現存在するものではあるが、しかしあれこれの特定の性質に結びつけられているものではなく、したがってそれらを失っても、その物でなくなるということはない。


§126


§126 (ロ) しかし根拠においてさえ、他者への反省はそれ自身直接に自己への反省である。したがって諸性質はまた自己同一であり、独立的でもあって、物に結びつけられていることから解放されてもいる。しかしそれらは、物の相互に区別された諸規定性が自己のうちへ反省したものであるから、それら自身具体的な物ではなく、抽象的な規定性として自己へ反省した現存在、質料(Materie)である。
  さまざまの質料、例えば磁気的、電気的質料は、実際また物とは呼ばれない。―それらは本来の意味における質、すなわちそれらの有と一つのものであり、直接態に達した規定性である。もっともこの直接態は、反省した有としての、したがって現存在であるところの有としての直接態であるけれども。


§126 ▼補遺


§126 ▼補遺 物が持つ諸性質が独立して、それらから物が成立する質料となるということは、物の概念にもとづいており、したがって経験のうちにも見出される。しかし、例えば、色とか匂とかのような物の諸性質を特殊の色素や臭素として示しうるということから、これですべては終ったのであって、物の本質をさぐるには物をその質料へ分解しさえすればよいと結論するのは、論理にも経験にも反している。独立的な諸質料への分解ということは、ただ無機的自然においてのみ本来の場所を持っている。したがって化学者が、例えば食塩や石膏をその質料に分解して、前者は塩酸とソーダ、後者は硫酸と石灰とから成ると言うとき、かれは正当である。また地質学が花崗岩を石英と長石と雲母とから合成されているとみるのも、同様に正当である。そして物を構成しているこれらの質料は、一部はそれ自身また物であり、したがってより抽象的な素材に分解されうる。例えば、硫酸は硫黄と酸素とから成っている。このような質料あるいは素材は、実際独立に存在するものとしてあらわされうるものであるが、このような独立を持たない諸性質が特殊の質料とみられることもしばしばある。例えば、熱や電気や磁気の質料とかいうようなことが言われているが、このような質料や素材は悟性の虚構にすぎない。一体に、理念の特定の発展段階としてのみ妥当する個々のカテゴリーを勝手にとらえてきて、すなおな直観と経験とに反するにもかかわらず、説明のためと称して、あらゆる考察の対象をそれに還元してしまうのが、抽象的な悟性的反省のやり方である。かくして、物が独立の諸質料からなるという思想は、それがもはや全く妥当しない領域にもしばしば適用されている。すでに自然の範囲内でも、有機的生命においてはこのカテゴリーは不十分である。われわれはこの動物は骨、筋肉、神経、等々から成ると言いはする。しかしこの場合、花崗岩の一片が上述のような諸質料から成るのとは、わけがちがうということはきわめて明白である。花崗岩を構成している諸質料は、その結合にたいして全く無関心であり、結合されていなくても存立することができる。これに反して有機的な肉体のさまざまの部分は、それらの結合のうちにのみ存立を持ち、はなればなれになると、そうしたものでなくなってしまう。


§127


§127 かくして質料は抽象的な、すなわち未規定の他者内反省であり、あるいは、同時に規定されたものとしての自己内反省である。質料はしたがって定有的な物性であり、物を存立させるものである。かくして物はその自己への反省を諸質料のうちに持ち(125節の反対)、自己に即して存立するものではなくて、諸質料からなるものであり、諸質料の表面的な連関、外面的な結合にすぎない。


§128


§128 (ハ) 質料は、現存在の自己との直接的統一であるから、規定性にたいして無関心でもある。したがって、さまざまの質料は合して一つの質料、すなわち、同一性という反省規定のうちにある現存在となる。他方、これらさまざまの規定性、およびそれらが物のうちで相互に持っている外面的な関係は、形式(Form)である。これは区別という反省規定であるが、しかし現存在しかつ統体性であるところの区別である。
  この無規定的な一つの質料もまた物自体と同じものである。ただ異るところは、物自体が全く抽象的な存在であるに反し、前者は即自的に他者との関係、まず第一に形式との関係を含んでいる点にある。

§128 ▼補遺


§128 ▼補遺 物を構成しているさまざまの質料は本来同じものである。これによってわれわれは、区別がそれにたいして外的なものとして、すなわち単なる形式として定立されているような一つの質料一般を持つことになる。物はすべて同一の質料をその基礎に持ち、それらの相違はただ外的にのみ、すなわち形式においてのみあるにすぎないという考え方は、反省的意識にはきわめてよく知られたものである。この場合質料は、それ自身は全く無規定的でありながら、しかもどんな規定でも受け入れることができるものであり、また絶対に永久不変で、あらゆる変転、変化のうちで自己同一にとどまるものである、と考えられている。特定の形式にたいする質料のこうした無関心は、確かに有限な事物のうちには見出される。例えば、大理石の一片にとっては、どんな立像の形が与えられようと、あるいはまた円柱の形が与えられようと、どうでもいいことである。
しかし、この場合見のがしてならないのは、大理石の一片のような質料でも、ただ相対的にのみ(彫刻家にたいしてのみ)形式に無関心なのであって、けっして、一般に無形式ではない、ということである。鉱物学者は、相対的にのみ無形式の大理石を特定の組成をもつ岩石とみ、同じく特定の組成をもつ他の岩石、例えば、砂石、斑岩などから区別している。したがって、質料をそれだけで独立させ、それ自身あくまで無形式のものと考えるのは、抽象を事とする悟性にほかならない。事実はこれに反して、質料という概念は、あくまで形式の原理を自己のうちに含んでいるのであり、だからこそ経験においても、形式のない質料はどこにも現存しないのである。なお、質料は本源的な存在であり、かつそれ自身無形式のものであるという考え方は、きわめて古く、すでにギリシャに見出される。その最初の姿はギリシャ神話のカオスであって、それは現存在の世界の没形式の基礎と考えられている。こうした考え方にしたがえば、神は世界の創造者ではなく、世界の単なる形成者、デミウルゴスと考えられなければならない。しかし一層深い見方は、神は世界を無から創造したという見方である。これは二つのことを含んでいる。一つには、質料そのものはけっして独立を持たないということであり、もう一つには、形式は外から質料に達するのではなく、統体性として質料の原理を自己のうちに持っているということである。このような自由で無限な形式は、後に示されるように、概念である。


§129


§129 かくして物は質料と形式とにわかれる。この両者はいずれも物性(Dingheit)の全体であり、おのおの独立的に存立している。しかし肯定的で無規定の現存在たるべき質料も、それが現存在である以上、自己内有とともにまた他者への反省を含んでいる。こうした二つの規定の統一として、質料はそれ自身形式の全体である。しかし形式は、諸規定の総括であるという点だけから言ってもすでに、自己への反省を含んでいる。言いかえれば、それは自分自身へ関係する形式として質料の規定をなすべきものを持っている。両者は即自的に同じものである。両者のこうした同一の定立されたものが、同時に異ったものでもあるところの質料と形式との関係である。


§130


§130 物はこのような統体性として矛盾である。すなわち、物は、否定的統一からすれば形式であり、質料はそのうちで規定されて諸性質にひきさげられているが(125節)、同時に物はもろもろの質料からなっており、これらは物の自己への反省のうちで、否定されたものであると同時に独立的なものでもある。かくして物は、自分自身のうちで自己を揚棄する現存在としての本質的な現存在、すなわち現象(Exscheinung)である。
  物においては、もろもろの質料の独立性と同時にそれらの否定が定立されているが、この否定は物理学では多孔性(Porosität)という姿をとってあらわれている。多くの質料(色素、嗅素、およびその他の諸質料。音素、熱素、電素等々というようなものなどまで考えている人もある)の各―は否定されてもいる。そしてこれらのこうした否定性、すなわち、これらが持っている多くの孔のうちに、他の多くの独立な質料が存在し、それらも同じく孔を持ち、かくして互に自分のうちに他のものを存在させるようになっている。この孔なるものはけっして経験的に見出されるものではなく、悟性の作りものである。悟性は、独立的な諸質料が持っている否定のモメントをこのような仕方で考え、そして矛盾のそれ以上の進展を、そのうちではすべてが独立的であるとともに、またすべてが互のうちで否定されているところの混沌をもっておおいかくすのである。―同じような仕方で精神の諸能力や諸作用が実体化される場合、それらの生きた統一は、それらが互に作用しあうという混乱となってしまう。
 孔が観察によって確証されうるものでないと同じように(ここで孔というのは、例えば木材や皮膚の孔のような有機体の孔をさすのではなく、色素とか熱素とか、あるいは金属や結晶などのような、いわゆる質料のうちにある孔である)、質料そのものとか、質料から切りはなされた形式というようなもの(その最も手近な例は、物が質料から成立しているという考え、および物はそれ自身存立していて諸性質を持つにすぎないという考えである)もまた反省的な悟性の産物である。この悟性は、観察しそして観察するものを記述すると称しながら、かえって一種の形而上学を作り出しているのであり、そしてこの形而上学は、あらゆる方面で矛盾にみちているのに、悟性はそれに気づかないのである


B 現 象 ( Die Erscheinung)


§131


§131 本質は現象しなければならない。本質が自己のうちで反照Scheinenするとは、自己を直接態へ揚棄することである。この直接態は自己への反省としては存立性(質料)であるが、同時にまたそれは形式、他者への反省、自己を揚棄する存立でもある。反照するということは、それによって本質が有でなく本質であるところの規定であり、そしてこの反照の発展した形態が現象である。したがって本質は現象の背後または彼方にあるものではなく、本質が現存在するものであることによって現存在は現象なのである。


§131 ▼補遺


§131 ▼補遺 現存在の矛盾が定立されたものが現象である。現象を単なる仮象(Schein)と混同してはならない。仮象は有あるいは直接態の最初の真理である。直接的なものは、われわれが思っているような独立的なもの、自己に依存しているものではなく、仮象にすぎない。かかるものとしてそれは、内在的な本質の単純性へ総括されている。本質は最初は自己内での反照の全体であるが、しかしそれはそうした内面性にとどまっていないで、根拠として現存在のうちへあらわれ出る。こうした現存在は、その根拠を自己のうちにではなく、他のもののうちに持つのであるから、まさに現象にほかならない。現象と言うとき、われわれは、その存在が全く媒介されたものにすぎず、したがって自分自身に依存せず、モメントとしての妥当性しか持っていないような多くの多様な現存在する物を思いうかべる。しかしこの表象のうちには同時に、本質は現象の背後または彼方にとどまるものではなく、自己の反照を直接態のうちへ解放して、それに定有の喜びを与える無限の仁慈であることが含まれている。このようにして定立された現象は、自分の足で立っているものではなく、その有を自分自身のうちでなく、他のもののうちに持っている。・・・以下、省略・・・


a 現象の世界(Die Welt der Erscheinung)


§132


§132 現象的なものの現存在の仕方においては、現象的なものの存立性(Bestehen)が直接的に揚棄されて、それは形式そのものの単なる一モメントとなっており、形式は存立性あるいは質料を、諸規定の一つとして自己のうちに含んでいる。かくして現象的なものは、その本質としての、すなわち、その直接態に対立する自己内反省としての、質料のうちにその根拠を持ってはいるが、しかし現象的なものはこのことによって、他者内反省としての形式のうちにのみその根拠を持つ。形式という現象の根拠も同じく現象的なものであり、かくして現象は、存立性の形式による、したがってまた非存立性による、無限の媒介へ進んでいく。この無限の媒介は、同時に自己への関係という統一であり、そして現存在は、現象すなわち反省された有限性の総体、つまり現象の世界へ発展させられている。


b 内容と形式 (Inhalt und Form)


§133


§133  現象の世界を作っている個々別々の現象は、全体として一つの統体をなしていて、現象の世界の自己関係のうちに全く包含されている。かくして現象の自己関係は完全に規定されており、それは自分自身のうちに形式を持っている。しかも、それは自己関係という同一性のうちにあるのであるから、それは形式を本質的な存立性として持っている。かくして形式は内容(Inhalt)であり、その発展した規定性は現象の法則(Gesetz)である。これに反して、現象の否定的な方面、すなわち非独立的で変転的な方面は、自己へ反省しない形式である。それは無関係的な、外的な形式である。
  形式と内容という対立において、けっして忘れてならないことは、内容は無形式なものではなく、形式は内容にたいして外的なものであると同時に、内容は形式を自分自身のうちに持っている、ということである。形式には二通りあって、それは一方自己へ反省したものとしては内容であり、他方自己へ反省しないものとしては内容に無関係な、外的な現存在である。ここには潜在的に内容と形式との絶対的相関、すなわち両者の相互転化があり、したがって内容と
は、内容への形式の転化にほかならず、形式とは、形式への内容の転化にほかならない。この転化はきわめて重要な法則の一つである。しかしそれは絶対的相関においてはじめて顕在するようになる。 


§133 ▼補遺


§133 ▼補遺 形式と内容という規定は、反省的悟性が非常にしばしば使用する一対の規定であるが、その際悟性は主として、内容を本質的で独立的のものとみ、これに反して形式を非本質的で独立的でないものと考えている。しかし、実際は両者ともに同様に本質的なものであって、形式を持たない質料が存在しないと同じように、形式を持たない内容も存在しないのである。内容と質料とがどうちがうかと言えば、質料は潜在的には無形式ではないけれども、その定有においては形式に無関心なものとしてあらわれているに反して、内容は、内容である以上、完全な形式を自己のうちに含んでいなければならない。もっとも、内容に無関係で外的な現存在であるような形式もまた存在する。こうしたことは、現象が一般にまだ外面性を脱しないところから起るのである。例えば、本について言えば、それが書かれたものであるか、印刷されたものであるか、あるいはまた、紙表紙であるか、皮表紙であるかは、確かにその内容には無関係である。しかし、このような外的でどうでもいいような形式を別とすれば、本の内容そのものが没形式だということはけっしてない。もちろん、内容から言っても当然無形式と言いうるような本がたくさんありはする。しかしこの場合、無形式というのと同じ意床であって、形式一般がないのではなく、正しい形式がないのである。正しい形式は、内容に無関係であるどころか、むしろ内容そのものである。したがって正しい形式を欠く芸術作品は、正しいすなわち真の芸術作品ではない。或る芸術家について、かれの作品の内容はいいが(否、すばらしくさえあるが)、ただ形式が欠けていると言われるとすれば、それは弁護になっていない。真の芸術作品は、その内容と形式が全き同一を示しているようなものである。・・・以下、省略・・・


§134


§134  しかし、直接的な現存在は、形式の規定性でもあれば、存立性そのものの規定性でもある。したがってそれは内容の規定性にたいして外的でもあるが、しかし他方内容がその存立性というモメントによって持つところのこの外面性は、内容にとって同じく本質的でもある。このようなものとして定立された現象が相関(Verhältnis)であって、ここでは同一のもの、すなわち内容が、発展した形式として、外的で対立した独立の現存在としてあると同時に、また同一的な関係としても存在し、異った二つのものは、こうした同一関係のうちでのみそれらがあるところのものである。


c 相  関 (Verhältnis)


§135


§135 (イ) 直接的な相関は、全体と部分(das Ganze und die Teile)とのそれである。内容は全体であり、自己の対立者である諸部分(形式)から成っている。諸部分は相互に異っていて、独立的なものである。しかしそれらは相互の同一関係においてのみ、すなわち、それらが総括されて全体を形成するかぎりにおいてのみ、諸部分である。しかし総括は部分の反対であり否定である。


§135  ▼補遺


§135  ▼補遺 本質的な相関ということは、規定された、全く普遍的な現象の仕方である。現存在するものは、すべて相関をなしており、この相関があらゆる現存在の真理である。したがって現存在するものは、単に独立的に存在するものではなく、他のもののうちにのみあるものである。しかしそれは他のもののうちで自己へ関係するから、相関は自己への関係と他者への関係との統一である。
 全体と諸部分という相関は、その概念と実在とが一致していないかぎりにおいて、真実でないものである。全体という概念は、諸部分を含むということである。しかし、全体がその概念上あるところのものとして定立されると、すなわち、それが分割されると、それは全体でなくなる。全体と部分という相関に対応しているような事物もあるにはあるが、しかしそれはまさにそれゆえに低い、真実でない存在である。この場合、一般に注意すべきことは、哲学において真実でないもの(das Unwahre)と言われるとき、そうしたものが現存しないという意味に解されてはならないということである。悪い国家とか病気の肉体というようなものはあくまで存在するであろう。が、これらは、その概念と実在とが一致していないから、真実でないものである。―全体と諸部分という相関は、直接的な相関であるから、反省的な悟性にはきわめてわかりやすい。そのために反省的悟性は、その実一層深い関係が問題である場合でも、この関係で満足していることが多い。例えば、生きた肉体の肢体や器官は、単に部分とのみみるべきものではない。なぜなら、それらは、それらの統一のうちにおいてのみ、肢体や器官であって、けっして統一に無関係なものではないからである。それらは、解剖学者の手にかかるとき、はじめて単なる諸部分となるのであり、解剖学者が取扱うのは、もはや生きた肉体ではなくて、死体にすぎない。こう言ったからといって、一般にこうした分解を行ってはならないと言うのではないが、しかし全体と諸部分というような外部的で機械的な関係は、有機的生命の真の姿を認識するには不十分なものである。

-全体と部分というような関係を、精神および精神の世界の諸形態に適用すれば、その不十分ははるかに著しいものとなる。心理学者は、心あるいは精神の諸部分というような言葉こそ使っていないが、しかし精神の活動の諸形態をそれぞれ独立させ、いわゆる特別の力及び能力として枚挙し記述している。このかぎりにおいて、人々が心理学を単に悟性の立場から研究する場合には、人々は同じく全体と部分という有限な相関関係の観念を根抵においているのである。


§136


§136 (ロ) したがってこの相関のうちにある同一なもの、すなわち自己関係は、直接に否定的な自己関係である。すなわち、それは媒介ではあるが、しかしこの媒介は、同一的なものが区別にたいして無関心でありながら、しかも否定的な自己関係であるというような媒介である。そしてこの否定的な自己関係は、自己への反省としての自分自身をつきはなして区別となり、他者への反省として現存在するようになるが、逆にまたこの他者への反省を自己への反省および無関心性へ復帰させる。こうした相関がすなわち力(Kraft)とその発現(Ӓusserung)である。
  全体と諸部分との相関は、直接的な、したがって無思想な相関であり、自己同一の差別への無思想な転化である。われわれは全体から諸部分へ、諸部分から全体へ移っていく。そして一方のうちで、それがもう一つのものへ対立したものだということを忘れ、各々をそれだけで、すなわち或るときは全体を、或るときは諸部分を、独立の存在と考える。別の言葉で言えば、われわれは、諸部分は全体のうちに存立し、全体は諸部分から成立すると考えているから、或るときは全体を本質的で諸部分を非本質的と考え、或るときは諸部分を本質的で全体を非本質的と考えているのである。機械的関係の表面的な形式は、諸部分が相互にたいしてもまた全体にたいしても独立的なものとして存在することにある。
 物質の可分性にかんする無限進行は、この相関を利用することもできる。すると、その無限進行は、この相関の二つの側面の無思想な交替となる。すなわち、或る物がまず全体的なものととられ、次にわれわれは部分の規定へ移っていく。今度はこの規定を忘れ、以前部分であったものを全体と考える。するとまた部分の規定が考えられてくる、という風にして無限に進むのである。われわれがしかしこの無限を、それが実際そうであるように、否定的なものと解すると、この無限は、全体と部分という相関の否定的な自己関係である。すなわち、自己内にあるものとして自己同一的全体でありながら、しかもこの自己内有を揚棄して発現するところの力であり、また逆に、消滅して力のうちへ帰っていくところの発現である。

 力は、このように無限であるにもかかわらず、また有限でもある。なぜなら、内容すなわち力と発現とのうちにある同一なものは、潜在的にのみ同一であるにすぎず、相関の二つの側面の各々は、まだそれ自身顕在的には相関の具体的な同一でなく、まだ統体性でないからである。したがって二つの側面は、相互にたいして異ったものであり、相関は有限な相関である。力はしたがって外からの誘発を必要とし、盲目的に作用する。そしてその形式がそうした欠陥を持っているために、内容もまた制限され偶然的である。その内容はまだ形式と真に同一でなく、絶対的に規定されている概念や目的ではない。―この区別はきわめて根本的なものであるが、その理解は容易でない。それは目的概念のところではじめて詳しく規定されるであろう。この区別をみのがすと、特にヘルダーにみられるように、神と力と混同するというようなことがおこってくる。
 人々はよく、力の本性そのものは認識できないものであって、認識できるのはその発現だけであると言う。しかし一方、力の内容規定の全体はまさに発現のそれと同じものであり、したがって現象を力から説明するのは、空虚な同語反復である。だから、人々があくまで認識できないと考えているものは、その実自己への反省という空虚な形式にすぎない。力はこうした形式によってのみ発現と区別されているのであって、それはよく知られているものでもある。こうした形式は、現象からのみ認識さるべき内容および法則に、何一つ新しいものをつけ加えはしないのである。また人々はよく、自分は力という言葉を使うが、力とはどういうものかについては何も主張しない、というようなことを言う。それでは、なぜ力という形式を諸科学に導き入れたのか理解に苦しまざるをえない。―他方、力の本性は認識できないものでもある。なぜなら、力の内容が制限されたものであり、したがってその規定性を自己以外のものによって持っているものであるかぎり、力の内容にはまだその内容の必然性も、内容のそれ自身のうちにおける連関の必然性も欠けているからである。


§136  ▼補遺1 ・・・略・・・
     ▼補遺2 ・・・略・・・

§137


§137  力は、自分自身に即して自己へ否定的に関係する全体であるから、自己を自己から反撥し、そして発現するものである。しかしこのような他者への反省、すなわち諸部分の区別は、同様に自己への反省でもあるから、発現は、自己のうちへ帰る力が、それによって力として存在するところの媒介である。力の発現はそれ自身、この相関のうちにあるこつの項の差別の揚棄であり、潜在的に内容をなしている同一性の定立である。力と発現との真理はしたがって、その二つの項が内的なものと外的なものとしてのみ区別されているような相関である。


§138


§138 (ハ) 内的なもの(das Innere)は、現象および相関の一側面という単なる形式としてあるような根拠であり、自己内反省という空虚な形式である。そしてそれには、他者への反省という空虚な規定を持ち、同じく相関のもう一つの側面という形式としての現存在が、外的なもの(das Ӓussere)として対立している。内的なものと外的なものとの同一は、実現された同一であり、内容であり、自己への反省と他者への反省との統一が力の運動のうちで定立されたものである。両者は同じ一つの総体であり、この統一が両者を内容とするのである。


§139


§139
 したがってまず第一に、外的なものは内的なものと同じ内容である。内にあるものは外にもあり、外にあるものは内にもある。現象が示すものはすべて本質のうちにあり、本質のうちにあるものはすべて顕現されている。

§140


§140 第二に、内的なものと外的なものとは、形式規定としてはまた対立しあってもいる。しかも、一方は自己同一という抽象物であり、他方は単なる多様性あるいは実在性という抽象物であるから、全く正反対のものである。しかし両者は、一つの形式のモメントとして、本質的に同一なものであるから、一方の抽象物のうちに定立されているにすぎないものは、直接にまた他方のうちに定立されているにすぎない。したがって内的なものにすぎないものは、また外的なものにすぎず、外的なものにすぎないものは、また内的なものにすぎない。
  反省は普通本質を単に内的なものと思い誤っている。本質を単にそうしたものとみる場合、その見方もまた全く外面的であって、その場合考えられている本質は、空虚な外面的抽象にぎない。
  或る詩人はこう言っている― 
いかなる創られた精神も
自然の内部へ透入することはできない
その外殻だけでも示しうれば
この上もない幸と言わねばならぬ(*原注)

この言葉はむしろ、自然の本質を内的なものと規定するとき、人は外殻しか知りえない、と言わるべきであったろう。―有一般あるいはまた単に感覚的な知覚のうちでは、概念はまだ内的なものにすぎないから、それは有や感覚的知覚にたいして外的なものであり、主観的な、真理を持たない存在および思惟である。―精神におけると同じく、自然においても、概念、目的、法則がまだ内的な素質、全くの可能性にすぎないかぎり、それらはまだ外的な無機的自然、第三者の知識、外的な強力、等々にすぎない。―人間は外的に、すなわち行為においてあるとおりに(もちろん単に肉体的な外面をさすのではないが)、内的にある。内的にのみ、すなわち意図や心情においてのみ有徳、道徳的、等々であって、外が内と同じでない人があるとすれば、その人の内部も外部と同じようにからっぽなのである。
(*原註)。ゲーテの不満にたえかねた叫び「自然科学へ」第1巻、第3篇、を参照せよ。
  私はこうした言葉を60十年間幾度となく聞いた
  そしてひそかにそれを呪ってきた―
  自然には心もなければ殼もない
  それは同時にその両者なのだ、云々。
 ▼補遺 ・・・略・・


§141


§141 同一の内容をなお相関のうちにひきとどめようとする二つの空虚な抽象物は、互のうちでの直接的な移行のうちで自己を揚棄する。内容はそれ自身両者の同一性にほかならず(138節)、両者は本質の仮象が仮象として定立されたものである。力の発現によって内的なものは現存在のうちへ定立される。しかしこの定立は空虚な抽象物による媒介であり、それはそれ自身のうちで消滅して直接態となる。そしてこの直接態においては内的なものと外的なものとは即自かつ対自的に同一であって、両者の区別は単に被措定有(Gesetztsein)として規定されているにすぎない。このような同一性がすなわち現実性である。


C 現 実 性 (Die Wirklichkeit)


§142


§142 現実性とは、本質と現存在との統一あるいは内的なものと外的なものとの統一が、直接的な統一となったものである。現実的なものの発現は、現実そのものである。したがって現実的なものは、発現のうちにあっても、依然として本質的なものであるのみならず、直接的な外的現存在のうちにあるかぎりにおいてのみ本質的なものである。
 前には直接的なものの形式として有および現存在があらわれた。有は一般に無反省の直接態であり、他者への移行である。現存在は有と反省との直接的な統一、したがって現象であって、根拠から出て根拠へ帰る。現実的なものは、この統一の定立されたものであり、自己と同一となった相関である。したがってそれはもはや移行することなく、その外面性はその顕在態である。それは外面性のうちで自分自身に反省しており、その定有は自分自身の顕現であって、他のもののそれではない。

 ▼補遺 ・・・略・・・


§143


§143 現実性はこのような具体的なものであるから、それは上に述べた諸規定およびそれらの区別を含んでいる。したがってまた現実はそれらの展開であり、それらは現実においては同時に仮象、すなわち単に措定されたものとして規定されている(141節)。 (イ) 同一性一般としては現実性はまず可能性(Mӧglichkeit)、すなわち現実の具体的な統一に対峙するものとして、抽象的で非本質的な本質性として定立されている自己内反省である。可能性は現実性にとって本質的なものであるが、しかし同時に単に可能性であるような仕方でそうなのである。
  カントは「これらの規定は客観としての概念を少しも増すものではなく、ただ認識能力への関係を表現するにすぎない」と言って、可能性と必然とを様態(Modalität)とみたが、カントがそういうことをなしえたのは、おそらく可能性の規定によってである。実際可能性は自己反省という空虚な抽象であり、前に内的なものと呼ばれていたものであるが、ただそれがここでは、揚棄された、単に定立されているにすぎぬ、外在的な、内的なものとして規定されているのである。したがってそれは単なる様態、不十分な抽象物、もっと具体的に言えば、単に主観に属するにすぎないものとして定立されてもいる。

現実性と必然性とはこれに反して、他のものにたいする様態であるどころか、まさにその正反対のものであり、単に他によって定立されているのではなく、自己のうちで完結した具体的なものとして定立されている。―可能性はまず、現実的なものとしての具体的なものにたいして、自己同一という単なる形式であるから、可能性の基準はただ、或るものが自己矛盾を含まないということにすぎない。かくしてすべてのものは可能である。というのは、われわれは、抽象によって、どんな内容にでもこうした同一性を与えることができるからである。しかしすべてのものは同様に不可能でもある。
というのは、あらゆる内容は具体的なものであるから、われわれはどんな内容においても、その規定性を特定の対立、したがって矛盾と考えることができるからである。―だからこのような可能、不可能の議論ほど空虚なものはない。特に哲学においては、或ることが可能であるとか、また他のことが可能であるとか、あるいはまたよく言われるように、或ることが考えられるとかいうような指摘に言葉を費すべきではない。以上から歴史家もまた、それ自身としてすでに真実でないことが明かになったこのカテゴリーを用うべきではないことがわかるであろう。しかし空虚な悟性の慧眼というものは、可能なこと、しかも実に多くの可能性を、役にも立たないのに、考え出して得々としているものである。
 ▼補遺 ・・・略・・・


§144


§144 (ロ) しかし、自己内反省としての可能性から区別された現実性は、それ自身外的な具体物、非本質的な直接的なものにすぎない。あるいは直接的に言えば、現実性がまず(142節)内的なものと外的なものとの、単純な、直接的でさえある統一として存在するかぎり、それは非本質的な外的なものとして存在しており、かくして同時に(140節)単に内的なもの、自己内反省という抽象である。したがって現実性自身が単に可能なものとして規定されている。このように単なる可能性という価値しか持たぬ現実的なものは、一つの偶然的なものである、そして逆に、可能性は単なる偶然そのものである。


§145


§145 可能性と偶然性とは現実性のモメント、すなわち、現実的なものの外面性をなす単なる形式として定立されている、内的なものと外的なものである。この二つのものは、それらの自己内反省を、自己のうちで規定されている現実的なもの、すなわち、本質的な規定根拠としての内容において持っている。したがってもっとはっきり言えば、偶然と可能との有限性は、形式規定が内容から区別されていることにあり、或ることが偶然であり可能であるかどうかは、内容にかかっている。
 ▼補遺 ・・・略・・・


§146


§146
 現実性の外面は、より立ち入って考えてみると、次のことを含んでいる。すなわち、偶然性は、直接的な現実性であるから、本質的に被措定有としてのみ自己同一なものであるが、しかしこの被措定有も同様に揚棄されており、定有的な外面性である。かくして偶然性は前提されているものであるが、同時にその直接的な定有は一つの可能性であり、揚棄されるという定め、他のものの可能性であるという定めを持っている。すなわちそれは条件(Bedingung)である。

§146 ▼補遺

§146 ▼補遺 偶然的なものは、直接的な現実性として、同時に他のものの可能性でもあるが、しかしそれはすでに、われわれが最初に持っていたような抽象的な可能性ではなく、有るものとしての可能性であり、かくしてそれは条件である。われわれが或る事柄の条件と言うとき、そこには二つのことが含まれている。一つは定有、現存在、一般的に言えば直接的なものであり、もう一つは、この直接的なものが揚棄されて他のものの実現に役立つという定めである。―直接的な現実性は真の現実性ではなく、自己のうちで分裂した、有限な現実性であり、消耗されるということがその定めである。しかし現実性のもう一つの側面は本質性である。これはまず内的なものであるが、内的なものは単なる可能性にすぎないから、同じく揚棄される定めを持っている。揚棄された可能性としては、それは一つの新しい現実の出現であって、この現実は最初の直接的な現実を前提として持っている。これが条件の概念のうちに含まれている交替関係である。われわれが或る事柄の条件を考えてみるとき、それはただそれだけのもののようにみえる。その実はしかし、こうした直接的な現実は、自分とは全く別な或るものへの萌芽をそのうちに含んでいるのである。この別なものは、最初は単に可能なものにすぎないが、やがてこの可能性という形式は自己を揚棄して現実となる。かくして出現するこの新しい現実は、それが消費する直接的な現実自身の内面である。したがってそこには全く別な姿を持った事物が生じるが、しかしそれは最初の現実の本質が定立されたものにすぎないのであるから、なんら別なものは生じないのである。自己を犠牲にし、亡びさり、消耗される諸条件は、他の現実のうちでただ自分自身とのみ合一するのである。― 現実性の過程はこうしたものである。現実は単に直接的な存在ではなく、本質的存在として自分自身の直接性を揚棄し、それによって自己を自己自らへ媒介するものである。


§147


§147(ハ) 現実性の外面性がこのように可能性および直接的現実性という二つの規定からなる円、すなわち両者の相互的媒介として展開されるとき、それは実在的可能性(die reale Mӧglichkeit)一般である。このような円としてそれはさらに統体性であり、したがって内容、即自かつ対自的に規定されている事柄(Sache)である。そしてそれはまた、このような統一のうちにある二つの規定の区別から見れば、対自的な形式の具体的な総体であり、内的なものの外的なものへの、および外的なものの内的なものへの直接的な転化である。形式がこのように動いていくということが活動(Tätigkeit)、すなわち自己を揚棄して現実となる実在的根拠としての事柄の働きであり、また偶然的な現実、諸条件の働きである。諸条件の働きとはすなわち、諸条件の自己内反省、諸条件が自己を揚棄して一つの異った現実、事柄の現実となることである。あらゆる条件が現存すれば、事柄は現実的にならざるをえない。そして、事柄はそれ自身諸条件の一つである。なぜなら、それは最初は内的なものとして、それ自身単に前提されたものにすぎないからである。展開された現実性は、内的なものと外的なものとが一つのものとなる交互的な転化、一つの運動へと合一されているところの両者の対立的な運動の交替であって、これがすなわち必然性(Notwendigkeit)である。
  必然性が可能性と現実性との統一と定義されるのは正しい。しかし単にそう言いあらわしただけでは、この規定は表面的であり、したがって理解しがたいものである。必然性という概念は非常に難解な概念である。というのは、必然性はその実概念そのものなのであるが、その諸契機はまだ現実的なものとして存在しており、しかもこれら現実的なものは同時に単なる形式、自己のうちで崩壊し移行するところの形式としてとらえられなければならないからである。で 私は次の2節において、必然性を構成する諸モメントをもっと詳細に述べなければならない。
  ▼補遺 或ることが必然だと言われるとき、われわれはまず最初に、なぜそうなのかと問う。これによってわれわれは必然性が措定されたもの、媒介されたものとして示されることを要求するのである。しかしわれわれが単なる媒介に立ちどまるならば、それはまだ本当の意味における必然性ではない。単に媒介されたものは、自分自身によってそれが現にあるところのものであるのではなく、他のものにそうなのであるから、やはり偶然的なものにすぎない。われわれが必然的なものに要求することは、これに反して、自分自身によってそれが現にあるところのものとして
 ▼補遺 ・・・略・・・


§148


§148 条件(Bedingung)、事柄(Sache)、活動(Tätigkeit)という三つのモメントのうち、
 a 条件は(イ) あらかじめ措定されているものである。それは、単に措定されたもの(Gesetztes)としては、事柄にたいして相関的なものにすぎない。しかし先行するもの(Voraus)としては、それは独立的なもの―事柄と無関係に存在する偶然的な、外的な事情である。しかし偶然的であるとはいえ、このあらかじめ措定されているものは、統体的なものである事柄と関係させてみれば、諸条件の完全な円である。
(ロ) 諸条件は受動的であり、事柄のために材料として使用され、かくして事柄の内容へはいっていく。それらはまたこの内容に適合しており、内容の規定全体をすでにそのうちに含んでいる。

 b 事柄も同じく(イ) あらかじめ措定されているものである。措定されたものとしては、まだ内的なものであり、可能なものにすぎないが、先行するものとしては、それだけで独立の内容である。
(ロ) 事柄は諸条件を使用することによって外へあらわれる、すなわち諸条件と対応しあう内容諸規定を実現する。したがって事柄は内容諸規定によって自己を事柄として示すとともに、また諸条件から出現するものである。

 c 活動 (Tätigkeit)も(イ) 同じく独立に存在するが(例えば人間、人物のように)しかもまた諸

条件および事柄のうちにその可能性を持っている。
(ロ) それは諸条件を事柄へ移し、また事柄を諸条件(これは現存在に属する)へ移す運動である。否むしろ、そのうちに事柄が即自的に存在している諸条件から事柄のみを取り出し、そして諸条件が持っている存在を揚棄することによって、事柄に存在を与える運動である。
   これら三つのモメントが相互に独立した存在という形を持つかぎり、上の過程は外的必然として存在する。― 外的必然は限られた内容を事柄として持つ。なぜなら、事柄は単純な規定態における全体であるが、しかしこの全体的なものは、形式上、自己に外的であるから、自分自身においても、また自己の内容においても、自己に外的であり、そして事柄におけるこの外面性が、事柄の内容の制限をなすからである。


§149


§149 必然性はしたがって即自的には、自己のうちで反照しその諸区別が独立の諸現実という形式を持っているところの、自己同一的でありながらも、内容にみちた一つの本質である。そしてこの同一的なものは、同時に絶対的な形式として、直接的なものを揚棄して媒介されたものとし、媒介を揚棄して直接的なものとする活動である。―必然的であるものは、他のものによってそうなのである。そしてこの他のものは、媒介する根拠(事柄と活動)と直接的な現実、すなわち、同時に条件でもある偶然的なものとにわかれる。他のものによるものとしての必然は、絶対的でなく、措定されたものにすぎない。しかしこの媒介はまた直接に自分自身の揚棄である。というのは、根拠と偶然的な条件は、直接態へ移され、そしてこのことによって、措定されたものは揚棄されて現実となり、事柄は自分自身と合一するからである。このように自己のうちへ帰ったものとしての必然的なものは、無条件的な現実性として端的に存在する。―必然的なものは、一群の諸事情に媒介されて必然的なのである。すなわち、必然的なものは、諸事情が必然的であるから、必然的なのである。と同時に、必然的なものは、媒介されないで必然的である。すなわち、必然的であるから、必然的なのである。

a 実体性の相関 (Substantialitäts-Verhältnis)


§150


§150
 必然的なものは自己のうちで絶対的な相関である。すなわち、(上の諸節に述べたように)相関が同時に自己を揚棄して絶対的な同一となる過程である。
 その直接的な形態は実体性(Substantialität)と偶有性(Akzidentalität)との相関である。この相関の絶対的自己同一は実体そのものである。実体は必然性であるから、こうした内面性の形式の否定であり、したがって自己を現実性として定立する。しかしそれは同時にまたこうした外面性の否定であって、この面からすれば、直接的なものとしての現実は偶有的なものにすぎない。そして偶有的なものは、こうした単なる可能性であるために、他の現実へ移っていく。この推移が形式活動(148節および149節)としての実体的同一性である。

§151


§151 したがって実体は偶有の全体であり、偶有のうちで実体は、それが偶有の絶対的否的、すなわち絶対の力であること、しかも同時にあらゆる豊かな内容であることを顕示する。この内容はしかしこうした顕示そのものにすぎない。というのは、自己へ反省して内容となった規定性そのものは、実体の力のうちで移り変っていく、形式の一モメントにすぎないからである。実体性は絶対的な形式活動であり、必然性の力である。そしてあらゆる内容は、ひたすらこうした過程に属するモメントにすぎず、形式と内容との絶対的な交互転化である。


§151 ▼補遺


§151 ▼補遺 哲学の歴史においては、われわれは実体にスピノザの哲学の原理として出あう。名声と悪評の並び行われているこの哲学の意義および価値については、すでにスピノザの生時から大きな誤解があって、それ以来も多くの議論の的となっている。スピノザの体系にたいして普通なされている主な非難は、無神論という非難、さらにまた汎神論という非難である。そしてその理由は、それが神を実体として、しかもただ実体としてのみ理解しているというのである。こうした非難をどう考えたらいいかは、まず第一に、論理的理念の体系のうちで実体が占めている位置をみればわかる。実体は理念の発展過程における一つの本質的な段階であるが、しかしそれは理念そのもの、絶対的理念ではなく、必然性というまだ限られた形式のうちにある理念である。もちろん、神は必然性であり、われわれはそれを絶対的な事物ということもできるが、しかしそれは同時に絶対の人格でもある。この点がスピノザの到達していない点であり、そしてこの点でスピノザの哲学は、キリスト教的意識の内容をなしている真の神の概念より劣っているのである。・・・略・・・


§152


§152 実体は絶対的な力であるから、単なる内的可能性としての自己に関係することによって自己を偶有性へ規定する力であり、かくして措定された外面性はこの力から区別されている。この点からみるとき、実体は、必然性の最初の形式において実体であったように、本来の相関、すなわち因果性の相関である。

b 因果性の相関 (Kausalitäts-Verhältnis)


§153


§153 実体は一方では、偶有性への移行とは反対に、自己へ反省し、かくして本源的な事柄であるが、しかし他方それは、自己内反省あるいは単なる可能態を揚棄して、自己を自己そのものの否定として定立し、かくして結果(Wirkung)、すなわち、単に定立されたものではあるが、同時に作用の過程によって必然的なものでもあるところの、現実を産出する。このかぎりにおいて実体は原因(Ursache)である。

 原因は、本源的な事柄として、絶対的な独立性と、結果にたいして自己を保持する存立性とを持っているが、その同一性は、原因の本源性そのものをなしている必然性のうちで、全く結果へ移行している。特定の内容がここでも問題となりうるかぎり、結果のうちには原因のうちにないようないかなる内容も存在しない。右に述べた同一性が絶対的な内容そのものである。しかしこの同一性はまた形式規定でもあって、原因の本源性は、そのうちでそれが自己を措定された存在とするところの結果のうちで揚棄される。しかし原因はこれによって消失するのではなく、結果のみが現実的なものとして残るのではない。というのは、この措定された存在も同様に直接的に揚棄されており、それはむしろ原因の自己すなわちその本源性への反省だからである。原因は、結果のうちではじめて現実的であり、原因なのである。したがって原因は、即時かつ対自的には自己原因(causa sui)である。―ヤコービは媒介をあくまで一面的に考えたために、原因の絶対的真理である自己原因(自己結果effectus suiも同じものである)を単に形式主義と考えた(「スピノザにかんする手紙」第2版、416ページ)。かれはまた、神は根拠と規定すべきものではなく、本質的に原因と規定されなければならないと述べているが、かれの意図したことがこれによって達成されないということは、原因の本性をもっと根本的に反省してみればわかったであろう。有限な原因およびその表象においてさえ、内容の同一は存在している。原因である雨と結果である湿りとは、同一の現在する水である。形式からすれば、原因(雨)は結果(湿り)のうちで消失する。しかしそれとともにまた結果という規定も失われてしまうのであって、結果は原因なしには無であり、そしてこの場合無関係な湿りが残るにすぎない。
 普通考えられているような因果関係の意味では、原因は有限である。というのは、その内容が有限であり(有限な実体におけるように)、また原因と結果が二つの別々の独立な存在と考えられている―これは因果関係が捨象されているからにすぎない―からである。有限の領域においては、われわれは関連のある二つの形式規定の区別ということに立ちどまっているから、一度原因とされたものが、今度は措定されたもの、すなわち結果と規定されるようになる。するとこれはまた他の原因を持つことになり、かくしてここでもまた結果から原因への無限進行が生じる。同様に下降的な無限進行も生じる。なぜなら、結果が原因そのものと同一であるという面からみれば、それは原因として、しかも同時にはじめの原因とは別の原因として規定され、そしてこの原因は再び他の結果を持つ、という風に無限に進んでいくからである。


§153 ▼補遺


§153 ▼補遺 悟性は、実体性というものは容易に受け入れようとしないが、それに反して因果性、すなわち原因と結果との関係はよく知っている。或る内容を必然的なものとみようとする場合、悟性的な反省が努力するのは、主としてそれを因果関係に還元することである。もちろん、因果関係は、必然性に属してはいるが、しかしそれは必然性の過程における一側面にすぎず、必然性の
過程は、因果性のうちに含まれている媒介を揚棄して、自分が全くの自己関係であることを示すものである。われわれが因果性そのものに立ちどまるならば、われわれは真の因果性ではなく、有限な因果性を持つにすぎない。この関係の有限性は、原因と結果とがあくまで区別されている点にある。ところが、この二つのものは、単に異っているだけでなく、また同一でもある。この
同一性は普通の意識のうちにも見出される。われわれは、原因について、それが結果を持つかぎりにおいてのみ原因であると言い、結果については、それが原因を持つかぎりにおいてのみ結果であると言う。したがって原因と結果とは同一の内容であり、両者の相違はまず措定と被措定との相違にすぎない。しかもこの形式上の相違も同じくまた揚棄される。すなわち、原因は単に他のものの原因であるにとどまらず、また自分自身の原因であり、結果は単に他のものの結果であるにとどまらず、また自分自身の結果である。したがって事物の有限性がどこにあるかと言えば、それは、原因と結果は概念上同一であるのに、この二つの形態が分離されていることにある。すなわち原因は結果であり、結果は原因であるが、しかし原因はそれが原因であると同じ関係において結果ではなく、結果はそれが結果であると同じ関係において原因ではないのである。このことは再び原因の果しない系列―これは同時に、結果の果しない系列でもある―という形をとる無限進行を出現させる。


§154


§154 結果は原因とは別なものである。結果はこの意味では措定されたものである。しかし被措定有もまた自己反省であり、直接なものである。そして原因の作用、すなわちその措定作用は、結果があくまで原因と異るものとされているかぎり、同時に結果を前提する作用である。したがって結果がそこで起るところの他の実体が存在する。この実体は直接的なものであるから、自己へ関係する否定性でもなければ能動的でもなく、受動的なものである。しかしそれはまた実体であるから能動的でもあって、前提された直接性と自己のうちへ措定された結果とを揚棄し、反作用する。言いかえれば、それは最初の実体―これもまたその直接性あるいはそのうちへ措定された結果を揚棄するものなのであるが―の能動性を揚棄し、そして反作用する。かくして因果性は交互作用(Wechselwirkung)へ移っていく。
  交互作用において、因果関係はまだその真の規定において定立されてはいないけれども、原因から結果への、および結果から原因への直線的な運動が、自己のうちへ曲り戻らされていることによって、原因と結果との無限進行は真の仕方で揚棄されている。このように無限進行を自己完結的な関係へ曲り戻らせるものは、常にそうであるように、ここでもまた、無思想的な反復のうちには、同じもの、すなわち或る原因ともう一つの原因および両者相互の関係があるにすぎないという単純な反省である。しかしこうした関係の発展である交互作用は、それ自身区別の交替ではあるが、しかしそれは原因の区別の交替ではなくて、因果関係を構成する二つのモメントの区別の交替であり、そしてこれら二つのモメントの各々において再び、原因は結果のうちで原因であり、結果は原因のうちで結果であるという同一性、不可分性にしたがって、同じくもう一つのモメントも定立されるのである。


c 交互作用 (Wechselwirkung)


§155


§155 交互作用のうちであくまで区別されている二つの規定は(イ) 即自的には同じものである。すなわち、一方の側面は他の側面と同じように原因であり、本源的であり、能動的であり、受動的である、等々。同様に、他の側面を前提することとそれへ働きかけること、直接の本源性と交替によって措定されることとは、同一である。最初のものと考えられた原因は、その直接性によって受動的であり、措定されたものであり、結果である。したがって二つと言われた原因の区別は空
虚であって、即自的にはただ一つの原因、すなわち、結果のうちで実体としての自己を揚棄するとともに、またこの働きのうちではじめて自己を独立化する原因が存在するにすぎない。


§156


§156 (ロ) しかしこの同一性はまた対自的でもある。なぜなら、上に述べたような交替の全体は、原因自身の措定作用であり、原因のこうした措定作用のみが原因の有をなしているからである。区別は即自的にのみ、あるいはわれわれの反省によってのみ空無であるのでなく(前節を見よ)、交互作用そのものが、措定された二つの規定の各々を再び揚棄して、反対の規定へ逆転させるものなのであり、したがって二つのモメントの即自的に存在する空無性を措定するものなのである。結果は本源性のうちへ定立される、すなわち本源性が揚棄される、原因の作用は反作用となる、等々。


§156 ▼補遺


§156 ▼補遺 交互作用は完全に展開された因果関係であり、実際また反省は、因果性の見地の下に事物を考察することが、前に述べたような無限進行のために不十分であることがわかると、普通それへ逃路を求めるものである。例えば、人々が歴史を考察する場合、人々はまず或る国民の性格および風習はその政体および法律の原因であるか、それとも逆に結果であるかというように問題を論じていき、それから性格と風習および政体と法律を交互作用の見地の下にすなわち、原因はそれが原因であるのと同じ関係において同時に結果であり、結果はそれが結果であるのと同じ関係において同時に原因でもある、という風に理解するにいたる。同じことはまた自然を考察する場合、特に生物を考察する場合にも行われ、生物の諸器官および諸機能は同じく交互作用の関係にあるものとして示される。交互作用は原因と結果の関係の最も近接した真理であって、言わば概念の入口に立っているが、しかしまさにそれゆえに、概念的認識が必要である場合、われわれはこの関係の適用で満足してはならないのである。われわれが与えられた内容を単に交互作用の見地の下にみるにとどまるならば、それは全く没概念的な態度である。というのは、その場合われわれは単なる事実を取扱うにすぎず、因果関係を適用する際まず問題になっている媒介の要求は、再び満足されないままに残るからである。交互作用という関係の適用がなぜ不十分であるかをよく考えてみると、それは、この関係が概念に等しいものでなく、まず概念的に把握されなければならないものである、という点にある。そしてこのことは、この相関の二つの側面を直接に与えられたものとして放置せず、前の二節で示したように、それらをより高い第三のもののモメントとして認識することによって行われる。そしてこの第三のものこそまさに概念なのである。・・・略・・・


§157 ・・・略・・・
§158 ・・・略・・・
§158 ▼補遺 ・・・略・・・
§159 ・・・略・・・
・・・以上で、第2部本質論 終わり・・・

 第3部 概念論 ・・・略・・・
 D. 『資本論』-「小論理学」
■目次
 Ⅰ 『資本論』 
    第1篇 商品と貨幣
    第2篇 貨幣の資本への転化

 Ⅱ 「小論理学」 
    第1部 有論
    第2部 本質論
    第3部 概念論

 Ⅰ 『資本論』 
 第1篇 商品と貨幣
  第1章 商品 ERSTES KAPITEL Die Ware
   第1節 商品の2要素 Die zwei Faktoren der Ware :
         Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgröße)
   第2節 商品に表わされた労働の二重性
          Doppelcharakter der in den Waren dargestellten Arbeit
   第3節 価値形態または交換価値
         Die Wertform oder der Tauschwert
   第4節 商品の物神的性格とその秘密
         Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis
  第2章 交換過程 Der Austauschprozeß
  第3章 貨幣または商品流通 Das Geld und die Warenzirkulation
   第1節 価値の尺度 Maß der Werte
   第2節 流通手段  Zirkulationsmittel
   第3節 貨幣 Geld
 第2篇 貨幣の資本への転化

   ***  ***
 
 Ⅱ 「小論理学」 
  第1部 有論 Erste Abteilung der Logik. Die Lehre vom Sein 
        §84-§111
   A 質 Qualität §86-§98
   B 量 Quantität §99-§106
   C 限度 Das Maß §107-§111
  第2部 本質論 Zweite Abteilung der Logik. Die Lehre vom Wesen
        §112-§159
   A 現存在の根拠としての本質 A. Das Wesen als Grund der Existenz
        §115-§130
   B 現象 B. Die Erscheinung  §131-§141
   C 現実性 C. Die Wirklichkeit §142-§149
  第3部 概念論 Dritte Abteilung der Logik. Die Lehre vom Begriff
        §160-§244

D.『資本論』第1章-第3章
 Ⅰ 『資本論』 
 第1篇 商品と貨幣
  第1章 商品 

Zur vierten Auflage | Inhalt | 2. Kapitel. Der Austauschprozeß
Seitenzahlen verweisen auf: Karl Marx - Friedrich Engels - Werke, Band 23, "Das Kapital", Bd. I, Erster Abschnitt, S. 49 - 98
Dietz Verlag, Berlin/DDR 1968
Erstes Buch
Der Produktionsprozeß des Kapitals
__________
Erster Abschnitt
Ware und Geld
__________
ERSTES KAPITEL
Die Ware
1. Die zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgröße)
1. <49> Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine "ungeheure Warensammlung"(1), die einzelne Ware als seine Elementarform. Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Ware.
2. Die Ware ist zunächst ein äußerer Gegenstand, ein Ding, das durch seine Eigenschaften menschliche Bedürfnisse irgendeiner Art befriedigt. Die Natur dieser Bedürfnisse, ob sie z.B. dem Magen oder der Phantasie entspringen, ändert nichts an der Sache (2). Es handelt sich hier auch nicht darum, wie die Sache das menschliche Bedürfnis befriedigt, ob unmittelbar als Lebensmittel, d.h. als Gegenstand des Genusses, oder auf einem Umweg, als Produktionsmittel.
Jedes nützliche Ding, wie Eisen, Papier usw., ist unter doppelten Gesichtspunkt zu betrachten, nach Qualität und Quantität. Jedes solches Ding ist ein Ganzes vieler Eigenschaften und kann daher nach verschiedenen Seiten nützlich sein. Diese verschiedenen Seiten und daher die mannigfachen <50> Gebrauchsweisen der Dinge zu entdecken ist geschichtliche Tat (3). So die Findung gesellschaftlicher Maße für die Quantität der nützlichen Dinge. Die Verschiedenheit der Warenmaße entspringt teils aus der verschiedenen Natur der zu messenden Gegenstände, teils aus Konvention.
3. Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert (4). Aber diese Nützlichkeit schwebt nicht in der Luft. Durch die Eigenschaften des Warenkörpers bedingt, existiert sie nicht ohne denselben. Der Warenkörper selbst, wie Eisen, Weizen, Diamant usw., ist daher ein Gebrauchswert oder Gut. Dieser sein Charakter hängt nicht davon ab, ob die Aneignung seiner Gebrauchseigenschaften dem Menschen viel oder wenig Arbeit kostet. Bei Betrachtung der Gebrauchswerte wird stets ihre quantitative Bestimmtheit vorausgesetzt, wie Dutzend Uhren, Elle Leinwand, Tonne Eisen usw. Die Gebrauchswerte der Waren liefern das Material einer eignen Disziplin, der Warenkunde (5). Der Gebrauchswert verwirklicht sich nur im Gebrauch oder der Konsumtion. Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des Reichtums, welches immer seine gesellschaftliche Form sei. In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des - Tauschwerts.
4. Der Tauschwert erscheint zunächst als das quantitative Verhältnis, die Proportion, worin sich Gebrauchswerte einer Art gegen Gebrauchswerte anderer Art austauschen (6), ein Verhältnis, das beständig mit Zeit und Ort wechselt. Der Tauschwert scheint daher etwas Zufälliges und rein Rela- <51> tives, ein der Ware innerlicher, immanenter Tauschwert (valeur intrinsèque) also eine contradictio in adjecto (7). Betrachten wir die Sache näher.
5. Eine gewisse Ware, ein Quarter Weizen z.B. tauscht, sich mit x Stiefelwichse oder mit y Seide oder mit z Gold usw., kurz mit andern Waren in den verschiedensten Proportionen. Mannigfache Tauschwerte also hat der Weizen statt eines einzigen. Aber da x Stiefelwichse, ebenso y Seide, ebenso z Gold usw. der Tauschwert von einem Quarter Weizen ist, müssen y Stiefelwichse, y Seide, z Gold usw. durch einander ersetzbare oder einander gleich große Tauschwerte sein. Es folgt daher erstens: Die gültigen Tauschwerte derselben Ware drücken ein Gleiches aus. Zweitens aber: Der Tauschwert kann überhaupt nur die Ausdrucksweise, die "Erscheinungsform" eines von ihm unterscheidbaren Gehalts sein.
6. Nehmen wir ferner zwei Waren, z.B. Weizen und Eisen. Welches immer ihr Austauschverhältnis, es ist stets darstellbar in einer Gleichung, worin ein gegebenes Quantum Weizen irgendeinem Quantum Eisen gleichgesetzt wird, z.B. 1 Quarter Weizen = a Ztr. Eisen. Was besagt diese Gleichung? daß ein Gemeinsames von derselben Größe in zwei verschiednen Dingen existiert, in 1 Quarter Weizen und ebenfalls in a Ztr. Eisen. Beide sind also gleich einem Dritten, das an und für sich weder das eine noch das andere ist. Jedes der beiden, soweit es Tauschwert, muß also auf dies Dritte reduzierbar sein.
7. Ein einfaches geometrisches Beispiel veranschauliche dies. Um den Flächeninhalt aller gradlinigen Figuren zu bestimmen und zu vergleichen, löst man sie in Dreiecke auf. Das Dreieck selbst reduziert man auf einen von seiner sichtbaren Figur ganz verschiednen Ausdruck - das halbe Produkt seiner Grundlinie mit seiner Höhe. Ebenso sind die Tauschwerte der Waren zu reduzieren auf ein Gemeinsames, wovon sie ein Mehr oder Minder darstellen.
8. Dies Gemeinsame kann nicht eine geometrische, physikalische, chemische oder sonstige natürliche Eigenschaft der Waren sein. Ihre körperlichen Eigenschaften kommen überhaupt nur in Betracht, soweit selbe sie nutzbar machen, also zu Gebrauchswerten. Andererseits aber ist es grade die Abstraktion von ihren Gebrauchswerten, was das Austauschverhältnis <52> der Waren augenscheinlich charakterisiert. Innerhalb desselben gilt ein Gebrauchswert grade so viel wie jeder andre, wenn er nur in gehöriger Proportion vorhanden ist. Oder, wie der alte Barbon sagt:
"Die eine Warensorte ist so gut wie die andre, wenn ihr Tauschwert gleich groß ist. Da existiert keine Verschiedenheit oder Unterscheidbarkeit zwischen Dingen von gleich großem Tauschwert."(8)
9. Als Gebrauchswerte sind die Waren vor allem verschiedner Qualität, als Tauschwerte können sie nur verschiedner Quantität sein, enthalten also kein Atom Gebrauchswert.
10. Sieht man nun vom Gebrauchswert der Warenkörper ab, so bleibt ihnen nur noch eine Eigenschaft, die von Arbeitsprodukten. Jedoch ist uns auch das Arbeitsprodukt bereits in der Hand verwandelt. Abstrahieren wir von seinem Gebrauchswert, so abstrahieren wir auch von den körperlichen Bestandteilen und Formen, die es zum Gebrauchswert machen. Es ist nicht länger Tisch oder Haus oder Garn oder sonst ein nützlich. Alle seine sinnlichen Beschaffenheiten sind ausgelöscht. Es ist auch nicht länger das Produkt der Tischlerarbeit oder der Bauarbeit oder der Spinnarbeit oder sonst einer bestimmten produktiven Arbeit. Mit dem nützlichen Charakter der Arbeitsprodukte verschwindet der nützlicher Charakter der in ihnen dargestellten Arbeiten, es verschwinden also auch die verschiedenen konkreten Formen dieser Arbeiten, sie unterscheiden sich nicht länger, sondern sind allzusamt reduziert auf gleiche menschliche Arbeit, abstrakt menschliche Arbeit.
11. Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte. Es ist nichts von ihnen übriggeblieben als dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit, eine bloße Gallerte unerschiedsloser menschlicher Arbeit, d.h. der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ohne Rücksicht auf die Form ihrer Verausgabung. Diese Dinge stellen nur noch dar, daß in ihrer Produktion menschliche Arbeitskraft verausgabt, menschliche Arbeit aufgehäuft ist. Als Kristalle dieser ihnen gemeinschaftlichen Substanz sind sie Werte - Warenwerte.
12. <53> Im Austauschverhältnis der Waren selbst erschien uns ihr Tauschwert als etwas von ihren Gebrauchswerten durchaus Unabhängiges. Abstrahiert man nun wirklich vom Gebrauchswert der Arbeitsprodukte, so erhält man ihren Wert, wie er eben bestimmt ward. Das Gemeinsame, was sich im Austauschverhältnis oder Tauschwert der Ware darstellt, ist also ihr Wert. Der Fortgang der Untersuchung wird uns zurückführen zum Tauschwert als der notwendigen Ausdrucksweise oder Erscheinungsform des Werts, welcher zunächst jedoch unabhängig von dieser Form zu betrachten ist.
13. Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur einen Wert, weil abstrakt menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht oder materialisiert ist. Wie nun die Größe seines Werts messen? Durch das Quantum der in ihm enthaltenen "wertbildenden Substanz", der Arbeit. Die Quantität der Arbeit selbst mißt sich an ihrer Zeitdauer, und die Arbeitszeit besitzt wieder ihren Maßstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.
14. Es könnte scheinen, daß, wenn der Wert einer Ware durch das während ihrer Produktion verausgabte Arbeitsquantum bestimmt ist, je fauler oder ungeschickter ein Mann, desto wertvoller seine Ware, weil er desto mehr Zeit zu ihrer Verfertigung braucht. Die Arbeit jedoch, welche die Substanz der Werte bildet, ist gleiche menschliche Arbeit, Verausgabung derselben menschlichen Arbeitskraft. Die gesamte Arbeitskraft der Gesellschaft, die sich in den Werten der Warenwelt darstellt, gilt hier als eine und dieselbe menschliche Arbeitskraft, obgleich sie aus zahllosen individuellen Arbeitskräften besteht. Jede dieser individuellen Arbeitskräfte ist dieselbe menschliche Arbeitskraft wie die andere, soweit sie den Charakter einer gesellschaftlichen Durchschnitts-Arbeitskraft besitzt und als solche gesellschaftliche Durchschnitts-Arbeitskraft wirkt, also in der Produktion einer Ware auch nur die im Durchschnitt notwendige oder gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit braucht. Gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit ist Arbeitszeit, erheischt, um irgendeinen Gebrauchswert mit den vorhandenen gesellschaftlich-normalen Produktionsbedingungen und dem gesellschaftlichen Durchschnittsgrad von Geschick und Intensität der Arbeit darzustellen. Nach der Einführung des Dampfwebstuhls in England z.B. genügte vielleicht halb so viel Arbeit als vorher, um ein gegebenes Quantum Garn in Gewebe zu verwandeln. Der englische Handweber brauchte zu dieser Verwandlung in der Tat nach wie vor dieselbe Arbeitszeit, aber das Produkt seiner individuellen Arbeitsstunde stellte jetzt nur noch eine halbe gesellschaftliche Arbeitsstunde dar und fiel daher auf die Hälfte seines frühern Werts.
15. <54> Es ist also nur das Quantum gesellschaftlich notwendiger Arbeit oder die zur Herstellung eines Gebrauchswerts gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit, welche seine Wertgröße bestimmt (9). Die einzelne Ware gilt hier überhaupt als Durchschnittsexemplar ihrer Art (10). Waren, worin gleich große Arbeitsquanta enthalten sind oder die in derselben Arbeitszeit hergestellt werden können, haben daher dieselbe Wertgröße. Der Wert einer Ware verhält sich zum Wert jeder andren Ware wie die zur Produktion der einen notwendige Arbeitszeit zu der für die Produktion der andren notwendigen Arbeitszeit. "Als Werte sind alle Waren nur bestimmte Maße festgeronnener Arbeitszeit."(11)
16. Die Wertgröße einer Ware bliebe daher konstant, wäre die zu ihrer Produktion erheischte Arbeitszeit konstant. Letztere wechselt aber mit jedem Wechsel in der Produktivkraft der Arbeit. Die Produktivkraft der Arbeit ist durch mannigfache Umstände bestimmt, unter anderen durch den Durchschnittsgrad des Geschickes der Arbeiter, die Entwicklungsstufe der Wissenschaft und ihrer technologischen Anwendbarkeit, die gesellschaftliche Kombination des Produktionsprozesses, den Umfang und die Wirkungsfähigkeit der Produktionsprozesses, und durch Naturverhältnisse. Dasselbe Quantum Arbeit stellt sich z.B. mit günstiger Jahreszeit in 8 Bushel Weizen dar, mit ungünstiger in nur 4. Dasselbe Quantum Arbeit liefert mehr Metalle in reichhaltigen als in armen Minen usw. Diamanten kommen selten in der Erdrinde vor, und ihre Findung kostet daher im Durchschnitt viel Arbeitszeit. Folglich stellen sie in wenig Volumen viel Arbeit dar. Jacob bezweifelt, daß Gold jemals seinen vollen Wert bezahlt <55> hat. Noch mehr gilt dies vom Diamant. Nach Eschwege hatte 1823 die achtzigjährige Gesamtausbeute der brasilischen Diamantgruben noch nicht den Preis des 11/2jährigen Durchschnittsprodukts der brasilischen Zucker oder Kaffeepflanzungen erreicht, obgleich sie viel mehr Arbeit darstellte, also mehr Wert. Mit reichhaltigeren Gruben würde dasselbe Arbeitsquantum sich in mehr Diamanten darstellen und ihr Wert sinken. Gelingt es, mit wenig Arbeit Kohle in Diamant zu verwandeln, so kann sein Wert unter den von Ziegelsteinen fallen. Allgemein: Je größer die Produktivkraft der Arbeit, desto kleiner die zur Herstellung eines Artikels erheischte Arbeitszeit, desto kleiner die in ihm kristallisierte Arbeitsmasse, desto kleiner sein Wert. Umgekehrt, je kleiner die Produktivkraft der Arbeit, desto größer die zur Herstellung eines Artikels notwendige Arbeitszeit, desto größer sein Wert. Die Wertgröße einer Ware wechselt also direkt wie das Quantum und umgekehrt wie die Produktivkraft der sich in ihr verwirklichenden Arbeit. <1. Auflage folgt: Wir kennen jetzt die Substanz des Werts. Es ist die Arbeit. Wir kennen sein Größenmaß. Es ist die Arbeitszeit. Seine Form, die den Wert eben zum Tausch-Wert stempelt, bleibt zu analysieren. Vorher jedoch sind die bereits gefundenen Bestimmungen etwas näher zu entwickeln.>
17. Ein Ding kann Gebrauchswert sein, ohne Wert zu sein. Es ist dies der Fall, wenn sein Nutzen für den Menschen nicht durch Arbeit vermittelt ist. So Luft, jungfräulicher Boden, natürliche Wiesen, wildwachsendes Holz usw. Ein Ding kann nützlich und Produkt menschlicher Arbeit sein, ohne Ware zu sein. Wer durch sein Produkt sein eignes Bedürfnis befriedigt, schafft zwar Gebrauchswert, aber nicht Ware. Um Ware zu produzieren, muß er nicht nur Gebrauchswert produzieren, sondern Gebrauchswert für andre, gesellschaftliche Gebrauchswert. {Und nicht nur für andre schlechthin. Der mittelalterlichen Bauer produzierte das Zinskorn für den Feudalherrn, das Zehntkorn für den Pfaffen. Aber weder Zinskorn noch Zehnkorn wurden dadurch Ware, daß sie für andre produziert waren. Um Ware zu werden, muß das Produkt dem andern, dem es als Gebrauchswert dient, durch den Austausch übertragen werden.}(11a) Endlich kann kein Ding Wert sein, ohne Gebrauchsgegenstand zu sein. Ist es nutzlos, so ist auch die in ihm enthaltene Arbeit nutzlos, zählt nicht als Arbeit und bildet daher keinen Wert.

2. Doppelcharakter der in den Waren dargestellten Arbeit
1. <56> Ursprünglich erschien uns die Ware als ein Zwieschlächtiges, Gebrauchswert und Tauschwert. Später zeigte sich, daß auch die Arbeit, soweit sie im Wert ausgedrückt ist, nicht mehr dieselben Merkmale besitzt, die ihr als Erzeugerin von Gebrauchswerten zukommen. Diese zwieschlächtige Natur der in der Ware enthaltenen Arbeit ist zuerst von mir kritisch nachgewiesen worden.(12) Da dieser Punkt der Springpunkt ist, um den sich das Verständnis der politischen Ökonomie dreht, soll er hier näher beleuchtet werden.
2. Nehmen wir zwei Waren, etwa einen Rock und 10 Ellen Leinwand. Der erster habe den zweifachen Wert der letzteren, so daß, wenn 10 Ellen Leinwand = W, der Rock = 2 W.
3. Der Rock ist ein Gebrauchswert, der ein besonderes Bedürfnis befriedigt. Um ihn hervorzubringen, bedarf es einer bestimmten Art produktiver Tätigkeit. Sie ist bestimmt durch ihren Zweck, Operationsweise, Gegenstand, Mittel und Resultat. Die Arbeit, deren Nützlichkeit sich so im Gebrauchswert ihres Produkts oder darin darstellt, daß ihr Produkt ein Gebrauchswert ist, nennen wir kurzweg nützliche Arbeit. Unter diesem Gesichtspunkt wird sie stets betrachtet mit Bezug auf ihren Nutzeffekt.
4. Wie Rock und Leinwand qualitativ verschiedne Gebrauchswerte, so sind die ihr Dasein vermittelnden Arbeiten qualitativ verschieden - Schneiderei und Weberei. Wären jene Dinge nicht qualitativ verschiedne Gebrauchswerte und daher Produkte qualitativ verschiedner nützlicher Arbeiten, so könnten sie sich überhaupt nicht als Waren gegenübertreten. Rock tauscht sich nicht aus gegen Rock, derselbe Gebrauchswert nicht gegen denselben Gebrauchswert.
5. In der Gesamtheit der verschiedenartigen Gebrauchswerte oder Warenkörper erscheint eine Gesamtheit ebenso mannigfaltiger, nach Gattung, Art, Familie, Unterart, Varietät verschiedner nützlicher Arbeiten - eine gesellschaftliche Teilung der Arbeit. Sie ist Existenzbedingung der Warenproduktion, obgleich Warenproduktion nicht umgekehrt die Existenzbedingung gesellschaftlicher Arbeitsteilung. In der altindischen Gemeinde ist die Arbeit gesellschaftlich geteilt, ohne daß die Produkte zu Waren werden. Oder, ein näher liegendes Beispiel, in jeder Fabrik ist die Arbeit syste- <57> matisch geteilt, aber diese Teilung nicht dadurch vermittelt, daß die Arbeiter ihre individuellen Produkte austauschen. Nur Produkte selbständiger und voneinander unabhängiger Privatarbeiten treten einander als Waren gegenüber.
6. Man hat also gesehn: in dem Gebrauchswert jeder Ware steckt eine bestimmte zweckmäßig produktive Tätigkeit oder nützliche Arbeit. Gebrauchswerte können sich nicht als Waren gegenübertreten, wenn nicht qualitativ verschiedne nützliche Arbeiten in ihnen stecken. In einer Gesellschaft, deren Produkte allgemein die Form der Ware annehmen, d.h. in einer Gesellschaft von Warenproduzenten, entwickelt sich dieser qualitative Unterschied der nützlichen Arbeiten, welche unabhängig voneinander als Privatgeschäfte selbständiger Produzenten betrieben werden, zu einem vielgliedrigen System, zu einer gesellschaftlichen Teilung der Arbeit.
7. Dem Rock ist es übrigens gleichgültig, ob er vom Schneider oder vom Kunden des Schneiders getragen wird. In beiden Fällen wirkt er als Gebrauchswert. Ebensowenig ist das Verhältnis zwischen dem Rock und der ihn produzierenden Arbeit an und für sich dadurch verändert, daß die Schneiderei besondre Profession wird, selbständiges Glied der gesellschaftlichen Teilung der Arbeit. Wo ihn das Kleidungsbedürfnis zwang, hat der Mensch jahrtausendelang geschneidert, bevor aus einem Menschen ein Schneider ward. Aber das Dasein von Rock, Leinwand, jedem nicht von Natur vorhandnen Element
des stofflichen Reichtums, mußte immer vermittelt sein durch eine spezielle, zweckmäßig produktive Tätigkeit, die besondere Naturstoffe besondren menschlichen Bedürfnissen assimiliert. Als Bildnerin von Gebrauchswerten, als nützliche Arbeit, ist die Arbeit daher eine von allen Gesellschaftsformen unabhängige Existenzbedingung des Menschen, ewige Naturnotwendigkeit, um den Stoffwechsel zwischen Mensch und Natur, also das menschliche Leben zu vermitteln.
8. Die Gebrauchswerte Rock, Leinwand usw., kurz die Warenkörper, sind Verbindungen von zwei Elementen, Naturstoff und Arbeit. Zieht man die Gesamtsumme aller verschiednen nützlichen Arbeiten ab, die in Rock, Leinwand usw. stecken, so bleibt stets ein materielles Substrat zurück, das ohne Zutun des Menschen von Natur vorhanden ist. Der Mensch kann in seiner Produktion nur verfahren, wie die Natur selbst, d.h. nur die Formen der Stoffe ändern.(13) Noch mehr. In dieser Arbeit der Formung <58> selbst wird er beständig unterstützt von Naturkräften. Arbeit ist also nicht der einzige Quelle der von ihr produzierten Gebrauchswerte, des stofflichen Reichtums. Die Arbeit ist sein Vater, wie William Petty sagt, und die Erde seine Mutter.
9. Gehen wir nun von der Ware, soweit sie Gebrauchsgegenstand, über zum Waren-Wert.
Nach unsrer Unterstellung hat der Rock den doppelten Wert der Leinwand. Dies ist aber nur ein quantitativer Unterschied, der uns zunächst noch nicht interessiert. Wir erinnern daher, daß, wenn der Wert eines Rockes doppelt so groß als der von 10 Ellen Leinwand, 20 Ellen Leinwand dieselbe Wertgröße haben wie ein Rock. Als Werte sind Rock und Leinwand Dinge von gleicher Substanz, objektive Ausdrücke gleichartiger Arbeit. Aber Schneiderei und Weberei sind qualitativ verschiedne Arbeiten. Es gibt jedoch Gesellschaftszustände, worin derselbe Mensch abwechselnd schneidert und webt, diese beiden verschiednen Arbeitsweisen daher nur Modifikationen der Arbeit desselben Individuums und noch nicht besondre feste Funktionen verschiedner Individuen sind, ganz wie der Rock, den unser Schneider heute, und die Hosen, die er morgen macht, nur Variationen derselben individuellen Arbeit voraussetzen. Der Augenschein lehrt ferner, daß in unsrer kapitalistischen Gesellschaft, je nach der wechselnden Richtung der Arbeitsnachfrage, eine gegebene Portion menschlicher Arbeit abwechselnd in der Form von Schneiderei oder in der Form von Weberei zugeführt wird. Dieser Formwechsel der Arbeit mag nicht ohne Friktion abgehn, aber er muß gehn. Sieht man ab von der Bestimmtheit der produktiven Tätigkeit und daher vom nützlichen Charakter der Arbeit, so bleibt das an ihr, daß sie eine Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ist. Schneiderei und Weberei, obgleich qualitativ verschiedne produktive Tätigkeiten, sind beide produktive Verausgabung von menschlichem Hirn, Muskel, Nerv, Hand usw., und in diesem Sinn beide mensch- <59> liche Arbeit. Es sind nur zwei verschiedne Formen, menschliche Arbeitskraft zu verausgaben. Allerdings muß die menschliche Arbeitskraft selbst mehr oder minder entwickelt sein, um in dieser oder jener Form verausgabt zu werden. Der Wert der Ware aber stellt menschliche Arbeit schlechthin dar, Verausgabung menschlicher Arbeit überhaupt. Wie nun in der bürgerlichen Gesellschaft ein General oder Bankier eine große, der Mensch schlechthin dagegen eine sehr schäbige Rolle spielt (14), so steht es auch hier mit der menschlichen Arbeit. Sie ist Verausgabung einfacher Arbeitskraft, die im Durchschnitt jeder gewöhnliche Mensch, ohne besondere Entwicklung, in seinem leiblichen Organismus besitzt. Die einfache Durchschnittsarbeit selbst wechselt zwar in verschiednen Ländern und Kulturepochen ihren Charakter, ist aber in einer vorhandnen Gesellschaft gegeben. Kompliziertere Arbeit gilt nur als potenzierte oder vielmehr multiplizierte einfache Arbeit, so daß ein kleineres Quantum komplizierter Arbeit gleich einem größeren Quantum einfacher Arbeit. Daß diese Reduktion beständig vorgeht, zeigt die Erfahrung. Eine Ware mag das Produkt der kompliziertesten Arbeit sein, ihr Wert setzt sie dem Produkt einfacher Arbeit gleich und stellt daher selbst nur ein bestimmtes Quantum einfacher Arbeit dar.(15) Die verschiednen Proportionen, worin verschiedne Arbeitsarten auf einfache Arbeit als ihre Maßeinheit reduziert sind, werden durch einen gesellschaftlichen Prozeß hinter dem Rücken der Produzenten festgesetzt und scheinen ihnen daher durch das Herkommen gegeben. Der Vereinfachung halber gilt uns im Folgenden jede Art Arbeitskraft unmittelbar für einfache Arbeitskraft, wodurch nur die Mühe der Reduktion erspart wird.
10. Wie also in den Werten Rock und Leinwand von dem Unterschied ihrer Gebrauchswerte abstrahiert ist, so in den Arbeiten, die sich in diesen Werten darstellen, von dem Unterschied ihrer nützlichen Formen, der Schneiderei und Weberei. Wie die Gebrauchswerte Rock und Leinwand Verbindungen zweckbestimmter, produktiver Tätigkeiten mit Tuch und Garn sind, die Werte Rock und Leinwand dagegen bloße gleichartige Arbeitsgallerten, so gelten auch die in diesen Werten enthaltenen Arbeiten nicht durch ihr produktives Verhalten zu Tuch und Garn, sondern nur als Verausgabungen menschlicher Arbeitskraft. Bildungselemente der Gebrauchs- <60> werte Rock und Leinwand sind Schneiderei und Weberei eben durch ihre verschiednen Qualitäten; Substanz des Rockwerts und Leinwandwerts sind sie nur, soweit von ihrer besondren Qualität abstrahiert und beide gleiche Qualität besitzen, die Qualität menschlicher Arbeit.
11. Rock und Leinwand sind aber nicht nur Werte überhaupt, sondern Werte von bestimmter Größe, und nach unsrer Unterstellung ist der Rock doppelt soviel wert als 10 Ellen Leinwand. Woher diese Verschiedenheit ihre Wertgrößen? Daher, daß die Leinwand nur halb soviel Arbeit enthält als der Rock, so daß zur Produktion des letzteren die Arbeitskraft während doppelt soviel Zeit verausgabt werden muß als zur Produktion der erstern.
12. Wenn also mit Bezug auf den Gebrauchswert die in der Ware enthaltene Arbeit nur qualitativ gilt, gilt sie mit Bezug auf die Wertgröße nur quantitativ, nachdem sie bereits auf menschliche Arbeit ohne weitere Qualität reduziert ist. Dort handelt es sich um das Wie und Was der Arbeit, hier um ihr Wieviel, ihre Zeitdauer. Da die Wertgröße einer Ware nur das Quantum der in ihr enthaltenen Arbeit darstellt, müssen Waren in gewisser Proportion stets gleich große Werte sein.
13. Bleibt die Produktivkraft, sage aller zur Produktion eines Rocks erheischten nützlichen Arbeiten unverändert, so steigt die Wertgröße der Röcke mit ihrer eignen Quantität. Wenn 1 Rock x, stellen 2 Röcke 2 x Arbeitstage dar usw. Nimm aber an, die zur Produktion eines Rocks notwendige Arbeit steige auf das Doppelte oder falle um die Hälfte. Im ersten Fall hat ein Rock soviel Wert als vorher zwei Röcke, im letztern Fall haben zwei Röcke nur soviel Wert als vorher einer, obgleich in beiden Fällen ein Rock nach wie vor dieselben Dienste leistet und die in ihm enthaltene nützliche Arbeit nach wie vor von derselben Güte bleibt. Aber das in seiner Produktion verausgabte Arbeitsquantum hat sich verändert.
14. Ein größres Quantum Gebrauchswert bildet an und für sich größren stofflichen Reichtum, zwei Röcke mehr als einer. Mit zwei Röcken kann man zwei Menschen kleiden, mit einem Rock nur einen Menschen usw. Dennoch kann der steigenden Masse des stofflichen Reichtums ein gleichzeitiger Fall seiner Wertgröße entsprechen. Diese gegensätzliche Bewegung entspringt aus dem zwieschlächtigen Charakter der Arbeit. Produktivkraft ist natürlich stets Produktivkraft nützlicher, konkreter Arbeit und bestimmt in der Tat nur den Wirkungsgrad zweckmäßiger produktiver Tätigkeit in gegebnem Zeitraum. Die nützliche Arbeit wird daher reichere oder dürftigere Produktenquelle im direkten Verhältnis zum Steigen oder Fallen ihrer Produktivkraft. Dagegen trifft ein Wechsel der Produktivkraft die im <61> Wert dargestellte Arbeit an und für sich gar nicht. Da die Produktivkraft der konkreten nützlichen Form der Arbeit angehört, kann sie natürlich die Arbeit nicht mehr berühren, sobald von ihrer konkreten nützlichen Form abstrahiert wird. Dieselbe Arbeit ergibt daher in denselben Zeiträumen stets dieselbe Wertgröße, wie immer die Produktivkraft wechsle. Aber sie liefert in demselben Zeitraum verschiedene Quanta Gebrauchswerte, mehr, wenn die Produktivkraft steigt, weniger, wenn sie sinkt. Derselbe Wechsel der Produktivkraft, der die Fruchtbarkeit der Arbeit und daher die Masse der von ihr gelieferten Gebrauchswerte vermehrt, vermindert also die Wertgröße dieser vermehrten Gesamtmasse, wenn er die Summe der zu ihrer Produktion notwendigen Arbeitszeit abkürzt. Ebenso umgekehrt.
15. Alle Arbeit ist einerseits Verausgabung menschlicher Arbeitskraft im physiologischen Sinn, und in dieser Eigenschaft gleicher menschlicher oder abstrakt menschlicher Arbeit bildet sie den Warenwert. Alle Arbeit ist andrerseits Verausgabung menschlicher Arbeitskraft in besondrer zweckbestimmter Form, und in dieser Eigenschaft konkreter nützlicher Arbeit produziert sie Gebrauchswerte.(16)



価値形態 3. Die Wertform oder der Tauschwert
1. <62> Waren kommen zur Welt in der Form von Gebrauchswerten oder Warenkörpern, als Eisen, Leinwand, Weizen usw. Es ist dies ihre hausbackene Naturalform. Sie sind jedoch nur Waren, weil Doppeltes, Gebrauchsgegenstände und zugleich Wertträger. Sie erscheinen daher nur als Waren oder besitzen nur die Form von Waren, sofern sie Doppelform besitzen, Naturalform und Wertform.
2. Die Wertgegenständlichkeit der Waren unterscheidet sich dadurch von der Wittib Hurtig, daß man nicht weiß, wo sie zu haben ist. Im graden Gegenteil zur sinnlich groben Gegenständlichkeit der Warenkörper geht kein Atom Naturstoff in ihre Wertgegenständlichkeit ein. Man mag daher eine einzelne Ware drehen und wenden, wie man will, sie bleibt unfaßbar als Wertding. Erinnern wir uns jedoch, daß die Waren nur Wertgegenständlichkeit besitzen, sofern sie Ausdrücke derselben gesellschaftlichen Einheit, menschlicher Arbeit, sind, daß ihre Wertgegenständlichkeit also rein gesellschaftlich ist, so versteht sich auch von selbst, daß sie nur im gesellschaftlichen Verhältnis von Ware zu Ware erscheinen kann. Wir gingen in der Tat vom Tauschwert oder Austauschverhältnis der Waren aus, um ihrem darin versteckten Wert auf die Spur zu kommen. Wir müssen jetzt zu dieser Erscheinungsform des Wertes zurückkehren.
3. Jedermann weiß, wenn er auch sonst nichts weiß, daß die Waren eine mit den bunten Naturalformen ihrer Gebrauchswerte höchst frappant kontrastierende, gemeinsame Wertform besitzen - die Geldform. Hier gilt es jedoch zu leisten, was von der bürgerlichen Ökonomie nicht einmal versucht ward, nämlich die Genesis dieser Geldform nachzuweisen, also die Entwicklung des im Wertverhältnis der Waren enthaltenen Wertausdrucks von seiner einfachsten unscheinbarsten Gestalt bis zur blendenden Geldform zu verfolgen. Damit verschwindet zugleich das Geldrätsel.
4. Das einfachste Wertverhältnis ist offenbar das Wertverhältnis einer Ware zu einzigen verschiedenartigen Ware, gleichgültig welcher. Das Wertverhältnis zweier Waren liefert daher den einfachsten Wertausdruck für eine Ware.

<63> A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform
x Ware A = y Ware B oder: x Ware A ist y Ware B wert.
(20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder: 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert.)
1. Die beiden Pole des Wertausdrucks: Relative Wertform und Äquivalentform
1. Das Geheimnis aller Wertform steckt in dieser einfachen Wertform. Ihre Analyse bietet daher die eigentliche Schwierigkeit.
2. Es spielen hier zwei verschiedenartige Waren A und B, in unsrem Beispiel Leinwand und Rock, offenbar zwei verschiedene Rollen. Die Leinwand drückt ihren Wert aus im Rock, der Rock dient zum Material dieses Wertausdrucks. Die erste Ware spielt eine aktive, die zweite eine passive Rolle. Der Wert der ersten Ware ist als relativer Wert dargestellt, oder sie befindet sich in relativer Wertform. Die zweite Ware funktioniert als Äquivalent oder befindet sich in Äquivalentform.
3. Relative Wertform und Äquivalentform sind zueinander gehörige, sich wechselseitig bedingende, unzertrennliche Momente, aber zugleich einander ausschließende oder entgegengesetzte Extreme, d.h. Pole desselben Wertausdrucks; sie verteilen sich stets auf die verschiedenen Waren, die der Wertausdruck aufeinander bezieht. Ich kann z.B. den Wert der Leinwand nicht in Leinwand ausdrücken. 20 Ellen Leinwand = 20 Ellen Leinwand ist kein Wertausdruck. Die Gleichung sagt vielmehr umgekehrt: 20 Ellen Leinwand sind nichts andres als 20 Ellen Leinwand, ein bestimmtes Quantum des Gebrauchsgegenstandes Leinwand. Der Wert der Leinwand kann also nur relativ ausgedrückt werden, d.h. in andrer Ware. Die relative Wertform der Leinwand unterstellt daher, daß irgendeine andre Ware sich ihr gegenüber in der Äquivalentform befindet. Andrerseits, diese andre Ware, die als Äquivalent figuriert, kann sich nicht gleichzeitig in relativer Wertform befinden. Nicht sie drückt ihren Wert aus. Sie liefert nur dem Wertausdruck andrer Ware das Material.
4. Allerdings schließt der Ausdruck: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert, auch die Rückbeziehungen ein: 1 Rock = 20 Ellen Leinwand oder 1 Rock ist 20 Ellen Leinwand wert. Aber so muß ich doch die Gleichung umkehren, um den Wert des Rocks relativ ausdrücken, und sobald ich das tue, wird die Leinwand Äquivalent statt des Rockes. Dieselbe Ware kann also in demselben Wertausdruck nicht gleichzeitig in beiden Formen auftreten. Diese schließen sich vielmehr polarisch aus.
5. <64> Ob eine Ware sich nun in relativer Wertform befindet oder in der entgegengesetzten Äquivalentform, hängt ausschließlich ab von ihrer jedesmaligen Stelle im Wertausdruck, d.h. davon, ob sie die Ware ist, deren Wert, oder aber die Ware, worin Wert ausgedrückt wird.

2. Die relative Wertform
a) Gehalt der relativen Wertform
1. Um herauszufinden, wie der einfache Wertausdruck einer Ware im Wertverhältnis zweier Waren steckt, muß man letzteres zunächst ganz unabhängig von seiner quantitativen Seite betrachten. Man verfährt meist grade umgekehrt und sieht im Wertverhältnis nur die Proportion, worin bestimmte Quanta zweier Warensorten einander gleichgelten. Man übersieht, daß die Größen verschiedner Dinge erst quantitativ vergleichbar werden nach ihrer Reduktion auf dieselbe Einheit. Nur als Ausdrücke derselben Einheit sind sie gleichnamige, daher kommensurable Größen.(17)
2. Ob 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 20 oder = x Röcke, d.h., ob ein gegebenes Quantum Leinwand viele oder wenige Röcke wert ist, jede solche Proportion schließt stets ein, daß Leinwand und Röcke als Wertgrößen Ausdrücke derselben Einheit, Dinge von derselben Natur sind. Leinwand = Rock ist die Grundlage der Gleichung.
3. Aber die zwei qualitativ gleichgesetzten Waren spielen nicht dieselbe Rolle. Nur der Wert der Leinwand wird ausgedrückt. Und wie? Durch ihre Beziehung auf den Rock als ihr "Äquivalent" oder mit ihr "Austauschbares". In diesem Verhältnis gilt der Rock als Existenzform von Wert, als Wertding, denn nur als solches ist er dasselbe wie die Leinwand. Andrerseits kommt das eigne Wertsein der Leinwand zum Vorschein oder erhält einen selbständigen Ausdruck, denn nur als Wert ist sie auf den Rock als Gleichwertiges oder mit ihr Austauschbares bezüglich. So ist die Buttersäure ein vom Propylformat verschiedner Körper. Beide bestehn jedoch aus denselben chemischen Substanzen - Kohlenstoff (C), Wasserstoff (H) und Sauerstoff (O), und zwar in gleicher prozentiger Zusammensetzung, <65> nämlich C4H8O2. Würde nun der Buttersäure das Propylformat gleichgesetzt, so gälte in diesem Verhältnis erstens das Propylformat bloß als Existenzform von C4H8O2 und zweitens wäre gesagt, daß auch die Buttersäure aus C4H8O2 besteht. Durch die Gleichsetzung des Propylformats mit der Buttersäure wäre also ihre chemische Substanz im Unterschied von ihrer Körperform ausgedrückt.
4. Sagen wir: als Werte sind die Waren bloße Gallerten menschlicher Arbeit, so reduziert unsre Analyse dieselben auf die Wertabstraktion, gibt ihnen aber keine von ihren Naturalformen verschiedne Wertform. Anders im Wertverhältnis einer Ware zur andern. Ihr Wertcharakter tritt hier hervor durch ihre eigne Beziehung zu der andern Ware.
5. Indem z.B. der Rock als Wertding der Leinwand gleichgesetzt wird, wird die in ihm steckende Arbeit der in ihr steckenden Arbeit gleichgesetzt. Nun ist zwar die Schneiderei, die den Rock macht, eine von der Weberei, die die Leinwand macht, verschiedenartiger konkrete Arbeit. Aber die Gleichsetzung mit der Weberei reduziert die Schneiderei tatsächlich auf das in beiden Arbeiten wirklich Gleiche, auf ihren gemeinsamen Charakter menschlicher Arbeit. Auf diesem Umweg ist dann gesagt, daß auch die Weberei, sofern sie Wert webt, keine Unterscheindungsmerkmale von der Schneiderei besitzt, also abstrakt menschliche Arbeit ist. Nur der Äquivalenzausdruck verschiedenartiger Waren bringt den spezifischen Charakter der wertbildenden Arbeit zum Vorschein, indem er die in den verschiedenartigen Waren steckenden, verschiedenartigen Arbeiten tatsächlich auf ihr Gemeinsames reduziert, auf menschliche Arbeit überhaupt (17a).
6. Es genügt indes nicht, den spezifische Charakter der Arbeit auszudrücken, woraus der Wert der Leinwand besteht. Menschliche Arbeitskraft im flüssigen Zustand oder menschliche Arbeit bildet Wert, aber ist nicht Wert. Sie wird Wert in geronnenem Zustand, in gegenständlicher Form. Um den Leinwandwert als Gallerte menschlicher Arbeit auszudrük- <66> ken, muß er als eine "Gegenständlichkeit" ausgedrückt werden, welche von der Leinwand selbst dinglich verschieden und ihr zugleich mit andrer Ware gemeinsam ist. Die Aufgabe ist bereits gelöst.
7. Im Wertverhältnis der Leinwand gilt der Rock als ihr qualitativ Gleiches, als Ding von derselben Natur, weil er ein Wert ist. Er gilt hier daher als ein Ding, worin Wert erscheint oder welches in seiner handgreiflichen Naturalform Wert darstellt. Nun ist zwar der Rock, der Körper der Rockware, ein bloßer Gebrauchswert. Ein Rock drückt ebensowenig Wert aus als das erste beste Stück Leinwand. Dies beweist nur, daß er innerhalb des Wertverhältnisses zur Leinwand mehr bedeutet als außerhalb desselben, wie so mancher Mensch innerhalb eines galonierten Rockes mehr bedeutet als außerhalb desselben.
8. In der Produktion des Rockes ist tatsächlich, unter der Form der Schneiderei, menschliche Arbeitskraft verausgabt worden. Es ist also menschliche Arbeit in ihm aufgehäuft. Nach dieser Seite hin ist der Rock "Träger von Wert", obgleich diese seine Eigenschaft selbst durch seine größte Fadenscheinigkeit nicht durchblickt. Und im Wertverhältnis der Leinwand gilt er nur nach dieser Seite, daher als verkörperter Wert, als Wertkörper. Trotz seiner zugeknöpften Erscheinung hat die Leinwand in ihm die stammverwandte schöne Wertseele erkannt. Der Rock kann ihr gegenüber jedoch nicht Wert darstellen, ohne daß für sie gleichzeitig der Wert die Form eines Rockes annimmt. So kann sich das Individuum A nicht zum Individuum B als einer Majestät verhalten, ohne daß für A die Majestät zugleich die Leibesgestalt von B annimmt und daher Gesichtszüge, Haare und manches andre noch mit dem jedesmaligen Landesvater wechselt.
9. Im Wertverhältnis, worin der Rock das Äquivalent der Leinwand bildet, gilt also die Rockform als Wertform. Der Wert der Ware Leinwand wird daher ausgedrückt im Körper der Ware Rock, der Wert einer Ware im Gebrauchswert der andren. Als Gebrauchswert ist die Leinwand ein vom Rock sinnlich verschiednes Ding, als Wert ist sie "Rockgleiches" und sieht daher aus wie ein Rock. So erhält sie eine von ihrer Naturalform verschiedne Wertform. Ihr Wertsein erscheint in ihrer Gleichheit mit dem Rock wie die Schafsnatur des Christen in seiner Gleichheit mit dem Lamm Gottes.
10. Man sieht, alles, was uns die Analyse des Warenwerts vorher sagte, sagt die Leinwand selbst, sobald sie in Umgang mit andrer Ware, dem Rock, tritt. Nur verrät sie ihre Gedanken in der ihr allein geläufigen Sprache, der Warensprache. Um zu sagen, daß die Arbeit in der abstrakten Eigenschaft menschlicher Arbeit ihren eignen Wert bildet, sagt sie, daß der Rock, soweit er ihr gleichgilt, also Wert ist, aus derselben Arbeit be- <67> steht wie die Leinwand. Um zu sagen, daß ihre sublime Wertgegenständlichkeit von ihrem steifleinenen Körper verschieden ist, sagt sie, daß Wert aussieht wie ein Rock und daher sie selbst als Wertding dem Rock gleicht wie ein Ei dem andern. Nebenbei bemerkt, hat auch die Warensprache, außer dem Hebräischen, noch viele andre mehr oder minder korrekte Mundarten. Das deutsche "Wertsein" drückt z.B. minder schlagend aus als das romanische Zeitwort valere, valer, valoir, daß Gleichsetzung der Ware B mit der Ware der eigne Wertausdruck der Ware A ist. Paris vaut bien une messe! <Paris ist eine Messe wert!>
11. Vermittelst des Wertverhältnisses wird also die Naturalform der Ware B zur Wertform der Ware A oder der Körper der Ware B zum Wertspiegel der Ware A.(18) Indem sich die Ware A auf die Ware B als Wertkörper bezieht, als Materiatur menschlicher Arbeit, macht sie den Gebrauchswert B zum Material ihres eignen Wertausdrucks. Der Wert der Ware A, so ausgedrückt im Gebrauchswert der Ware B, besitzt die Form des relativen Werts.

b) Quantitative Bestimmtheit der relativen Wertform
1. Jede Ware, deren Wert ausgedrückt werden soll, ist ein Gebrauchsgegenstand von gegebnem Quantum, 15 Scheffel Weizen, 100 Pfd. Kaffee usw. Dieses gegebne Warenquantum enthält ein bestimmtes Quantum menschlicher Arbeit. Die Wertform hat also nicht nur Wert überhaupt, sondern quantitativ bestimmten Wert oder Wertgröße auszudrücken. Im Wertverhältnis der Ware A zur Ware B, der Leinwand zum Rocke, wird daher die Warenart Rock nicht nur als Wertkörper überhaupt der Leinwand qualitativ gleichgesetzt, sondern einem bestimmten Leinwandquantum, z.B. 20 Ellen Leinwand, ein bestimmtes Quantum des Wertkörpers oder Äquivalents, z.B. 1 Rock.
2. Die Gleichung: "20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder: 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert" setzt voraus, daß in 1 Rock gerade so viel Wertsubstanz steckt als in 20 Ellen Leinwand, daß beide Warenquanta also gleich viel Arbeit kosten oder gleich große Arbeitszeit. Die zur Produktion <68> von 20 Ellen Leinwand oder 1 Rock notwendiger Arbeitszeit wechselt aber mit jedem Wechsel in der Produktivkraft der Weberei oder der Schneiderei. Der Einfluß solcher Wechsel auf den relativen Ausdruck der Wertgröße soll nun näher untersucht werden.
3. I. Der Wert der Leinwand wechsle (19), während der Rockwert konstant bleibt. Verdoppelt sich die zur Produktion der Leinwand notwendige Arbeitszeit, etwa infolge zunehmender Unfruchtbarkeit des flachstragenden Bodens, so verdoppelt sich ihr Wert. Statt 20 Ellen Leinwand = 1 Rock hätten wir 20 Ellen Leinwand = 2 Röcke, da 1 Rock jetzt nur halb so viel Arbeitszeit enthält als 20 Ellen Leinwand. Nimmt dagegen die zur Produktion der Leinwand notwendige Arbeitszeit um die Hälfte ab, etwa infolge verbesserter Webstühle, so sinkt der Leinwandwert um die Hälfte. Demgemäß jetzt: 20 Ellen Leinwand = 1/2 Rock. Der relative Wert der Ware A, d.h. ihr Wert ausgedrückt in der Ware B, steigt und fällt also direkt wie der Wert der Ware A, bei gleichbleibenden Wert der Ware B.
4. II. Der Wert der Leinwand bleibe konstant, während der Rockwert wechsle. Verdoppelt sich unter diesen Umständen die zur Produktion des Rockes notwendige Arbeitszeit, etwa infolge ungünstiger Wollschur, so haben wir statt 20 Ellen Leinwand = 1 Rock jetzt: 20 Ellen Leinwand = 1/2 Rock. Fällt dagegen der Wert des Rockes um die Hälfte, so 20 Ellen Leinwand = 2 Röcke. Bei gleichbleibendem Wert der Ware A fällt oder steigt daher ihr relativer, in der Ware B ausgedrücker Wert im umgekehrten Verhältnis zum Wertwechsel von B.
5. Vergleicht man die verschiednen Fälle sub I und II, so ergibt sich, daß derselbe Größenwechsel des relativen Werts aus ganz entgegengesetzten Ursachen entspringen kann. So wird aus 20 Ellen Leinwand = 1 Rock: 1. die Gleichung 20 Ellen Leinwand = 2 Röcke, entweder weil der Wert der Leinwand sich verdoppelt oder der Wert der Röcke um die Hälfte fällt, und 2. die Gleichung 20 Ellen Leinwand = 1/2 Rock, entweder weil der Wert der Leinwand um die Hälfte sinkt oder der Wert des Rockes auf das Doppelte steigt.
6. III. Die zur Produktion von Leinwand und Rock notwendigen Arbeitsquanta mögen gleichzeitig, in derselben Richtung und derselben Proportion wechseln. In diesem Falle nach wie vor 20 Ellen Leinwand = 1 Rock, wie immer ihre Werte verändert seien. Man entdeckt ihren Wertwechsel, so- <69> bald man sie mit einer dritten Ware vergleicht, deren Wert konstant blieb. Stiegen oder fielen die Werte aller Waren gleichzeitig und in derselben Proportion, so würden ihre relativen Werte unverändert bleiben. Ihren wirklichen Wertwechsel ersähe man daraus, daß in derselben Arbeitszeit nun allgemein ein größeres oder kleineres Warenquantum als vorher geliefert würde.
7. IV. Die zur Produktion von Leinwand und Rock resp. notwendigen Arbeitszeiten, und daher ihre Werte, mögen gleichzeitig in derselben Richtung wechseln, aber in ungleichem Grad, oder in entgegengesetzter Richtung usw. Der Einfluß aller möglichen derartigen Kombinationen auf den relativen Wert einer Ware ergibt sich einfach durch Anwendung der Fälle I, II und III.
8. Wirkliche Wechsel der Wertgröße spiegeln sich also weder unzweideutig noch erschöpfend wider in ihrem relativen Ausdruck oder in der Größe des relativen Werts. Der relative Wert einer Ware kann wechseln, obgleich ihr Wert konstant bleibt. Ihr relativer Wert kann konstant bleiben, obgleich ihr Wert wechselt, und endlich brauchen gleichzeitige Wechsel in ihrer Wertgröße und im relativen Ausdruck dieser Wertgröße sich keineswegs zu decken.(20)

3. Die Äquivalentform
1. <70> Man hat gesehn: Indem eine Ware A (die Leinwand) ihren Wert im Gebrauchswert einer verschiedenartigen Ware B (dem Rock) ausdrückt, drückt sie letzterer selbst eine eigentümliche Wertform auf, die des Äquivalents. Die Leinwandware bringt ihr eignes Wertsein dadurch zum Vorschein, daß ihr der Rock, ohne Annahme einer von seiner Körperform verschiednen Wertform, gleichgilt. Die Leinwand drückt also in der Tat ihr eignes Wertsein dadurch aus, daß der Rock unmittelbar mit ihr austauschbar ist. Die Äquivalentform einer Ware ist folglich die Form ihrer unmittelbaren Austauschbarkeit mit anderer Ware.
2. Wenn eine Warenart, wie Röcke, einer andren Warenart, wie Leinwand, zum Äquivalent dient, Röcke daher die charakteristische Eigenschaft erhalten, sich in unmittelbar austauschbarer Form mit Leinwand zu befinden, so ist damit in keiner Weise die Proportion gegeben, worin Röcke und Leinwand austauschbar sind. Sie hängt, da die Wertgröße der Leinwand gegeben ist, von der Wertgröße der Röcke ab. Ob der Rock als Äquivalent und die Leinwand als relativer Wert oder umgekehrt die Leinwand als Äquivalent und der Rock als relativer Wert ausgedrückt sei, seine Wertgröße bleibt nach wie vor durch die zu seiner Produktion notwendige Arbeitszeit, also unabhängig von seiner Wertform bestimmt. Aber sobald die Warenart Rock im Wertausdruck die Stelle des Äquivalents einnimmt, erhält ihre Wertgröße keinen Ausdruck als Wertgröße. Sie figuriert in der Wertgleichung vielmehr nur als bestimmtes Quantum einer Sache.
3. Z.B.: 40 Ellen Leinwand sind "wert" - was? 2 Röcke. Weil die Warenart Rock hier die Rolle des Äquivalents spielt, der Gebrauchswert Rock der Leinwand gegenüber als Wertkörper gilt, genügt auch ein bestimmtes Quantum Röcke, um ein bestimmtes Wertquantum Leinwand auszudrücken. Zwei Röcke können daher die Wertgröße von 40 Ellen Leinwand, aber sie können nie ihre eigne Wertgröße, die Wertgröße von Röcken, ausdrücken. Die oberflächliche Auffassung dieser Tatsache, daß das Äquivalent in der Wertgleichung stets nur die Form eines einfachen Quantums einer Sache, eines Gebrauchswertes, besitzt, hat Bailey, wie viele seiner Vorgänger und Nachfolger, verleitet, im Wertausdruck ein nur quantitatives Verhältnis zu sehn. Die Äquivalentform einer Ware enthält vielmehr keine quantitative Wertbestimmung.
4. Die erste Eigentümlichkeit, die bei Betrachtung der Äquivalentform auffällt, ist diese: Gebrauchswert wird zur Erscheinungsform seines Gegenteils, des Werts.
5. <71> Die Naturalform der Ware wird zur Wertform. Aber, notabene, dies Quidproquo ereignet sich für eine Ware B (Rock oder Weizen oder Eisen usw.) nur innerhalb des Wertverhältnisses, worin eine beliebige andre Ware A (Leinwand etc.) zu ihr tritt, nur innerhalb dieser Beziehung. Da keine Ware sich auf sich selbst als Äquivalent beziehn, also auch nicht ihre eigne Naturalhaut zum Ausdruck ihres eignen Werts machen kann, muß sie sich auf andre Ware als Äquivalent beziehn oder die Naturalhaut einer andren Ware zu ihrer eignen Wertform machen.
6. Dies veranschauliche uns das Beispiel eines Maßes, welches den Warenkörpern als Warenkörpern zukommt, d.h. als Gebrauchswerten. Ein Zuckerhut, weil Körper, ist schwer und hat daher Gewicht, aber man kann keinem Zuckerhut sein Gewicht ansehn oder anfühlen. Wir nehmen nun verschiedne Stücke Eisen, deren Gewicht vorher bestimmt ist. Die Körperform des Eisens, für sich betrachtet, ist ebensowenig Erscheinungsform der Schwere als die des Zuckerhuts. Dennoch, um den Zuckerhut als Schwere auszudrücken, setzen wir ihn in ein Gewichtsverhältnis zum Eisen. In diesem Verhältnis gilt das Eisen als ein Körper, der nichts darstellt außer Schwere. Eisenquanta dienen daher zum Gewichtsmaß des Zuckers und repräsentieren dem Zuckerkörper gegenüber bloße Schwergestalt, Erscheinungsform von Schwere. Diese Rolle spielt das Eisen nur innerhalb dieses Verhältnisses, worin der Zucker oder irgendein anderer Körper, dessen Gewicht gefunden werden soll, zu ihm tritt. Wären beide Dinge nicht schwer, so könnten sie nicht in dieses Verhältnis treten und das eine daher nicht zum Ausdruck der Schwere des andren dienen. Werfen wir beide auf die Waagschale, so sehn wir in der Tat, daß sie als Schwere dasselbe, und daher in bestimmter Proportion auch von demselben Gewicht sind. Wie der Eisenkörper als Gewichtsmaß dem Zuckerhut gegenüber nur Schwere, so vertritt in unsrem Wertausdruck der Rockkörper der Leinwand gegenüber nur Wert.
7. Hier hört jedoch die Analogie auf. Das Eisen vertritt im Gewichtsausdruck des Zuckerhuts eine beiden Körpern gemeinsame Natureigenschaft, ihre Schwere, während der Rock im Wertausdruck der Leinwand eine übernatürliche Eigenschaft beider Dinge vertritt: ihren Wert, etwas rein Gesellschaftliches.
8. Indem die relative Wertform einer Ware, z.B. der Leinwand, ihr Wertsein als etwas von ihrem Körper und seinen Eigenschaften durchaus Unterschiedenes ausdrückt, z.B. als Rockgleiches, deutet dieser Ausdruck selbst an, daß er ein gesellschaftliches Verhältnis verbirgt. Umgekehrt mit der Äquivalentform. Sie besteht ja gerade darin, daß ein Warenkörper, wie der <72> Rock, dies Ding wie es geht und steht, Wert ausdrückt, also von Natur Wertform besitzt. Zwar gilt dies nur innerhalb des Wertverhältnisses, worin die Leinwandware auf die Rockware als Äquivalent bezogen ist.(21) Da aber Eigenschaften eines Dings nicht aus seinem Verhältnis zu andern Dingen entspringen, sich vielmehr in solchem Verhältnis nur betätigen, scheint auch der Rock seine Äquivalentform, seine Eigenschaft unmittelbarer Austauschbarkeit, ebensosehr von Natur zu besitzen wie seine Eigenschaft, schwer zu sein oder warm zu halten. Daher das Rätselhafte der Äquivalentform, das den bürgerlich rohen Blick des politischen Ökonomen erst schlägt, sobald diese Form ihm fertig gegenübertritt im Geld. Dann sucht er den mystischen Charakter von Gold und Silber wegzuklären, indem er ihnen minder blendende Waren unterschiebt und mit stets erneutem Vergnügen den Katalog all des Warepöbels ableiert, der seinerzeit die Rolle des Warenäquivalents gespielt hat. Er ahnt nicht, daß schon der einfachste Wertausdruck, wie 20 Ellen Leinwand = 1 Rock, das Rätsel der Äquivalentform zu lösen gibt.
9. Der Körper der Ware, die zum Äquivalent dient, gilt stets als Verkörperung abstrakt menschlicher Arbeit und ist stets das Produkt einer bestimmten nützlichen, konkreten Arbeit. Diese konkrete Arbeit wird also zum Ausdruck abstrakt menschlicher Arbeit. Gilt der Rock z.B. als bloße Verwirklichung, so die Schneiderei, die sich tatsächlich in ihm verwirklicht, als bloße Verwirklichungsform abstrakt menschlicher Arbeit. Im Wertausdruck der Leinwand besteht die Nützlichkeit der Schneiderei nicht darin, daß sie Kleider, also auch Leute, sondern daß sie einen Körper macht, dem man es ansieht, daß er Wert ist, also Gallerte von Arbeit, die sich durchaus nicht unterscheidet von der im Leinwandwert vergegenständlichten Arbeit. Um solch einen Wertspiegel zu machen, muß die Schneiderei selbst nichts widerspiegeln außer ihrer abstrakten Eigenschaft, menschliche Arbeit zu sein.
10. In der Form der Schneiderei wie in der Form der Weberei wird menschliche Arbeitskraft verausgabt. Beide besitzen daher die allgemeine Eigenschaft menschlicher Arbeit und mögen daher in bestimmten Fällen, z.B. bei der Wertproduktion, nur unter diesem Gesichtspunkt in Betracht kommen. All das ist nicht mysteriös. Aber im Wertausdruck der Ware wird die Sache verdreht. Um z.B. auszudrücken, daß das Weben nicht in seiner <73> konkreten Form als Weben, sondern in seiner allgemeinen Eigenschaft als menschliche Arbeit den Leinwandwert bildet, wird ihm die Schneiderei, die konkrete Arbeit, die das Leinwand-Äquivalent produziert, gegenübergestellt als die handgreifliche Verwirklichungsform abstrakt menschlicher Arbeit.
11. Es ist also eine zweite Eigentümlichkeit der Äquivalentform, daß konkrete Arbeit zur Erscheinungsform ihres Gegenteils, abstrakt menschlicher Arbeit wird.
12. Indem aber diese konkrete Arbeit, die Schneiderei, als bloßer Ausdruck unterschiedsloser menschlicher Arbeit gilt, besitzt sie die Form der Gleichheit mit andrer Arbeit, der in der Leinwand steckenden Arbeit, und ist daher, obgleich Privatarbeit, wie alle andre, Waren produzierende Arbeit, dennoch Arbeit in unmittelbar gesellschaftlicher Form. Ebendeshalb stellt sie sich dar in einem Produkt, das unmittelbar austauschbar mit andrer Ware ist. Es ist also eine dritte Eigentümlichkeit der Äquivalentform, daß Privatarbeit zur Form ihres Gegenteils wird, zu Arbeit in unmittelbar gesellschaftlicher Form.
13. Die beiden zuletzt entwickelten Eigentümlichkeiten der Äquivalentform werden noch faßbarer, wenn wir zu dem großen Forscher zurückgehn, der die Wertform, wie so viele Denkformen, Gesellschaftsformen und Naturformen zuerst analysiert hat. Es ist dies Aristoteles.
14. Zunächst spricht Aristoteles klar aus, daß die Geldform der Ware nur die weiter entwickelte Gestalt der einfachen Wertform ist, d.h. des Ausdrucks des Werts einer Ware in irgendeiner beliebigen andren Ware, denn er sagt:
"5 Polster = 1 Haus"
Kliuai pente anti oik iaz
< Griechisch: Clinai pente anti oicias>
"unterscheidet sich nicht" von:
"5 Polster = soundso viel Geld"
Kliuai pente anti ... osou ai pente k linai
< Griechisch: clinai pente anti ... odson ai pente clinai>
15. Er sieht ferner ein, daß das Wertverhältnis, worin dieser Wertausdruck steckt, seinerseits bedingt, daß das Haus dem Polster qualitativ gleichgesetzt wird und daß diese sinnlich verschiednen Dinge ohne solche Wesensgleichheit nicht als kommensurable Größen aufeinander beziehbar wären. "Der Austausch", sagt er," kann nicht sein ohne die Gleichheit, die <74> Gleichheit aber nicht ohne die Kommensurabilität" ("out isothz mh oushz summetria z"). Hier aber stutzt er und gibt die weitere Analyse der Wertform auf. "Es ist aber in Wahrheit unmöglich (th men oun alhdeia adunaton), daß so verschiedenartige Dinge kommensurabel", d.h. qualitativ gleich seien. Diese Gleichsetzung kann nur etwas der wahren Natur der Dinge Fremdes sein, also nur "Notbehelf für das praktische Bedürfnis".
16. Aristoteles sagt uns also selbst, woran seine weitere Analyse scheitert, nämlich am Mangel des Wertbegriffs. Was ist das Gleiche, d.h. die gemeinschaftliche Substanz, die das Haus für den Polster im Wertausdruck des Polsters vorstellt? So etwas kann "in Wahrheit nicht existieren", sagt Aristoteles. Warum? Das Haus stellt dem Polster gegenüber ein Gleiches vor, soweit es das in beiden, dem Polster und dem Haus, wirklich Gleiche vorstellt. Und das ist - menschliche Arbeit.
17. Daß aber in der Form der Warenwerte alle Arbeiten als gleiche menschliche Arbeit und daher als gleichgeltend ausgedrückt sind, konnte Aristoteles nicht aus der Wertform selbst herauslesen, weil die griechische Gesellschaft auf der Sklavenarbeit beruhte, daher die Ungleichheit der Menschen und ihrer Arbeitskräfte zur Naturbasis hatte. Das Geheimnis des Wertausdrucks, die Gleichheit und gleiche Gültigkeit aller Arbeiten, weil und insofern sie menschliche Arbeit überhaupt sind, kann nur entziffert werden, sobald der Begriff der menschlichen Gleichheit bereits die Festigkeit eines Volksvorurteils besitzt. Das ist aber erst möglich in einer Gesellschaft, worin die Warenform die allgemeine Form des Arbeitsprodukts, also auch das Verhältnis der Menschen zueinander als Warenbesitzer das herrschende gesellschaftliche Verhältnis ist. Das Genie des Aristoteles glänzt grade darin, daß er im Wertausdruck der Waren ein Gleichheitsverhältnis entdeckt. Nur die historische Schranke der Gesellschaft, worin er lebte, verhindert ihn herauszufinden, worin denn "in Wahrheit" dies Gleichheitsverhältnis besteht.

4. Das Ganze der einfache Wertform
1. Die einfache Wertform einer Ware ist enthalten in ihrem Wertverhältnis zu einer verschiedenartigen Ware oder im Austauschverhältnis mit derselben. Der Wert der Ware A wird qualitativ ausgedrückt durch die unmittelbare Austauschbarkeit der Ware B mit der Ware A. Er wird quantitativ ausgedrückt durch die Austauschbarkeit eines bestimmten Quantums der Ware B mit dem gegebenen Quantum der Ware A. In andren Worten: <75> Der Wert einer Ware ist selbständig ausgedrückt durch seine Darstellung als "Tauschwert". Wenn es im Eingang dieses Kapitels in der gang und gäben Manier hieß: Die Ware ist Gebrauchswert und Tauschwert, so war dies, genau gesprochen, falsch. Die Ware ist Gebrauchswert oder Gebrauchsgegenstand und "Wert". Sie stellt sich dar als dies Doppelte, was sie ist, sobald ihr Wert eine eigne, von ihrer Naturalform verschiedene Erscheinungsform besitzt, die des Tauschwerts, und sie besitzt diese Form niemals isoliert betrachtet, sondern stets nur im Wert- oder Austauschverhältnis zu einer zweiten, verschiedenartigen Ware. Weiß man das jedoch einmal, so tut jene Sprechweise keinen Harm, sondern dient zur Abkürzung.
2. Unsere Analyse bewies, daß die Wertform oder der Wertausdruck der Ware aus der Natur des Warenwerts entspringt, nicht umgekehrt Wert und Wertgröße aus ihrer Ausdrucksweise als Tauschwert. Dies ist jedoch der Wahn sowohl der Merkantilisten und ihrer modernen Aufwärmer, wie Ferrier, Ganilh usw. (22), als auch ihrer Antipoden, der modernen Freihandels-Commis-Voyageurs, wie Bastiat und Konsorten. Die Merkantilisten legen das Hauptgewicht auf die qualitative Seite des Wertausdrucks, daher auf die Äquivalentform der Ware, die im Geld ihre fertige Gestalt besitzt - die modernen Freihandelshausierer dagegen, die ihre Ware um jeden Preis losschlagen müssen, auf die quantitative Seite der relativen Wertform. Für sie existiert folglich weder Wert noch Wertgröße der Ware außer in dem Ausdruck durch das Austauschverhältnis, daher nur im Zettel des täglichen Preiskurants. Der Schotte Macleod, in seiner Funktion, die kreuzverwirrten Vorstellungen von Lombardstreet möglichst gelehrt herauszuputzen, bildet die gelungene Synthese zwischen den abergläubigen Merkantilisten und den aufgeklärten Freihandelshausierern.
3. Die nähere Betrachtung des im Wertverhältnis zur Ware B enthaltenen Wertausdrucks der Ware A hat gezeigt, daß innerhalb desselben die Naturalform der Ware A nur als Gestalt von Gebrauchswert, die Naturalform der Ware B nur als Wertform oder Wertgestalt gilt. Der in der Ware eingehüllte innere Gegensatz von Gebrauchswert und Wert wird also dargestellt durch einen äußeren Gegensatz, d.h. durch das Verhältnis zweier Waren, worin <76> die eine Ware, deren Wert ausgedrückt werden soll, unmittelbar nur als Gebrauchswert, die andre Ware hingegen, worin Wert ausgedrückt wird, unmittelbar nur als Tauschwert gilt. Die einfache Wertform einer Ware ist also die einfache Erscheinungsform des in ihr enthaltenen Gegensatzes von Gebrauchswert und Wert.
4. Das Arbeitsprodukt ist in allen gesellschaftlichen Zuständen Gebrauchsgegenstand, aber nur eine historisch bestimmte Entwicklungsepoche, welche die in der Produktion eines Gebrauchsdings verausgabte Arbeit als seine "gegenständliche" Eigenschaft darstellt, d.h. als seinen Wert, verwandelt das Arbeitsprodukt in Ware. Es folgt daher, daß die einfache Wertform der Ware zugleich die einfache Warenform des Arbeitsprodukts ist, daß also auch die Entwicklung der Warenform mit der Entwicklung der Wertform zusammenfällt.

5. Der erste Blick zeigt das Unzulängliche der einfachen Wertform, dieser Keimform, die erst durch eine Reihe von Metamorphosen zur Preisform heranreift.
6. Der Ausdruck in irgendwelcher Ware B unterscheidet den Wert der Ware A nur von ihrem eignen Gebrauchswert und setzt sie daher auch nur in ein Austauschverhältnis zu irgendeiner einzelnen von ihr selbst verschiednen Warenart, statt ihre qualitative Gleichheit und quantitative Proportionalität mit allen andren Waren darzustellen. Der einfachen relativen Wertform einer Ware entspricht die einzelne Äquivalentform einer andren Ware. So besitzt der Rock, im relativen Wertausdruck der Leinwand, nur Äquivalentform oder Form unmittelbarer Austauschbarkeit mit Bezug auf diese einzelne Warenart Leinwand.
7. Indes geht die einzelne Wertform von selbst in eine vollständigere Form über. Vermittelst derselben wird der Wert einer Ware A zwar in nur einer Ware von andrer Art ausgedrückt. Welcher Art aber diese zweite Ware, ob Rock, ob Eisen, ob Weizen usw., ist durchaus gleichgültig. Je nachdem sie also zu dieser oder jener andren Warenart in ein Wertverhältnis tritt, entstehn verschiedne einfache Wertausdrücke einer und derselben Ware.(22a) Die Anzahl ihrer möglichen Wertausdrücke ist nur beschränkt durch die Anzahl von ihr verschiedner Warenarten. Ihr vereinzelter Wertausdruck verwandelt sich daher in die stets verlängerbare Reihe ihrer verschiednen einfachen Wertausdrücke.




B) Totale oder entfaltete Wertform
1. <77> z Ware A = u Ware B oder = v Ware C oder = w Ware D oder = x Ware E oder = etc.
(20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 10 Pfd. Tee oder = 40 Pfd. Kaffee oder = 1 Quarter Weizen oder = 2 Unzen Gold oder = 1/2 Tonne Eisen oder = etc. )

1. Die entfaltete relative Wertform
1. Die Wert einer Ware, der Leinwand z.B., ist jetzt ausgedrückt in zahllosen andren Elementen der Warenwelt. Jeder andre Warenkörper wird zum Spiegel des Leinwandwerts.(23) So erscheint dieser Wert selbst erst wahrhaft als Gallerte unterschiedsloser menschlicher Arbeit. Denn die ihn bildende Arbeit ist nun ausdrücklich als Arbeit dargestellt, der jede andre menschliche Arbeit gleichgilt, welche Naturalform sie immer besitze und ob sie sich daher in Rock oder Weizen oder Eisen oder Gold usw. vergegenständliche. Durch ihre Wertform steht die Leinwand daher jetzt auch in gesellschaftlichem Verhältnis nicht mehr zu nur einer einzelnen andren Warenart, sondern zur Warenwelt. Als Ware ist sie Bürger dieser Welt. Zugleich liegt in der endlosen Reihe seiner Ausdrücke, daß der Warenwert gleichgültig ist gegen die besondre Form des Gebrauchswerts, worin er erscheint.
2. <78> In der ersten Form: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock kann es zufällige Tatsache sein, daß diese zwei Waren in einem bestimmten quantitativen Verhältnisse austauschbar sind. In der zweiten Form leuchtet dagegen sofort ein von der zufälligen Erscheinung wesentlich unterschiedner und sie bestimmender Hintergrund durch. Der Wert der Leinwand bleibt gleich groß, ob in Rock oder Kaffee oder Eisen etc. dargestellt, in zahllos verschiednen Waren, den verschiedensten Besitzern angehörig. Das zufällige Verhältnis zweier individueller Warenbesitzer fällt fort. Es wird offenbar, daß nicht der Austausch die Wertgröße der Ware, sondern umgekehrt die Wertgröße der Ware ihre Austauschverhältnisse reguliert.

2. Die besondre Äquivalentform
1. Jede Ware, Rock, Tee, Weizen, Eisen usw., gilt im Wertausdruck der Leinwand als Äquivalent und daher als Wertkörper. Die bestimmte Naturalform jeder dieser Waren ist jetzt eine besondre Äquivalentform neben vielen andren. Ebenso gelten die mannigfaltigen in den verschiedenen Warenkörpern enthaltenen bestimmten, konkreten, nützlichen Arbeitsarten jetzt als ebenso viele besondre Verwirklichungs- oder Erscheinungsformen menschlicher Arbeit schlechthin.

3. Mängel der totalen oder entfalteten Wertform
1. Erstens ist der relative Wertausdruck der Ware unfertig, weil seine Darstellungsreihe nie abschließt. Die Kette, worin eine Wertgleichung sich zur andern fügt, bleibt fortwährend verlängerbar durch jede neu auftretende Warenart, welche das Material eines neuen Wertausdrucks liefert. Zweitens bildet sie eine bunte Mosaik auseinanderfallender und verschiedenartiger Wertausdrücke. Wird endlich, wie dies geschehn muß, der relative Wert jeder Ware in dieser entfalteten Form ausgedrückt, so ist die relative Wertform jeder Ware eine von der relativen Wertform jeder andren Ware verschiedne endlose Reihe von Wertausdrücken. - Die Mängel der entfalteten relativen Wertform spiegeln sich wider in der ihr entsprechenden Äquivalentform. Da die Naturalform jeder einzelnen Warenart hier eine besondre Äquivalentform neben unzähligen andren besondren Äquivalentformen ist, existieren überhaupt nur beschränkte Äquivalentformen, von denen jede die andre ausschließt. Ebenso ist die in jedem besondren Warenäquivalent enthaltene bestimmte, konkrete, nützliche Arbeitsart nur be- <79> sondre, also nicht erschöpfende Erscheinungsform der menschlichen Arbeit. Diese besitzt ihre vollständige oder totale Erscheinungsform zwar in dem Gesamtumkreis jener besondren Erscheinungsformen. Aber so besitzt sie keine einheitliche Erscheinungsform.

2. Die entfaltete relative Wertform besteht jedoch nur aus einer Summe einfacher relativer Wertausdrücke oder Gleichungen der ersten Form, wie:
20 Ellen Leinwand = 1 Rock
20 Ellen Leinwand = 10 Pfd. Tee usw.
3. Jede dieser Gleichungen enthält aber rückbezüglich auch die identische Gleichung:
1 Rock = 20 Ellen Leinwand
10 Pfd. Tee = 20 Ellen Leinwand usw.
4. In der Tat: Wenn ein Mann seine Leinwand mit vielen andren Waren austauscht und daher ihren Wert in einer Reihe von andren Waren ausdrückt, so müssen notwendig auch die vielen andren Warenbesitzer ihre Waren mit Leinwand austauschen und daher die Werte ihrer verschiednen Waren in derselben dritten Ware ausdrücken, in Leinwand. - Kehren wir also die Reihe: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 10 Pfd. Tee oder = usw. um, d.h., drücken wir die der Sache nach schon in der Reihe enthaltene Rückbeziehung aus, so erhalten wir:
C) Allgemeine Wertform
1 Rock = }20 Ellen Leinwand

10 Pfd. Tee =
40 Pfd. Kaffee =
1 Qrtr. Weizen =
2 Unzen Gold =
1/2 Tonne Eisen =
x Ware A =
usw. Ware =
1. Veränderter Charakter der Wertform
1. Die Waren stellen ihre Werte jetzt 1. einfach dar, weil in einer einzigen Ware und 2. einheitlich, weil in derselben Ware. Ihre Wertform ist einfach und gemeinschaftlich, daher allgemein.

2. <80> Die Formen I und II kamen beide nur dazu, den Wert einer Ware als etwas von ihrem eigne Gebrauchswert oder ihrem Warenkörper Unterschiedenes auszudrücken.
3. Die erste Form ergab Wertgleichungen wie: 1 Rock = 20 Ellen Leinwand, 10 Pfd. Tee = 1/2 Tonne Eisen usw. Der Rockwert wird als Leinwandgleiches, der Teewert als Eisengleiches usw. ausgedrückt, aber Leinwandgleiches und Eisengleiches, diese Wertausdrücke von Rock und Tee, sind ebenso verschieden wie Leinwand und Eisen. Diese Form kommt offenbar praktisch nur vor in den ersten Anfängen, wo Arbeitsprodukte durch zufälligen und gelegentlichen Austausch in Waren verwandelt werden.
4. Die zweite Form unterscheidet vollständiger als die erste den Wert einer Ware von ihrem eignen Gebrauchswert, denn der Wert des Rocks z.B. tritt jetzt seiner Naturalform in allen möglichen Formen gegenüber, als Leinwandgleiches, Eisengleiches, Teegleiches usw., alles andre, nur nicht Rockgleiches. Andrerseits ist hier jeder gemeinsame Wertausdruck der Waren direkt ausgeschlossen, denn im Wertausdruck je einer Ware erscheinen jetzt alle andren Waren nur in der Form von Äquivalenten. Die entfaltete Wertform kommt zuerst tatsächlich vor, sobald ein Arbeitsprodukt, Vieh z.B., nicht mehr ausnahmsweise, sondern schon gewohnheitsmäßig mit verschiednen andren Waren ausgetauscht wird.
5. Die neugewonnene Form drückt die Werte der Warenwelt in einer und derselben von ihr abgesonderten Warenart aus, z.B. in Leinwand, und stellt so die Werte aller Waren dar durch ihre Gleichheit mit Leinwand. Als Leinwandgleiches ist der Wert jetzt nicht nur von ihrem eignen Gebrauchswert unterschieden, sondern von allem Gebrauchswert, und ebendadurch als das ihr mit allen Waren Gemeinsame ausgedrückt. Erst diese Form bezieht daher wirklich die Waren aufeinander als Werte oder läßt sie einander als Tauschwerte erscheinen.
6. Die beiden früheren Formen drücken den Wert je einer Ware, sei es in einer einzigen verschiedenartigen Ware, sei es in einer Reihe vieler von ihr verschiednen Waren aus. Beidemal ist es sozusagen das Privatgeschäft der einzelnen Ware, sich eine Wertform zu geben, und sie vollbringt es ohne Zutun der andren Waren. Diese spielen ihr gegenüber die bloß passive Rolle des Äquivalents. Die allgemeine Wertform entsteht dagegen nur als gemeinsames Werk der Warenwelt. Eine Ware gewinnt nur allgemeinen Wertausdruck, weil gleichzeitig alle andren Waren ihren Wert in demselben Äquivalent ausdrücken, und jede neu auftretende Warenart muß das nachmachen. Es kommt damit zum Vorschein, daß die Wertgegenständlichkeit der Waren, weil sie das bloß "gesellschaftliche Dasein" dieser Dinge ist, <81> auch nur durch ihre allseitige gesellschaftliche Beziehung ausgedrückt werden kann, ihre Wertform daher gesellschaftlich gültige Form sein muß.
7. In der Form von Leinwandgleichen erscheinen jetzt alle Waren nicht nur als qualitativ Gleiche, Werte überhaupt, sondern zugleich als quantitativ vergleichbare Wertgrößen. Weil sie ihre Wertgrößen in einem und demselben Material, in Leinwand bespiegeln, spiegeln sich diese Wertgrößen wechselseitig wider. Z.B. 10 Pfd. Tee = 20 Ellen Leinwand, und 40 Pfd. Kaffee = 20 Ellen Leinwand. Also 10 Pfd. Tee = 40 Pfd. Kaffee. Oder in 1 Pfd. Kaffee steckt nur 1/4 soviel Wertsubstanz, Arbeit, als in 1 Pfd. Tee.
8. Die allgemeine relative Wertform der Warenwelt drückt der von ihr ausgeschlossenen Äquivalentware, der Leinwand, den Charakter des allgemeinen Äquivalents auf. Ihre eigne Naturalform ist die gemeinsame Wertgestalt dieser Welt, die Leinwand daher mit allen andren Waren unmittelbar austauschbar. Ihre Körperform gilt als die sichtbare Inkarnation, die allgemeine gesellschaftliche Verpuppung aller menschlichen Arbeit. Die Weberei, die Privatarbeit, welche Leinwand produziert, befindet sich zugleich in allgemein gesellschaftlicher Form, der Form der Gleichheit mit allen andren Arbeiten. Die zahllosen Gleichungen, woraus die allgemeine Wertform besteht, setzen der Reihe nach die in der Leinwand verwirklichte Arbeit jeder in andrer Ware enthaltenen Arbeit gleich und machen dadurch die Weberei zur allgemeinen Erscheinungsform menschlicher Arbeit überhaupt. So ist die im Warenwert vergegenständlichte Arbeit nicht nur negativ dargestellt als Arbeit, worin von allen konkreten Formen und nützlichen Eigenschaften der wirklichen Arbeiten abstrahiert wird. Ihre eigne positive Natur tritt ausdrücklich hervor. Sie ist die Reduktion aller wirkliche Arbeiten auf den ihnen gemeinsamen Charakter menschlicher Arbeit, auf die Verausgabung menschlicher Arbeitskraft.
9. Die allgemeine Wertform, welche die Arbeitsprodukte als bloße Gallerten unterschiedsloser menschlicher Arbeit darstellt, zeigt durch ihr eignes Gerüste, daß sie der gesellschaftliche Ausdruck der Warenwelt ist. So offenbart sie, daß innerhalb dieser Welt der allgemein menschliche Charakter der Arbeit ihren spezifisch gesellschaftlichen Charakter bildet.

2. Entwicklungsverhältnis von relativer Wertform und Äquivalentform
1. Dem Entwicklungsgrad der relativen Wertform entspricht der Entwicklungsgrad der Äquivalentform. Aber, und dies ist wohl zu merken, die Entwicklung der Äquivalentform ist nur Ausdruck und Resultat der Entwicklung der relativen Wertform.
2. <82> Die einfache oder vereinzelte relative Wertform einer Ware macht eine andre Ware zum einzelnen Äquivalent. Die entfaltete Form des relativen Werts, dieser Ausdruck des Werts einer Ware in allen andren Waren, prägt ihnen die Form verschiedenartiger besonderer Äquivalente auf. Endlich erhält eine besondre Warenart die allgemeine Äquivalentform, weil alle andren Waren sie zum Material ihrer einheitlichen, allgemeinen Wertform machen.

3. In demselben Grad aber, worin sich die Wertform überhaupt entwickelt, entwickelt sich auch der Gegensatz zwischen ihren beiden Polen, der relativen Wertform und Äquivalentform.
4. Schon die erste Form - 20 Ellen Leinwand = 1 Rock - enthält diesen Gegensatz, fixiert ihn aber nicht. Je nachdem dieselbe Gleichung vorwärts oder rückwärts gelesen wird, befindet sich jedes der beiden Warenextreme, wie Leinwand und Rock, gleichmäßig bald in der relativen Wertform, bald in der Äquivalentform. Es kostet hier noch Mühe, den polarischen Gegensatz festzuhalten.
5. In den Form II kann immer nur je eine Warenart ihren relativen Wert total entfalten oder besitzt sie selbst nur entfaltete relative Wertform, weil und sofern alle andren Waren sich ihr gegenüber in der Äquivalentform befinden. Hier kann man nicht mehr die zwei Seiten der Wertgleichung - wie 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 10 Pfd. Tee oder = 1 Qrtr. Weizen etc. - umsetzen, ohne ihren Gesamtcharakter zu verändern und sie aus der totalen in die allgemeine Wertform zu verwandeln.
6. Die letztere Form, Form III, endlich gibt der Warenwelt allgemeingesellschaftliche relative Wertform, weil und sofern, mit einer einzigen Ausnahme, alle ihr angehörigen Waren von der allgemeinen Äquivalentform ausgeschlossen sind. Eine Ware, die Leinwand, befindet sich daher in der Form unmittelbarer Austauschbarkeit mit allen andren Waren oder in unmittelbar gesellschaftlicher Form, weil und sofern alle andren Waren sich nicht darin befinden.(24)
7. <83> Umgekehrt ist die Ware, die als allgemeines Äquivalent figuriert, von der einheitlichen und daher allgemeinen relativen Wertform der Warenwelt ausgeschlossen. Sollte die Leinwand, d.h. irgendeine in allgemeiner Äquivalentform befindliche Ware, auch zugleich an der allgemeinen relativen Wertform teilnehmen, so müßte sie sich selbst zum Äquivalent dienen. Wir erhielten dann: 20 Ellen Leinwand = 20 Ellen Leinwand, eine Tautologie, worin weder Wert noch Wertgröße ausgedrückt ist. Um den relativen Wert des allgemeinen Äquivalents auszudrücken, müssen wir vielmehr die Form III umkehren. Es besitzt keine mit den andren Waren gemeinschaftliche relative Wertform, sondern sein Wert drückt sich relativ aus in der endlosen Reihe aller andren Warenkörper. So erscheint jetzt die entfaltete relative Wertform oder Form II als die spezifische relative Wertform der Äquivalentware.

3. Übergang aus der allgemeinen Wertform zur Geldform
1. Die allgemeine Äquivalentform ist eine Form des Werts überhaupt. Sie kann also jeder Ware zukommen. Andrerseits befindet sich eine Ware nur in allgemeiner Äquivalentform (Form III), weil und sofern sie durch alle andren Waren als Äquivalent ausgeschlossen wird. Und erst vom Augenblick, wo diese Ausschließung sich endgültig auf eine spezifische Warenart beschränkt, hat die einheitliche relative Wertform der Warenwelt objektive Festigkeit und allgemein gesellschaftliche Gültigkeit gewonnen.
2. Die spezifische Warenart nun, mit deren Naturalform die Äquivalentform gesellschaftlich verwächst, wird zur Geldware oder funktioniert als Geld. Es wird ihre spezifisch gesellschaftliche Funktion, und daher ihr gesellschaftliches Monopol, innerhalb der Warenwelt die Rolle des allgemeinen Äquivalents zu spielen. Diesen bevorzugten Platz hat unter den <84> Waren, welche in Form II als besondre Äquivalente der Leinwand figurieren und in Form III ihren relativen Wert gemeinsam in Leinwand ausdrücken eine bestimmte Ware historisch erobert, das Gold. Setzen wir daher in Form III die Ware Gold an die Stelle der Ware Leinwand, so erhalten wir:





D) Geldform
20 Ellen Leinwand = }2 Unzen Gold
1 Rock =
10 Pfd. Tee =
40 Pfd. Kaffee =
1 Qrtr. Weizen =
1/2 Tonne Eisen =
x Ware A =
1. Es finden wesentliche Veränderungen statt beim Übergang von Form I zu Form II, von Form II zu Form III. Dagegen unterscheidet Form IV sich durch nichts von Form III, außer daß jetzt statt Leinwand Gold die allgemeine Äquivalentform besitzt. Gold bleibt in Form IV, was die Leinwand in Form III war - allgemeines Äquivalent. Der Fortschritt besteht nur darin , daß die Form unmittelbarer allgemeiner Austauschbarkeit oder die allgemeine Äquivalentform jetzt durch gesellschaftliche Gewohnheit endgültig mit der spezifischen Naturalform der Ware Gold verwachsen ist.
2. Gold tritt den andren Waren nur als Geld gegenüber, weil es ihnen bereits zuvor als Ware gegenüberstand. Gleich allen andren Waren funktionierte es auch als Äquivalent, sei es als einzelnes Äquivalent in vereinzelten Austauschakten, sei es als besondres Äquivalent neben andren Warenäquivalenten. Nach und nach funktionierte es in engeren oder weiteren Kreisen als allgemeines Äquivalent. Sobald es das Monopol dieser Stelle im Wertausdruck der Warenwelt erobert hat, wird es Geldware, und erst von dem Augenblick, wo es bereits Geldware geworden ist, unterscheidet sich Form IV von Form III, oder ist die allgemeine Wertform verwandelt in die Geldform.
3. Die einfache relative Wertausdruck einer Ware, z.B. der Leinwand, in der bereits als Geldware funktionierenden Ware, z.B. dem Gold, ist Preisform. Die "Preisform" der Leinwand daher:
20 Ellen Leinwand = 2 Unzen Gold
oder, wenn 2 Pfd.St. der Münzname von 2 Unzen Gold,
20 Ellen Leinwand = 2 Pfd.St.
4. <85> Die Schwierigkeit im Begriff der Geldform beschränkt sich auf das Begreifen der allgemeinen Äquivalentform, also der allgemeinen Wertform überhaupt, der Form III. Form III löst sich rückbezüglich auf in Form II, die entfaltete Wertform, und ihr konstituierendes Element ist Form I: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder x Ware A = y Ware B. Die einfache Warenform ist daher der Keim der Geldform.

第4節 物神的性格とその秘密
4. Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis
1. Eine Ware scheint auf den ersten Blick ein selbstverständliches, triviales Ding. Ihre Analyse ergibt, daß sie ein sehr vertracktes Ding ist, voll metaphysischer Spitzfindigkeit und theologischer Mucken. Soweit sie Gebrauchswert, ist nichts Mysteriöses an ihr, ob ich sie nun unter dem Gesichtspunkt betrachte, daß sie durch ihre Eigenschaften menschliche Bedürfnisse befriedigt oder diese Eigenschaften erst als Produkt menschlicher Arbeit erhält. Es ist sinnenklar, daß der Mensch durch seine Tätigkeit die Formen der Naturstoffe in einer ihm nützliche Weise verändert. Die Form des Holzes z.B. wird verändert, wenn man aus ihm einen Tisch macht. Nichtsdestoweniger bleibt der Tisch Holz, ein ordinäres sinnliches Ding. Aber sobald er als Ware auftritt, verwandelt er sich in ein sinnlich übersinnliches Ding. Er steht nicht nur mit seinen Füßen auf dem Boden, sondern er stellt sich allen andren Waren gegenüber auf den Kopf und entwickelt aus seinem Holzkopf Grillen, viel wunderlicher, als wenn er aus freien Stücken zu tanzen begänne.(25)
2. Der mystische Charakter der Ware entspringt also nicht aus ihrem Gebrauchswert. Er entspringt ebensowenig aus dem Inhalt der Wertbestimmungen. Denn erstens, wie verschieden die nützlichen Arbeiten oder produktiven Tätigkeiten sein mögen, es ist eine physiologische Wahrheit, daß sie Funktionen des menschlichen Organismus sind und daß jede solche Funktion, welches immer ihr Inhalt und ihre Form, wesentlich Verausgabung von menschlichem Hirn, Nerv, Muskel, Sinnesorgan usw. ist. Was zweitens der Bestimmung der Wertgröße zugrunde liegt, die Zeitdauer jener Verausgabung oder die Quantität der Arbeit, so ist die Quantität sogar sinnfällig von der Qualität der Arbeit unterscheidbar. In allen Zuständen mußte die Arbeitszeit, welche die Produktion der Lebensmittel kostet, den Men- <86> schen interessieren, obgleich nicht gleichmäßig auf verschiedenen Entwicklungsstufen.(26) Endlich, sobald die Menschen in irgendeiner Weise füreinander arbeiten, erhält ihre Arbeit auch eine gesellschaftliche Form.
3. Woher entspringt also der rätselhafte Charakter des Arbeitsprodukts, sobald es Warenform annimmt? Offenbar aus dieser Form selbst. Die Gleichheit der menschlichen Arbeiten erhält die sachliche Form der gleichen Wertgegenständlichkeit der Arbeitsprodukte, das Maß der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft durch ihre Zeitdauer erhält die Form der Wertgröße der Arbeitsprodukte, endlich die Verhältnisse der Produzenten, worin jene gesellschaftlichen Bestimmungen ihrer Arbeiten betätigt werden, erhalten die Form eines gesellschaftlichen Verhältnisses der Arbeitsprodukte.
4. Das Geheimnisvolle der Warenform besteht also einfach darin, daß sie den Menschen die gesellschaftlichen Charaktere ihrer eignen Arbeit als gegenständliche Charaktere der Arbeitsprodukte selbst, als gesellschaftliche Natureigenschaften dieser Dinge zurückspiegelt, daher auch das gesellschaftliche Verhältnis der Produzenten zur Gesamtarbeit als ein außer ihnen existierendes gesellschaftliches Verhältnis von Gegenständen. Durch dies Quidproquo werden die Arbeitsprodukte Waren, sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge. So stellt sich der Lichteindruck eines Dings auf den Sehnerv nicht als subjektiver Reiz des Sehnervs selbst, sondern als gegenständliche Form eines Dings außerhalb des Auges dar. Aber beim Sehen wird wirklich Licht von einem Ding, dem äußeren Gegenstand, auf ein andres Ding, das Auge, geworfen. Es ist ein physisches Verhältnis zwischen physischen Dingen. Dagegen hat die Warenform und das Wertverhältnis der Arbeitsprodukte, worin sie sich darstellt, mit ihrer physischen Natur und den daraus entspringenden dinglichen Beziehungen absolut nichts zu schaffen. Es ist nur das bestimmte gesellschaftliche Verhältnis der Menschen selbst, welches hier für sie die phantasmagorische Form eines Verhältnisses von Dingen annimmt. Um daher eine Analogie zu finden, müssen wir in die Nebelregion der religiösen Welt flüchten. Hier scheinen die Produkte des menschlichen Kopfes mit eignem Leben begabte, untereinander und mit den Menschen in Verhältnis stehende selbständige Gestalten. So in der Warenwelt die Produkte der menschlichen Hand. Dies <87> nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.
5. Dieser Fetischcharakter der Warenwelt entspringt, wie die vorhergehende Analyse bereits gezeigt hat, aus dem eigentümlichen gesellschaftlichen Charakter der Arbeit, welche Waren produziert.
6. Gebrauchsgegenstände werden überhaupt nur Waren, weil sie Produkte voneinander unabhängig betriebner Privatarbeiten sind. Der Komplex dieser Privatarbeiten bildet die gesellschaftliche Gesamtarbeit. Da die Produzenten erst in gesellschaftlichen Kontakt treten durch den Austausch ihrer Arbeitsprodukte, erscheinen auch die spezifisch gesellschaftlichen Charaktere ihrer Privatarbeiten erst innerhalb dieses Austausches. Oder die Privatarbeiten betätigen sich in der Tat erst als Glieder der gesellschaftlichen Gesamtarbeit durch die Beziehungen, worin der Austausch die Arbeitsprodukte und vermittelst derselben die Produzenten versetzt. Den letzteren erscheinen daher die gesellschaftlichen Beziehungen ihrer Privatarbeiten als das, was sie sind, d.h. nicht als unmittelbar gesellschaftliche Verhältnisse der Personen in ihren Arbeiten selbst, sondern vielmehr als sachliche Verhältnisse der Personen und gesellschaftliche Verhältnisse der Sachen.
7. Erst innerhalb ihres Austauschs erhalten die Arbeitsprodukte eine von ihrer sinnlich verschiednen Gebrauchsgegenständlichkeit getrennte, gesellschaftlich gleiche Wertgegenständlichkeit. Diese Spaltung des Arbeitsprodukts in nützliches Ding und Wertding betätigt sich nur praktisch, sobald der Austausch bereits hinreichende Ausdehnung und Wichtigkeit gewonnen hat, damit nützliche Dinge für den Austausch produziert werden, der Wertcharakter der Sachen also schon bei ihrer Produktion selbst in Betracht kommt. Von diesem Augenblick erhalten die Privatarbeiten der Produzenten tatsächlich einen doppelten gesellschaftlichen Charakter. Sie müssen einerseits als bestimmte nützliche Arbeiten ein bestimmtes gesellschaftliches Bedürfnis befriedigen und sich so als Glieder der Gesamtarbeit, des naturwüchsigen Systems der gesellschaftlichen Teilung der Arbeit, bewähren. Sie befriedigen andrerseits nur die mannigfache Bedürfnisse ihrer eignen Produzenten, sofern jede besondre nützliche Privatarbeit mit jeder andren nützlichen Art Privatarbeit austauschbar ist, also ihr gleichgilt. Die Gleichheit toto coelo <völlig> verschiedner Arbeiten kann nur in einer Abstraktion von ihrer wirklichen Ungleichheit bestehn, in der Reduktion auf den <88> gemeinsamen Charakter, den sie als Verausgabung menschlicher Arbeitskraft, abstrakt menschliche Arbeit, besitzen. Das Gehirn der Privatproduzenten spiegelt diesen doppelten gesellschaftlichen Charakter ihrer Privatarbeiten nur wider in den Formen, welche im praktischen Verkehr, im Produktenaustausch erscheinen - den gesellschaftlich nützlichen Charakter ihrer Privatarbeiten also in der Form, daß das Arbeitsprodukt nützlich sein muß, und zwar für andre - den gesellschaftlichen Charakter der Gleichheit der verschiedenartigen Arbeiten in der Form des gemeinsamen Wertcharakters dieser materiell verschiednen Dinge, der Arbeitsprodukte.
8. Die Menschen beziehen also ihre Arbeitsprodukte nicht aufeinander als Werte, weil diese Sachen ihnen als bloß sachliche Hüllen gleichartig menschlicher Arbeit gelten. Umgekehrt. Indem sie ihre verschiedenartigen Produkte einander im Austausch als Werte gleichsetzen, setzen sie ihre verschiednen Arbeiten einander als menschliche Arbeit gleich. Sie wissen das nicht, aber sie tun es.(27) Es steht daher dem Werte nicht auf der Stirn geschrieben, was er ist. Der Wert verwandelt vielmehr jedes Arbeitsprodukt in eine gesellschaftliche Hieroglyphe. Später suchen die Menschen den Sinn der Hieroglyphe zu entziffern, hinter das Geheimnis ihres eignen gesellschaftlichen Produkts zu kommen, denn die Bestimmung der Gebrauchsgegenstände als Werte ist ihr gesellschaftliches Produkt so gut wie die Sprache. Die späte wissenschaftliche Entdeckung, daß die Arbeitsprodukte, soweit sie Werte, bloß sachliche Ausdrücke der in ihrer Produktion verausgabten menschlichen Arbeit sind, macht Epoche in der Entwicklungsgeschichte der Menschheit, aber verscheucht keineswegs den gegenständlichen Schein der gesellschaftlichen Charakter der Arbeit. Was nur für diese besondre Produktionsform, die Warenproduktion, gültig ist, daß nämlich der spezifisch gesellschaftliche Charakter der voneinander unabhängigen Privatarbeiten in ihrer Gleichheit als menschliche Arbeit besteht und die Form des Wertcharakters der Arbeitsprodukte annimmt, erscheint, vor wie nach jener Entdeckung, den in den Verhältnissen der Warenproduktion Befangenen ebenso endgültig, als daß die wissenschaftliche Zersetzung der Luft in ihre Elemente die Luftform als eine physikalische Körperform fortbestehn läßt.
9. <89> Was die Produktenaustauscher zunächst praktisch interessiert, ist die Frage, wieviel fremde Produkte sie für das eigne Produkt erhalten, in welchen Proportionen sich also die Produkte austauschen. Sobald diese Proportionen zu einer gewissen gewohnheitsmäßigen Festigkeit herangereift sind, scheinen sie aus der Natur der Arbeitsprodukte zu entspringen, so daß z.B. eine Tonne Eisen und 2 Unzen Gold gleichwertig, wie ein Pfund Gold und ein Pfund Eisen trotz ihrer verschiednen physikalischen und chemischen Eigenschaften gleich schwer sind. In der Tat befestigt sich der Wertcharakter der Arbeitsprodukte erst durch ihre Betätigung als Wertgrößen. Die letzteren wechseln beständig, unabhängig vom Willen, Vorwissen und Tun der Austauschenden. Ihre eigne gesellschaftliche Bewegung besitzt für sie die Form einer Bewegung von Sachen, unter deren Kontrolle sie stehen, statt sie zu kontrollieren. Es bedarf vollständig entwickelter Warenproduktion, bevor aus der Erfahrung selbst die wissenschaftliche Einsicht herauswächst, daß die unabhängig voneinander betriebenen, aber als naturwüchsige Glieder der gesellschaftlichen Teilung der Arbeit allseitig voneinander abhängigen Privatarbeiten fortwährend auf ihr gesellschaftlich proportionelles Maß reduziert werden, weil sich in den zufälligen und stets schwankenden Austauschverhältnissen ihrer Produkte die zu deren Produktion gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit als regelndes Naturgesetz gewaltsam durchsetzt, wie etwas das Gesetz der Schwere, wenn einem das Haus über dem Kopf zusammenpurzelt.(28) Die Bestimmung der Wertgröße durch die Arbeitszeit ist daher ein unter den erscheinenden Bewegungen der relativen Warenwerte verstecktes Geheimnis. Seine Entdeckung hebt den Schein der bloß zufälligen Bestimmung der Wertgrößen den Arbeitsprodukte auf, aber keineswegs ihre sachliche Form.
10. Das Nachdenken über die Formen des menschlichen Lebens, also auch ihre wissenschaftliche Analyse, schlägt überhaupt einen der wirklichen Entwicklung entgegengesetzten Weg ein. Es beginnt post festum und daher mit den fertigen Resultaten des Entwicklungsprozesses. Die Formen, welche Arbeitsprodukte zu Waren stempeln und daher der Warenzirkulation vor- <90> ausgesetzt sind, besitzen bereits die Festigkeit von Naturformen des gesellschaftlichen Lebens, bevor die Menschen sich Rechenschaft zu geben suchen nicht über den historischen Charakter dieser Formen, die ihnen vielmehr bereits als unwandelbar gelten, sondern über deren Gehalt. So war es nur die Analyse der Warenpreise, die zur Bestimmung der Wertgröße, nur der gemeinschaftliche Geldausdruck der Waren, der zur Fixierung ihres Wertcharakters führte. Es ist aber ebendiese fertige Form - die Geldform - der Warenwelt, welche den gesellschaftlichen Charakter der Privatarbeiten und daher die gesellschaftlichen Verhältnissen der Privatarbeiter sachlich verschleiert, statt sie zu offenbaren. Wenn ich sage, Rock, Stiefel usw. beziehen sich auf Leinwand als die allgemeine Verkörperung abstrakter menschlicher Arbeit, so springt die Verrücktheit dieses Ausdrucks ins Auge. Aber wenn die Produzenten von Rock, Stiefel usw. diese Waren auf Leinwand - oder auf Gold und Silber, was nichts an der Sache ändert - als allgemeines Äquivalent beziehn, erscheint ihnen die Beziehung ihrer Privatarbeiten zu der gesellschaftlichen Gesamtarbeit genau in dieser verrückten Form.
11. Derartige Formen bilden eben die Kategorien der bürgerlichen Ökonomie. Es sind gesellschaftlich gültige, also objektive Gedankenformen für die Produktionsverhältnisse dieser historisch bestimmten gesellschaftlichen Produktionsweise, der Warenproduktion. Aller Mystizismus der Warenwelt, all der Zauber und Spuk, welcher Arbeitsprodukte auf Grundlage der Warenproduktion umnebelt, verschwindet daher sofort, sobald wir zu andren Produktionsformen flüchten.
12. Da die politische Ökonomie Robinsonaden liebt (29), erscheine zuerst Robinson auf seiner Insel. Bescheiden, wie er von Haus aus ist, hat er doch verschiedenartige Bedürfnisse zu befriedigen und muß daher nützliche Arbeiten verschiedner Art verrichten, Werkzeuge machen, Möbel fabri- <91> zieren, Lama zähmen, fischen, jagen usw. Vom Beten u. dgl. sprechen wir hier nicht, da unser Robinson daran sein Vergnügen findet und derartige Tätigkeit als Erholung betrachtet. Trotz der Verschiedenheit seiner produktiven Funktionen weiß er, daß sie nur verschiedne Betätigungsformen desselben Robinson, also nur verschiedne Weisen menschlicher Arbeit sind. Die Not selbst zwingt ihn, seine Zeit genau zwischen seinen verschiednen Funktionen zu verteilen. Ob die eine mehr, die andre weniger Raum in seiner Gesamttätigkeit einnimmt, hängt ab von der größeren oder geringeren Schwierigkeit, die zur Erzielung des bezweckten Nutzeffekts zu überwinden ist. Die Erfahrung lehrt ihn das, und unser Robinson, der Uhr, Hauptbuch, Tinte und Feder aus dem Schiffbruch gerettet, beginnt als guter Engländer bald Buch über sich selbst zu führen. Sein Inventarium enthält ein Verzeichnis der Gebrauchsgegenstände, die er besitzt, der verschiednen Verrichtungen, die zu ihrer Produktion erheischt sind, endlich der Arbeitszeit, die ihm bestimmte Quanta dieser verschiednen Produkte im Durchschnitt kosten. Alle Beziehungen zwischen Robinson und den Dingen, die seinen selbstgeschaffnen Reichtum bilden, sind hier so einfach und durchsichtig, daß selbst Herr M. Wirth sie ohne besondre Geistesanstrengung verstehn dürfte. Und dennoch sind darin alle wesentlichen Bestimmungen des Werts enthalten.
13. Versetzen wir uns nun von Robinsons lichter Insel in das finstre europäische Mittelalter. Statt des unabhängigen Mannes finden wir hier jedermann abhängig - Leibeigne und Grundherrn, Vasallen und Lehnsgeber, Laien und Pfaffen. Persönliche Abhängigkeit charakterisiert ebensosehr die gesellschaftlichen Verhältnisse der materiellen Produktion als die auf ihr aufgebauten Lebenssphären. Aber eben weil persönliche Abhängigkeitsverhältnisse die gegebne gesellschaftliche Grundlage bilden, brauchen Arbeiten und Produkte nicht eine von ihrer Realität verschiedne phantastische Gestalt anzunehmen. Sie gehn als Naturaldienste und Naturalleistungen in das gesellschaftliche Getriebe ein. Die Naturalform der Arbeit, ihre Besonderheit, und nicht, wie auf Grundlage der Warenproduktion, ihre Allgemeinheit, ist hier ihre unmittelbar gesellschaftliche Form. Die Fronarbeit ist ebensogut durch die Zeit gemessen wie die Waren produzierende Arbeit, aber jeder Leibeigne weiß, daß es ein bestimmtes Quantum seiner persönlichen Arbeitskraft ist, die er im Dienst seines Herrn verausgabt. Der dem Pfaffen zu leistende Zehnten ist klarer als der Segen des Pfaffen. Wie man daher immer die Charaktermasken beurteilen mag, worin sich die Menschen hier gegenübertreten, die gesellschaftlichen Verhältnisse der Personen in ihren Arbeiten erscheinen jedenfalls als ihre eignen persönlichen <92> Verhältnisse und sind nicht verkleidet in gesellschaftliche Verhältnisse der Sachen, der Arbeitsprodukte.
14. Für die Betrachtung gemeinsamer, d.h. unmittelbar vergesellschafteter Arbeit brauchen wir nicht zurückzugehn zu der naturwüchsigen Form derselben, welche uns an der Geschichtsschwelle aller Kulturvölker begegnet.(30) Ein näherliegendes Beispiel bildet die ländlich patriarchalische Industrie einer Bauernfamilie, die für den eignen Bedarf Korn, Vieh, Garn, Leinwand, Kleidungsstücke usw. produziert. Diese verschiednen Dinge treten der Familie als verschiedne Produkte ihrer Familienarbeit gegenüber, aber nicht sich selbst wechselseitig als Waren. Die verschiednen Arbeiten, welche diese Produkte erzeugen, Ackerbau, Viehzucht, Spinnen, Weben, Schneiderei usw. sind in ihrer Naturalform gesellschaftliche Funktionen, weil Funktionen der Familie, die ihre eigne, naturwüchsige Teilung der Arbeit besitzt so gut wie die Warenproduktion. Geschlechts- und Altersunterschiede wie die mit dem Wechsel der Jahreszeit wechselnden Naturbedingungen der Arbeit regeln ihre Verteilung unter die Familie und die Arbeitszeit der einzelnen Familienglieder. Die durch die Zeitdauer gemeßne Verausgabung der individuellen Arbeitskräfte erscheint hier aber von Haus aus als gesellschaftliche Bestimmung der Arbeiten selbst, weil die individuellen Arbeitskräfte von Haus aus nur als Organe der gemeinsamen Arbeitskraft der Familie wirken.
15. Stellen wir uns endlich, zur Abwechslung, einen Verein freier Menschen vor, die mit gemeinschaftlichen Produktionsmitteln arbeiten als eine gesellschaftliche Arbeitskraft verausgaben. Alle Bestimmungen von Robinsons Arbeit wiederholen sich hier, nur gesellschaftlich statt individuell. Alle Produkte Robinsons <93> waren sein ausschließlich persönliches Produkt und daher unmittelbar Gebrauchsgegenstände für ihn. Das Gesamtprodukt des Vereins ist ein gesellschaftliches Produkt. Ein Teil dieses Produkts dient wieder als Produktionsmittel. Er bleibt gesellschaftlich. Aber ein anderer Teil wird als Lebensmittel von den Vereinsgliedern verzehrt. Er muß daher unter sie verteilt werden. Die Art dieser Verteilung wird wechseln mit der besondren Art des gesellschaftlichen Produktionsorganismus selbst und der entsprechenden geschichtlichen Entwicklungshöhe der Produzenten. Nur zur Parallele mit der Warenproduktion setzen wir voraus, der Anteil jedes Produzenten an den Lebensmitteln sei bestimmt durch seine Arbeitszeit. Die Arbeitszeit würde also eine doppelte Rolle spielen. Ihre gesellschaftlich planmäßige Verteilung regelt die richtige Proportion der verschiednen Arbeitsfunktionen zu den verschiednen Bedürfnissen. Andrerseits dient die Arbeitszeit zugleich als Maß des individuellen Anteils des Produzenten an der Gemeinarbeit und daher auch an dem individuell verzehrbaren Teil des Gemeinprodukts. Die gesellschaftlichen Beziehungen der Menschen zu ihren Arbeiten und ihren Arbeitsprodukten bleiben hier durchsicht ig einfach in der Produktion sowohl als in der Distribution.
16. Für eine Gesellschaft von Warenproduzenten, deren allgemein gesellschaftliches Produktionsverhältnis darin besteht, sich zu ihren Produkten als Waren, also als Werten, zu verhalten und in dieser sachlichen Form ihre Privatarbeiten aufeinander zu beziehn als gleiche menschliche Arbeit, ist das Christentum mit seinem Kultus des abstrakten Menschen, namentlich in seiner bürgerlichen Entwicklung, dem Protestantismus, Deismus usw., die entsprechendste Religionsform. In den altasiatischen, antiken usw. Produktionsweisen spielt die Verwandlung des Produkts in Ware, und daher das Dasein der Menschen als Warenproduzenten, eine untergeordnete Rolle, die jedoch um so bedeutender wird, je mehr die Gemeinwesen in das Stadium ihres Untergangs treten. Eigentliche Handelsvölker existieren nur in den Intermundien der alten Welt, wie Epikurs Götter oder wie Juden in den Poren der polnischen Gesellschaft. Jene alten gesellschaftlichen Produktionsorganismen sind außerordentlich viel einfacher und durchsichtiger als der bürgerliche, aber sie beruhen entweder auf der Unreife des individuellen Menschen, der sich von der Nabelschnur des natürlichen Gattungszusammenhangs mit andren noch nicht losgerissen hat, oder auf unmittelbaren Herrschafts- und Knechtschaftsverhältnissen. Sie sind bedingt durch eine niedrige Entwicklungsstufe der Produktivkräfte der Arbeit und entsprechend befangene Verhältnisse der Menschen innerhalb ihres materiellen Lebenserzeugungsprozesses, daher zueinander und zur Natur.
17. <94> Diese wirkliche Befangenheit spiegelt sich ideell wider in den alten Natur- und Volksreligionen. Der religiöse Widerschein der wirklichen Welt kann überhaupt nur verschwinden, sobald die Verhältnisse des praktischen Werkeltagslebens den Menschen tagtäglich durchsichtig vernünftige Beziehungen zueinander und zur Natur darstellen. Die Gestalt des gesellschaftlichen Lebensprozesses, d.h. des materiellen Produktionsprozesses, streift nur ihren mystischen Nebelschleier ab, sobald sie als Produkt frei vergesellschafteter Menschen unter deren bewußter planmäßiger Kontrolle steht. Dazu ist jedoch eine materielle Grundlage der Gesellschaft erheischt oder eine Reihe materieller Existenzbedingungen, welch selbst wieder das naturwüchsige Produkt einer langen und qualvollen Entwicklungsgeschichte sind.
18. Die politische Ökonomie hat nun zwar, wenn auch unvollkommen (31) Wert und Wertgröße analysiert und den in diesen Formen versteckten In- <95> halt entdeckt. Sie hat niemals auch nur die Frage gestellt, warum dieser Inhalt jene Form annimmt, warum sich also die Arbeit im Wert und das Maß der Arbeit durch ihre Zeitdauer in der Wertgröße des Arbeitsprodukts darstellt?(32) Formen, denen es auf der Stirn geschrieben steht, daß sie einer Gesellschaftsformation angehören, worin der Produktionsprozeß die Menschen, der Mensch noch nicht den Produktionsprozeß bemeistert, gelten ihrem bürgerlichen Bewußtsein für ebenso selbstverständliche Naturnot- <96> wendigkeit als die produktive Arbeit selbst. Vorbürgerliche Formen des gesellschaftlichen Produktionsorganismus werden daher von ihr behandelt wie etwa von den Kirchenvätern vorchristliche Religionen.(33)
19. <97> Wie sehr ein Teil der Ökonomen von dem der Warenwelt anklebenden Fetischismus oder dem gegenständlichen Schein der gesellschaftlichen Arbeitsbestimmungen getäuscht wird, beweist u.a. der langweilig abgeschmackte Zank über die Rolle der Natur in der Bildung des Tauschwerts. Da Tauschwert eine bestimmte gesellschaftliche Manier ist, die auf ein Ding verwandte Arbeit auszudrücken, kann er nicht mehr Naturstoff enthalten als etwa der Wechselkurs.
20. Da die Warenform die allgemeinste und unentwickeltste Form der bürgerlichen Produktion ist, weswegen sie früh auftritt, obgleich nicht in derselben herrschenden, also charakteristischen Weise wie heutzutag, scheint ihr Fetischcharakter noch relativ leicht zu durchschauen. Bei konkreteren Formen verschwindet selbst dieser Schein der Einfachheit. Woher die Illusionen des Monetarsystems? Es sah dem Gold und Silber nicht an, daß sie als Geld ein gesellschaftliches Produktionsverhältnis darstellen, aber in der Form von Naturdingen mit sonderbar gesellschaftlichen Eigenschaften. Und die moderne Ökonomie, die vornehm auf das Monetarsystem herabgrinst, wird ihr Fetischismus nicht handgreiflich, sobald sie das Kapital behandelt? Seit wie lange ist die physiokratische Illusion verschwunden, daß die Grundrente aus der Erde wächst, nicht aus der Gesellschaft?
21. Um jedoch nicht vorzugreifen, genüge hier noch ein Beispiel bezüglich der Warenform selbst. Könnten die Waren sprechen, so würden sie sagen, unser Gebrauchswert mag den Menschen interessieren. Er kommt uns nicht als Dingen zu. Was uns aber dinglich zukommt, ist unser Wert. Unser eigner Verkehr als Warendinge beweist das. Wir beziehn uns nur als Tauschwerte aufeinander. Man höre nun, wie der Ökonom aus der Warenseele heraus spricht:
"Wert" (Tauschwert) "ist Eigenschaft der Dinge, Reichtum" (Gebrauchswert) "des Menschen. Wert in diesem Sinn schließt notwendig Austausch ein, Reichtum nicht."(34) "Reichtum" (Gebrauchswert) "ist ein Attribut des Menschen, Wert ein Attribut der Waren. Ein Mensch oder ein Gemeinwesen ist reich; eine Perle oder ein Diamant ist wertvoll ... Eine Perle oder ein Diamant hat Wert als Perle oder Diamant."(35)
22. <98> Bisher hat noch kein Chemiker Tauschwert in Perle oder Diamant entdeckt. Die ökonomischen Entdecker dieser chemischen Substanz, die besondren Anspruch auf kritische Tiefe machen, finden aber, daß der Gebrauchswert der Sachen unabhängig von ihren sachlichen Eigenschaften, dagegen ihr Wert ihnen als Sachen zukommt. Was sie hierin bestätigt, ist der sonderbare Umstand, daß der Gebrauchswert der Dinge sich für den Menschen ohne Austausch realisiert, also im unmittelbaren Verhältnis zwischen Ding und Mensch, ihr Wert umgekehrt nur im Austausch, d.h. in einem gesellschaftlichen Prozeß. Wer erinnert sich hier nicht des guten Dogberry, der den Nachtwächter Seacoal belehrt:
"Ein gut aussehender Mann zu sein ist eine Gabe der Umstände, aber lesen und schreiben zu können kommt von Natur."(36)
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Fußnoten
(1) Karl Marx, "Zur Kritik der Politischen Ökonomie", Berlin 1859, pag. 3. <Siehe Band 13, S. 15> <=
(2) "Verlangen schließt Bedürfnis ein; es ist der Appetit des Geistes, und so natürlich wie Hunger für den Körper ... die meisten (Dinge) haben ihren Wert daher, daß sie Bedürfnisse des Geistes befriedigen." (Nicholas Barbon, "A Discourse on coining the new money lighter. In answer to Mr. Locke's Considerations etc.", London 1696, p. 2, 3.) <=
(3) "Dinge haben einen intrinsick vertue" (dies bei Barbon die spezifische Bezeichnung für Gebrauchswert), "der überall gleich ist, so wie der des Magnets, Eisen anzuziehen" (l.c.p. 6). Die Eigenschaft des Magnets, Eisen anzuziehn, wurde erst nützlich, sobald man vermittelst derselben die magnetische Polarität entdeckt hatte. <=
(4) "Der natürliche worth jedes Dinges besteht in seiner Eignung, die notwendigen Bedürfnisse zu befriedigen oder den Annehmlichkeiten des menschlichen Lebens zu dienen." (John Locke, "Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest", 1691, in "Works", edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.) Im 17. Jahrhundert finden wir noch häufig bei englischen Schriftstellen "Worth" für Gebrauchswert und "Value" für Tauschwert, ganz im Geist einer Sprache, die es liebt, die unmittelbare Sache germanisch und die reflektierte Sache romanisch auszudrücken. <=
(5) In der bürgerlichen Gesellschaft herrscht die fictio juris, daß jeder Mensch als Warenkäufer eine enzyklopädische Warenkenntnis besitzt. <=
(6) "Der Wert besteht in dem Tauschverhältnis, das zwischen einem Ding und einem anderen, zwischen der Menge eines Erzeugnisses und der eines anderen besteht." (Le Trosne, "De l'Intérêt Social", [in] "Physiocrates", éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) <=
(7) "Nichts kann einen inneren Tauschwert haben" (N. Barbon, l.c.p. 6), oder wie Butler sagt:
"Der Wert eines Dings
ist grade so viel, wie es einbringen wird." <=
(8) "One sort of wares are as good as another, if the value be equal. There is no difference or distinction in things of equal value ... One hundred pounds worth of lead or iron, is of as great a value as one hundred pounds worth of silver and gold." <" ... Blei oder Eisen im Werte von einhundert Pfund Sterling haben gleich großen Tauschwert wie Silber und Gold im Werte von einhundert Pfund Sterling."> (N. Barbon, l.c.p. 53 u. 7.) <=
(9) Note zur 2. Ausg. "The value of them (the necessaries of life) when they are exchagend the one for another, is regulated by the quantity of labour necessarily required, and commonly taken in producing them." "Der Wert von Gebrauchsgegenständen, sobald sie gegeneinander ausgetauscht werden, ist bestimmt durch das Quantum der zu ihrer Produktion notwendig erheischten und gewöhnlich angewandten Arbeit." ("Some Thoughts on the Interest of Money in general, and particularly in the Public funds etc.", London, p. 36, 37.) Diese merkwürdige anonyme Schrift des vorigen Jahrhunderts trägt kein Datum. Es geht jedoch aus ihrem Inhalt hervor, daß sie unter Georg II., etwa 1739 oder 1740, erschienen ist. <=
(10) "Alle Erzeugnisse der gleichen Art bilden eigentlich nur eine Masse, deren Preis allgemein und ohne Rücksicht auf die besonderen Umstände bestimmt wird." <=
(11) K. Marx, l.c.p.6. <Siehe Band 13, S. 18> <=
(11a) Note zur 4. Aufl. - Ich schiebe das Eingeklammerte ein, weil durch dessen Weglassung sehr häufig das Mißverständnis entstanden, jedes Produkt, das von einem andern als dem Produzenten konsumiert wird, gelte bei Marx als Ware. - F. E. <=
(12) l.c.p. 12, 13 und passim. <Siehe Band 13, S. 22, 23 und passim> <=
(13) "Alle Erscheinungen des Weltalls, seien sie hervorgerufen von der Hand des Menschen oder durch die allgemeinen Gesetze der Physik, sind nicht tatsächliche Neuschöpfungen, sondern lediglich eine Umformung des Stoffes. Zusammensetzen und Trennen sind die einzigen Elemente, die der menschliche Geist immer wieder bei der Analyse der Verstellung der Reproduktion findet; und ebenso verhält es sich mit der Reproduktion des Wertes" (Gebrauchswert, obgleich Verri hier in seiner Polemik gegen die Physiokraten selbst nicht recht weiß, von welcher Sorte Wert er spricht) "und des Reichtums, wenn Erde, Luft und Wasser auf den Feldern sich in Korn verwandeln, oder auch wenn sich durch die Hand des Menschen die Abscheidung eines Insekts in Seide verwandelt, oder einige Metallteilchen sich anordnen, um eine Repetieruhr zu bilden." (Pietro Verri, "Meditazioni sulla Economia Politica" - zuerst gedruckt 1771 - in der Ausgabe der italienischen Ökonomen von Custodi, Parte Moderna, t. XV, p. 21, 22.) <=
(14) Vgl. Hegel, "Philosophie des Rechts", Berlin 1840, p. 250, § 190. <=
(15) Der Leser muß aufmerken, daß hier nicht vom Lohn oder Wert die Rede ist, den der Arbeiter für etwa einen Arbeitstag erhält, sondern vom Warenwert, worin sich sein Arbeitstag vergegenständlicht. Die Kategorie des Arbeitslohns existiert überhaupt noch nicht auf dieser Stufe unsrer Darstellung. <=
(16) Note zur 2. Ausg. Um zu beweisen, "daß die Arbeit allein das endgültige und reale Maß ist, woran der Wert aller Waren zu allen Zeiten geschätzt und verglichen werden kann", sagt A. Smith: "Gleiche Quantitäten Arbeit müssen zu allen Zeiten und an allen Orten für den Arbeiter selbst denselben Wert haben. In seinem normalen Zustand von Gesundheit, Kraft und Tätigkeit und mit dem Durchschnittsgrad von Geschicklichkeit, die er besitzen mag, muß er immer die nämliche Portion seiner Ruhe, seiner Freiheit und seines Glücks hingeben." ("Wealth of Nations", b. I, ch. V, [p.104/105].) Einerseits verwechselt A. Smith hier (nicht überall) die Bestimmung des Werts durch das in der Produktion der Ware verausgabte Arbeitsquantum mit der Bestimmung der Warenwerte durch den Wert der Arbeit und sucht daher nachzuweisen, daß gleiche Quantitäten Arbeit stets denselben Wert haben. Andrerseits ahnt er, daß die Arbeit, soweit sie sich im Wert der Waren darstellt, nur als Verausgabung von Arbeitskraft gilt, faßt diese Verausgabung aber wieder bloß als Opfer von Ruhe, Freiheit und Glück, nicht auch als normale Lebensbetätigung. Allerdings hat er den modernen Lohnarbeiter vor Augen. - Viel treffender sagt der Note 9 zitierte anonyme Vorgänger von A. Smith: "Ein Mann hat eine Woche auf Herstellung dieses Bedarfsgegenstands verwandt ... und der, welcher ihm einen anderen Gegenstand im Austausch gibt, kann nicht richtiger abschätzen, was wirklich gleichwertig ist, als durch die Berechnung, was ihm ebensoviel labour und Zeit kostet. Das bedeutet in der Tat den Austausch der labour, die ein Mensch in einer bestimmten Zeit auf einen Gegenstand verwandt hat, gegen die labour eines andren, in der gleichen Zeit auf einen anderen Gegenstand verwandt." ("Some Thoughts on the Interest of Money in general etc.", p. 39.) - {Zur 4. Auflage: Die englische Sprache hat den Vorzug, zwei verschiedne Worte für diese zwei verschiednen Aspekte der Arbeit zu haben. Die Arbeit, die Gebrauchswerte schafft und qualitativ bestimmt ist, heißt work, im Gegensatz zu labour; Die Arbeit, die Wert schafft und nur quantitativ gemessen wird, heißt labour im Gegensatz zu work. Siehe Note zu engl. Übersetzung, p. 14. - F. E.} <=
(17) Die wenigen Ökonomen, die sich, wie S. Bailey, mit der Analyse der Wertform beschäftigt haben, konnten zu keinem Resultat kommen, einmal, weil sie Wertform und Wert verwechseln, zweitens, weil sie, unter dem rohen Einfluß des praktischen Bürgers, von vornherein ausschließlich die quantitative Bestimmtheit ins Auge fassen. "Die Verfügung über die Quantität ... macht den Wert." ("Money and its Vicissitudes", Lond. 1837, p.11.) Verfasser S. Bailey. <=
(17a) Note zur 2. Ausgabe. Einer der ersten Ökonomen, der nach William Petty die Natur des Werts durchschaut hat, der berühmte Franklin, sagt: "Da der Handel überhaupt nichts ist als der Austausch einer Arbeit gegen andre Arbeit, wird der Wert aller Dinge am richtigsten geschätzt in Arbeit." ("The Works of B. Franklin etc.", edited by Sparks, Boston 1836, v. II, p .267.) Franklin ist sich nicht bewußt, daß, indem er den Wert aller Dinge "in Arbeit" schätzt, er von der Verschiedenheit der ausgetauschten Arbeiten abstrahiert - und sie so auf gleiche menschliche Arbeit reduziert. Was er nicht weiß, sagt er jedoch. Er spricht erst von "der einen Arbeit", dann "von der andren Arbeit", schließlich von "Arbeit" ohne weitere Bezeichnung als Substanz des Werts aller Dinge. <=
(18) In gewisser Art geht's dem Menschen wie der Ware. Da er weder mit einem Spiegel auf die Welt kommt noch als Fichtescher Philosoph: Ich bin ich, bespiegelt sich der Mensch zuerst in einem andren Menschen. Erst durch die Beziehung auf den Menschen Paul als seinesgleichen bezieht sich der Mensch Peter auf sich selbst als Mensch. Damit gilt ihm aber auch der Paul mit Haut und Haaren, in seiner paulinischen Leiblichkeit, als Erscheinungsform des Genus Mensch. <=
(19) Der Ausdruck "Wert" wird hier, wie beiläufig schon früher stellenweis geschah, für quantitativ bestimmten Wert, also für Wertgröße gebraucht. <=
(20) Note zur 2. Ausg. Diese Inkongruenz zwischen der Wertgröße und ihrem relativen Ausdruck ist von der Vulgärökonomie mit gewohntem Scharfsinn ausgebeutet worden. z.B.: "Gebt einmal zu, daß A fällt, weil B, womit es ausgetauscht wird, steigt, obgleich unterdessen nicht weniger Arbeit auf A verausgabt wird, und euer allgemeines Wertprinzip fällt zu Boden ...Wenn zugegeben wird, daß, weil der Wert von A relativ zu B steigt, der Wert von B relativ zu A fällt, ist der Grund unter den Füßen weggeschnitten, worauf Ricardo seinen großen Satz aufstellt, daß der Wert einer Ware stets bestimmt ist durch das Quantum der ihr einverleibten Arbeit; denn wenn ein Wechsel in den Kosten von A nicht nur seinen eignen Wert im Verhältnis zu B, womit es ausgetauscht wird, verändert, sondern auch den Wert von B relativ zu dem von A, obgleich kein Wechsel stattgefunden hat in dem zur Produktion von B erheischten Arbeitsquantum, dann fällt nicht nur die Doktrin zu Boden, die versichert, daß die auf einen Artikel verausgabte Quantität Arbeit seinen Wert reguliert, sondern auch die Doktrin, daß die Produktionskosten eines Artikel seinen Wert regulieren." (J. Broadhurst, "Political Economy", London 1842, p. 11, 14.)
Herr Broadhurst konnte ebensogut sagen: Man sehe sich einmal die Zahlenverhältnisse 10/20, 10/50, 10/100 usw. an. Die Zahl 10 bleibt unverändert, und dennoch nimmt ihre proportionelle Größe, ihre Größe relativ zu den Nennern 20, 50, 100, beständig ab. Also fällt das große Prinzip zu Boden, daß die Größe einer ganzen Zahl wie 10 z.B. durch die Anzahl der in ihr enthaltenen Einer "reguliert" ist. <=
(21) Es ist mit solchen Reflexionsbestimmungen überhaupt ein eigenes Ding. Dieser Mensch ist z.B. nur König, weil sich andre Menschen als Untertanen zu ihm verhalten. Sie glauben umgekehrt Untertanen zu sein, weil er König ist. <=
(22) Note zur 2. Ausg. F. L. A. Ferrier (sous-inspecteur des douanes <Unterinspekteur des Zollwesens>), "Du Gouvernement considéré dans ses rapports avec le commerce", Paris 1805, und Charles Ganilh, "Des Systèmes d'Économie Politique", 2ème éd., Paris 1821. <=
(22a) Note zur 2. Aufl. Z.B. bei Homer wird der Wert eines Dings in einer Reihe verschiedner Dings ausgedrückt. <=
(23) Man spricht deshalb vom Rockwert der Leinwand, wenn man ihren Wert in Röcken, von ihrem Kornwert, wenn man ihn in Korn darstellt etc. Jeder solche Ausdruck besagt, daß es ihr Wert ist, der in den Gebrauchswerten Rock, Korn usw. erscheint. "Das der Wert jeder Waren ihr Verhältnis im Austausch bezeichnet, können wir ihn bezeichnen als ... Kornwert, Tuchwert, je nach der Ware, mit der sie verglichen wird; und daher gibt es tausend verschiedene Arten von Werten, so viele, wie Waren vorhanden sind, und alle sind gleich real und gleich nominell." ("A Critical Dissertation on the Nature, Measures, and Causes of Value; chiefly in reference to the writings of Mr. Ricardo and his followers. By the Author of Essays on the Formation etc. of Opinions", London 1825, p. 39.) S. Bailey, der Verfasser dieser anonymen Schrift, die ihrer Zeit viel Lärm in England machte, wähnt durch diesen Hinweis auf die kunterbunten relativen Ausdrücke desselben Warenwerts alle Begriffsbestimmung des Werts vernichtet zu haben. Daß er übrigens, trotz eigner Borniertheit, wunde Flecken der Ricardoschen Theorie sondiert hatte, bewies die Gereiztheit, womit die Ricardosche Schule ihn angriff, z.B. in der "Westminster Review". <=
(24) Man sieht es der Form allgemeiner unmittelbarer Austauschbarkeit in der Tat keineswegs an, daß sie eine gegensätzliche Warenform ist, von den Form nicht unmittelbarer Austauschbarkeit ebenso unzertrennlich wie die Positivität eines Magnetpols von der Negativität des andren. Man mag sich daher einbilden, man könne allen Waren zugleich den Stempel unmittelbarer Austauschbarkeit aufdrücken, wie man sich einbilden mag, man könne alle Katholiken zu Päpsten mache. Für den Kleinbürger, der in der Warenproduktion das nec plus ultra <den Gipfel> menschlicher Freiheit und individueller Unabhängigkeit erblickt, wäre es natürlich sehr wünschenswert, der mit dieser Form verbundnen Mißstände überhoben zu sein, namentlich auch der nicht unmittelbaren Austauschbarkeit der Waren. Die Ausmalung dieser Philisterutopie bildet Proudhons Sozialismus, der, wie ich anderswo gezeigt <Karl Marx, "Misère de la philosophie. Réponse à la philosophie de la misère de M. Proudhon", Paris, Bruxelles 1874, Kap. 1 (siehe Bd. 4, S, 67-124)>, nicht einmal das Verdienst der Originalität besitzt, vielmehr lange vor ihm von Gray, Bray und andern weit besser entwickelt wurde. Dies verhindert solche Weisheit nicht, heutzutage, in gewissen Kreisen, unter dem Namen der "science" <"Wissenschaft"> zu grassieren. Nie hat eine Schule mehr als die Proudhonsche mit dem Wort "sceince" um sich geworfen, denn
"wo Begriffe fehlen,
da stellt zur rechten Zeit ein Wort sich ein". <=
(25) Man erinnert sich, daß China und die Tische zu tanzen anfingen, als alle übrige Welt still zu stehn schien - pour encourager les autres <um die andern zu ermutigen>. <=
(26) Note zur 2. Ausg. Bei den alten Germanen wurde die Größe eines Morgens Land nach der Arbeit eines Tages berechnet und daher der Morgen Tagwerk (auch Tagwanne) (jurnale oder jurnalis, terra jurnalis, jornalis oder diurnalis), Mannwerk, Mannskraft, Mannsmaad, Mannshauet usf. benannt. Sieh Georg Ludwig von Maurer, "Einleitung zur Geschichte der Mark-, Hof-, usw. Verfassung", München 1854, p. 129 sq. <=
(27) Note zur 2. Ausg. Wenn daher Galiani sagt: Der Wert ist ein Verhältnis zwischen Personen - "La Ricchezza è una ragione tra due persone" - , so hätte er hinzusetzen müssen: unter dinglicher Hülle verstecktes Verhältnis. (Galiani, "Della Moneta", p. 221, t. III von Custodis Sammlung der "Scrittori Classici Italiani di Economia Politica", Parte Moderna, Milano 1803.) <=
(28) "Was soll man von einem Gesetze denken, das sich nur durch periodische Revolutionen durchsetzten kann?" (Friedrich Engels, "Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie" in "Deutsch-Französische Jahrbücher", herausg. von Arnold Ruge und Karl Marx, Paris 1844.) <Siehe Band 1, S. 515> <=
(29) Note zur 2. Ausgabe. Auch Ricardo ist nicht ohne seine Robinsonade. "Den Urfischer und den Urjäger läßt er sofort als Warenbesitzer Fisch und Wild austauschen, im Verhältnis der in diesen Tauschwerten vergegenständlichten Arbeitszeit. Bei dieser Gelegenheit fällt er in den Anachronismus, daß Urfischer und Urjäger zur Berechnung ihrer Arbeitsinstrumente die 1817 auf der Londoner Börse gangbaren Annuitätentabellen zu Rate ziehn. Die 'Parallelogramme des Herrn Owen' scheinen die einzige Gesellschaftsform, die er außer der bürgerlichen kannte." (Karl Marx, "Zur Kritik etc.", p.38, 39. <Siehe Band 13, S.46>) <=
(30) Note zur 2. Ausgabe. "Es ist ein lächerliches Vorurteil in neuester Zeit verbreitet, daß die Form des naturwüchsigen Gemeineigentums spezifische, sogar ausschließlich russische Form sei. Sie ist die Urform, die wir bei Römern, Germanen, Kelten nachweisen können, von der aber eine ganze Musterkarte mit mannigfachen Proben sich noch immer, wenn auch zum Teil ruinenweise, bei den Indiern vorfindet. Ein genaueres Studium der asiatischen, speziell der indischen Gemeineigentumsformen würde nachweisen, wie aus den verschiednen Formen des naturwüchsigen Gemeineigentums sich verschiedne Formen seiner Auflösung ergeben. So lassen sich z.B. die verschiednen Originaltypen von römischem und germanischem Privateigentum aus verschiednen Formen des indischen Gemeineigentums ableiten."(Karl Marx, "Zur Kritik etc.", p. 10. <Siehe Band 13 unserer Ausgabe, S.21>) <=
(31) Das Unzulängliche in Ricardos Analyse der Wertgröße - und es ist die beste - wird man aus dem dritten und vierten Buch dieser Schrift ersehn. Was aber den Wert überhaupt betrifft, so unterscheidet die klassische politische Ökonomie nirgendwo ausdrücklich und mit klarem Bewußtsein die Arbeit, wie sie sich im Wert, von derselben Arbeit, soweit sie sich im Gebrauchswert ihres Produkts darstellt. Sie macht natürlich den Unterschied tatsächlich, da sie die Arbeit das einemal quantitativ, da andremal qualitativ betrachtet. Aber es fällt ihr nicht ein, daß bloß quantitativer Unterschied der Arbeiten ihre qualitative Einheit oder Gleichheit voraussetzt, also ihre Reduktion auf abstrakt menschliche Arbeit. Ricardo z.B. erklärt sich einverstanden mit Destutt de Tracy, wenn dieser sagt: "Da es sicher ist, daß unsere körperlichen und geistigen Fähigkeiten allein unser ursprünglicher Reichtum sind, ist der Gebrauch dieser Fähigkeiten, eine gewisse Art Arbeit, unser ursprünglicher Schatz; es ist immer dieser Gebrauch, welcher alle jene Dinge schafft, die wir Reichtum nennen ... Zudem ist es gewiß, daß alle jene Dinge nur die Arbeit darstellen, die sie geschaffen hat, und wenn sie einen Wert haben, oder sogar zwei unterschiedliche Werte, so können sie dies doch nur haben aus dem" (dem Wert) "der Arbeit, der sie entspringen." (Ricardo, "The principles of Pol. Econ.", 3. ed., Lond. 1821, p. 334. <Vgl. Destutt de Tracy, "Elemens d'ideologie." IVe et Ve parties, Paris 1826, p.35, 36>) Wir deuten nur an, daß Ricardo dem Destutt seinen eignen tieferen Sinn unterschiebt. Destutt sagt in der Tat zwar einerseits, daß alle Dinge, die den Reichtum bilden, "die Arbeit repräsentieren, die sie geschaffen hat", aber andrerseits, daß sie ihre "zwei verschiedenen Werte" (Gebrauchswert und Tauschwert) vom "Wert der Arbeit" erhalten. Er fällt damit in die Flachheit der Vulgärökonomie, die den Wert einer Ware (hier der Arbeit) voraussetzt, um dadurch hinterher den Wert der andren Waren zu bestimmen. Ricardo liest ihn so, daß sowohl im Gebrauchswert als Tauschwert sich Arbeit (nicht Wert der Arbeit) darstellt. Er selbst aber scheidet so wenig den zwieschlächtigen Charakter der Arbeit, die doppelt dargestellt ist, daß er in dem ganzen Kapitel: "Value and Riches, their Distinctive Properties" <"Wert und Reichtum, ihre unterscheidenden Eigenschaften"> sich mühselig mit den Trivialitäten eines J. B. Say herumschlagen muß. Am Ende ist er daher auch ganz erstaunt, daß Destutt zwar mit ihm selbst über Arbeit als Wertquelle und dennoch andrerseits mit Say über den Wertbegriff harmoniere. <=
(32) Es ist einer der Grundmängel der klassischen politischen Ökonomie, daß es ihr nie gelang, aus der Analyse der Ware und spezieller des Warenwerts die Form des Werts, die ihn eben zum Tauschwert macht, herauszufinden. Grade in ihren besten Repräsentanten, wie A. Smith und Ricardo, behandelt sie die Wertform als etwas ganz Gleichgültiges oder der Natur der Ware selbst Äußerliches. Der Grund ist nicht allein, daß die Analyse der Wertgröße ihre Aufmerksamkeit ganz absorbiert. Er liegt tiefer. Die Wertform des Arbeitsprodukts ist die abstrakteste, aber auch allgemeinste Form der bürgerlichen Produktionsweise, die hierdurch als eine besondere Art gesellschaftlicher Produktion und damit zugleich historisch charakterisiert wird. Versieht man sie daher für die ewige Naturform gesellschaftlicher Produktion, so übersieht man notwendig auch das Spezifische der Wertform, also der Warenform, weiter entwickelt der Geldform, Kapitalform usw. Man findet daher bei Ökonomen, welche über das Maß der Wertgröße durch Arbeitszeit durchaus übereinstimmen, die kunterbuntesten und widersprechendsten Vorstellungen von Geld, d.h. der fertigen Gestalt des allgemeinen Äquivalents. Dies tritt schlagend hervor z.B. bei der Behandlung des Bankwesens, wo mit den gemeinplätzlichen Definitionen des Geldes nicht mehr ausgereicht wird. Im Gegensatz entsprang daher ein restauriertes Merkantilsystem (Ganilh usw.), welches im Wert nur die gesellschaftliche Form sieht oder vielmehr nur ihren substanzlosen Schein. - Um es ein für allemal zu bemerken, verstehe ich unter klassischer politischer Ökonomie alle Ökonomie seit W. Petty, die den innern Zusammenhang der bürgerlichen Produktionsverhältnisse erforscht im Gegensatz zur Vulgärökonomie, die sich nur innerhalb des scheinbaren Zusammenhangs herumtreibt, für eine plausible Verständlichmachung der sozusagen gröbsten Phänomene und den bürgerlichen Hausbedarf das von der wissenschaftlichen Ökonomie längst gelieferte Material stets von neuem wiederkaut, im übrigen aber sich darauf beschränkt, die banalen und selbstgefälligen Vorstellungen der bürgerlichen Produktionsagenten von ihrer eignen besten Welt zu systematisieren, pedantisieren und als ewige Wahrheiten zu proklamieren. <=
(33) "Die Ökonomen verfahren auf eine sonderbare Art. Es gibt für sie nur zwei Arten von Institutionen, künstliche und natürliche. Die Institutionen des Feudalismus sind künstliche Institutionen, die der Bourgeoisie natürliche. Sie gleichen darin den Theologen, die auch zwei Arten von Religionen unterscheiden. Jede Religion, die nicht die ihre ist, ist eine Erfindung der Menschen, während ihre eigene Religion eine Offenbarung Gottes ist. - Somit hat es eine Geschichte gegeben, aber es gibt keine mehr." (Karl Marx, "Misère de la Philosophie. Réponse à la Philosophie de la Misère de M. Proudhon", 1847, p. 113. <Siehe Band 4, S 139>) Wahrhaft drollig ist Herr Bastiat, der sich einbildet, die alten Griechen und Römer hätten nur von Raub gelebt. Wenn man aber viele Jahrhunderte durch von Raub lebt, muß doch beständig etwas zu rauben da sein oder der Gegenstand des Raubes sich fortwährend reproduzieren. Es scheint daher, daß auch Griechen und Römer einen Produktionsprozeß hatten, also eine Ökonomie, welche ganz so die materielle Grundlage ihrer Welt bildete wie die bürgerliche Ökonomie die der heutigen Welt. Oder meint Bastiat etwa, daß eine Produktionsweise, die auf der Sklavenarbeit beruht, auf einem Raubsystem ruht? Er stellt sich dann auf gefährlichen Boden. Wenn ein Denkriese wie Aristoteles in seiner Würdigung der Sklavenarbeit irrte, warum sollte ein Zwergökonom, wie Bastiat, in seiner Würdigung der Lohnarbeit richtig gehn? - Ich ergreife diese Gelegenheit, um einen Einwand, der mir beim Erscheinen meiner Schrift "Zur Kritik der Pol. Oekonomie", 1859, von einem deutsch-amerikanischen Blatte gemacht wurde, kurz abzuweisen. Es sagte, meine Ansicht, daß die bestimmte Produktionsweise und die ihr jedesmal entsprechenden Produktionsverhältnisse, kurz "die ökonomische Struktur der Gesellschaft die reale Basis sei, worauf sich ein juristischer und politischer Überbau erhebe und welcher bestimmte gesellschaftliche Bewußtseinsformen entsprächen", daß "die Produktionsweise des materiellen Lebens den sozialen, politischen und geistigen Lebensprozeß überhaupt bedinge" <siehe Band 13, S. 8/9>, - alles dies sei zwar richtig für die heutige Welt, wo die materiellen Interessen, aber weder für das Mittelalter, wo der Katholizismus, noch für Athen und Rom, wo die Politik herrschte. Zunächst ist es befremdlich, daß jemand vorauszusetzen beliebt, diese weltbekannten Redensarten über Mittelalter und antike Welt seien irgend jemand unbekannt geblieben. Soviel ist klar, daß das Mittelalter nicht vom Katholizismus und die antike Welt nicht von der Politik leben konnte. Die Art und Weise, wie sie ihr Leben gewannen, erklärt umgekehrt, warum dort die Politik, hier der Katholizismus die Hauptrolle spielte. Es gehört übrigens wenig Bekanntschaft z.B. mit der Geschichte der römischen Republik dazu, um zu wissen, daß die Geschichte des Grundeigentums ihre Geheimgeschichte bildet. Andrerseits hat schon Don Quixote den Irrtum gebüßt, daß er die fahrende Ritterschaft mit allen ökonomischen Formen der Gesellschaft gleich verträglich wähnte. <=
(34) "Value is a property of things, riches of man. Value, in this sense, necessarily implies exchange, riches do not." ("Observations on some verbal disputes in Pol. Econ., particularly relating to value, and to supply and demand", Lond. 1821, p. 16.) <=
(35) "Riches are the attribute of man, value is the attribute of commodities. A man or a community is rich, a pearl or a diamond is valuable ... A pearl or a diamond is valuable as a pearl or diamond." (S. Bailey, l.c.p. 165 sq.) <=
(36) Der Verfasser der "Observations" und S. Bailey beschuldigen Ricardo, er habe den Tauschwert aus einem nur Relativen in etwas Absolutes verwandelt. Umgekehrt. Er hat die Scheinrelativität, die diese Dinge, Diamant und Perlen z.B., als Tauschwerte besitzen, auf das hinter dem Schein verborgene wahre Verhältnis reduziert, auf ihre Relativität als bloße Ausdrücke menschlicher Arbeit. Wenn die Ricardianer dem Bailey grob, aber nicht schlagend antworten, so nur, weil sie bei Ricardo selbst keinen Aufschluß über den inneren Zusammenhang zwischen Wert und Wertform oder Tauschwert fanden. <=


D.『資本論』第2章交換過程 、3章

1. Kapitel. Die Ware| Inhalt| 3. Kapitel. Das Geld oder die Warenzirkulation
Seitenzahlen verweisen auf: Karl Marx - Friedrich Engels - Werke, Band 23, "Das Kapital", Bd. I, Erster Abschnitt, S. 99 - 108
Dietz Verlag, Berlin/DDR 1968

ZWEITES KAPITEL
Der Austauschprozeß 第2章交換過程

1. <99>Die Waren können nicht selbst zu Markte gehn und sich nicht selbst austauschen. Wir müssen uns also nach ihren Hütern umsehn, den Warenbesitzern. Die Waren sind Dinge und daher widerstandslos gegen den Menschen. Wenn sie nicht willig, kann er Gewalt brauchen, in andren Worten, sie nehmen.(37)Um diese Dinge als Waren aufeinander zu beziehn, müssen die Warenhüter sich zueinander als Personen verhalten, deren Willen in jenen Dingen haust, so daß der eine nur mit dem Willen des andren, also jeder nur vermittelst eines, beiden gemeinsamen Willensakts sich die fremde Ware aneignet, indem er die eigne veräußert. Sie müssen sich daher wechselseitig als Privateigentümer anerkennen. Dies Rechtsverhältnis, dessen Form der Vertrag ist, ob nun legal entwickelt oder nicht, ist ein Willensverhältnis, worin sich das ökonomische Verhältnis widerspiegelt. Der Inhalt dieses Rechts- oder Willensverhältnisses ist durch das ökonomische Verhältnis selbst gegeben.(38)Die Personen existieren hier nur <100>füreinander als Repräsentanten von Ware und daher als Warenbesitzer. Wir werden überhaupt im Fortgang der Entwicklung finden, daß die ökonomischen Charaktermasken der Personen nur die Personifikationen der ökonomischen Verhältnisse sind, als deren Träger sie sich gegenübertreten.

2. Was den Warenbesitzer namentlich von der Ware unterscheidet, ist der Umstand, daß ihr jeder andre Warenkörper nur als Erscheinungsform ihres eignen Werts gilt. Geborner Leveller und Zyniker, steht sie daher stets auf dem Sprung, mit jeder andren Ware, sei selbe auch ausgestattet mit mehr Unannehmlichkeiten als Maritorne, nicht nur die Seele, sondern den Leib zu wechseln. Diesen der Ware mangelnden Sinn für das Konkrete des Warenkörpers ergänzt der Warenbesitzer durch seine eignen fünf und mehr Sinne. Seine Ware hat für ihn keinen unmittelbaren Gebrauchswert. Sonst führte er sie nicht zu Markt. Sie hat Gebrauchswert für andre. Für ihn hat sie unmittelbar nur den Gebrauchswert, Träger von Tauschwert und so Tauschmittel zu sein.(39)Darum will er sie veräußern für Ware, deren Gebrauchswert ihm Genüge tut. Alle Waren sind Nicht-Gebrauchswerte für ihre Besitzer, Gebrauchswerte für ihre Nicht-Besitzer. Sie müssen also allseitig die Hände wechseln. Aber dieser Händewechsel bildet ihren Austausch, und ihr Austausch bezieht sie als Werte aufeinander und realisiert sie als Werte. Die Waren müssen sich daher als Werte realisieren, bevor sie sich als Gebrauchswerte realisieren können.

3. Andrerseits müssen sie sich als Gebrauchswerte bewähren, bevor sie sich als Werte realisieren können. Denn die auf sie verausgabte menschliche Arbeit zählt nur, soweit sie in einer für andre nützlichen Form verausgabt <101>ist. Ob sie andren nützlich, ihr Produkt daher fremde Bedürfnisse befriedigt, kann aber nur ihr Austausch beweisen.

4. Jeder Warenbesitzer will seine Ware nur veräußern gegen andre Ware, deren Gebrauchswert sein Bedürfnis befriedigt. Sofern ist der Austausch für ihn nur individueller Prozeß. Andrerseits will er seine Ware als Wert realisieren, also in jeder ihm beliebigen andren Ware von demselben Wert, ob seine eigne Ware nun für den Besitzer der andren Ware Gebrauchswert habe oder nicht. Sofern ist der Austausch für ihn allgemein gesellschaftlicher Prozeß. Aber derselbe Prozeß kann nicht gleichzeitig für alle Warenbesitzer nur individuell und zugleich nur allgemein gesellschaftlich sein.

5. Sehn wir näher zu, so gilt jedem Warenbesitzer jede fremde Ware als besondres Äquivalent seiner Ware, seine Ware daher als allgemeines Äquivalent aller andren Waren. Da aber alle Warenbesitzer dasselbe tun, ist keine Ware allgemeines Äquivalent und besitzen die Waren daher auch keine allgemeine relative Wertform, worin sie sich als Werte gleichsetzen und als Wertgrößen vergleichen. Sie stehn sich daher überhaupt nicht gegenüber als Waren, sondern nur als Produkte oder Gebrauchswerte.

6. In ihrer Verlegenheit denken unsre Warenbesitzer wie Faust. Im Anfang war die Tat. Sie haben daher schon gehandelt, bevor sie gedacht haben. Die Gesetze der Warennatur betätigten sich im Naturinstinkt der Warenbesitzer. Sie können ihre Waren nur als Werte und darum nur als Waren aufeinander beziehn, indem sie dieselben gegensätzlich auf irgendeine andre Ware als allgemeines Äquivalent beziehn. Das ergab die Analyse der Ware. Aber nur die gesellschaftliche Tat kann eine bestimmte Ware zum allgemeinen Äquivalent machen. Die gesellschaftliche Aktion aller andren Waren schließt daher eine bestimmte Ware aus, worin sie allseitig ihre Werte darstellen. Dadurch wird die Naturalform Ware gesellschaftlich gültige Äquivalentform. Allgemeines Äquivalent zu sein wird durch den gesellschaftlichen Prozeß zur spezifisch gesellschaftlichen Funktion der ausgeschlossenen Ware. So wird sie - Geld.

7. "Illi unum consilium habent et virtutem et potestatem suam bestiae tradunt. Et ne quis possit emere aut vendere, nisi qui habet characterem aut nomen bestiae, aut numerum nomisis ejus." <"Die haben eine Meinung und werden ihre Kraft und Macht geben dem Tier, daß niemand kaufen oder verkaufen kann, er habe denn das Malzeichen, nämlich den Namen des Tiers oder die Zahl seines Namens."> (Apokalypse)

8. Der Geldkristall ist ein notwendiges Produkt des Austauschprozesses, worin verschiedenartige Arbeitsprodukte einander tatsächlich gleichgesetzt <102>und daher tatsächlich in Waren verwandelt werden. Die historische Ausweitung und Vertiefung des Austausches entwickelt den in der Warennatur schlummernden Gegensatz von Gebrauchswert und Wert. Das Bedürfnis, diesen Gegensatz für den Verkehr äußerlich darzustellen, treibt zu einer selbständigen Form des Warenwerts und ruht und rastet nicht, bis sie endgültig erzielt ist durch die Verdopplung der Ware in Ware und Geld. In demselben Maße daher, worin sich die Verwandlung der Arbeitsprodukte in Waren, vollzieht sich die Verwandlung von Ware in Geld.(40)

9. Der unmittelbare Produktenaustausch hat einerseits die Form des einfachen Wertausdrucks und hat sie andrerseits noch nicht. Jene Form war x Ware A = y Ware B. Die Form des unmittelbaren Produktenaustausches ist: x Gebrauchsgegenstand A = y Gebrauchsgegenstand B.(41)Die Dinge A und B sind hier nicht Waren vor dem Austausch, sondern werden es erst durch denselben. Die erste Weise, worin ein Gebrauchsgegenstand der Möglichkeit nach Tauschwert ist, ist sein Dasein als Nicht-Gebrauchswert, als die unmittelbaren Bedürfnisse seines Besitzers überschießendes Quantum von Gebrauchswert. Dinge sind an und für sich dem Menschen äußerlich und daher veräußerlich. Damit diese Veräußerung wechselseitig, brauchen Menschen nur stillschweigend sich als Privateigentümer jener veräußerlichen Dinge und eben dadurch als voneinander unabhängige Personen gegenüberzutreten. Solch ein Verhältnis wechselseitiger Fremdheit existiert jedoch nicht für die Glieder eines naturwüchsigen Gemeinwesens, habe es nun die Form einer patriarchalischen Familie, einer altindischen Gemeinde, eines Inkastaates usw. Der Warenaustausch beginnt, wo die Gemeinwesen enden, an den Punkten ihres Kontakts mit fremden Gemeinwesen oder Gliedern fremder Gemeinwesen. Sobald Dinge aber einmal im auswärtigen, werden sie auch rückschlagend im innern Gemeinleben zu Waren. Ihr quantitatives Austauschverhältnis ist zunächst ganz zufällig. Austausch- <103>bar sind sie durch den Willensakt ihrer Besitzer, sie wechselseitig zu veräußern. Indes setzt sich das Bedürfnis für fremde Gebrauchsgegenstände allmählich fest. Die beständige Wiederholung des Austausches macht ihn zu einem regelmäßigen gesellschaftlichen Prozeß. Im Laufe der Zeit muß daher wenigstens ein Teil der Arbeitsprodukte absichtlich zum Behuf des Austausches produziert werden. Von diesem Augenblick befestigt sich einerseits die Scheidung zwischen der Nützlichkeit der Dinge für den unmittelbaren Bedarf und ihrer Nützlichkeit zum Austausch. Ihr Gebrauchswert scheidet sich von ihrem Tauschwerte. Andrerseits wird das quantitative Verhältnis, worin sie sich austauschen, von ihrer Produktion selbst abhängig. Die Gewohnheit fixiert sie als Wertgrößen.

10. Im unmittelbaren Produktenaustausch ist jede Ware unmittelbar Tauschmittel für ihren Besitzer, Äquivalent für ihren Nichtbesitzer, jedoch nur soweit sie Gebrauchswert für ihn. Der Tauschartikel erhält also noch keine von seinem eignen Gebrauchswert oder dem individuellen Bedürfnis der Austauscher unabhängige Wertform. Die Notwendigkeit dieser Form entwickelt sich mit der wachsenden Anzahl und Mannigfaltigkeit der in den Austauschprozeß eintretenden Waren. Die Aufgabe entspringt gleichzeitig mit den Mitteln ihrer Lösung. Ein Verkehr, worin Warenbesitzer ihre eignen Artikel mit verschiednen andren Artikeln austauschen und vergleichen, findet niemals statt, ohne daß verschiedne Waren von verschiednen Warenbesitzern innerhalb ihres Verkehrs mit einer und derselben dritten Warenart ausgetauscht und als Werte verglichen werden. Solche dritte Ware, indem sie Äquivalent für verschiedne andre Waren wird, erhält unmittelbar, wenn auch in engen Grenzen, allgemeine oder gesellschaftliche Äquivalentform. Diese allgemeine Äquivalentform entsteht und vergeht mit dem augenblicklichen gesellschaftlichen Kontakt, der sie ins Leben rief. Abwechselnd und flüchtig kommt sie dieser oder jener Ware zu. Mit der Entwicklung des Warenaustausches heftet sie sich aber ausschließlich fest an besondere Warenarten oder kristallisiert zur Geldform. An welcher Warenart sie kleben bleibt, ist zunächst zufällig. Jedoch entscheiden im großen und ganzen zwei Umstände. Geldform heftet sich entweder an die wichtigsten Eintauschartikel aus der Fremde, welche in der Tat naturwüchsige Erscheinungsformen des Tauschwerts der einheimischen Produkte sind, oder an den Gebrauchsgegenstand, welcher das Hauptelement des einheimischen veräußerlichen Besitztums bildet, wie z.B. Vieh. Nomadenvölker entwickeln zuerst die Geldform, weil all ihr Hab und Gut sich in beweglicher, daher unmittelbar veräußerlicher Form befindet, und weil ihre Lebensweise sie beständig mit fremden Gemeinwesen in Kontakt bringt, daher zum <104>Produktenaustausch sollizitiert. Die Menschen haben oft den Menschen selbst in der Gestalt des Sklaven zum ursprünglichen Geldmaterial gemacht, aber niemals den Grund und Boden. Solche Idee konnte nur in bereits ausgebildeter bürgerlicher Gesellschaft aufkommen. Sie datiert vom letzten Dritteil des 17. Jahrhunderts, und ihre Ausführung, auf nationalem Maßstab, wurde erst ein Jahrhundert später in der bürgerlichen Revolution der Franzosen versucht.

11. In demselben Verhältnis, worin der Warenaustausch seine nur lokalen Bande sprengt, der Warenwert sich daher zur Materiatur menschlicher Arbeit überhaupt ausweitet, geht die Geldform auf Waren über, die von Natur zur gesellschaftlichen Funktion eines allgemeinen Äquivalents taugen, auf die edlen Metalle.

12. Daß nun, "obgleich Gold und Silber nicht von Natur Geld, Geld von Natur Gold und Silber ist" (42), zeigt die Kongruenz ihrer Natureigenschaften mit seinen Funktionen.(43)Bisher kennen wir aber nur die eine Funktion des Geldes, als Erscheinungsform des Warenwerts zu dienen oder als das Material, worin die Wertgrößen der Waren sich gesellschaftlich ausdrücken. Adäquate Erscheinungsform von Wert oder Materiatur abstrakter und daher gleicher menschlicher Arbeit kann nur eine Materie sein, deren sämtliche Exemplare dieselbe gleichförmige Qualität besitzen. Andrerseits, da der Unterschied der Wertgrößen rein quantitativ ist, muß die Geldware rein quantitativer Unterschiede fähig, also nach Willkür teilbar und aus ihren Teilen wieder zusammensetzbar sein. Gold und Silber besitzen aber diese Eigenschaften von Natur.

13. Der Gebrauchswert der Geldware verdoppelt sich. Neben ihrem besondren Gebrauchswert als Ware, wie Gold z.B. zum Ausstopfen hohler Zähne, Rohmaterial von Luxusartikeln usw. dient, erhält sie einen formalen Gebrauchswert, der aus ihren spezifischen gesellschaftlichen Funktionen entspringt.

14. Da alle andren Waren nur besondre Äquivalente des Geldes, das Geld ihr allgemeines Äquivalent, verhalten sie sich als besondre Waren zum Geld als der allgemeinen Ware.(44)

15. <105>Man hat gesehn, daß die Geldform nur der an einer Ware festhaftende Reflex der Beziehungen aller andren Waren. Daß Geld Ware ist (45), ist also nur eine Entdeckung für den, der von seiner fertigen Gestalt ausgeht, um sie hinterher zu analysieren. Der Austauschprozeß gibt der Ware, die er in Geld verwandelt, nicht ihren Wert, sondern ihre spezifische Wertform. Die Verwechslung beider Bestimmungen verleitete dazu, den Wert von Gold und Silber für imaginär zu halten.(46)Weil Geld in bestimmten Funktionen durch bloße Zeichen seiner selbst ersetzt werden kann, entsprang der andre Irrtum, es sei ein bloßes Zeichen. Andrerseits lag darin die Ahnung, daß die Geldform des Dings ihm selbst äußerlich und bloß Erscheinungsform dahinter versteckter menschlicher Verhältnisse. In diesem Sinn wäre jede Ware ein Zeichen, weil als Wert nur sachliche Hülle der auf sie verausgabten menschlichen Arbeit.(47)Indem man aber die gesellschaftlichen Charak- <106>tere, welche Sachen, oder die sachlichen Charaktere, welche gesellschaftliche Bestimmungen der Arbeit auf Grundlage einer bestimmten Produktionsweise erhalten, für bloße Zeichen, erklärt man sie zugleich für willkürliches Reflexionsprodukt der Menschen. Es war dies beliebte Aufklärungsmanier des 18. Jahrhunderts, um den rätselhaften Gestalten menschlicher Verhältnisse, deren Entstehungsprozeß man noch nicht entziffern konnte, wenigstens vorläufig den Schein der Fremdheit abzustreifen.

16. Es ward vorhin bemerkt, daß die Äquivalentform einer Ware die quantitative Bestimmung ihrer Wertgröße nicht einschließt. Weiß man, daß Gold Geld, daher mit allen andren Waren unmittelbar austauschbar ist, so weiß man deswegen nicht, wieviel z.B. 10 Pfund Gold wert sind. Wie jede Ware kann das Geld seine eigne Wertgröße nur relativ in andren Waren ausdrücken. Sein eigner Wert ist bestimmt durch die zu seiner Produktion erheischte Arbeitszeit und drückt sich in dem Quantum jeder andren Ware aus, worin gleichviel Arbeitszeit geronnen ist.(48)Diese Festsetzung seiner <107>relativen Wertgröße findet statt an seiner Produktionsquelle in unmittelbarem Tauschhandel. Sobald es als Geld in die Zirkulation eintritt, ist sein Wert bereits gegeben. Wenn es schon in den letzten Dezennien des 17. Jahrhunderts weit überschrittner Anfang der Geldanalyse, zu wissen, daß Geld Ware ist, so aber auch nur der Anfang. Die Schwierigkeit liegt nicht darin zu begreifen, daß Geld Ware, sondern wie, warum, wodurch Ware Geld ist.(49)

17. Wir sahen, wie schon in dem einfachsten Wertausdruck, x Ware A = y Ware B, das Ding, worin die Wertgröße eines andren Dings dargestellt wird, seine Äquivalentform unabhängig von dieser Beziehung als gesellschaftliche Natureigenschaft zu besitzen scheint. Wir verfolgten die Befestigung dieses falschen Scheins. Er ist vollendet, sobald die allgemeine Äquivalentform mit der Naturalform einer besondren Warenart verwachsen oder zur Geldform kristallisiert ist. Eine Ware scheint nicht erst Geld zu werden, weil die andren Waren allseitig ihre Werte in ihr darstellen, sondern sie scheinen umgekehrt allgemein ihre Werte in ihr darzustellen, weil sie Geld ist. Die vermittelnde Bewegung verschwindet in ihrem eignen Resultat und läßt keine Spur zurück. Ohne ihr Zutun finden die Waren ihre eigne Wertgestalt fertig vor als einen außer und neben ihnen existierenden Warenkörper. Diese Dinge, Gold und Silber, wie sie aus den Eingeweiden der Erde herauskommen, sind zugleich die unmittelbare Inkarnation aller menschlichen Arbeit. Daher die Magie des Geldes. Das bloß <108>atomistische Verhalten der Menschen in ihrem gesellschaftlichen Produktionsprozeß und daher die von ihrer Kontrolle und ihrem bewußten individuellen Tun unabhängige, sachliche Gestalt ihrer eignen Produktionsverhältnisse erscheinen zunächst darin, daß ihre Arbeitsprodukte allgemein die Warenform annehmen. Das Rätsel des Geldfetischs ist daher nur das sichtbar gewordne, die Augen blendende Rätsel des Warenfetischs.

Fußnoten

(37)Im 12., durch seine Frömmigkeit so berufenen Jahrhundert, kommen unter diesen Waren oft sehr zarte Dinge vor. So zählt ein französischer Dichter jener Zeit unter den Waren, die sich auf dem Markt von Landit einfanden, neben Kleidungsstoffen, Schuhen, Leder, Ackergeräten, Häuten usw. auch "femmes folles de leur corps" <"Frauen mit feurigem Körper"> auf. <=

(38)Proudhon schöpft erst sein Ideal der Gerechtigkeit, der justice éternelle <ewigen Gerechtigkeit>, aus den der Warenproduktion entsprechenden Rechtsverhältnissen, wodurch, nebenbei bemerkt, auch der für alle Spießbürger so tröstliche Beweis geliefert wird, daß die Form der Warenproduktion ebenso ewig ist wie die Gerechtigkeit. Dann umgekehrt will er die wirkliche Warenproduktion und das ihr entsprechende wirkliche Recht diesem Ideal gemäß ummodeln. Was würde man von einem Chemiker denken, der, statt die wirklichen Gesetze des Stoffwechsels zu studieren und auf Basis derselben bestimmte Aufgaben zu lösen, den Stoffwechsel durch die "ewigen Ideen" der "naturalié" <"Natürlichkeit"> und der "affinité" <"Verwandschaft"> ummodeln wollte? Weiß man etwa mehr über den "Wucher", wenn man sagt, er widerspreche der "justice éternelle" und der "équité éternelle" <"ewigen Billigkeit"> und der "mutualité éternelle" <"ewigen Gegenseitigkeit"> und andren "vérités éternelles" <"ewigen Wahrheiten">, als die Kirchenväter wußten, wenn sie sagten, er widerspreche der "grâce éternelle", der "foi éternelle", der "volonté éternelle de dieu" <"ewigen Gnade", dem "ewigen Glauben", dem "ewigen Willen Gottes">? <=

(39)"Denn zweifach ist der Gebrauch jedes Guts. - Der eine ist dem Ding als solchem eigen, der andre nicht, wie einer Sandale, zur Beschuhung zu dienen und austauschbar zu sein. Beides sind Gebrauchswerte der Sandale, denn auch wer die Sandale mit dem ihm Mangelnden, z.B. der Nahrung austauscht, benutzt die Sandale als Sandale. Aber nicht in ihrer natürlichen Gebrauchsweise. Denn sie ist nicht da des Austausches wegen." (Aristoteles, "De Rep.", l. I, c. 9.) <=

(40)Danach beurteile man die Pfiffigkeit des kleinbürgerlichen Sozialismus, der die Warenproduktion verewigen und zugleich den "Gegensatz von Geld und Ware", also das Geld selbst, denn es ist nur in diesem Gegensatze, abschaffen will. Ebensowohl könnte man den Papst abschaffen und den Katholizismus bestehen lassen. Das Nähere hierüber sieh in meiner Schrift "Zur Kritik der Pol. Oekonomie", p. 61 sqq. < Siehe Band 13, S. 66 ff.> <=

(41)Solange noch nicht zwei verschiedne Gebrauchsgegenstände ausgetauscht, sondern, wie wir das bei Wilden oft finden, eine chaotische Masse von Dingen als Äquivalent für ein Drittes angeboten wird, steht der unmittelbare Produktenaustausch selbst erst in seiner Vorhalle. <=

(42)Karl Marx, l.c. p. 135. < Siehe Band 13, S.131> "Die Metalle ... sind von Natur Geld."(Galiani, "Della Moneta" in Custodis Sammlung, Parte Moderna, t. III, p. 137.) <=

(43)Das Nähere darüber in meiner eben zitierten Schrift, Abschnitt: "Die edlen Metalle". <=

(44)"Das Geld ist die allgemeine Ware."(Verri, l.c.p. 16.) <=

(45)"Silber und Gold an sich, die wir mit dem allgemeinen Namen Edelmetall bezeichnen können, sind im ... Werte ... steigende und fallende ... Waren ... Dem Edelmetall kann man dann einen höheren Wert zuerkennen, wenn ein geringeres Gewicht davon eine größere Menge des Produkts oder Fabrikats des Landes etc. kauft." ([S. Clement,] "A Discourse of the General Notions of Money, Trade, and Exchange, as they stand in relations to each other. By a Merchant", Lond. 1695, p. 7.) "Silber und Gold, gemünzt oder ungemünzt, werden zwar als Maßstab für alle anderen Dinge gebraucht, sind aber nicht weniger eine Ware als Wein, Öl, Tabak, Tuch oder Stoffe." ([J. Child,] "A Discourse concerning Trade, and that in particular of the East-Indies etc.", London 1689, p. 2.) "Vermögen und Reichtum des Königreiches können genaugenommen nicht auf Geld beschränkt, noch können Gold und Silber als Waren ausgeschlossen werden." (Th. Papillon,] "The East India Trade a most Profitable Trade", London 1677, p. 4.) <=

(46)"Gold und Silber haben Wert als Metalle, bevor sie Geld sind." (Galiani, l.c.[p. 72.]) Locke sagt:" Die allgemeine Übereinstimmung der Menschen legte dem Silber, wegen seiner Qualitäten, die es zum Geld geeignet machten, einen imaginären Wert bei." [John Locke, "Some Considerations etc.", 1691, in "Works", ed. 1777, v. II, p. 15.] Dagegen Law: "Wie könnten verschiedne Nationen irgendeiner Sache einen imaginären Wert geben ... oder wie hätte sich dieser imaginäre Wert erhalten können?" Wie wenig er selbst aber von der Sache verstand: "Das Silber tauschte sich aus nach dem Gebrauchswert, den es hatte, also nach seinem wirklichen Wert; durch seine Bestimmung als Geld erhielt es einen zuschüssigen Wert (une valeur additionnelle)." (Jean Law, "Considérations sur le numéraire et le commerce" in E. Daires Édit. der "Économistes Financiers du XVIII. siécle", p. 469, 470.) <=

(47)"Das Geld ist ihr" (der Waren) "Zeichen."(V. de Forbonnais, "Éléments du Commerce", Nouv. Édit. Leyde 1766, t. II, p. 143.)"Als Zeichen wird es von den Waren angezogen." (l.c.p. 155.) "Das Geld ist Zeichen für eine Sache und vertritt sie." (Montesquieu, "Esprit des Lois", Oeuvres, Lond. 1767, t. II, p. 3.) "Das Geld ist nicht bloßes Zeichen, denn es ist selbst Reichtum; es vertritt nicht die Werte, es ist ihr Äquivalent." (Le Trosne, l.c.p. 910.) "Betrachtet man den Begriff des Werts, so wird die Sache selbst nur als ein Zeichen angesehn, und sie gilt nicht als sie selber, sondern als was sie wert ist." (Hegel, l.c.p. 100.) Lange vor den Ökonomen brachten die Juristen die Vorstellung von Geld als bloßem Zeichen und dem nur imaginären Wert der edlen Metalle in Schwung, im Sykophantendienst der königlichen Gewalt, deren Münzverfälschungsrecht sie das ganze Mittelalter hindurch auf die Traditionen des römischen Kaiserreichs und die Geldbegriffe der Pandekten stützten. "Niemand kann und darf Zweifel hegen", sagt ihr gelehriger Schüler, Philipp von Valois, in einem Dekret von 1346, "daß nur Uns und Unserer königlichen Majestät zukommt ... das Münzgeschäft, die Herstellung, die Beschaffenheit, der Vorrat und alle die Münzen betreffenden Verordnungen, sie so und zu solchem Preis in Umlauf zu setzen, wie es Uns gefällt und gutdünkt." Es war römisches Rechtsdogma, daß der Kaiser den Geldwert dekretiert. Es war ausdrücklich verboten, das Geld als Ware zu behandeln. "Geld jedoch zu kaufen soll niemand gestattet sein, denn zum allgemeinen Gebrauch geschaffen, darf es nicht Ware sein." Gute Auseinandersetzung hierüber von G. F. Pagnini, "Saggio sopra il giusto pregio delle cose", 1751, bei Custodi, Parte Moderna, t. II. Namentlich im zweiten Teil der Schrift polemisiert Pagnini gegen die Herren Juristen. <=

(48)"Wenn jemand eine Unze Silber aus dem Innern der Erde Perus in derselben Zeit nach London bringen kann, die er zur Produktion eines Bushel Korn brauchen würde, dann ist das eine der natürliche Preis des anderen; wenn er nun durch Abbau neuer und ergiebigerer Bergwerke statt der einen zwei Unzen Silber mit dem gleichen Aufwand gewinnen kann, wird das Korn bei einem Preis von 10 Shilling pro Bushel ebenso billig sein wie vorher bei einem Preis von 5 Shilling, caeteris paribus <unter sonst gleichen Umständen>."(William Petty, "A Treatise of Taxes and Contributions", Lond. 1667, p. 31.) <=

(49)Nachdem Herr Professor Roscher uns belehrt: "Die falschen Definitionen von Geld lassen sich in zwei Hauptgruppen teilen: solche, die es für mehr, und solche, die es für weniger halten als eine Ware", folgt ein kunterbunter Katalog von Schriften über das Geldwesen, wodurch auch nicht die entfernteste Einsicht in die wirkliche Geschichte der Theorie durchschimmert, und dann die Moral: "Zu leugnen ist übrigens nicht, daß die meisten neueren Nationalökonomen die Eigentümlichkeiten, welche das Geld von andren Waren unterscheiden" (also doch mehr oder weniger als Ware?), "nicht genug im Auge behalten haben ... Insofern ist die halbmerkantilistische Reaktion von Ganilh etc. nicht ganz unbegründet." (Wilhelm Roscher, "Die Grundlagen der Nationalökonomie", 3. Aufl., 1858, p. 207-210.) Mehr - weniger - nicht genug - insofern - nicht ganz! Welche Begriffsbestimmungen! Und dergleichen eklektische Professoralfaselei tauft Herr Roscher bescheiden "die anatomisch-physiologische Methode" der politischen Ökonomie! Eine Entdeckung ist ihm jedoch geschuldet, nämlich, daß Geld "eine angenehme Ware" ist. <=




2. Kapitel. Der Austauschprozeß | Inhalt | 4. Kapitel. Verwandlung von Geld in Kapital
Seitenzahlen verweisen auf: Karl Marx - Friedrich Engels - Werke, Band 23, "Das Kapital", Bd. I, Erster Abschnitt, S. 109 - 160
Dietz Verlag, Berlin/DDR 1968
DRITTES KAPITEL
Das Geld und die Warenzirkulation
1. Maß der Werte
1. <109> Ich setze überall in dieser Schrift, der Vereinfachung halber, Gold als die Geldware voraus.
2. Die erste Funktion des Goldes besteht darin, der Warenwelt das Material ihres Wertausdrucks zu liefern oder die Warenwerte als gleichnamige Größen, qualitativ gleiche und quantitativ vergleichbare, darzustellen. So funktioniert es als allgemeines Maß der Werte, und nur durch diese Funktion wird Gold, die spezifische Äquivalentware, zunächst Geld.
3. Die Waren werden nicht durch das Geld kommensurabel. Umgekehrt. Weil alle Waren als Werte vergegenständlichte menschliche Arbeit, daher an und für sich kommensurabel sind, können sie ihre Werte gemeinschaftlich in derselben spezifischen Ware messen und diese dadurch in ihr gemeinschaftliches Wertmaß oder Geld verwandeln. Geld als Wertmaß ist notwendige Erscheinungsform des immanenten Wertmaßes der Waren, der Arbeitzeit.(50)
4. <110> Der Wertausdruck einer Ware in Gold - x Ware A = y Geldware - ist ihre Geldform oder ihr Preis. Eine vereinzelte Gleichung, wie 1 Tonne Eisen = 2 Unzen Gold, genügt jetzt, um den Eisenwert gesellschaftlich gültig darzustellen. Die Gleichung braucht nicht länger in Reih und Glied mit den Wertgleichungen der andren Waren aufzumarschieren, weil die Äquivalentware, das Gold, bereits den Charakter von Geld besitzt. Die allgemeine relative Wertform der Waren hat daher jetzt wieder die Gestalt ihrer ursprünglichen, einfachen oder einzelnen relativen Wertform. Andrerseits wird der entfaltete relative Wertausdruck oder die endlose Reihe relativer Wertausdrücke zur spezifisch relativen Wertform der Geldware. Diese Reihe ist aber jetzt schon gesellschaftlich gegeben in den Warenpreisen. Man lese die Quotationen eines Preiskurants rückwärts und man findet die Wertgröße des Geldes in allen möglichen Waren dargestellt. Geld hat dagegen keinen Preis. Um an dieser einheitlichen relativen Wertform der andren Waren teilzunehmen, müßte es auf sich selbst als sein eignes Äquivalent bezogen werden.
5. Der Preis oder die Geldform der Waren ist, wie ihre Wertform überhaupt, eine von ihrer handgreiflich reellen Körperform unterschiedne, also nur ideelle oder vorgestellte Form. Der Wert von Eisen, Leinwand, Weizen usw. existiert, obgleich unsichtbar, in diesen Dingen selbst; er wird vorgestellt durch ihre Gleichheit mit Gold, eine Beziehung zum Gold, die sozusagen nur in ihren Köpfen spukt. Der Warenhüter muß daher seine Zunge in ihren Kopf stecken oder ihnen Papierzettel umhängen, um ihre Preise der Außenwelt mitzuteilen.(51) Da der Ausdruck der Warenwerte in <111> Gold ideell ist, ist zu dieser Operation auch nur vorgestelltes oder ideelles Gold anwendbar. Jeder Warenhüter weiß, daß er seine Waren noch lange nicht vergoldet, wenn er ihrem Wert die Form des Preises oder vorgestellte Goldform gibt, und daß er kein Quentchen wirkliches Gold braucht, um Millionen Warenwerte in Gold zu schätzen. In seiner Funktion des Wertmaßes dient das Geld daher - als nur vorgestelltes oder ideelles Geld. Dieser Umstand hat die tollsten Theorien veranlaßt.(52) Obgleich nur vorgestelltes Geld zur Funktion des Wertmaßes dient, hängt der Preis ganz vom reellen Geldmaterial ab. Der Wert, d.h. das Quantum menschlicher Arbeit, das z.B. in einer Tonne Eisen enthalten ist, wird ausgedrückt in einem vorgestellten Quantum der Geldware, welches gleich viel Arbeit enthält. Je nachdem also Gold, Silber oder Kupfer zum Wertmaß dienen, erhält der Wert der Tonne Eisen ganz verschiedne Preisausdrücke oder wird in ganz verschiednen Quantitäten Gold, Silber oder Kupfer vorgestellt.
6. Dienen daher zwei verschiedne Waren, z.B. Gold und Silber, gleichzeitig als Wertmaße, so besitzen alle Waren zweierlei verschiedne Preisausdrücke, Goldpreise und Silberpreise, die ruhig nebeneinander laufen, solange das Wertverhältnis von Silber zu Gold unverändert bleibt, z.B. = 1:15. Jede Veränderung dieses Wertverhältnisses stört aber das Verhältnis zwischen den Goldpreisen und den Silberpreisen der Waren und beweist so tatsächlich, daß die Verdopplung des Wertmaßes seiner Funktion widerspricht. (53)
7. <112> Die preisbestimmten Waren stellen sich alle dar in der Form: a Ware A = x Gold, b Ware B = z Gold, c Ware C = y Gold usw., wo a, b, c bestimmte Massen der Warenarten A, B, C vorstellen, x, z, y bestimmte Massen des Goldes. Die Warenwerte sind daher verwandelt in vorgestellte Goldquanta von verschiedner Größe, also, trotz der wirren Buntheit der Warenkörper, in gleichnamige Größen, Goldgrößen. Als solche verschiedne Goldquanta vergleichen und messen sie sich untereinander, und es entwickelt sich technisch die Notwendigkeit, sie auf ein fixiertes Quantum Gold als ihre Maßeinheit zu beziehn. Diese Maßeinheit selbst wird durch weitere Einteilung in aliquote Teile zum Maßstab fortentwickelt. Vor ihrer Geldwerdung besitzen Gold, Silber, Kupfer bereits solche Maßstäbe in ihren Metallgewichten, so daß z.B. ein Pfund als Maßeinheit dient und nach der einen Seite wieder in Unzen usw. abgeteilt, nach der andren in Zentner usw. zusammenaddiert wird.(54) Bei aller metallischen Zirkulation bilden daher die vorgefundenen Namen des Gewichtsmaßstabs auch die ursprünglichen Namen des Geldmaßstabs oder Maßstabs der Preise.
8. <113> Als Maß der Werte und als Maßstab der Preise verrichtet das Geld zwei ganz verschiedne Funktionen. Maß der Werte ist es als die gesellschaftliche Inkarnation der menschlichen Arbeit, Maßstab der Preise als ein festgesetztes Metallgewicht. Als Wertmaß dient es dazu, die Werte der bunt verschiednen Waren in Preise zu verwandeln, in vorgestellte Goldquanta; als Maßstab der Preise mißt es diese Goldquanta. Am Maß der Werte messen sich die Waren als Werte, der Maßstab der Preise mißt dagegen Goldquanta an einem Goldquantum, nicht den Wert eines Goldquantums am Gewicht des andren. Für den Maßstab der Preise muß ein bestimmtes Goldgewicht als Maßeinheit fixiert werden. Hier, wie in allen andren Maßbestimmungen gleichnamiger Größen, wird die Festigkeit der Maßverhältnisse entscheidend. Der Maßstab der Preise erfüllt daher seine Funktion um so besser, je unveränderlicher ein und dasselbe Quantum Gold als Maßeinheit dient. Als Maß der Werte kann Gold nur dienen, weil es selbst Arbeitsprodukt, also der Möglichkeit nach ein veränderlicher Wert ist.(55)
9. Es ist zunächst klar, daß ein Wertwechsel des Goldes seine Funktion als Maßstab der Preise in keiner Weise beeinträchtigt. Wie auch der Goldwert wechsle, verschiedne Goldquanta bleiben stets in selbem Wertverhältnis zueinander. Fiele der Goldwert um 1.000%, so würden nach wie vor 12 Unzen Gold 12mal mehr Wert besitzen als eine Unze Gold, und in den Preisen handelt es sich nur um das Verhältnis verschiedner Goldquanta zueinander. Da andrerseits eine Unze Gold mit dem Fallen oder Steigen ihres Werts keineswegs ihr Gewicht verändert, verändert sich ebensowenig das ihrer aliquoten Teile, und so tut das Gold als fixer Maßstab der Preise stets denselben Dienst, wie immer sein Wert wechsle.
10. Der Wertwechsel des Goldes verhindert auch nicht seine Funktion als Wertmaß. Er trifft alle Waren gleichzeitig, läßt also caeteris paribus ihre <114> wechselseitigen relativen Werte unverändert, obgleich sie sich nun alle in höheren oder niedrigeren Goldpreisen als zuvor ausdrücken.
11. Wie bei der Darstellung des Werts einer Ware im Gebrauchswert irgendeiner andren Ware, ist auch bei der Schätzung der Waren in Gold nur vorausgesetzt, daß zur gegebnen Zeit die Produktion eines bestimmten Goldquantums ein gegebnes Quantum Arbeit kostet. In bezug auf die Bewegung der Warenpreise überhaupt gelten die früher entwickelten Gesetze des einfachen relativen Wertausdrucks.
12. Die Warenpreise können nur allgemein steigen, bei gleichbleibendem Geldwert, wenn die Warenwerte steigen; bei gleichbleibenden Warenwerten, wenn der Geldwert fällt. Umgekehrt. Die Warenpreise können nur allgemein fallen, bei gleichbleibendem Geldwert, wenn die Warenwerte fallen; bei gleichbleibenden Warenwerten, wenn der Geldwert steigt. Es folgt daher keineswegs, daß steigender Geldwert proportionelles Sinken der Warenpreise und fallender Geldwert proportionelles Steigen der Warenpreise bedingt. Dieses gilt nur für Waren von unverändertem Wert. Solche Waren z.B., deren Wert gleichmäßig und gleichzeitig steigt mit dem Geldwert, behalten dieselben Preise. Steigt ihr Wert langsamer oder rascher als der Geldwert, so wird der Fall oder das Steigen ihrer Preise bestimmt durch die Differenz zwischen ihrer Wertbewegung und der des Geldes usw.
13. Kehren wir nun zur Betrachtung der Preisform zurück.
14. Die Geldnamen der Metallgewichte trennen sich nach und nach von ihren ursprünglichen Gewichtnamen aus verschiednen Gründen, darunter historisch entscheidend: 1. Einführung fremden Geldes bei minder entwickelten Völkern, wie z.B. im alten Rom Silber- und Goldmünzen zuerst als ausländische Waren zirkulierten. Die Namen dieses fremden Geldes sind von den einheimischen Gewichtnamen verschieden. 2. Mit der Entwicklung des Reichtums wird das minder edle Metall durch das edlere aus der Funktion des Wertmaßes verdrängt. Kupfer durch Silber, Silber durch Gold, sosehr diese Reihenfolge aller poetischen Chronologie widersprechen mag.(56) Pfund war nun z.B. Geldname für ein wirkliches Pfund Silber. Sobald Gold das Silber als Wertmaß verdrängt, hängt sich derselbe Name vielleicht an 1/15 usw. Pfund Gold, je nach dem Wertverhältnis von Gold und Silber. Pfund als Geldname und als gewöhnlicher Gewichtname des Goldes sind jetzt getrennt.(57) 3. Die Jahrhunderte fort- <115> gesetzte Geldfälschung der Fürsten, welche vom ursprünglichen Gewicht der Geldmünzen in der Tat nur den Namen zurückließ.(58)
15. Diese historischen Prozesse machen die Trennung des Geldnamens der Metallgewichte von ihrem gewöhnlichen Gewichtsnamen zur Volksgewohnheit. Da der Geldmaßstab einerseits rein konventionell ist, andrerseits allgemeiner Gültigkeit bedarf, wird er zuletzt gesetzlich reguliert. Ein bestimmter Gewichtsteil des edlen Metalls, z.B. eine Unze Gold, wird offiziell abgeteilt in aliquote Teile, die legale Taufnamen erhalten, wie Pfund, Taler usw. Solcher aliquote Teil, der dann als die eigentliche Maßeinheit des Geldes gilt, wird untergeteilt in andre aliquote Teile mit gesetzlichen Taufnamen, wie Shilling, Penny etc.(59) Nach wie vor bleiben bestimmte Metallgewichte Maßstab des Metallgeldes. Was sich geändert, ist Einteilung und Namengebung.
16. Die Preise, oder die Goldquanta, worin die Werte der Waren ideell verwandelt sind, werden jetzt also ausgedrückt in den Geldnamen oder gesetzlich gültigen Rechennamen des Goldmaßstabs. Statt also zu sagen, der Quarter Weizen ist gleich einer Unze Gold, würde man in England sagen, er ist gleich 3 Pfd.St. 17 sh. 101/2 d. Die Waren sagen sich so in ihren Geldnamen, was sie wert sind, und das Geld dient als Rechengeld, sooft es gilt, eine Sache als Wert und daher in Geldform zu fixieren.(60)
17. Der Name einer Sache ist ihrer Natur ganz äußerlich. Ich weiß nichts vom Menschen, wenn ich weiß, daß ein Mensch Jacobus heißt. Ebenso verschwindet in den Geldnamen Pfund, Taler, Franc, Duktat usw. jede Spur des Wertverhältnisses. Die Wirre über den Geheimsinn dieser kabbalistischen Zeichen ist um so größer, als die Geldnamen den Wert der Waren und zugleich aliquote Teile eines Metallgewichts, des Geldmaßstabs, aus- <116> drücken.(61) Andrerseits ist es notwendig, daß der Wert im Unterschied von den bunten Körpern der Warenwelt sich zu dieser begriffslos sachlichen, aber auch einfach gesellschaftlichen Form fortentwickle.(62)
18. Der Preis ist der Geldname der in der Ware vergegenständlichten Arbeit. Die Äquivalenz der Ware und des Geldquantums, dessen Name ihr Preis ist, ist daher eine Tautologie (63), wie ja überhaupt der relative Wertausdruck einer Ware stets der Ausdruck der Äquivalenz zweier Waren ist. Wenn aber der Preis als Exponent der Wertgröße der Ware Exponent ihres Austauschverhältnisses mit Geld, so folgt nicht umgekehrt, daß der Exponent ihres Austauschverhältnisses mit Geld notwendig der Exponent ihrer Wertgröße ist. Gesellschaftlich notwendige Arbeit von gleicher Größe stelle sich in 1 Quarter Weizen und in 2 Pfd.St. (ungefähr 1/2 Unze Gold) dar. Die 2 Pfd.St. sind Geldausdruck der Wertgröße des Quarter Weizens, oder sein Preis. Erlauben nun die Umstände, ihn zu 3 Pfd.St., oder zwingen sie, ihn zu 1 Pfd.St. zu notieren, so sind 1 Pfd.St. und 3 Pfd.St. als Aus- <117> drücke der Wertgröße des Weizens zu klein oder zu groß, aber sie sind dennoch Preise desselben, denn erstens sind sie seine Wertform, Geld, und zweitens Exponenten seines Austauschverhältnisses mit Geld. Bei gleichbleibenden Produktionsbedingungen oder gleichbleibender Produktivkraft der Arbeit muß nach wie vor zur Reproduktion des Quarter Weizen gleich viel gesellschaftliche Arbeitszeit verausgabt werden. Dieser Umstand hängt vom Willen weder des Weizenproduzenten noch der andren Warenbesitzer ab. Die Wertgröße der Ware drückt also ein notwendiges, ihrem Bildungsprozeß immanentes Verhältnis zur gesellschaftlichen Arbeitszeit aus. Mit der Verwandlung der Wertgröße in Preis erscheint dies notwendige Verhältnis als Austauschverhältnis einer Ware mit der außer ihr existierenden Geldware. In diesem Verhältnis kann sich aber ebensowohl die Wertgröße der Ware ausdrücken, als das Mehr oder Minder, worin sie unter gegebnen Umständen veräußerlich ist. Die Möglichkeit quantitativer Inkongruenz zwischen Preis und Wertgröße, oder der Abweichung des Preises von der Wertgröße, liegt also in der Preisform selbst. Es ist dies kein Mangel dieser Form, sondern macht sie umgekehrt zur adäquaten Form einer Produktionsweise, worin sich die Regel nur als blindwirkendes Durchschnittsgesetz der Regellosigkeit durchsetzen kann.
19. Die Preisform läßt jedoch nicht nur die Möglichkeit quantitativer Inkongruenz zwischen Wertgröße und Preis, d.h. zwischen der Wertgröße und ihrem eignen Geldausdruck zu, sondern kann einen qualitativen Widerspruch beherbergen, so daß der Preis überhaupt aufhört, Wertausdruck zu sein, obgleich Geld nur die Wertform der Waren ist. Dinge, die an und für sich keine Waren sind, z.B. Gewissen, Ehre usw., können ihren Besitzern für Geld feil und so durch ihren Preis die Warenform erhalten. Ein Ding kann daher formell einen Preis haben, ohne einen Wert zu haben. Der Preisausdruck wird hier imaginär wie gewisse Größen der Mathematik. Andrerseits kann auch die imaginäre Preisform, wie z.B. der Preis des unkultivierten Bodens, der keinen Wert hat, weil keine menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht ist, ein wirkliches Wertverhältnis oder von ihm abgeleitete Beziehung verbergen.
20. Wie die relative Wertform überhaupt, drückt der Preis den Wert einer Ware, z.B. einer Tonne Eisen, dadurch aus, daß ein bestimmtes Quantum Äquivalent, z.B. eine Unze Gold, unmittelbar austauschbar mit Eisen, aber keineswegs umgekehrt, daß seinerseits das Eisen unmittelbar austauschbar mit Gold ist. Um also praktisch die Wirkung eines Tauschwerts auszuüben, muß die Ware ihren natürlichen Leib abstreifen, sich aus nur vorgestellten Gold in wirkliches Gold verwandeln, obgleich diese Trans- <118> substantiation ihr "saurer" ankommen mag als dem Hegelschen "Begriff" der Übergang aus der Notwendigkeit in die Freiheit oder einem Hummer das Sprengen seiner Schale oder dem Kirchenvater Hieronymus das Abstreifen des alten Adam.(64) Neben ihrer realen Gestalt, Eisen z.B., kann die Ware im Preise ideelle Wertgestalt oder vorgestellte Goldgestalt besitzen, aber sie kann nicht zugleich wirklich Eisen und wirklich Gold sein. Für ihre Preisgebung genügt es, vorgestelltes Gold ihr gleichzusetzen. Durch Gold ist sie zu ersetzen, damit sie ihrem Besitzer den Dienst eines allgemeinen Äquivalents leiste. Träte der Besitzer des Eisens z.B. dem Besitzer einer weltlustigen Ware gegenüber und verwiese ihn auf den Eisenpreis, der Geldform sei, so würde der Weltlustige antworten, wie im Himmel der heilige Petrus dem Dante, der ihm die Glaubensformel hergesagt:
"Assai bene è trascorsa
D'esta moneta già la lega e'l peso,
Ma dimmi se tu l'hai nella tua borsa."
<"Gar wohl durchgangen
ist jetzo Schrot und Korn schon jener Münze
Doch sprich, ob du sie hast in deiner Börse.">
21. Die Preisform schließt die Veräußerlichkeit der Waren gegen Geld und die Notwendigkeit dieser Veräußerung ein. Andrerseits funktioniert Gold nur als ideelles Wertmaß, weil es sich bereits im Austauschprozeß als Geldware umtreibt. Im ideellen Maß der Werte lauert daher das harte Geld.





2. Zirkulationsmittel
a) Die Metamorphose der Waren
1. Man sah, daß der Austauschprozeß der Waren widersprechende und einander ausschließende Beziehungen einschließt. Die Entwicklung der Ware hebt diese Widersprüche nicht auf, schafft aber die Form, worin sie sich bewegen können. Dies ist überhaupt die Methode, wodurch sich wirkliche Widersprüche lösen. Es ist z.B. ein Widerspruch, daß ein Körper <119> beständig in einen andren fällt und ebenso beständig von ihm wegflieht. Die Ellipse ist eine der Bewegungsformen, worin dieser Widerspruch sich ebensosehr verwirklicht als löst.
2. Soweit der Austauschprozeß Waren aus der Hand, worin sie Nicht-Gebrauchswerte, in die Hand überträgt, worin sie Gebrauchswerte, ist er gesellschaftlicher Stoffwechsel. Das Produkt einer nützlichen Arbeitsweise ersetzt das der andren. Einmal angelangt zur Stelle, wo sie als Gebrauchswert dient, fällt die Ware in die Sphäre der Konsumtion aus der Sphäre des Warenaustauschs. Letztre allein interessiert uns hier. Wir haben also den ganzen Prozeß nach der Formseite zu betrachten, also nur den Formwechsel oder die Metamorphose der Waren, welche den gesellschaftlichen Stoffwechsel vermittelt.
3. Die durchaus mangelhafte Auffassung dieses Formwechsels ist, abgesehn von Unklarheit über den Wertbegriff selbst, dem Umstand geschuldet, daß jeder Formwechsel einer Ware sich vollzieht im Austausch zweier Waren, einer gemeinen Ware und der Geldware. Hält man an diesem stofflichen Moment, dem Austausch von Ware mit Gold, allein fest, so übersieht man grade, was man sehn soll, nämlich was sich mit der Form zuträgt. Man übersieht, daß Gold als bloße Ware nicht Geld ist und daß die andren Waren sich selbst in ihren Preisen auf Gold als ihre eigne Geldgestalt beziehn.
4. Die Waren gehn zunächst unvergoldet, unverzuckert, wie der Kamm ihnen gewachsen ist, in den Austauschprozeß ein. Er produziert eine Verdopplung der Ware in Ware und Geld, einen äußeren Gegensatz, worin sie ihren immanenten Gegensatz von Gebrauchswert und Wert darstellen. In diesem Gegensatz treten die Waren als Gebrauchswerte dem Geld als Tauschwert gegenüber. Andrerseits sind beide Seiten des Gegensatzes Waren, also Einheiten von Gebrauchswert und Wert. Aber diese Einheit von Unterschieden stellt sich auf jedem der beiden Pole umgekehrt dar und stellt dadurch zugleich deren Wechselbeziehung dar. Die Ware ist reell Gebrauchswert, ihr Wertsein erscheint nur ideell im Preis, der sie auf das gegenüberstehende Gold als ihre reelle Wertgestalt bezieht. Umgekehrt gilt das Goldmaterial nur als Wertmateriatur, Geld. Es ist reell daher Tauschwert. Sein Gebrauchswert erscheint nur noch ideell in der Reihe der relativen Wertausdrücke, worin es sich auf die gegenüberstehenden Waren als den Umkreis seiner reellen Gebrauchsgestalten bezieht. Diese gegensätzlichen Formen der Waren sind die wirklichen Bewegungsformen ihres Austauschprozesses.
5. Begleiten wir nun irgendeinen Warenbesitzer, unsren altbekannten Leinweber z.B., zur Szene des Austauschprozesses, dem Warenmarkt. <120> Seine Ware, 20 Ellen Leinwand, ist preisbestimmt. Ihr Preis ist 2 Pfd.St. Er tauscht sie aus gegen 2 Pfd.St. und, Mann von altem Schrot und Korn, tauscht die 2 Pfd.St. wieder aus gegen eine Familienbibel vom selben Preis. Die Leinwand, für ihn nur Ware, Wertträger, wird entäußert gegen Gold, ihre Wertgestalt, und aus dieser Gestalt rückveräußert gegen eine andre Ware, die Bibel, die aber als Gebrauchsgegenstand ins Weberhaus wandern und dort Erbauungsbedürfnisse befriedigen soll. Der Austauschprozeß der Ware vollzieht sich also in zwei entgegengesetzten und einander ergänzenden Metamorphosen - Verwandlung der Ware in Geld und ihre Rückverwandlung aus Geld in Ware.(65) Die Momente der Warenmetamorphose sind zugleich Händel des Warenbesitzers - Verkauf, Austausch der Ware mit Geld; Kauf, Austausch des Gelds mit Ware, und Einheit beider Akte: verkaufen, um zu kaufen.
6. Besieht sich der Leinweber nun das Endresultat des Handels, so besitzt er Bibel statt Leinwand, statt seiner ursprünglichen Ware eine andre vom selben Wert, aber verschiedner Nützlichkeit. In gleicher Weise eignet er sich seine andren Lebens- und Produktionsmittel an. Von seinem Standpunkt vermittelt der ganze Prozeß nur den Austausch seines Arbeitsprodukts mit fremdem Arbeitsprodukt, den Produktenaustausch.
7. Der Austauschprozeß der Ware vollzieht sich also in folgendem Formwechsel:
Ware - Geld - Ware.
W - G - W.
Nach ihrem stofflichen Inhalt ist die Bewegung W - W, Austausch von Ware gegen Ware, Stoffwechsel der gesellschaftlichen Arbeit, in dessen Resultat der Prozeß selbst erlischt.
8. W - G. Erste Metamorphose der Ware oder Verkauf. Das Überspringen des Warenwerts aus dem Warenleib in den Goldleib ist, wie ich es anderswo bezeichnet <Siehe Band 13, S. 71>, der Salto mortale der Ware. Mißlingt er, so ist zwar nicht die Ware geprellt, wohl aber der Warenbesitzer. Die gesellschaftliche Teilung der Arbeit macht seine Arbeit ebenso einseitig als seine Bedürfnisse vielseitig. Ebendeswegen dient ihm sein Produkt nur als Tauschwert. Allgemeine gesellschaftlich gültige Äquivalentform erhält es aber nur im Geld, <121> und das Geld befindet sich in fremder Tasche. Um es herauszusiehn, muß die Ware vor allem Gebrauchswert für den Geldbesitzer sein, die auf sie verausgabte Arbeit also in gesellschaftlich nützlicher Form verausgabt sein oder sich als Glied der gesellschaftlichen Teilung der Arbeit bewähren. Aber die Teilung der Arbeit ist ein naturwüchsiger Produktionsorganismus, dessen Fäden hinter dem Rücken der Warenproduzenten gewebt wurden und sich fortweben. Vielleicht ist die Ware Produkt einer neuen Arbeitsweise, die ein neu aufgekommenes Bedürfnis zu befriedigen vorgibt oder auf eigne Faust ein Bedürfnis erst hervorrufen will. Gestern noch eine Funktion unter den vielen Funktionen eines und desselben Warenproduzenten, reißt sich eine besondre Arbeitsverrichtung heute vielleicht los von diesem Zusammenhang, verselbständigt sich und schickt ebendeswegen ihr Teilprodukt als selbständige Ware zu Markt. Die Umstände mögen reif oder unreif sein für diesen Scheidungsprozeß. Das Produkt befriedigt heute ein gesellschaftliches Bedürfnis. Morgen wird es vielleicht ganz oder teilweise von einer ähnlichen Produktenart aus seinem Platze verdrängt. Ist auch die Arbeit, wie die unsres Leinwebers, patentiertes Glied der gesellschaftlichen Arbeitsteilung, so ist damit noch keineswegs der Gebrauchswert grade seiner 20 Ellen Leinwand garantiert. Wenn das gesellschaftliche Bedürfnis für Leinwand, und es hat sein Maß wie alles andre, bereits durch nebenbuhlerische Leinweber gesättigt ist, wird das Produkt unsres Freundes überschüssig, überflüssig und damit nutzlos. Einem geschenkten Gaul sieht man nicht ins Maul, aber er beschreitet nicht den Markt, um Präsente zu machen. Gesetzt aber, der Gebrauchswert seines Produkts bewähre sich und Geld werde daher angezogen von der Ware. Aber nun fragt sich's, wieviel Geld? Die Antwort ist allerdings schon antizipiert im Preis der Ware, dem Exponenten ihrer Wertgröße. Wir sehn ab von etwaigen rein subjektiven Rechenfehlern des Warenbesitzers, die auf dem Markt sofort objektiv korrigiert werden. Er soll auf sein Produkt nur den gesellschaftlich notwendigen Durchschnitt von Arbeitszeit verausgabt haben. Der Preis der Ware ist also nur Geldname des in ihr vergegenständlichten Quantums gesellschaftlicher Arbeit. Aber ohne Erlaubnis und hinter dem Rücken unsres Leinwebers gerieten die altverbürgten Produktionsbedingungen der Leinweberei in Gärung. Was gestern zweifelsohne gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit zur Produktion einer Elle Leinwand war, hört heute auf, es zu sein, wie der Geldbesitzer eifrigst demonstriert aus den Preisquotationen verschiedner Nebenbuhler unsres Freundes. Zu seinem Unglück gibt's viele Weber auf der Welt. Gesetzt endlich, jedes auf dem Markt vorhandne Stück Leinwand enthalte nur gesellschaftlich notwendige <122> Arbeitszeit. Trotzdem kann die Gesamtsumme dieser Stücke überflüssig verausgabte Arbeitszeit enthalten. Vermag der Marktmagen das Gesamtquantum Leinwand, zum Normalpreis von 2 sh. per Elle, nicht zu absorbieren, so beweist das, daß ein zu großer Teil der gesellschaftlichen Gesamtarbeitszeit in der Form der Leinweberei verausgabt wurde. Die Wirkung ist dieselbe, als hätte jeder einzelne Leinweber mehr als die gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit auf sein individuelles Produkt verwandt. Hier heißt's: Mitgefangen, mitgehangen. Alle Leinwand auf dem Markt gilt nur als ein Handelsartikel, jedes Stück nur als aliquoter Teil. Und in der Tat ist der Wert jeder individuellen Elle ja auch nur die Materiatur desselben gesellschaftlich bestimmten Quantums gleichartiger menschlicher Arbeit. <In einem Brief vom 28. November 1878 an N. F. Danielson, den russischen Übersetzer des "Kapitals", ändert Marx den letzten Satz wie folgt: "Und in der Tat ist der Wert jeder individuellen Elle ja auch nur die Materiatur eines Teils des im Gesamtquantum der Ellen verausgabten gesellschaftlichen Arbeitsquantums." Die gleichen Korrektur befindet sich auch in Marx' persönlichem Exemplar der zweiten deutschen Ausgabe des 1. Bandes des "Kapitals", jedoch nicht von seiner Hand.>
9. Man sieht, die Ware liebt das Geld, aber "the course of true love never does run smooth" <"der Weg wahrer Liebe ist niemals eben">. Ebenso naturwüchsig zufällig wie die qualitative ist die quantitative Gliederung des gesellschaftlichen Produktionsorganismus, der seine membra disjecta im System der Teilung der Arbeit darstellt. Unsre Warenbesitzer entdecken daher, daß dieselbe Teilung der Arbeit, die sie zu unabhängigen Privatproduzenten, den gesellschaftlichen Produktionsprozeß und ihre Verhältnisse in diesem Prozeß von ihnen selbst unabhängig macht, daß die Unabhängigkeit der Personen voneinander sich in einem System allseitiger sachlicher Abhängigkeit ergänzt.
10. Die Teilung de Arbeit verwandelt das Arbeitsprodukt in Ware und macht dadurch seine Verwandlung in Geld notwendig. Sie macht es zugleich zufällig, ob diese Transsubstantiation gelingt. Hier ist jedoch das Phänomen rein zu betrachten, sein normaler Vorgang also vorauszusetzen. Wenn es übrigens überhaupt vorgeht, die Ware also nicht unverkäuflich ist, findet stets ihr Formwechsel statt, obgleich abnormal in diesem Formwechsel Substanz - Wertgröße - eingebüßt oder zugesetzt werden mag.
11. Dem einen Warenbesitzer ersetzt Gold seine Ware und dem andren Ware sein Gold. Das sinnfällige Phänomen ist der Hände- oder Stellenwechsel von Ware und Gold, von 20 Ellen Leinwand und 2 Pfd.St., d.h. ihr Austausch. Aber womit tauscht sich die Ware aus? Mit ihrer eignen allgemeinen Wertgestalt. Und womit das Gold? Mit einer besondren Gestalt <123> seines Gebrauchswerts. Warum tritt Gold der Leinwand als Geld gegenüber? Weil ihr Preis von 2 Pfd.St. oder ihr Geldname sie bereits auf Gold als Geld bezieht. Die Entäußerung der ursprünglichen Warenform vollzieht sich durch die Veräußerung der Ware, d.h. in dem Augenblicke, wo ihr Gebrauchswert das in ihrem Preis nur vorgestellte Gold wirklich anzieht. Die Realisierung des Preises oder der nur ideellen Wertform der Ware ist daher zugleich umgekehrt Realisierung des nur ideellen Gebrauchswerts des Geldes, die Verwandlung von Ware in Geld zugleich Verwandlung von Geld in Ware. Der eine Prozeß ist zweiseitiger Prozeß, vom Pol des Warenbesitzers Verkauf, vom Gegenpol des Geldbesitzers Kauf. Oder Verkauf ist Kauf, W - G zugleich G - W.(66)
12. Wir kennen bisher kein ökonomisches Verhältnis der Menschen außer dem von Warenbesitzern, ein Verhältnis, worin sie fremdes Arbeitsprodukt nur aneignen, indem sie eignes entfremden. Einem Warenbesitzer kann der andre daher nur als Geldbesitzer gegenübertreten, entweder weil sein Arbeitsprodukt von Natur die Geldform besitzt, also Geldmaterial ist, Gold usw., oder weil seine eigne Ware sich bereits gehäutet und ihre ursprüngliche Gebrauchsform abgestreift hat. Um als Geld zu funktionieren, muß das Gold natürlich an irgendeinem Punkt in den Warenmarkt eintreten. Dieser Punkt liegt an seiner Produktionsquelle, wo es sich als unmittelbares Arbeitsprodukt mit andrem Arbeitsprodukt von demselben Wert austauscht. Aber von diesem Augenblick stellt es beständig realisierte Warenpreise vor.(67) Abgesehn vom Austausch des Golds mit Ware an seiner Produktionsquelle, ist das Gold in der Hand jedes Warenbesitzers die entäußerte Gestalt seiner veräußerten Ware, Produkt des Verkaufs oder der ersten Warenmetamorphose W -G.(68) Ideelles Geld oder Wertmaß wurde das Gold, weil alle Waren ihre Werte in ihm maßen und es so zum vorgestellten Gegenteil ihre Gebrauchsgestalt, zu ihrer Wertgestalt machten. Reelles Geld wird es, weil die Waren durch ihre allseitige Veräußerung es zu ihrer wirklich entäußerten oder verwandelten Gebrauchsgestalt und daher zu ihrer wirklichen Wertgestalt machen. In ihrer Wertgestalt streift die Ware jede Spur ihres naturwüchsigen Gebrauchswerts und der <124> besondren nützlichen Arbeit ab, welcher sie den Ursprung verdankt, um sich in die gleichförmige gesellschaftliche Materiatur unterschiedsloser menschlicher Arbeit zu verpuppen. Man sieht dem Geld daher nicht an, welchen Schlags die in es verwandelte Ware. Eine sieht in ihrer Geldform grade aus wie die andre. Geld mag daher Dreck sein, obgleich Dreck nicht Geld ist. Wir wollen annehmen, daß die zwei Goldfüchse, wogegen unser Leinweber seine Ware veräußert, die verwandelte Gestalt eines Quarters Weizen sind. Der Verkauf der Leinwand, W - G, ist zugleich ihr Kauf, G - W. Aber als Verkauf der Leinwand beginnt dieser Prozeß eine Bewegung, die mit seinem Gegenteil endet, mit dem Kauf der Bibel; als Kauf der Leinwand endet er eine Bewegung, die mit seinem Gegenteil begann, mit dem Verkauf des Weizens. W - G (Leinwand - Geld), diese erste Phase von W - G - W (Leinwand - Geld - Bibel), ist zugleich G - W (Geld - Leinwand), die letzte Phase einer andren Bewegung W - G - W (Weizen - Geld - Leinwand). Die erste Metamorphose einer Ware, ihre Verwandlung aus der Warenform in Geld, ist stets zugleich zweite entgegengesetzte Metamorphose einer andren Ware, ihre Rückverwandlung aus der Geldform in Ware.(69)
13. G - W. Zweite oder Schlußmetamorphose der Ware: Kauf. - Weil die entäußerte Gestalt aller andren Waren oder das Produkt ihrer allgemeinen Veräußerung, ist Geld die absolut veräußerliche Ware. Es liest alle Preise rückwärts und spiegelt sich so in allen Warenleibern als dem hingebenden Material seiner eignen Warenwerdung. Zugleich zeigen die Preise, die Liebesaugen, womit ihm die Waren winken, die Schranke seiner Verwandlungsfähigkeit, nämlich seine eigne Quantität. Da die Ware in ihrer Geldwerdung verschwindet, sieht man dem Geld nicht an, wie es in die Hände seines Besitzers gelangt oder was in es verwandelt ist. Non olet <Es stinkt nicht>, wessen Ursprungs auch immer. Wenn es einerseits verkaufte Ware repräsentiert, so andrerseits kaufbare Ware.(70)
14. G - W, der Kauf ist zugleich Verkauf, W - G; die letzte Metamorphose einer Ware daher zugleich die erste Metamorphose einer andren Ware. Für unsren Leinweber schließt der Lebenslauf seiner Ware mit der Bibel, worin er die 2 Pfd.St. rückverwandelt hat. Aber der Bibelverkäufer setzt die vom <125> Leinweber gelösten 2 Pfd.St. in Kornbranntwein um. G - W, die Schlußphase von W - G - W (Leinwand - Geld - Bibel), ist zugleich W - G, die erste Phase von W - G - W (Bibel - Geld - Kornbranntwein). Da der Warenproduzent nur ein einseitiges Produkt liefert, verkauft er es oft in größeren Massen, während seine vielseitigen Bedürfnisse ihn zwinge, den realisierten Preis oder die gelöste Geldsumme beständig in zahlreiche Käufe zu zersplittern. Ein Verkauf mündet daher in viele Käufe verschiedner Waren. Die Schlußmetamorphose einer Ware bildet so eine Summe von ersten Metamorphosen andrer Waren.
15. Betrachten wir nun die Gesamtmetamorphose einer Ware, z.B. der Leinwand, so sehn wir zunächst, daß sie aus zwei entgegengesetzten und einander ergänzenden Bewegungen besteht, W - G und G - W. Diese zwei entgegengesetzten Wandlungen der Ware vollziehn sich in zwei entgegengesetzten gesellschaftlichen Prozessen des Warenbesitzers und reflektieren sich in zwei entgegengesetzten ökonomischen Charakteren desselben. Als Agent des Verkaufs wird er Verkäufer, als Agent des Kaufs Käufer. Wie aber in jeder Wandlung der Ware ihre beiden Formen, Warenform und Geldform, gleichzeitig existieren, nur auf entgegengesetzten Polen, so steht demselben Warenbesitzer als Verkäufer ein andrer Käufer und als Käufer ein andrer Verkäufer gegenüber. Wie dieselbe Ware die zwei umgekehrten Wandlungen sukzessiv durchläuft, aus Ware Geld und aus Geld Ware wird, so wechselt derselbe Warenbesitzer die Rollen von Verkäufer und Käufer. Es sind dies also keine festen, sondern innerhalb der Warenzirkulation beständig die Personen wechselnden Charaktere.
16. Die Gesamtmetamorphose einer Ware unterstellt, in ihrer einfachsten Form, vier Extreme und drei personae dramatis <handelnde Personen>. Erst tritt der Ware das Geld als ihre Wert-Gestalt gegenüber, die jenseits, in fremder Tasche, sachlich harte Realität besitzt. So tritt dem Warenbesitzer ein Geldbesitzer gegenüber. Sobald die Ware nun in Geld verwandelt, wird letztres zu ihrer verschwindenden Äquivalentform, deren Gebrauchswert oder Inhalt diesseits in andren Warenkörpern existiert. Als Endpunkt der ersten Warenwandlung ist das Geld zugleich Ausgangspunkt der zweiten. So wird der Verkäufer des ersten Akts Käufer im zweiten, wo ihm ein dritter Warenbesitzer als Verkäufer gegenübertritt.(71)
17. <126> Die beiden umgekehrten Bewegungsphasen der Warenmetamorphose bilden einen Kreislauf: Warenform, Abstreifung der Warenform, Rückkehr zur Warenform. Allerdings ist die Ware selbst hier gegensätzlich bestimmt. Am Ausgangspunkt ist sie Nicht-Gebrauchswert, am Endpunkt Gebrauchswert für ihren Besitzer. So erscheint das Geld erst als der feste Wertkristall, worin sich die Ware verwandelt, um hinterher als ihre bloße Äquivalentform zu zerrinnen.
Die zwei Metamorphosen, die den Kreislauf einer Ware, bilden zugleich die umgekehrten Teilmetamorphosen zweier andren Waren. Dieselbe Ware (Leinwand) eröffnet die Reihe ihrer eignen Metamorphosen und schließt die Gesamtmetamorphose einer andren Ware (des Weizens). Während ihrer ersten Wandlung, dem Verkauf, spielt sie diese zwei Rollen in eigner Person. Als Goldchrysalide dagegen, worin sie selbst den Weg alles Fleisches wandert, endet sie zugleich die erste Metamorphose einer dritten Ware. Der Kreislauf, den die Metamorphosenreihe jeder Ware beschreibt, verschlingt sich also unentwirrbar mit den Kreisläufen andrer Waren. Der Gesamtprozeß stellt sich dar als Warenzirkulation.
18. Die Warenzirkulation ist nicht nur formell, sondern wesentlich vom unmittelbaren Produktenaustausch unterschieden. Man werfe nur einen Rückblick auf den Vorgang. Der Leinweber hat unbedingt Leinwand mit Bibel vertauscht, eigne Ware mit fremder. Aber dies Phänomen ist nur wahr für ihn. Der Bibelagent, der dem Kühlen Heißes vorzieht, dachte nicht daran, Leinwand für Bibel einzutauschen, wie der Leinweber nicht davon weiß, daß Weizen gegen seine Leinwand eingetauscht worden ist usw. Die Ware des B ersetzt die Ware des A, aber A und B tauschen nicht wechselseitig ihre Waren aus. Es kann in der Tat vorkommen, daß A und B wechselweis voneinander kaufen, aber solche besondre Beziehung ist keineswegs durch die allgemeinen Verhältnisse der Warenzirkulation bedingt. Einerseits sieht man hier, wie der Warenaustausch die individuellen und lokalen Schranken des unmittelbaren Produktenaustausches durchbricht und den Stoffwechsel der menschlichen Arbeit entwickelt. Andrerseits entwickelt sich ein ganzer Kreis von den handelnden Personen unkontrollierbarer, gesellschaftlicher Naturzusammenhänge. Der Weber kann nur Leinwand verkaufen, weil der Bauer Weizen, Heißsporn nur die Bibel, weil der Weber Leinwand, der Destillateur nur gebranntes Wasser, weil der andre das Wasser des ewigen Lebens bereits verkauft hat usw.
19. Der Zirkulationsprozeß erlischt deswegen auch nicht, wie der unmittelbare Produktenaustausch, in dem Stellen- oder Händewechsel der Gebrauchswerte. Das Geld verschwindet nicht, weil es schließlich aus der <127> Metamorphosenreihe einer Ware herausfällt. Es schlägt immer nieder auf eine durch die Waren geräumte Zirkulationsstelle. Z.B. in der Gesamtmetamorphose der Leinwand: Leinwand - Geld - Bibel fällt erst die Leinwand aus der Zirkulation, Geld tritt an ihre Stelle, fällt dann die Bibel aus der Zirkulation, Geld tritt an ihre Stelle. Der Ersatz von Ware durch Ware läßt zugleich an dritter Hand die Geldware hängen.(72) Die Zirkulation schwitzt beständig Geld aus.
20. Nichts kann alberner sein als das Dogma, die Warenzirkulation bedinge ein notwendiges Gleichgewicht der Verkäufe und Käufe, weil jeder Verkauf Kauf und vice versa <umgekehrt>. Meint dies, daß die Zahl der wirklich vollzogenen Verkäufe gleich derselben Zahl von Käufen, so ist es platte Tautologie. Aber es soll beweisen, daß der Verkäufer seinen eignen Käufer zu Markt führt. Verkauf und Kauf sind ein identischer Akt als Wechselbeziehung zwischen zwei polarisch entgegengesetzten Personen, dem Warenbesitzer und dem Geldbesitzer. Sie bilden zwei polarisch entgegengesetzte Akte als Handlungen derselben Person. Die Identität von Verkauf und Kauf schließt daher ein, daß die Ware nutzlos wird, wenn sie, in die alchimistische Retorte der Zirkulation geworfen, nicht als Geld herauskommt, nicht vom Warenbesitzer verkauft, also vom Geldbesitzer gekauft wird. Jene Identität enthält ferner, daß der Prozeß, wenn er gelingt, einen Ruhepunkt, einen Lebensabschnitt der Ware bildet, der länger oder kürzer währen kann. Da die erste Metamorphose der Ware zugleich Verkauf und Kauf, ist dieser Teilprozeß zugleich selbständiger Prozeß. Der Käufer hat die Ware, der Verkäufer hat das Geld, d.h. eine Ware, die zirkulationsfähige Form bewahrt, ob sie früher oder später wieder auf dem Markt erscheine. Keiner kann verkaufen, ohne daß ein andrer kauft. Aber keiner braucht unmittelbar zu kaufen, weil er selbst verkauft hat. Die Zirkulation sprengt die zeitlichen, örtlichen und individuellen Schranken des Produktenaustausches ebendadurch, daß sie die hier vorhandne unmittelbare Identität zwischen dem Austausch des eignen und dem Eintausch des fremden Arbeitsprodukts in den Gegensatz von Verkauf und Kauf spaltet. Daß die selbständig einander gegenübertretenden Prozesse eine innere Einheit bilden, heißt ebensosehr, daß ihre innere Einheit sich in äußeren Gegensätzen bewegt. Geht die äußerliche Verselbständigung der innerlich Unselbständigen, weil einander <128> ergänzenden, bis zu einem gewissen Punkt fort, so macht sich die Einheit gewaltsam geltend durch eine - Krise. Der der Ware immanente Gegensatz von Gebrauchswert und Wert, von Privatarbeit, die sich zugleich als unmittelbar gesellschaftliche Arbeit darstellen muß, von besondrer konkreter Arbeit, die zugleich nur als abstrakt allgemeine Arbeit gilt, von Personifizierung der Sache und Versachlichung der Personen - dieser immanente Widerspruch erhält in den Gegensätzen der Warenmetamorphose seine entwickelten Bewegungsformen. Diese Formen schließen daher die Möglichkeit, aber auch nur die Möglichkeit der Krisen ein. Die Endwicklung dieser Möglichkeit zur Wirklichkeit erfordert einen ganzen Umkreis von Verhältnissen, die vom Standpunkt der einfachen Warenzirkulation noch gar nicht existieren.(73)
21. Als Vermittler der Warenzirkulation erhält das Geld die Funktion des Zirkulationsmittels.

b) Der Umlauf des Geldes
1. Der Formwechsel, worin sich der Stoffwechsel der Arbeitsprodukte vollzieht, W - G - W, bedingt, daß derselbe Wert als Ware den Ausgangspunkt des Prozesses bildet und zu demselben Punkt zurückkehrt als Ware. Diese Bewegung der Waren ist daher Kreislauf. Andrerseits schließt dieselbe Form den Kreislauf des Geldes aus. Ihr Resultat ist beständige Entfernung des Geldes von seinem Ausgangspunkt, nicht Rückkehr zu demselben. So- <129> lange der Verkäufer die verwandelte Gestalt seiner Ware festhält, das Geld, befindet sich die Ware im Stadium der ersten Metamorphose oder hat nur ihre erste Zirkulationshälfte zurückgelegt. Ist der Prozeß, verkaufen um zu kaufen, vervollständigt, so ist auch das Geld wieder aus der Hand seines ursprünglichen Besitzers entfernt. Allerdings, wenn der Leinweber, nachdem er die Bibel gekauft, von neuem Leinwand verkauft, kehrt auch das Geld in seine Hand zurück. Aber es kehrt nicht zurück durch die Zirkulation der ersten 20 Ellen Leinwand, wodurch es vielmehr aus den Händen des Leinwebers in die des Bibelverkäufers entfernt ist. Es kehrt nur zurück durch die Erneuerung oder Wiederholung desselben Zirkulationsprozesses für neue Ware und endet hier wie dort mit demselben Resultat. Die dem Geld durch die Warenzirkulation unmittelbar erteilte Bewegungsform ist daher seine beständige Entfernung vom Ausgangspunkt, sein Lauf aus der Hand eines Warenbesitzers in die eines andren, oder sein Umlauf (currency, cours de la monnaie).
Der Umlauf des Geldes zeigt beständige, eintönige Wiederholung desselben Prozesses. Die Ware steht stets auf Seite des Verkäufers, das Geld stets auf Seite des Käufers, als Kaufmittel. Es funktioniert als Kaufmittel, indem es den Preis der Ware realisiert. Indem es ihn realisiert, überträgt es die Ware aus der Hand des Verkäufers, während es sich gleichzeitig aus der Hand des Käufers in die des Verkäufers entfernt, um denselben Prozeß mit einer andren Ware zu wiederholen. Daß diese einseitige Form der Geldbewegung aus der doppelseitigen Formbewegung der Ware entspringt, ist verhüllt. Die Natur der Warenzirkulation selbst erzeugt den entgegengesetzten Schein. Die erste Metamorphose der Ware ist nicht nur als Bewegung des Geldes, sondern als ihre eigne Bewegung sichtbar, aber ihre zweite Metamorphose ist nur als Bewegung des Geldes sichtbar. In ihrer ersten Zirkulationshälfte wechselt die Ware den Platz mit dem Geld. Damit fällt zugleich ihre Gebrauchsgestalt der Zirkulation heraus, in die Konsumtion.(74) Ihre Wertgestalt oder Geldlarve tritt an ihre Stelle. Die zweite Zirkulationshälfte durchläuft sie nicht mehr in ihrer eignen Naturalhaut, sondern in ihrer Goldhaut. Die Kontinuität der Bewegung fällt damit ganz auf die Seite des Geldes und dieselbe Bewegung, die für die Ware zwei entgegengesetzte Prozesse einschließt, schließt als eigne Bewegung des Geldes stets denselben Prozeß ein, seinen Stellenwechsel mit <130> stets andrer Ware. Das Resultat der Warenzirkulation, Ersatz von Ware durch andre Ware, erscheint nicht durch ihren eignen Formwechsel vermittelt, sondern durch die Funktion des Geldes als Zirkulationsmittel, welches die an und für sich bewegungslosen Waren zirkuliert, sie aus der Hand, worin sie Nicht-Gebrauchswerte, in die Hand überträgt, worin sie Gebrauchswerte, stets in entgegengesetzter Richtung zu seinem eignen Lauf. Es entfernt die Waren beständig aus der Zirkulationssphäre, indem es beständig an ihre Zirkulationsstelle tritt und sich damit von seinem eignen Ausgangspunkt entfernt. Obgleich daher die Geldbewegung nur Ausdruck der Warenzirkulation, erscheint umgekehrt die Warenzirkulation nur als Resultat der Geldbewegung.(75)
Andrerseits kommt dem Geld nur die Funktion des Zirkulationsmittels zu, weil es der verselbständigte Wert der Waren ist. Seine Bewegung als Zirkulationsmittel ist daher in der Tat nur ihre eigne Formbewegung. Diese muß sich daher auch sinnlich im Umlauf des Geldes widerspiegeln. So verwandelt z.B. die Leinwand zuerst ihre Warenform in ihre Geldform. Das letzte Extrem ihrer ersten Metamorphose W - G, die Geldform, wird dann das erste Extrem ihrer letzten Metamorphose G - W, ihrer Rückverwandlung in die Bibel. Aber jeder dieser zwei Formwechsel vollzieht sich durch einen Austausch zwischen Ware und Geld, durch ihren gegenseitigen Stellenwechsel. Dieselben Geldstücke kommen als entäußerte Gestalt der Ware in die Hand des Verkäufers und verlassen sie als absolut veräußerliche Gestalt der Ware. Sie wechseln zweimal die Stelle. Die erste Metamorphose der Leinwand bringt diese Geldstücke in die Tasche des Webers, die zweite holt sie wieder heraus. Die beiden entgegengesetzten Formwechsel derselben Ware spiegeln sich also wider im zweimaligen Stellenwechsel des Geldes in entgegengesetzter Richtung.
Finden dagegen nur einseitige Warenmetamorphosen statt, bloße Verkäufe oder bloße Käufe, wie man will, so wechselt dasselbe Geld auch nur einmal den Platz. Sein zweiter Stellenwechsel drückt stets die zweite Metamorphose der Ware aus, ihre Rückverwandlung aus Geld. In der häufigen Wiederholung des Stellenwechsels Geldstücke spiegelt sich wider nicht nur die Metamorphosenreihe einer einzigen Ware, sondern auch die Verschlingung der zahllosen Metamorphosen der Warenwelt überhaupt. Es versteht sich übrigens ganz von selbst, daß alles dies nur für die hier betrachtete Form der einfachen Warenzirkulation gilt.
<131> Jede Ware, bei ihrem ersten Schritt in die Zirkulation, bei ihrem ersten Formwechsel, fällt aus der Zirkulation heraus, in welche stets neue Ware eintritt. Das Geld dagegen als Zirkulationsmittel haust beständig in der Zirkulationssphäre und treibt sich beständig in ihr um. Es entsteht also die Frage, wieviel Geld diese Sphäre beständig absorbiert.
In einem Lande gehn jeden Tag zahlreiche, gleichzeitige und daher räumlich nebeneinander laufende einseitige Warenmetamorphosen vor, oder in andren Worten, bloße Verkäufe von der einen Seite, bloße Käufe von der andren. In ihren Preisen sind die Waren bereits bestimmten vorgestellten Geldquantis gleichgesetzt. Da nun die hier betrachtete, unmittelbare Zirkulationsform Ware und Geld einander stets leiblich gegenüberstellt, die eine auf den Pol des Verkaufs, das andre auf den Gegenpol des Kaufs, ist die für den Zirkulationsprozeß der Warenwelt erheischte Masse von Zirkulationsmitteln bereits durch die Preissumme der Waren bestimmt. In der Tat stellt das Geld nur reell die in der Preissumme der Waren bereits ideell ausgedrückte Goldsumme dar. Die Gleichheit dieser Summen versteht sich daher von selbst. Wir wissen jedoch, daß bei gleichbleibenden Werten der Waren ihre Preise mit dem Werte des Goldes (des Geldmaterials) selbst wechseln, verhältnismäßig steigen, wenn er fällt, und fallen, wenn er steigt. Ob die Preissumme der Waren so steige oder falle, die Masse des zirkulierenden Geldes muß gleichmäßig steigen oder fallen. Der Wechsel in der Masse der Zirkulationsmittel entspringt hier allerdings aus dem Geld selbst, aber nicht aus seiner Funktion als Zirkulationsmittel, sondern aus seiner Funktion als Wertmaß. Der Preis der Waren wechselt erst umgekehrt wie der Wert des Geldes, und dann wechselt die Masse der Zirkulationsmittel direkt wie der Preis der Waren. Ganz dasselbe Phänomen würde sich ereignen, wenn z.B. nicht der Wert des Goldes sänke, sondern Silber es als Wertmaß ersetzte, oder nicht der Wert des Silbers stiege, sondern Gold es aus der Funktion des Wertmaßes verdrängte. In dem einen Fall müßte mehr Silber zirkulieren als vorher Gold, in dem andren weniger Gold als vorher Silber. In beiden Fällen hätte sich der Wert des Geldmaterials verändert, d.h. der Ware, die als Maß der Werte funktioniert, daher der Preisausdruck der Warenwerte, daher die Masse des zirkulierenden Geldes, das zur Realisierung dieser Preise dient. Man hat gesehn, daß die Zirkulationssphäre der Waren ein Loch hat, wodurch Gold (Silber, kurz das Geldmaterial) in sie eintritt als Ware von gegebnem Wert. Dieser Wert ist vorausgesetzt bei der Funktion des Geldes als Wertmaß, also bei der Preisbestimmung. Sinkt nun z.B. der Wert des Wertmaßes selbst, so erscheint dies zunächst im Preiswechsel der Waren, die unmittelbar an den Produk- <132> tionsquellen der edlen Metalle mit ihnen als Waren ausgetauscht werden. Namentlich in minder entwickelten Zuständen der bürgerlichen Gesellschaft wird ein großer Teil der andren Waren noch längere Zeit in dem nun illusorisch gewordnen, veralteten Wert des Wertmaßes geschätzt werden. Indes steckt die eine Ware die andre an durch ihr Wertverhältnis zu derselben, die Gold- oder Silberpreise der Waren gleichen sich allmählich aus in den durch ihre Werte selbst bestimmten Proportionen, bis schließlich alle Warenwerte dem neuen Wert des Geldmetalles entsprechend geschätzt werden. Dieser Ausgleichungsprozeß ist begleitet von dem fortwährenden Wachstum der edlen Metalle, welche im Ersatz für die direkt mit ihnen ausgetauschten Waren einströmen. In demselben Maß daher, worin die berichtigte Preisgebung der Waren sich verallgemeinert, oder ihre Werte dem neuen, gesunkenen und bis zu einem gewissen Punkt fortsinkenden Wert des Metalls gemäß geschätzt werden, ist auch bereits seine zu ihrer Realisierung notwendige Mehrmasse vorhanden. Einseitige Beobachtung der Tatsachen, welche der Entdeckung der neuen Gold- und Silberquellen folgten, verleitete im 17. und namentlich im 18. Jahrhundert zum Trugschluß, die Warenpreise seien gestiegen, weil mehr Gold und Silber als Zirkulationsmittel funktionierten. Im folgenden wird der Wert des Goldes als gegeben vorausgesetzt, wie er in der Tat im Augenblick der Preisschätzung gegeben ist.
Unter dieser Voraussetzung also ist die Masse der Zirkulationsmittel durch die zu realisierende Preissumme der Waren bestimmt. Setzen wir nun ferner den Preis jeder Warenart als gegeben voraus, so hängt die Preissumme der Waren offenbar von der in Zirkulation befindlichen Warenmasse ab. Es gehört wenig Kopfbrechens dazu, um zu begreifen, daß, wenn 1 Quarter Weizen 2 Pfd.St., 100 Quarter 200 Pfd.St., 200 Quarter 400 Pfd.St. usw. kosten, mit der Masse des Weizens daher die Geldmasse wachsen muß, die beim Verkauf den Platz mit ihm wechselt.
Der Warenmasse als gegeben vorausgesetzt, flutet die Masse des zirkulierenden Geldes auf und ab mit den Preisschwankungen der Waren. Sie steigt und fällt, weil die Preissumme der Waren infolge ihres Preiswechsels zu- oder abnimmt. Dazu ist keineswegs nötig, daß die Preise aller Waren gleichzeitig steigen oder fallen. Die Preissteigerung einer gewissen Anzahl leitender Artikel in dem einen oder ihre Preissenkung in dem andren Fall reicht hin, um die zu realisierende Preissumme aller zirkulierenden Waren zu erhöhn oder zu senken, also auch mehr oder weniger Geld in Zirkulation zu setzen. Ob der Preiswechsel der Waren wirkliche Wertwechsel wider spiegelt oder bloße Schwankungen der Marktpreise, die Wirkung auf die Masse der Zirkulationsmittel bleibt dieselbe.
<133> Es sei gegeben eine Anzahl zusammenhangsloser, gleichzeitiger und daher räumlich nebeneinander laufender Verkäufe oder Teilmetamorphosen, z.B. von 1 Quarter Weizen, 20 Ellen Leinwand, 1 Bibel, 4 Gallons Kornbranntwein. Wenn der Preis jedes Artikels 2 Pfd.St., die zu realisierende Preissumme daher 8 Pfd.St., so muß eine Geldmasse von 8 Pfd.St. in die Zirkulation eingehn. Bilden dieselben Waren dagegen Glieder der uns bekannten Matamorphosenreihe: 1 Quarter Weizen - 2 Pfd.St. - 20 Ellen Leinwand - 2 Pfd.St. - 1 Bibel - 2 Pfd.St. - 4 Gallons Kornbranntwein - 2 Pfd.St., so machen 2 Pfd.St. die verschiednen Waren der Reihe nach zirkulieren, indem sie deren Preise der Reihe nach, also auch die Preissumme von 8 Pfd.St., realisieren, um schließlich in der Hand des Destillateurs auszuruhn. Sie vollbringen vier Umläufe. Dieser wiederholte Stellenwechsel derselben Geldstücke stellt den doppelten Formwechsel der Ware dar, ihre Bewegung durch zwei entgegengesetzte Zirkulationsstadien und die Verschlingung der Metamorphosen verschiedner Waren.(76) Die gegensätzlichen und einander ergänzenden Phasen, wodurch dieser Prozeß verläuft, können nicht räumlich nebeneinander fallen, sondern nur zeitlich aufeinander folgen. Zeitabschnitte bilden daher das Maß seiner Dauer, oder die Anzahl der Umläufe derselben Geldstücke in gegebner Zeit mißt die Geschwindigkeit des Geldumlaufs. Der Zirkulationsprozeß jener vier Waren dauere z.B. einen Tag. So beträgt die zu realisierende Preissumme: 8 Pfd.St., die Anzahl der Umläufe derselben Geldstücke während des Tags: 4 und die Masse des zirkulierenden Geldes: 2 Pfd.St., oder für einen gegebnen Zeitabschnitt des Zirkulationsprozesses:
(Preissumme der Waren)/(Umlaufsanzahl gleichnamiger Geldstücke) = Masse des als Zirkulationsmittel funktionierenden Geldes. Dies Gesetz gilt allgemein. Der Zirkulationsprozeß eines Landes in einem gegebnen Zeitabschnitt umfaßt zwar einerseits viele zersplitterte, gleichzeitige und räumlich nebeneinander fallende Verkäufe (resp. Käufe) oder Teilmetamorphosen, worin dieselben Geldstücke nur einmal die Stelle wechseln oder nur einen Umlauf vollziehn, andrerseits viele teils nebeneinander herlaufende, teils sich ineinander verschlingende mehr oder minder gliederreiche Metamorphosenreihen, worin dieselben Geldstücke mehr oder minder zahlreiche Umläufe zurücklegen. Die Gesamtzahl der Umläufe aller in Zirkulation befindlichen gleichnamigen <134> Geldstücke ergibt jedoch die Durchschnittsanzahl der Umläufe des einzelnen Geldstücks oder die Durchschnittsgeschwindigkeit des Geldumlaufs. Die Geldmasse, die bei Beginn z.B. des täglichen Zirkulationsprozesses in ihn hineingeworfen wird, ist natürlich bestimmt durch die Preissumme der gleichzeitig und räumlich nebeneinander zirkulierenden Waren. Aber innerhalb des Prozesses wird ein Geldstück sozusagen für das andre verantwortlich gemacht. Beschleunigt das eine seine Umlaufsgeschwindigkeit, so er lahmt die des andren, oder es fliegt ganz aus der Zirkulationssphäre heraus, da diese nur eine Goldmasse absorbieren kann, welche, multipliziert mit der mittlern Umlaufsanzahl ihres einzelnen Elements, gleich der zu realisierenden Preissumme ist. Wächst daher die Anzahl der Umläufe der Geldstücke, so nimmt ihre zirklierende Masse ab. Nimmt die Anzahl ihrer Umläufe ab, so wächst ihre Masse. Weil die Masse des Geldes, die als Zirkulationsmittel funktionieren kann, bei gegebner Durchschnittsgeschwindigkeit gegeben ist, hat man daher z.B. nur eine bestimmte Quantität von Ein-Pfund-Noten in die Zirkulation hineinzuwefen, um ebenso viele Sovereigns hinauszuwerfen, ein allen Banken wohlbekanntes Kunststück.
Wie im Geldumlauf überhaupt nur der Zirkulationsprozeß der Waren, d.h. ihr Kreislauf durch entgegengesetzte Metamorphosen erscheint, so in der Geschwindigkeit des Geldumlaufs die Geschwindigkeit ihres Formwechsels, das kontinuierliche Ineinandergreifen der Metamorphosenreihen, die Hast des Stoffwechsels, das rasche Verschwinden der Waren aus der Zirkulationssphäre und ihr ebenso rascher Ersatz durch neue Waren. In der Geschwindigkeit des Geldumlaufs erscheint also die flüssige Einheit der entgegengesetzten und sich ergänzenden Phasen, Verwandlung der Gebrauchsgestalt in Wertgestalt und Rückverwandlung der Wertgestalt in Gebrauchsgestalt, oder der beiden Prozesse des Verkaufs und Kaufs. Umgekehrt erscheint in der Verlangsamung des Geldumlaufs die Trennung und gegensätzliche Verselbständigung dieser Prozesse, die Stockung des Formwechsels und daher des Stoffwechsels. Woher diese Stockung entspringt, ist natürlich der Zirkulation selbst nicht anzusehn. Sie zeigt nur das Phänomen selbst. Der populären Anschauung, welche mit verlangsamtem Geldumlauf das Geld minder häufig auf allen Punkten der Zirkulationsperipherie erscheinen und verschwinden sieht, liegt es nah, das Phänomen aus mangelnder Quantität der Zirkulationsmittel zu deuten.(77)
<135> Das Gesamtquantum des in jedem Zeitabschnitt als Zirkulationsmittel funktionierenden Geldes ist also bestimmt einerseits durch die Preissumme der zirkulierenden Warenwelt, andrerseits durch den langsameren oder rascheren Fluß ihrer gegensätzlichen Zirkulationsprozesse, von dem es abhängt, der wievielte Teil jener Preissumme durch dieselben Geldstücke realisiert werden kann. Die Preissumme der Waren hängt aber ab sowohl von der Masse als den Preisen jeder Warenart. Die drei Faktoren: die Preisbewegung, die zirkulierende Warenmasse und endlich die Umlaufsgeschwindigkeit des Geldes, können aber in verschiedner Richtung und verschiednen Verhältnissen wechseln, die zu realisierende Preissumme, daher die durch sie bedingte Masse der Zirkulationsmittel, also sehr zahlreiche Kombinationen durchmachen. Wir zählen hier nur die in der Geschichte der Warenpreise wichtigsten auf.
Bei gleichbleibenden Warenpreisen kann die Masse der Zirkulationsmittel wachsen, weil die Masse der zirkulierenden Waren zunimmt oder die <136> Umlaufsgeschwindigkeit des Geldes abnimmt oder beides zusammenwirkt. Die Masse der Zirkulationsmittel kann umgekehrt abnehmen mit abnehmender Warenmasse oder zunehmender Zirkulationsgeschwindigkeit.
Bei allgemein steigenden Warenpreisen kann die Masse der Zirkulationsmittel gleichbleiben, wenn die Masse der zirkulierenden Waren in demselben Verhältnis abnimmt, worin ihr Preis zunimmt, oder die Umlaufsgeschwindigkeit des Geldes ebenso rasch zunimmt als die Preiserhöhung, während die zirkulierende Warenmasse konstant bleibt. Die Masse der Zirkulationsmittel kann fallen, weil die Warenmasse rascher ab- oder die Umlaufsgeschwindigkeit rascher zunimmt als die Preise.
Bei allgemein fallenden Warenpreisen kann die Masse der Zirkulationsmittel gleichbleiben, wenn die Warenmasse in demselben Verhältnis wächst, worin ihr Preis fällt, oder die Umlaufsgeschwindigkeit des Geldes in demselben Verhältnis abnimmt wie die Preise. Sie kann wachsen, wenn die Warenmasse rascher wächst oder die Zirkulationsgeschwindigkeit rascher abnimmt, als die Warenprise fallen.
Die Variationen der verschiednen Faktoren können sich wechselseitig kompensieren, so daß ihrer beständigen Unstätigkeit zum Trotzt die zu realisierende Gesamtsumme der Warenpreise konstant bleibt, also auch die zirkulierende Geldmasse. Man findet daher, namentlich bei Betrachtung etwas längerer Perioden, ein viel konstanteres Durchschnittsniveau der in jedem Lande zirkulierenden Geldmasse und, mit Ausnahme starker Perturbationen, die periodisch aus den Produktions- und Handelskrisen, seltner aus einem Wechsel im Geldwert selbst entspringen, viel geringere Abweichungen von diesem Durchschnittsniveau, als man nach dem Augenschein erwarten sollte.
Das Gesetz, daß die Quantität der Zirkulationsmittel bestimmt ist durch die Preissumme der zirkulierenden Waren und die Durchschnittsgeschwindigkeit des Geldumlaufs (78), kann auch so ausgedrückt werden, daß bei gegebner Wertsumme der Waren und gegebner Durchschnittsgeschwindig- <137> keit ihrer Metamorphosen, die Quantität des umlaufenden Geldes oder des Geldmaterials von seinem eignen Wert abhängt. Die Illusion, daß umgekehrt die Warenpreise durch die Masse der Zirkulationsmittel und letztre ihrerseits durch die Masse des in einem Lande befindlichen Geldmaterials bestimmt werden (79), wurzelt bei ihren ursprünglichen Vertretern in der ab- <138> geschmackten Hypothese, daß Waren ohne Preis und Geld ohne Wert in den Zirkulationsprozeß eingehn, wo sich dann ein aliquoter Teil des Warenbreis mit einem aliquoten Teil des Metallbergs austausche.(80)
c) Die Münze. Das Wertzeichen
Aus der Funktion des Geldes als Zirkulationsmittel entspringt seine Münzgestalt. Der in dem Preise oder Geldnamen der Waren vorgestellte Gewichtsteil Gold muß ihnen in der Zirkulation als gleichnamiges Goldstück oder Münze gegenübertreten. Wie die Feststellung des Maßstabs der Preise, fällt das Geschäft der Münzung dem Staat anheim. In den ver- <139> schiednen Nationaluniformen, die Gold und Silber als Münzen tragen, auf dem Weltmarkt aber wieder ausziehn, erscheint die Scheidung zwischen den innern oder nationalen Sphären der Warenzirkulation und ihrer allgemeinen Weltmarktssphäre.
Goldmünze und Barrengold unterscheiden sich also von Haus nur durch die Figur, und das Gold ist beständig aus einer Form in die andre verwandelbar.(81) Der Weg aus der Münze ist aber zugleich der Gang zum Schmelztiegel. Im Umlauf verschleißen nämlich die Goldmünzen, die eine mehr, die andre weniger. Goldtitel und Goldsubstanz, Nominalgehalt und Realgehalt beginnen ihren Scheidungsprozeß. Gleichnamige Goldmünzen werden von ungleichem Wert, weil verschiednem Gewicht. Das Gold als Zirkulationsmittel weicht ab vom Gold als Maßstab der Preise und hört damit auch auf, wirkliches Äquivalent der Waren zu sein, deren Preise es realisiert. Die Geschichte dieser Wirren bildet die Münzgeschichte des Mittelalters und der Neuzeit bis ins 18. Jahrhundert. Die naturwüchsige Tendenz des Zirkulationsprozesses, das Goldsein der Münze in Goldschein oder die Münze in ein Symbol ihres offiziellen Metallgehalts zu verwandeln, ist selbst anerkannt durch die modernsten Gesetze über den Grad des Metallverlustes, der ein Goldstück kursunfähig macht oder demonetisiert.
<140> Wenn der Geldumlauf selbst den Realgehalt vom Nominalgehalt der Münze scheidet, ihr Metalldasein von ihrem funktionellen Dasein, so enthält er die Möglichkeit latent, das Metallgeld in seiner Münzfunktion durch Marken aus andrem Material oder Symbole zu ersetzen. Die technischen Hindernisse der Münzung ganz diminutiver Gewichtsteile des Goldes resp. Silbers und der Umstand, daß niedrigere Metalle ursprünglich statt der edleren, Silber statt des Goldes, Kupfer statt des Silbers, zum Wertmaß dienen und daher als Geld zirkulieren im Augenblick, wo das edlere Metall sie entthront, erklären historisch die Rolle von Silber- und Kupfermarken als Substituten der Goldmünze. Sie ersetzen das Gold in den Kreisen der Warenzirkulation, worin die Münze am schnellsten zirkuliert und sich daher am schnellsten abnutzt, d.h., wo Käufe und Verkäufe unaufhörlich im kleinsten Maßstab erneuert werden. Um die Festsetzung dieser Trabanten an der Stelle des Goldes selbst zu verhindern, werden gesetzlich die sehr niedrigen Proportionen bestimmt, worin sie allein an Zahlungs Statt für Gold angenommen werden müssen. Die besondren Kreise, worin die verschiednen Münzsorten umlaufen, laufen natürlich ineinander. Die Scheidemünze erscheint neben dem Gold zur Zahlung von Bruchteilen der kleinsten Goldmünze; das Gold tritt beständig in die Detailzirkulation ein, wird aber durch Auswechslung mit Scheidemünze ebenso beständig herausgeworfen.(82)
Der Metallgehalt der Silber- oder Kupfermarken ist willkürlich durch das Gesetz bestimmt. Im Umlauf verschleißen sie noch rascher als die Goldmünze. Ihre Münzfunktion wird daher faktisch durchaus unabhängig von ihrem Gewicht, d.h. von allem Wert. Das Münzdasein des Goldes scheidet sich völlig von seiner Wertsubstanz. Relativ wertlose Dinge, Papierzettel, können also an seiner Statt als Münze funktionieren. In den metallischen Geldmarken ist der rein symbolische Charakter noch einiger- <141> maßen versteckt. Im Papiergeld tritt er augenscheinlich hervor. Man sieht: Ce n'est que le premier pas que coûte <Es kommt nur auf den ersten Schritt an>.
Es handelt sich hier nur von Staatspapiergeld mit Zwangskurs. Es wächst unmittelbar aus der metallischen Zirkulation heraus. Kreditgeld unterstellt dagegen Verhältnisse, die uns vom Standpunkt der einfachen Warenzirkulation noch durchaus unbekannt sind. Im Vorbeigehn sei jedoch bemerkt, daß, wie eigentliches Papiergeld aus der Funktion des Geldes als Zirkulationsmittel entspringt, das Kreditgeld in der Funktion des Geldes als Zahlungsmittel seine naturwüchsige Wurzel besitzt. (83)
Papierzettel, denen Geldnamen, wie 1 Pfd.St., 5 Pfd.St. usw. aufgedruckt sind, werden vom Staat äußerlich in den Zirkulationzprozeß hineingeworfen. Soweit sie wirklich an der Stelle der gleichnamigen Goldsumme zirkulieren, spiegeln sich in ihrer Bewegung nur die Gesetze des Geldumlaufs selbst wider. Ein spezifisches Gesetz der Papierzirkulation kann nur aus ihrem Repräsentationsverhältnis zum Gold entspringen. Und dies Gesetz ist einfach dies, daß die Ausgabe des Papiergelds auf die Quantität zu beschränken ist, worin das von ihm symbolisch dargestellte Gold (resp. Silber) wirklich zirkulieren müßte. Nun schwankt zwar das Goldquantum, welches die Zirkulationssphäre absorbieren kann, beständig über oder unter ein gewisses Durchschnittsniveau. Jedoch sinkt die Masse des zirkulierenden Mediums in einem gegebnen Land nie unter ein gewisses Minimum, das sich erfahrungsmäßig feststellt. Daß diese Minimalmasse fortwährend ihre Bestandteile wechselt, d.h. aus stets andren Goldstücken <142> besteht, ändert natürlich nichts an ihrem Umfang und ihrem konstanten Umtrieb in der Zirkulationssphäre. Sie kann daher durch Papiersymbole ersetzt werden. Werden dagegen heute alle Zirkulationskanäle zum vollen Grad ihrer Geldabsorptionsfähigkeit mit Papiergeld gefüllt, so können sie infolge der Schwankungen der Warenzirkulation morgen übervoll sein. Alles Maß geht verloren. Überschreitet aber das Papier sein Maß, d.h. die Quantität von Goldmünze gleicher Denomination, welche zirkulieren könnte, so stellt es, von der Gefahr allgemeiner Diskreditierung abgesehn, innerhalb der Warenwelt dennoch nur die durch ihre immanenten Gesetze bestimmte, also auch allein repräsentierbare Goldquantität vor. Stellt die Papierzettelmasse z.B. je 2 Unzen Gold statt je 1 Unze dar, so wird faktisch 1 Pfd.St. z.B. zum Geldnamen sage etwa von 1/8 Unze statt von 1/4 Unze. Die Wirkung ist dieselbe, als wäre das Gold in seiner Funktion als Maß der Preise verändert worden. Dieselben Werte, die sich daher vorher im Preise von 1 Pfd.St., drücken sich jetzt im Preise von 2 Pfd.St. aus.
Das Papiergeld ist Goldzeichen oder Geldzeichen. Sein Verhältnis zu den Warenwerten besteht nur darin, daß sie ideell in denselben Goldquantis ausgedrückt sind, welche vom Papier symbolisch sinnlich dargestellt werden. Nur sofern das Papiergeld Goldquanta repräsentiert, die, wie alle andren Warenquanta, auch Wertquanta, ist es Wertzeichen.(84)
Es fragt sich schließlich, warum das Gold durch bloße wertlose Zeichen seiner selbst ersetzt werden kann? Es ist aber, wie man gesehn, nur so ersetzbar, soweit es in seiner Funktion als Münze oder Zirkulationsmittel isoliert oder verselbständigt wird. Nun findet die Verselbständigung dieser Funktion zwar nicht für die einzelnen Goldmünzen statt, obgleich sie in dem Fortzirkulieren verschlissener Goldstücke erscheint. Bloße Münze <143> oder Zirkulationsmittel sind die Goldstücke grade nur, solang sie sich wirklich im Umlauf befinden. Was aber nicht für die einzelne Goldmünze, gilt für die vom Papiergeld ersetzbare Minimalmasse Gold. Sie haust beständig in der Zirkulationssphäre, funktioniert fortwährend als Zirkulationsmittel und existiert daher ausschließlich als Träger dieser Funktion. Ihre Bewegung stellt also nur das fortwährende Ineinanderumschlagen der entgegengesetzten Prozesse der Warenmetamorphose W - G - W dar, worin der Ware ihre Wertgestalt nur gegenübertritt, um sofort wieder zu verschwinden. Die selbständige Darstellung des Tauschwerts der Ware ist hier nur flüchtiges Moment. Sofort wird sie wieder durch andre Ware ersetzt. Daher genügt auch die bloß symbolische Existenz des Geldes in einem Prozeß, der es beständig aus einer Hand in die andre entfernt. Sein funktionelles Dasein absorbiert sozusagen sein materielles. Verschwindend objektivierter Reflex der Warenpreise, funktioniert es nur noch als Zeichen seiner selbst und kann daher auch durch Zeichen ersetzt werden.(85) Nur bedarf das Zeichen des Geldes seiner eignen objektiv gesellschaftlichen Gültigkeit, und diese erhält das Papiersymbol durch den Zwangskurs. Nur innerhalb der von den Grenzen eines Gemeinwesens umschriebnen oder innern Zirkulationssphäre gilt dieser Staatszwang, aber auch nur hier geht das Geld völlig auf in seine Funktion als Zirkulationsmittel oder Münze und kann daher im Papiergeld eine von seiner Metallsubstanz äußerlich getrennte und bloß funktionelle Existenzweise erhalten.
3. Geld
Die Ware, welche als Wertmaß und daher auch, leiblich oder durch Stellvertreter, als Zirkulationsmittel funktioniert, ist Geld. Gold (resp. Silber) ist daher Geld. Als Geld funktioniert es, einerseits wo es in seiner <144> goldnen (resp. silbernen) Leiblichkeit erscheinen muß, daher als Geldware, also weder bloß ideell, wie im Wertmaß, noch repräsentationsfähig, wie im Zirkulationsmittel; andrerseits wo seine Funktion, ob es selbe nun in eigner Person oder durch Stellvertreter vollziehe, es als alleinige Wertgestalt oder allein adäquates Dasein des Tauschwerts allen andren Waren als bloßen Gebrauchswerten gegenüber fixiert.
a) Schatzbildung
Der kontinuierliche Kreislauf der zwei entgegengesetzten Warenmetamorphosen oder der flüssige Umschlag von Verkauf und Kauf erscheint im rastlosen Umlauf des Geldes oder seiner Funktion als perpetuum mobile der Zirkulation. Es wird immobilisiert, oder verwandelt sich, wie Boisguillebert sagt, aus meuble in immeuble, aus Münze in Geld, sobald die Metamorphosenreihe unterbrochen, der Verkauf nicht durch nachfolgenden Kauf ergänzt wird.
Mit der ersten Entwicklung der Warenzirkulation selbst entwickelt sich die Notwendigkeit und die Leidenschaft, das Produkt der ersten Metamorphose, die verwandelte Gestalt der Ware oder ihre Goldpuppe festzuhalten.(86) Ware wird verkauft, nicht um Ware zu kaufen, sondern um Warenform durch Geldform zu ersetzen. Aus bloßer Vermittlung des Stoffwechsels wird dieser Formwechsel zum Selbstzweck. Die entäußerte Gestalt der Ware wird verhindert, als ihre absolut veräußerliche Gestalt oder nur verschwindende Geldform zu funktionieren. Das Geld versteinert damit zum Schatz, und der Warenverkäufer wird Schatzbilder.
Grade in den Anfängen der Warenzirkulation verwandelt sich nur der Überschuß an Gebrauchswerten in Geld. Gold und Silber werden so von selbst zu gesellschaftlichen Ausdrücken des Überflusses oder des Reichtums. Diese naive Form der Schatzbildung verewigt sich bei Völkern, wo der traditionellen und auf Selbstbedarf gerichteten Produktionsweise ein fest abgeschloßner Kreis von Bedürfnissen entspricht. So bei den Asiaten, namentlich den Indern. Vanderlint, der die Warenpreise durch die Masse des in einem Land befindliche Goldes und Silbers bestimmt wähnt, fragt sich, warum die indische Waren so wohlfeil? Antwort: Weil die Inder das <145> Geld vergraben. Von 1602-1734, bemerkt er, vergruben sie 150 Millionen Pfd.St. Silber, die ursprünglich von Amerika nach Europa kamen.(87) Von 1856-1866, also in 10 Jahren, exportierte England nach Indien und China (das nach China exportierte Metall fließt großenteils wieder nach Indien) 120 Millionen Pfd.St. in Silber, weiches vorher gegen australisches Geld eingewechselt wurde.
Mit mehr entwickelter Warenproduktion muß jeder Warenproduzent sich den nervus rerum, das "gesellschaftliche Faustpfand" sichern.(88) Seine Bedürfnisse erneuern sich unaufhörlich und gebieten unaufhörlichen Kauf fremder Ware, während Produktion und Verkauf seiner eignen Ware Zeit kosten und von Zufällen abhängen. Um zu kaufen, ohne zu verkaufen, muß er vorher verkauft haben, ohne zu kaufen. Diese Operation, auf allgemeiner Stufenleiter ausgeführt, scheint sich selbst zu widersprechen. An ihren Produktionsquellen jedoch tauschen sich die edlen Metalle direkt mit andren Waren aus. Es findet hier Verkauf (auf Seite der Warenbesitzer) ohne Kauf (auf Seite der Gold- und Silberbesitzer) statt.(89) Und spätere Verkäufe ohne nachfolgende Käufe vermitteln bloß die weitere Verteilung der edlen Metalle unter alle Warenbesitzer. So entstehn auf allen Punkten des Verkehrs Gold- und Silberschätze vom verschiedensten Umfang. Mit der Möglichkeit, die Ware als Tauschwert oder den Tauschwert als Ware festzuhalten, erwacht die Goldgier. Mit der Ausdehnung der Warenzirkulation wächst die Macht des Geldes, der stets schlagfertigen, absolut gesellschaftlichen Form des Reichtums.
"Gold ist ein wunderbares Ding! Wer dasselbe besitzt, ist Herr von allem, was er wünscht. Durch Gold kann man sogar Seelen in das Paradies gelangen lassen." (Columbus, im Brief aus Jamaica, 1503.)
Da dem Geld nicht anzusehn, was in es verwandelt ist, verwandelt sich alles, Ware oder nicht, in Geld. Alles wird verkäuflich und kaufbar. Die Zirkulation wird die große gesellschaftliche Retorte, worin alles hineinfliegt, um als Geldkristall wieder herauszukommen. Dieser Alchimie widerstehn nicht einmal Heiligenknochen und noch viel weniger minder grobe res sacrosanctae, extra commercium homi- <146> num <geheiligte Dinge, außerhalb des Handels der Menschen>.(90) Wie im Geld aller qualitative Unterschied der Waren ausgelöscht ist, löscht es seinerseits als radikaler Leveller alle Unterschiede aus.(91) Das Geld ist aber selbst Ware, ein äußerlich Ding, das Privateigentum eines jeden werden kann. Die gesellschaftliche Macht wird so zur Privatmacht der Privatperson. Die antike Gesellschaft denunziert es daher als die Scheidemünze ihrer ökonomischen und sittlichen Ordnung.(92) Die moderne Gesellschaft, die schon in ihren Kinderjahren den Plutus an den Haaren <147> aus den Eingeweiden der Erde herauszieht (93), begrüßt im Goldgral die glänzende Inkarnation ihres eigensten Lebensprinzips.
Die Ware als Gebrauchswert befriedigt ein besondres Bedürfnis und bildet ein besondres Element des stofflichen Reichtums. Aber der Wert der Ware mißt den Grad ihrer Attraktionskraft auf alle Elemente des stofflichen Reichtums, daher den gesellschaftlichen Reichtum ihres Besitzers. Dem barbarisch einfachen Warenbesitzer, selbst einem westeuropäischen Bauer, ist der Wert unzertrennlich von der Wertform, Vermehrung des Gold- und Silberschatzes daher Wertvermehrung. Allerdings wechselt der Wert des Geldes, sei es infolge seines eignen Wertwechsels, sei es des Wertwechsels der Waren. Dies verhindert aber einerseits nicht, daß 200 Unzen Gold nach wie vor mehr Wert enthalten als 100, 300 mehr als 200 usw., noch andrerseits, daß die metallne Naturalform dieses Dings die allgemeine Äquivalentform aller Waren bleibt, die unmittelbar gesellschaftliche Inkarnation aller menschlichen Arbeit. Der Trieb der Schatzbildung ist von Natur maßlos. Qualitativ oder seiner Form nach ist das Geld schrankenlos, d.h. allgemeiner Repräsentant des stofflichen Reichtums, weil in jede Ware unmittelbar umsetzbar. Aber zugleich ist jede wirkliche Geldsumme quantitativ beschränkt, daher auch nur Kaufmittel von beschränkter Wirkung. Dieser Widerspruch zwischen der quantitativen Schranke und der qualitativen Schrankenlosigkeit des Geldes treibt den Schatzbildner stets zurück zur Sisyphusarbeit der Akkumulation. Es geht ihm wie dem Welteroberer, der mit jedem neuen Land nur eine neue Grenze erobert.
Um das Gold als Geld festzuhalten und daher als Element der Schatzbildung, muß es verhindert werden zu zirkulieren oder als Kaufmittel sich in Genußmittel aufzulösen. Der Schatzbildner opfert daher dem Goldfetisch seine Fleischeslust. Er macht Ernst mit dem Evangelium der Entsagung. Andrerseits kann er der Zirkulation nur in Geld entziehn, war er ihr in Ware gibt. Je mehr er produziert, desto mehr kann er verkaufen. Arbeitsamkeit, Sparsamkeit und Geiz bilden daher seine Kardinaltugenden, viel verkaufen, wenig kaufen, die Summe seiner politischen Ökonomie.(94)
Neben der unmittelbaren Form des Schatzes läuft seine ästhetische Form, der Besitz von Gold- und Silberwaren. Er wächst mit dem Reichtum <148> der bürgerlichen Gesellschaft. "Soyons riches ou paraissons riches." <"Laßt uns reich sein oder reich erscheinen"> (Diderot.) Es bildet sich so teils ein stets ausgedehnterer Markt für Gold und Silber, unabhängig von ihren Geldfunktionen, teils eine latente Zufuhrquelle des Geldes, die namentlich in gesellschaftlichen Sturmperioden fließt.
Die Schatzbildung erfüllt verschiedne Funktionen in der Ökonomie der metallischen Zirkulation. Die nächste Funktion entspringt aus den Umlaufsbedingungen der Gold- oder Silbermünze. Man hat gesehn, wie mit den beständigen Schwankungen der Warenzirkulation in Umfang, Preisen und Geschwindigkeit die Umlaufsmasse des Geldes rastlos ebbt und flutet. Sie muß also der Kontraktion und Expansion fähig sein. Bald muß Geld als Münze attrahiert, bald Münze als Geld repelliert werden. Damit die wirklich umlaufende Geldmasse dem Sättigungsgrad der Zirkulationssphäre stets entspreche, muß das in einem Lande befindliche Gold- oder Silberquantum größer sein als das in Münzfunktion begriffene. Diese Bedingung wird erfüllt durch die Schatzform des Geldes. Die Schatzreservoirs dienen zugleich als Abfuhr- und Zufuhrkanäle des zirkulierenden Geldes, welches seine Umlaufskanäle daher nie überfüllt.(95)

b) Zahlungsmittel
In der bisher betrachteten unmittelbaren Form der Warenzirkulation war dieselbe Wertgröße stets doppelt vorhanden, Waren auf dem einen Pol, <149> Geld auf dem Gegenpol. Die Warenbesitzer traten daher nur in Kontakt als Repräsentanten wechselseitig vorhandner Äquivalente. Mit der Entwicklung der Warenzirkulation entwickeln sich jedoch Verhältnisse, wodurch die Veräußerung der Ware von der Realisierung ihres Preises zeitlich getrennt wird. Es genügt, die einfachsten dieser Verhältnisse hier anzudeuten. Die eine Warenart erheischt längere, die andere kürzere Zeitdauer zu ihrer Produktion. Die Produktion verschiedner Waren ist an verschiedne Jahreszeiten geknüpft. Die eine Ware wird auf ihrem Marktplatz geboren, die andre muß zu entferntem Markt reisen. Der eine Warenbesitzer kann daher als Verkäufer auftreten, bevor der andre als Käufer. Bei steter Wiederkehr derselben Transaktionen unter denselben Personen regeln sich die Verkaufsbedingungen der Waren nach ihren Produktionsbedingungen. Andrerseits wird die Benutzung gewisser Warenarten, z.B. eines Hauses, für einen bestimmten Zeitraum verkauft. Erst nach Ablauf des Termins hat der Käufer den Gebrauchswert der Ware wirklich erhalten. Er kauft sie daher, bevor er sie zahlt. Der eine Warenbesitzer verkauft vorhandne Ware, der andre kauft als bloßer Repräsentant von Geld oder als Repräsentant von künftigem Gelde. Der Verkäufer wird Gläubiger, der Käufer Schuldner. Da die Metamorphose der Ware oder die Entwicklung ihrer Wertform sich hier verändert, erhält auch das Geld eine andre Funktion. Es wird Zahlungsmittel.(96)
Der Charakter von Gläubiger oder Schuldner entspringt hier aus der einfachen Warenzirkulation. Ihre Formveränderung drückt dem Verkäufer und Käufer diese neuen Stempel auf. Zunächst also sind es ebenso verschwindende und wechselweis von denselben Zirkulationsagenten gespielte Rollen wie die von Verkäufer und Käufer. Jedoch sieht der Gegensatz jetzt von Haus minder gemütlich aus und ist größerer Kristallisation fähig.(97) Dieselben Charaktere können aber auch von der Warenzirkulation unabhängig auftreten. Der Klassenkampf der antiken Welt z.B. bewegt sich hauptsächlich in der Form eines Kampfes zwischen Gläubiger <150> und Schuldner und endet in Rom mit dem Untergang des plebejischen Schuldners, der durch den Sklaven ersetzt wird. Im Mittelalter endet der Kampf mit dem Untergang des feudalen Schuldners, der seine politische Macht mit ihrer ökonomischen Basis einbüßt. Indes spiegelt die Geldform - und das Verhältnis von Gläubiger und Schuldner besitzt die Form eines Geldverhältnisses - hier nur den Antagonismus tiefer liegender ökonomischer Lebensbedingungen wider.
Kehren wir zur Sphäre der Warenzirkulation zurück. Die gleichzeitige Erscheinung der Äquivalente Ware und Geld auf den beiden Polen des Verkaufsprozesses hat aufgehört. Das Geld funktioniert jetzt erstens als Wertmaß in der Preisbestimmung der verkauften Ware. Ihr kontraktlich festgesetzter Preis mißt die Obligation des Käufers, d.h. die Geldsumme, die er an bestimmtem Zeittermin schuldet. Es funktioniert zweitens als ideelles Kaufmittel. Obgleich es nur im Geldversprechen des Käufers existiert, bewirkt es den Händewechsel der Ware. Erst am fälligen Zahlungstermin tritt das Zahlungsmittel wirklich in Zirkulation, d.h. geht aus der Hand des Käufers in die des Verkäufers über. Das Zirkulationsmittel verwandelte sich in Schatz, weil der Zirkulationsprozeß mit der ersten Phase abbrach oder die verwandelte Gestalt der Ware der Zirkulation entzogen wurde. Das Zahlungsmittel tritt in die Zirkulation hinein, aber nachdem die Ware bereits aus ihr ausgetreten ist. Das Geld vermittelt nicht mehr den Prozeß. Es schließt ihn selbständig ab, als absolutes Dasein des Tauschwerts oder allgemeine Ware. Der Verkäufer verwandelte Ware in Geld, um ein Bedürfnis durch das Geld zu befriedigen, der Schatzbildner, um die Ware in Geldform zu präservieren, der schuldige Käufer, um zahlen zu können. Zahlt er nicht, so finden Zwangsverkäufe seiner Habe statt. Die Wertgestalt der Ware, Geld, wird also jetzt zum Selbstzweck des Verkaufs durch eine den Verhältnissen des Zirkulationsprozesses selbst entspringende, gesellschaftliche Notwendigkeit.
Der Käufer verwandelt Geld zurück in Ware, bevor er Ware in Geld verwandelt hat, oder vollzieht die zweite Warenmetamorphose vor der ersten. Die Ware des Verkäufers zirkuliert, realisiert ihren Preis aber nur in einem privatrechtlichen Titel auf Geld. Sie verwandelt sich in Gebrauchswert, bevor sie sich in Geld verwandelt hat. Die Vollziehung ihrer ersten Metamorphose folgt erst nachträglich.(98)
<151> In jedem bestimmten Zeitabschnitt des Zirkulationsprozesses repräsentieren die fälligen Obligationen die Preissumme der Waren, deren Verkauf sie hervorrief. Die zur Realisierung dieser Preissumme nötige Geldmasse hängt zunächst ab von der Umlaufsgeschwindigkeit der Zahlungsmittel. Sie ist bedingt durch zwei Umstände: die Verkettung der Verhältnisse von Gläubiger und Schuldner, so daß A, der Geld von seinem Schuldner B erhält, es an seinen Gläubiger C fortzahlt usw. - und die Zeitlänge zwischen den verschiednen Zahlungsterminen. Die prozessierende Kette von Zahlungen oder nachträglichen ersten Metamorphosen unterscheidet sich wesentlich von der früher betrachteten Verschlingung der Metamorphosenreihen. Im Umlauf des Zirkulationsmittels wird der Zusammenhang zwischen Verkäufern und Käufern nicht nur ausgedrückt. Der Zusammenhang selbst entsteht erst in und mit dem Geldumlauf. Dagegen drückt die Bewegung des Zahlungsmittels einen schon vor ihr fertig vorhandnen gesellschaftlichen Zusammenhang aus.
Gleichzeitigkeit und Nebeneinander der Verkäufe beschränken den Ersatz der Münzmasse durch Umlaufsgeschwindigkeit. Sie bilden umgekehrt einen neuen Hebel in der Ökonomie der Zahlungsmittel. Mit der Konzentration der Zahlungen an demselben Platz entwickeln sich naturwüchsig eigne Anstalten und Methoden ihrer Ausgleichung. So z.B. die Virements im mittelaltrigen Lyon. Die Schuldforderungen von A an B, B an C, C an A usw. brauchen bloß konfrontiert zu werden, um sich wechselseitig bis zu einem gewissen Belauf als positive und negative Größen aufzuheben. So bleibt nur eine Schuldbilanz zu saldieren. Je massenhafter die Konzentration der Zahlungen, desto kleiner relativ die Bilanz, also die Masse der zirkulierenden Zahlungsmittel.
Die Funktion des Geldes als Zahlungsmittel schließt einen unvermittelten Widerspruch ein. Soweit sich die Zahlungen ausgleichen, funktioniert es nur ideell als Rechengeld oder Maß der Werte. Soweit wirkliche Zahlung zu verrichten, tritt es nicht als Zirkulationsmittel auf, als nur verschwindende <152> und vermittelnde Form des Stoffwechsels, sondern als die individuelle Inkarnation der gesellschaftlichen Arbeit, selbständiges Dasein des Tauschwerts, absolute Ware. Dieser Widerspruch eklatiert in dem Moment der Produktions- und Handelskrisen, der Geldkrise heißt.(99) Sie ereignet sich nur, wo die prozessierende Kette der Zahlungen und ein künstliches System ihrer Ausgleichung völlig entwickelt sind. Mit allgemeineren Störungen dieses Mechanismus, woher sie immer entspringen mögen, schlägt das Geld plötzlich und unvermittelt um aus der nur ideellen Gestalt des Rechengeldes in hartes Geld. Es wird unersetzlich durch profane Waren. Der Gebrauchswert der Ware wird wertlos, und ihr Wert verschwindet vor seiner eignen Wertform. Eben noch erklärte der Bürger in prosperitätstrunknem Aufklärungsdünkel das Geld für leeren Wahn. Nur die Ware ist Geld. Nur das Geld ist Ware! gellt's jetzt über den Weltmarkt. Wie der Hirsch schreit nach frischem Wasser, so schreit seine Seele nach Geld, dem einzigen Reichtum.(100) In der Krise wird der Gegensatz zwischen der Ware und ihrer Wertgestalt, dem Geld, bis zum absoluten Widerspruch gesteigert. Die Erscheinungsform des Geldes ist hier daher auch gleichgültig. Die Geldhungersnot bleibt dieselbe, ob in Gold oder Kreditgeld, Banknoten etwa, zu zahlen ist.(101)
<153> Betrachten wir nun die Gesamtsumme des in einem gegebnen Zeitabschnitt umlaufenden Geldes, so ist sie, bei gegebner Umlaufsgeschwindigkeit der Zirkulations- und Zahlungsmittel, gleich der Summe der zu realisierenden Warenpreise plus der Summe der fälligen Zahlungen, minus der sich ausgleichenden Zahlungen, minus endlich der Anzahl Umläufe, worin dasselbe Geldstück abwechselnd bald als Zirkulations-, bald als Zahlungsmittel funktioniert. Z.B. der Bauer verkauft sein Getreide für 2 Pfd.St., die so als Zirkulationsmittel dienen. Am Verfalltag zahlt er damit Leinwand, die ihm der Weber geliefert hat. Dieselben 2 Pfd.St. funktionieren jetzt als Zahlungsmittel. Der Weber kauft nun eine Bibel gegen bar - sie funktionieren von neuem als Zirkulationsmittel - usw. Selbst Preise, Geschwindigkeit des Geldumlaufs und Ökonomie der Zahlungen gegeben, decken sich daher nicht länger die während einer Periode, eines Tags z.B., umlaufende Geldmasse und zirkulierende Warenmasse. Es läuft Geld um, das der Zirkulation längst entzogne Waren repräsentiert. Es laufen Waren um, deren Geldäquivalent erst in der Zukunft erscheint. Andrerseits sind die jeden Tag kontrahierten und die denselben Tag fälligen Zahlungen durchaus inkommensurable Größen.(102)
Das Kreditgeld entspringt unmittelbar aus der Funktion des Geldes als Zahlungsmittel, indem Schuldzertifikate für die verkauften Waren selbst <154> wieder zur Übertragung der Schuldforderungen zirkulieren. Andrerseits, wie sich das Kreditwesen ausdehnt, so die Funktion des Geldes als Zahlungsmittel. Als solches erhält es eigne Existenzformen, worin es die Sphäre der großen Handelstransaktionen behaust, während die Gold- oder Silbermünze hauptsächlich in die Sphäre des Kleinhandels zurückgedrängt wird.(103)
Bei gewissem Höhegrad und Umfang der Warenproduktion greift die Funktion des Geldes als Zahlungsmittel über die Sphäre der Warenzirkulation hinaus. Es wird die allgemeine Ware der Kontrakte.(104) Renten, Steuern usw. verwandeln sich aus Naturallieferungen in Geldzahlungen. Wie sehr diese Umwandlung durch die Gesamtgestalt des Produktionsprozesses bedingt wird, beweist z.B. der zweimal gescheiterte Versuch des römischen Kaiserreichs, alle Abgaben in Geld zu erheben. Das ungeheure Elend des französischen Landvolks unter Ludwig XIV., das Bois- <155> guillebert, Marschall Vauban usw. so beredt denunzieren, war nicht nur der Steuerhöhe geschuldet, sondern auch der Verwandlung von Naturalsteuer in Geldsteuer.(105) Wenn andrerseits die Naturalform der Grundrente, in Asien zugleich das Hauptelement der Staatssteuer, dort auf Produktionsverhältnissen beruht, welche sich mit der Unwandelbarkeit von Naturverhältnissen reproduzieren, erhält jene Zahlungsform rückwirkend die alte Produktionsform. Sie bildet eines der Selbsterhaltungsgeheimnisse des türkischen Reichs. Zieht der durch Europa aufoktroyierte auswärtige Handel in Japan die Verwandlung von Naturalrente in Geldrente <3. und 4. Auflage: Goldrente> nach sich, so ist es um seine musterhafte Agrikultur geschehn. Ihre engen ökonomischen Existenzbedingungen werden sich auflösen.
In jedem Land setzen sich gewisse allgemeine Zahlungstermine fest. Sie beruhn teilweis, von andren Zirkelläufen der Reproduktion abgesehn, auf den an Wechsel der Jahreszeit gebundnen Naturbedingungen der Produktion. Sie regeln ebenso Zahlungen, die nicht direkt der Warenzirkulation entspringen, wie Steuern, Renten usw. Die Geldmasse, die zu diesen über die ganze Oberfläche der Gesellschaft zersplitterten Zahlungen an gewissen Tagen des Jahres erheischt ist, verursacht periodische, aber ganz oberflächliche Perturbationen in der Ökonomie der Zahlungsmittel.(106)
<156> Aus dem Gesetz über die Umlaufsgeschwindigkeit der Zahlungsmittel folgt, daß für alle periodischen Zahlungen, welches immer ihre Quelle, die notwendige Masse der Zahlungsmittel in geradem <1. bis 4. Auflage: umgekehrtem> Verhältnis zur Länge der Zahlungsperioden steht.(107)
Die Entwicklung des Geldes als Zahlungsmittel ernötigt Geldakkumulationen für die Verfalltermine der geschuldeten Summen. Während die Schatzbildung als selbständige Bereicherungsform verschwindet mit dem Fortschritt der bürgerlichen Gesellschaft, wächst sie umgekehrt mit demselben in der Form von Reservefonds der Zahlungsmittel.




c) Weltgeld
Mit dem Austritt aus der innern Zirkulationssphäre streift das Geld die dort aufschießenden Lokalformen von Maßstab der Preise, Münze, Scheidemünze und Wertzeichen, wieder ab und fällt in die ursprüngliche Barrenform der edlen Metalle zurück. Im Welthandel entfalten die Waren ihren Wert universell. Ihre selbständige Wertgestalt tritt ihnen daher hier auch gegenüber als Weltgeld. Erst auf dem Weltmarkt funktioniert das Geld in vollem Umfang als die Ware, deren Naturalform zugleich unmittelbar gesellschaftliche Verwirklichungsform der menschlichen Arbeit in abstracto ist. Seine Daseinsweise wird seinem Begriff adäquat.
<157> In der innern Zirkulationssphäre kann nur eine Ware zum Wertmaß und daher als Geld dienen. Auf dem Weltmarkt herrscht doppeltes Wertmaß, Gold und Silber.(108)
Das Weltgeld funktioniert als allgemeines Zahlungsmittel, allgemeines Kaufmittel und absolut gesellschaftliche Materiatur des Reichtums überhaupt (universal wealth). Die Funktion als Zahlungsmittel, zur Ausgleichung internationaler Bilanzen, herrscht vor. Daher das Losungswort des <158> Merkantilsystems - Handelsbilanz!(109) Zum internationalen Kaufmittel dienen Gold und Silber wesentlich, sooft das herkömmliche Gleichgewicht des Stoffwechsels zwischen verschiednen Nationen plötzlich gestört wird. Endlich als absolut gesellschaftliche Materiatur des Reichtums, wo es sich weder um Kauf noch Zahlung handelt, sondern um Übertragung des Reichtums von einem Land zum andren, und wo diese Übertragung in Warenform entweder durch die Konjunkturen des Warenmarkt oder den zu erfüllenden Zweck selbst ausgeschlossen wird.(110)
Wie für seine innere Zirkulation, braucht jedes Land für die Weltmarktszirkulation einen Reservefonds. Die Funktionen der Schätze ent- <159> springen also teils aus der Funktion des Geldes als inneres Zirkulations- und Zahlungsmittel, teils aus seiner Funktion als Weltgeld.(110a) In der letzteren Rolle ist stets die wirkliche Geldware, leibhaftes Gold und Silber, erheischt, weswegen James Steuart Gold und Silber, im Unterschied von ihren nur lokalen Stellvertretern, ausdrücklich als money of the world <Weltgeld> charakterisiert.
Die Bewegung des Gold- und Silberstroms ist eine doppelte. Einerseits wälzt er sich von seinen Quellen über den ganzen Weltmarkt, wo er von den verschiednen nationalen Zirkulationssphären in verschiednem Umfang abgefangen wird, um in ihre inneren Umlaufskanäle einzugehn, verschlissene Gold- und Silbermünzen zu ersetzen, das Material von Luxuswaren zu liefern und zu Schätzen zu erstarren.(111) Diese erste Bewegung ist vermittelt durch direkten Austausch der in Waren realisierten Nationalarbeiten mit der in edlen Metallen realisierten Arbeit der Gold und Silber produzierenden Länder. Andrerseits laufen Gold und Silber fortwährend hin und her zwischen den verschiednen nationalen Zirkulationssphären, eine Bewegung, die den unaufhörlichen Oszillationen des Wechselkurses folgt.(112)
<160> Länder entwickelter bürgerlicher Produktion beschränken die in Bankreservoirs massenhaft konzentrierten Schätze auf das zu ihren spezifischen Funktionen erheischte Minimum.(113) Mit gewisser Ausnahme zeigt auffallendes Überfüllen der Schatzreservoirs über ihr Durchschnittsniveau Stockung der Warenzirkulation an oder unterbrochenen Fluß der Warenmetamorphose.(114)
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Fußnoten
(50) Die Frage, warum das Geld nicht unmittelbar die Arbeitszeit selbst repräsentiert, so daß z.B. eine Papiernote x Arbeitsstunden vorstellt, kommt ganz einfach auf die Frage heraus, warum auf Grundlage der Warenproduktion die Arbeitsprodukte sich als Waren darstellen müssen, denn die Darstellung der Ware schließt ihre Verdopplung in Ware und Geldware ein. Oder warum Privatarbeit nicht als unmittelbar gesellschaftliche Arbeit, als ihr Gegenteil, behandelt werden kann. Ich habe den seichten Utopismus eines "Arbeitsgelds" auf Grundlage der Warenproduktion anderswo ausführlich erörtert.(l.c.p. 61 sqq. <Siehe Band 13, S. 66 ff.>) Hier sei noch bemerkt, daß z.B. das Owensche "Arbeitsgeld" ebensowenig "Geld" ist wie etwa eine Theatermarke. Owen setzt unmittelbar vergesellschaftete Arbeit voraus, eine der Warenproduktion diametral entgegengesetzte Produktionsform. Das Arbeitszertifikat konstatiert nur den individuellen Anteil des Produzenten an der Gemeinarbeit und seinen individuellen Anspruch auf den zur Konsumtion bestimmten Teil des Gemeinprodukts. Aber es fällt Owen nicht ein, die Warenproduktion vorauszusetzen und dennoch ihre notwendigen Bedingungen durch Geldpfuschereien umgehn zu wollen. <=
(51) Der Wilde oder Halbwilde braucht die Zunge anders. Kapitän Parry bemerkt z.B. von den Bewohnern an der Westküste der Baffinsbay: "In diesem Falle" (beim Produktenaustausch)" ... beleckten sie es" (das ihnen Angebotene) "zweimal mit der Zunge, wonach sie das Geschäft als zur Zufriedenheit abgeschlossen zu betrachten schienen." Ebenso beleckte bei den östlichen Eskimos der Eintauscher jedesmal den Artikel beim Empfang desselben. Wenn die Zunge so im Norden als Organ der Aneignung, ist es kein Wunder, daß der Bauch im Süden als Organ des akkumulierten Eigentums gilt und der Kaffer den Reichtum eines Mannes nach seinem Fettwanst schätzt. Die Kaffern sich grundgescheute Kerle, denn während der offizielle britische Gesundheitsbericht von 1864 den Mangel eines großen Teils der Arbeiterklasse an fettbildenden Substanzen beklagt, machte ein Dr. Harvey, der jedoch nicht die Blutzirkulation erfunden hat, in demselben Jahre sein Glück durch Puff-Rezepte, die der Bourgeoisie und Aristokratie Fettüberflusseslast abzutreiben versprachen. <=
(52) Siehe Karl Marx, "Zur Kritik etc.", "Theorien von der Maßeinheit des Geldes", p. 53 sqq. <Siehe Band 13, S. 59 ff.> <=
(53) Note zur 2. Ausg. "Wo Gold und Silber gesetzlich als Geld, d.h. als Wertmaß nebeneinander bestehen, ist stets der vergebliche Versuch gemacht worden, sie als eine und dieselbe Materie zu behandeln. Unterstellt man, daß dieselbe Arbeitszeit sich unveränderlich in derselben Proportion von Silber und Gold vergegenständlichen muß, so unterstellt man in der Tat, daß Silber und Gold dieselbe Materie sind und daß eine bestimmte Masse des minder wertvollen Metalls, des Silbers, den unveränderlichen Bruchteil einer bestimmten Goldmasse bildet. Von der Regierung Edwards III. bis zur Zeit von Georg II. verläuft sich die Geschichte des englischen Geldwesens in eine fortlaufende Reihe von Störungen, hervorgehend aus der Kollision zwischen der gesetzlichen Festsetzung des Wertverhältnisses von Gold und Silber und ihren wirklichen Wertschwankungen. Bald war Gold zu hoch geschätzt, bald Silber. Das zu niedrig geschätzte Metall wurde der Zirkulation entzogen, umgeschmolzen und exportiert. Das Wertverhältnis beider Metalle wurde dann wieder gesetzlich verändert, aber der neue Nominalwert trat bald mit dem wirklichen Wertverhältnis in denselben Konflikt wie der alte. - In unserer eigenen Zeit hat der sehr schwache und vorübergehende Fall im Wert von Gold gegen Silber, infolge der indisch-chinesischen Silbernachfrage, dasselbe Phänomen auf der größten Stufenleiter in Frankreich erzeugt, Ausfuhr von Silber und seine Vertreibung aus der Zirkulation durch Gold. Während der Jahre 1855, 1856, 1857 betrug der Überschuß der Goldeinfuhr in Frankreich über die Goldausfuhr aus Frankreich 41.580.000 Pfd.St.., während der Überschuß der Silberausfuhr über die Silbereinfuhr 34.704.000 <2. bis 4. Auflage: 14.704.000> Pfd.St. betrug. In der Tat, in Ländern, wo beide Metalle gesetzliche Wertmaße sind, daher beide in Zahlung angenommen werden müssen, jeder aber beliebig in Silber oder Gold zahlen kann, trägt das im Wert steigende Metall ein Agio und mißt wie jede andere Ware seinen Preis in dem überschätzten Metall, während letzteres allein als Wertmaß dient. Alle geschichtliche Erfahrung in diesem Gebiet reduziert sich einfach darauf, daß, wo gesetzlich zwei Waren die Funktion des Wertmaßes versehen, faktisch immer nur eine als solches den Platz behauptet."(Karl Marx, l.c.p. 52, 53. <siehe Band 13, S.58/59>) <=
(54) Note zur 2. Ausg. Die Sonderbarkeit, daß die Unze Gold in England als Einheit des Geldmaßstabs nicht in aliquote Teile abgeteilt ist, erklärt sich wie folgt: "Unser Münzwesen war ursprünglich nur der Verwendung von Silber angepaßt - daher kann eine Unze Silber immer in eine bestimmte aliquote Anzahl von Geldstücken geteilt werden; da aber Gold erst in einer spätern Zeit in ein Münzwesen eingeführt wurde, das nur dem Silber angepaßt war, kann eine Unze Gold nicht in eine aliquote Anzahl von Münzen ausgeprägt werden."(Maclaren, "History of the Currency", London 1858, p. 16.) <=
(55) Note zur 2. Ausg. In englischen Schriften ist die Konfusion über Maß der Werte (measure of value) und Maßstab der Preise (standard of value) unsäglich. Die Funktionen und daher ihre Namen werden beständig verwechselt. <=
(56) Sie ist übrigens auch nicht von allgemein historischer Gültigkeit. <=
(57) Note zur 2. Ausg. So bezeichnet das englische Pfund weniger als ein Drittel seines ursprünglichen Gewichts, das schottische Pfund vor der Union nur noch 1/36, der französische Livre 1/74, der spanische Maravedi weniger als 1/1000, der portugiesische Rei eine noch viel kleinere Proportion. <=
(58) Note zur 2. Ausg. "Die Münzen, deren Namen heute nur noch ideell sind, sind bei allen Nationen die ältesten; sie alle waren einst real, und eben weil sie real waren, hat man mit ihnen gerechnet." (Galiani, "Della Moneta", l.c.p. 153.) <=
(59) Note zur 2. Ausg. Herr David Urquhart bemerkt in seinen "Familiar Words" über das Ungeheuerliche (!), daß heutzutage ein Pfund (£ St.), die Einheit des englischen Geldmaßstabs, gleich ungefähr 1/4 Unze Gold ist: "Das ist Fälschung eines Maßes und nicht Festsetzung eines Maßstabs." [p. 105.] Er findet in dieser "falschen Benennung" des Goldgewichts wie überall sonst die fälschende Hand der Zivilisation. <=
(60) Note zur 2. Ausg. "Als man den Anacharsis fragte, wozu die Hellenen das Geld brauchen, antwortet er: zum Rechnen."(Athen[aeus], "Deipn.", l. IV, 49, v. 2 [p. 120], ed. Schweighäuser, 1802.) <=
(61) Note zur 2. Ausg. "Weil das Gold <2. bis 4. Auflage: Geld> als Maßstab der Preise in denselben Rechennamen erscheint wie die Warenpreise, also z.B. eine Unze Gold ebensowohl wie der Wert einer Tonne Eisen in 3 Pfd.St. 17 sh. 101/2 d. ausgedrückt wird, hat man diese seine Rechennamen seinen Münzpreis genannt. Die wunderliche Vorstellung entstand daher, als ob das Gold (resp. Silber) in seinem eignen Material geschätzt werde und im Unterschied von allen Waren von Staats wegen einen fixen Preis erhalte. Man versah die Fixierung von Rechennamen bestimmter Goldgewichte für Fixierung des Werts dieser Gewichte." (Karl Marx, l.c.p. 52. <siehe Band 13, S.58>) <=
(62) Vgl. "Theorien von der Maßeinheit des Geldes" in "Zur Kritik der Pol. Oekon. etc.", p. 53 sqq. < ebenda, S. 59 ff.> Die Phantasien über Erhöhung oder Erniedrigung des "Münzpreises", die darin besteht, die gesetzlichen Geldnamen für gesetzlich fixierte Gewichtteile Gold oder Silber auf größere oder kleinere Gewichtteile von Staats wegen zu übertragen und demgemäß auch etwa 1/4 Unze Gold statt in 20 künftig in 40 sh. zu prägen - diese Phantasien, soweit sie nicht ungeschickte Finanzoperationen gegen Staats- und Privatgläubiger, sondern ökonomische "Wunderkuren" bezwecken, hat Petty so erschöpfend behandelt in "Quantulumcunque concerning Money. To the Lord Marquis of Halifax, 1682", daß schon seine unmittelbaren Nachfolger, Sir Dudley North und John Locke, von späteren gar nicht zu reden, ihn nur verflachen konnten. "Wenn der Reichtum einer Nation", sagt er u.a., "durch eine Verordnung verzehnfacht werden könnte, wäre es eigenartig, daß unsere Regierungen nicht schon längst derartige Verordnungen erlassen haben." (l.c.p. 36.) <=
(63) "Oder man muß schon zugeben, daß eine Million in Geld mehr wert ist als ein gleicher Wert in Waren" (Le Trosne, l.c.p. 919), also "daß ein Wert mehr wert ist als ein gleicher anderer." <=
(64) Wenn Hieronymus in seiner Jugend viel mit dem materiellen Fleisch zu ringen hatte, wie sein Wüstenkampf mit schönen Frauenbildern zeigt, so im Alter mit dem geistigen Fleisch. "Ich glaube mich", sagt er z.B., "im Geist vor dem Weltrichter." "Wer bist du?" fragte eine Stimme. "Ich bin ein Christ." "Du lügst", donnerte der Weltrichter. "Du bist nur ein Ciceronianer!" <=
(65) "Aus dem ... Feuer aber wird Alles, sagte Heraklit, und Feuer aus Allem, gleich wie aus Gold Güter und aus Gütern Gold." (F. Lassalle," Die Philosophie Herakleitos des Dunkeln", Berlin 1858, Bd. I, p. 222.) Lassalles Note zu dieser Stelle, p. 224, n. 3, erklärt das Geld unrichtig für bloßes Wertzeichen. <=
(66) "Jeder Verkauf ist Kauf" (Dr. Quesnay," Dialogues sur le Commerce et les Travaux des Artisans", [in] "Physiocrates", éd. Daire, I. Partie, Paris 1846, p. 170), oder, wie Quesnay in seinen "Maximes Générales" sagt: "Verkaufen ist kaufen." <=
(67) "Der Preis einer Ware kann nur mit dem Preis einer anderen Ware bezahlt werden." (Mercier de la Rivière, "L'Ordre naturel et essentiel des sociétés politiques", [in] "Physiocrates", éd. Daire, p. 554.) <=
(68) "Um dieses Geld zu haben, muß man verkauft haben." (l.c.p. 543.) <=
(69) Ausnahme, wie vorher bemerkt, bildet der Gold- resp. Silberproduzent, der sein Produkt austauscht, ohne es vorher verkauft zu haben. <=
(70) "Wenn das Geld in unserer Hand die Dinge darstellt, die wir zu kaufen wünschen können, so stellt es auch die Dinge dar, die wir für dieses Geld verkauft haben." (Mercier de la Rivière, l.c.p. 586.) <=
(71) "Demnach gibt es vier Endpunkte und drei Vertragspartner, von denen einer zweimal eingreift." (Le Trosne, l.c.p. 909.) <=
(72) Note zur 2. Ausg. So handgreiflich dies Phänomen ist, wird es dennoch von politischen Ökonomen meist übersehen, namentlich vom Freihändler vulgaris. <=
(73) Vergleiche meine Bemerkungen über James Mill, "Zur Kritik etc.", p. 74-76 <Siehe Band 13, S. 77-79>. Zwei Punkte sind hier charakteristisch für die Methode der ökonomistischen Apologetik. Erstens die Identifizierung von Warenzirkulation und unmittelbarem Produktenaustausch durch einfache Abstraktion von ihren Unterschieden. Zweitens der Versuch, die Widersprüche des kapitalistischen Produktionsprozesses wegzuleugnen, indem man die Verhältnisse seiner Produktionsagenten in die einfachen Beziehungen auflöst, die aus der Warenzirkulation entspringen. Warenproduktion und Warenzirkulation sind aber Phänomene, die den verschiedensten Produktionsweisen angehören, wenn auch in verschiednem Umfang und Tragweite. Man weiß also noch nichts von der differentia specifica <dem kennzeichnenden Unterschied> dieser Produktionsweisen und kann sie daher nicht beurteilen, wenn man nur die ihnen gemeinschaftlichen, abstrakten Kategorien der Warenzirkulation kennt. In keiner Wissenschaft außer der politischen Ökonomie herrscht so große Wichtigtuerei mit elementarischer Gemeinplätzlichkeit. Z.B. J. B. Say nimmt sich heraus, über die Krisen abzuurteilen, weil er weiß, daß die Ware Produkt ist. <=
(74) Selbst wenn die Ware wieder und wieder verkauft wird, ein Phänomen, das hier noch nicht für uns existiert, fällt sie mit dem letzten definitiven Verkauf aus der Sphäre der Zirkulation in die der Konsumtion, um hier als Lebensmittel oder als Produktionsmittel zu dienen. <=
(75) "Es" (das Geld) "hat keine andere Bewegung als die, die ihm durch die Produkte verliehen wird." (Le Trosne, l.c.p. 885.) <=
(76) "Die Produkte sind es, die es" (das Geld) "in Bewegung setzen und es zirkulieren machen ... Durch die Geschwindigkeit seiner" (d.h. des Geldes) "Bewegung wird seine Quantität ergänzt. Wenn notwendig, gleitet es nur von einer Hand in die andre, ohne sich einen Augenblick aufzuhalten." (Le Trosne, l.c.p. 915, 916.) <=
(77) "Weil Geld ... das allgemeine Maß für Kauf und Verkauf darstellt, ist jeder, der etwas zu verkaufen hat, aber keinen Käufer finden kann, sofort geneigt, zu denken, daß Mangel an Geld im Kingdom oder im Lande schuld sei, wenn seine Waren keinen Absatz finden; daher allenthalben das Geschrei über den Mangel an Geld, was jedoch ein großer Irrtum ist ... Was brauchen diese Leute, die nach Geld schreien? ... Der Pächter klagt ... er denkt, wenn mehr Geld im Lande wäre, könnte er einen Preis für seine Güter bekommen ... Also fehlt ihm anscheinend nicht Geld, sondern ein Preis für sein Korn und sein Vieh, das er verkaufen möchte, aber nicht kann ... Warum kann er keinen Preis erzielen? ... 1. Entweder es gibt zu viel Korn und Vieh im Land, so daß den meisten, die auf den Markt kommen, ebenso wie ihm das Verkaufen not tut, das Kaufen aber nur wenigen, oder 2. der gewöhnliche Absatz durch Ausfuhr stockt ... oder 3. der Konsum wird geringer, wenn z.B. die Leute infolge Armut nicht mehr soviel für ihren Haushalt ausgeben wie früher. Deshalb ist es nicht die Vermehrung von Geld schlechthin, die sich günstig auf die Güter des Pächters auswirken würde, sondern die Beseitigung einer dieser drei Ursachen, die wirklich den Markt niederhalten ... Kaufmann und Krämer brauchen in gleicher Weise Geld, d.h., weil die Märkte stocken, fehlt ihnen der Absatz der Güter, mit denen sie handeln ... Eine Nation gedeiht niemals besser, als wenn die Reichtümer schnell von Hand zu Hand gehen." (Sir Dudley North, "Discourses upon Trade", Lond. 1691, p. 11-15 passim.) Herrenschwands Schwindeleien kommen alle darauf hinaus, daß die aus der Natur der Ware entspringenden und daher in der Warenzirkulation erscheinenden Widersprüche durch Vermehrung der Zirkulationsmittel beseitigt werden können. Aus der Volksillusion, welche Stockungen des Produktions- und Zirkulationsprozesses einem Mangel an Zirkulationsmitteln zuschreibt, folgt übrigens umgekehrt, daß wirklicher Mangel an Zirkulationsmitteln, z.B. infolge offizieller Pfuschereien mit der "regulation of currency" <"Regulierung des Geldumlaufs"> nicht seinerseits Stockungen hervorrufen kann. <=
(78) "Es gibt ein bestimmtes Maß und Verhältnis des Geldes, das erforderlich ist, um den Handel einer Nation in Gang zu halten; ein Mehr oder Weniger würde ihm Abbruch tun. Geradeso wie in einem kleinen Detailgeschäft eine bestimmte Menge von Farthings notwendig ist, um die Silbermünzen zu wechseln und solche Zahlungen zu leisten, die mit den kleinsten Silbermünzen nicht geleistet werden können ... Ebenso wie nun das zahlenmäßige Verhältnis der im Handel notwendigen Farthings von der Zahl der Käufer, der Häufigkeit ihrer Käufe und vor allem auch von dem Wert der kleinsten Silbermünze abhängig ist, so ist in ähnlicher Weise das Verhältnis des für unseren Handel notwendigen Geldes (Gold- und Silbermünzen) bestimmt durch die Häufigkeit der Tauschvorgänge und die Höhe der Zahlungen." (William Petty, "A Treatise on Taxes and Contributions", Lond. 1667, p. 17.) Die Humesche Theorie ward gegen J. Steuart u.a. verteidigt von A. Young in seiner "Political Arithmetic", Lond. 1774, wo ein eignes Kapitel: "Prices depend on quantity of money" <"Preise hängen von der Geldmenge ab">, p. 112 sqq. Ich bemerke "Zur Kritik etc.", p.149 <Siehe Band 13, S. 142/143>: "Die Frage über die Quantität der zirkulierenden Münze beseitigt er (A. Smith) stillschweigend, indem er das Geld ganz falsch als bloße Ware behandelt." Dies gilt nur, soweit A. Smith ex officio das Geld behandelt. Gelegentlich jedoch, z.B. in der Kritik der früheren Systeme der Pol. Ökon., spricht er das Richtige aus: "Die Menge des gemünzten Geldes wird in jedem Lande durch den Wert der Waren geregelt, deren Umlauf es zu vermitteln hat ... Der Wert der in einem Lande jährlich gekauften und verkauften Güter erfordert eine gewisse Menge Geld, um sie zu zirkulieren und an ihre eigentlichen Verbraucher zu verteilen, kann aber für mehr Geld keine Verwendung schaffen. Der Kanal der Zirkulation zieht notwendigerweise eine Summe an, die genügt, um ihn zu füllen, nimmt aber nie eine größere auf." ("Wealth of Nations", [vol. III,] l. IV, ch. I. [p. 87, 89.]) Ähnlich eröffnet A. Smith sein Werk ex officio mit einer Apotheose der Teilung der Arbeit. Hinterher, im letzten Buch über die Quellen des Staatseinkommens, reproduziert er gelegentlich A. Fergusons, seines Lehrers, Denunziation der Teilung der Arbeit. <=
(79) "Die Preise der Dinge werden sicherlich in jedem Lande so steigen, wie die Menge an Gold und Silber unter den Leuten anwächst; folglich müssen auch, wenn in einem Lande Gold und Silber sich vermindern, die Preise aller Waren einer solchen Verminderung des Geldes entsprechend fallen." (Jacob Vanderlint, "Money answers all Things", Lond. 1734, p. 5.) Nähere Vergleichung zwischen Vanderlint und Humes "Essays" läßt mir nicht den geringsten Zweifel, daß Hume V.'s übrigens bedeutende Schrift kannte und benutzte. Die Ansicht, daß die Masse der Zirkulationsmittel die Preise bestimmt, auch bei Barbon und noch viel älteren Schriftstellern. "Keine Ungelegenheit", sagt Vanderlint, "kann durch ungehinderten Handel entstehen, sondern nur sehr großer Nutzen, denn wenn die Bargeldmenge der Nation durch ihn verringert wird, was ja die Prohibitionsmaßnahmen verhindern sollen, so werden die Nationen, denen das Bargeld zufließt, sicher feststellen, daß alle Dinge in dem Maße im Preise steigen, wie die Bargeldmenge bei ihnen anwächst. Und ... unsere Manufakturprodukte und alle anderen Waren werden bald so billig, daß sich die Handelsbilanz wieder zu unseren Gunsten wendet, und infolgedessen das Geld zu uns zurückfließt." (l.c.p. 43, 44.) <=
(80) Daß jede einzelne Warenart durch ihren Preis ein Element der Preissumme aller zirkulierenden Waren bildet, ist selbstverständlich. Wie aber untereinander inkommensurable Gebrauchswerte sich en masse mit der in einem Land befindlichen Gold- oder Silbermasse austauschen sollen, ist völlig unbegreiflich. Verschwindelt man die Warenwelt in eine einzige Gesamtware, wovon jede Ware nur einen aliquoten Teil bildet, so kommt das schöne Rechenexempel heraus: Gesamtware = x Ztr. Gold. Ware A = aliquoter Teil der Gesamtware = derselbe aliquote Teil von x Ztr. Gold. Dies ehrlich heraus bei Montesquieu: "Wenn man die Masse des auf der Welt vorhandenen Goldes und Silbers mit der Summe der vorhandenen Waren vergleicht, so kann man gewiß jedes einzelne Erzeugnis bzw. Ware mit einer bestimmten Menge des Geldes vergleichen. Unterstellen wir einmal, daß es nur ein einziges Erzeugnis bzw. eine einzige Ware gibt oder daß nur eine gekauft wird und daß sie ebenso teilbar ist wie das Geld: ein gewisser Teil dieser Ware wird dann einem Teil der Geldmasse entsprechen; die Hälfte der Gesamtheit der Waren der Hälfte der gesamten Geldmasse usw. ... die Bestimmung der Warenpreise hängt im Grunde genommen stets vom Verhältnis der Gesamtmenge der Waren zur Gesamtmenge der Geldzeichen ab." (Montesquieu, l.c., t. III, p. 12,13.) Über die Weiterentwicklung dieser Theorie durch Ricardo, seinen Schüler James Mill, Lord Overstone usw. vgl. "Zur Kritik etc.", p. 140-146, und p. 150 sqq. <Siehe Band 13, S. 134-140 und S. 143 ff.> Herr J. St. Mill versteht es, mit der ihm geläufigen eklektischen Logik, der Ansicht seines Vaters J. Mill und zugleich der entgegengesetzten zu sein. Vergleicht man den Text seines Kompendiums: "Princ. of Pol. Econ.", mit der Vorrede (erste Ausgabe), worin er sich selbst als Adam Smith der Gegenwart ankündet, so weiß man nicht, was mehr bewundern, die Naivetät des Mannes oder die des Publikums, das ihn auf Treu und Glauben in den Kauf nahm als Adam Smith, zu dem er sich etwa verhält wie General Williams Kars von Kars zum Herzog von Wellington. Die weder umfangreichen noch gehaltreichen Originalforschungen des Herrn J. St. Mill im Gebiet der Pol. Ök. findet man alle in Reih' und Glied aufmarschiert in seinem 1844 erschienenen Schriftchen: "Some Unsettled Questions of Political Economy." Locke spricht direkt den Zusammenhang zwischen der Wertlosigkeit von Gold und Silber und der Bestimmung ihres Werts durch Quantität aus. "Da die Menschen übereingekommen sind, Gold und Silber einen imaginären Wert zu verleihen ... ist der innere Wert, den man in diesen Metallen erblickt, nichts als ihre Quantität."("Some Considerations etc.", 1691, [in] "Works", ed. 1777, vol. II, p. 15.) <=
(81) Es liegt natürlich ganz jenseits meines Zwecks, Details wie Schlagschatz u. dgl. zu behandeln. Gegenüber dem romantischen Sykophanten Adam Müller jedoch, der "die großartige Liberalität" bewundert, womit die "englische Regierung unentgeltlich münzt", folgendes Urteil Sir Dudley Norths: "Silber und Gold haben wie andere Waren ihre Ebbe und Flut. Wenn eine Ladung aus Spanien ankommt, ... wird sie in den Tower gebracht und ausgemünzt. Nicht lange danach entsteht Nachfrage nach Barren für die Ausfuhr. Wenn nun keine vorhanden sind, sondern zufällig alles gemünzt ist, was dann? Man wird es wieder einschmelzen; dies bedeutet keinen Verlust, da das Münzen den Eigentümer nichts kostet. Aber die Nation hat den Schaden, denn sie zahlt dafür, daß Stroh, mit dem man Esel füttert, vorher geflochten wird. Wenn der Kaufmann" (North war selbst einer der größten Kaufleute zu Charles II. Zeit) "einen Preis für das Münzen zu zahlen hätte, würde er nicht, ohne zu überlegen, sein Silber in den Tower schicken, und gemünztes Geld würde dann stets einen höheren Wert haben als ungemünztes Silber." (North, l.c.p. 18.) <=
(82) "Wenn nie mehr Silbergeld vorhanden ist, als man für die kleineren Zahlungen benötigt, kann es nicht in für größere Zahlungen ausreichenden Mengen angesammelt werden ... Die Verwendung von Gold für große Zahlungen schließt notwendig auch seine Verwendung im Detailhandel ein: Wer Goldmünzen hat, benutzt sie auch bei kleineren Einkäufen und erhält mit der gekauften Ware den Rest in Silber zurück; dadurch wird der Überschuß an Silber, der sonst den Detailhändler belasten würde, diesem entzogen und in die allgemeine Zirkulation zurückgeführt. Wenn aber so viel Silber vorhanden ist, daß die kleinen Zahlungen unabhängig von Gold ausgeführt werden können, so wird der Detailhändler für kleine Käufe Silber erhalten, das sich dann notwendig bei ihm anhäufen wird." (David Buchanan, "Inquiry into the Taxation and Commercial Policy of Great Britain", Edinburgh 1844, p. 248, 249.) <=
(83) Der Finanzmandarin Wan-mao-in ließ sich beigehn, dem Sohn des Himmels ein Projekt zu unterbreiten, welches versteckt auf Verwandlung der chinesischen Reichsassignaten in konvertible Banknoten hinzielte. Im Bericht des Assignaten-Komitees vom April 1854 erhält er gehörig den Kopf gewaschen. Ob er auch die obligate Tracht Bambushiebe erhielt, wird nicht gemeldet. "Das Komitee", lautet es am Schluß des Berichts, "hat sein Projekt aufmerksam erwogen und findet, daß alles in ihm auf den Vorteil der Kaufleute ausgeht und nichts für die Krone vorteilhaft ist." ("Arbeiten der Kaiserlich Russischen Gesandtschaft zu Peking über China." Aus dem Russischen von Dr. K. Abel und F. A. Mecklenburg. Erster Band, Berlin 1858, p. 54.) Über die beständige Entmetallung der Goldmünzen durch ihren Umlauf sagt ein "Governor" der Bank of England als Zeuge vor dem "House of Lord's Committee" (über "Bankacts"): "Jedes Jahr wird eine frische Klasse von Souverainen" (dies nicht politisch, sondern der Sovereign ist Name des Pfd.St.)" zu leicht. Die Klasse, welche das eine Jahr als vollwichtig passiert, verliert durch den Verschleiß hinreichend, um das nächste Jahr die Waagschale gegen sich zu drehn."(H. o. Lords' Committee 1848, n. 429.) <=
(84) Note zur 2. Ausgabe. Wie unklar selbst die besten Schriftsteller über Geldwesen die verschiednen Funktionen des Geldes auffassen, zeigt z.B. folgende Stelle aus Fullarton: "Was unseren inländischen Austausch betrifft, können alle Geldfunktionen, die gewöhnlich von Gold- oder Silbermünzen erfüllt werden, ebenso wirksam durch eine Zirkulation von nicht einlösbaren Noten erfüllt werden, die keinen anderen Wert haben als diesen künstlichen und auf Übereinkunft beruhenden Wert, den sie durch Gesetz erhalten haben - eine Tatsache, die, denke ich, nicht geleugnet werden kann. Ein Wert dieser Art könnte all den Zwecken eines inneren Wertes dienstbar gemacht werden und sogar die Notwendigkeit eines Wertmaßstabs überflüssig machen, sofern nur die Quantität seiner Ausgaben in den gehörigen Schranken gehalten wird." (Fullarton, "Regulation of Currendies", 2. ed., London 1845, p. 21.) Also weil die Geldware durch bloße Wertzeichen in der Zirkulation ersetzt werden kann, ist sie als Maß der Werte und Maßstab der Preise überflüssig! <=
(85) Daraus, daß Gold und Silber als Münze oder in der ausschließlichen Funktion als Zirkulationsmittel zu Zeichen ihrer selbst werden, leitet Nicholas Barbon das Recht der Regierungen her, "to raise money" <"den Geldwert zu erhöhen">, d.h., z.B. einem Quantum Silber, das Groschen hieß, den Namen eines größeren Silberquantums, wie Taler, zu geben und so den Gläubigern Groschen statt Taler zurückzuzahlen. "Geld verbraucht sich und wird leichter durch vielfaches Auszählen ... Es ist die Benennung und der Kurs des Geldes, was die Leute im Handel beachten, und nicht die Menge des Silbers ... Es ist die Staatsautorität, die das Metall zum Gelde macht."(N. Barbon, l.c.p. 29, 30, 25.) <=
(86) "Reichtum an Geld ist nichts weiter als ... Reichtum an Erzeugnissen, die in Geld verwandelt worden sind." (Mercier de la Rivière, l.c.p. 573.) "Ein Wert in Form von Erzeugnissen hat nur die Form gewechselt." (ib., p. 486.) <=
(87) "Durch diese Maßnahme halten sie all ihre Güter und Fabrikate so niedrig im Preis." (Vanderlint, l.c.p. 95, 96.) <=
(88) "Geld ist ein Pfand." (John Bellers, "Essays about the Poor, Manufactures, Trade, Plantations, and Immorality", Lond. 1699, p. 13.) <=
(89) Kauf im kategorischen Sinn unterstellt nämlich Gold oder Silber schon als verwandelte Gestalt der Ware oder als Produkt des Verkaufs. <=
(90) Heinrich III., allerchristlichster König von Frankreich, raubt Klöstern usw. ihre Reliquien, um sie zu versilbern. Man weiß, welche Rolle der Raub der delphischen Tempelschätze durch die Phokäer in der griechischen Geschichte spielt. Dem Gott der Waren dienten bei den Alten bekanntlich die Tempel zum Wohnsitz. Sie waren "heilige Banken". Den Phöniziern, einem Handelsvolke par excellence, galt Geld als die entäußerte Gestalt aller Dinge. Es war daher in der Ordnung, daß die Jungfrauen, die sich an den Festen der Liebesgöttin den Fremden hingaben, das zum Lohn empfangene Geldstück der Göttin opferten. <=
(91) "Gold! kostbar, flimmernd, rotes Gold!
Soviel hievon, macht schwarz weiß, häßlich schön;
Schlecht gut, alt jung, feig tapfer, niedrig edel.
... Ihr Götter! warum dies? warum dies, Götter;
Ha! dies lockt Euch den Priester vom Altar;
Reißt Halbgenes'nen weg das Schlummerkissen;
Ja dieser rote Sklave löst und bindet
Geweihte Bande; segnet den Verfluchten;
Er macht den Aussatz lieblich; ehrt den Dieb,
Und gibt ihm Rang, gebeugtes Knie und Einfluß
Im Rat der Senatoren; dieser führt
Der überjähr'gen Witwe Freier zu;
... Verdammt Metall,
Gemeine Hure du der Menschen."
(Shakespeare, "Timon of Athens".) <=

(92) "Denn kein so schmählich Übel, wie des Geldes Wert,
Erwuchs den Menschen: dies vermag die Städte selbst
Zu brechen, dies treibt Männer aus von Hof und Herd;
Dies unterweiset und verkehrt den edlen Sinn
Rechtschaff'ner Männer, nachzugeh'n ruchloser Tat,
Zeigt an die Wege böser List den Sterblichen,
Und bildet sie zu jedem gottverhaßten Werk."
(Sophokles, "Antigone".) <=
(93) "Der Geiz hofft Pluton selbst aus dem Innern der Erde zu ziehen." (Athen[aeus], "Deipnos".) <=
(94) "Die Zahl der Verkäufer jeder Ware soweit wie möglich zu vermehren, die Zahl der Käufer soweit wie möglich zu vermindern, das sind die Angelpunkte, um die sich alle Maßnahmen der politischen Ökonomie drehen." (Verri, l.c.p. 53, 53.) <=
(95) "Um Handel zu treiben, bedarf jede Nation einer bestimmten Summe von specifick money <Metallgeld>, die wechselt und manchmal größer, manchmal kleiner ist, so wie es die Verhältnisse fordern ... Diese Ebben und Fluten des Geldes regeln sich selbst ohne jede Hilfe der Politiker ... Die Eimer arbeiten abwechselnd: wenn das Geld knapp ist, werden Barren gemünzt; sind Barren knapp, werden Münzen eingeschmolzen." (Sir D. North, l.c. [Postscript,] p.3.) John Stuart Mill, lange Zeit Beamter der Ostindischen Kompanie, bestätigt, daß in Indien immer noch der Silberschmuck unmittelbar als Schatz funktioniert. Die "silbernen Schmuckstücke werden zum Ausmünzen gebracht, wenn ein hoher Zinssatz besteht; sie wandern zurück, wenn der Zinssatz fällt". (J. St. Mills Evidence [in] "Repts. on Bankacts", 1857, n. 2084, 2101.) Nach einem parlamentarischen Dokument von 1864 über Gold- und Silberimport und -export in Indien überstieg 1863 der Import von Gold und Silber den Export um 19.367.764 Pfd.St. In den letzten 8 Jahren vor 1864 betrug der Excess des Imports über den Export der edlen Metalle 109.652.917 Pfd.St. Während dieses Jahrhunderts wurden weit über 200.000.000 Pfd.St. in Indien gemünzt. <=
(96) Luther unterscheidet zwischen Geld als Kaufmittel und Zahlungsmittel. "Machest mir einen Zwilling aus dem Schadewacht, das ich hie nicht bezalen und dort nicht kauffen kann." (Martin Luther, "An die Pfaffherrn, wider den Wucher zu predigen", Wittenberg 1540.) <=
(97) Über die Schuldner- und Gläubigerverhältnisse unter den englischen Handelsleuten Anfang des 18. Jahrhunderts: "Unter den Handelsleuten herrscht hier in England ein solcher Geist der Grausamkeit, wie er in keiner anderen menschlichen Gesellschaft und in keinem anderen Land der Welt anzutreffen ist." ("An Essay on Credit and the Bankrupt Act", Lond. 1707, p. 2.) <=
(98) Note zur 2. Ausg. Aus folgendem, meiner 1859 erschienenen Schrift entlehnten Zitat wird man sehn, warum ich im Text keine Rücksicht nehme auf eine entgegengesetzte Form: "Umgekehrt kann im Prozeß G - W das Geld als wirkliches Kaufmittel entäußert und der Preis der Ware so realisiert werden, ehe der Gebrauchswert des Geldes realisiert oder die Ware veräußert wird. Dies findet z.B. statt in der alltäglichen Form der Pränumeration. Oder in der Form, worin die englische Regierung das Opium der Ryots in Indien ... kauft. So wirkt jedoch das Geld nur in der schon bekannten Form des Kaufmittels ... Kapital wird natürlich auch in der Form des Geldes avanciert ... Dieser Gesichtspunkt fällt aber nicht in den Horizont der einfachen Zirkulation." ("Zur Kritik etc.", p.119, 120. <Siehe Band 13, S.117>) <=
(99) Die Geldkrise, wie im Text bestimmt als besondre Phase jeder allgemeinen Produktions- und Handelskrise, ist wohl zu unterscheiden von der speziellen Sorte der Krise, die man auch Geldkrise nennt, die aber selbständig auftreten kann, so daß sie auf Industrie und Handel nur rückschlagend wirkt. Es sind dies Krisen, deren Bewegungszentrum das Geld-Kapital ist, und daher Bank, Börse, Finanz ihre unmittelbare Sphäre. (Note von M. zur 3. Aufl.) <=
(100) "Dieses plötzliche Umschlagen aus dem Kreditsystem in das Monetarsystem fügt den theoretischen Schrecken zum praktischen Panik: und die Zirkulationsagenten schaudern vor dem undurchdringlichen Geheimnis ihrer eignen Verhältnisse." (Karl Marx, l.c.p. 126.<Siehe Band 13, S. 123>) "Die Armen haben keine Arbeit, weil die Reichen kein Geld haben, um sie zu beschäftigen, obwohl sie die gleichen Ländereien und die gleiche Arbeitskräfte besitzen wie früher, um Lebensmittel und Kleider herstellen zu lassen: diese aber bilden den wahren Reichtum einer Nation und nicht das Geld." (John Bellers, "Proposals for raising a Colledge of Industry", Lond. 1696, p. 3, 4.) <=
(101) Wie solche Momente von den "amis du commerce" <"Freunden des Handels"> ausgebeutet werden: "Bei einer Gelegenheit" (1839) "hob ein alter habsüchtiger Bankier" (der City) "in seinem Privatzimmer den Deckel des Schreibtisches, an dem er saß, und breitete vor einem Freunde Bündel von Banknoten aus; mit innigem Vergnügen sagte er, das seien 600.000 Pfd.St., die zurückgehalten worden wären, um das Geld knapp zu machen, und die alle in den Verkehr gebracht würden nach 3 Uhr desselben Tages." ([H. Roy,] "The Theory of the Exchanges. The Bank Charter Act of 1844", Lond. 1864, p.81.) Das halboffizielle Organ, "The Observer", bemerkt am 24. April 1864: "Einige sehr eigenartige Gerüchte sind im Umlauf über die Mittel, die in der Absicht, eine Knappheit in Banknoten herbeizuführen, angewendet worden sind ... So fragwürdig es auch scheinen mag anzunehmen, daß irgendwelche derartige Tricks angewendet werden könnten, so war die Nachricht darüber doch so weit verbreitet, daß man sie in der Tat erwähnen muß."<=
(102) "Der Umfang der Verkäufe oder Verträge, die während eines bestimmten Tages abgeschlossen werden, beeinflußt nicht die Geldmenge, die an diesem Tage umläuft, aber in der großen Mehrzahl der Fälle wird sie sich auflösen in mannigfaltiges Ziehen von Wechseln auf die Geldmenge, die an späteren, mehr oder weniger fernen Tagen im Umlauf sein mag ... Die heute gewährten Wechsel oder eröffneten Kredite brauchen weder in der Zahl noch in der Höhe noch in der Laufzeit irgendeine Ähnlichkeit zu haben mit denen, die auf morgen oder übermorgen gewährt oder aufgenommen wurden; vielmehr decken sich viele der heutigen Wechsel und Kredite, wenn fällig, mit einer Menge von Verbindlichkeiten, deren Ursprung sich über eine Reihe früherer, völlig unbestimmter Daten verteilt. Wechsel mit 12, 6, 3 oder 1 Monat Laufzeit treffen oft so zusammen, daß sie die an einem bestimmten Tage fälligen Verbindlichkeiten besonders anwachsen lassen ..." ("The Currency Theory Reviewed; a letter to the Scotch people. By a Banker in England", Edinburgh 1845, p. 29, 30 passsim.) <=
(103) Als Beispiel, wie wenig reelles Geld in die eigentlichen Handelsoperationen eingeht, folgt hier das Schema eines der größten Londoner Handelshäuser (Morrison, Dillon & Co.) über seine jährlichen Geldeinnahmen und Zahlungen. Seine Transaktionen im Jahr 1856, die viele Millionen Pfd.St. umfassen, sind auf den Maßstab einer Million verkürzt.
Einnahmen Pfd.St. Ausgaben Pfd.St.
Wechsel von Bankiers und Kaufleuten nach Datum zahlbar 553.596 Wechsel nach Datum zahlbar 302.674
Cheques von Bankiers etc. bei Sicht zahlbar 357.715 Cheques auf Londoner Bankiers 663.672
Landbank-Noten 9.627 Noten der Bank von England 22.743
Noten der Bank von England 68.554 Gold 9.427
Gold 28.089 Silber und Kupfer 1.484
Silber und Kupfer 1.486
Post Office Orders <Postanweisungen> 933

Totalsumme: 1.000.000 Totalsumme: 1.000.000
("Report from the Select Committee on the Bankacts", July 1858, p. LXXI.) <=
(104) "Der Charakter des Geschäftsverkehrs hat sich derartig gewandelt, daß statt Tausch von Güter gegen Güter oder statt Lieferung und Abnahme, jetzt Verkauf und Bezahlung stattfindet und alle Geschäfte ... sich nunmehr als reine Geldgeschäfte darstellen." ([D. Defoe,] "An Essay upon Publick Credit", 3. ed., Lond. 1710, p. 8.) <=
(105) "Das Geld ist der Henker aller Dinge geworden." Die Finanzkunst ist "die Retorte, in der eine schreckenerregende Menge von Gütern und Waren verdampft worden ist, um diesen unheilvollen Extrakt zu gewinnen". "Das Geld erklärt dem ganzen Menschengeschlecht den Krieg." (Boisguillebert, "Dissertation sur la nature des richesses, de l'argent et des tributs", édit. Daire, "Économistes financiers", Paris 1843, t. I, p. 413, 419, 417, 418.) <=
(106) "Pfingstmontag 1824", erzählt Herr Craig dem parlamentarischen Untersuchungskomitee von 1826, "war eine solche ungeheure Nachfrage für Banknoten in Edinburgh, daß wir um 11 Uhr keine einzige Note mehr in unsrem Verwahrsam hatten. Wir sandten der Reihe nach zu den verschiednen Banken, um welche zu borgen, konnten aber keine erhalten, und viele Transaktionen konnten nur durch slips of paper <Zettel> berichtigt werden. Um 3 Uhr nachmittags jedoch waren bereits sämtliche Noten returniert zu den Banken, von denen sie ausliefen. Sie hatten nur die Hände gewechselt." Obgleich die effektive Durchschnittszirkulation der Banknoten in Schottland weniger als 3 Mill. Pfd.St. beträgt, wird dennoch, an verschiednen Zahlungsterminen im Jahr, jede im Besitz der Bankiers befindliche Note, alles in allem ungefähr 7 Mill. Pfd.St., in Aktivität gerufen. Bei diesen Gelegenheiten haben die Noten eine einzige und spezifische Funktion zu vollziehen, und sobald sie vollzogen, fließen sie zu den respektiven Banken zurück, von denen sie ausliefen. (John Fullarton,"Regulation of Currencies", 2nd. ed. Lond. 1845, p. 86, Nte.) Zum Verständnis ist hinzuzufügen, daß in Schottland zur Zeit von Fullartons Schrift nicht cheques, sondern nur Noten für die Deposits ausgegeben wurden. <=
(107) Auf die Frage, "ob, wenn die Notwendigkeit bestände, 40 Millionen im Jahre umzusetzen, dieselben 6 Millionen" (Gold) "für die sich ergebenden Umläufe und Kreisläufe genügen würden, die der Handel erfordere?" antwortet Petty mit seiner gewohnten Meisterschaft: "Ich antworte ja: für den Betrag von 40 Millionen würden schon 40/52 von 1 Million ausreichen, wenn die Umläufe so kurzfristige, d.h. wöchentliche wären, wie das unter armen Handwerkern und Arbeitern geschieht, die jeden Sonnabend erhalten und zahlen; wenn jedoch die Termine vierteljährlich sind, wie bei uns üblicherweise Pacht gezahlt und Steuern erhoben werden, dann benötigt man 10 Millionen. Wenn wir also annehmen, daß im allgemeinen die Zahlungen zu verschiedenen Terminen zwischen 1 und 13 Wochen erfolgen, muß man 10 Millionen zu 40/52 addieren, wovon die Hälfte ca. 51/2 Millionen beträgt, so daß also 51/2 Millionen ausreichen würden." (William Petty, "Political Anatomy of Ireland. 1672", edit. Lond. 1691, p. 13, 14.) <=
(108) Daher die Abgeschmacktheit jeder Gesetzgebung, die den Nationalbanken vorschreibt, nur das edle Metall aufzuschatzen, das im Innern des Landes als Geld funktioniert. Die so selbstgeschaffnen "holden Hindernisse" der Bank von England z.B. sind bekannt. Über die großen historischen Epochen des relativen Wertwechsels von Gold und Silber sieh Karl Marx, l.c.p. 136 sq. <Siehe Band 13, S. 131 f.> - Zusatz zur 2. Ausgabe: Sir Robert Peel suchte in seinem Bankact von 1844 dem Mißstand dadurch abzuhelfen, daß er der Bank von England erlaubte, Noten auf Silberbullion auszugeben, so daß jedoch der Silbervorrat nie mehr als ein Viertel des Goldvorrats. Der Silberwert wird dabei geschätzt nach seinem Marktpreis (in Gold) auf dem Londoner Markt. {Zur 4. Auflage. - Wir befinden uns wieder in einer Epoche starken relativen Wertwechsels von Gold und Silber. Vor etwa 25 Jahren war das Wertverhältnis des Goldes zum Silber = 151/2: 1, jetzt ist es ungefähr = 22: 1, und Silber fällt noch fortwährend gegen Gold. Dies ist wesentlich Folge einer Umwälzung in der Produktionsweise beider Metalle. Früher wurde Gold fast nur durch Auswaschen goldhaltiger Alluvialschichten, der Verwitterungsprodukte goldhaltiger Gesteine, gewonnen. Jetzt reicht diese Methode nicht mehr aus und ist in den Hintergrund gedrängt durch die früher nur in zweiter Linie betriebne, obwohl schon den Alten (Diodor, III, 12-14) wohlbekannte Bearbeitung der goldhaltigen Quarzgänge selbst. Andrerseits wurden nicht nur im Westen der amerikanischen Felsengebirge ungeheure neue Silberlager entdeckt, sondern diese und die mexikanischen Silbergruben durch Eisenbahnen erschlossen, die Zufuhr von moderner Maschinerie und von Brennstoff und dadurch Silbergewinnung auf größtem Maßstab und mit geringeren Kosten ermöglicht. Es besteht aber ein großer Unterschied in der Art, wie beide Metalle in den Erzgängen vorkommen. Das Gold ist meist gediegen, aber dafür in winzig kleinen Mengen im Quarz zerstreut; die ganze Gangart muß daher zerstampft und das Gold ausgewaschen, resp. durch Quecksilber ausgezogen werden. Auf 1.000.000 Gramm Quarz kommt dann oft kaum 1-3, sehr selten 30-60 Gramm Gold. Silber kommt selten gediegen, dafür aber in eignen, verhältnismäßig leicht von der Gangart zu trennenden Erzen vor, die meist von 40-90 Prozent Silber enthalten; oder aber es ist in geringeren Mengen enthalten in den an sich schon Bearbeitung lohnenden Erzen von Kupfer, Blei etc. Schon hieraus geht hervor, daß, während die Produktionsarbeit des Goldes sich eher vermehrt, die des Silbers sich entschieden vermindert hat, der Wertfall des letztren sich also ganz natürlich erklärt. Dieser Wertfall würde sich in noch größrem Preisfall ausdrücken, würde nicht der Silberpreis auch jetzt noch durch künstliche Mittel hochgehalten. Die Silberschätze von Amerika sind aber erst zum kleinen Teil zugänglich gemacht, und so ist alle Aussicht vorhanden, daß der Silberwert noch längere Zeit am Sinken bleibt. Hierzu muß noch mehr beitragen die relative Abnahme des Silberbedarfs für Gebrauchs- und Luxusartikel, sein Ersatz durch plättierte Waren, Aluminium etc. Danach ermesse man den Utopismus der bimetallistischen Vorstellung, ein internationaler Zwangskurs werde das Silber auf das alte Wertverhältnis von 1: 151/2 wieder hinaufschrauben. Eher dürfte das Silber auch auf dem Weltmarkt seine Geldqualität mehr und mehr einbüßen. - F. E.} <=
(109) Die Gegner des Merkantilsystems, welches die Saldierung überschüssiger Handelsbilanz durch Gold und Silber als Zweck des Welthandels behandelte, verkannten ihrerseits durchaus die Funktion des Weltgeldes. Wie die falsche Auffassung der Gesetze, welche die Masse der Zirkulationsmittel regeln, sich in der falschen Auffassung der internationalen Bewegung der edlen Metalle nur widerspiegelt, habe ich ausführlich an Ricardo nachgewiesen (l.c.p. 150 sqq. <Siehe Band 13, S. 143 ff.>). Sein falsches Dogma: "Eine ungünstige Handelsbilanz kann nie anders als durch als durch eine Überfülle von Zirkulationsmitteln entstehen ... Die Ausfuhr von Münzen ist ihrer Billigkeit geschuldet, und ist nicht die Frage, sondern die Ursache einer ungünstigen Bilanz" findet man daher schon bei Barbon: "Die Handelsbilanz, wenn es eine solche gibt, ist nicht die Ursache dafür, daß das Geld aus einem Lande ausgeführt wird. Die Ausfuhr ergibt sich vielmehr aus dem Wertunterschied der Edelmetalle in jedem Land." (N. Barbon, l.c.p. 59.) MacCulloch in "The Literature of Political Economy: a classified Catalogue", Lond. 1845, belobt Barbon für diese Antizipation, vermeidet aber wohlweislich die naiven Formen, worin bei B. die absurden Voraussetzungen des "currency prindiple" noch erscheinen, auch nur zu erwähnen. Die Kritiklosigkeit und selbst Unehrlichkeit jenes Katalogs gipfeln in den Abschnitten über die Geschichte der Geldtheorie, weil MacCulloch hier als Sykophant des Lord Overstone (ex-banker Loyd), den er "facile princeps argentariorum" <"den anerkannten König der Geldleute"> nennt, schwanzwedelt. <=
(110) Z.B. bei Subsidien, Geldanleihen zur Kriegführung oder zur Wiederaufnahme der Barzahlungen von Banken usw. kann Wert grade in der Geldform erheischt sein. <=
(110a) Note zur 2. Ausgabe: "Tatsächlich könnte ich mir keinen überzeugenderen Beweis dafür wünschen, daß der Mechanismus der Schatzbildung in Ländern mit Metallwährung imstande ist, jede notwendige Funktion bei Begleichung internationaler Verbindlichkeiten zu erfüllen, und zwar ohne wahrnehmbare Unterstützung durch die allgemeine Zirkulation, als die Leichtigkeit, mit der Frankreich, das erst im Begriffe war, sich von der Erschütterung durch eine zerstörende Invasion zu erholen, in einem Zeitraum von 27 Monaten die Zahlung der ihm auferlegten Kriegsentschädigung von fast 20 Millionen an die verbündeten Mächte leistete, und zwar einen beträchtlichen Teil dieser Summe in Metallgeld, ohne merkbare Einschränkung oder Störung des inländischen Geldumlaufs oder irgendwelche alarmierende Schwankungen seines Wechselkurses." (Fullarton, l.c.p. 141.) {Zur 4. Auflage. - Ein noch schlagenderes Beispiel haben wir in der Leichtigkeit, womit dasselbe Frankreich 1871-1873 in 30 Monaten eine mehr als zehnfach größere Kriegsentschädigung, ebenfalls zum bedeutenden Teil in Metallgeld, abzutragen imstande war. - F. E.} <=
(111) "Das Geld verteilt sich auf die Nationen nach ihren Bedürfnissen ... indem es immer durch die Produkte angezogen wird." (Le Trosne, l.c.p. 916.) "Die Minen, die fortwährend Gold und Silber liefern, sind ergiebig genug, um jeder Nation dieses notwendige Quantum zu liefern." (J. Vanderlint, l.c.p. 40.) <=
(112) "Die Wechselkurse steigen und fallen in jeder Woche, sie steigen zu bestimmten Zeiten des Jahres zuungunsten einer Nation in die Höhe und erreichen zu anderen Zeiten die gleiche Höhe zu deren Vorteil." (N. Barbon, l.c.p. 39.) <=
(113) Diese verschiednen Funktionen können in gefährlichen Konflikt geraten, sobald die Funktion eines Konversionsfonds für Banknoten hinzutritt. <=
(114) "Was an Geld mehr vorhanden ist, als für den inländischen Handel unbedingt notwendig, stellt totes Kapital dar, und bringt dem Lande, das es besitzt, keinen Gewinn, außer wenn es selbst exportiert bzw. importiert wird." (John Bellers, "Essays etc.", p. 13.) "Was aber, wenn wir nun zuviel gemünztes Geld haben? Wir können dann das vollwichtigste einschmelzen und es zu prächtigen Tischgerät, zu Gefäßen und Hausrat aus Gold und Silber umarbeiten; oder es als Ware dorthin schicken, wo Bedarf und Nachfrage danach besteht; oder es dort auf Zins ausleihen, wo man einen hohen Zinssatz zahlt." (W. Petty, "Quantulumcunque", p. 39.) "Geld ist nur das Fett des Staatskörpers, weshalb zuviel davon ebenso seine Beweglichkeit behindert, wie zu wenig ihn krank macht ... wie Fett die Bewegung der Muskeln geschmeidig macht, fehlende Nahrungsmittel ersetzt, Unebenheiten ausfüllt und den Körper verschönt, so erleichtert das Geld die Bewegungen des Staates, bringt, wenn Teuerung im Inlande, vom Auslande Lebensmittel herein, begleicht Schuldenrechnungen ... und verschönt das Ganze; allerdings", ironisch abschließend, "ganz besonders die einzelnen Personen, die viel davon haben." (W. Petty, "Political anatomy of Ireland", p. 14, 15.) <=

.・abstrakter menschlicher Arbeit
/ abstrakter menschlicher Arbeit

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 D. ヘーゲル「小論理学」
Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse
D.ヘーゲル「小論理学」§84-§159_2020.01.14


 Erste Abteilung der Logik. Die Lehre vom Sein
§ 84
Das Sein ist der Begriff nur an sich; die Bestimmungen desselben sind seiende, in ihrem Unterschiede Andere gegeneinander, und ihre weitere Bestimmung (die Form des Dialektischen) ist ein Übergehen in Anderes. Diese Fortbestimmung ist in einem ein Heraussetzen und damit Entfalten des an sich seienden Begriffs und zugleich das Insichgehen des Seins, ein Vertiefen desselben in sich selbst. Die Explikation des Begriffs in der Sphäre des Seins wird ebensosehr die Totalität des Seins, als damit die Unmittelbarkeit des Seins oder die Form des Seins als solchen aufgehoben wird.
§ 85
Das Sein selbst sowie die folgenden Bestimmungen nicht nur des Seins, sondern die logischen Bestimmungen überhaupt können als Definitionen des Absoluten, als die metaphysischen Definitionen Gottes angesehen werden; näher jedoch immer nur die erste einfache Bestimmung einer Sphäre, und dann die dritte, als welche die Rückkehr aus der Differenz zur einfachen Beziehung auf sich ist. Denn Gott metaphysisch definieren heißt, dessen Natur in Gedanken als solchen ausdrücken; die Logik aber umfaßt alle Gedanken, wie sie noch in der Form von Gedanken sind. Die zweiten Bestimmungen, als welche eine Sphäre in ihrer Differenz sind, dagegen sind die Definitionen des Endlichen. Wenn aber die Form von Definitionen gebraucht würde, so würde sie dies enthalten, daß ein Substrat der Vorstellung vorschwebt; denn auch das Absolute, als welches Gott im Sinne und in der Form des Gedankens ausdrücken soll, bleibt im Verhältnisse zu seinem Prädikate, dem bestimmten und wirklichen Ausdruck in Gedanken, nur ein gemeinter Gedanke, ein für sich unbestimmtes Substrat. Weil der Gedanke, die 8/181 Sache, um die es hier allein zu tun ist, nur im Prädikate enthalten ist, so ist die Form eines Satzes, wie jenes Subjekt, etwas völlig Überflüssiges (vgl. § 31 und unten Kap. vom Urteile [§ 166 ff.]).
Zusatz. Eine jede Sphäre der logischen Idee erweist sich als eine Totalität von Bestimmungen und als eine Darstellung des Abstrakten. So auch das Sein, welches die drei Stufen der Qualität, der Quantität und des Maßes in sich enthält. Die Qualität ist zunächst die mit dem Sein identische Bestimmtheit, dergestalt, daß etwas aufhört, das zu sein, was es ist, wenn es seine Qualität verliert. Die Quantität ist dagegen die dem Sein äußerliche, für dasselbe gleichgültige Bestimmtheit. So bleibt z. B. ein Haus das, was es ist, es mag größer oder kleiner sein, und Rot bleibt Rot, es mag dasselbe heller oder dunkler sein. Die dritte Stufe des Seins, das Maß, ist die Einheit der beiden ersten, die qualitative Quantität. Alle Dinge haben ihr Maß, d. h. sie sind quantitativ bestimmt, und ihr so oder so groß Sein ist für dieselben gleichgültig; zugleich hat aber auch diese Gleichgültigkeit ihre Grenze, bei deren Überschreitung durch ein weiteres Mehr oder Weniger die Dinge aufhören, das zu sein, was sie waren. Vom Maß aus ergibt sich dann der Fortgang zur zweiten Hauptsphäre der Idee, zum Wesen.
Die hier genannten drei Formen des Seins sind, eben weil es die ersten sind, zugleich die ärmsten, d. h. abstraktesten. Das unmittelbare, sinnliche Bewußtsein ist, insofern sich dasselbe zugleich denkend verhält, vornehmlich auf die abstrakten Bestimmungen der Qualität und der Quantität beschränkt. Dies sinnliche Bewußtsein pflegt als das konkreteste und damit zugleich reichste betrachtet zu werden; dies ist es jedoch nur dem Stoff nach, wohingegen dasselbe in Hinsicht auf seinen Gedankeninhalt in der Tat das ärmste und abstrakteste ist.

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Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / A. Qualität


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Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / b. Dasein

A. Qualität
a. Sein
§ 86
Das reine Sein macht den Anfang, weil es sowohl reiner Gedanke als das unbestimmte, einfache Unmittelbare ist, der 8/182 erste Anfang aber nichts Vermitteltes und weiter Bestimmtes sein kann.
Alle Zweifel und Erinnerungen, die gegen das Anfangen der Wissenschaft mit dem abstrakten leeren Sein gemacht werden könnten, erledigen sich durch das einfache Bewußtsein dessen, was die Natur des Anfangs mit sich bringt. Sein kann bestimmt werden als Ich = Ich, als die absolute Indifferenz oder Identität usf. Im Bedürfnisse, entweder mit einem schlechthin Gewissen, d. i. der Gewißheit seiner selbst, oder mit einer Definition oder Anschauung des absoluten Wahren anzufangen, können diese und andere dergleichen Formen dafür angesehen werden, daß sie die ersten sein müssen. Aber indem innerhalb jeder dieser Formen bereits Vermittlung ist, so sind sie nicht wahrhaft die ersten; die Vermittlung ist ein Hinausgegangensein aus einem Ersten zu einem Zweiten und Hervorgehen aus Unterschiedenen. Wenn Ich = Ich oder auch die intellektuelle Anschauung wahrhaft als nur das Erste genommen wird, so ist es in dieser reinen Unmittelbarkeit nichts anderes als Sein, so wie das reine Sein umgekehrt als nicht mehr dieses abstrakte, sondern in sich die Vermittlung enthaltende Sein, reines Denken oder Anschauen ist.
Wird Sein als Prädikat des Absoluten ausgesagt, so gibt dies die erste Definition desselben: Das Absolute ist das Sein. Es ist dies die (im Gedanken) schlechthin anfängliche, abstrakteste und dürftigste. Sie ist die Definition der Eleaten, aber zugleich auch das Bekannte, daß Gott der Inbegriff aller Realitäten ist. Es soll nämlich von der Beschränktheit, die in jeder Realität ist, abstrahiert werden, so daß Gott nur das Reale in aller Realität, das Allerrealste sei. Indem Realität bereits eine Reflexion enthält, so ist dies unmittelbarer in dem ausgesprochen, was Jacobi von dem Gotte des Spinoza sagt, daß er das Principium des Seins in allem Dasein sei. 8/183
Zusatz 1. Wir haben, wenn angefangen wird zu denken, nichts als den Gedanken in seiner reinen Bestimmungslosigkeit, denn zur Bestimmung gehört schon Eines und ein Anderes; im Anfang aber haben wir noch kein Anderes. Das Bestimmungslose, wie wir es hier haben, ist das Unmittelbare, nicht die vermittelte Bestimmungslosigkeit, nicht die Aufhebung aller Bestimmtheit, sondern die Unmittelbarkeit der Bestimmungslosigkeit, die Bestimmungslosigkeit vor aller Bestimmtheit, das Bestimmungslose als Allererstes. Dies aber nennen wir das Sein. Dieses ist nicht zu empfinden, nicht anzuschauen und nicht vorzustellen, sondern es ist der reine Gedanke, und als solcher macht es den Anfang. Auch das Wesen ist ein Bestimmungsloses, aber das Bestimmungslose, welches als bereits durch die Vermittlung gegangen die Bestimmung schon als aufgehoben in sich enthält.
Zusatz 2. Die verschiedenen Stufen der logischen Idee finden wir in der Geschichte der Philosophie in der Gestalt nacheinander hervorgetretener philosophischer Systeme, deren jedes eine besondere Definition des Absoluten zu seiner Grundlage hat. So wie nun die Entfaltung der logischen Idee sich als ein Fortgang vom Abstrakten zum Konkreten erweist, ebenso sind dann auch in der Geschichte der Philosophie die frühesten Systeme die abstraktesten und damit zugleich die ärmsten. Das Verhältnis aber der früheren zu den späteren philosophischen Systemen ist im allgemeinen dasselbe wie das Verhältnis der früheren zu den späteren Stufen der logischen Idee, und zwar von der Art, daß die früheren die späteren als aufgehoben in sich enthalten. Dies ist die wahre Bedeutung der in der Geschichte der Philosophie vorkommenden und so oft mißverstandenen Widerlegung des einen philosophischen Systems durch ein anderes, und näher des früheren durch die späteren. Wenn vom Widerlegen einer Philosophie die Rede ist, so pflegt dies zunächst nur im abstrakt negativen Sinn genommen zu werden, dergestalt, daß die widerlegte Philosophie überhaupt nicht mehr gilt, daß dieselbe beseitigt und abgetan ist. Wenn dem so wäre, so müßte das Studium der Geschichte der Philosophie als ein durchaus trauriges Geschäft betrachtet werden, da dieses Studium lehrt, wie alle im Verlauf der Zeit hervorgetretenen philosophischen Systeme ihre Widerlegung gefunden haben. Nun aber muß, ebensogut als zuzugeben ist, daß alle Philosophie widerlegt worden sind, zugleich auch behauptet werden, daß keine Philosophie widerlegt worden ist noch auch widerlegt zu werden vermag. Letzteres ist in der gedoppelten Beziehung der Fall, als einmal eine jede Philosophie, welche diesen Namen verdient, die Idee überhaupt zu ihrem Inhalt hat und als zweitens ein jedes 8/184 philosophisches System als die Darstellung eines besonderen Momentes oder einer besonderen Stufe im Entwicklungsprozeß der Idee zu betrachten ist. Das Widerlegen einer Philosophie hat also nur den Sinn, daß deren Schranke überschritten und daß das bestimmte Prinzip derselben zu einem ideellen Moment herabgesetzt wird. Die Geschichte der Philosophie hat es somit ihrem wesentlichen Inhalt nach nicht mit Vergangenem, sondern mit Ewigem und schlechthin Gegenwärtigem zu tun und ist in ihrem Resultat nicht einer Galerie von Verirrungen des menschlichen Geistes, sondern vielmehr einem Pantheon von Göttergestalten zu vergleichen. Diese Göttergestalten aber sind die verschiedenen Stufen der Idee, wie solche in dialektischer Entwicklung nacheinander hervortreten. Während es nun der Geschichte der Philosophie überlassen bleibt, näher nachzuweisen, inwiefern die in derselben stattfindende Entfaltung ihres Inhalts mit der dialektischen Entfaltung der reinen logischen Idee einerseits übereinstimmt und andererseits von derselben abweicht, so ist hier zunächst nur zu erwähnen, daß der Anfang der Logik derselbe ist wie der Anfang der eigentlichen Geschichte der Philosophie. Diesen Anfang finden wir in der eleatischen und näher in der Philosophie des Parmenides, welcher das Absolute als das Sein auffaßt, indem er sagt: "das Sein nur ist, und das Nichts ist nicht". Es ist dies um deswillen als der eigentliche Anfang der Philosophie zu betrachten, weil die Philosophie überhaupt denkendes Erkennen, hier aber zuerst das reine Denken festgehalten und sich selbst gegenständlich geworden ist.
Gedacht haben zwar die Menschen von Anfang an, denn nur durch das Denken unterscheiden sie sich von den Tieren; allein es haben Jahrtausende dazu gehört, bevor es dazu gekommen ist, das Denken in seiner Reinheit und dasselbe zugleich als das schlechthin Objektive zu erfassen. Die Eleaten sind berühmt als kühne Denker; zu dieser abstrakten Bewunderung gesellt sich dann aber häufig die Bemerkung, diese Philosophen seien doch zu weit gegangen, indem dieselben bloß das Sein als das Wahre anerkannt und allem, was sonst noch den Gegenstand unseres Bewußtseins bildet, die Wahrheit abgesprochen. Nun ist es zwar ganz richtig, daß beim bloßen Sein nicht stehengeblieben werden darf; allein es ist gedankenlos, den sonstigen Inhalt unseres Bewußtseins als gleichsam neben und außer dem Sein befindlich oder als etwas zu betrachten, was es nur auch gibt. Das wahre Verhältnis ist dagegen dieses, daß das Sein als solches nicht ein Festes und Letztes, sondern vielmehr als dialektisch in sein Entgegengesetztes umschlägt, welches, gleichfalls unmittelbar genommen, das Nichts ist. Es bleibt somit dabei, daß das Sein der erste reine Gedanke ist und 8/185 daß, womit auch sonst der Anfang gemacht werden mag (mit dem Ich = Ich, mit der absoluten Indifferenz oder mit Gott selbst), dies Sonstige zunächst nur ein Vorgestelltes und nicht ein Gedachtes, und daß dasselbe seinem Gedankeninhalt nach eben nur das Sein ist.
§ 87
Dieses reine Sein ist nun die reine Abstraktion, damit das Absolut-Negative, welches, gleichfalls unmittelbar genommen, das Nichts ist.
1. Es folgte hieraus die zweite Definition des Absoluten, daß es das Nichts ist; in der Tat ist sie darin enthalten, wenn gesagt wird, daß das Ding-an-sich das Unbestimmte, schlechthin Form- und damit Inhaltslose ist, - oder auch, daß Gott nur das höchste Wesen und sonst weiter nichts ist, denn als solches ist er als ebendieselbe Negativität ausgesprochen; das Nichts, das die Buddhisten zum Prinzip von allem wie zum letzten Endzweck und Ziel von allem machen, ist dieselbe Abstraktion. - 2. Wenn der Gegensatz in dieser Unmittelbarkeit als Sein und Nichts ausgedrückt ist, so scheint es als zu auffallend, daß er nichtig sei, als daß man nicht versuchen sollte, das Sein zu fixieren und es gegen den Übergang zu bewahren. Das Nachdenken muß in dieser Hinsicht darauf verfallen, für das Sein eine feste Bestimmung aufzusuchen, durch welche es von dem Nichts unterschieden wäre. Man nimmt z. B. als das in allem Wechsel Beharrende, die unendlich bestimmbare Materie usf. oder auch ohne Nachdenken als irgendeine einzelne Existenz, das nächstbeste Sinnliche oder Geistige. Aber alle solche weiteren und konkreteren Bestimmungen lassen das Sein nicht mehr als das reine Sein, wie es hier im Anfang unmittelbar ist. Nur in und um dieser reinen Unbestimmtheit willen ist es Nichts, - ein Unsagbares; sein Unterschied von dem Nichts ist eine bloße Meinung. - Es ist gerade nur um das Bewußtsein über diese Anfänge zu tun, nämlich daß sie nichts als diese leere Abstraktionen [sind] und jede von beiden so leer ist als die andere; der Trieb, in dem Sein oder in beiden 8/186 eine feste Bedeutung zu finden, ist diese Notwendigkeit selbst, welche das Sein und Nichts weiterführt und ihnen eine wahre, d. i. konkrete Bedeutung gibt. Dieses Fortgehen ist die logische Ausführung und der im Folgenden sich darstellende Verlauf. Das Nachdenken, welches tiefere Bestimmungen für sie findet, ist das logische Denken, durch welches sich solche, nur nicht auf eine zufällige, sondern notwendige Weise, hervorbringen. - Jede folgende Bedeutung, die sie erhalten, ist darum nur als eine nähere Bestimmung und wahrere Definition des Absoluten anzusehen; eine solche ist dann nicht mehr eine leere Abstraktion wie Sein und Nichts, vielmehr ein Konkretes, in dem beide, Sein und Nichts, Momente sind. - Die höchste Form des Nichts für sich wäre die Freiheit, aber sie ist die Negativität, insofern sie sich zur höchsten Intensität in sich vertieft und selbst, und zwar absolute, Affirmation ist.
Zusatz. Sein und Nichts sollen nur erst unterschieden sein, d. h. der Unterschied derselben ist nur erst an sich, aber er ist noch nicht gesetzt. Wenn wir überhaupt von einem Unterschied sprechen, so haben wir hiermit zwei, deren jedem eine Bestimmung zukommt, die sich in dem anderen nicht findet. Nun aber ist das Sein eben nur das schlechthin Bestimmungslose, und dieselbe Bestimmungslosigkeit ist auch das Nichts. Der Unterschied dieser beiden ist somit nur ein gemeinter, der ganz abstrakte Unterschied, der zugleich kein Unterschied ist. Bei allem sonstigen Unterscheiden haben wir immer auch ein Gemeinsames, welches die Unterschiedenen unter sich befaßt. Sprechen wir z. B. von zwei verschiedenen Gattungen, so ist die Gattung das beiden Gemeinschaftliche. Ebenso sagen wir: es gibt natürliche und geistige Wesen. Hier ist das Wesen ein beiden Zukommendes. Beim Sein und Nichts dagegen ist der Unterschied in seiner Bodenlosigkeit, und eben darum ist es keiner, denn beide Bestimmungen sind dieselbe Bodenlosigkeit. Wollte man etwa sagen, Sein und Nichts seien doch beide Gedanken und der Gedanke somit das beiden Gemeinschaftliche, so würde dabei übersehen, daß das Sein nicht ein besonderer, bestimmter Gedanke, sondern vielmehr der noch ganz unbestimmte und eben um deswillen vom Nichts nicht zu unterscheidende Gedanke ist. - Das Sein stellt man sich dann auch wohl vor als den absoluten Reichtum und das Nichts 8/187 dagegen als die absolute Armut. Betrachten wir aber alle Welt und sagen von ihr, alles sei, und weiter nichts, so lassen wir alles Bestimmte hinweg und haben dann anstatt der absoluten Fülle nur die absolute Leerheit. Dasselbe findet dann auch seine Anwendung auf die Definition Gottes als des bloßen Seins, welcher Definition mit gleicher Berechtigung die Definition der Buddhisten gegenübersteht, daß Gott das Nichts sei, in deren Konsequenz dann auch behauptet wird, daß der Mensch dadurch zu Gott werde, daß er sich selbst vernichte.
§ 88
Das Nichts ist als dieses unmittelbare, sich selbst gleiche, ebenso umgekehrt dasselbe, was das Sein ist. Die Wahrheit des Seins sowie des Nichts ist daher die Einheit beider; diese Einheit ist das Werden.
1. Der Satz "Sein und Nichts ist dasselbe" erscheint für die Vorstellung oder den Verstand als ein so paradoxer Satz, daß sie ihn vielleicht nicht für ernstlich gemeint hält. In der Tat ist er auch von dem Härtesten, was das Denken sich zumutet, denn Sein und Nichts sind der Gegensatz in seiner ganzen Unmittelbarkeit, d. h. ohne daß in dem einen schon eine Bestimmung gesetzt wäre, welche dessen Beziehung auf das andere enthielte. Sie enthalten aber diese Bestimmung, wie in dem vorhergehenden § aufgezeigt ist, die Bestimmung, welche eben in beiden dieselbe ist. Die Deduktion ihrer Einheit ist insofern ganz analytisch; wie überhaupt der ganze Fortgang des Philosophierens als methodischer, d. h. als notwendiger nichts anderes ist als bloß das Setzen desjenigen, was in einem Begriffe schon enthalten ist. -Ebenso richtig als die Einheit des Seins und Nichts ist es aber auch, daß sie schlechthin verschieden sind, - das eine nicht ist, was das andere ist. Allein weil der Unterschied hier sich noch nicht bestimmt hat, denn eben Sein und Nichts sind noch das Unmittelbare, so ist er, wie er an denselben ist, das Unsagbare, die bloße Meinung.
2. Es erfordert keinen großen Aufwand von Witz, den Satz, daß Sein und Nichts dasselbe ist, lächerlich zu machen 8/188 oder vielmehr Ungereimtheiten vorzubringen mit der unwahren Versicherung, daß sie Konsequenzen und Anwendungen jenes Satzes seien; z. B. es sei hiernach dasselbe, ob mein Haus, mein Vermögen, die Luft zum Atmen, diese Stadt, die Sonne, das Recht, der Geist, Gott sei oder nicht. In solchen Beispielen werden zum Teil besondere Zwecke, die Nützlichkeit, die etwas für mich hat, untergeschoben und gefragt, ob es mir gleichgültig sei, daß die nützliche Sache sei oder nicht sei. In der Tat ist die Philosophie eben diese Lehre, den Menschen von einer unendlichen Menge endlicher Zwecke und Absichten zu befreien und ihn dagegen gleichgültig zu machen, so daß es ihm allerdings dasselbe sei, ob solche Sachen sind oder nicht sind. Aber überhaupt, sowie von einem Inhalte die Rede ist, so ist damit ein Zusammenhang mit anderen Existenzen, Zwecken usf. gesetzt, die als gültig vorausgesetzt sind; von solchen Voraussetzungen ist es nun abhängig gemacht, ob das Sein oder Nichtsein eines bestimmten Inhalts dasselbe sei oder auch nicht. Es wird ein inhaltsvoller Unterschied dem leeren Unterschiede von Sein und Nichts untergeschoben. - Zum Teil sind es aber an sich wesentliche Zwecke, absolute Existenzen und Ideen, die bloß unter die Bestimmung des Seins oder Nichtseins gesetzt werden. Solche konkrete Gegenstände sind noch etwas ganz anderes als nur Seiende oder auch Nichtseiende; dürftige Abstraktionen wie Sein und Nichts - und sie sind, weil sie eben nur die Bestimmungen des Anfangs sind, die allerdürftigsten, die es gibt - sind für die Natur jener Gegenstände ganz inadäquat; wahrhafter Inhalt ist längst über diese Abstraktionen selbst und deren Gegensatz hinaus. - Wenn überhaupt ein Konkretes dem Sein und Nichts unterschoben wird, so geschieht der Gedankenlosigkeit ihr Gewöhnliches, ein ganz anderes vor die Vorstellung zu bekommen und davon zu sprechen als das, wovon die Rede ist, und hier ist bloß vom abstrakten Sein und Nichts die Rede. 8/189
3. Es kann leicht gesagt werden, daß man die Einheit des Seins und Nichts nicht begreife. Der Begriff derselben aber ist in den vorhergehenden §§ angegeben, und er ist weiter nichts als dies Angegebene; sie begreifen heißt nichts anderes, als dieses auffassen. Man versteht aber auch unter dem Begreifen noch etwas weiteres als den eigentlichen Begriff; es wird ein mannigfaltigeres, reicheres Bewußtsein, eine Vorstellung verlangt, so daß ein solcher Begriff als ein konkreter Fall vorgelegt werde, mit dem das Denken in seiner gewöhnlichen Praxis vertrauter wäre. Insofern das Nichtbegreifenkönnen nur die Ungewohntheit ausdrückt, abstrakte Gedanken ohne alle sinnliche Beimischung festzuhalten und spekulative Sätze zu fassen, so ist weiter nichts zu sagen, als daß die Art des philosophischen Wissens allerdings verschieden ist von der Art des Wissens, an das man im gemeinen Leben gewöhnt ist, wie auch von der, die in anderen Wissenschaften herrscht. Heißt das Nicht-Begreifen aber nur, daß man sich die Einheit des Seins und Nichts nicht vorstellen könne, so ist dies in der Tat so wenig der Fall, daß jeder vielmehr unendlich viele Vorstellungen von dieser Einheit hat, und daß man solche Vorstellung nicht habe, kann nur dieses sagen wollen, daß man den vorliegenden Begriff nicht in irgendeiner jener Vorstellungen erkennt und sie nicht als ein Beispiel davon weiß. Das Beispiel davon, das am nächsten liegt, ist das Werden. Jedermann hat eine Vorstellung vom Werden und wird ebenso zugeben, daß es eine Vorstellung ist; ferner daß, wenn man sie analysiert, die Bestimmung von Sein, aber auch von dem schlechthin Anderen desselben, dem Nichts, darin enthalten ist; ferner daß diese beiden Bestimmungen ungetrennt in dieser einen Vorstellung sind, so daß Werden somit Einheit des Seins und Nichts ist. - Ein gleichfalls naheliegendes Beispiel ist der Anfang; die Sache ist noch nicht in ihrem Anfang, aber er ist nicht bloß ihr Nichts, sondern es ist schon auch ihr Sein darin. Der Anfang ist 8/190 selbst auch Werden, drückt jedoch schon die Rücksicht auf das weitere Fortgehen aus. - Man könnte, um sich dem gewöhnlicheren Gang der Wissenschaften zu bequemen, die Logik mit der Vorstellung des rein gedachten Anfangs, also des Anfangs als Anfangs, beginnen und diese Vorstellung analysieren; so würde man es sich vielleicht eher als Ergebnis der Analyse gefallen lassen, daß sich Sein und Nichts als in Einem ungetrennt zeigen.
4. Es ist aber noch zu bemerken, daß der Ausdruck "Sein und Nichts ist dasselbe" oder "die Einheit des Seins und Nichts", ebenso alle anderen solchen Einheiten, des Subjekts und Objekts usf., mit Recht anstößig sind, weil das Schiefe und Unrichtige darin liegt, daß die Einheit herausgehoben und die Verschiedenheit zwar darin liegt (weil es z. B. Sein und Nichts ist, deren Einheit gesetzt ist), aber diese Verschiedenheit nicht zugleich ausgesprochen und anerkannt ist, von ihr also nur ungehörigerweise abstrahiert, sie nicht bedacht zu sein scheint. In der Tat läßt sich eine spekulative Bestimmung nicht in Form eines solchen Satzes richtig ausdrücken; es soll die Einheit in der zugleich vorhandenen und gesetzten Verschiedenheit gefaßt werden. Werden ist der wahre Ausdruck des Resultats von Sein und Nichts, als die Einheit derselben; es ist nicht nur die Einheit des Seins und Nichts, sondern ist die Unruhe in sich, - die Einheit, die nicht bloß als Beziehung-auf-sich bewegungslos, sondern durch die Verschiedenheit des Seins und Nichts, die in ihm ist, in sich gegen sich selbst ist. - Das Dasein dagegen ist diese Einheit oder das Werden in dieser Form der Einheit; darum ist das Dasein einseitig und endlich. Der Gegensatz ist, als ob er verschwunden wäre; er ist nur an sich in der Einheit enthalten, aber nicht in der Einheit gesetzt.
5. Dem Satze, daß das Sein das Übergehen in Nichts und das Nichts das Übergehen ins Sein ist, - dem Satze des Werdens steht der Satz "Aus nichts wird nichts", "etwas wird nur aus etwas" gegenüber, der Satz der Ewigkeit 8/191 der Materie, des Pantheismus. Die Alten haben die einfache Reflexion gemacht, daß der Satz "aus etwas wird etwas" oder "aus nichts wird nichts" das Werden in der Tat aufhebt; denn das, woraus es wird, und das, was wird, sind ein und dasselbe; es ist nur der Satz der abstrakten Verstandesidentität vorhanden. Es muß aber als wunderbar auffallen, die Sätze "aus nichts wird nichts" oder "aus etwas wird nur etwas" auch in unseren Zeiten ganz unbefangen vorgetragen zu sehen, ohne einiges Bewußtsein, daß sie die Grundlage des Pantheismus [sind], sowie ohne Kenntnis davon, daß die Alten die Betrachtung dieser Sätze erschöpft haben.
Zusatz. Das Werden ist der erste konkrete Gedanke und damit der erste Begriff, wohingegen Sein und Nichts leere Abstraktionen sind. Sprechen wir vom Begriff des Seins, so kann derselbe nur darin bestehen, Werden zu sein, denn als das Sein ist es das leere Nichts, als dieses aber das leere Sein. Im Sein also haben wir das Nichts und in diesem das Sein; dieses Sein aber, welches im Nichts bei sich bleibt, ist das Werden. In der Einheit des Werdens darf der Unterschied nicht fortgelassen werden, denn ohne denselben würde man wieder zum abstrakten Sein zurückkehren. Das Werden ist nur das Gesetztsein dessen, was das Sein seiner Wahrheit nach ist.
Man hört sehr häufig behaupten, das Denken sei dem Sein entgegengesetzt. Bei solcher Behauptung wäre indes zunächst zu fragen, was unter dem Sein verstanden werde. Nehmen wir das Sein auf, wie solches die Reflexion bestimmt, so können wir von demselben nur aussagen, es sei dasselbe das schlechthin Identische und Affirmative. Betrachten wir nunmehr das Denken, so kann es uns nicht entgehen, daß dasselbe wenigstens gleichfalls das schlechthin mit sich Identische ist. Beiden, dem Sein und dem Denken, kommt somit dieselbe Bestimmung zu. Diese Identität des Seins und des Denkens ist nun aber nicht konkret zu nehmen und somit nicht zu sagen, der Stein sei als seiender dasselbe, was der denkende Mensch ist. Ein Konkretes ist noch etwas ganz anderes als die abstrakte Bestimmung als solche. Beim Sein aber ist von keinem Konkreten die Rede, denn Sein ist gerade nur das ganz Abstrakte. Hiernach ist dann auch die Frage nach dem Sein Gottes, welches das in sich unendlich Konkrete ist, von geringem Interesse.
Das Werden ist als die erste konkrete zugleich die erste wahr hafte 8/192 Gedankenbestimmung. In der Geschichte der Philosophie ist es das System des Heraklit, welches dieser Stufe der logischen Idee entspricht. Wenn Heraklit sagt: "Alles fließt" (πάντα ϱʹει), so ist damit das Werden als die Grundbestimmung alles dessen, was da ist, ausgesprochen, wohingegen, wie früher bemerkt wurde, die Eleaten das Sein, das starre, prozeßlose Sein als das allein Wahre auffaßten. Mit Beziehung auf das Prinzip der Eleaten heißt es dann weiter bei Demokrit: "Das Sein ist nicht mehr als das Nichtsein" (οὐδὲν μαλλον τὸ ὂν του μὴ ὂντος ἐσί), womit dann eben die Negativität des abstrakten Seins und dessen im Werden gesetzte Identität mit dem in seiner Abstraktion ebenso haltlosen Nichts ausgesprochen ist. - Wir haben hieran zugleich ein Beispiel der wahrhaften Widerlegung eines philosophischen Systems durch ein anderes, welche Widerlegung eben darin besteht, daß das Prinzip der widerlegten Philosophie in seiner Dialektik aufgezeigt und zum ideellen Moment einer höheren konkreten Form der Idee herabgesetzt wird. - Weiter ist nun aber auch das Werden an und für sich noch eine höchst arme Bestimmung und hat dasselbe sich in sich weiter zu vertiefen und zu erfüllen. Eine solche Vertiefung des Werdens in sich haben wir z. B. am Leben. Dieses ist ein Werden, allein der Begriff desselben ist damit nicht erschöpft. In höherer Form noch finden wir das Werden im Geiste. Dieser ist auch ein Werden, aber ein intensiveres, reicheres als das bloß logische Werden. Die Momente, deren Einheit der Geist ist, sind nicht die bloßen Abstrakta des Seins und des Nichts, sondern das System der logischen Idee und der Natur.

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b. Dasein
§ 89
Das Sein im Werden als eins mit dem Nichts, so das Nichts [als] eins mit dem Sein sind nur Verschwindende; das Werden fällt durch seinen Widerspruch in sich in die Einheit, in der beide aufgehoben sind, zusammen; sein Resultat ist somit das Dasein.
Es ist an diesem ersten Beispiele ein für allemal an das zu erinnern, was § 82 und Anm. daselbst angegeben ist; was allein einen Fortgang und eine Entwicklung im Wissen 8/193 begründen kann, ist, die Resultate in ihrer Wahrheit festzuhalten. Wenn in irgendeinem Gegenstande oder Begriff der Widerspruch aufgezeigt wird (und es ist überall gar nichts, worin nicht der Widerspruch, d. i. entgegengesetzte Bestimmungen aufgezeigt werden können und müssen; das Abstrahieren des Verstandes ist das gewaltsame Festhalten an einer Bestimmtheit, eine Anstrengung, das Bewußtsein der anderen [Bestimmtheit], die darin liegt, zu verdunkeln und zu entfernen), - wenn nun solcher Widerspruch erkannt wird, so pflegt man den Schlußsatz zu machen: "Also ist dieser Gegenstand nichts"; wie Zenon zuerst von der Bewegung zeigte, daß sie sich widerspreche, daß sie also nicht sei, oder wie die Alten das Entstehen und Vergehen, die zwei Arten des Werdens, für unwahre Bestimmungen mit dem Ausdrucke erkannten, daß das Eine, d. i. das Absolute, nicht entstehe noch vergehe. Diese Dialektik bleibt so bloß bei der negativen Seite des Resultates stehen und abstrahiert von dem, was zugleich wirklich vorhanden ist, ein bestimmtes Resultat, hier ein reines Nichts, aber [ein] Nichts, welches das Sein, und ebenso ein Sein, welches das Nichts in sich schließt. So ist 1. das Dasein die Einheit des Seins und des Nichts, in der die Unmittelbarkeit dieser Bestimmungen und damit in ihrer Beziehung ihr Widerspruch verschwunden ist, - eine Einheit, in der sie nur noch Momente sind; 2. da das Resultat der aufgehobene Widerspruch ist, so ist es in der Form einfacher Einheit mit sich oder selbst als ein Sein, aber ein Sein mit der Negation oder Bestimmtheit; es ist das Werden in der Form des einen seiner Momente, des Seins, gesetzt.
Zusatz. Auch in unserer Vorstellung ist dies enthalten, daß, wenn ein Werden ist, etwas dabei herauskommt und daß somit das Werden ein Resultat hat. Hier entsteht dann aber die Frage, wie das Werden dazu kommt, nicht bloßes Werden zu bleiben, sondern ein Resultat zu haben. Die Antwort auf diese Frage ergibt sich aus 8/194 dem, was sich uns vorher als das Werden gezeigt hat. Das Werden enthält nämlich in sich das Sein und das Nichts, und zwar so, daß diese beiden schlechthin ineinander umschlagen und sich einander gegenseitig aufheben. Hiermit erweist sich das Werden als das durchaus Rastlose, welches sich aber in dieser abstrakten Rastlosigkeit nicht zu erhalten vermag; denn indem Sein und Nichts im Werden verschwinden und nur dieses sein Begriff ist, so ist es hiermit selbst ein Verschwindendes, ein Feuer gleichsam, welches in sich selbst erlischt, indem es sein Material verzehrt. Das Resultat aber dieses Prozesses ist nicht das leere Nichts, sondern das mit der Negation identische Sein, welches wir Dasein nennen und als dessen Bedeutung sich zunächst dies erweist, geworden zu sein.
§ 90
α) Das Dasein ist Sein mit einer Bestimmtheit, die als unmittelbare oder seiende Bestimmtheit ist, die Qualität. Das Dasein als in dieser seiner Bestimmtheit in sich reflektiert ist Daseiendes, Etwas. - Die Kategorien, die sich an dem Dasein entwickeln, sind nur summarisch anzugeben.
Zusatz. Die Qualität ist überhaupt die mit dem Sein identische, unmittelbare Bestimmtheit, im Unterschied von der demnächst zu betrachtenden Quantität, welche zwar gleichfalls Bestimmtheit des Seins, jedoch nicht mehr mit demselben unmittelbar identische, sondern gegen das Sein gleichgültige, demselben äußerliche Bestimmtheit ist. - Etwas ist durch seine Qualität das, was es ist, und indem es seine Qualität verliert, so hört es damit auf, das zu sein, was es ist. Weiter ist die Qualität wesentlich nur eine Kategorie des Endlichen, die um deswillen auch nur in der Natur und nicht in der geistigen Welt ihre eigentliche Stelle hat. So sind z. B. in der Natur die sogenannten einfachen Stoffe, Sauerstoff, Stickstoff usw., als existierende Qualitäten zu betrachten. In der Sphäre des Geistes dagegen kommt die Qualität nur in einer untergeordneten Weise vor und nicht so, als ob dadurch irgendeine bestimmte Gestalt des Geistes erschöpft würde. Betrachten wir z. B. den subjektiven Geist, welcher den Gegenstand der Psychologie bildet, so können wir zwar sagen, die logische Bedeutung dessen, was man Charakter nennt, sei die der Qualität, welches jedoch nicht so zu verstehen ist, als sei der Charakter ebenso eine die Seele durchdringende und mit derselben unmittelbar identische Bestimmtheit, wie dies in der Natur mit den vorher erwähnten einfachen Stoffen der Fall ist. Dahingegen zeigt sich die Qualität bestimmter als solche auch am Geiste, insofern sich derselbe in 8/195 einem unfreien, krankhaften Zustande befindet. Dies ist namentlich der Fall mit dem Zustand der Leidenschaft und der zur Verrücktheit gesteigerten Leidenschaft. Von einem Verrückten, dessen Bewußtsein ganz von Eifersucht, Furcht usw. durchdrungen ist, kann man füglich sagen, sein Bewußtsein sei als Qualität bestimmt.
§ 91
Die Qualität als seiende Bestimmtheit gegenüber der in ihr enthaltenen, aber von ihr unterschiedenen Negation ist Realität. Die Negation, nicht mehr das abstrakte Nichts, sondern als ein Dasein und Etwas, ist nur Form an diesem, sie ist als Anderssein. Die Qualität, indem dies Anderssein ihre eigene Bestimmung, aber zunächst von ihr unterschieden ist, ist Sein-für-Anderes, - eine Breite des Daseins, des Etwas. Das Sein der Qualität als solches, gegenüber dieser Beziehung auf Anderes, ist das Ansichsein.
Zusatz. Die Grundlage aller Bestimmtheit ist die Negation (omnis determinatio est negatio, wie Spinoza sagt). Das gedankenlose Meinen betrachtet die bestimmten Dinge als nur positiv und hält dieselben unter der Form des Seins fest. Mit dem bloßen Sein ist es indes nicht abgetan, denn dieses ist, wie wir früher gesehen haben, das schlechthin Leere und zugleich Haltlose. (Übrigens liegt in der hier erwähnten Verwechslung des Daseins, als des bestimmten Seins, mit dem abstrakten Sein das Richtige, daß im Dasein allerdings das Moment der Negation gleichsam nur erst als eingehüllt enthalten ist, welches Moment der Negation dann erst im Fürsichsein frei hervortritt und zu seinem Rechte gelangt. - Betrachten wir nun ferner das Dasein als seiende Bestimmtheit, so haben wir an demselben dasjenige, was man unter Realität versteht. Man spricht so z. B. von der Realität eines Plans oder einer Absicht und versteht dann darunter, daß dergleichen nicht mehr ein nur Inneres, Subjektives, sondern ins Dasein herausgetreten sei. In demselben Sinn kann dann auch der Leib die Realität der Seele und dies Recht die Realität der Freiheit oder, ganz allgemein, die Welt die Realität des göttlichen Begriffs genannt werden. Weiter pflegt nun aber auch von der Realität noch in einem anderen Sinn gesprochen und darunter dies verstanden zu werden, daß etwas sich seiner wesentlichen Bestimmung oder seinem Begriff gemäß verhält. So z. B., wenn gesagt wird: dies ist eine reelle Beschäftigung, oder: dies ist ein reeller Mensch. Hier ist es nicht das unmittelbare, äußere Dasein, um welches es 8/196 sich handelt, sondern vielmehr die Übereinstimmung eines Daseienden mit seinem Begriff. So aufgefaßt ist dann aber die Realität auch nicht weiter von der Idealität, die wir zunächst als Fürsichsein kennenlernen werden, unterschieden.
§ 92
β) Das von der Bestimmtheit als unterschieden festgehaltene Sein, das Ansichsein, wäre nur die leere Abstraktion des Seins. Im Dasein ist die Bestimmtheit eins mit dem Sein, welche zugleich als Negation gesetzt, Grenze, Schranke ist. Daher ist das Anderssein nicht ein Gleichgültiges außer ihm, sondern sein eigenes Moment. Etwas ist durch seine Qualität erstlich endlich und zweitens veränderlich, so daß die Endlichkeit und Veränderlichkeit seinem Sein angehört.
Zusatz. Die Negation ist im Dasein mit dem Sein noch unmittelbar identisch, und diese Negation ist das, was wir Grenze heißen. Etwas ist nur in seiner Grenze und durch seine Grenze das, was es ist. Man darf somit die Grenze nicht als dem Dasein bloß äußerlich betrachten, sondern dieselbe geht vielmehr durch das ganze Dasein hindurch. Die Auffassung der Grenze als einer bloß äußerlichen Bestimmung des Daseins hat ihren Grund in der Verwechslung der quantitativen mit der qualitativen Grenze. Hier ist zunächst von der qualitativen Grenze die Rede. Betrachten wir z. B. ein Grundstück, welches drei Morgen groß ist, so ist dies seine quantitative Grenze. Weiter ist nun aber auch dieses Grundstück eine Wiese und nicht Wald oder Teich, und dies ist seine qualitative Grenze. - Der Mensch, insofern er wirklich sein will, muß dasein, und zu dem Ende muß er sich begrenzen. Wer gegen das Endliche zu ekel ist, der kommt zu gar keiner Wirklichkeit, sondern er verbleibt im Abstrakten und verglimmt in sich selbst.
Betrachten wir nunmehr näher, was wir an der Grenze haben, so finden wir, wie dieselbe einen Widerspruch in sich enthält und sich somit als dialektisch erweist. Die Grenze macht nämlich einerseits die Realität des Daseins aus, und andererseits ist sie dessen Negation. Weiter ist nun aber die Grenze als die Negation des Etwas nicht ein abstraktes Nichts überhaupt, sondern ein seiendes Nichts oder dasjenige, was wir ein Anderes heißen. Beim Etwas fällt uns sogleich das Andere ein, und wir wissen, daß es nicht nur Etwas sondern auch noch Anderes gibt. Nun aber ist das Andere nicht ein solches, welches wir nur so finden, dergestalt, daß Etwas auch 8/197 ohne dasselbe gedacht werden könnte, sondern Etwas ist an sich das Andere seiner selbst, und dem Etwas wird im Anderen seine Grenze objektiv. Fragen wir nunmehr nach dem Unterschied zwischen dem Etwas und dem Anderen, so zeigt es sich, daß beide dasselbe sind, welche Identität dann auch im Lateinischen durch die Bezeichnung beider als aliud-aliud ausgedrückt ist. Das Andere, dem Etwas gegenüber, ist selbst ein Etwas, und wir sagen demgemäß: etwas Anderes; ebenso ist andererseits das erste Etwas, dem gleichfalls als Etwas bestimmten Anderen gegenüber, selbst ein Anderes. Wenn wir sagen: etwas Anderes, so stellen wir uns zunächst vor, Etwas, für sich genommen, sei nur Etwas, und die Bestimmung, ein Anderes zu sein, komme demselben nur durch eine bloß äußerliche Betrachtung zu. Wir meinen so z. B., der Mond, welcher etwas anderes ist als die Sonne, könnte wohl auch sein, wenn die Sonne nicht wäre. In der Tat aber hat der Mond (als Etwas) sein Anderes an ihm selbst, und dies macht seine Endlichkeit aus. Platon sagt: "Gott hat die Welt aus der Natur des Einen und des Anderen (του ἑτεϱου) gemacht; diese hat er zusammengebracht und daraus ein Drittes gebildet, welches von der Natur des Einen und des Anderen ist."29) - Hiermit ist überhaupt die Natur des Endlichen ausgesprochen, welches als Etwas dem Anderen nicht gleichgültig gegenübersteht, sondern an sich das Andere seiner selbst ist und hiermit sich verändert. In der Veränderung zeigt sich der innere Widerspruch, mit welchem das Dasein von Haus aus behaftet ist und welcher dasselbe über sich hinaustreibt. Für die Vorstellung erscheint das Dasein zunächst als einfach positiv und zugleich als innerhalb seiner Grenze ruhig beharrend; wir wissen dann zwar auch, daß alles Endliche (und ein solches ist das Dasein) der Veränderung unterworfen ist. Allein diese Veränderlichkeit des Daseins erscheint der Vorstellung als eine bloße Möglichkeit, deren Realisierung nicht in ihm selbst begründet ist. In der Tat aber liegt es im Begriff des Daseins, sich zu verändern, und die Veränderung ist nur die Manifestation dessen, was das Dasein an sich ist. Das Lebendige stirbt, und zwar einfach um deswillen, weil es als solches den Keim des Todes in sich selbst trägt.
§ 93
Etwas wird ein Anderes, aber das Andere ist selbst ein Etwas, also wird es gleichfalls ein Anderes, und so fort ins Unendliche. 8/198
§ 94
Diese Unendlichkeit ist die schlechte oder negative Unendlichkeit, indem sie nichts ist als die Negation des Endlichen, welches aber ebenso wieder entsteht, somit ebensosehr nicht aufgehoben ist, - oder diese Unendlichkeit drückt nur das Sollen des Aufhebens des Endlichen aus. Der Progreß ins Unendliche bleibt bei dem Aussprechen des Widerspruchs stehen, den das Endliche enthält, daß es sowohl Etwas ist als sein Anderes, und ist das perennierende Fortsetzen des Wechsels dieser einander herbeiführenden Bestimmungen.
Zusatz. Wenn wir die Momente des Daseins, Etwas und Anderes, auseinanderfallen lassen, so haben wir dieses: Etwas wird ein Anderes, und dieses Andere ist selbst ein Etwas, welches als solches sich dann gleichfalls verändert, und so fort ins Unendliche. Die Reflexion meint hier zu etwas sehr Hohem, ja zum Höchsten gekommen zu sein. Dieser Progreß ins Unendliche ist nun aber nicht das wahrhaft Unendliche, welches vielmehr darin besteht, in seinem Anderen bei sich selbst zu sein oder, als Prozeß ausgesprochen, in seinem Anderen zu sich selbst zu kommen. Es ist von großer Wichtigkeit, den Begriff der wahren Unendlichkeit gehörig zu fassen und nicht bloß bei der schlechten Unendlichkeit des unendlichen Progresses stehenzubleiben. Wenn von der Unendlichkeit des Raumes und der Zeit die Rede ist, so ist es zunächst der unendliche Progreß, an welchen man sich zu halten pflegt. Man sagt so z. B.: "diese Zeit", "jetzt", und über diese Grenze wird dann fortwährend hinausgegangen, rückwärts und vorwärts. Ebenso ist es mit dem Raume, über dessen Unendlichkeit von erbaulichen Astronomen viele leere Deklamationen vorgebracht werden. Es pflegt dann wohl auch behauptet zu werden, das Denken müsse erliegen, wenn es sich an die Betrachtung dieser Unendlichkeit begebe. So viel ist nun allerdings richtig, daß wir es zuletzt bleiben lassen, in solcher Betrachtung weiter und immer weiter vorzuschreiten, jedoch nicht um der Erhabenheit, sondern um der Langweiligkeit dieses Geschäfts willen. Langweilig ist das Sich-Ergehen in der Betrachtung dieses unendlichen Progresses um deswillen, weil hier fortwährend dasselbe wiederholt wird. Eine Grenze wird gesetzt, darüber wird hinausgegangen, dann abermals eine Grenze, und so fort ins Endlose. Wir haben hier also nichts als eine oberflächliche Abwechslung, die immer im Endlichen stehenbleibt. Wenn man meint, durch das Hinausschreiten in jene Unendlichkeit sich vom Endlichen zu befreien, so ist dies in der 8/199 Tat nur die Befreiung der Flucht. Der Fliehende aber ist noch nicht frei, denn er ist im Fliehen noch durch dasjenige bedingt, wovor er flieht. Sagt man dann weiter, das Unendliche sei nicht zu erreichen, so ist dies ganz richtig, aber nur um deswillen, weil die Bestimmung, etwas abstrakt Negatives zu sein, in dasselbe gelegt wird. Die Philosophie treibt sich nicht mit solchem Leeren und bloß Jenseitigen herum. Das, womit die Philosophie es zu tun hat, ist immer ein Konkretes und schlechthin Gegenwärtiges. - Man hat wohl auch die Aufgabe der Philosophie so gestellt, daß dieselbe die Frage zu beantworten habe, wie das Unendliche sich dazu entschließe, aus sich selbst herauszugehen. Auf diese Frage, welcher die Voraussetzung eines festen Gegensatzes von Unendlichem und Endlichem zugrunde liegt, ist nur zu antworten, daß dieser Gegensatz ein Unwahres und daß das Unendliche in der Tat ewig aus sich heraus und ewig auch nicht aus sich heraus ist. - Wenn wir übrigens sagen, das Unendliche sei das Nichtendliche, so haben wir damit in der Tat das Wahre schon ausgesprochen, denn das Nichtendliche ist, da das Endliche selbst das erste Negative ist, das Negative der Negation, die mit sich identische Negation und somit zugleich wahre Affirmation.
Die hier besprochene Unendlichkeit der Reflexion ist nur der Versuch, die wahre Unendlichkeit zu erreichen, ein unglückseliges Mittelding. Es ist dies überhaupt derjenige Standpunkt der Philosophie, welcher in der neueren Zeit in Deutschland geltend gemacht worden ist. Das Endliche soll hier nur aufgehoben werden, und das Unendliche soll nicht bloß ein Negatives, sondern auch ein Positives sein. In diesem Sollen liegt immer die Ohnmacht, daß etwas anerkannt wird als berechtigt und daß sich dasselbe doch nicht geltend zu machen vermag. Die Kantische und die Fichtesche Philosophie sind rücksichtlich des Ethischen auf diesem Standpunkt des Sollens stehengeblieben. Die perennierende Annäherung an das Vernunftgesetz ist das Äußerste, wozu man auf diesem Wege gelangt. Man hat dann auf dieses Postulat auch die Unsterblichkeit der Seele begründet.
§ 95
γ) Was in der Tat vorhanden ist, ist, daß Etwas zu Anderem und das Andere überhaupt zu Anderem wird. Etwas ist im Verhältnis zu einem Anderen selbst schon ein Anderes gegen dasselbe; somit da das, in welches es übergeht, ganz dasselbe ist, was das, welches übergeht - beide haben keine weitere als eine und dieselbe Bestimmung, ein Anderes zu 8/200 sein -, so geht hiermit Etwas in seinem Übergehen in Anderes nur mit sich selbst zusammen, und diese Beziehung im Übergehen und im Anderen auf sich selbst ist die wahrhafte Unendlichkeit. Oder negativ betrachtet: was verändert wird, ist das Andere, es wird das Andere des Anderen. So ist das Sein, aber als Negation der Negation, wieder hergestellt und ist das Fürsichsein.
Der Dualismus, welcher den Gegensatz von Endlichem und Unendlichem unüberwindlich macht, macht die einfache Betrachtung nicht, daß auf solche Weise sogleich das Unendliche nur das eine der beiden ist, daß es hiermit zu einem nur Besonderen gemacht wird, wozu das Endliche das andere Besondere ist. Ein solches Unendliches, welches nur ein Besonderes ist, neben dem Endlichen ist, an diesem eben damit seine Schranke, Grenze hat, ist nicht das, was es sein soll, nicht das Unendliche, sondern ist nur endlich. - In solchem Verhältnisse, wo das Endliche hüben, das Unendliche drüben, das erste diesseits, das andere jenseits gestellt ist, wird dem Endlichen die gleiche Würde des Bestehens und der Selbständigkeit mit dem Unendlichen zugeschrieben; das Sein des Endlichen wird zu einem absoluten Sein gemacht; es steht in solchem Dualismus fest für sich. Vom Unendlichen sozusagen berührt, würde es vernichtigt; aber es soll vom Unendlichen nicht berührt werden können, es soll ein Abgrund, eine unübersteigbare Kluft zwischen beiden sich befinden, das Unendliche schlechthin drüben und das Endliche hüben verharren. Indem die Behauptung von dem festen Beharren des Endlichen dem Unendlichen gegenüber über alle Metaphysik hinweg zu sein meint, steht sie ganz nur auf dem Boden der ordinärsten Verstandesmetaphysik. Es geschieht hier dasselbe, was der unendliche Progreß ausdrückt: das eine Mal wird zugegeben, daß das Endliche nicht an und für sich sei, daß ihm nicht selbständige Wirklichkeit, nicht absolutes Sein zukomme, daß es nur ein Vorübergehendes ist; das andere Mal wird dies sogleich vergessen und das 8/201 Endliche dem Unendlichen nur gegenüber, schlechthin getrennt von demselben und der Vernichtung entnommen, als selbständig, für sich beharrend vorgestellt. - Indem das Denken auf solche Weise sich zum Unendlichen zu erheben meint, so widerfährt ihm das Gegenteil, - zu einem Unendlichen zu kommen, das nur ein Endliches ist, und das Endliche, welches von ihm verlassen worden, vielmehr immer beizubehalten, zu einem Absoluten zu machen.
Wenn man nach der angestellten Betrachtung der Nichtigkeit des Verstandesgegensatzes vom Endlichen und Unendlichen (womit Platons Philebos mit Nutzen verglichen werden kann) auch hier leicht auf den Ausdruck verfallen kann, daß das Unendliche und Endliche hiermit eins sei, daß das Wahre, die wahrhafte Unendlichkeit als Einheit des Unendlichen und Endlichen bestimmt und ausgesagt werde, so enthält solcher Ausdruck zwar Richtiges, aber er ist ebensosehr schief und falsch, wie vorhin von der Einheit des Seins und Nichts bemerkt worden ist. Er führt ferner auf den gerechten Vorwurf von der Verendlichung der Unendlichkeit, von einem endlichen Unendlichen. Denn in jenem Ausdruck erscheint das Endliche als belassen; es wird nicht ausdrücklich als aufgehoben ausgedrückt. - Oder indem darauf reflektiert würde, daß es, als eins mit dem Unendlichen gesetzt, allerdings nicht bleiben könnte, was es außer dieser Einheit war, und wenigstens an seiner Bestimmung etwas litte (wie das Kali mit der Säure verbunden von seinen Eigenschaften verliert), so widerführe eben dies dem Unendlichen, das als das Negative seinerseits gleichfalls an dem Anderen abgestumpft würde. In der Tat geschieht solches auch dem abstrakten, einseitigen Unendlichen des Verstandes. Aber das wahrhafte Unendliche verhält sich nicht bloß wie die einseitige Säure, sondern es erhält sich; die Negation der Negation ist nicht eine Neutralisation; das Unendliche ist das Affirmative und nur das Endliche das Aufgehobene.
Im Fürsichsein ist die Bestimmung der Idealität eingetreten. 8/202 Das Dasein, zunächst nur nach seinem Sein oder seiner Affirmation aufgefaßt, hat Realität (§ 91), somit ist auch die Endlichkeit zunächst in der Bestimmung der Realität. Aber die Wahrheit des Endlichen ist vielmehr seine Idealität. Ebensosehr ist auch das Verstandes-Unendliche, welches, neben das Endliche gestellt, selbst nur eins der beiden Endlichen ist, ein unwahres, ein ideelles. Diese Idealität des Endlichen ist der Hauptsatz der Philosophie, und jede wahrhafte Philosophie ist deswegen Idealismus. Es kommt allein darauf ein, nicht das für das Unendliche zu nehmen, was in seiner Bestimmung selbst sogleich zu einem Besonderen und Endlichen gemacht wird. - Auf diesen Unterschied ist deswegen hier weitläufiger aufmerksam gemacht worden; der Grundbegriff der Philosophie, das wahrhafte Unendliche, hängt davon ab. Dieser Unterschied erledigt sich durch die ganz einfachen, darum vielleicht unscheinbaren, aber unwiderleglichen Reflexionen, die im § enthalten sind.
29) vgl. Timaios, Steph. 34 f.

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Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / b. Dasein
Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / B. Quantität

c. Fürsichsein
§ 96
α) Das Fürsichsein als Beziehung auf sich selbst ist Unmittelbarkeit, und als Beziehung des Negativen auf sich selbst ist es Fürsichseiendes, das Eins, - das in sich selbst Unterschiedslose, damit das Andere aus sich Ausschließende.
Zusatz. Das Fürsichsein ist die vollendete Qualität und enthält als solche das Sein und das Dasein als seine ideellen Momente in sich. Als Sein ist das Fürsichsein einfache Beziehung auf sich, und als Dasein ist dasselbe bestimmt; diese Bestimmtheit ist dann aber nicht mehr die endliche Bestimmtheit des Etwas in seinem Unterschied vom Anderen, sondern die unendliche, den Unterschied in sich als aufgehoben enthaltende Bestimmtheit.
Das nächste Beispiel des Fürsichseins haben wir am Ich. Wir wissen uns als daseiend zunächst unterschieden von anderem Daseienden und auf dasselbe bezogen. Weiter wissen wir dann aber auch diese Breite des Daseins als zugespitzt gleichsam zur einfachen Form des Fürsichseins. Indem wir sagen: Ich, so ist dies 8/203 der Ausdruck der unendlichen und zugleich negativen Beziehung auf sich. Man kann sagen, daß der Mensch sich vom Tier und somit von der Natur überhaupt dadurch unterscheidet, daß er sich als Ich weiß, womit dann zugleich ausgesprochen ist, daß die natürlichen Dinge es nicht zum freien Fürsichsein bringen, sondern als auf das Dasein beschränkt immer nur Sein-für-Anderes sind. - Weiter ist nun das Fürsichsein überhaupt als Idealität aufzufassen, wohingegen das Dasein früher als Realität bezeichnet wurde. Realität und Idealität werden häufig als ein Paar mit gleicher Selbständigkeit einander gegenüberstehende Bestimmungen betrachtet, und man sagt demgemäß, daß es außer der Realität auch eine Idealität gebe. Nun aber ist die Idealität nicht etwas, das es außer und neben der Realität gibt, sondern der Begriff der Idealität besteht ausdrücklich darin, die Wahrheit der Realität zu sein, d. h. die Realität als das gesetzt, was sie an sich ist, erweist sich selbst als Idealität. Man darf somit nicht glauben, der Idealität die nötige Ehre erwiesen zu haben, wenn man nur einräumt, daß es mit der Realität noch nicht abgetan sei, sondern daß man außer derselben auch noch eine Idealität anzuerkennen habe. Eine solche Idealität, neben oder immerhin auch über der Realität, wäre in der Tat nur ein leerer Name. Einen Inhalt aber hat die Idealität nur, indem dieselbe Idealität von etwas ist: dieses Etwas aber ist dann nicht bloß ein unbestimmtes Dieses oder Jenes, sondern das als Realität bestimmte Dasein, welchem, für sich festgehalten, keine Wahrheit zukommt. Man hat nicht mit Unrecht den Unterschied der Natur und des Geistes so aufgefaßt, daß jene auf die Realität und dieser auf die Idealität als ihre Grundbestimmung zurückzuführen seien. Nun aber ist die Natur eben nicht ein Festes und Fertiges für sich, welches somit auch ohne den Geist bestehen könnte, sondern dieselbe gelangt erst im Geist zu ihrem Ziel und ihrer Wahrheit, und ebenso ist der Geist an seinem Teil nicht bloß ein abstraktes Jenseits der Natur, sondern derselbe ist wahrhaft und bewährt nur erst als Geist, insofern er die Natur als aufgehoben in sich enthält. Es ist hierbei an die gedoppelte Bedeutung unseres deutschen Ausdrucks aufheben zu erinnern. Unter aufheben verstehen wir einmal soviel als hinwegräumen, negieren, und sagen demgemäß z. B., ein Gesetz, eine Einrichtung usw. seien aufgehoben. Weiter heißt dann aber auch aufheben soviel als aufbewahren, und wir sprechen in diesem Sinn davon, daß etwas wohl aufgehoben sei. Dieser sprachgebräuchliche Doppelsinn, wonach dasselbe Wort eine negative und eine positive Bedeutung hat, darf nicht als zufällig angesehen noch etwa gar der Sprache zum Vorwurf gemacht werden, als zu Verwirrung Veranlassung gebend, sondern es ist darin der über 8/204 das bloß verständige Entweder-Oder hinausschreitende spekulative Geist unserer Sprache zu erkennen.
§ 97
β) Die Beziehung des Negativen auf sich ist negative Beziehung, also Unterscheidung des Eins von sich selbst, die Repulsion des Eins, d. i. Setzen vieler Eins. Nach der Unmittelbarkeit des Fürsichseienden sind diese Viele Seiende, und die Repulsion der seienden Eins wird insofern ihre Repulsion gegeneinander als Vorhandener oder gegenseitiges Ausschließen.
Zusatz. Wenn vom Eins die Rede ist, so pflegen uns dabei zunächst die Vielen einzufallen. Hier entsteht dann die Frage, wo die Vielen herkommen. In der Vorstellung findet sich für diese Frage keine Antwort, da dieselbe die Vielen als unmittelbar vorhanden betrachtet und das Eins eben nur als Eines unter den Vielen gilt. Dem Begriffe nach bildet dagegen das Eins die Voraussetzung der Vielen, und es liegt in dem Gedanken des Eins, sich selbst als das Viele zu setzen. Das für sich seiende Eins als solches ist nämlich nicht ein Beziehungsloses wie das Sein, sondern es ist Beziehung so gut wie das Dasein; nun aber bezieht es sich nicht als Etwas auf ein Anderes, sondern als Einheit des Etwas und des Anderen ist es Beziehung auf sich selbst, und zwar ist diese Beziehung negative Beziehung. Hiermit erweist sich das Eins als das schlechthin mit sich selbst Unverträgliche, als das sich von [sich] selbst Abstoßende, und dasjenige, als was es sich setzt, ist das Viele. Wir können diese Seite im Prozeß des Fürsichseins mit dem bildlichen Ausdruck Repulsion bezeichnen. Von der Repulsion spricht man zunächst bei Betrachtung der Materie und versteht darunter eben dies, daß die Materie als ein Vieles in einem jeden dieser vielen Eins sich als ausschließend gegen alle übrigen verhält. Man darf übrigens den Prozeß der Repulsion nicht so auffassen, als sei Eins das Repellierende und die Vielen das Repellierte; vielmehr ist das Eins, wie vorher bemerkt wurde, eben nur dies, sich von sich selbst auszuschließen und als das Viele zu setzen; ein jedes der Vielen aber ist selbst Eins, und indem es sich als solches verhält, so schlägt hiermit diese allseitige Repulsion um in ihr Entgegengesetztes - die Attraktion.
§ 98
γ) Die Vielen sind aber das eine was das andere ist, jedes 8/205 ist Eins oder auch Eins der Vielen; sie sind daher eins und dasselbe. Oder die Repulsion an ihr selbst betrachtet, so ist sie als negatives Verhalten der vielen Eins gegeneinander ebenso wesentlich ihre Beziehung aufeinander; und da diejenigen, auf welche sich das Eins in seinem Repellieren bezieht, Eins sind, so bezieht es sich in ihnen auf sich selbst. Die Repulsion ist daher ebenso wesentlich Attraktion; und das ausschließende Eins oder das Fürsichsein hebt sich auf. Die qualitative Bestimmtheit, welche im Eins ihr An-und-für-sich-Bestimmtsein erreicht hat, ist hiermit in die Bestimmtheit als aufgehobene übergegangen, d. i. in das Sein als Quantität.
Die atomistische Philosophie ist dieser Standpunkt, auf welchem sich das Absolute als Fürsichsein, als Eins, und als viele Eins bestimmt. Als ihre Grundkraft ist auch die am Begriffe des Eins sich zeigende Repulsion angenommen worden; nicht aber so die Attraktion, sondern der Zufall, d. i. das Gedankenlose, soll sie zusammenbringen. Indem das Eins als Eins fixiert ist, so ist das Zusammenkommen desselben mit anderen allerdings als etwas ganz äußerliches anzusehen. - Das Leere, welches als das andere Prinzip zu dem Atomen angenommen wird, ist die Repulsion selbst, vorgestellt als das seiende Nichts zwischen den Atomen. - Die neuere Atomistik - und die Physik behält noch immer dies Prinzip bei - hat insofern die Atome aufgegeben, als sie sich an kleine Teilchen, Moleküle, hält; sie hat sich damit dem sinnlichen Vorstellen nähergebracht, aber die denkende Bestimmung verlassen. - Indem ferner der Repulsivkraft eine Attraktivkraft an die Seite gesetzt wird, so ist der Gegensatz zwar vollständig gemacht, und man hat sich viel mit der Entdeckung dieser sogenannten Naturkraft gewußt. Aber die Beziehung beider aufeinander, was das Konkrete und Wahrhafte derselben ausmacht, wäre aus der trüben Verwirrung zu reißen, in der sie auch noch in Kants Metaphysischen Anfangsgründen der Naturwissenschaft gelassen 8/206 ist. - Noch wichtiger als im Physischen ist in neueren Zeiten die atomistische Ansicht im Politischen geworden. Nach derselben ist der Wille der Einzelnen als solcher das Prinzip des Staates; das Attrahierende ist die Partikularität der Bedürfnisse, Neigungen, und das Allgemeine, der Staat selbst, ist das äußerliche Verhältnis des Vertrags.
Zusatz 1. Die atomistische Philosophie bildet eine wesentliche Stufe in der geschichtlichen Entwicklung der Idee, und das Prinzip dieser Philosophie ist überhaupt das Fürsichsein in der Gestalt des Vielen. Wenn noch heutzutage die Atomistik bei solchen Naturforschern, die von Metaphysik nichts wissen wollen, in großer Gunst steht, so ist hier daran zu erinnern, daß man der Metaphysik und näher der Zurückführung der Natur auf Gedanken dadurch nicht entgeht, daß man sich der Atomistik in die Arme wirft, da das Atom in der Tat selbst ein Gedanke und somit die Auffassung der Materie als aus Atomen bestehend eine metaphysische Auffassung ist. Newton hat zwar die Physik ausdrücklich gewarnt, sich vor der Metaphysik zu hüten; zu seiner Ehre muß indes bemerkt werden, daß er selbst sich dieser Warnung keineswegs gemäß verhalten hat. Reine, pure Physiker sind in der Tat nur die Tiere, da diese nicht denken, wohingegen der Mensch, als ein denkendes Wesen, ein geborener Metaphysiker ist. Dabei kommt es dann nur darauf an, ob die Metaphysik, welche man zur Anwendung bringt, von der rechten Art ist, und namentlich, ob es nicht, anstatt der konkreten, logischen Idee, einseitige, vom Verstand fixierte Gedankenbestimmungen sind, an welche man sich hält und welche die Grundlage unseres theoretischen sowohl als unseres praktischen Tuns bilden. Dieser Vorwurf ist es, welcher die atomistische Philosophie trifft. Die alten Atomistiker betrachteten (wie dies noch heutzutage häufig der Fall ist) alles als ein Vieles, und der Zufall sollte es dann sein, welcher die im Leeren herumschwebenden Atome zusammenbringt. Nun aber ist die Beziehung der Vielen aufeinander keineswegs eine bloß zufällige, sondern diese Beziehung ist (wie vorher bemerkt wurde) in ihnen selbst begründet. Kant ist es, welchem das Verdienst gebührt, die Auffassung der Materie dadurch vervollständigt zu haben, daß er dieselbe als die Einheit von Rcpulsion und Attraktion betrachtet. Hierin liegt das Richtige, daß die Attraktion allerdings als das andere im Begriff des Fürsichseins enthaltene Moment anzuerkennen ist und daß somit die Attraktion ebenso wesentlich zur Materie gehört als die Repulsion. Diese sogenannte dynamische 8/207 Konstruktion der Materie leidet dann aber an dem Mangel, daß die Repulsion und die Attraktion ohne weiteres als vorhanden postuliert und nicht deduziert werden, aus welcher Deduktion sich dann auch das Wie und Warum ihrer bloß behaupteten Einheit ergeben haben würde. Wenn übrigens Kant ausdrücklich eingeschärft hat, daß man die Materie nicht als für sich vorhanden und dann (gleichsam beiläufig) mit den beiden hier erwähnten Kräften ausgestattet, sondern dieselbe als lediglich in deren Einheit bestehend zu betrachten habe, und die deutschen Physiker sich eine Zeitlang diese reine Dynamik haben gefallen lassen, so hat es die Mehrzahl dieser Physiker in der neueren Zeit wieder bequemer gefunden, auf den atomistischen Standpunkt zurückzukehren und, gegen die Warnung ihres Kollegen, des seligen Kästner30) , die Materie als aus unendlich kleinen Dingerchen, Atome genannt, bestehend zu betrachten, welche Atome dann durch das Spiel der an ihnen haftenden Attraktiv-, Repulsiv- oder auch sonstigen beliebigen Kräfte miteinander in Beziehung gesetzt werden sollen. Dies ist dann gleichfalls eine Metaphysik, vor welcher, um ihrer Gedankenlosigkeit willen, sich zu hüten allerdings hinlänglicher Grund vorhanden wäre.
Zusatz 2. Der im vorstehenden § angegebene Übergang der Qualität in die Quantität findet sich nicht in unserem gewöhnlichen Bewußtsein. Diesem gelten die Qualität und die Quantität als ein Paar selbständig nebeneinander bestehende Bestimmungen, und es heißt demgemäß, die Dinge seien nicht nur qualitativ, sondern auch quantitativ bestimmt. Wo diese Bestimmungen herkommen und wie sich dieselben zueinander verhalten, danach wird hier weiter nicht gefragt. Nun aber ist die Quantität nichts anderes als die aufgehobene Qualität, und die hier betrachtete Dialektik der Qualität ist es, wodurch diese Aufhebung zustande kommt. Wir hatten zunächst das Sein, und als dessen Wahrheit ergab sich das Werden; dieses bildete den Übergang zum Dasein, als dessen Wahrheit wir die Veränderung erkannten. Die Veränderung aber zeigte sich in ihrem Resultate als das der Beziehung auf Anderes und dem Übergang in dasselbe entnommene Fürsichsein, welches Fürsichsein dann endlich in den beiden Seiten seines Prozesses, der Repulsion und der Attraktion, sich als das Aufheben seiner selbst und somit der Qualität überhaupt, in der Totalität ihrer Momente, erwiesen hat. Diese aufgehobene Qualität ist nun aber weder ein abstraktes Nichts noch das ebenso abstrakte und bestimmungslose Sein, sondern nur das gegen die Bestimmtheit gleichgültige Sein, 8/208 und diese Gestalt des Seins ist es, welche auch in unserer gewöhnlichen Vorstellung als Quantität vorkommt. Wir betrachten demgemäß die Dinge zunächst unter dem Gesichtspunkt ihrer Qualität, und diese gilt uns als die mit dem Sein des Dinges identische Bestimmtheit. Schreiten wir dann weiter zur Betrachtung der Quantität, so gewährt uns diese sofort die Vorstellung der gleichgültigen, äußerlichen Bestimmtheit, dergestalt, daß ein Ding, obschon seine Quantität sich ändert und es größer oder kleiner wird, dennoch bleibt, was es ist.
30) Abraham Gotthelf Kästner, 1719-1800, Mathematiker und Philosoph

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B. Quantität
a. Die reine Quantität
§ 99
Die Quantität ist das reine Sein, an dem die Bestimmtheit nicht mehr als eins mit dem Sein selbst, sondern als aufgehoben oder gleichgültig gesetzt ist.
1. Der Ausdruck Größe ist insofern für Quantität nicht passend, als er vornehmlich die bestimmte Quantität bezeichnet. 2. Die Mathematik pflegt die Größe als das zu definieren, was vermehrt oder vermindert werden kann; so fehlerhaft diese Definition ist, indem sie das Definitum selbst wieder enthält, so liegt doch dies darin, daß die Größenbestimmung eine solche ist, die als veränderlich und gleichgültig gesetzt sei, so daß unbeschadet einer Veränderung derselben, einer vermehrten Extension oder Intension, die Sache, z. B. ein Haus, Rot, nicht aufhöre, Haus, Rot zu sein. 3. Das Absolute ist reine Quantität, - dieser Standpunkt fällt im allgemeinen damit zusammen, daß dem Absoluten die Bestimmung von Materie gegeben wird, an welcher die Form zwar vorhanden, aber eine gleichgültige Bestimmung sei. Auch macht die Quantität die Grundbestimmung des Absoluten aus, wenn es so gefaßt wird, daß an ihm, dem Absolut-Indifferenten, aller Unterschied nur quantitativ sei. - Sonst können der reine 8/209 Raum, die Zeit usf. als Beispiele der Quantität genommen werden, insofern das Reale als gleichgültige Raum- oder Zeiterfüllung aufgefaßt werden soll.
Zusatz. Die in der Mathematik gewöhnliche Definition der Größe, dasjenige zu sein, was vermehrt oder vermindert werden kann, scheint beim ersten Anblick einleuchtender und plausibler zu sein als die im vorstehenden § enthaltene Begriffsbestimmung. Näher besehen enthält dieselbe jedoch in der Form der Voraussetzung und der Vorstellung dasselbe, was sich nur auf dem Wege der logischen Entwicklung als Begriff der Quantität ergeben hat. Wenn nämlich von der Größe gesagt wird, daß ihr Begriff darin bestehe, vermehrt oder vermindert werden zu können, so ist eben damit ausgesprochen, daß die Größe (oder richtiger die Quantität) - im Unterschied von der Qualität - eine solche Bestimmung ist, gegen deren Veränderung die bestimmte Sache sich als gleichgültig verhält. Was dann den oben gerügten Mangel der gewöhnlichen Definition der Quantität anbetrifft, so besteht derselbe näher darin, daß Vermehren und Vermindern eben nur heißt, die Größe anders bestimmen. Hiermit wäre indes die Quantität zunächst nur ein Veränderliches überhaupt. Nun aber ist auch die Qualität veränderlich, und der vorher erwähnte Unterschied der Quantität von der Qualität ist dann durch das Vermehren oder Vermindern ausgedrückt, worin dies liegt, daß, nach welcher Seite hin auch die Größenbestimmung verändert werden mag, die Sache doch bleibt, was sie ist. - Hier ist dann noch zu bemerken, daß es in der Philosophie überhaupt gar nicht bloß um richtige und noch viel weniger bloß um plausible, d. h. solche Definitionen zu tun ist, deren Richtigkeit dem vorstehenden Bewußtsein unmittelbar einleuchtet, sondern vielmehr um bewährte, d. h. solche Definitionen, deren Inhalt nicht bloß als ein vorgefundener aufgenommen, sondern als ein im freien Denken und damit zugleich in sich selbst begründeter erkannt wird. Dies findet seine Anwendung auf dem vorliegenden Fall in der Art, daß, wie richtig und unmittelbar einleuchtend auch immerhin die in der Mathematik gewöhnliche Definition der Quantität sein möchte, damit doch immer der Forderung noch nicht genügt sein würde, zu wissen, inwiefern dieser besondere Gedanke im allgemeinen Denken begründet und hiermit notwendig ist. Hieran schließt sich dann die weitere Betrachtung, daß, indem die Quantität, ohne durch das Denken vermittelt zu sein, unmittelbar aus der Vorstellung aufgenommen wird, es sehr leicht geschieht, daß dieselbe hinsichtlich des Umfangs ihrer Gültigkeit überschätzt, ja selbst zur absoluten Kategorie gesteigert wird. Dies ist in der Tat dann der Fall, wenn nur solche 8/210 Wissenschaften, deren Gegenstände dem mathematischen Kalkül unterworfen werden können, als exakte Wissenschaften anerkannt werden. Hier zeigt sich dann wieder jene früher (§ 98 Zusatz) erwähnte schlechte Metaphysik, welche einseitige und abstrakte Verstandesbestimmungen an die Stelle der konkreten Idee setzt. Es wäre in der Tat übel beschaffen mit unserem Erkennen, wenn von solchen Gegenständen wie Freiheit, Recht, Sittlichkeit, ja Gott selbst, darum, weil dieselben nicht gemessen und berechnet oder in einer mathematischen Formel ausgedrückt werden können, wir uns, mit Verzichtleistung auf eine exakte Erkenntnis, im allgemeinen bloß mit einer unbestimmten Vorstellung zu begnügen hätten und dann, was das Nähere oder Besondere derselben anbetrifft, dem Belieben eines jeden Einzelnen überlassen bliebe, daraus zu machen, was er will. - Welche praktisch verderbliche Konsequenzen sich aus einer solchen Auffassung ergeben, ist unmittelbar einleuchtend. Näher betrachtet ist übrigens der hier erwähnte, ausschließlich mathematische Standpunkt, auf welchem die Quantität, diese bestimmte Stufe der logischen Idee, mit dieser selbst identifiziert wird, kein anderer Standpunkt als der des Materialismus, wie denn auch solches in der Geschichte des wissenschaftlichen Bewußtseins, namentlich in Frankreich seit der Mitte des vorigen Jahrhunderts, seine volle Bestätigung findet. Das Abstrakte der Materie ist eben dies, an welchem die Form zwar vorhanden ist, jedoch nur als eine gleichgültige und äußerliche Bestimmung. - Man würde übrigens die hier angestellte Erörterung sehr mißverstehen, wenn man dieselbe so auffassen wollte, als ob dadurch der Würde der Mathematik zu nahe getreten oder als ob durch Bezeichnung der quantitativen Bestimmung, als bloß äußerlicher und gleichgültiger Bestimmung, der Trägheit und Oberflächlichkeit ein gutes Gewissen gemacht und behauptet werden sollte, man könne die quantitativen Bestimmungen auf sich beruhen lassen oder brauche es wenigstens damit eben so genau nicht zu nehmen. Die Quantität ist jedenfalls eine Stufe der Idee, welcher als solcher auch ihr Recht werden muß, zunächst als logischer Kategorie und sodann weiter auch in der gegenständlichen Welt, sowohl in der natürlichen als auch in der geistigen. Hier zeigt sich dann aber auch sogleich der Unterschied, daß bei Gegenständen der natürlichen Welt und bei Gegenständen der geistigen Welt die Größenbestimmung nicht von gleicher Wichtigkeit ist. In der Natur nämlich, als der Idee in der Form des Anders- und zugleich des Außersichseins, hat eben um deswillen auch die Quantität eine größere Wichtigkeit als in der Welt des Geistes, dieser Welt der freien Innerlichkeit. Wir betrachten zwar auch den geistigen Inhalt unter dem quantitativen Gesichtspunkt, allein es leuchtet sofort 8/211 ein, daß, wenn wir Gott als den Dreieinigen betrachten, die Zahl drei hier eine viel untergeordnetere Bedeutung hat, als wenn wir z. B. die drei Dimensionen des Raumes oder gar die drei Seiten eines Dreiecks betrachten, dessen Grundbestimmung eben nur die ist, eine von drei Linien begrenzte Fläche zu sein. Weiter findet sich dann auch innerhalb der Natur der erwähnte Unterschied einer größeren und geringeren Wichtigkeit der quantitativen Bestimmung, und zwar in der Art, daß in der unorganischen Natur die Quantität sozusagen eine wichtigere Rolle spielt als in der organischen. Unterscheiden wir dann noch innerhalb der unorganischen Natur das mechanische Gebiet von dem im engeren Sinn physikalischen und chemischen, so zeigt sich hier abermals derselbe Unterschied, und die Mechanik ist anerkanntermaßen diejenige wissenschaftliche Disziplin, in welcher die Hilfe der Mathematik am wenigsten entbehrt, ja in welcher ohne dieselbe fast kein Schritt getan werden kann und welche dann auch um deswillen nächst der Mathematik selbst als die exakte Wissenschaft par excellence betrachtet zu werden pflegt, wobei dann wiederum die obige Bemerkung hinsichtlich des Zusammenfallens des materialistischen und des ausschließlich mathematischen Standpunkts erinnern ist. - Es muß übrigens nach allem, was hier ausgeführt wurde, gerade für eine exakte und gründliche Erkenntnis eines der störendsten Vorurteile bezeichnet werden, wenn, wie dies häufig geschieht, aller Unterschied und alle Bestimmtheit des Gegenständlichen bloß im Quantitativen gesucht wird. Allerdings ist z. B. der Geist mehr als die Natur, das Tier ist mehr als die Pflanze, allein man weiß auch sehr wenig von diesen Gegenständen und ihrem Unterschied, wenn man bloß bei solchem Mehr oder Weniger stehenbleibt und nicht dazu fortschreitet, dieselben ihrer eigentümlichen, hier zunächst qualitativen Bestimmtheit aufzufassen.
§ 100
Die Quantität zunächst in ihrer unmittelbaren Beziehung auf sich oder in der Bestimmung der durch die Attraktion gesetzten Gleichheit mit sich selbst ist kontinuierliche; in der anderen in ihr enthaltenen Bestimmung des Eins ist sie diskrete Größe. Jene Quantität ist aber ebensowohl diskret, denn sie ist nur Kontinuität des Vielen; diese ebenso kontinuierlich, [denn] ihre Kontinuität ist das Eins als Dasselbe der vielen Eins, die Einheit.
1. Die kontinuierliche und diskrete Größe müssen daher 8/212 nicht insofern als Arten angesehen werden, als ob die Bestimmung der einen der anderen nicht zukomme, sondern sie unterscheiden sich nur dadurch, daß dasselbe Ganze das eine Mal unter der einen, das andere Mal unter der anderen seiner Bestimmungen gesetzt ist. 2. Die Antinomie des Raums, der Zeit oder der Materie, in Ansehung ihrer Teilbarkeit ins Unendliche oder aber ihres Bestehens aus Unteilbaren, ist nichts anderes als die Behauptung der Quantität das eine Mal als kontinuierlicher, das andere Mal als diskreter. Werden Raum, Zeit usw. nur mit der Bestimmung kontinuierlicher Quantität gesetzt, so sind sie teilbar ins Unendliche; mit der Bestimmung diskreter Größe aber sind sie an sich geteilt und bestehen aus unteilbaren Eins; das eine ist so einseitig als das andere.
Zusatz. Die Quantität, als nächstes Resultat des Fürsichseins, enthält die beiden Seiten seines Prozesses, die Repulsion und die Attraktion, als ideelle Momente in sich und ist demnach sowohl kontinuierlich als auch diskret. Ein jedes dieser beiden Momente enthält auch das andere in sich, und es gibt somit weder eine bloß kontinuierliche noch eine bloß diskrete Größe. Wenn gleichwohl von beiden als zwei besonderen, einander gegenüberstehenden Arten der Größe gesprochen wird, so ist dies bloß das Resultat unserer abstrahierenden Reflexion, welche bei Betrachtung bestimmter Größen das eine Mal von dem einen und das andere Mal von dem anderen der im Begriff der Quantität in untrennbarer Einheit enthaltenen Momente absieht. Man sagt so z. B., der Raum, den dieses Zimmer einnimmt, ist eine kontinuierliche Größe, und diese hundert Menschen, die darin versammelt sind, bilden eine diskrete Größe. Nun aber ist der Raum kontinuierlich und diskret zugleich, und wir sprechen demgemäß von Raumpunkten und teilen den Raum dann auch ein, z. B. eine gewisse Länge in soundsoviel Fuß, Zoll usw., welches nur unter der Voraussetzung geschehen kann, daß der Raum an sich auch diskret ist. Ebenso ist dann auch andererseits die aus hundert Menschen bestehende diskrete Größe zugleich kontinuierlich, und das denselben Gemeinschaftliche, die Gattung Mensch, welche durch alle Einzelnen hindurchgeht und dieselben untereinander verbindet, ist es, worin die Kontinuität dieser Größe begründet ist. 8/213

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b. Das Quantum
§ 101
Die Quantität wesentlich gesetzt mit der ausschließenden Bestimmtheit, die in ihr enthalten ist, ist Quantum; begrenzte Quantität.
Zusatz. Das Quantum ist das Dasein der Quantität, wohingegen die reine Quantität dem Sein und der (demnächst zu betrachtende) Grad dem Fürsichsein entsprechen. - Was das Nähere des Fortganges von der reinen Quantität zum Quantum anbetrifft, so ist derselbe darin begründet, daß, während in der reinen Quantität der Unterschied, als Unterschied von Kontinuität und Diskretion, nur erst an sich vorhanden ist, im Quantum dagegen der Unterschied gesetzt wird, und zwar so, daß nunmehr die Quantität überhaupt als unterschieden oder begrenzt erscheint. Hiermit zerfällt dann aber auch zugleich das Quantum in eine unbestimmte Menge von Quantis oder bestimmten Größen. Eine jede dieser bestimmten Größen, als unterschieden von der anderen, bildet eine Einheit, so wie dieselbe andererseits für sich allein betrachtet ein Vieles ist. So aber ist das Quantum als Zahl bestimmt.
§ 102
Das Quantum hat seine Entwicklung und vollkommene Bestimmtheit in der Zahl, die als ihr Element das Eins, nachdem Momente der Diskretion die Anzahl, nach dem der Kontinuität die Einheit als seine qualitativen Momente in sich enthält.
In der Arithmetik pflegen die Rechnungsarten als zufällige Weisen, die Zahlen zu behandeln, aufgeführt zu werden. Wenn in ihnen eine Notwendigkeit und damit ein Verstand liegen soll, so muß derselbe in einem Prinzip, und dies kann nur in den Bestimmungen liegen, die in dem Begriffe der Zahl selbst enthalten sind; dies Prinzip soll hier kurz aufgezeigt werden. - Die Bestimmungen des Begriffs der Zahl sind die Anzahl und die Einheit, und die Zahl selbst ist die Einheit beider. Die Einheit aber, auf empirische Zahlen angewendet, ist nur die Gleichheit derselben; so muß das Prinzip der Rechnungsarten sein, 8/214 Zahlen in das Verhältnis von Einheit und Anzahl zu setzen und die Gleichheit dieser Bestimmungen hervorzubringen.
Indem die Eins oder die Zahlen selbst gleichgültig gegeneinander sind, so erscheint die Einheit, in welche sie versetzt werden, überhaupt als ein äußerliches Zusammenfassen. Rechnen ist darum überhaupt Zählen, und der Unterschied der Arten zu rechnen liegt allein in der qualitativen Beschaffenheit der Zahlen, die zusammengezählt werden, und für die Beschaffenheit ist die Bestimmung von Einheit und Anzahl das Prinzip.
Numerieren ist das erste, die Zahl überhaupt machen, ein Zusammenfassen von beliebig vielen Eins. - Eine Rechnungsart aber ist das Zusammenzählen von solchen, die schon Zahlen, nicht mehr das bloße Eins sind.
Die Zahlen sind unmittelbar und zuerst ganz unbestimmt Zahlen überhaupt, ungleich daher überhaupt; das Zusammenfassen oder Zählen von solchen ist Addieren.
Die nächste Bestimmung ist, daß die Zahlen gleich überhaupt sind, damit machen sie eine Einheit aus, und es ist eine Anzahl solcher vorhanden; solche Zahlen zu zählen ist das Multiplizieren, - wobei es gleichgültig ist, wie die Bestimmungen von Anzahl und Einheit an die beiden Zahlen, die Faktoren, verteilt werden, welche für die Anzahl und welche dagegen für die Einheit genommen wird.
Die dritte Bestimmtheit ist endlich die Gleichheit der Anzahl und der Einheit. Das Zusammenzählen so bestimmter Zahlen ist das Erheben in die Potenz - und zunächst in das Quadrat. - Das weitere Potenzieren ist das formelle, wieder in die unbestimmte Anzahl ausgehende Fortsetzen der Multiplikation der Zahl mit sich selbst. - Da in dieser dritten Bestimmung die vollkommene Gleichheit des einzigen vorhandenen Unterschieds, der Anzahl und der Einheit, erreicht ist, so kann es nicht mehrere als diese drei Rechnungsarten geben. - Dem Zusammenzählen ent spricht 8/215 das Auflösen der Zahlen nach denselben Bestimmtheiten. Es gibt daher neben den drei angeführten Arten, welche insofern die positiven genannt werden können, auch drei negative.
Zusatz. Da die Zahl überhaupt das Quantum in seiner vollkommenen Bestimmtheit ist, so bedienen wir uns desselben nicht nur zur Bestimmung der sogenannten diskreten, sondern ebenso auch der sogenannten kontinuierlichen Größen. Die Zahl muß deshalb auch in der Geometrie zu Hilfe genommen werden, wo es sich darum handelt, bestimmte Figurationen des Raums und der Verhältnisse anzugeben.

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c. Der Grad
§ 103
Die Grenze ist mit dem Ganzen des Quantums selbst identisch; als in sich vielfach ist sie die extensive, aber als in sich einfache Bestimmtheit die intensive Größe oder der Grad.
Der Unterschied der kontinuierlichen und diskreten Größen von den extensiven und intensiven besteht darin, daß die ersteren auf die Quantität überhaupt gehen, diese aber auf die Grenze oder Bestimmtheit derselben als solcher. - Gleichfalls sind die extensive und intensive Größe auch nicht zwei Arten, deren jede eine Bestimmtheit enthielte, welche die andere nicht hätte; was extensive Größe ist, ist ebensosehr als intensive, und umgekehrt.
Zusatz. Die intensive Größe oder der Grad ist dem Begriff nach von der extensiven Größe oder dem Quantum verschieden, und es muß deshalb als unzulässig bezeichnet werden, wenn man, wie dies häufig geschieht, diesen Unterschied nicht anerkennt und beide Formen der Größe ohne weiteres identifiziert. Es ist dies namentlich der Fall in der Physik, wenn hier z. B. der Unterschied der spezifischen Schwere dadurch erklärt wird, daß man sagt, ein Körper, dessen spezifische Schwere noch einmal so groß ist als die eines anderen, enthalte innerhalb desselben Raumes noch einmal soviel materielle Teile (Atome) als der andere. Ebenso verhält es sich mit der Wärme und mit dem Licht, wenn die verschiedenen Grade der Temperatur und der Helligkeit durch ein Mehr oder 8/216 Weniger von Wärme- oder Lichtpartikeln (oder Molekülen) erklärt werden sollen. Die Physiker, welche sich solcher Erklärungen bedienen, pflegen zwar, wenn ihnen die Unstatthaftigkeit derselben vorgehalten wird, sich damit auszureden, es solle damit über das (bekanntermaßen unerkennbare) Ansich solcher Phänomene keineswegs entschieden werden und man bediene sich der erwähnten Ausdrücke nur um der größeren Bequemlichkeit willen. Was hierbei zunächst die größere Bequemlichkeit anbetrifft, so soll sich dieselbe auf die leichtere Anwendung des Kalküls beziehen; es ist indes nicht einzusehen, warum nicht intensive Größen, welche ja gleichfalls an der Zahl ihren bestimmten Ausdruck haben, ebenso bequem zu berechnen sein sollen als extensive Größen. Bequemer noch wäre es freilich, sich sowohl des Rechnens als auch des Denkens selbst gänzlich zu entschlagen. Weiter ist dann noch gegen die erwähnte Ausrede zu bemerken, daß, indem man sich auf Erklärungen dieser Art einläßt, man jedenfalls das Gebiet der Wahrnehmung und der Erfahrung überschreitet und sich auf das Gebiet der Metaphysik und der (bei anderer Gelegenheit für müßig, ja verderblich erklärten) Spekulation begibt. In der Erfahrung wird es sich allerdings finden, daß, wenn von zwei mit Talern gefüllten Beuteln der eine noch einmal so schwer ist als der andere, dies um deswillen der Fall ist, weil der eine dieser Beutel zweihundert und der andere nur hundert Taler enthält. Diese Geldstücke kann man sehen und überhaupt mit den Sinnen wahrnehmen; dahingegen liegen Atome, Moleküle u. dgl. außerhalb des Bereichs der sinnlichen Wahrnehmung, und es ist Sache des Denkens, über deren Zulässigkeit und Bedeutung zu entscheiden. Nun aber ist es (wie früher, § 98 Zusatz, erwähnt wurde) der abstrakte Verstand, welcher das im Begriff des Fürsichseins enthaltene Moment des Vielen in der Gestalt der Atome fixiert und als ein Letztes festhält, und derselbe abstrakte Verstand ist es dann auch, welcher im vorliegenden Fall, ebensosehr in Widerspruch mit der unbefangenen Anschauung als mit dem wahrhaften konkreten Denken, die extensive Größe als die einzige Form der Quantität betrachtet und da, wo intensive Größen sich finden, diese in ihrer eigentümlichen Bestimmtheit nicht anerkennt, sondern dieselben, gestützt auf eine in sich haltlose Hypothese, gewaltsamerweise auf extensive Größen zurückzuführen sich bemüht. Wenn unter den Vorwürfen, welche man der neueren Philosophie gemacht hat, besonders häufig auch der vernommen worden ist, daß dieselbe alles auf Identität zurückführe, und man derselben dann auch wohl den Spottnamen der Identitätsphilosophie gegeben hat, so ist aus der hier angestellten Erörterung zu entnehmen, daß es gerade die Philosophie ist, welche darauf 8/217 dringt, dasjenige zu unterscheiden, was sowohl dem Begriff als auch der Erfahrung nach verschieden ist, wohingegen es Empiriker von Profession sind, welche die abstrakte Identität zum höchsten Prinzip des Erkennens erheben und deren Philosophie deshalb füglicher als Identitätsphilosophie zu bezeichnen wäre. Übrigens ist es ganz richtig, daß, sowenig es bloß kontinuierliche und bloß diskrete Größen, es ebensowenig auch bloß intensive und bloß extensive Größen gibt und daß somit die beiden Bestimmungen der Quantität nicht als selbständige Arten einander gegenüberstehen. Eine jede intensive Größe ist auch extensiv, und ebenso verhält es sich auch umgekehrt. So ist z. B. ein gewisser Temperaturgrad eine intensive Größe, welcher als solcher auch eine ganz einfache Empfindung entspricht; gehen wir dann ans Thermometer, so finden wir, wie diesem Temperaturgrad eine gewisse Ausdehnung der Quecksilbersäule korrespondiert, und diese extensive Größe verändert sich zugleich mit der Temperatur als der intensiven Größe. Ebenso verhält es sich dann auch auf dem Gebiet des Geistes; ein intensiverer Charakter reicht weiter mit seiner Wirkung als ein minder intensiver.
§ 104
Im Grade ist der Begriff des Quantums gesetzt. Er ist die Größe als gleichgültig für sich und einfach, so daß sie aber die Bestimmtheit, wodurch sie Quantum ist, schlechthin außer ihr in anderen Größen hat. In diesem Widerspruch, daß die fürsichseiende gleichgültige Grenze die absolute Äußerlichkeit ist, ist der unendliche quantitative Progreß gesetzt, - eine Unmittelbarkeit, die unmittelbar in ihr Gegenteil, in das Vermitteltsein (das Hinausgehen über das soeben gesetzte Quantum), und umgekehrt, umschlägt.
Die Zahl ist Gedanke, aber der Gedanke als ein sich vollkommen äußerliches Sein. Sie gehört nicht der Anschauung an, weil sie Gedanke ist, aber ist der die Äußerlichkeit der Anschauung zu seiner Bestimmung habende Gedanke. - Das Quantum kann daher nicht nur ins Unendliche vermehrt oder vermindert werden, es selbst ist durch seinen Begriff dieses Hinausschicken über sich. Der unendliche quantitative Progreß ist ebenfalls die gedankenlose Wiederholung eines und desselben Widerspruchs, der das 8/218 Quantum überhaupt und, in seiner Bestimmtheit gesetzt, der Grad ist. Über den Überfluß, diesen Widerspruch in der Form des unendlichen Progresses auszusprechen, sagt mit Recht Zenon bei Aristoteles: "es ist dasselbe, etwas einmal sagen und es immer sagen"31) .
Zusatz 1. Wenn nach der früher (§ 99) erwähnten, in der Mathematik gewöhnlichen Definition die Größe als dasjenige bezeichnet wird, was vermehrt und vermindert werden kann, und auch gegen die Richtigkeit der hierbei zugrunde liegenden Anschauung nichts einzuwenden ist, so bleibt doch zunächst noch die Frage übrig, wie wir dazu kommen, ein solches Vermehr- oder Verminderbares anzunehmen. Wollte man zur Beantwortung dieser Frage sich einfach auf die Erfahrung berufen, so würde dies um deswillen nicht genügen, weil abgesehen davon, daß wir dann bloß die Vorstellung und nicht den Gedanken der Größe hätten, diese sich bloß als eine Möglichkeit (des Vermehrt- und Vermindertwerdens) erweisen und uns die Einsicht in die Notwendigkeit dieses sich so Verhaltens fehlen würde. Dahingegen hat sich auf dem Wege unserer logischen Entwicklung nicht nur die Quantität als eine Stufe des sich selbst bestimmenden Denkens ergeben, sondern es hat sich auch gezeigt, daß es im Begriff der Quantität liegt, schlechthin über sich hinauszuschicken, und daß wir somit hier nicht bloß mit einem Möglichen, sondern mit einem Notwendigen zu tun haben.
Zusatz 2. Der quantitative unendliche Progreß ist es vornehmlich, an welchen der reflektierende Verstand sich zu halten pflegt, wenn es demselben um die Unendlichkeit überhaupt zu tun ist. Nun aber gilt von dieser Form des unendlichen Progresses zunächst dasselbe, was früher über den qualitativ unendlichen Progreß bemerkt wurde, daß nämlich dieselbe nicht der Ausdruck der wahren, sondern nur jener schlechten Unendlichkeit ist, welche über das bloße Sollen nicht hinauskommt und somit in der Tat im Endlichen stehenbleibt. Was dann näher die quantitative Form dieses endlichen Progresses anbetrifft, welche Spinoza mit Recht als eine bloß eingebildete Unendlichkeit (infinitum imaginationis) bezeichnet, so haben nicht selten auch Dichter (namentlich Haller und Klopstock) sich dieser Vorstellung bedient, um dadurch nicht nur die Unendlichkeit der Natur, sondern auch Gottes selbst zu 8/219 veranschaulichen. Wir finden z. B. bei Haller eine berühmte Beschreibung der Unendlichkeit Gottes, worin es heißt:
Ich häufe ungeheure Zahlen,
Gebirge Millionen auf,
Ich setze Zeit auf Zeit
Und Welt auf Welt zu Hauf,
Und wenn ich von der grausen Höh
Mit Schwindel wieder nach Dir seh:
Ist alle Macht der Zahl,
Vermehrt zu tausendmal,
Noch nicht ein Teil von Dir.32)
Hier haben wir also zunächst jenes beständige Hinausschicken der Quantität und näher der Zahl über sich selbst, welches Kant als schauderhaft bezeichnet, worin indes das eigentlich Schauderhafte nur die Langweiligkeit sein dürfte, daß beständig eine Grenze gesetzt und wieder aufgehoben wird und man somit nicht von der Stelle kommt. Weiter fügt nun aber der genannte Dichter zu jener Beschreibung der schlechten Unendlichkeit treffend noch als Schluß hinzu:
Ich zieh sie ab, und du liegst ganz vor mir -
womit dann eben ausgesprochen wird, daß das wahrhaft Unendliche nicht als ein bloßes Jenseits des Endlichen zu betrachten und daß wir, um zum Bewußtsein desselben zu gelangen, auf jenen progressus in infinitum zu verzichten haben.
Zusatz 3. Pythagoras hat bekanntlich in Zahlen philosophiert und die Grundbestimmung der Dinge als Zahl aufgefaßt. Diese Auffassung muß dem gewöhnlichen Bewußtsein auf den ersten Anblick als durchaus paradox, ja als verrückt erscheinen, und es entsteht deshalb die Frage, was von derselben zu halten ist. Um diese Frage zu beantworten, ist zunächst daran zu erinnern, daß die Aufgabe der Philosophie überhaupt darin besteht, die Dinge auf Gedanken, und zwar auf bestimmte Gedanken zurückzuführen. Nun aber ist die Zahl allerdings ein Gedanke, und zwar derjenige Gedanke, welcher dem Sinnlichen am nächsten steht, oder bestimmter ausgedrückt, der Gedanke des Sinnlichen selbst, insofern wir darunter überhaupt das Außereinander und das Viele verstehen. Wir erkennen somit in dem Versuch, das Universum als Zahl aufzufassen, den ersten Schritt zur Metaphysik. Pythagoras steht in der Geschichte der Philosophie bekanntlich zwischen den ionischen Philosophen und den Eleaten. Während nun die ersteren, 8/220 wie schon Aristoteles bemerkt, noch dabei stehenblieben, das Wesen der Dinge als ein Materielles (als eine ὕλη) zu betrachten, die letzteren aber, und näher Parmenides, zum reinen Denken in der Form des Seins fortgeschritten sind, so ist es die pythagoreische Philosophie, deren Prinzip gleichsam die Brücke zwischen dem Sinnlichen und Übersinnlichen bildet. Hieraus ergibt es sich dann auch, was von der Ansicht solcher zu halten ist, die da meinen, Pythagoras sei offenbar zu weit gegangen, indem er das Wesen der Dinge als bloße Zahlen aufgefaßt, und dann bemerken, zählen könne man allerdings die Dinge, dawider sei nichts einzuwenden, aber die Dinge seien dann doch noch mehr als bloße Zahlen. Was hierbei das den Dingen zugeschriebene Mehr anbetrifft, so ist zwar bereitwillig zuzugeben, daß die Dinge mehr sind als bloße Zahlen, nur kommt es darauf an, was unter diesem Mehr verstanden wird. Das gemeine sinnliche Bewußtsein wird seinem Standpunkt gemäß keinen Anstand nehmen, die hier aufgeworfene Frage durch Verweisung auf die sinnliche Wahrnehmbarkeit zu beantworten und somit zu bemerken, die Dinge seien doch nicht bloß zählbar, sondern außerdem auch noch sichtbar, riechbar, fühlbar usw. Der der pythagoreischen Philosophie gemachte Vorwurf würde sich hiermit, nach unserer modernen Weise ausgedrückt, darauf reduzieren, daß dieselbe zu idealistisch sei. Nun aber verhält es sich in der Tat gerade umgekehrt, wie schon aus demjenigen zu entnehmen ist, was vorher über die historische Stellung der pythagoreischen Philosophie bemerkt wurde. Wenn nämlich zugegeben werden muß, daß die Dinge mehr als bloße Zahlen sind, so ist dies so zu verstehen, daß der bloße Gedanke der Zahl noch nicht hinreicht, um das bestimmte Wesen oder den Begriff der Dinge dadurch auszusprechen. Anstatt somit zu behaupten, Pythagoras sei mit seiner Zahlenphilosophie zu weit gegangen, so wäre vielmehr umgekehrt zu sagen, daß derselbe noch nicht weit genug gegangen ist, und zwar sind es bereits die Eleaten gewesen, welche den nächsten Schritt zum reinen Denken getan haben. - Weiter gibt es dann aber auch, wo nicht Dinge, so doch Zustände von Dingen und überhaupt Naturphänomene, deren Bestimmtheit wesentlich auf bestimmten Zahlen und Zahlenverhältnissen beruht. Dies ist namentlich der Fall mit dem Unterschied der Töne und ihrem harmonischen Zusammenstimmen, von welchem Phänomen bekanntlich erzählt wird, daß durch dessen Wahrnehmung Pythagoras zuerst veranlaßt worden sei, das Wesen der Dinge als Zahl aufzufassen. Ob es nun schon von entschiedenem wissenschaftlichen Interesse ist, diejenigen Erscheinungen, denen bestimmte Zahlen zugrunde liegen, auch auf dieselben zurückzuführen, so ist es doch auf keine Weise zulässig, 8/221 die Bestimmtheit des Gedankens überhaupt als bloß numerische Bestimmtheit zu betrachten. Man kann sich zwar zunächst veranlaßt finden, die allgemeinsten Gedankenbestimmungen an die ersten Zahlen zu knüpfen, und demgemäß sagen, eins sei das Einfache und Unmittelbare, zwei der Unterschied und die Vermittlung, und drei die Einheit dieser beiden. Diese Verbindungen sind indes ganz äußerlich, und in den genannten Zahlen als solchen liegt es nicht, der Ausdruck gerade dieser bestimmten Gedanken sein. Je weiter man übrigens in dieser Weise vorschreitet, um so mehr zeigt sich die bloße Willkür in der Verbindung bestimmter Zahlen mit bestimmten Gedanken. Man kann so z. B. 4 als die Einheit von 1 und 3 und der damit verknüpften Gedanken betrachten; allein 4 ist auch ebensogut die Verdoppelung von 2, und ebenso ist 9 nicht bloß das Quadrat von 3, sondern auch die Summe von 8 und 1, von 7 und 2 usw. Wenn noch heutzutage gewisse geheime Gesellschaften auf allerhand Zahlen und Figuren ein großes Gewicht legen, so ist dies einerseits als ein harmloses Spiel und andererseits als ein Zeichen von Unbehilflichkeit im Denken zu betrachten. Man sagt dann auch wohl, hinter dergleichen stecke ein tiefer Sinn und man könne sich viel dabei denken. In der Philosophie kommt es indes nicht darauf an, daß man sich etwas denken kann, sondern darauf, daß man wirklich denkt, und das wahrhafte Element des Gedankens ist nicht in willkürlich gewählten Symbolen, sondern nur im Denken selbst zu suchen.
§ 105
Dieses sich selbst in seiner fürsichseienden Bestimmtheit Äußerlichsein des Quantums macht seine Qualität aus; es ist in demselben eben es selbst und auf sich bezogen. Es ist die Äußerlichkeit, d. i. das Quantitative, und das Fürsichsein, das Qualitative, darin vereinigt. - Das Quantum, an ihm selbst so gesetzt, ist das quantitative Verhältnis, - Bestimmtheit, welche ebensosehr ein unmittelbares Quantum, der Exponent, als Vermittlung ist, nämlich die Beziehung irgendeines Quantums auf ein anderes, - die beiden Seiten des Verhältnisses, die zugleich nicht nach ihrem unmittelbaren Werte gelten, sondern deren Wert nur in dieser Beziehung ist.
Zusatz. Der quantitative unendliche Progreß erscheint zunächst als ein fortwährendes Hinausschicken der Zahl über sich selbst. 8/222 Näher betrachtet erweist sich jedoch die Quantität als in diesem Progreß zu sich selbst zurückkehrend, denn was dem Gedanken nach darin enthalten ist, das ist überhaupt das Bestimmtsein der Zahl durch die Zahl, und dies gibt das quantitative Verhältnis. Sagen wir z. B. 2 : 4, so haben wir hiermit zwei Größen, die nicht in ihrer Unmittelbarkeit als solche gelten, sondern bei denen es nur um ihre gegenseitige Beziehung aufeinander zu tun ist. Diese Beziehung aber (der Exponent des Verhältnisses) ist selbst eine Größe, die sich dadurch von den aufeinander bezogenen Größen unterscheidet, daß mit ihrer Veränderung das Verhältnis selbst sich ändert, wohingegen das Verhältnis sich gegen die Veränderung seiner beiden Seiten als gleichgültig verhält und dasselbe bleibt, solange nur der Exponent sich nicht verändert. Wir können deshalb auch an die Stelle von 2:4 3:6 setzen, ohne daß das Verhältnis sich ändert, denn der Exponent 2 bleibt in beiden Fällen derselbe.
§ 106
Die Seiten des Verhältnisses sind noch unmittelbare Quanta und die qualitative und die quantitative Bestimmung einander noch äußerlich. Nach ihrer Wahrheit aber, daß das Quantitative selbst Beziehung auf sich in seiner Äußerlichkeit ist oder das Fürsichsein und die Gleichgültigkeit der Bestimmtheit vereinigt sind, ist es das Maß.
Zusatz. Die Quantität hat sich vermittels der bisher betrachteten dialektischen Bewegung durch ihre Momente als Rückkehr zur Qualität erwiesen. Als Begriff der Quantität hatten wir zunächst die aufgehobene Qualität, d. h. die nicht mit dem Sein identische, sondern dagegen gleichgültige, nur äußerliche Bestimmtheit. Dieser Begriff ist es dann auch, welcher (wie früher bemerkt wurde) der in der Mathematik gewöhnlichen Definition der Größe, dasjenige zu sein, was vermehrt und vermindert werden kann, zugrunde liegt. Wenn nun nach dieser Definition es zunächst so scheinen kann, als sei die Größe nur das Veränderliche überhaupt (denn vermehren sowohl als auch vermindern heißt eben nur, die Größe anders bestimmen), hiermit aber dieselbe von dem seinem Begriff nach gleichfalls veränderlichen Dasein (der zweiten Stufe der Qualität) nicht unterschieden wäre, so mußte der Inhalt jener Definition dahin vervollständigt werden, daß wir an der Quantität ein Veränderliches haben, welches ungeachtet seiner Veränderung doch dasselbe bleibt. Der Begriff der Quantität erweist sich hiermit als einen Widerspruch in sich enthaltend, und dieser 8/223 Widerspruch ist es, welcher die Dialektik der Quantität ausmacht. Das Resultat dieser Dialektik ist nun aber nicht die bloße Rückkehr zur Qualität, so als ob diese das Wahre, die Qualität dagegen das Unwahre wäre, sondern die Einheit und Wahrheit dieser beiden, die qualitative Quantität - oder das Maß. - Hierbei kann dann noch bemerkt werden, daß, wenn wir uns bei Betrachtung der gegenständlichen Welt mit quantitativen Bestimmungen beschäftigen, es in der Tat immer schon das Maß ist, welches wir als Ziel solcher Beschäftigung vor Augen haben, wie solches dann auch in unserer Sprache dadurch angedeutet ist, daß wir das Ermitteln quantitativer Bestimmungen und Verhältnisse als ein Messen bezeichnen. Man mißt so z. B. die Länge verschiedener Saiten, welche in Schwingung versetzt werden, unter dem Gesichtspunkt des diesem Längenunterschied entsprechenden qualitativen Unterschieds der durch die Schwingung hervorgebrachten Töne. Ebenso wird in der Chemie die Quantität miteinander in Verbindung gebrachter Stoffe ermittelt, um die solche Verbindungen bedingenden Maße, d. h. diejenigen Quantitäten, welche bestimmten Qualitäten zugrunde liegen, zu erkennen. Auch in der Statistik haben die Zahlen, mit welchen man sich beschäftigt, nur ein Interesse wegen der dadurch bedingten qualitativen Resultate. Bloße Zahlenermittlungen als solche, ohne den hier angegebenen leitenden Gesichtspunkt, gelten dagegen mit Recht als eine leere Kuriosität, welche weder ein theoretisches noch ein praktisches Interesse zu befriedigen vermag.
31) Diels-Kranz, Zenon B 1
32) Albrecht von Haller, "Unvollkommenes Gedicht über die Ewigkeit", aus: Versuch Schweizerischer Gedichte, Bern 1732

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C. Das Maß
§ 107
Das Maß ist das qualitative Quantum, zunächst als unmittelbares, ein Quantum, an welches ein Dasein oder eine Qualität gebunden ist.
Zusatz. Das Maß als die Einheit der Qualität und der Quantität ist hiermit zugleich das vollendete Sein. Wenn wir vom Sein sprechen, so erscheint dasselbe zunächst als das ganz Abstrakte und Bestimmungslose; nun aber ist das Sein wesentlich dies, sich selbst zu bestimmen, und seine vollendete Bestimmtheit erreicht dasselbe im Maß. Man kann das Maß auch als eine Definition des Absoluten betrachten, und es ist demgemäß gesagt worden, Gott 8/224 sei das Maß aller Dinge. Diese Anschauung ist es denn auch, welche den Grundton mancher althebräischen Gesänge bildet, in welchen die Verherrlichung Gottes im wesentlichen darauf hinausläuft, daß er es sei, welcher allem seine Grenze gesetzt, dem Meer und dem festen Lande, den Flüssen und den Bergen und ebenso den verschiedenen Arten von Pflanzen und von Tieren. - Im religiösen Bewußtsein der Griechen finden wir die Göttlichkeit des Maßes in näherer Beziehung auf das Sittliche als Nemesis vorgestellt. In dieser Vorstellung liegt dann überhaupt, daß alles Menschliche - Reichtum, Ehre, Macht und ebenso Freude, Schmerz usw. - sein bestimmtes Maß hat, dessen Überschreitung zum Verderben und zum Untergang führt. - Was nunmehr weiter das Vorkommen des Maßes in der gegenständlichen Welt anbetrifft, so finden wir zunächst in der Natur solche Existenzen, deren wesentlichen Inhalt das Maß bildet. Dies ist namentlich der Fall mit dem Sonnensystem, welches wir überhaupt als das Reich der freien Maße zu betrachten haben. Schreiten wir dann weiter vor in der Betrachtung der unorganischen Natur, so tritt hier das Maß insofern gleichsam in den Hintergrund, als hier vielfältig die vorhandenen qualitativen und quantitativen Bestimmungen sich als gleichgültig gegeneinander erweisen. So ist z. B. die Qualität eines Felsen oder eines Flusses nicht an eine bestimmte Größe gebunden. Bei näherer Betrachtung finden wir indes, daß auch Gegenstände wie die genannten nicht schlechthin maßlos sind, denn das Wasser in einem Fluß und die einzelnen Bestandteile eines Felsen erweisen sich bei der chemischen Untersuchung wieder als Qualitäten, die durch quantitative Verhältnisse der in denselben enthaltenen Stoffe bedingt sind. Entschiedener in die unmittelbare Anschauung fallend tritt dann aber das Maß wieder in der organischen Natur hervor. Die verschiedenen Gattungen der Pflanzen und Tiere haben sowohl im Ganzen als auch in ihren einzelnen Teilen ein gewisses Maß, wobei noch der Umstand zu bemerken ist, daß die unvollkommeneren, der unorganischen Natur näherstehenden organischen Gebilde sich von den höheren zum Teil durch die größere Unbestimmtheit ihres Maßes unterscheiden. So finden wir z. B. unter den Petrefakten sogenannte Ammonshörner, die nur durch das Mikroskop zu erkennen sind, und andere bis zur Größe eines Wagenrades. Dieselbe Unbestimmtheit des Maßes zeigt sich auch bei manchen Pflanzen, die auf einer niederen Stufe der organischen Ausbildung stehen, wie dies z. B. bei den Farnkräutern der Fall ist.
§ 108
Insofern im Maß Qualität und Quantität nur in unmittelbarer 8/225 Einheit sind, so tritt ihr Unterschied auf eine ebenso unmittelbare Weise an ihnen hervor. Das spezifische Quantum ist insofern teils bloßes Quantum, und das Dasein in einer Vermehrung und Verminderung fähig, ohne daß das Maß, welches insofern eine Regel ist, dadurch aufgehoben wird, teils aber ist die Veränderung des Quantums auch ein Veränderung der Qualität.
Zusatz. Die im Maß vorhandene Identität der Qualität und der Quantität ist nur erst an sich, aber noch nicht gesetzt. Hierin liegt, daß diese beiden Bestimmungen, deren Einheit das Maß ist, sich auch eine jede für sich geltend machen, dergestalt, daß einerseits die quantitativen Bestimmungen des Daseins verändert werden können, ohne daß dessen Qualität dadurch affiziert wird, daß aber auch andererseits dies gleichgültige Vermehren und Vermindern seine Grenze hat, durch deren Überschreitung die Qualität verändert wird. So ist z. B. der Temperaturgrad des Wassers zunächst gleichgültig in Beziehung auf dessen tropfbare Flüssigkeit, es tritt dann aber beim Vermehren oder Vermindern der Temperatur des tropfbar flüssigen Wassers ein Punkt ein, wo dieser Kohäsionszustand sich qualitativ ändert und das Wasser einerseits in Dampf und andererseits in Eis verwandelt wird. Wenn eine quantitative Veränderung stattfindet, so erscheint dies zunächst als etwas ganz Unbefangenes, allein es steckt noch etwas anderes dahinter, und diese scheinbar unbefangene Veränderung des Quantitativen ist gleichsam eine List, wodurch das Qualitative ergriffen wird. Die hierin liegende Antinomie des Maßes haben bereits die Griechen unter mancherlei Einkleidungen veranschaulicht. So z. B. in der Frage, ob ein Weizenkorn einen Haufen Weizen, oder in jener anderen, ob das Ausreißen eines Haares aus dem Schweif eines Pferdes einen Kahlschweif mache? Wenn man im Hinblick auf die Natur der Quantität als gleichgültiger und äußerlicher Bestimmtheit des Seins vorerst geneigt sein wird, jene Fragen verneinend zu beantworten, so wird man doch demnächst zugeben müssen, daß dieses gleichgültige Vermehren und Vermindern auch seine Grenze hat und daß hierbei endlich ein Punkt erreicht wird, wo durch das fortgesetzte Hinzufügen immer nur eines Weizenkorns ein Haufen Weizen und durch das fortgesetzte Ausziehen immer nur eines Haares ein Kahlschweif entsteht. Ebenso wie mit diesen Beispielen verhält es sich mit jener Erzählung von einem Bauer, welcher die Last seines munter einherschreitenden Esels so lange um ein Lot nach dem anderen vermehrte, bis daß derselbe endlich unter der unerträglich gewordenen 8/226 Last zusammensank. Man würde sehr Unrecht tun, wenn man dergleichen bloß für ein müßiges Schulgeschwätz erklären wollte, da es sich dabei in der Tat um Gedanken handelt, mit denen vertraut zu sein auch in praktischer und näher in sittlicher Beziehung von großer Wichtigkeit ist. So findet z. B. in Beziehung auf die Ausgaben, welche wir machen, zunächst ein gewisser Spielraum statt, innerhalb dessen es auf ein Mehr und Weniger nicht ankommt; wird dann aber nach der einen oder nach der andern Seite hin das durch die jedesmaligen individuellen Verhältnisse bestimmte Maß überschritten, so macht sich die qualitative Natur des Maßes (in derselben Weise wie bei dem vorher erwähnten Beispiel der verschiedenen Temperatur des Wassers) geltend, und dasjenige, was soeben noch als gute Wirtschaft zu betrachten war, wird zu Geiz oder zu Verschwendung. - Dasselbe findet dann auch seine Anwendung auf die Politik, und zwar in der Art, daß die Verfassung eines Staates ebensowohl als unabhängig als auch als abhängig von der Größe seines Gebiets, von der Zahl seiner Bewohner und anderen solchen quantitativen Bestimmungen angesehen werden muß. Betrachten wir z. B. einen Staat mit einem Gebiet von tausend Quadratmeilen und einer Bevölkerung von vier Millionen Einwohnern, so wird man zunächst unbedenklich zuzugeben haben, daß ein paar Quadratmeilen Gebiet oder ein paar Tausend Einwohner mehr oder weniger auf die Verfassung eines solchen Staates keinen wesentlichen Einfluß haben können. Dahingegen ist dann aber auch ebensowenig zu verkennen, daß in der fortgesetzten Vergrößerung oder Verkleinerung eines Staats endlich ein Punkt eintritt, wo, abgesehen von allen anderen Umständen, schon um dieser quantitativen Veränderung willen auch das Qualitative der Verfassung nicht mehr unverändert bleiben kann. Die Verfassung eines kleinen Schweizer Kantons paßt nicht für ein großes Reich, und ebenso unpassend war die Verfassung der römischen Republik in ihrer Übertragung auf kleine deutsche Reichsstädte.
§ 109
Das Maßlose ist zunächst dies Hinausgehen eines Maßes durch seine quantitative Natur über seine Qualitätsbestimmtheit. Da aber das andere quantitative Verhältnis, das Maßlose des ersten, ebensosehr qualitativ ist, so ist das Maßlose gleichfalls ein Maß; welche beiden Übergänge von Qualität in Quantum und von diesem in jene wieder als unendlicher Progreß vorgestellt werden können - als das 8/227 sich im Maßlosen Aufheben und Wiederherstellen des Maßes.
Zusatz. Die Quantität ist, wie wir gesehen haben, nicht nur der Veränderung, d. h. der Vermehrung und Verminderung fähig, sondern sie ist überhaupt als solche das Hinausschreiten über sich selbst. Diese ihre Natur bewährt die Quantität dann auch im Maße. Indem nun aber die im Maß vorhandene Quantität ein gewisse Grenze überschreitet, so wird dadurch auch die derselben entsprechende Qualität aufgehoben. Hiermit wird jedoch nicht die Qualität überhaupt, sondern nur diese bestimmte Qualität negiert, deren Stelle sofort wieder durch eine andere Qualität eingenommen wird. Man kann diesen Prozeß des Maßes, welcher sich abwechselnd als bloße Veränderung der Quantität und dann auch als ein Umschlagen der Quantität in Qualität erweist, unter dem Bilde einer Knotenlinie zur Anschauung bringen. Dergleichen Knotenlinien finden wir zunächst in der Natur unter mancherlei Formen. Der durch Vermehrung und Verminderung bedingten, qualitativ verschiedenen Aggregatzustände des Wassers wurde bereits früher gedacht. In ähnlicher Weise verhält es sich mit den verschiedenen Oxydationsstufen der Metalle. Auch der Unterschied der Töne kann als ein Beispiel des im Prozeß des Maßes stattfindenden Umschlagens des zunächst bloß Quantitativen in qualitative Veränderung betrachtet werden.
§ 110
Was hierin in der Tat geschieht, ist, daß die Unmittelbarkeit, welche noch dem Maße als solchem zukommt, aufgehoben wird; Qualität und Quantität selbst sind an ihm zunächst als unmittelbare, und es ist nur ihre relative Identität. Das Maß zeigt sich aber, in das Maßlose sich aufzuheben, jedoch in diesem, welches dessen Negation, aber selbst Einheit der Quantität und Qualität ist, ebensosehr nur mit sich selbst zusammenzugehen.
§ 111
Das Unendliche, die Affirmation als Negation der Negation, hatte statt der abstrakteren Seiten, des Seins und Nichts, Etwas und eines Anderen usf., nun die Qualität und Quantität zu seinen Seiten. Diese sind α) zunächst die Qualität 8/228 in die Quantität (§ 98) und die Quantität in die Qualität (§ 105) übergegangen und damit beide als Negationen aufgezeigt. β) Aber in ihrer Einheit (dem Maße) sind sie zunächst unterschieden und die eine nur vermittels der anderen; und γ) nachdem sich die Unmittelbarkeit dieser Einheit als sich aufhebend erwiesen, so ist diese Einheit nunmehr gesetzt als das, was sie an sich ist, als einfache Beziehung-auf-sich, welche das Sein überhaupt und dessen Formen als aufgehobene in sich enthält. - Das Sein oder die Unmittelbarkeit, welche durch die Negation ihrer selbst Vermittlung mit sich und Beziehung auf sich selbst ist, somit ebenso Vermittlung, die sich zur Beziehung auf sich, zur Unmittelbarkeit aufhebt, ist das Wesen.
Zusatz. Der Prozeß des Maßes ist nicht bloß die schlechte Unendlichkeit des unendlichen Progresses in der Gestalt eines perennierenden Umschlagens von Qualität in Quantität und von Quantität in Qualität, sondern zugleich die wahre Unendlichkeit des in seinem Anderen mit sich selbst Zusammengehens. Qualität und Quantität stehen im Maß einander zunächst als Etwas und Anderes gegenüber. Nun aber ist die Qualität an sich Quantität und ebenso ist umgekehrt die Quantität an sich Qualität. Indem somit diese beiden im Prozeß des Maßes ineinander übergehen, so wird eine jede dieser beiden Bestimmungen nur zu dem, was sie an sich schon ist, und wir erhalten jetzt das in seinen Bestimmungen negierte, überhaupt das aufgehobene Sein, welches das Wesen ist. Im Maß war an sich schon das Wesen, und sein Prozeß besteht nur darin, sich als das zu setzen, was es an sich ist. - Das gewöhnliche Bewußtsein faßt die Dinge als seiende auf und betrachtet dieselben nach Qualität, Quantität und Maß. Diese unmittelbaren Bestimmungen erweisen sich dann aber nicht als feste, sondern als übergehende, und das Wesen ist das Resultat ihrer Dialektik. Im Wesen findet kein Übergehen mehr statt, sondern nur Beziehung. Die Form der Beziehung ist im Sein nur erst unsere Reflexion; im Wesen dagegen ist die Beziehung dessen eigene Bestimmung. Wenn (in der Sphäre des Seins) das Etwas zu Anderem wird, so ist hiermit das Etwas verschwunden. Nicht so im Wesen; hier haben wir kein wahrhaft Anderes, sondern nur Verschiedenheit, Beziehung des Einen auf sein Anderes. Das Übergehen des Wesens ist also zugleich kein Übergehen; denn beim Übergehen des Verschiedenen in Verschiedenes verschwindet 8/229 das Verschiedene nicht, sondern die Verschiedenen bleiben in ihrer Beziehung. Sagen wir z. B. Sein und Nichts, so ist Sein für sich, und ebenso ist Nichts für sich. Ganz anders verhält es sich mit dem Positiven und Negativen. Diese haben zwar die Bestimmung des Seins und des Nichts. Aber das Positive hat für sich keinen Sinn, sondern es ist dasselbe schlechthin auf das Negative bezogen. Ebenso verhält es sich mit dem Negativen. In der Sphäre des Seins ist die Bezogenheit nur an sich; im Wesen dagegen ist dieselbe gesetzt. Dies ist also überhaupt der Unterschied der Formen des Seins und des Wesens. Im Sein ist alles unmittelbar, im Wesen dagegen ist alles relativ. 8/230

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Zweite Abteilung der Logik. Die Lehre vom Wesen
§ 112
Das Wesen ist der Begriff als gesetzter Begriff, die Bestimmungen sind im Wesen nur relative, noch nicht als schlechthin in sich reflektiert; darum ist der Begriff noch nicht als Fürsich. Das Wesen, als das durch die Negativität seiner selbst sich mit sich vermittelnde Sein, ist die Beziehung auf sich selbst, nur indem sie Beziehung auf Anderes ist, das aber unmittelbar nicht als Seiendes, sondern als ein Gesetztes und Vermitteltes ist. - Das Sein ist nicht verschwunden, sondern erstlich ist das Wesen, als einfache Beziehung auf sich selbst, Sein; fürs andere ist aber das Sein nach seiner einseitigen Bestimmung, unmittelbares zu sein, zu einem nur negativen herabgesetzt, zu einem Scheine. - Das Wesen ist hiermit das Sein als Scheinen in sich selbst.
Das Absolute ist das Wesen. - Diese Definition ist insofern dieselbe als die, daß es das Sein ist, insofern Sein gleichfalls die einfache Beziehung auf sich ist; aber sie ist zugleich höher, weil das Wesen das in sich gegangene Sein ist, d. i. seine einfache Beziehung auf sich ist diese Beziehung, gesetzt als die Negation des Negativen, als Vermittlung seiner in sich mit sich selbst. - Indem das Absolute als Wesen bestimmt wird, wird aber die Negativität häufig nur in dem Sinne einer Abstraktion von allen bestimmten Prädikaten genommen. Dieses negative Tun, das Abstrahieren, fällt dann außerhalb des Wesens, und das Wesen selbst ist so nur als ein Resultat ohne diese seine Prämisse, das caput mortuum der Abstraktion. Aber da diese Negativität dem Sein nicht äußerlich, sondern seine eigene Dialektik ist, so ist seine Wahrheit, das Wesen, als das in sich gegangene oder in sich seiende Sein; seinen Unterschied vom unmittelbaren Sein macht jene Reflexion, sein Scheinen in sich selbst, aus, und sie ist die eigentümliche Bestimmung des Wesens selbst. 8/231
Zusatz. Wenn wir vom Wesen sprechen, so unterscheiden wir davon das Sein als das Unmittelbare und betrachten dieses im Hinblick auf das Wesen als einen bloßen Schein. Dieser Schein ist nun aber nicht gar nicht, nicht ein Nichts, sondern das Sein als aufgehobenes. - Der Standpunkt des Wesens ist überhaupt der Standpunkt der Reflexion. Der Ausdruck Reflexion wird zunächst vom Lichte gebraucht, insofern dasselbe in seinem geradlinigen Fortgange auf eine spiegelnde Fläche trifft und von dieser zurückgeworfen wird. Wir haben somit hier ein Gedoppeltes: einmal ein Unmittelbares, ein Seiendes, und dann zweitens dasselbe als ein Vermitteltes oder Gesetztes. Dies ist nun aber eben der Fall, wenn wir über einen Gegenstand reflektieren oder (wie man auch zu sagen pflegt) nachdenken, insofern es hier nämlich den Gegenstand nicht gilt in seiner Unmittelbarkeit, sondern wir denselben als vermittelt wissen wollen. Man pflegt wohl auch die Aufgabe oder den Zweck der Philosophie so aufzufassen, daß das Wesen der Dinge erkannt werden soll, und versteht darunter eben nur so viel, daß die Dinge nicht in ihrer Unmittelbarkeit gelassen, sondern als durch Anderes vermittelt oder begründet nachgewiesen werden sollen. Das unmittelbare Sein der Dinge wird hier gleichsam als eine Rinde oder als ein Vorhang vorgestellt, hinter welchem das Wesen verborgen ist. - Wenn dann ferner gesagt wird: alle Dinge haben ein Wesen, so wird damit ausgesprochen, daß sie wahrhaft nicht das sind, als was sie sich unmittelbar erweisen. Es ist dann auch nicht abgetan mit einem bloßen Herumtreiben aus einer Qualität in eine andere und mit einem bloßen Fortgehen aus dem Qualitativen ins Quantitative und umgekehrt, sondern es ist in den Dingen ein Bleibendes, und dies ist zunächst das Wesen. Was nunmehr die sonstige Bedeutung und den Gebrauch der Kategorie des Wesens anbetrifft, so kann hier zunächst daran erinnert werden, wie wir uns im Deutschen beim Hilfszeitwort sein zur Bezeichnung der Vergangenheit des Ausdrucks Wesen bedienen, indem wir das vergangene Sein als gewesen bezeichnen. Dieser Irregularität des Sprachgebrauchs liegt insofern eine richtige Anschauung vom Verhältnis des Seins zum Wesen zugrunde, als wir das Wesen allerdings als das vergangene Sein betrachten können, wobei dann nur noch zu bemerken ist, daß dasjenige, was vergangen ist, deshalb nicht abstrakt negiert, sondern nur aufgehoben und somit zugleich konserviert ist. Sagen wir z. B.: Cäsar ist in Gallien gewesen, so ist damit nur die Unmittelbarkeit dessen, was hier vom Cäsar ausgesagt wird, nicht aber sein Aufenthalt in Gallien überhaupt negiert, denn dieser ist es ja eben, der den Inhalt dieser Aussage bildet, welcher Inhalt aber hier als aufgehoben vorgestellt wird. - Wenn im gemeinen Leben vom Wesen 8/232 die Rede ist, so hat dies häufig nur die Bedeutung einer Zusammenfassung oder eines Inbegriffs, und man spricht demgemäß z. B. vom Zeitungswesen, vom Postwesen, vom Steuerwesen usw., worunter dann nur so viel verstanden wird, daß diese Dinge nicht einzeln in ihrer Unmittelbarkeit, sondern als ein Komplex und dann etwa auch weiter in ihren verschiedenen Beziehungen genommen werden sollen. In solchem Sprachgebrauch ist dann nur so ungefähr dasjenige enthalten, was sich uns als das Wesen ergeben hat. - Man spricht dann auch von endlichen Wesen und nennt den Menschen ein endliches Wesen. Wenn indes vom Wesen gesprochen wird, so ist man eigentlich über die Endlichkeit hinaus, und diese Bezeichnung des Menschen ist insofern ungenau. Wenn dann ferner gesagt wird: es gibt ein höchstes Wesen, und Gott damit bezeichnet werden soll, so ist hierüber zweierlei zu bemerken. Einmal nämlich ist der Ausdruck geben ein solcher, der auf Endliches hindeutet und wir sagen so z. B.: es gibt soundsoviel Planeten, oder: es gibt Pflanzen von solcher und es gibt Pflanzen von solcher Beschaffenheit. Das, was es so gibt, ist somit etwas, außer und neben welchem es auch noch anderes gibt. Nun aber ist Gott, als der schlechthin Unendliche, nicht ein solcher, den es eben nur gibt und außer und neben welchem es auch noch andere Wesen gibt. Was es außer Gott sonst noch gibt, dem kommt in seiner Trennung von Gott keine Wesentlichkeit zu, vielmehr ist dasselbe in dieser Isolierung als ein in sich Halt- und Wesenloses, als ein bloßer Schein zu betrachten. Hierin liegt nun aber auch zweitens, daß es ungenügend genannt werden muß, von Gott bloß als höchstem Wesen zu sprechen. Die hier zur Anwendung gebrachte Kategorie der Quantität findet in der Tat ihre Stelle nur im Bereich des Endlichen. Wir sagen so z. B.: dies ist der höchste Berg auf der Erde, und haben dabei die Vorstellung, daß es außer diesem höchsten Berg auch noch andere, gleichfalls hohe Berge gibt. Ebenso verhält es sich, wenn wir von jemand sagen, daß er der reichste oder der gelehrteste Mann in seinem Lande ist. Gott ist indes nicht bloß ein und auch nicht bloß das höchste, sondern vielmehr das Wesen, wobei dann aber auch sogleich zu bemerken ist, daß, obschon diese Auffassung Gottes eine wichtige und notwendige Stufe in der Entwicklung des religiösen Bewußtseins bildet, doch durch dieselbe die Tiefe der christlichen Vorstellung von Gott noch keineswegs erschöpft wird. Betrachten wir Gott nur als das Wesen schlechthin und bleiben wir dabei stehen, so wissen wir ihn nur, erst als die allgemeine, widerstandslose Macht oder, anders ausgedrückt, als den Herrn. Nun aber ist die Furcht des Herrn wohl der Anfang, aber auch nur der Anfang der Weisheit. - Es ist zunächst die jüdische und dann weiter die mohammedanische Religion, in 8/233 welchen Gott als der Herr und wesentlich nur als der Herr aufgefaßt wird. Der Mangel dieser Religionen besteht überhaupt darin, daß hier das Endliche nicht zu seinem Rechte kommt, welches Endliche für sich festzuhalten (sei es als ein Natürliches oder als ein Endliches des Geistes) das Charakteristische der heidnischen und hiermit zugleich polytheistischen Religionen ausmacht. - Ferner ist es nun aber auch häufig geschehen, daß man behauptet hat, Gott, als das höchste Wesen, könne nicht erkannt werden. Dies ist überhaupt der Standpunkt der modernen Aufklärung und näher des abstrakten Verstandes, welcher sich damit begnügt zu sagen: il y a un être suprême, und es dann dabei bewenden läßt. Wenn so gesprochen und Gott nur als das höchste jenseitige Wesen betrachtet wird, so hat man die Welt in ihrer Unmittelbarkeit vor sich als etwas Festes, Positives, und vergißt dabei, daß das Wesen gerade die Aufhebung alles Unmittelbaren ist. Gott als das abstrakte jenseitige Wesen, außerhalb dessen hiermit der Unterschied und die Bestimmtheit fällt, ist in der Tat ein bloßer Name, ein bloßes caput mortuum des abstrahierenden Verstandes. Die wahre Erkenntnis Gottes fängt damit an, zu wissen, daß die Dinge in ihrem unmittelbaren Sein keine Wahrheit haben.
Nicht bloß in Beziehung auf Gott, sondern auch in sonstiger Beziehung geschieht es häufig, daß man sich der Kategorie des Wesens in abstrakter Weise bedient und dann bei Betrachtung der Dinge das Wesen derselben als ein gegen den bestimmten Inhalt ihrer Erscheinung Gleichgültiges und für sich Bestehendes fixiert. Man pflegt so namentlich zu sagen, es komme bei den Menschen nur auf ihr Wesen an und nicht auf ihr Tun und ihr Betragen. Darin liegt nun zwar das Richtige, daß dasjenige, was ein Mensch tut, nicht in seiner Unmittelbarkeit, sondern nur als vermittelt durch sein Inneres und als Manifestation seines Innern zu betrachten ist. Nur darf dabei nicht übersehen werden, daß das Wesen und dann weiter das Innere sich eben nur dadurch als solche bewähren, daß sie in die Erscheinung heraustreten; wohingegen jener Berufung der Menschen auf ihr von dem Inhalt ihres Tuns unterschiedenes Wesen nur die Absicht zugrunde zu liegen pflegt, ihre bloße Subjektivität geltend zu machen und sich dem, was an und für sich gültig ist, zu entziehen.
§ 113
Die Beziehung-auf-sich im Wesen ist die Form der Identität, der Reflexion-in-sich; diese ist hier an die Stelle der Unmittelbarkeit des Seins getreten; beide sind dieselben Abstraktionen der Beziehung-auf-sich. 8/234
Die Gedankenlosigkeit der Sinnlichkeit, alles Beschränkte und Endliche für ein Seiendes zu nehmen, geht in die Hartnäckigkeit des Verstandes über, es als ein mit sich Identisches, sich in sich nicht Widersprechendes zu fassen.
§ 114
Diese Identität erscheint, als aus dem Sein herkommend, zunächst nur mit den Bestimmungen des Seins behaftet und darauf als auf ein Äußerliches bezogen. Wird dasselbe so von dem Wesen abgesondert genommen, so heißt es das Unwesentliche. Aber das Wesen ist Insichsein, es ist wesentlich, nur insofern es das Negative seiner in ihm selbst, die Beziehung-auf-Anderes, die Vermittlung in ihm selbst hat. Es hat daher das Unwesentliche als seinen eigenen Schein in sich. Aber indem das Unterscheiden im Scheinen oder Vermitteln enthalten ist, das Unterschiedene aber im Unterschiede von derjenigen Identität, aus der es kommt und in der es nicht ist oder als Schein liegt, selbst die Form der Identität erhält, so ist dasselbe so in der Weise der sich auf sich beziehenden Unmittelbarkeit oder des Seins; die Sphäre des Wesens wird dadurch zu einer noch unvollkommenen Verknüpfung der Unmittelbarkeit und der Vermittlung. Es ist in ihr alles so gesetzt, daß es sich auf sich bezieht und daß zugleich darüber hinausgegangen ist, - als ein Sein der Reflexion, ein Sein, in dem ein Anderes scheint und das in einem Anderen scheint. - Sie ist daher auch die Sphäre des gesetzten Widerspruches, der in der Sphäre des Seins nur an sich ist.
Es kommen in der Entwicklung des Wesens, weil der eine Begriff in allem das Substantielle ist, dieselben Bestimmungen vor als in der Entwicklung des Seins, aber in reflektierter Form. Also statt des Seins und Nichts treten jetzt die Formen des Positiven und Negativen ein, jenes zunächst dem gegensatzlosen Sein als Identität entsprechend, dieses entwickelt (in sich scheinend) als der Unterschied; - so ferner das Werden als Grund sogleich selbst 8/235 des Daseins, das, als auf den Grund reflektiert, Existenz ist usf. - Dieser (der schwerste) Teil der Logik enthält vornehmlich die Kategorien der Metaphysik und der Wissenschaften überhaupt, - als Erzeugnisse des reflektierenden Verstandes, der die Unterschiede als selbständig annimmt und zugleich auch ihre Relativität setzt, beides aber nur neben- oder nacheinander durch ein Auch verbindet und diese Gedanken nicht zusammenbringt, sie nicht zum Begriffe vereint.

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A. Das Wesen als Grund der Existenz
a. Die reinen Reflexionsbestimmungen
α. Identität
§ 115
Das Wesen scheint in sich oder ist reine Reflexion, so ist es nur Beziehung auf sich, nicht als unmittelbare, sondern als reflektierte, - Identität mit sich.
Formelle oder Verstandesidentität ist diese Identität, insofern an ihr festgehalten und von dem Unterschiede abstrahiert wird. Oder die Abstraktion ist vielmehr das Setzen dieser formellen Identität, die Verwandlung eines in sich Konkreten in diese Form der Einfachheit, - es sei, daß ein Teil des am Konkreten vorhandenen Mannigfaltigen weggelassen (durch das sogenannte Analysieren) und nur eines derselben herausgenommen wird, oder daß mit Weglassung ihrer Verschiedenheit die mannigfaltigen Bestimmtheiten in eine zusammengezogen werden.
Die Identität mit dem Absoluten, als Subjekte eines Satzes, verbunden, - so lautet er: das Absolute ist das mit sich Identische. - So wahr dieser Satz ist, so ist es zweideutig, ob er in seiner Wahrheit gemeint ist; er ist darum in seinem Ausdrucke wenigstens unvollständig: denn es ist unentschieden, 8/236 ob die abstrakte Verstandesidentität, d. i. im Gegensatze gegen die anderen Bestimmungen des Wesens, oder aber die Identität als in sich konkrete gemeint ist; so ist sie, wie sich ergeben wird, zunächst der Grund und dann in höherer Wahrheit der Begriff. - Auch das Wort "absolut" selbst hat häufig keine weitere Bedeutung als die von "abstrakt"; so heißt absoluter Raum, absolute Zeit nichts weiter als der abstrakte Raum und die abstrakte Zeit.
Die Bestimmungen des Wesens als wesentliche Bestimmungen genommen, werden sie Prädikate eines vorausgesetzten Subjekts, das, weil sie wesentlich [sind], Alles ist. Die Sätze, die dadurch entstehen, sind als die allgemeinen Denkgesetze ausgesprochen worden. Der Satz der Identität lautet demnach: "Alles ist mit sich identisch; A = A"; und negativ: "A kann nicht zugleich A und nicht A sein". - Dieser Satz, statt ein wahres Denkgesetz zu sein, ist nichts als das Gesetz des abstrakten Verstandes. Die Form des Satzes widerspricht ihm schon selbst, da ein Satz auch einen Unterschied zwischen Subjekt und Prädikat verspricht, dieser aber das nicht leistet, was seine Form fordert. Namentlich wird es aber durch die folgenden sogenannten Denkgesetze aufgehoben, welche das Gegenteil dieses Gesetzes zu Gesetzen machen. - Wenn man behauptet, dieser Satz könne nicht bewiesen werden, aber jedes Bewußtsein verfahre danach und stimme ihm nach der Erfahrung sogleich zu, wie es ihn vernehme, so ist dieser angeblichen Erfahrung der Schule die allgemeine Erfahrung entgegenzusetzen, daß kein Bewußtsein nach diesem Gesetze denkt, noch Vorstellungen hat usf., noch spricht, daß keine Existenz, welcher Art sie sei, nach demselben existiert. Das Sprechen nach diesem seinsollenden Gesetze der Wahrheit (ein Planet ist - ein Planet; der Magnetismus ist - der Magnetismus; der Geist ist - ein Geist) gilt mit vollem Recht für albern; dies ist wohl allgemeine Erfahrung. Die Schule, in der allein solche Gesetze 8/237 gelten, hat sich längst mit ihrer Logik, welche dieselbe ernsthaft vorträgt, bei dem gesunden Menschenverstande wie bei der Vernunft um den Kredit gebracht.
Zusatz. Die Identität ist zunächst wieder dasselbe, was wir früher als Sein hatten, aber als geworden durch Aufhebung der unmittelbaren Bestimmtheit, und somit das Sein als Idealität. - Es ist von großer Wichtigkeit, sich über die wahre Bedeutung der Identität gehörig zu verständigen, wozu dann vor allen Dingen gehört, daß dieselbe nicht bloß als abstrakte Identität, d. h. nicht als Identität mit Ausschließung des Unterschiedes aufgefaßt wird. Dies ist der Punkt, wodurch sich alle schlechte Philosophie von dem unterscheidet, was allein den Namen der Philosophie verdient. Die Identität in ihrer Wahrheit, als Idealität des unmittelbar Seienden, ist eine hohe Bestimmung, sowohl für unser religiöses Bewußtsein als auch für alles sonstige Denken und Bewußtsein überhaupt. Man kann sagen, daß das wahre Wissen von Gott damit beginnt, ihn als Identität - als absolute Identität zu wissen, worin dann zugleich dies liegt, daß alle Macht und alle Herrlichkeit der Welt vor Gott zusammensinkt und nur als das Scheinen seiner Macht und seiner Herrlichkeit zu bestehen vermag. - Ebenso ist es dann auch die Identität als Bewußtsein seiner selbst, wodurch sich der Mensch von der Natur überhaupt und näher vom Tier unterscheidet, welches letztere nicht dazu gelangt, sich als Ich, d. h. als reine Einheit seiner in sich selbst zu erfassen. - Was dann ferner die Bedeutung der Identität in Beziehung auf das Denken anbetrifft, so kommt es hierbei vor allen Dingen darauf an, die wahre, das Sein und dessen Bestimmungen als aufhoben in sich enthaltende Identität nicht mit der abstrakten, bloß formellen Identität zu verwechseln. Alle jene, namentlich vom Standpunkt der Empfindung und der unmittelbaren Anschauung aus, dem Denken so häufig gemachten Vorwürfe der Einseitigkeit der Härte, der Inhaltslosigkeit usw. haben ihren Grund in der verkehrten Voraussetzung, daß die Tätigkeit des Denkens nur die des abstrakten Identischsetzens sei, und die formelle Logik ist es selbst, welche diese Voraussetzung durch Aufstellung des im obigen § beleuchteten, angeblich höchsten Denkgesetzes bestätigt. Wenn das Denken weiter nichts wäre als jene abstrakte Identität, so müßte dasselbe für das überflüssigste und langweiligste Geschäft erklärt werden. Allerdings sind der Begriff und weiter die Idee mit sich identisch, allein nur insofern dieselben zugleich den Unterschied in sich enthalten. 8/238

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β. Der Unterschied
§ 116
Das Wesen ist nur reine Identität und Schein in sich selbst, als es die sich auf sich beziehende Negativität, somit Abstoßen seiner von sich selbst ist; es enthält also wesentlich die Bestimmung des Unterschieds.
Das Anderssein ist hier nicht mehr das qualitative, die Bestimmtheit, Grenze; sondern als im Wesen, dem sich auf sich beziehenden, ist die Negation zugleich als Beziehung, Unterschied, Gesetztsein, Vermitteltsein.
Zusatz. Wenn gefragt wird: wie kommt die Identität zum Unterschied?, so liegt in dieser Frage die Voraussetzung, daß die Identität als bloße, d. h. als abstrakte Identität etwas für sich sei, und dann ebenso der Unterschied etwas anderes, gleichfalls für sich. Durch diese Voraussetzung wird indes die Beantwortung der aufgeworfenen Frage unmöglich gemacht, denn wenn die Identität als vom Unterschied verschieden betrachtet wird, so hat man in der Tat hiermit bloß den Unterschied, und es kann um deswillen der Fortgang zum Unterschied nicht nachgewiesen werden, weil dasjenige, von welchem fortgegangen werden soll, für den, welcher nach dem Wie des Fortganges fragt, gar nicht vorhanden ist. Diese Frage erweist sich somit, näher besehen, als durchaus gedankenlos, und [es] wäre dem, welcher dieselbe aufwirft, zuvörderst die andere Frage vorzulegen, was er sich unter der Identität denkt, wobei sich dann ergeben würde, daß er sich eben nichts dabei denkt und daß die Identität für ihn bloß ein leerer Name ist. Weiter ist nun, wie wir gesehen haben, die Identität allerdings ein Negatives, jedoch nicht das abstrakte, leere Nichts überhaupt, sondern die Negation des Seins und seiner Bestimmungen. Als solche aber ist die Identität zugleich Beziehung, und zwar negative Beziehung auf sich oder Unterscheidung ihrer von sich selbst.
§ 117
Der Unterschied ist 1. unmittelbarer Unterschied, die Verschiedenheit, in der die Unterschiedenen jedes für sich ist, was es ist, und gleichgültig gegen seine Beziehung auf das Andere, welche also eine ihm äußerliche ist. Um der Gleichgültigkeit der Verschiedenen gegen ihren Unterschied willen 8/239 fällt derselbe außer ihnen in ein Drittes, Vergleichendes. Dieser äußerliche Unterschied ist als Identität der Bezogenen die Gleichheit, als Nichtidentität derselben die Ungleichheit.
Diese Bestimmungen selbst läßt der Verstand so auseinanderfallen, daß, obschon die Vergleichung ein und dasselbe Substrat für die Gleichheit und Ungleichheit hat, dies verschiedene Seiten und Rücksichten an demselben sein sollen, aber die Gleichheit für sich ist nur das vorige, die Identität, und die Ungleichheit für sich ist der Unterschied.
Die Verschiedenheit ist gleichfalls in einen Satz verwandelt worden, in den, daß alles verschieden ist oder daß es nicht zwei Dinge gibt, die einander vollkommen gleich sind33) . Hier wird Allem das entgegengesetzte Prädikat von der ihm im ersten Satze beigelegten Identität gegeben, also ein dem ersten widersprechendes Gesetz gegeben. Jedoch aber soll, insofern die Verschiedenheit nur der äußeren Vergleichung angehörig sei, etwas für sich selbst nur identisch mit sich und so dieser zweite Satz nicht dem ersten widersprechend sein. Dann aber gehört auch die Verschiedenheit nicht dem Etwas oder Allem an, sie macht keine wesentliche Bestimmung dieses Subjekts aus; dieser zweite Satz kann auf diese Weise gar nicht gesagt werden. - Ist aber das Etwas selbst, nach dem Satze, verschieden, so ist es dies durch seine eigene Bestimmtheit; hiermit ist dann aber nicht mehr die Verschiedenheit als solche, sondern der bestimmte Unterschied gemeint. - Dies ist auch der Sinn des Leibnizischen Satzes.
Zusatz. Indem der Verstand sich an die Betrachtung der Identität begibt, so ist er in der Tat bereits darüber hinaus, und was er vor sich hat, das ist der Unterschied in der Gestalt der bloßen Verschiedenheit. Sagen wir nämlich nach dem sogenannten Denkgesetz der Identität: das Meer ist das Meer, die Luft ist die Luft, der Mond ist der Mond usw., so gelten uns diese Gegenstände als gleichgültig gegeneinander, und es ist somit nicht die Identität, 8/240 sondern der Unterschied, welchen wir vor uns haben. Weiter bleiben wir dann aber auch nicht dabei stehen, die Dinge bloß als verschieden zu betrachten, sondern wir vergleichen dieselben miteinander, und wir erhalten hierdurch die Bestimmungen der Gleichheit und der Ungleichheit. Das Geschäft der endlichen Wissenschaften besteht zum großen Teil in der Anwendung dieser Bestimmungen, und man pflegt heutzutage, wenn von wissenschaftlicher Behandlung die Rede ist, darunter vorzugsweise dasjenige Verfahren zu verstehen, welches darauf ausgeht, die zur Betrachtung gezogenen Gegenstände miteinander zu vergleichen. Es ist nicht zu verkennen, daß man auf diesem Wege zu manchen sehr wichtigen Resultaten gelangt ist, und in dieser Beziehung ist insbesondere an die großen Leistungen der neueren Zeit auf den Gebieten der vergleichenden Anatomie und der vergleichenden Sprachforschung zu erinnern. Dabei ist jedoch nicht nur zu bemerken, daß man zu weit gegangen ist, wenn man gemeint hat, es sei dieses vergleichende Verfahren auf alle Gebiete des Erkennens mit gleichem Erfolg anzuwenden, sondern auch außerdem noch besonders hervorzuheben, daß durch das bloße Vergleichen dem wissenschaftlichen Bedürfnis noch nicht letztlich genügt zu werden vermag und daß Resultate der vorher erwähnten Art nur als (allerdings unentbehrliche) Vorarbeiten für das wahrhaft begreifende Erkennen zu betrachten sind. - Insofern es übrigens beim Vergleichen darum zu tun ist, vorhandene Unterschiede auf Identität zurückzuführen, so muß die Mathematik als diejenige Wissenschaft betrachtetwerden, in welcher dieses Ziel am vollständigsten erreicht wird, und zwar um deswillen, weil der quantitative Unterschied nur der ganz äußerliche Unterschied ist. So werden z. B. in der Geometrie ein Dreieck und ein Viereck, welche qualitativ verschieden sind, indem von diesem qualitativen Unterschied abstrahiert wird, ihrer Größe nach einander gleichgesetzt. Daß die Mathematik um diesen Vorzug weder von seiten der empirischen Wissenschaften noch von seiten der Philosophie zu beneiden ist, davon ist bereits früher (§ 99 Zusatz) die Rede gewesen, und [es] ergibt sich außerdem aus demjenigen, was vorher über die bloße Verstandesidentität bemerkt wurde. - Man erzählt, daß, als Leibniz einst bei Hofe den Satz der Verschiedenheit ausgesprochen, die Hofkavaliere und Hofdamen, im Garten herumspazierend, sich bemüht hätten, zwei nicht voneinander zu unterscheidende Blätter zu finden, um durch deren Vorzeigung das Denkgesetz des Philosophen zu widerlegen. Es ist dies ohne Zweifel eine bequeme, auch noch heutzutage beliebte Weise, sich mit Metaphysik zu beschäftigen; jedoch ist rücksichtlich des Leibnizischen Satzes zu bemerken, daß der Unterschied eben nicht bloß als die äußerliche und gleichgültige 8/241 Verschiedenheit, sondern als Unterschied an sich aufzufassen ist und daß es somit den Dingen an ihnen selbst zukommt, unterschieden zu sein.
§ 118
Die Gleichheit ist eine Identität nur solcher, die nicht dieselben, nicht identisch miteinander sind, - und die Ungleichheit ist Beziehung der Ungleichen. Beide fallen also nicht in verschiedene Seiten oder Rücksichten gleichgültig auseinander, sondern eine ist ein Scheinen in die andere. Die Verschiedenheit ist daher Unterschied der Reflexion oder Unterschied an sich selbst, bestimmter Unterschied.
Zusatz. Während die bloß Verschiedenen sich als gleichgültig gegeneinander erweisen, so sind dagegen die Gleichheit und die Ungleichheit ein Paar Bestimmungen, die sich schlechthin aufeinander beziehen und von denen die eine nicht ohne die andere gedacht werden kann. Dieser Fortgang von der bloßen Verschiedenheit zur Entgegensetzung findet sich dann auch insofern schon im gewöhnlichen Bewußtsein, als wir einräumen, daß das Vergleichen nur einen Sinn hat unter der Voraussetzung eines vorhandenen Unterschiedes, und ebenso umgekehrt das Unterscheiden nur unter der Voraussetzung vorhandener Gleichheit. Man schreibt demgemäß auch, wenn die Aufgabe gestellt wird, einen Unterschied anzugeben, demjenigen keinen großen Scharfsinn zu, der nur solche Gegenstände voneinander unterscheidet, deren Unterschied unmittelbar zutage liegt (wie z. B. eine Schreibfeder und ein Kamel), wie man andererseits sagen wird, daß es derjenige nicht weit im Vergleichen gebracht hat, welcher nur einander Naheliegendes - eine Buche mit einer Eiche, einen Tempel mit einer Kirche - zu vergleichen weiß. Wir verlangen somit beim Unterschied die Identität und bei der Identität den Unterschied. Gleichwohl geschieht es auf dem Gebiet der empirischen Wissenschaften sehr häufig, daß über der einen dieser beiden Bestimmungen die andere vergessen und daß das eine Mal das wissenschaftliche Interesse nur in Zurückführen vorhandener Unterschiede auf Identität und anderes Mal wieder ebenso einseitigerweise in das Auffinden neuer Unterschiede gesetzt wird. Dies ist namentlich in der Naturwissenschaft der Fall. Hier macht man es sich zunächst zum Geschäft, neue und immer mehr neue Stoffe, Kräfte, Gattungen, Arten u. zu entdecken oder, nach einer anderen Wendung, Körper, welche bisher für einfach gegolten, als zusammengesetzt nachzuweisen, und neuere Physiker und Chemiker belächeln wohl die Alten, 8/242 welche sich nur mit vier und nicht einmal einfachen Elementen begnügt haben. Andererseits wird dann aber auch wieder die bloße Identität ins Auge gefaßt und werden demgemäß z. B. nicht nur Elektrizität und Chemismus als wesentlich dasselbe, sondern sogar auch die organischen Prozesse der Verdauung und Assimilation als ein bloß chemischer Prozeß betrachtet. Es wurde bereits früher (§ 103 Zusatz) bemerkt, daß, wenn man die neuere Philosophie nicht selten spottweise als Identitätsphilosophie bezeichnet hat, es gerade die Philosophie, und zwar zunächst die spekulative Logik ist, welche die Nichtigkeit der vom Unterschied abstrahierenden, bloßen Verstandesidentität aufzeigt, dann aber allerdings auch ebensosehr darauf dringt, es nicht bei der bloßen Verschiedenheit bewenden zu lassen, sondern die innere Einheit alles dessen, was da ist, zu erkennen.
§ 119
2. Der Unterschied an sich ist der wesentliche, das Positive und das Negative, so daß jenes so die identische Beziehung auf sich ist, daß es nicht das Negative, und dieses das Unterschiedene so für sich ist, daß es nicht das Positive ist. Indem jedes so für sich ist, als es nicht das Andere ist, scheint jedes in dem Anderen und ist nur, insofern das Andere ist. Der Unterschied des Wesens ist daher die Entgegensetzung, nach welcher das Unterschiedene nicht ein Anderes überhaupt, sondern sein Anderes sich gegenüber hat; d. h. jedes hat seine eigene Bestimmung nur in seiner Beziehung auf das Andere, ist nur in sich reflektiert, als es in das Andere reflektiert ist, und ebenso das Andere; jedes ist so des Anderen sein Anderes.
Der Unterschied an sich gibt den Satz: "Alles ist ein wesentlich Unterschiedenes", - oder wie er auch ausgedrückt worden ist: "Von zwei entgegengesetzten Prädikaten kommt dem Etwas nur das eine zu, und es gibt kein Drittes". - Dieser Satz des Gegensatzes widerspricht am ausdrücklichsten dem Satze der Identität, indem Etwas nach dem einen nur die Beziehung auf sich, nach dem anderen aber ein Entgegengesetztes, die Beziehung auf sein Anderes sein soll. Es ist die eigentümliche Gedankenlosigkeit der Abstraktion, zwei solche widersprechende 8/243 Sätze als Gesetze nebeneinanderzustellen, ohne sie auch nur zu vergleichen. - Der Satz des ausgeschlossenen Dritten ist der Satz des bestimmten Verstandes, der den Widerspruch von sich abhalten will und, indem er dies tut, denselben begeht. A soll entweder +A oder -A sein; damit ist schon das Dritte, das A ausgesprochen, welches weder + noch - ist, und das ebensowohl auch als +A und als -A gesetzt ist. Wenn +W 6 Meilen Richtung nach Westen, -W aber 6 Meilen Richtung nach Ost bedeutet und + und - sich aufheben, so bleiben die 6 Meilen Wegs oder Raums, was sie ohne und mit dem Gegensatz waren. Selbst das bloße plus und minus der Zahl oder der abstrakten Richtung haben, wenn man will, die Null zu ihrem Dritten; aber es soll nicht in Abrede gestellt werden, daß der leere Verstandesgegensatz von + und - nicht auch seine Stelle habe bei ebensolchen Abstraktionen wie Zahl, Richtung usf.
In der Lehre von den kontradiktorischen Begriffen heißt der eine Begriff z. B. Blau (auch so etwas wie die sinnliche Vorstellung einer Farbe wird in solcher Lehre Begriff genannt), der andere Nichtblau, so daß dies Andere nicht ein Affirmatives, etwa Gelb wäre, sondern nur [als] das Abstrakt-Negative festgehalten werden soll. - Daß das Negative in ihm selbst ebensosehr positiv ist, s. folg. §; dies liegt auch schon in der Bestimmung, daß das einem Anderen Entgegengesetzte sein Anderes ist. - Die Leerheit des Gegensatzes von sogenannten kontradiktorischen Begriffen hatte ihre volle Darstellung in dem sozusagen grandiosen Ausdruck eines allgemeinen Gesetzes, daß jedem Dinge von allen so entgegengesetzten Prädikaten das eine zukomme und das andere nicht, so daß der Geist sei entweder weiß oder nicht weiß, gelb oder nicht gelb usf. ins Unendliche.
Indem vergessen wird, daß Identität und Entgegensetzung selbst entgegengesetzt sind, wird der Satz der Entgegensetzung auch für den der Identität in der Form des Satzes 8/244 des Widerspruchs genommen und ein Begriff, dem von zwei einander widersprechenden Merkmalen keins (s. vorhin) oder alle beide zukommen, für logisch falsch erklärt, wie z. B. ein viereckiger Zirkel. Ob nun gleich ein vieleckiger Zirkel und ein geradliniger Kreisbogen ebensosehr diesem Satze widerstreitet, haben die Geometer doch kein Bedenken, den Kreis als ein Vieleck von geradlinigen Seiten zu betrachten und zu behandeln. Aber so etwas wie ein Zirkel (seine bloße Bestimmtheit) ist noch kein Begriff; im Begriffe des Zirkels ist Mittelpunkt und Peripherie gleich wesentlich, beide Merkmale kommen ihm zu; und doch ist Peripherie und Mittelpunkt einander entgegengesetzt und widersprechend.
Die in der Physik so viel geltende Vorstellung von Polarität enthält in sich die richtigere Bestimmung der Entgegensetzung, aber wenn die Physik sich in Ansehung der Gedanken an die gewöhnliche Logik hält, so würde sie leicht erschrecken, wenn sie sich die Polarität entwickelte und zu den Gedanken käme, die darin liegen.
Zusatz 1. Das Positive ist wieder die Identität, aber in ihrer höheren Wahrheit, als identische Beziehung auf sich selbst und zugleich so, daß es nicht das Negative ist. Das Negative für sich ist nichts anderes als der Unterschied selbst. Das Identische als solches ist zunächst das Bestimmungslose; das Positive dagegen ist das mit sich Identische, aber als gegen ein Anderes bestimmt, und das Negative ist der Unterschied als solcher in der Bestimmung, nicht Identität zu sein. Dies ist der Unterschied des Unterschiedes in ihm selbst. - Am Positiven und Negativen meint man einen absoluten Unterschied zu haben. Beide sind indes an sich dasselbe, und man könnte deshalb das Positive auch das Negative nennen und ebenso umgekehrt das Negative das Positive. So sind denn auch Vermögen und Schulden nicht zwei besondere, für sich bestehende Arten von Vermögen. Was bei dem einen, als Schuldner, ein Negatives ist, dasselbe ist bei dem anderen, dem Gläubiger, ein Positives. Ebenso verhält es sich mit einem Weg nach Osten, welcher zugleich ein Weg nach Westen ist. Positives und Negatives sind also wesentlich durch einander bedingt und nur in ihrer Beziehung aufeinander. Der Nordpol am Magnet kann nicht sein ohne den Südpol und der Südpol nicht ohne den Nordpol. 8/245 Schneidet man einen Magnet auseinander, so hat man nicht an dem einen Stück den Nordpol und am anderen den Südpol. Ebenso sind dann auch bei der Elektrizität die positive und die negative Elektrizität nicht zwei verschiedene, für sich bestehende Fluida. In der Entgegensetzung hat überhaupt das Unterschiedene nicht nur ein Anderes, sondern sein Anderes sich gegenüber. Das gewöhnliche Bewußtsein betrachtet die Unterschiedenen als gleichgültig gegeneinander. Man sagt so: Ich bin ein Mensch, und um mich herum ist Luft, Wasser, Tiere und Anderes überhaupt. Alles fällt da auseinander. Der Zweck der Philosophie ist dagegen, die Gleichgültigkeit zu verbannen und die Notwendigkeit der Dinge zu erkennen, so daß das Andere als seinem Anderen gegenüberstehend erscheint. So ist z. B. die unorganische Natur nicht bloß als etwas anderes als das Organische zu betrachten, sondern als das notwendige Andere desselben. Beide sind in wesentlicher Beziehung aufeinander, und das Eine von beiden ist nur, insofern es das Andere von sich ausschließt und eben dadurch sich auf dasselbe bezieht. Ebenso ist auch die Natur nicht ohne den Geist, und dieser ist nicht ohne die Natur. Es ist überhaupt ein wichtiger Schritt, wenn man im Denken davon abgekommen ist, zu sagen: nun ist auch noch anderes möglich. Indem man so spricht, so ist man noch mit Zufälligem behaftet, wohingegen, wie vorher bemerkt wurde, das wahre Denken ein Denken der Notwendigkeit ist. - Wenn man in der neueren Naturwissenschaft dazu gekommen ist, die zunächst am Magnetismus als Polarität wahrgenommene Entgegensetzung als durch die ganze Natur hindurchgehend, als ein allgemeines Naturgesetz anzuerkennen, so ist dies ohne Zweifel als ein wesentlicher Fortschritt der Wissenschaft; betrachten, nur wäre es dabei zunächst darum zu tun, daß man nicht neben der Entgegensetzung ohne weiteres auch wieder die bloße Verschiedenheit gelten ließ. So betrachtet man aber z. B. das eine Mal mit Recht die Farben als in polarer Entgegensetzung einander gegenüberstehend (als sogenannte Ergänzungsfarben), sodann aber auch wieder als den gleichgültigen und bloß quantitativen Unterschied des Roten, des Gelben, des Grünen usw.
Zusatz 2. Anstatt nach dem Satz des ausgeschlossenen Dritten (welches der Satz des abstrakten Verstandes ist) zu sprechen, wäre vielmehr zu sagen: alles ist entgegengesetzt. Es gibt in der Tat nirgends, weder im Himmel noch auf Erden, weder in der geistigen noch in der natürlichen Welt, ein so abstraktes Entweder- Oder, wie der Verstand solches behauptet. Alles was irgend ist, das ist ein Konkretes, somit in sich selbst Unterschiedenes und Entgegengesetztes. Die Endlichkeit der Dinge besteht dann darin, 8/246 daß ihr unmittelbares Dasein dem nicht entspricht, was sie an sich sind. So ist z. B. in der unorganischen Natur die Säure an sich zugleich die Basis, d. h. ihr Sein ist schlechthin nur dies, auf ihr Anderes bezogen zu sein. Somit ist dann aber auch die Säure nicht das im Gegensatz ruhig Beharrende, sondern dahin strebend, sich als das zu setzen, was sie an sich ist. Was überhaupt die Welt bewegt, das ist der Widerspruch, und es ist lächerlich zu sagen, der Widerspruch lasse sich nicht denken. Das Richtige in dieser Behauptung ist nur dies, daß es beim Widerspruch nicht sein Bewenden haben kann und daß derselbe sich durch sich selbst aufhebt. Der aufgehobene Widerspruch ist dann aber nicht die abstrakte Identität, denn diese ist selbst nur die eine Seite des Gegensatzes. Das nächste Resultat der als Widerspruch gesetzten Entgegensetzung ist der Grund, welcher sowohl die Identität als auch den Unterschied als aufgehoben und zu bloß ideellen Momenten herabgesetzt in sich enthält.
§ 120
Das Positive ist jenes Verschiedene, welches für sich und zugleich nicht gleichgültig gegen seine Beziehung auf sein Anderes sein soll. Das Negative soll ebenso selbständig, die negative Beziehung auf sich, für sich sein, aber zugleich als Negatives schlechthin diese seine Beziehung auf sich, sein Positives, nur im Anderen haben. Beide sind somit der gesetzte Widerspruch, beide sind an sich dasselbe. Beide sind es auch für sich, indem jedes das Aufheben des Anderen und seiner selbst ist. Sie gehen hiermit zu Grunde. - Oder unmittelbar ist der wesentliche Unterschied, als Unterschied an und für sich, nur der Unterschied seiner von ihm selbst, enthält also das Identische; zum ganzen an und für sich seienden Unterschiede gehört also sowohl er selbst als die Identität. - Als sich auf sich beziehender Unterschied ist er gleichfalls schon als das mit sich Identische ausgesprochen, und das Entgegengesetzte ist überhaupt dasjenige, welches das Eine und sein Anderes, sich und sein Entgegengesetztes, in sich selbst enthält. Das Insichsein des Wesens, so bestimmt, ist der Grund.
33) vgl. Leibniz, Monadologie, § 9

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γ. Der Grund
§ 121
Der Grund ist die Einheit der Identität und des Unterschiedes; 8/247 die Wahrheit dessen, als was sich der Unterschied und die Identität ergeben hat, - die Reflexion-in-sich, die ebensosehr Reflexion-in-Anderes und umgekehrt ist. Er ist das Wesen als Totalität gesetzt.
Der Satz des Grundes heißt: "Alles hat seinen zureichenden Grund", d. h. nicht die Bestimmung von Etwas als Identisches mit sich, noch als Verschiedenes, noch als bloß Positives oder als bloß Negatives ist die wahre Wesenheit von Etwas, sondern daß es sein Sein in einem Anderen hat, das als dessen Identisches-mit-sich sein Wesen ist. Dieses ist ebensosehr nicht abstrakte Reflexion in sich, sondern in Anderes. Der Grund ist das in sich seiende Wesen, und dieses ist wesentlich Grund, und Grund ist es nur, insofern es Grund von Etwas, von einem Anderen ist.
Zusatz. Wenn vom Grunde gesagt wird, er sei die Einheit der Identität und des Unterschiedes, so ist unter dieser Einheit nicht die abstrakte Identität zu verstehen, da wir sonst nur eine andere Benennung, dem Gedanken nach hingegen nur wieder die als unwahr erkannte Verstandesidentität selbst hätten. Man kann deshalb, um jenem Mißverständnis zu begegnen, auch sagen, daß der Grund nicht nur die Einheit, sondern ebensowohl auch der Unterschied der Identität und des Unterschiedes ist. Der Grund, welcher sich uns zunächst als die Aufhebung des Widerspruchs ergab, erscheint hiermit als ein neuer Widerspruch. Als solcher aber ist er nicht das ruhig in sich Beharrende, sondern vielmehr Abstoßen seiner von sich selbst. Der Grund ist nur Grund, insofern er begründet; das aus dem Grunde Hervorgegangene aber ist er selbst, und hierin liegt der Formalismus des Grundes. Das Begründete und der Grund sind ein und derselbe Inhalt, und der Unterschied zwischen beiden ist der bloße Formunterschied der einfachen Beziehung auf sich und der Vermittlung oder des Gesetztseins. Wenn wir nach den Gründen der Dinge fragen, so ist dies überhaupt der bereits früher (§ 112 Zusatz) erwähnte Standpunkt der Reflexion; wir wollen die Sache dann gleichsam doppelt sehen, einmal in ihrer Unmittelbarkeit und zweitens in ihrem Grunde, wo sie nicht mehr unmittelbar ist. Dies ist dann auch der einfache Sinn des sogenannten Denkgesetzes vom zureichenden Grunde, durch welches eben nur ausgesprochen wird, daß die Dinge wesentlich als vermittelt zu betrachten sind. Die formelle 8/248 Logik gibt übrigens den anderen Wissenschaften bei Aufstellung dieses Denkgesetzes insofern ein übles Beispiel, als sie verlangt, daß dieselben ihren Inhalt nicht unmittelbar gelten lassen sollen, während sie doch selbst dieses Denkgesetz aufstellt, ohne dasselbe abzuleiten und dessen Vermittlung aufzuzeigen. Mit demselben Recht, mit welchem der Logiker behauptet, unser Denkvermögen sei einmal so beschaffen, daß wir bei allem nach einem Grund fragen müßten, könnte dann auch der Mediziner wenn er gefragt wird, weshalb ein Mensch, der ins Wasser fällt, ertrinkt, antworten, der Mensch sei einmal so eingerichtet, unterm Wasser nicht leben zu können, und ebenso ein Jurist, welcher gefragt wird, weshalb ein Verbrecher bestraft wird, die bürgerliche Gesellschaft sei einmal so beschaffen, daß Verbrechen nicht unbestraft bleiben dürften. Wenn dann aber auch von der an die Logik zu machenden Forderung einer Begründung des Denkgesetzes vom Grunde abgesehen wird, so hat dieselbe doch wenigstens die Frage zu beantworten, was man unter dem Grund zu verstehen hat. Die gewöhnliche Erklärung, der Grund sei dasjenige, was eine Folge hat, erscheint auf den ersten Anblick einleuchtender und faßlicher als die im Obigen angegebene Begriffsbestimmung. Fragt man indes weiter, was die Folge sei, und erhält zur Antwort, die Folge sei dasjenige, was einen Grund hat, so zeigt es sich, daß die Faßlichkeit dieser Erklärung nur darin besteht, daß bei derselben dasjenige vorausgesetzt wird, was sich bei uns als das Resultat einer vorangegangenen Gedankenbewegung ergeben hat. Nun aber ist das Geschäft der Logik eben nur dies, die bloß vorgestellten und als solche unbegriffenen und unbewiesenen Gedanken als Stufen des sich selbst bestimmenden Denkens aufzuzeigen, womit dieselben dann zugleich begriffen und bewiesen werden. - Im gewöhnlichen Leben und ebenso in den endlichen Wissenschaften bedient man sich sehr häufig dieser Reflexionsform, in der Absicht durch deren Anwendung dahinterzukommen, wie es sich mit den zur Betrachtung gezogenen Gegenständen eigentlich verhält. Ob nun schon wider diese Betrachtungsweise, insofern es sich dabei sozusagen nur um den nächsten Hausbedarf des Erkennens handelt, nichts einzuwenden ist, so muß doch zugleich bemerkt werden, daß dieselbe weder in theoretischer noch in praktischer Hinsicht eine definitive Befriedigung zu gewähren vermag, und zwar um deswillen, weil der Grund noch keinen an und für sich bestimmten Inhalt hat und wir somit dadurch, daß wir etwas als begründet betrachten, den bloßen Formunterschied der Unmittelbarkeit und der Vermittlung erhalten. Man sieht so z. B. eine elektrische Erscheinung und fragt nach dem Grund derselben; erhalten wir darauf zur Antwort, die Elektrizität sei der Grund 8/249 dieser Erscheinung, so ist dieses derselbe Inhalt, den wir unmittelbar vor uns hatten, nur in die Form eines Innerlichen übersetzt. - Weiter ist nun aber auch der Grund nicht bloß das einfach mit sich Identische, sondern auch unterschieden, und es lassen sich deshalb für einen und denselben Inhalt verschiedene Gründe angeben, welche Verschiedenheit der Gründe, nach dem Begriff des Unterschiedes, dann weiter zur Entgegensetzung in der Form von Gründen für und wider denselben Inhalt fortschreitet. - Betrachten wir z. B. eine Handlung, etwa näher einen Diebstahl, so ist dies ein Inhalt, an welchem mehrere Seiten unterschieden werden können. Es ist dadurch Eigentum verletzt worden; der Dieb, welcher in Not war, hat dadurch aber auch die Mittel zur Befriedigung seiner Bedürfnisse erhalten, und es kann ferner der Fall sein, daß derjenige, welcher bestohlen worden, keinen guten Gebrauch von seinem Eigentum machte. Es ist nun zwar richtig, daß die hier stattgefundene Eigentumsverletzung der entscheidende Gesichtspunkt ist, vor welchem die übrigen zurücktreten müssen, allein im Denkgesetz vom Grunde liegt diese Entscheidung nicht. Zwar ist nach der gewöhnlichen Fassung dieses Denkgesetzes nicht bloß vom Grunde überhaupt, sondern vom zureichenden Grunde die Rede, und man könnte deshalb meinen, die bei der beispielsweise erwähnten Handlung außer der Eigentumsverletzung sonst noch hervorgehobenen Gesichtspunkte seien wohl Gründe, allein diese Gründe seien nicht zureichend. Darüber ist indes zu bemerken, daß, wenn von einem zureichenden Grund gesprochen wird, dies Prädikat entweder müßig oder von der Art ist, daß durch dasselbe über die Kategorie des Grundes als solchen hinausgeschritten wird. Müßig und tautologisch ist das gedachte Prädikat, wenn dadurch nur überhaupt die Fähigkeit zu begründen ausgedrückt werden soll, da der Grund eben nur insofern Grund ist, als er diese Fähigkeit besitzt. Wenn ein Soldat aus der Schlacht entläuft, um sein Leben zu erhalten, so handelt er zwar pflichtwidrig, allein es ist nicht zu behaupten, daß der Grund, der ihn so zu handeln bestimmt hat, nicht zureichend wäre, da er sonst auf seinem Posten geblieben sein würde. Ferner muß nun aber auch gesagt werden, daß, so wie einerseits alle Gründe zureichen, ebenso andererseits kein Grund als solcher zureicht, und zwar um deswillen, weil, wie oben bereits bemerkt wurde, der Grund noch keinen an und für sich bestimmten Inhalt hat und somit nicht selbsttätig und hervorbringend ist. Als solcher an und für sich bestimmter und somit selbsttätiger Inhalt wird sich uns demnächst der Begriff ergeben, und dieser ist es, um den es sich bei Leibniz handelt, wenn derselbe vom zureichenden Grunde spricht und darauf dringt, die Dinge unter diesem Gesichtspunkt 8/250 zu betrachten. Leibniz hat dabei zunächst die noch heutzutage bei vielen so beliebte, bloß mechanische Auffassungsweise vor Augen, welche er mit Recht für unzureichend erklärt. So ist es z. B. eine bloß mechanische Auffassung, wenn der organische Prozeß des Blutumlaufs bloß auf die Kontraktion des Herzens zurückgeführt wird, und ebenso mechanisch sind jene Strafrechtstheorien, welche die Unschädlichmachung, die Abschreckung oder andere dergleichen äußerliche Gründe als Zweck der Strafe betrachten. Man tut Leibniz in der Tat sehr Unrecht, wenn man meint, daß derselbe sich mit etwas so Dürftigem, wie dies das formelle Denkgesetz vom Grunde ist, begnügt habe. Die von ihm geltend gemachte Betrachtungsweise ist gerade das Gegenteil von jenem Formalismus, der, wo es sich um ein begreifendes Erkennen handelt, es mit bloßen Gründen sein Bewenden haben läßt. Leibniz stellt in dieser Hinsicht causas effizientes und causas finales einander gegenüber und macht die Forderung, nicht bei den ersteren stehenzubleiben, sondern zu den letzteren hindurchzudringen. Nach diesem Unterschied würden z. B. Licht, Wärme, Feuchtigkeit zwar als causae efficientes, nicht aber als causa finalis des Wachstums der Pflanzen zu betrachten sein, welche causa finalis dann eben nichts anderes ist als der Begriff der Pflanze selbst. - Es kann hier noch bemerkt werden, daß das Stehenbleiben bei bloßen Gründen, namentlich auf dem Gebiet des Rechtlichen und Sittlichen, überhaupt der Standpunkt und das Prinzip der Sophisten ist. Wenn von Sophistik gesprochen wird, so pflegt man darunter häufig bloß eine solche Betrachtungsweise zu verstehen, bei welcher es darum zu tun ist, das Rechte und das Wahre zu verdrehen und überhaupt die Dinge in einem falschen Lichte darzustellen. Diese Tendenz liegt indes nicht unmittelbar in der Sophistik, deren Standpunkt zunächst kein anderer als der des Räsonnements ist. Die Sophisten sind bei den Griechen aufgetreten zu einer Zeit, als diesen auf dem religiösen und auf dem sittlichen Gebiet die bloße Autorität und das Herkommen nicht mehr genügte und sie das Bedürfnis empfanden, sich dessen, was ihnen gelten sollte, als eines durch das Denken vermittelten Inhalts bewußt zu werden. Dieser Forderung sind die Sophisten dadurch entgegengekommen, daß sie Anweisung dazu erteilten, die verschiedenen Gesichtspunkte aufzusuchen, unter denen sich die Dinge betrachten lassen, welche verschiedenen Gesichtspunkte dann zunächst eben nichts anderes als Gründe sind. Da nun, wie vorher bemerkt wurde, der Grund noch keinen an und für sich bestimmten Inhalt hat und für das Unsittliche und Widerrechtliche nicht minder als für das Sittliche und Rechtliche Gründe aufzufinden sind, so fällt die Entscheidung darüber, welche Gründe gelten 8/251 sollen, in das Subjekt, und es kommt auf dessen individuelle Gesinnung und Absichten an, wofür dasselbe sich entscheidet. Hiermit ist dann der objektive Boden des an und für sich Gültigen, von allen Anerkannten untergraben, und diese negative Seite der Sophistik ist es, welche dieselbe verdientermaßen in den vorher erwähnten üblen Ruf gebracht hat. Sokrates hat bekanntlich die Sophisten überall bekämpft, jedoch nicht dadurch, daß er dem Räsonnement derselben nur ohne weiteres die Autorität und das Herkommen entgegengestellt, sondern vielmehr dadurch, daß er die Haltlosigkeit der bloßen Gründe dialektisch aufgezeigt und dagegen das Gerechte und das Gute, überhaupt das Allgemeine oder den Begriff des Willens geltend gemacht hat. Wenn heutzutage nicht nur in Erörterungen über weltliche Dinge, sondern auch in Predigten oft vorzugsweise nur räsonierend zu Werke gegangen wird und so z. B. alle möglichen Gründe zur Dankbarkeit gegen Gott beigebracht werden, so würden Sokrates und ebenso Platon keinen Anstand genommen haben, dergleichen für Sophisterei zu erklären, da es, wie gesagt, bei dieser zunächst nicht um den Inhalt zu tun ist, welcher immerhin der wahrhafte sein kann, sondern um die Form der Gründe, durch welche alles verteidigt, aber auch alles angegriffen werden kann. In unserer reflexionsreichen und räsonierenden Zeit muß es einer noch nicht weit gebracht haben, der nicht für alles, auch für das Schlechteste und Verkehrteste, einen guten Grund anzugeben weiß. Alles, was in der Welt verdorben worden ist, das ist aus guten Gründen verdorben worden. Wenn auf Gründe provoziert wird, so ist man zunächst geneigt, davor zurückzutreten; hat man dann aber die Erfahrung gemacht, wie es sich damit verhält, so wird man harthörig dagegen und läßt sich dadurch nicht weiter imponieren.
§ 122
Das Wesen ist zunächst Scheinen und Vermittlung in sich; als Totalität der Vermittlung ist seine Einheit mit sich nun gesetzt als das Sichaufheben des Unterschiedes und damit der Vermittlung. Dies ist also die Wiederherstellung der Unmittelbarkeit oder des Seins, aber des Seins, insofern es durch das Aufheben der Vermittlung vermittelt ist; - die Existenz.
Der Grund hat noch keinen an und für sich bestimmten Inhalt, noch ist er Zweck, daher ist er nicht tätig noch hervorbringend; sondern eine Existenz geht aus dem 8/252 Grunde nur hervor. Der bestimmte Grund ist darum etwas Formelles, irgendeine Bestimmtheit, insofern sie als bezogen auf sich selbst, als Affirmation gesetzt wird, im Verhältnis zu der damit zusammenhängenden unmittelbaren Existenz. Er ist eben damit, daß er Grund ist, auch ein guter Grund, denn "gut" heißt ganz abstrakt auch nicht mehr als ein Affirmatives, und jede Bestimmtheit ist gut, die in irgendeiner Weise als ein zugestanden Affirmatives ausgesprochen werden kann. Ein Grund kann daher für alles gefunden und angegeben werden, und ein guter Grund (z. B. guter Beweggrund zu handeln) kann etwas bewirken oder auch nicht, eine Folge haben oder auch nicht. Beweggrund, der etwas bewirkt, wird er z. B. durch die Aufnahme in einen Willen, der ihn erst zum tätigen und einer Ursache macht.

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b. Die Existenz
§ 123
Die Existenz ist die unmittelbare Einheit der Reflexion-in-sich und der Reflexion-in-Anderes. Sie ist daher die unbestimmte Menge von Existierenden als in-sich-Reflektierten, die zugleich ebensosehr in-Anderes-scheinen, relativ sind, und eine Welt gegenseitiger Abhängigkeit und eines unendlichen Zusammenhangs von Gründen und Begründeten bilden. Die Gründe sind selbst Existenzen und die Existierenden ebenso nach vielen Seiten hin Gründe sowohl als Begründete.
Zusatz. Der Ausdruck Existenz (abgeleitet von existere) deutet auf ein Hervorgegangensein, und die Existenz ist das aus dem Grunde hervorgegangene, durch Aufhebung der Vermittlung wiederhergestellte Sein. Das Wesen, als das aufgehobene Sein, hat sich uns zunächst als Scheinen in sich erwiesen, und die Bestimmungen dieses Scheinens sind die Identität, der Unterschied und der Grund. Dieser ist die Einheit der Identität und des Unterschiedes, und als solche zugleich Unterscheiden seiner von sich selbst. Nun aber ist das vom Grund Unterschiedene ebensowenig 8/253 der bloße Unterschied, als er selbst die abstrakte Identität ist. Der Grund ist das Aufheben seiner selbst, und das, wozu er sich aufhebt, das Resultat seiner Negation, ist die Existenz. Diese als das aus dem Grund Hervorgegangene enthält denselben in sich, und der Grund bleibt nicht hinter der Existenz zurück, sondern er ist eben nur dies, sich aufzuheben und in Existenz zu übersetzen. Dies findet sich dann auch insofern im gewöhnlichen Bewußtsein, daß, wenn wir den Grund von etwas betrachten, dieser Grund nicht ein abstrakt Innerliches, sondern vielmehr selbst wieder ein Existierendes ist. So betrachten wir z. B. als Grund einer Feuersbrunst den Blitzstrahl, welcher ein Gebäude in Brand gesetzt hat, und ebenso als Grund der Verfassung eines Volkes dessen Sitten und Lebensverhältnisse. Dies ist nun überhaupt die Gestalt, unter welcher sich die existierende Welt der Reflexion zunächst präsentiert als eine unbestimmte Menge von Existierenden, die sich, als zugleich in sich und in Anderes reflektiert, zueinander gegenseitig als Grund und als Begründetes verhalten. In diesem bunten Spiel der Welt als des Inbegriffs des Existierenden zeigt sich zunächst nirgends ein fester Halt, alles erscheint hier nur als ein Relatives, bedingt durch Anderes und ebenso Anderes bedingend. Der reflektierende Verstand macht es sich zum Geschäft, diese allseitigen Beziehungen zu ermitteln und zu verfolgen; allein die Frage nach einem Endzweck bleibt dabei unbeantwortet, und das Bedürfnis der begreifenden Vernunft schreitet deshalb mit der weiteren Entwicklung der logischen Idee über diesen Standpunkt der bloßen Relativität hinaus.
§ 124
Die Reflexion-in-Anderes des Existierenden ist aber ungetrennt von der Reflexion-in-sich; der Grund ist ihre Einheit, aus der die Existenz hervorgegangen ist. Das Existierende enthält daher die Relativität und seinen mannigfachen Zusammenhang mit anderen Existierenden an ihm selbst und ist in sich als Grund reflektiert. So ist das Existierende Ding.
Das Ding-an-sich, das in der Kantischen Philosophie so berühmt geworden, zeigt sich hier in seiner Entstehung, nämlich als die abstrakte Reflexion-in-sich, an der gegen die Reflexion-in-Anderes und gegen die unterschiedenen 8/254 Bestimmungen überhaupt als an der leeren Grundlage derselben festgehalten wird.
Zusatz. Wenn behauptet wird, daß das Ding-an-sich unerkennbar sei, so ist dies insofern zuzugeben, als man unter dem Erkennen das Auffassen eines Gegenstandes in seiner konkreten Bestimmtheit zu verstehen hat, das Ding-an-sich aber nichts anderes ist als das ganz abstrakte und unbestimmte Ding überhaupt. Mit demselben Recht übrigens, mit welchem vom Ding-an-sich gesprochen wird, wäre auch von der Qualität-an-sich, von der Quantität-an-sich und ebenso weiter von allen übrigen Kategorien zu sprechen und [es] würden darunter diese Kategorien in ihrer abstrakten Unmittelbarkeit, d. h. abgesehen von ihrer Entwicklung und inneren Bestimmtheit zu verstehen sein. Es ist insofern als eine Willkür des Verstandes zu betrachten, wenn gerade nur das Ding in seinem Ansich fixiert wird. Weiter pflegt nun aber auch das Ansich auf den Inhalt der natürlichen sowohl als auch der geistigen Welt angewendet und demgemäß z. B. von der Elektrizität oder von der Pflanze an sich und ebenso vom Menschen oder vom Staat an sich gesprochen und unter dem Ansich dieser Gegenstände das Rechte und Eigentliche derselben verstanden zu werden. Hiermit verhält es sich nicht anders als mit dem Ding-an-sich überhaupt, und zwar näher so, daß, wenn bei dem bloßen Ansich der Gegenstände stehengeblieben wird, dieselben nicht in ihrer Wahrheit, sondern in der einseitigen Form der bloßen Abstraktion aufgefaßt werden. So ist z. B. der Mensch-an-sich das Kind, dessen Aufgabe darin besteht, nicht in diesem abstrakten und unentwickelten Ansich zu verharren, sondern das, was es zunächst nur an sich ist - nämlich ein freies und vernünftiges Wesen -, auch für sich zu werden. Ebenso ist der Staat-an-sich der noch unentwickelte, patriarchalische Staat, in welchem die im Begriff des Staats liegenden verschiedenen politischen Funktionen noch nicht zu ihrer begriffsmäßigen Konstituierung gelangt sind. In demselben Sinn kann auch der Keim als die Pflanze-an-sich betrachtet werden. Aus diesen Beispielen ist zu entnehmen, daß man sich sehr im Irrtum befindet, wenn man meint, das Ansich der Dinge oder das Ding-an-sich überhaupt sei etwas für unser Erkennen Unzugängliches. Alle Dinge sind zunächst an sich, allein es hat dabei nicht sein Bewenden, und so wie der Keim, welcher die Pflanze an sich ist, nur dies ist, sich zu entwickeln, so schreitet auch das Ding überhaupt über sein bloßes Ansich, als die abstrakte Reflexion-in-sich, dazu fort, sich auch als Reflexion-in-Anderes zu erweisen, und so hat es Eigenschaften. 8/255

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c. Das Ding
§ 125
Das Ding ist die Totalität als die in Einem gesetzte Entwicklung der Bestimmungen des Grundes und der Existenz. Es hat nach dem einen seiner Momente, der Reflexion-in-Anderes, die Unterschiede an ihm, wonach es ein bestimmtes und konkretes Ding ist. α) Diese Bestimmungen sind voneinander verschieden; an dem Dinge, nicht an ihnen selbst, haben sie ihre Reflexion-in-sich. Sie sind Eigenschaften des Dings, und ihre Beziehung auf dasselbe ist das Haben.
Haben tritt als Beziehung an die Stelle des Seins. Etwas hat zwar auch Qualitäten an ihm, aber diese Übertragung des Habens auf das Seiende ist ungenau, weil die Bestimmtheit als Qualität unmittelbar eins mit dem Etwas ist und Etwas aufhört zu sein, wenn es seine Qualität verliert. Das Ding aber ist die Reflexion-in-sich, als die von dem Unterschiede, seinen Bestimmungen, auch unterschiedene Identität. - Das Haben wird in vielen Sprachen zur Bezeichnung der Vergangenheit gebraucht, - mit Recht, indem die Vergangenheit das aufgehobene Sein und der Geist deren Reflexion-in-sich ist, worin sie allein noch Bestehen hat, der aber dieses in ihm aufgehobene Sein auch von sich unterscheidet.
Zusatz. Am Dinge rekurrieren die sämtlichen Reflexionsbestimmungen als existierend. So ist das Ding, zunächst als Ding-an-sich, das mit sich Identische. Die Identität aber ist, wie wir gesehen haben, nicht ohne den Unterschied, und die Eigenschaften, welche das Ding hat, sind der existierende Unterschied, in der Form der Verschiedenheit. Während früher die Verschiedenen sich als gegeneinander gleichgültig erwiesen und die Beziehung derselben aufeinander nur durch die ihnen äußerliche Vergleichung gesetzt wurde, so haben wir nunmehr am Dinge ein Band, welches die verschiedenen Eigenschaften untereinander verknüpft. Übrigens ist die Eigenschaft nicht mit der Qualität zu verwechseln. Man sagt zwar auch, etwas habe Qualitäten. Diese Bezeichnung ist indes insofern unpassend, als das Haben eine Selbständigkeit andeutet, die dem mit seiner Qualität unmittelbar identischen Etwas noch 8/256 nicht zukommt. Etwas ist das, was es ist, nur durch seine Qualität, wohingegen das Ding zwar gleichfalls nur existiert, insofern es Eigenschaften hat, jedoch nicht an diese oder jene bestimmte Eigenschaft gebunden ist und somit auch dieselbe verlieren kann, ohne daß es deshalb aufhört, das zu sein, was es ist.
§ 126
β) Die Reflexion-in-Anderes ist aber auch im Grunde unmittelbar an ihr selbst die Reflexion-in-sich, daher sind die Eigenschaften ebensosehr mit sich identisch, selbständig und von ihrem Gebundensein an das Ding befreit. Weil sie aber die voneinander unterschiedenen Bestimmtheiten des Dinges als reflektiert-in-sich sind, sind sie nicht selbst Dinge, als welche konkret sind, sondern in sich reflektierte Existenzen als abstrakte Bestimmtheiten, Materien.
Die Materien, z. B. magnetische, elektrische Materien, werden auch nicht Dinge genannt. - Sie sind die eigentlichen Qualitäten, eins mit ihrem Sein, die zur Unmittelbarkeit gelangte Bestimmtheit, aber einem Sein, welches ein reflektiertes, Existenz ist.
Zusatz. Die Verselbständigung der Eigenschaften, welche das Ding hat, zu Materien oder Stoffen, aus welchen dasselbe besteht, ist zwar im Begriff des Dinges begründet und findet sich deshalb auch in der Erfahrung, allein es ist ebenso gedanken- als erfahrungswidrig, daraus, daß gewisse Eigenschaften eines Dinges, wie z. B. die Farbe, der Geruch usw., sich als besonderer Farbstoff, Riechstoff usw. darstellen lassen, zu folgern, daß damit alles abgetan sei und daß man, um dahinterzukommen, wie es sich mit den Dingen eigentlich verhalte, weiter nichts zu tun habe, als dieselben in die Stoffe zu zerlegen, aus denen dieselben zusammengesetzt sind. Dieses Zerlegen in selbständige Stoffe findet seine eigentliche Stelle nur in der unorganischen Natur, und der Chemiker befindet sich in seinem Recht, wenn er z. B. das Küchensalz oder den Gips in ihre Stoffe zerlegt und dann sagt, jenes bestehe aus Salzsäure und Natron und dieser aus Schwefelsäure und Kalk. Ebenso betrachtet 8/257 dann auch die Geognosie mit Recht den Granit als aus Quarz, Feldspat und Glimmer zusammengesetzt. Diese Stoffe, aus denen das Ding besteht, sind dann zum Teil selbst wieder Dinge, die als solche abermals in abstraktere Stoffe zerlegt werden können, wie z. B. die Schwefelsäure, welche aus Schwefel und aus Sauerstoff besteht. Während nun dergleichen Stoffe oder Materien tatsächlich als für sich bestehend dargestellt werden können, so geschieht es auch häufig, daß andere Eigenschaften der Dinge gleichfalls als besondere Materien betrachtet werden, denen gleichwohl diese Selbständigkeit nicht zukommt. So spricht man z. B. von Wärmestoff, von elektrischer und von magnetischer Materie, welche Stoffe und Materien indes als bloße Fiktionen des Verstandes zu betrachten sind. Es ist dies überhaupt die Weise der abstrakten Verstandesreflexion, einzelne Kategorien, die nur als bestimmte Entwicklungsstufen der Idee ihre Gültigkeit haben, willkürlich zu ergreifen und diese dann, wie es heißt, zum Behuf der Erklärung, jedoch im Widerspruch mit der unbefangenen Anschauung und Erfahrung, dergestalt zu handhaben, daß alle zur Betrachtung gezogenen Gegenstände darauf zurückgeführt werden. So wird dann auch das Bestehen des Dinges aus selbständigen Stoffen vielfältig auf solchen Gebieten zur Anwendung gebracht, wo dasselbe keine Gültigkeit mehr hat. Schon innerhalb der Natur, beim organischen Leben, erweist sich diese Kategorie als ungenügend. Man sagt wohl, dieses Tier besteht aus Knochen, Muskeln, Nerven usw., allein es leuchtet unmittelbar ein, daß es damit eine andere Bewandtnis hat als mit dem Bestehen eines Stücks Granit aus den vorhergenannten Stoffen. Diese Stoffe verhalten sich vollkommen gleichgültig gegen ihre Vereinigung und können auch ebensogut ohne dieselbe bestehen, wohingegen die verschiedenen Teile und Glieder des organischen Leibes nur in ihrer Vereinigung ihr Bestehen haben und getrennt voneinander aufhören, als solche zu existieren.
§ 127
Die Materie ist so die abstrakte oder unbestimmte Reflexion-in-Anderes oder die Reflexion-in-sich zugleich als bestimmte; sie ist daher die daseiende Dingheit, das Bestehen des Dings. Das Ding hat auf diese Weise an den Materien seine Reflexion-in-sich (das Gegenteil von § 125), besteht nicht an ihm selbst, sondern aus den Materien und ist nur deren oberflächlicher Zusammenhang, eine äußerliche Verknüpfung derselben. 8/258
§ 128
γ) Die Materie ist als die unmittelbare Einheit der Existenz mit sich auch gleichgültig gegen die Bestimmtheit; die vielen verschiedenen Materien gehen daher in die eine Materie, die Existenz in der Reflexionsbestimmung der Identität zusammen, welcher gegenüber diese unterschiedenen Bestimmtheiten und deren äußerliche Beziehung, die sie im Ding aufeinander haben, die Form sind, - die Reflexionsbestimmung des Unterschiedes, aber als existierend und als Totalität.
Diese eine, bestimmungslose Materie ist auch dasselbe, was das Ding-an-sich, nur dieses als in sich ganz abstraktes, jene als an sich auch für-Anderes, zunächst für die Form Seiendes.
Zusatz. Die verschiedenen Materien, aus denen das Ding besteht, sind an sich die eine dasselbe, was die andere ist. Wir erhalten hiermit die eine Materie überhaupt, an welcher der Unterschied als derselben äußerlich, d. h. als bloße Form gesetzt ist. Die Auffassung der Dinge als sämtlich die eine und selbe Materie zur Grundlage habend und bloß äußerlich, ihrer Form nach verschieden, ist dem reflektierenden Bewußtsein sehr geläufig. Die Materie gilt hierbei als an sich durchaus unbestimmt, jedoch aller Bestimmung fähig und zugleich schlechthin permanent und in allem Wechsel und aller Veränderung sich selbst gleichbleibend Diese Gleichgültigkeit der Materie gegen bestimmte Formen findet sich nun allerdings in endlichen Dingen; so ist es z. B. einem Marmorblock gleichgültig, ob demselben die Form dieser oder jener Statue oder auch einer Säule gegeben wird. Dabei ist jedoch nicht zu übersehen, daß solche Materie wie ein Marmorblock nur relativ (in Beziehung auf den Bildhauer) gegen die Form gleichgültig, jedoch keineswegs überhaupt formlos ist. Der Mineralog betrachtet demgemäß auch den nur relativ formlosen Marmor als eine bestimmte Steinformation, in seinem Unterschied von anderen, ebenso bestimmten Formationen, wie z. B. Sandstein Porphyr u. dgl. Es ist somit nur der abstrahierende Verstand, welcher die Materie in ihrer Isolierung und als an sich formlos fixiert, wohingegen in der Tat der Gedanke der Materie das Prinzip der Form durchaus in sich schließt und darum auch in der Erfahrung nirgends eine formlose Materie als existierend vorkommt. Die Auffassung der Materie als ursprünglich vorhanden und als an sich formlos ist übrigens sehr alt und begegnet uns schon bei den Griechen, zunächst in der mythischen Gestalt des 8/259 Chaos, welches als die formlose Grundlage der existierenden Welt vorgestellt wird. In der Konsequenz dieser Vorstellung liegt es dann, Gott nicht als den Erschaffer der Welt, sondern als bloßen Weltbildner, als Demiurgen zu betrachten. Die tiefere Anschauung ist dagegen diese, daß Gott die Welt aus Nichts erschaffen habe, womit dann überhaupt ausgesprochen ist, einerseits daß der Materie als solcher keine Selbständigkeit zukommt, und andererseits daß die Form nicht von außen an die Materie gelangt, sondern als Totalität das Prinzip der Materie in sich selbst trägt, welche freie und unendliche Form sich uns demnächst als der Begriff ergeben wird.
§ 129
Das Ding zerfällt so in Materie und Form, deren jedes die Totalität der Dingheit und selbständig für sich ist. Aber die Materie, welche die positive, unbestimmte Existenz sein soll, enthält als Existenz ebensowohl die Reflexion-in-Anderes als das Insichsein; als Einheit dieser Bestimmungen ist sie selbst die Totalität der Form. Die Form aber enthält schon als Totalität der Bestimmungen die Reflexion-in-sich, oder als sich auf sich beziehende Form hat sie das, was die Bestimmung der Materie ausmachen soll. Beide sind an sich dasselbe. Diese ihre Einheit, gesetzt, ist überhaupt die Beziehung der Materie und Form, welche ebenso unterschieden sind.
§ 130
Das Ding als diese Totalität ist der Widerspruch, nach seiner negativen Einheit die Form zu sein, in der die Materie bestimmt und zu Eigenschaften herabgesetzt ist (§ 125), und zugleich aus Materien zu bestehen, die in der Reflexion des Dings in sich zugleich ebenso selbständige als negierte sind. Das Ding ist so, die wesentliche Existenz als eine sich in sich selbst aufhebende zu sein, ist Erscheinung.
Die im Ding ebenso gesetzte Negation als Selbständigkeit der Materien kommt in der Physik als die Porosität vor. Jede der vielen Materien (Färbestoff, Riechstoff und andere Stoffe, nach einigen darunter auch Schallstoff, dann ohnehin Wärmestoff, elektrische Materie usw.) ist auch negiert, und in dieser ihrer Negation, ihren Poren, 8/260 sind die vielen anderen selbständigen Materien, die ebenso porös sind und in sich die anderen so gegenseitig existieren lassen. Die Poren sind nichts Empirisches, sondern Erdichtungen des Verstandes, der das Moment der Negation der selbständigen Materien auf diese Weise vorstellt und die weitere Ausbildung der Widersprüche mit jener nebulosen Verwirrung, in der alle selbständig und alle ineinander ebenso negiert sind, deckt. - Wenn auf gleiche Weise im Geiste die Vermögen oder Tätigkeiten hypostasiert werden, so wird ihre lebendige Einheit ebenso zur Verwirrung des Einwirkens der einen in die andere.
Wie die Poren (von den Poren im Organischen, denen des Holzes, der Haut ist nicht die Rede, sondern von [denen] in den sogenannten Materien, wie im Färbestoff, Wärmestoff usf. oder in den Metallen, Kristallen u. dgl.) nicht in der Beobachtung ihre Bewährung haben, so ist auch die Materie selbst, ferner eine von ihr getrennte Form, zunächst das Ding und das Bestehen desselben aus Materien oder daß es selbst besteht und nur Eigenschaften hat, Produkt des reflektierenden Verstandes, der, indem er beobachtet und das anzugeben vorgibt, was er beobachte, vielmehr eine Metaphysik hervorbringt, die nach allen Seiten Widerspruch ist, der ihm jedoch verborgen bleibt.

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B. Die Erscheinung
§ 131
Das Wesen muß erscheinen. Sein Scheinen in ihm ist das Aufheben seiner zur Unmittelbarkeit, welche als Reflexion-in-sich so Bestehen (Materie) ist, als sie Form, Reflexion-in-Anderes, sich aufhebendes Bestehen ist. Das Scheinen ist die Bestimmung, wodurch das Wesen nicht Sein, sondern Wesen ist, und das entwickelte Scheinen ist die Erscheinung. Das Wesen ist daher nicht hinter oder jenseits der Erscheinung, 8/261 sondern dadurch, daß das Wesen es ist, welches existiert, ist die Existenz Erscheinung.
Zusatz. Die Existenz, gesetzt in ihrem Widerspruch, ist die Erscheinung. Diese ist nicht mit dem bloßen Schein zu verwechseln. Der Schein ist die nächste Wahrheit des Seins oder der Unmittelbarkeit. Das Unmittelbare ist nicht dasjenige, was wir an ihm zu haben meinen, nicht ein Selbständiges und auf sich Beruhendes, sondern nur Schein, und als solcher ist dasselbe zusammengefaßt in die Einfachheit des in sich seienden Wesens. Dieses ist zunächst Totalität des Scheinens in sich, bleibt dann aber nicht bei dieser Innerlichkeit stehen, sondern tritt als Grund heraus in die Existenz, welche, als ihren Grund nicht in sich selbst, sondern in einem Anderen habend, eben nur Erscheinung ist. Wenn wir von der Erscheinung sprechen, so verbinden wir damit die Vorstellung einer unbestimmten Mannigfaltigkeit existierender Dinge, deren Sein schlechthin nur Vermittlung ist und welche somit nicht auf sich selbst beruhen, sondern nur als Momente ihre Gültigkeit haben. Hierin liegt nun aber auch zugleich, daß das Wesen nicht hinter oder jenseits der Erscheinung verbleibt, sondern vielmehr gleichsam die unendliche Güte ist, seinen Schein in die Unmittelbarkeit zu entlassen und ihm die Freude des Daseins zu gönnen. Die hiermit gesetzte Erscheinung steht nicht auf eigenen Füßen und hat ihr Sein nicht in sich selbst, sondern in einem Anderen. Gott als das Wesen, so wie er die Güte ist, dadurch, daß er den Momenten seines Scheinens in sich Existenz verleiht, eine Welt zu erschaffen, erweist sich zugleich als die Macht über dieselbe und als die Gerechtigkeit, den Inhalt dieser existierenden Welt, insofern dieselbe für sich existieren will, als bloße Erscheinung zu manifestieren.
Die Erscheinung ist überhaupt eine sehr wichtige Stufe der logischen Idee, und man kann sagen, daß die Philosophie sich vom gemeinen Bewußtsein dadurch unterscheidet, daß sie dasjenige, was diesem als ein Seiendes und Selbständiges gilt, als bloße Erscheinung betrachtet. Dabei kommt es indes darauf an, daß die Bedeutung der Erscheinung gehörig aufgefaßt wird. Wenn nämlich von etwas gesagt wird, daß es nur Erscheinung sei, so kann dies so mißverstanden werden, als ob in Vergleichung mit diesem nur Erscheinenden das Seiende oder Unmittelbare das Höhere sei. In der Tat verhält es sich gerade umgekehrt, so nämlich, daß die Erscheinung ein Höheres ist als das bloße Sein. Die Erscheinung ist überhaupt die Wahrheit des Seins und eine reichere Bestimmung als dieses, insofern dieselbe die Momente der Reflexion-in-sich und der Reflexion-in-Anderes in sich vereinigt enthält, wohingegen 8/262 das Sein oder die Unmittelbarkeit noch das einseitig Beziehungslose und (scheinbar) nur auf sich Beruhende ist. Weiter deutet dann aber jenes Nur der Erscheinung allerdings auf einen Mangel und dieser besteht darin, daß die Erscheinung noch dies in sich Gebrochene, seinen Halt nicht in sich selbst Habende ist. Das Höhere als die bloße Erscheinung ist zunächst die Wirklichkeit, von welcher, als der dritten Stufe des Wesens, späterhin gehandelt werden wird. - In der Geschichte der neueren Philosophie ist es Kant, welchem das Verdienst gebührt, den vorher erwähnten Unterschied zwischen dem gemeinen und dem philosophischen Bewußtsein zuerst wieder geltend gemacht zu haben. Kant ist indes insofern noch auf halbem Wege stehengeblieben, als er die Erscheinung nur im subjektiven Sinn aufgefaßt und außer derselben das abstrakte Wesen als das unserem Erkennen unzugängliche Ding an sich fixiert hat. Nur Erscheinung zu sein, dies ist die eigene Natur der unmittelbar gegenständlichen Welt selbst, und indem wir dieselbe als solche wissen, so erkennen wir damit zugleich das Wesen, welches nicht hinter oder jenseits der Erscheinung bleibt, sondern eben dadurch sich als Wesen manifestiert, daß es dieselbe zur bloßen Erscheinung herabsetzt. - Es ist übrigens dem unbefangenen Bewußtsein bei seinem Verlangen nach einer Totalität nicht zu verargen, wenn dasselbe Anstand nimmt, sich bei der Behauptung des subjektiven Idealismus, daß wir es schlechthin bloß mit Erscheinungen zu tun haben, zu beruhigen. Nur widerfährt es diesem unbefangenen Bewußtsein, indem es sich daran begibt, die Objektivität des Erkennens zu retten, leicht, daß es zur abstrakten Unmittelbarkeit zurückkehrt und diese ohne weiteres als das Wahre und Wirkliche festhält. Fichte hat in einer kleinen Schrift unter dem Titel: "Sonnenklarer Bericht an das größere Publikum über das eigentliche Wesen der neuesten Philosophie; ein Versuch, den Leser zum Verstehen zu zwingen" [Berlin 1801], den Gegensatz zwischen dem subjektiven Idealismus und dem unmittelbaren Bewußtsein in der Form eines Gesprächs zwischen dem Autor und dem Leser in populärer Form abgehandelt und sich bemüht, die Berechtigung des subjektiv idealistischen Standpunktes nachzuweisen. In diesem Gespräch klagt der Leser dem Autor seine Not, daß es ihm durchaus nicht gelingen wolle, sich auf jenen Standpunkt zu versetzen, und äußert sich trostlos darüber, daß die Dinge, die ihn umgeben, nicht wirkliche Dinge, sondern bloß Erscheinungen sein sollen. Diese Betrübnis ist insofern allerdings dem Leser nicht zu verdenken, als ihm zugemutet wird, sich als in einen undurchdringlichen Kreis bloß subjektiver Vorstellungen eingebannt zu betrachten; übrigens muß indes, abgesehen von der bloß subjektiven 8/263 Auffassung der Erscheinung, gesagt werden, daß wir alle Ursache haben, zufrieden damit zu sein, daß wir an den Dingen, welche uns umgeben, es bloß mit Erscheinungen und nicht mit festen und selbständigen Existenzen zu tun haben, da wir in diesem Fall sowohl leiblich als geistig alsbald verhungern würden.

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Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / b. Inhalt und Form

a. Die Welt der Erscheinung
§ 132
Das Erscheinende existiert so, daß sein Bestehen unmittelbar aufgehoben, dieses nur ein Moment der Form selbst ist; die Form befaßt das Bestehen oder die Materie als eine ihrer Bestimmungen in sich. Das Erscheinende hat so seinen Grund in dieser als seinem Wesen, seiner Reflexion-in-sich gegen seine Unmittelbarkeit, aber damit nur in einer anderen Bestimmtheit der Form. Dieser sein Grund ist ebensosehr ein Erscheinendes, und die Erscheinung geht so zu einer unendlichen Vermittlung des Bestehens durch die Form, somit ebenso durch Nichtbestehen fort. Diese unendliche Vermittlung ist zugleich eine Einheit der Beziehung auf sich, und die Existenz [ist] zu einer Totalität und Welt der Erscheinung, der reflektierten Endlichkeit, entwickelt.

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Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / b. Inhalt und Form



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Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / c. Das Verhältnis

b. Inhalt und Form
§ 133
Das Außereinander der Welt der Erscheinung ist Totalität und ist ganz in ihrer Beziehung-auf-sich enthalten. Die Beziehung der Erscheinung auf sich ist so vollständig bestimmt, hat die Form in ihr selbst und, weil in dieser Identität, als wesentliches Bestehen. So ist die Form Inhalt und nach ihrer entwickelten Bestimmtheit das Gesetz der Erscheinung. In die Form als in sich nicht reflektiert fällt das Negative der Erscheinung, das Unselbständige und Veränderliche, - sie ist die gleichgültige, äußerliche Form.
Bei dem Gegensatze von Form und Inhalt ist wesentlich festzuhalten, daß der Inhalt nicht formlos ist, sondern 8/264 ebensowohl die Form in ihm selbst hat, als sie ihm ein Äußerliches ist. Es ist die Verdopplung der Form vorhanden, die das eine Mal als in sich reflektiert der Inhalt, das andere Mal als nicht in sich reflektiert die äußerliche, dem Inhalte gleichgültige Existenz ist. An-sich ist hier vorhanden das absolute Verhältnis des Inhalts und der Form, nämlich das Umschlagen derselben ineinander, so daß der Inhalt nichts ist als das Umschlagen der Form in Inhalt, und die Form nichts als Umschlagen des Inhalts in Form. Dies Umschlagen ist eine der wichtigsten Bestimmungen. Gesetzt aber ist dies erst im absoluten Verhältnisse.
Zusatz. Form und Inhalt sind ein Paar Bestimmungen, deren sich der reflektierende Verstand sehr häufig bedient, und zwar vornehmlich in der Art, daß der Inhalt als das Wesentliche und Selbständige, die Form dagegen als das Unwesentliche und Unselbständige betrachtet wird. Dawider ist jedoch zu bemerken, daß in der Tat beide gleich wesentlich sind und daß, während es einen formlosen Inhalt so wenig gibt als einen formlosen Stoff, diese beiden (Inhalt und Stoff oder Materie) sich eben dadurch voneinander unterscheiden, daß die letztere, obschon an sich nicht ohne die Form, doch in ihrem Dasein sich als gegen dieselbe gleichgültig erweist, wohingegen der Inhalt als solcher das, was er ist, nur dadurch ist, daß er die ausgebildete Form in sich enthält. Weiter finden wir dann aber die Form auch als eine gegen den Inhalt gleichgültige und demselben äußerliche Existenz, und dies ist um deswillen der Fall, weil die Erscheinung überhaupt noch mit der Äußerlichkeit behaftet ist. Betrachten wir z. B. ein Buch, so ist es für den Inhalt desselben allerdings gleichgültig, ob dasselbe geschrieben oder gedruckt, ob es in Papier oder in Leder eingebunden ist. Damit ist dann aber keineswegs gesagt, daß, abgesehen von solcher äußerlichen und gleichgültigen Form, der Inhalt des Buches selbst ein formloser sei. Es gibt freilich Bücher genug, die auch in Beziehung auf ihren Inhalt nicht mit Unrecht als formlos zu bezeichnen sind; in dieser Beziehung auf den Inhalt ist jedoch die Formlosigkeit gleichbedeutend mit Unförmlichkeit, worunter nicht die Abwesenheit der Form überhaupt, sondern nur das Nichtvorhandensein der rechten Form zu verstehen ist. Diese rechte Form aber ist so wenig gegen den Inhalt gleichgültig, daß dieselbe vielmehr der Inhalt selbst ist. Ein Kunstwerk, welchem die rechte Form fehlt, ist eben darum kein rechtes, d. h. kein 8/265 wahres Kunstwerk, und es ist für einen Künstler als solchen eine schlechte Entschuldigung, wenn gesagt wird, der Inhalt seiner Werke sei zwar gut (ja, wohl gar vortrefflich), aber es fehle denselben die rechte Form. Wahrhafte Kunstwerke sind eben nur solche, deren Inhalt und Form sich als durchaus identisch erweisen. Man kann von der Ilias sagen, ihr Inhalt sei der Trojanische Krieg oder bestimmter der Zorn des Achill, damit haben wir alles und doch nur sehr wenig, denn was die Ilias zur Ilias macht, das ist die poetische Form, zu welcher jener Inhalt herausgebildet ist. Ebenso ist der Inhalt von Romeo und Julia der durch die Zwietracht ihrer Familien herbeigeführte Untergang zweier Liebenden; allein dies ist noch nicht Shakespeares unsterbliche Tragödie. - Was dann ferner das Verhältnis von Inhalt und Form auf dem wissenschaftlichen Gebiete anbetrifft, so ist in dieser Beziehung an den Unterschied zwischen der Philosophie und den übrigen Wissenschaften zu erinnern. Die Endlichkeit der letzteren besteht überhaupt darin, daß hier das Denken als bloß formelle Tätigkeit seinen Inhalt als einen gegebenen von außenher aufnimmt und daß der Inhalt nicht als durch die ihm zugrunde liegenden Gedanken von innen heraus bestimmt gewußt wird, daß somit Form und Inhalt einander nicht vollständig durchdringen, wohingegen in der Philosophie diese Trennung hinwegfällt und dieselbe deshalb als unendliches Erkennen zu bezeichnen ist. Gleichwohl wird auch das philosophische Denken sehr häufig als bloße Formtätigkeit betrachtet, und zumal von der Logik, welche es zugestandenermaßen nur mit Gedanken als solchen zu tun hat, gilt deren Inhaltslosigkeit als eine ausgemachte Sache. Versteht man unter Inhalt nur das Handgreifliche überhaupt, das sinnlich Wahrnehmbare, so wird allerdings, wie von der Philosophie überhaupt, so insbesondere von der Logik, bereitwillig zuzugeben sein, daß dieselbe keinen, d. h. nicht einen solchen sinnlich wahrnehmbaren Inhalt hat. Nun aber bleiben auch schon das gewöhnliche Bewußtsein und der allgemeine Sprachgebrauch rücksichtlich dessen, was unter Inhalt verstanden wird, keineswegs bloß bei der sinnlichen Wahrnehmbarkeit noch überhaupt beim bloßen Dasein stehen. Wenn von einem inhaltslosen Buche die Rede ist, so versteht man darunter bekanntlich nicht bloß ein Buch mit leeren Blättern, sondern ein solches, dessen Inhalt so gut wie keiner ist, und wird es sich bei näherer Betrachtung in letzter Analyse ergeben, daß für ein gebildetes Bewußtsein dasjenige, was zunächst als Inhalt bezeichnet wird, keine andere Bedeutung als die der Gedankenmäßigkeit hat. Damit ist dann aber auch zugleich eingeräumt, daß die Gedanken nicht als gegen den Inhalt gleichgültige und an sich leere Formen zu betrachten sind und daß, wie in der Kunst, 8/266 ebenso auch auf allen anderen Gebieten die Wahrheit und Gediegenheit des Inhalts wesentlich darauf beruht, daß derselbe sich als mit der Form identisch erweist.
§ 134
Die unmittelbare Existenz aber ist Bestimmtheit des Bestehens selbst wie der Form; sie ist daher ebenso der Bestimmtheit des Inhalts äußerlich, als diese Äußerlichkeit, die er durch das Moment seines Bestehens hat, ihm wesentlich ist. Die Erscheinung, so gesetzt, ist das Verhältnis, daß ein und dasselbe, der Inhalt, als die entwickelte Form, als die Äußerlichkeit und Entgegensetzung selbständiger Existenzen und deren identische Beziehung ist, in welcher Beziehung die Unterschiedenen allein das sind, was sie sind.

Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / a. Die Welt der Erscheinung
Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / c. Das Verhältnis



Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / b. Inhalt und Form
Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / C. Die Wirklichkeit

c. Das Verhältnis
§ 135
α) Das unmittelbare Verhältnis ist das des Ganzen und der Teile: der Inhalt ist das Ganze und besteht aus den Teilen (der Form), dem Gegenteile seiner. Die Teile sind voneinander verschieden und sind das Selbständige. Sie sind aber nur Teile in ihrer identischen Beziehung aufeinander oder insofern sie zusammengenommen das Ganze ausmachen. Aber das Zusammen ist das Gegenteil und Negation des Teiles.
Zusatz. Das wesentliche Verhältnis ist die bestimmte, ganz allgemeine Weise des Erscheinens. Alles, was existiert, steht im Verhältnis, und dies Verhältnis ist das Wahrhafte jeder Existenz. Das Existierende ist dadurch nicht abstrakt für sich, sondern nur in einem Anderen, aber in diesem Anderen ist es die Beziehung auf sich, und das Verhältnis ist die Einheit der Beziehung auf sich und der Beziehung auf Anderes.
Das Verhältnis des Ganzen und der Teile ist insofern unwahr, als dessen Begriff und Realität einander nicht entsprechen. Der Begriff des Ganzen ist der, Teile zu enthalten; wird dann aber das Ganze als das gesetzt, was es seinem Begriff nach ist, wird es geteilt, so hört es damit auf, ein Ganzes zu sein. Es gibt nun zwar Dinge, welche diesem Verhältnis entsprechen, allein dies sind auch 8/267 eben um deswillen nur niedrige und unwahre Existenzen. Dabei ist überhaupt daran zu erinnern, daß, wenn in einer philosophischen Erörterung von Unwahrem die Rede ist, dies nicht so verstanden werden darf, als ob dergleichen nicht existiere. Ein schlechter Staat oder ein kranker Leib mögen immerhin existieren; diese Gegenstände sind aber unwahr, denn ihr Begriff und ihre Realität entsprechen einander nicht. - Das Verhältnis des Ganzen und der Teile, als das unmittelbare Verhältnis, ist überhaupt ein solches, welches dem reflektierenden Verstand sehr naheliegt und mit welchem sich derselbe um deswillen häufig auch da begnügt, wo es sich in der Tat um tiefere Verhältnisse handelt. So sind z. B. die Glieder und Organe eines lebendigen Leibes nicht bloß als dessen Teile zu betrachten, da dieselben das, was sie sind, nur in ihrer Einheit sind und sich gegen dieselbe keineswegs als gleichgültig verhalten. Zu bloßen Teilen werden diese Glieder und Organe erst unter den Händen des Anatomen, welcher es dann aber auch nicht mehr mit lebenden Körpern, sondern mit Kadavern zu tun hat. Es ist damit nicht gesagt, daß solche Zerlegung überhaupt nicht stattfinden sollte, wohl aber, daß das äußerliche und mechanische Verhältnis des Ganzen und der Teile nicht hinreicht, um das organische Leben in seiner Wahrheit zu erkennen. - In noch viel höherem Grade ist dies der Fall mit der Anwendung dieses Verhältnisses auf den Geist und die Gestaltungen der geistigen Welt. Wenn auch in der Psychologie nicht ausdrücklich von Teilen der Seele oder des Geistes gesprochen wird, so liegt doch der bloß verstandesmäßigen Behandlung dieser Disziplin die Vorstellung jenes endlichen Verhältnisses insofern gleichfalls zugrunde, als die verschiedenen Formen der geistigen Tätigkeit bloß in ihrer Isolierung als sogenannte besondere Kräfte und Vermögen nacheinander aufgezählt und beschrieben werden.
§ 136
β) Das Eine und Dasselbe dieses Verhältnisses, die in ihm vorhandene Beziehung auf sich, ist somit unmittelbar negative Beziehung auf sich, und zwar als die Vermittlung, daß ein und dasselbe gleichgültig gegen den Unterschied, und daß es die negative Beziehung auf sich ist, welche sich selbst als Reflexion-in-sich zum Unterschiede abstößt und sich als Reflexion-in-Anderes existierend setzt und umgekehrt diese Reflexion-in-Anderes zur Beziehung auf sich und zur Gleichgültigkeit zurückführt, - die Kraft und ihre Äußerung. 8/268
Das Verhältnis des Ganzen und der Teile ist das unmittelbare, daher das gedankenlose Verhältnis und Umschlagen der Identität-mit-sich in die Verschiedenheit. Es wird vom Ganzen zu den Teilen und von den Teilen zum Ganzen übergegangen und in einem der Gegensatz gegen das andere vergessen, indem jedes für sich, das eine Mal das Ganze, das andere Mal die Teile, als selbständige Existenz genommen wird. Oder indem die Teile in dem Ganzen und dieses aus jenen bestehen soll, so ist das eine Mal das eine, das andere Mal das andere das Bestehende und ebenso jedesmal das andere desselben das Unwesentliche. Das mechanische Verhältnis besteht in seiner oberflächlichen Form überhaupt darin, daß die Teile als selbständige gegeneinander und gegen das Ganze sind.
Der Progreß ins Unendliche, welcher die Teilbarkeit der Materie betrifft, kann sich auch dieses Verhältnisses bedienen und ist dann die gedankenlose Abwechslung mit den beiden Seiten desselben. Ein Ding wird das eine Mal als ein Ganzes genommen, dann wird zur Teilbestimmung übergegangen; diese Bestimmung wird nun vergessen und, was Teil war, als Ganzes betrachtet; dann tritt wieder die Bestimmung des Teils auf usf. ins Unendliche. Diese Unendlichkeit aber als das Negative, das sie ist, genommen ist die negative Beziehung des Verhältnisses auf sich, die Kraft, das mit sich identische Ganze als Insichsein, - und als dies Insichsein [sich] aufhebend und sich äußernd, und umgekehrt die Äußerung, die verschwindet und in die Kraft zurückgeht.
Die Kraft ist dieser Unendlichkeit ungeachtet auch endlich; denn der Inhalt, das Eine und Dasselbe der Kraft und der Äußerung, ist nur erst an sich diese Identität; die beiden Seiten des Verhältnisses sind noch nicht selbst jede für sich die konkrete Identität desselben, noch nicht die Totalität. Sie sind daher füreinander Verschiedene und das Verhältnis ein endliches. Die Kraft bedarf daher der Sollizitation von außen, wirkt blind, und um dieser Mangelhaftigkeit 8/269 der Form willen ist auch der Inhalt beschränkt und zufällig. Er ist mit der Form noch nicht wahrhaft identisch, ist noch nicht als Begriff und Zweck, der das an und für sich Bestimmte ist. - Dieser Unterschied ist höchst wesentlich, aber nicht leicht aufzufassen, er hat sich erst am Zweckbegriffe selbst näher zu bestimmen. Wird er übersehen, so führt dies in die Verwirrung, Gott als Kraft aufzufassen, eine Verwirrung, an der Herders Gott vornehmlich leidet.34)
Man pflegt zu sagen, daß die Natur der Kraft selbst unbekannt sei und nur ihre Äußerung erkannt werde. Einesteils ist die ganze Inhaltsbestimmung der Kraft ebendieselbe als die der Äußerung; die Erklärung einer Erscheinung aus einer Kraft ist deswegen eine leere Tautologie. Was unbekannt bleiben soll, ist also in der Tat nichts als die leere Form der Reflexion-in-sich, wodurch allein die Kraft von der Äußerung unterschieden ist, - eine Form, die ebenso etwas Wohlbekanntes ist. Diese Form tut zum Inhalte und zum Gesetze, welche nur aus der Erscheinung allein erkannt werden sollen, im geringsten nichts hinzu. Auch wird überall versichert, es solle damit über die Kraft nichts behauptet werden; es ist also nicht abzusehen, warum die Form von Kraft in die Wissenschaften eingeführt worden ist. - Andernteils ist aber die Natur der Kraft allerdings ein Unbekanntes, weil sowohl die Notwendigkeit des Zusammenhangs ihres Inhalts in sich selbst als [auch] desselben, insofern er für sich beschränkt ist und daher seine Bestimmtheit vermittels eines Anderen außer ihm hat, noch mangelt.
Zusatz 1. Das Verhältnis der Kraft und ihrer Äußerung ist im Rückblick auf das unmittelbare Verhältnis des Ganzen und der Teile als unendlich zu betrachten, da in demselben die Identität der beiden Seiten, welche in diesem letzten Verhältnis nur erst an sich vorhanden war, gesetzt ist. Das Ganze, obschon an sich aus 8/270 Teilen bestehend, hört gleichwohl auf, ein Ganzes zu sein, indem es geteilt wird, wohingegen die Kraft erst dadurch daß sie sich äußert, sich als Kraft bewährt und in ihrer Äußerung zu sich selbst zurückkehrt, denn die Äußerung ist selbst wieder Kraft. Ferner ist nun aber auch dies Verhältnis wieder endlich, und die Endlichkeit desselben besteht überhaupt in diesem Vermitteltsein, so wie umgekehrt das Verhältnis des Ganzen und der Teile sich um seiner Unmittelbarkeit willen als endlich erwiesen hat. Die Endlichkeit des vermittelten Verhältnisses der Kraft und ihrer Äußerung zeigt sich zunächst darin, daß eine jede Kraft bedingt ist und zu ihrem Bestehen eines Anderen bedarf, als Sie selbst ist. So hat z. B. die magnetische Kraft bekanntlich ihren Träger vornehmlich am Eisen, dessen sonstige Eigenschaften (Farbe, spezifische Schwere, Verhältnis zu Säuren usw.) von dieser Beziehung zum Magnetismus unabhängig sind. Ebenso verhält es sich mit allen übrigen Kräften, welche sich durchgängig als durch anderes, als sie selbst sind, bedingt und vermittelt erweisen - Die Endlichkeit der Kraft zeigt sich ferner darin, daß dieselbe, um sich zu äußern, der Sollizitation bedarf. Dasjenige, wodurch die Kraft sollizitiert wird, ist selbst wieder Äußerung einer Kraft, welche, um sich zu äußern, gleichfalls sollizitiert werden muß. Wir erhalten auf diese Weise entweder wieder den unendlichen Progreß oder die Gegenseitigkeit des Sollizitierens und des Sollizitiertwerdens, wobei es dann aber immer noch an einem absoluten Anfang der Bewegung fehlt. Die Kraft ist noch nicht wie der Zweck das sich in sich selbst Bestimmende, der Inhalt ist ein bestimmt gegebener, und indem dieselbe sich äußert, so ist sie, wie man zu sagen pflegt, in ihrer Wirkung blind, worunter dann eben der Unterschied zwischen der abstrakten Kraftäußerung und der zweckmäßigen Tätigkeit zu verstehen ist.
Zusatz 2. Obschon die so oft wiederholte Behauptung, daß nur die Äußerung der Kräfte, nicht aber diese selbst zu erkennen seien, um deswillen als unbegründet von der Hand gewiesen werden muß, weil die Kraft eben nur dies ist, sich zu äußern, und wir somit in der als Gesetz aufgefaßten Totalität der Äußerung zugleich die Kraft selbst erkennen, so ist dabei doch nicht zu übersehen, daß in dieser Behauptung von der Unerkennbarkeit des Ansich der Kräfte eine richtige Ahnung der Endlichkeit dieses Verhältnisses enthalten ist. Die einzelnen Äußerungen einer Kraft treten uns zunächst in unbestimmter Mannigfaltigkeit und in ihrer Vereinzelung als zufällig entgegen, wir reduzieren dann dieses Mannigfaltige auf seine innere Einheit, welche wir als Kraft bezeichnen, und werden uns des scheinbar Zufälligen, indem wir 8/271 das darin herrschende Gesetz erkennen, als eines Notwendigen bewußt. Nun aber sind die verschiedenen Kräfte selbst wieder ein Mannigfaltiges und erscheinen in ihrem bloßen Nebeneinander als zufällig. Man spricht demgemäß in der empirischen Physik von Kräften der Schwere, des Magnetismus, der Elektrizität usw., und ebenso in der empirischen Psychologie von Erinnerungskraft, von Einbildungskraft, von Willenskraft und allerhand sonstigen Seelenkräften. Hierbei rekurriert dann das Bedürfnis, sich dieser verschiedenen Kräfte gleichfalls als eines einheitlichen Ganzen bewußt zu werden, und dieses Bedürfnis würde seine Befriedigung dadurch nicht erhalten, daß man die verschiedenen Kräfte etwa auf eine denselben gemeinsame Urkraft reduzierte. Wir hätten an solcher Urkraft in der Tat nur eine leere Abstraktion, ebenso inhaltslos als das abstrakte Ding an sich. Dazu kommt, daß das Verhältnis der Kraft und ihrer Äußerung wesentlich das vermittelte Verhältnis ist und daß es somit dem Begriff der Kraft widerspricht, wenn dieselbe als ursprünglich oder auf sich beruhend aufgefaßt wird. - Wir lassen es uns bei dieser Bewandtnis, die es mit der Natur der Kraft hat, zwar gefallen, wenn gesagt wird, die existierende Welt sei eine Äußerung göttlicher Kräfte, allein wir werden Anstand nehmen, Gott selbst als bloße Kraft zu betrachten, weil die Kraft noch eine untergeordnete und endliche Bestimmung ist. In diesem Sinn hat dann auch die Kirche, als man beim sogenannten Wiedererwachen der Wissenschaften sich daran begab, die einzelnen Erscheinungen der Natur auf denselben zugrunde liegende Kräfte zurückzuführen, dies Unternehmen um deswillen für gottlos erklärt, weil, wenn es die Kräfte der Gravitation, der Vegetation usw. seien, welche die Bewegung der Himmelskörper, das Wachstum der Pflanzen usw. veranlassen, für die göttliche Weltregierung nichts zu tun übrig bleibe und Gott somit zu einem müßigen Zuschauer bei solchem Spiel der Kräfte herabgesetzt werde. Nun haben zwar die Naturforscher und namentlich Newton, indem sie sich der Reflexionsform der Kraft zur Erklärung der Naturerscheinungen bedient, zunächst ausdrücklich befürwortet, daß damit der Ehre Gottes, als des Erschaffers und Regierers der Welt, kein Abbruch geschehen solle; es liegt indes in der Konsequenz dieses Erklärens aus Kräften, daß der räsonierende Verstand dazu fortschreitet, die einzelnen Kräfte eine jede für sich zu fixieren und dieselben in dieser Endlichkeit als ein Letztes festzuhalten, welcher verendlichten Welt selbständiger Kräfte und Stoffe gegenüber zur Bestimmung Gottes 8/272 nur die abstrakte Unendlichkeit eines nicht erkennbaren, höchsten jenseitigen Wesens übrigbleibt. Dies ist dann der Standpunkt des Materialismus und der modernen Aufklärung, deren Wissen von Gott, unter Verzichtleistung auf das Was, sich auf das bloße Daß seines Seins reduziert. Ob nun schon der Kirche und dem religiösen Bewußtsein bei der hier erwähnten Polemik insofern recht zu geben ist, als die endlichen Verstandesformen allerdings nicht genügen, weder um die Natur noch um die Gestaltungen der geistigen Welt in ihrer Wahrheit zu erkennen, so ist doch auch andererseits die formelle Berechtigung zunächst der empirischen Wissenschaft nicht zu übersehen, welche Berechtigung überhaupt darin besteht, die vorhandene Welt in der Bestimmtheit ihres Inhalts der denkenden Erkenntnis zu vindizieren und es nicht bloß bei dem abstrakten Glauben an das Erschaffensein und Regiertwerden der Welt durch Gott bewenden zu lassen. Wenn unser auf die Autorität der Kirche gestütztes religiöses Bewußtsein uns darüber belehrt, daß Gott es ist, welcher durch seinen allmächtigen Willen die Welt erschaffen hat, und daß er es ist, der die Gestirne in ihren Bahnen lenkt und aller Kreatur ihr Bestehen und Gedeihen verleiht, so bleibt dabei doch auch das Warum zu beantworten, und die Beantwortung dieser Frage ist es überhaupt, welche die gemeinschaftliche Aufgabe der Wissenschaft, sowohl der empirischen als auch der philosophischen, bildet. Indem das religiöse Bewußtsein, diese Aufgabe und das darin enthaltene Recht nicht anerkennend, sich auf die Unerforschlichkeit der göttlichen Ratschlüsse beruft, so tritt dieselbe damit selbst auf den vorher erwähnten Standpunkt der bloßen Verstandesaufklärung und ist solche Berufung nur als eine mit dem ausdrücklichen Gebot der christlichen Religion, Gott im Geist und in der Wahrheit zu erkennen, im Widerspruch stehende, beliebige Versicherung einer keineswegs christlichen, sondern hoffärtig fanatischen Demut zu betrachten.
§ 137
Die Kraft ist als das Ganze, welches an sich selbst die negative Beziehung auf sich ist, dies, sich von sich abzustoßen und sich zu äußern. Aber da diese Reflexion-in-Anderes, der Unterschied der Teile, ebensosehr Reflexion-in-sich ist, so ist die Äußerung die Vermittlung, wodurch die Kraft, die in sich zurückkehrt, als Kraft ist. Ihre Äußerung ist selbst das Aufheben der Verschiedenheit der beiden Seiten, welche in diesem Verhältnisse vorhanden ist, und das Setzen der 8/273 Identität, die an sich den Inhalt ausmacht. Ihre Wahrheit ist darum das Verhältnis, dessen beide Seiten nur als Inneres und Äußeres unterschieden sind.
§ 138
γ) Das Innere ist der Grund, wie er als die bloße Form der einen Seite der Erscheinung und des Verhältnisses ist, die leere Form der Reflexion-in-sich, welcher die Existenz gleichfalls als die Form der andern Seite des Verhältnisses mit der leeren Bestimmung der Reflexion-in-Anderes als Äußeres gegenübersteht. Ihre Identität ist die erfüllte, der Inhalt, die in der Bewegung der Kraft gesetzte Einheit der Reflexion-in-sich und der Reflexion-in-Anderes; beide sind dieselbe eine Totalität, und diese Einheit macht sie zum Inhalt.
§ 139
Das Äußere ist daher fürs erste derselbe Inhalt als das Innere. Was innerlich ist, ist auch äußerlich vorhanden und umgekehrt; die Erscheinung zeigt nichts, was nicht im Wesen ist, und im Wesen ist nichts, was nicht manifestiert ist.
§ 140
Zweitens. Inneres und Äußeres sind aber auch als Formbestimmungen sich, und zwar schlechthin, entgegengesetzt als die Abstraktionen von Identität mit sich und von bloßer Mannigfaltigkeit oder Realität. Indem sie aber als Momente der einen Form wesentlich identisch sind, so ist das, was nur erst in der einen Abstraktion gesetzt ist, unmittelbar auch nur in der anderen. Was daher nur ein Innerliches ist, ist auch damit nur ein Äußerliches, und was nur ein Äußerliches ist, ist auch nur erst ein Innerliches.
Es ist der gewöhnliche Irrtum der Reflexion, das Wesen als das bloß Innere zu nehmen. Wenn es bloß so genommen wird, so ist auch diese Betrachtung eine ganz äußerliche und jenes Wesen die leere äußerliche Abstraktion.
Ins Innre der Natur - sagt ein Dichter - 8/274
dringt kein erschaffner Geist,
Zu glücklich, wenn er nur die äußre Schale weißt.35)
Es hätte vielmehr heißen müssen, eben dann, wenn ihm das Wesen der Natur als Inneres bestimmt ist, weiß er nur die äußere Schale.36) - Weil im Sein überhaupt oder auch im nur sinnlichen Wahrnehmen der Begriff nur erst das Innere, ist er ein demselben Äußeres - ein subjektives, wahrheitsloses Sein wie Denken. - An der Natur, so wie am Geiste, insofern der Begriff, Zweck, Gesetz nur erst innere Anlagen, reine Möglichkeiten sind, sind sie nur erst eine äußerliche unorganische Natur, Wissenschaft eines Dritten, fremde Gewalt usf. - Der Mensch, wie er äußerlich, d. i. in seinen Handlungen (freilich nicht in seiner nur leiblichen Äußerlichkeit) [ist], ist er innerlich; und wenn er nur innerlich, d. i. nur in Absichten, Gesinnungen tugendhaft, moralisch usf. und sein Äußeres damit nicht identisch ist, so ist eins so hohl und leer als das andere.
Zusatz. Das Verhältnis des Inneren und des Äußeren ist, als die Einheit der beiden vorangehenden Verhältnisse, zugleich die Aufhebung der bloßen Relativität und der Erscheinung überhaupt. Indem nun aber gleichwohl der Verstand das Innere und das Äußere in ihrer Trennung festhält, so sind dies ein Paar leere Formen, die eine so nichtig als die andere. - Es ist sowohl bei Betrachtung der Natur als auch der geistigen Welt von großer Wichtigkeit, die Bewandtnis, welche es mit dem Verhältnis des Inneren und des Äußeren hat, gehörig ins Auge zu fassen und sich vor dem Irrtum zu hüten, daß nur jenes das Wesentliche sei, worauf es eigentlich ankommt, dieses dagegen das Unwesentliche 8/275 und Gleichgültige. Dieser Irrtum begegnet uns zunächst, wenn, wie dies häufig geschieht, der Unterschied zwischen der Natur und dem Geiste auf den abstrakten Unterschied des Äußeren und des Inneren zurückgeführt wird. Was hierbei die Auffassung der Natur anbetrifft, so ist dieselbe zwar allerdings nicht nur das für den Geist, sondern auch an sich Äußerliche überhaupt. Dieses überhaupt ist jedoch nicht in dem Sinne der abstrakten Äußerlichkeit zu nehmen, denn eine solche gibt es gar nicht, sondern vielmehr so, daß die Idee, welche den gemeinschaftlichen Inhalt der Natur und des Geistes bildet, in der Natur als nur äußerlich, aber eben um deswillen auch zugleich als nur innerlich vorhanden ist. Wie sehr nun auch der abstrakte Verstand mit seinem Entweder-Oder sich gegen diese Auffassung der Natur sträuben mag, so findet sich dieselbe doch gleichwohl auch in unserem sonstigen und am bestimmtesten in unserem religiösen Bewußtsein. Diesem zufolge ist die Natur nicht minder als die geistige Welt eine Offenbarung Gottes und unterscheiden sich beide dadurch voneinander, daß, während die Natur es nicht dazu bringt, sich ihres göttlichen Wesens bewußt zu werden, dies die ausdrückliche Aufgabe des (hiermit zunächst endlichen) Geistes ist. Diejenigen, welche das Wesen der Natur als ein bloß Inneres und deshalb für uns Unzugängliches betrachten, treten damit auf den Standpunkt jener Alten, welche Gott als neidisch betrachteten, wogegen sich dann aber schon Platon und Aristoteles erklärt haben. Was Gott ist, das teilt er mit, das offenbart er, und zwar zunächst durch die Natur und in derselben. - Weiter besteht nun überhaupt der Mangel oder die Unvollkommenheit eines Gegenstandes darin, nur ein Innerliches und damit zugleich nur ein Äußerliches oder, was dasselbe ist, nur ein Äußerliches und damit nur ein Innerliches zu sein. So ist z. B. das Kind, als Mensch überhaupt, zwar ein vernünftiges Wesen, allein die Vernunft des Kindes als solchen ist zunächst nur als ein Innerliches, d. h. als Anlage, Beruf usw. vorhanden und dieses nur Innerliche hat zugleich für das Kind, als der Wille seiner Eltern, die Kenntnis seiner Lehrer, überhaupt als die dasselbe umgebende vernünftige Welt, die Form eines nur Äußerlichen. Die Erziehung und Bildung des Kindes besteht dann darin, daß es das, was es zunächst nur an sich und damit für andere (die Erwachsenen) ist, auch für sich wird. Die im Kinde nur erst als innere Möglichkeit vorhandene Vernunft wird durch die Erziehung verwirklicht, und ebenso umgekehrt wird dasselbe der zunächst als äußere Autorität betrachteten Sittlichkeit, Religion und Wissenschaft sich als seines Eigenen und Inneren bewußt. - Wie mit dem Kinde, so verhält es sich in dieser Beziehung auch mit dem erwachsenen Menschen, insofern derselbe, seiner Bestimmung 8/276 zuwider, in der Natürlichkeit seines Wissens und Wollens befangen bleibt; so hat z. B. für den Verbrecher die Strafe, der er unterworfen wird, zwar die Form einer äußeren Gewalt, in der Tat aber ist dieselbe nur die Manifestation seines eigenen verbrecherischen Willens. - Aus der bisherigen Erörterung ist dann auch zu entnehmen, was davon zu halten ist, wenn jemand seinen dürftigen Leistungen, ja verwerflichen Taten gegenüber sich auf die davon zu unterscheidende Innerlichkeit seiner angeblich vortrefflichen Absichten und Gesinnungen beruft. Es mag immerhin im einzelnen der Fall sein, daß durch die Ungunst äußerer Umstände wohlgemeinte Absichten vereitelt, daß zweckmäßige Pläne in der Ausführung verkümmert werden; im allgemeinen gilt jedoch auch hier die wesentliche Einheit des Inneren und des Äußeren dergestalt, daß gesagt werden muß: was der Mensch tut, das ist er, und der lügnerischen Eitelkeit, welche sich an dem Bewußtsein innerlicher Vortrefflichkeit wärmt, ist jener Spruch des Evangeliums entgegenzuhalten: "An ihren Früchten sollt ihr sie erkennen"37) . Dies große Wort gilt, wie zunächst in sittlicher und religiöser Hinsicht, so auch weiter in Beziehung auf wissenschaftliche und künstlerische Leistungen. Was hierbei die letzteren anbetrifft, so mag etwa ein scharfblickender Lehrer, indem er an einem Knaben entschiedene Anlagen gewahr wird, die Meinung äußern, daß in demselben ein Raffael oder ein Mozart stecke, und der Erfolg wird dann lehren, inwieweit solche Meinung begründet war. Wenn dann aber ein stümperhafter Maler und ein schlechter Poet sich damit trösteten, daß ihr Inneres voll hoher Ideale sei, so ist solches ein schlechter Trost, und wenn sie die Forderung machen, man solle sie nicht nach ihren Leistungen beurteilen, sondern nach ihren Intentionen, so wird solche Prätention mit Recht als leer und unbegründet von der Hand gewiesen. Umgekehrt ist es dann auch häufig der Fall, daß man bei Beurteilung anderer, die Rechtes und Tüchtiges zustande gebracht, sich des unwahren Unterschiedes vom Inneren und Äußeren dazu bedient um zu behaupten, solches sei nur ihr Äußeres, innerlich aber sei es ihnen um etwas ganz anderes, um die Befriedigung ihrer Eitelkeit oder sonstiger verwerflicher Leidenschaften zu tun gewesen. Dies ist die Gesinnung des Neides, welcher, unfähig, selbst Großes zu vollbringen, das Große zu sich herabzuziehen und zu verkleinern bestrebt ist. Dagegen ist an den schönen Ausspruch Goethes zu erinnern, daß es gegen große Vorzüge anderer kein anderes Rettungsmittel gibt als die Liebe. Wenn dann weiter bei löblichen Leistungen anderer, um dieselben zu verkümmern, von Heuchelei 8/277 gesprochen wird, so ist dawider zu bemerken, daß der Mensch sich zwar im einzelnen verstellen und manches verbergen kann, nicht aber sein Inneres überhaupt, welches im decursus vitae unfehlbar sich kundgibt, dergestalt daß auch in dieser Beziehung gesagt werden muß, daß der Mensch nichts anderes ist als die Reihe seiner Taten. Es ist insbesondere die sogenannte pragmatische Geschichtsschreibung, welche sich durch diese wahrheitswidrige Trennung des Inneren vom Äußeren in der neueren Zeit vielfältig an großen historischen Charakteren versündigt und deren reine Auffassung getrübt und entstellt hat. Anstatt sich damit zu begnügen, die großen Taten, welche durch die weltgeschichtlichen Heroen vollbracht worden sind, einfach zu erzählen und ihr Inneres als dem Inhalt dieser Taten entsprechend anzuerkennen, hat man sich für berechtigt und verpflichtet erachtet, hinter dem, was offen zutage liegt, angeblich geheime Motive auszuspüren, und dann gemeint, die Geschichtsforschung sei um so profunder, je mehr es ihr gelinge, das bisher Gefeierte und Gepriesene seines Nimbus zu entkleiden und dasselbe hinsichtlich seines Ursprungs und seiner eigentlichen Bedeutung auf das Niveau gemeiner Mittelmäßigkeit herabzusetzen. Zum Behuf solcher pragmatischen Geschichtsforschung ist dann häufig auch das Studium der Psychologie empfohlen worden, weil man durch diese Auskunft darüber erhalte, welches die eigentlichen Triebfedern seien, wodurch überhaupt die Menschen zu handeln bestimmt werden. Die Psychologie, an welche hier verwiesen wird, ist indes nichts anderes als jene kleinliche Menschenkennerei, welche anstatt des Allgemeinen und Wesentlichen der menschlichen Natur vornehmlich nur das Partikuläre und Zufällige vereinzelter Triebe, Leidenschaften usw. zum Gegenstand ihrer Betrachtung macht. Während übrigens bei diesem psychologisch-pragmatischen Verfahren in Beziehung auf die großen Taten zugrunde liegenden Motive für den Historiker doch zunächst die Wahl bleiben würde zwischen den substantiellen Interessen des Vaterlandes, der Gerechtigkeit, der religiösen Wahrheit usw. einerseits und den subjektiven und formellen Interessen der Eitelkeit, Herrschsucht, Habsucht usw. andererseits, so werden die letzteren als das eigentlich Bewegende um deswillen betrachtet, weil ja sonst die Voraussetzung des Gegensatzes zwischen dem Inneren (der Gesinnung der Handelnden) und dem Äußeren (dem Inhalt der Handlung) die Bestätigung nicht erhalten würde. Da nun aber der Wahrheit nach das Innere und das Äußere denselben Inhalt haben, so muß dann auch jener schulmeisterlichen Gescheitheit gegenüber ausdrücklich behauptet werden, daß, wenn es den geschichtlichen Heroen bloß um subjektive und formelle Interessen zu tun gewesen wäre, sie das nicht vollbracht 8/278 haben würden, was sie vollbracht haben, und ist im Hinblick auf die Einheit des Inneren und des Äußeren anzuerkennen, daß die großen Männer das gewollt, was sie getan, und das getan, was sie gewollt haben.
§ 141
Die leeren Abstraktionen, durch welche der eine identische Inhalt noch im Verhältnisse sein soll, heben sich in dem unmittelbaren Übergehen, die eine in der anderen, auf; der Inhalt ist selbst nichts anderes als deren Identität (§ 138), sie sind der als Schein gesetzte Schein des Wesens. Durch die Äußerung der Kraft wird das Innere in Existenz gesetzt; dies Setzen ist das Vermitteln durch leere Abstraktionen; es verschwindet in sich selbst zur Unmittelbarkeit, in der das Innere und Äußere an und für sich identisch und deren Unterschied als nur Gesetztsein bestimmt ist. Diese Identität ist die Wirklichkeit.
34) vgl. u. a. Gott. Einige Gespräche, Gotha 1787
35) *vgl. Goethes unwilligen Ausruf, Zur Naturwissenschaft [Zur Morphologie] I. Bd., 3. Heft [1820; S. 304]:

Das hör ich sechzig Jahre wiederholen,
Und fluche drauf, aber verstohlen, ...
Natur hat weder Kern noch Schale,
Alles ist sie mit einemmale, usw.
36) vgl. Albrecht von Haller, "Die Falschheit der menschlichen Tugenden" (in: Versuch schweizerischer Gedichte, Bern 1732), V. 289 f.: "Ins Innere der Natur dringt kein erschaffner Geist, / Zu glücklich, wenn sie noch die äußre Schale weist!" Der Kontext zeigt, daß Hegel "Weißt" (= weiß) meint und nicht "weist" wie im Hallerschen Gedicht, wo das Subjekt die Natur ist.
37) Matth. 7, 16

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Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / c. Das Verhältnis
Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / a. Substantialitätsverhältnis

C. Die Wirklichkeit
§ 142
Die Wirklichkeit ist die unmittelbar gewordene Einheit des Wesens und der Existenz oder des Inneren und des Äußeren. Die Äußerung des Wirklichen ist das Wirkliche selbst, so daß es in ihr ebenso Wesentliches bleibt und nur insofern Wesentliches ist, als es in unmittelbarer äußerlicher Existenz ist.
Früher sind als Formen des Unmittelbaren Sein und Existenz vorgekommen; das Sein ist überhaupt unreflektierte Unmittelbarkeit und Übergehen in Anderes. Die Existenz ist unmittelbare Einheit des Seins und der Reflexion, daher Erscheinung, kommt aus dem Grunde und geht zu Grunde. Das Wirkliche ist das Gesetztsein jener Einheit, das mit sich identisch gewordene Verhältnis; es ist daher dem Übergehen entnommen, und seine Äußerlichkeit ist seine Energie; es ist in ihr in sich reflektiert; 8/279 sein Dasein ist nur die Manifestation seiner selbst, nicht eines Anderen.
Zusatz. Die Wirklichkeit und der Gedanke, näher die Idee, pflegen trivialerweise einander entgegengesetzt zu werden, und man kann demgemäß häufig sagen hören, gegen die Richtigkeit und Wahrheit eines gewissen Gedankens sei zwar nichts einzuwenden, allein dergleichen finde sich nicht in der Wirklichkeit oder sei in der Wirklichkeit nicht auszuführen. Diejenigen, welche so sprechen, beweisen indes dadurch, daß sie weder die Natur des Gedankens, noch die der Wirklichkeit gehörig aufgefaßt haben. Einerseits nämlich wird bei solchen Reden der Gedanke als gleichbedeutend mit subjektiver Vorstellung, Plan, Absicht und dergleichen und andererseits die Wirklichkeit als gleichbedeutend mit der äußerlichen, sinnlichen Existenz angenommen. Im gemeinen Leben, wo man es mit den Kategorien und deren Bezeichnung eben nicht so genau nimmt, mag dergleichen hingehen und mag es immerhin der Fall sein, daß z. B. der Plan oder die sogenannte Idee einer gewissen Steuereinrichtung an sich ganz gut und zweckmäßig ist, daß dergleichen aber in der gleichfalls sogenannten Wirklichkeit sich nicht findet und unter den gegebenen Verhältnissen nicht durchzuführen ist. Wenn indes der abstrakte Verstand sich dieser Bestimmungen bemächtigt und ihren Unterschied dahin steigert, dieselben als einen fixen und festen Gegensatz zu betrachten, dergestalt, daß man in dieser wirklichen Welt sich die Ideen aus dem Kopfe schlagen müsse, so ist dergleichen im Namen der Wissenschaft und der gesunden Vernunft auf das entschiedenste von der Hand zu weisen. Einerseits nämlich stecken die Ideen gar nicht bloß in unseren Köpfen und ist die Idee überhaupt nicht etwas so Ohnmächtiges, dessen Realisierung nach unserem Belieben erst zu bewerkstelligen oder auch nicht zu bewerkstelligen wäre, sondern dieselbe ist vielmehr das schlechthin Wirkende zugleich und auch Wirkliche, und andererseits ist die Wirklichkeit nicht so schlecht und unvernünftig, wie gedankenlose oder mit dem Denken zerfallene und heruntergekommene Praktiker sich einbilden. Die Wirklichkeit, im Unterschied von der bloßen Erscheinung, zunächst als Einheit des Inneren und des Äußeren, steht so wenig der Vernunft als ein Anderes gegenüber, daß dieselbe vielmehr das durchaus Vernünftige ist, und was nicht vernünftig ist, das ist eben um deswillen auch nicht als wirklich zu betrachten. Dem entspricht übrigens auch der gebildete Sprachgebrauch insofern, als man z. B. Anstand nehmen wird, einen Dichter oder einen Staatsmann, die nichts Tüchtiges und Vernünftiges zustande zu bringen wissen, als einen wirklichen Dichter 8/280 oder einen wirklichen Staatsmann anzuerkennen. - In der hier besprochenen gemeinen Auffassung der Wirklichkeit und der Verwechslung derselben mit dem Handgreiflichen und unmittelbar Wahrnehmbaren ist dann auch der Grund jenes weitverbreiteten Vorurteils hinsichtlich des Verhältnisses der Aristotelischen zur Platonischen Philosophie zu suchen. Diesem Vorurteil zufolge soll der Unterschied zwischen Platon und Aristoteles darin bestehen, daß, während der erstere die Idee und nur die Idee als das Wahre anerkenne, der letztere dagegen mit Verwerfung der Idee sich an das Wirkliche halte und um deswillen als der Begründer und Heerführer des Empirismus zu betrachten sei. Darüber ist zu bemerken, daß allerdings die Wirklichkeit das Prinzip der Aristotelischen Philosophie bildet, jedoch nicht die gemeine Wirklichkeit des unmittelbar Vorhandenen, sondern die Idee als Wirklichkeit. Die Polemik des Aristoteles gegen Platon besteht dann näher darin, daß die Platonische Idee als bloße δύναμις bezeichnet und dagegen geltend gemacht wird, daß die Idee, welche von beiden gleicherweise als das allein Wahre anerkannt wird, wesentlich als ἐνέϱγεια, d. h. als das Innere, welches schlechthin heraus ist, somit als die Einheit des Inneren und Äußeren oder als die Wirklichkeit in dem hier besprochenen emphatischen Sinne des Wortes zu betrachten sei.
§ 143
Die Wirklichkeit, als dies Konkrete, enthält jene Bestimmungen und deren Unterschied, ist darum auch die Entwicklung derselben, so daß sie an ihr zugleich als Schein, als nur Gesetzte bestimmt sind (§ 141). α) Als Identität überhaupt ist sie zunächst die Möglichkeit; - die Reflexion-in-sich, welche als der konkreten Einheit des Wirklichen gegenüber, als die abstrakte und unwesentliche Wesentlichkeit gesetzt ist. Die Möglichkeit ist das Wesentliche zur Wirklichkeit, aber so, daß sie zugleich nur Möglichkeit sei.
Die Bestimmung der Möglichkeit ist es wohl, welche Kant vermochte, sie und mit ihr die Wirklichkeit und Notwendigkeit als Modalitäten anzusehen, 'indem diese Bestimmungen den Begriff als Objekt nicht im mindesten vermehrten, sondern nur das Verhältnis zum Erkenntnisvermögen ausdrücken'.38) In der Tat ist die Möglichkeit die 8/281 leere Abstraktion der Reflexion-in-sich, das, was vorhin das Innere hieß, nur daß es nun als das aufgehobene, nur gesetzte, äußerliche Innere bestimmt und so allerdings als eine bloße Modalität, als unzureichende Abstraktion, konkreter genommen nur dem subjektiven Denken angehörig, auch gesetzt ist. Wirklichkeit und Notwendigkeit dagegen sind wahrhaft weniger als eine bloße Art und Weise für ein Anderes, vielmehr gerade das Gegenteil, sie sind gesetzt als das nicht nur gesetzte, sondern in sich vollendete Konkrete. - Weil die Möglichkeit zunächst gegen das Konkrete als Wirkliches die bloße Form der Identität-mit-sich ist, so ist die Regel für dieselbe nur, daß etwas sich in sich nicht widerspreche, und so ist alles möglich; denn allem Inhalte kann diese Form der Identität durch die Abstraktion gegeben werden. Aber alles ist ebensosehr unmöglich, denn in allem Inhalte, da er ein Konkretes ist, kann die Bestimmtheit als bestimmter Gegensatz und damit als Widerspruch gefaßt werden. - Es gibt daher kein leereres Reden als das von solcher Möglichkeit und Unmöglichkeit. Insbesondere muß in der Philosophie von dem Aufzeigen, daß etwas möglich oder daß auch noch etwas anderes möglich und daß etwas, wie man es auch ausdrückt, denkbar sei, nicht die Rede sein. Der Geschichtsschreiber ist ebenso unmittelbar daran gewiesen, diese für sich auch schon als unwahr erklärte Kategorie nicht zu gebrauchen; aber der Sinn des leeren Verstandes gefällt sich am meisten in dem hohlen Ersinnen von Möglichkeiten und recht vielen Möglichkeiten.
Zusatz. Die Möglichkeit erscheint der Vorstellung zunächst als die reichere und umfassendere und die Wirklichkeit dagegen als die ärmere und beschränktere Bestimmung. Man sagt demgemäß: alles ist möglich; aber nicht alles, was möglich ist, ist deshalb auch wirklich. In der Tat, d. h. dem Gedanken nach, ist indes die Wirklichkeit das Umfassendere, da dieselbe als der konkrete Gedanke die Möglichkeit als ein abstraktes Moment in sich enthält. Dies findet sich dann auch insofern in unserem gewöhnlichen Bewußtsein, als wir, wenn von dem Möglichen im Unterschied 8/282 vom Wirklichen gesprochen wird, dasselbe als ein nur Mögliches bezeichnen. - Von der Möglichkeit pflegt überhaupt gesagt zu werden, daß dieselbe in der Denkbarkeit bestehe. Unter dem Denken aber wird hier nur das Auffassen eines Inhaltes in der Form der abstrakten Identität verstanden. Da nun aller Inhalt in diese Form gebracht werden kann und dazu nur gehört, daß derselbe von den Beziehungen, worin derselbe steht, getrennt wird, so kann auch das Absurdeste und Widersinnigste als möglich betrachtet werden. Es ist möglich, daß heute abend der Mond auf die Erde fällt, denn der Mond ist ein von der Erde getrennter Körper und kann deshalb so gut herunterfallen wie ein Stein, der in die Luft geschleudert worden; - es ist möglich, daß der türkische Kaiser Papst wird, denn er ist ein Mensch, kann als solcher sich zum Christentum bekehren, katholischer Priester werden usw. Bei diesem Reden von Möglichkeiten ist es dann vornehmlich das Denkgesetz vom Grunde, welches in der früher besprochenen Weise gehandhabt wird, und es heißt hiernach, möglich sei dasjenige, wofür sich ein Grund angeben lasse. Je ungebildeter jemanden ist, je weniger er die bestimmten Beziehungen der Gegenstände kennt, worauf er seine Betrachtung richtet, um so geneigter pflegt er zu sein, sich in allerhand leeren Möglichkeiten zu ergehen, wie dies z. B. auf dem politischen Gebiet mit den sogenannten Kannengießern der Fall ist. Weiter geschieht es dann in praktischer Beziehung auch nicht selten, daß der üble Wille und die Trägheit sich hinter die Kategorie der Möglichkeit verstecken, um sich damit bestimmten Obliegenheiten zu entziehen, und es gilt in dieser Hinsicht dasselbe, was früher über den Gebrauch des Denkgesetzes vom Grunde bemerkt wurde. Vernünftige, praktische Menschen lassen sich durch das Mögliche, eben weil es nur möglich ist, nicht imponieren, sondern halten sich an das Wirkliche, worunter dann aber freilich nicht bloß das unmittelbar Daseiende zu verstehen ist. Im gemeinen Leben fehlt es übrigens nicht an allerhand Sprichwörtern, durch welche die gerechte Geringschätzung der abstrakten Möglichkeit ausgedrückt wird. So sagt man z. B.: Ein Sperling in der Hand ist besser als zehn Sperlinge auf dem Dache. - Ferner ist nun aber auch mit demselben Recht, mit welchem alles als möglich betrachtet wird, alles als unmöglich zu betrachten, und zwar insofern, als ein jeder Inhalt, welcher als solcher immer ein Konkretes ist, nicht nur verschiedene, sondern auch entgegengesetzte Bestimmungen in sich enthält. So ist z. B. nichts unmöglicher als dies, daß ich bin, denn Ich ist zugleich einfache Beziehung auf sich und schlechthin Beziehung auf Anderes. Ebenso verhält es sich mit allem sonstigen Inhalt der natürlichen und der geistigen Welt. Man kann sagen: die Materie ist 8/283 unmöglich, denn dieselbe ist die Einheit von Repulsion und Attraktion. Dasselbe gilt vom Leben, vom Recht, von der Freiheit und vor allem von Gott selbst als dem wahren, d. h. dem dreieinigen Gott, welcher Begriff dann auch von der abstrakten Verstandesaufklärung ihrem Prinzip nach als angeblich dem Denken widersprechend verworfen worden ist. Es ist überhaupt der leere Verstand, welcher sich in diesen leeren Formen herumtreibt, und das Geschäft der Philosophie in Beziehung auf dieselben besteht nur darin, die Nichtigkeit und Inhaltlosigkeit derselben aufzuzeigen. Ob dieses möglich oder unmöglich ist, das kommt auf den Inhalt an, d. h. auf die Totalität der Momente der Wirklichkeit, welche sich in ihrer Entfaltung als die Notwendigkeit erweist.
§ 144
β) Das Wirkliche aber in seinem Unterschiede von der Möglichkeit als der Reflexion-in-sich ist selbst nur das äußerliche Konkrete, das unwesentliche Unmittelbare. Oder unmittelbar, insofern es zunächst (§ 142) als die einfache, selbst unmittelbare Einheit des Inneren und Äußeren ist, ist es als unwesentliches Äußeres und ist so zugleich (§ 140) das nur Innerliche, die Abstraktion der Reflexion-in-sich; es selbst ist somit als ein nur Mögliches bestimmt. In diesem Werte einer bloßen Möglichkeit ist das Wirkliche ein Zufälliges, und umgekehrt ist die Möglichkeit der bloße Zufall selbst.
§ 145
Möglichkeit und Zufälligkeit sind die Momente der Wirklichkeit, Inneres und Äußeres, als bloße Formen gesetzt, welche die Äußerlichkeit des Wirklichen ausmachen. Sie haben an dem in sich bestimmten Wirklichen, dem Inhalte, als ihrem wesentlichen Bestimmungsgrunde ihre Reflexion-in-sich. Die Endlichkeit des Zufälligen und Möglichen besteht daher näher in dem Unterschiedensein der Formbestimmung von dem Inhalte, und ob etwas zufällig und möglich ist, kommt daher auf den Inhalt an.
Zusatz. Die Möglichkeit, als das nur Innere der Wirklichkeit, ist eben damit auch die nur äußere Wirklichkeit oder die Zufälligkeit. Das Zufällige ist überhaupt ein solches, welches den Grund seines 8/284 Seins nicht in sich selbst, sondern in anderem hat. Dies ist die Gestalt, in welcher die Wirklichkeit sich dem Bewußtsein zunächst darbietet und welche häufig mit der Wirklichkeit selbst verwechselt wird. Das Zufällige ist indes nur das Wirkliche in der einseitigen Form der Reflexion-in-Anderes oder das Wirkliche in der Bedeutung eines bloß Möglichen. Wir betrachten demgemäß das Zufällige als ein solches, welches sein oder auch nicht sein, welches so oder auch anders sein kann und dessen Sein oder Nichtsein, dessen So- oder Anderssein nicht in ihm selbst, sondern in Anderem begründet ist. Dies Zufällige zu überwinden ist nun überhaupt ebenso einerseits die Aufgabe des Erkennens, als es auch andererseits auf dem Gebiete des Praktischen darum zu tun ist, nicht bei der Zufälligkeit des Wollens oder der Willkür stehenzubleiben. Gleichwohl ist es, zumal in der neueren Zeit, vielfältig geschehen, daß man die Zufälligkeit zur Ungebühr erhoben und derselben sowohl in Beziehung auf die Natur als auch auf die geistige Welt einen Wert beigelegt hat, der ihr in der Tat nicht zukommt. Was hierbei zunächst die Natur anbetrifft, so pflegt dieselbe nicht selten hauptsächlich nur um des Reichtums und der Mannigfaltigkeit ihrer Gebilde willen bewundert zu werden. Dieser Reichtum als solcher, abgesehen von der darin vorhandenen Entfaltung der Idee, bietet indes kein höheres Vernunftinteresse dar und gewährt uns in der großen Mannigfaltigkeit unorganischer und organischer Gebilde nur die Anschauung der ins Unbestimmte sich verlaufenden Zufälligkeit. Jedenfalls ist das durch äußere Umstände bedingte bunte Spiel der einzelnen Varietäten von Tieren und Pflanzen, die mannigfaltig wechselnde Figuration undGruppierung der Wolken u. dgl. nicht für höher zu erachten als die ebenso zufälligen Einfälle des in seiner Willkür sich ergehenden Geistes und ist die solcher Erscheinung gewidmete Bewunderung ein sehr abstraktes Verhalten, von welchem aus zur näheren Einsicht in die innere Harmonie und Gesetzmäßigkeit der Natur fortzuschreiten ist. - Von besonderer Wichtigkeit ist demnächst die gehörige Würdigung der Zufälligkeit in Beziehung auf den Willen. Wenn von der Freiheit des Willens die Rede ist, so wird darunter häufig bloß die Willkür, d. h. der Wille in der Form der Zufälligkeit verstanden. Nun ist zwar die Willkür, als die Fähigkeit, sich zu diesem oder jenem zu bestimmen, allerdings ein wesentliches Moment des seinem Begriff nach freien Willens, jedoch keineswegs die Freiheit selbst, sondern zunächst nur die formelle Freiheit. Der wahrhaft freie Wille, welcher die Willkür als aufgehoben in sich enthält, ist sich seines Inhalts als eines an und für sich festen bewußt und weiß denselben zugleich schlechthin als den seinigen. Dahingegen ist der Wille, welcher auf der 8/285 Stufe der Willkür stehenbleibt, auch wenn er sich für das dem Inhalt nach Wahre und Rechte entscheidet, doch immer noch mit der Eitelkeit behaftet, daß, wenn es ihm so beliebt, er sich auch für anderes hätte entscheiden können. Näher betrachtet erweist sich übrigens die Willkür insofern als ein Widerspruch, als hier Form und Inhalt noch einander gegenüberstehen. Der Inhalt der Willkür ist ein gegebener und wird nicht als ein im Willen selbst, sondern in äußeren Umständen begründeter gewußt. Die Freiheit besteht deshalb in Beziehung auf solchen Inhalt nur in der Form des Wählens, welche formelle Freiheit dann auch insofern als eine bloß gemeinte Freiheit zu betrachten ist, als in letzter Analyse es sich finden wird, daß derselben Äußerlichkeit der Umstände, in welchen der von dem Willen vorgefundene Inhalt begründet ist, es auch zugeschrieben werden muß, daß der Wille sich gerade für dieses und nicht für jenes entscheidet.
Ob nun schon die Zufälligkeit, der bisherigen Erörterung zufolge, nur ein einseitiges Moment der Wirklichkeit und deshalb mit dieser selbst nicht zu verwechseln ist, so gebührt derselben doch, als einer Form der Idee überhaupt, auch in der gegenständlichen Welt ihr Recht. Dies gilt zunächst von der Natur, auf deren Oberfläche sozusagen die Zufälligkeit ihr freies Ergehen hat, welches dann auch als solches anzuerkennen ist, ohne die (der Philosophie bisweilen irrigerweise zugeschriebene) Prätention, darin ein nur so und nicht anders sein Können finden zu wollen. Ebenso macht sich dann auch das Zufällige in der geistigen Welt geltend, wie solches bereits vorher hinsichtlich des Willens bemerkt wurde, welcher das Zufällige in der Gestalt der Willkür, jedoch nur als aufgehobenes Moment, in sich enthält. Auch in Beziehung auf den Geist und dessen Betätigung hat man sich davor zu hüten, daß man nicht durch das wohlgemeinte Bestreben vernünftiger Erkenntnis sich dazu verleiten läßt, Erscheinungen, welchen der Charakter der Zufälligkeit zukommt, als notwendig aufzeigen oder, wie man zu sagen pflegt, a priori konstruieren zu wollen. So spielt z. B. in der Sprache, obschon dieselbe gleichsam der Leib des Denkens ist, doch unbedenklich auch der Zufall seine entschiedene Rolle, und ebenso verhält es sich mit den Gestaltungen des Rechts, der Kunst usw. Es ist ganz richtig, daß die Aufgabe der Wissenschaft und näher der Philosophie überhaupt darin besteht, die unter dem Schein der Zufälligkeit verborgene Notwendigkeit zu erkennen; dies darf jedoch nicht so verstanden werden, als ob das Zufällige bloß unserer subjektiven Vorstellung angehöre und deshalb, um zur Wahrheit zu gelangen, schlechthin 8/286 zu beseitigen sei. Wissenschaftliche Bestrebungen, welche einseitig diese Richtung verfolgen, werden dem gerechten Vorwurfe einer leeren Spielerei und eines steifen Pedantismus nicht entgehen.
§ 146
Jene Äußerlichkeit der Wirklichkeit enthält näher dies, daß die Zufälligkeit als unmittelbare Wirklichkeit das mit sich Identische wesentlich ist nur als Gesetztsein, das aber ebenso aufgehoben, eine daseiende Äußerlichkeit ist. Sie ist so ein Vorausgesetztes, dessen unmittelbares Dasein zugleich eine Möglichkeit ist und die Bestimmung hat, aufgehoben zu werden, - die Möglichkeit eines Anderen zu sein, - die Bedingung.
Zusatz. Das Zufällige, als die unmittelbare Wirklichkeit, ist zugleich die Möglichkeit eines Anderen, jedoch nicht mehr bloß jene abstrakte Möglichkeit, die wir zuerst hatten, sondern die Möglichkeit als seiend, und so ist dieselbe Bedingung. Wenn wir von der Bedingung einer Sache sprechen, so liegt darin zweierlei: einmal nämlich ein Dasein, eine Existenz, überhaupt ein Unmittelbares, und zweitens die Bestimmung dieses Unmittelbaren, aufgehoben zu werden und zur Verwirklichung eines Anderen zu dienen. - Die unmittelbare Wirklichkeit ist nun überhaupt als solche nicht das, was sie sein soll, sondern eine in sich gebrochene, endliche Wirklichkeit, und es ist ihre Bestimmung, verzehrt zu werden. Die andere Seite der Wirklichkeit ist dann aber ihre Wesentlichkeit. Diese ist zunächst das Innere, welches, als bloße Möglichkeit, ebenso bestimmt ist, aufgehoben zu werden. Als aufgehobene Möglichkeit ist sie das Hervorgehen einer neuen Wirklichkeit, welche die erste unmittelbare Wirklichkeit zu ihrer Voraussetzung hatte. Dies ist der Wechsel, welchen der Begriff der Bedingung in sich enthält. Wenn wir die Bedingungen einer Sache betrachten, so erscheinen diese als etwas ganz Unbefangenes. In der Tat enthält aber solche unmittelbare Wirklichkeit den Keim zu etwas ganz anderem in sich. Dieses Andere ist zunächst nur ein Mögliches, welche Form sich dann aber aufhebt und in Wirklichkeit übersetzt. Diese neue Wirklichkeit, welche so hervorgeht, ist das eigene Innere der unmittelbaren Wirklichkeit, welche sie verbraucht. Es wird so eine ganz andere Gestalt der Dinge, und es wird auch nichts anderes: denn die erste Wirklichkeit wird nur nach ihrem Wesen gesetzt. Die Bedingungen, die sich aufopfern, 8/287 die zugrunde gehen und verbraucht, gehen in der anderen Wirklichkeit nur mit sich selbst zusammen. - Von solcher Art ist nun überhaupt der Prozeß der Wirklichkeit. Diese ist nicht bloß ein unmittelbar Seiendes, sondern, als das wesentliche Sein, Aufhebung ihrer eigenen Unmittelbarkeit und dadurch sich mit sich selbst vermittelnd.
§ 147
γ) Diese so entwickelte Äußerlichkeit ist ein Kreis der Bestimmungen der Möglichkeit und der unmittelbaren Wirklichkeit, die Vermittlung derselben durcheinander die reale Möglichkeit überhaupt.39) Als solcher Kreis ist sie ferner die Totalität, so der Inhalt, die an und für sich bestimmte Sache, und ebenso, nach dem Unterschiede der Bestimmungen in dieser Einheit, die konkrete Totalität der Form für sich, das unmittelbare Sichübersetzen des Inneren ins Äußere und des Äußeren ins Innere. Dies Sichbewegen der Form ist Tätigkeit, Betätigung der Sache, als des realen Grundes, der sich zur Wirklichkeit aufhebt, und Betätigung der zufälligen Wirklichkeit, der Bedingungen, nämlich deren Reflexion-in-sich und ihr Sichaufheben zu einer anderen Wirklichkeit, zu der Wirklichkeit der Sache. Wenn alle Bedingungen vorhanden sind, muß die Sache wirklich werden, und die Sache ist selbst eine der Bedingungen, denn sie ist zunächst als Inneres selbst nur ein Vorausgesetztes. Die entwickelte Wirklichkeit, als der in eins fallende Wechsel des Inneren und Äußeren, der Wechsel ihrer entgegengesetzten Bewegungen, die zu einer Bewegung vereint sind, ist die Notwendigkeit.
Die Notwendigkeit ist zwar richtig als Einheit der Möglichkeit und Wirklichkeit definiert worden. Aber nur so ausgedrückt ist diese Bestimmung oberflächlich und deswegen unverständlich. Der Begriff der Notwendigkeit ist sehr schwer, und zwar weil sie der Begriff selbst ist, aber dessen Momente noch als Wirklichkeiten sind, die zugleich doch nur als Formen, als in sich gebrochene und als übergehende 8/288 zu fassen sind. Es soll deswegen in den beiden folgenden §§ die Exposition der Momente, welche die Notwendigkeit ausmachen, noch ausführlicher angegeben werden.
Zusatz. Wenn von etwas gesagt wird, es sei notwendig, so fragen wir zunächst nach dem Warum. Das Notwendige soll sich somit als ein Gesetztes, als ein Vermitteltes erweisen. Bleiben wir indes bei der bloßen Vermittlung stehen, so haben wir noch nicht dasjenige, was unter der Notwendigkeit verstanden wird. Das bloß Vermittelte ist das, was es ist, nicht durch sich selbst, sondern durch ein Anderes, und damit ist dasselbe auch bloß ein Zufälliges. Von dem Notwendigen dagegen verlangen wir, daß es das, was es ist, durch sich selbst sei und somit, vermittelt zwar, doch zugleich die Vermittlung als aufgehoben in sich enthalte. Wir sagen demgemäß vom Notwendigen: es ist, und so gilt uns dasselbe als einfache Beziehung auf sich, in welchem das Bedingtsein durch Anderes hinwegfällt. - Von der Notwendigkeit pflegt gesagt zu werden, daß sie blind sei, und zwar insofern mit Recht, als in ihrem Prozeß der Zweck noch nicht als solcher für sich vorhanden ist. Der Prozeß der Notwendigkeit beginnt mit der Existenz zerstreuter Umstände, die einander nichts anzugehen und keinen Zusammenhang in sich zu haben scheinen. Diese Umstände sind eine unmittelbare Wirklichkeit, welche in sich zusammenfällt, und aus dieser Negation geht eine neue Wirklichkeit hervor. Wir haben hier einen Inhalt, welcher der Form nach in sich gedoppelt ist: einmal als Inhalt der Sache, um die es sich handelt, und zweitens als Inhalt der zerstreuten Umstände, die als ein Positives erscheinen und sich zunächst so geltend machen. Dieser Inhalt, als ein Nichtiges in sich, wird demgemäß in sein Negatives verkehrt und wird so Inhalt der Sache. Die unmittelbaren Umstände gehen als Bedingungen zugrunde, werden aber auch zugleich als Inhalt der Sache erhalten. Man sagt dann, aus solchen Umständen und Bedingungen sei etwas ganz anderes hervorgegangen, und nennt deshalb die Notwendigkeit, welche dieser Prozeß ist, blind. Betrachten wir dagegen die zweckmäßige Tätigkeit, so haben wir hier am Zweck einen Inhalt, der schon vorher gewußt wird, und diese Tätigkeit ist deshalb nicht blind, sondern sehend. Wenn wir sagen, daß die Welt durch die Vorsehung regiert wird, so liegt darin, daß der Zweck überhaupt das Wirkende ist, als das vorher an und für sich Bestimmte, so daß das Herauskommende dem, was vorher gewußt und gewollt wurde, entsprechend ist. Man hat übrigens die Auffassung der Welt als durch die Notwendigkeit bestimmt und den Glauben an eine göttliche Vorsehung keineswegs 8/289 als einander gegenseitig ausschließend zu betrachten. Was der göttlichen Vorsehung dem Gedanken nach zugrunde liegt, wird sich uns demnächst als der Begriff ergeben. Dieser ist die Wahrheit der Notwendigkeit und enthält dieselbe als aufgehoben in sich, so wie umgekehrt die Notwendigkeit an sich der Begriff ist. Blind ist die Notwendigkeit nur, insofern dieselbe nicht begriffen wird, und es gibt deshalb nichts Verkehrteres als den Vorwurf eines blinden Fatalismus, welcher der Philosophie der Geschichte darum gemacht wird, weil dieselbe ihre Aufgabe als die Erkenntnis der Notwendigkeit dessen, was geschehen ist, betrachtet. Die Philosophie der Geschichte erhält hiermit die Bedeutung einer Theodizee, und diejenigen, welche die göttliche Vorsehung dadurch zu ehren meinen, daß sie die Notwendigkeit von ihr ausschließen, setzen dieselbe durch diese Abstraktion in der Tat zu einer blinden, vernunftlosen Willkür herab. Das unbefangene religiöse Bewußtsein spricht von Gottes ewigen und unverbrüchlichen Ratschlüssen, und darin liegt die ausdrückliche Anerkennung der Notwendigkeit als zum Wesen Gottes gehörig. Der Mensch, in seinem Unterschied von Gott, mit seinem besonderen Meinen und Wollen, verfährt nach Laune und Willkür, und so geschieht es ihm dann, daß bei seinem Tun etwas ganz anderes herauskommt, als er gemeint und gewollt hat, wohingegen Gott weiß, was er will, in seinem ewigen Willen nicht durch inneren oder äußeren Zufall bestimmt wird und das, was er will, auch unwiderstehlich vollbringt. - Der Standpunkt der Notwendigkeit ist überhaupt in Beziehung auf unsere Gesinnung und unser Verhalten von großer Wichtigkeit. Indem wir das, was geschieht, als notwendig betrachten, so scheint dies auf den ersten Anblick ein vollkommen unfreies Verhältnis zu sein. Die Alten faßten bekanntlich die Notwendigkeit als Schicksal auf, und der moderne Standpunkt ist dagegen der des Trostes. Dieser besteht überhaupt darin, daß, indem wir unsere Zwecke, unsere Interessen aufgegeben, wir solches in der Aussicht tun, dafür einen Ersatz zu erhalten. Das Schicksal dagegen ist trostlos. Betrachten wir nunmehr die Gesinnung der Alten in Beziehung auf das Schicksal näher, so gewährt uns dieselbe gleichwohl keineswegs die Anschauung der Unfreiheit, sondern vielmehr die der Freiheit. Dies liegt darin, daß die Unfreiheit im Festhalten am Gegensatz begründet ist, dergestalt, daß wir das, was ist und was geschieht, als im Widerspruch stehend betrachten mit dem, was sein und geschehen soll. In der Gesinnung der Alten hat dagegen dies gelegen: weil solches ist, so ist es, und wie es ist, so soll es sein. Hier ist also kein Gegensatz vorhanden und damit auch keine Unfreiheit, kein Schmerz und kein Leiden. Dies Verhalten zum Schicksal ist nun zwar, wie vorher bemerkt wurde, allerdings 8/290 trostlos, allein solche Gesinnung bedarf auch des Trostes nicht, und zwar um deswillen, weil hier die Subjektivität noch nicht zu ihrer unendlichen Bedeutung gelangt ist. Dieser Gesichtspunkt ist es, welcher bei Vergleichung der antiken und unserer modernen, christlichen Gesinnung als der entscheidende ins Auge gefaßt werden muß. Versteht man unter der Subjektivität bloß die endliche unmittelbare Subjektivität mit dem zufälligen und willkürlichen Inhalt ihrer partikulären Neigungen und Interessen, überhaupt das, was man Person nennt, im Unterschied von der Sache im emphatischen Sinne des Worts (in welchem Sinne man und zwar mit Recht, zu sagen pflegt, daß es auf die Sache ankommt und nicht auf die Person), so wird man nicht umhin können, die ruhige Ergebung der Alten in das Schicksal zu bewundern und diese Gesinnung als eine höhere und würdigere anzuerkennen als jene moderne, welche eigensinnig ihre subjektiven Zwecke verfolgt und, wenn sie dann doch auf deren Erreichung zu verzichten sich genötigt sieht, sich dabei nur mit der Aussicht tröstet, dafür in anderer Gestalt Ersatz zu erhalten. Weiter ist nun aber auch die Subjektivität nicht bloß die, als der Sache gegenüberstehend, schlechte und endliche Subjektivität; sondern dieselbe ist ihrer Wahrheit nach der Sache immanent und als hiermit unendliche Subjektivität die Wahrheit der Sache selbst. So aufgefaßt erhält dann der Standpunkt des Trostes eine ganz andere und höhere Bedeutung, und in diesem Sinne ist es, daß die christliche Religion als die Religion des Trostes, und zwar des absoluten Trostes zu betrachten ist. Das Christentum enthält bekanntlich die Lehre, Gott wolle, daß allen Menschen geholfen werde und damit ist ausgesprochen, daß die Subjektivität einen unendlichen Wert hat. Näher liegt dann das Trostreiche der christlichen Religion darin, daß, indem hier Gott selbst als die absolute Subjektivität gewußt wird, die Subjektivität aber das Moment der Besonderheit in sich enthält, damit auch unsere Besonderheit nicht bloß als ein abstrakt zu Negierendes, sondern zugleich als ein zu Konservierendes anerkannt ist. Die Götter der Alten wurden zwar gleichfalls als persönlich betrachtet; die Persönlichkeit eines Zeus, eines Apoll usw. ist indes nicht eine wirkliche, sondern nur eine vorgestellte, oder, anders ausgedrückt, es sind diese Götter bloß Personifikationen, die als solche sich nicht selbst wissen, sondern nur gewußt werden. Diesen Mangel und diese Ohnmacht der alten Götter finden wir dann auch insofern im religiösen Bewußtsein der Alten, als dieselben nicht nur die Menschen, sondern auch die Götter selbst als dem Schicksal (dem πεπϱωμένον oder der εἱμαϱμένη) unterworfen betrachteten, welches Schicksal man sich als die unenthüllte Notwendigkeit und somit als das durchaus Unpersönliche, 8/291 Selbstlose und Blinde vorzustellen hat. Dahingegen ist der christliche Gott der nicht bloß gewußte, sondern schlechthin sich wissende Gott und nicht bloß vorgestellte, sondern vielmehr absolut wirkliche Persönlichkeit. - Während übrigens hinsichtlich der weiteren Ausführung der hier berührten Punkte an die Religionsphilosophie zu verweisen ist, so kann hier noch bemerklich gemacht werden, von welcher Wichtigkeit es ist, daß der Mensch das, was ihn trifft, im Sinne jenes alten Sprichwortes auffaßt, worin es heißt: ein jeder ist seines eigenen Glückes Schmied. Hierin liegt, daß der Mensch überhaupt nur sich selbst zu genießen bekommt. Die entgegengesetzte Ansicht ist dann die, daß wir die Schuld von dem, was auf uns fällt, auf andere Menschen, auf die Ungunst der Verhältnisse und dergleichen schieben. Dies ist dann wieder der Standpunkt der Unfreiheit und zugleich die Quelle der Unzufriedenheit. Indem dagegen der Mensch anerkennt, daß, was ihm widerfährt, nur eine Evolution seiner selbst ist und daß er nur seine eigene Schuld trägt, so verhält er sich als ein Freier und hat in allem, was ihm begegnet, den Glauben, daß ihm kein Unrecht geschieht. Der Mensch, der in Unfrieden mit sich und seinem Geschick lebt, begeht gerade um der falschen Meinung willen, daß ihm von anderen Unrecht geschehe, viel Verkehrtes und Schiefes. Nun ist zwar in dem, was uns geschieht, allerdings auch viel Zufälliges. Dies Zufällige ist indes in der Natürlichkeit des Menschen begründet. Indem der Mensch aber sonst das Bewußtsein seiner Freiheit hat, so wird durch das Mißliebige, was ihm begegnet, die Harmonie seiner Seele, der Friede seines Gemüts nicht zerstört. Es ist also die Ansicht von der Notwendigkeit, wodurch die Zufriedenheit und die Unzufriedenheit der Menschen und somit ihr Schicksal selbst bestimmt wird.
§ 148
Unter den drei Momenten, der Bedingung, der Sache und der Tätigkeit, ist
a. die Bedingung α) das Vorausgesetzte; als nur Gesetztes ist sie nur als relativ auf die Sache, aber als voraus ist sie als für sich, - zufälliger, äußerlicher Umstand, der ohne Rücksicht auf die Sache existiert; in dieser Zufälligkeit aber zugleich in Rücksicht auf die Sache, welche die Totalität ist, ist dies Vorausgesetzte ein vollständiger Kreis von Bedingungen. β) Die Bedingungen sind passiv, werden für die Sache als Material verwendet und gehen damit in den Inhalt der 8/292 Sache ein; sie sind ebenso diesem Inhalte gemäß und enthalten dessen ganze Bestimmung bereits in sich.
b. Die Sache ist ebenso α) ein Vorausgesetztes; als gesetzte nur erst ein Inneres und Mögliches, und als voraus ein für sich selbständiger Inhalt; β) sie erhält durch die Verwendung der Bedingungen ihre äußerliche Existenz, das Realisieren ihrer Inhaltsbestimmungen, welche den Bedingungen gegenseitig entsprechen, so daß sie ebenso aus diesen sich als Sache erweist und aus ihnen hervorgeht.
c. Die Tätigkeit ist α) ebenso für sich (ein Mensch, ein Charakter), selbständig existierend, und zugleich hat sie ihre Möglichkeit allein an den Bedingungen und an der Sache; β) sie ist die Bewegung, die Bedingungen in die Sache, diese in jene als in die Seite der Existenz zu übersetzen, vielmehr aber nur die Sache aus den Bedingungen, in welchen sie an sich vorhanden ist, heraus zu setzen und durch Aufhebung der Existenz, welche die Bedingungen haben, der Sache Existenz zu geben.
Insofern diese drei Momente die Gestalt selbständiger Existenz gegeneinander haben, ist dieser Prozeß als die äußere Notwendigkeit. - Diese Notwendigkeit hat einen beschränkten Inhalt zu ihrer Sache. Denn die Sache ist dies Ganze in einfacher Bestimmtheit; da dasselbe aber in seiner Form sich äußerlich ist, ist es damit auch in ihm selbst und in seinem Inhalte sich äußerlich, und diese Äußerlichkeit an der Sache ist Schranke ihres Inhalts.
§ 149
Die Notwendigkeit ist an sich daher das eine mit sich identische, aber inhaltsvolle Wesen, das so in sich scheint, daß seine Unterschiede die Form selbständiger Wirklicher haben, und dies Identische ist zugleich als absolute Form die Tätigkeit des Aufhebens [der Unmittelbarkeit] in Vermitteltsein und der Vermittlung in Unmittelbarkeit. - Das, was notwendig ist, ist durch ein Anderes, welches in den vermittelnden Grund (die Sache und die Tätigkeit) und in eine unmittelbare 8/293 Wirklichkeit, ein Zufälliges, das zugleich Bedingung ist, zerfallen ist. Das Notwendige als durch ein Anderes ist nicht an und für sich, sondern ein bloß Gesetztes. Aber die Vermittlung ist ebenso unmittelbar das Aufheben ihrer selbst; der Grund und die zufällige Bedingung wird in Unmittelbarkeit übergesetzt, wodurch jenes Gesetztsein zur Wirklichkeit aufgehoben und die Sache mit sich selbst zusammengegangen ist. In dieser Rückkehr in sich ist das Notwendige schlechthin, als unbedingte Wirklichkeit. - Das Notwendige ist so: vermittelt durch einen Kreis von Umständen, - es ist so, weil die Umstände so sind; und in Einem ist es so: unvermittelt, - es ist so, weil es ist.
38) Kritik der reinen Vernunft, B 266
39) Für andere Lesarten dieses Satzes vgl. die Ausgabe von Nicolin und Pöggeler, Phil. Bibl. Bd. 33 (1959), Anm. zu S. 142, 13 ff.

Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / c. Das Verhältnis
Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / a. Substantialitätsverhältnis



Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / C. Die Wirklichkeit
Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / b. Kausalitätsverhältnis

a. Substantialitätsverhältnis
§ 150
Das Notwendige ist in sich absolutes Verhältnis, d. i. der (in den vorhergehenden §§) entwickelte Prozeß, in welchem das Verhältnis sich ebenso zur absoluten Identität aufhebt.
In seiner unmittelbaren Form ist es das Verhältnis der Substantialität und Akzidentalität. Die absolute Identität dieses Verhältnisses mit sich ist die Substanz als solche, die als Notwendigkeit die Negativität dieser Form der Innerlichkeit ist, also sich als Wirklichkeit setzt, aber ebenso die Negativität dieses Äußerlichen ist, nach welcher das Wirkliche als Unmittelbares nur ein Akzidentelles ist, das durch diese seine bloße Möglichkeit in eine andere Wirklichkeit übergeht; ein Übergehen, welches die substantielle Identität als die Formtätigkeit (§ 148, 149) ist.
§ 151
Die Substanz ist hiermit die Totalität der Akzidenzen, denen sie sich als deren absolute Negativität, d. i. als absolute Macht und zugleich als den Reichtum alles Inhalts offenbart. Dieser Inhalt ist aber nichts als diese Manifestation selbst, indem die in sich zum Inhalte reflektierte Bestimmtheit 8/294 selbst nur ein Moment der Form ist, das in der Macht der Substanz übergeht40) . Die Substantialität ist die absolute Formtätigkeit und die Macht der Notwendigkeit, und aller Inhalt nur Moment, das allein diesem Prozesse angehört, - das absolute Umschlagen der Form und des Inhalts ineinander.
Zusatz. In der Geschichte der Philosophie begegnet uns die Substanz als das Prinzip der spinozistischen Philosophie. Über die Bedeutung und den Wert dieser Philosophie, welche ebenso berühmt als verschrien ist, hat seit Spinozas Auftreten großes Mißverständnis stattgefunden und ist darüber viel hin und her geredet worden. Es ist vornehmlich der Vorwurf des Atheismus und dann weiter der des Pantheismus, welcher gegen das spinozistische System erhoben zu werden pflegt, und zwar um deswillen, weil von demselben Gott als die Substanz und nur als die Substanz aufgefaßt worden ist. Was von diesen Vorwürfen zu halten, ergibt sich zunächst aus der Stelle, welche die Substanz im System der logischen Idee einnimmt. Die Substanz ist eine wesentliche Stufe im Entwicklungsprozeß der Idee, jedoch nicht diese selbst, nicht die absolute Idee, sondern die Idee in der noch beschränkten Form der Notwendigkeit. Nun ist Gott zwar allerdings die Notwendigkeit oder, wie man auch sagen kann, die absolute Sache, aber auch zugleich die absolute Person, und dies ist der Punkt, zu welchem Spinoza nicht gelangt ist und in Beziehung auf welchen zugegeben werden muß, daß die spinozistische Philosophie hinter dem wahren Begriff Gottes, welcher den Inhalt des christlich-religiösen Bewußtseins bildet, zurückgeblieben ist. Spinoza war seiner Herkunft nach ein Jude, und es ist überhaupt die orientalische Anschauung, nach welcher alles Endliche bloß als ein Vorübergehendes, als ein Verschwindendes erscheint, welche in seiner Philosophie ihren gedankenmäßigen Ausdruck gefunden hat. Diese orientalische Anschauung der substantiellen Einheit bildet nun zwar die Grundlage aller wahrhaften weiteren Entwicklung, allein es kann dabei nicht stehengeblieben werden; was derselben noch fehlt, das ist das abendländische Prinzip der Individualität, welches in philosophischer Gestalt, gleichzeitig mit dem Spinozismus, zuerst in der Leibnizschen Monadologie hervorgetreten ist. - Blicken wir von hier aus auf den der Philosophie des Spinoza gemachten Vorwurf des Atheismus zurück, 8/295 so wird derselbe insofern als unbegründet von der Hand zu weisen sein, als nach dieser Philosophie Gott nicht allein nicht geleugnet, sondern vielmehr als der allein wahrhaft Seiende anerkannt wird. Auch wird nicht behauptet werden können, Spinoza spreche zwar von Gott als dem allein Wahren, allein dieser spinozistische Gott sei nicht der wahre und deshalb so gut wie kein Gott. Mit demselben Recht müßten dann auch alle die übrigen Philosophen, welche mit ihrem Philosophieren auf einer untergeordneten Stufe der Idee stehengeblieben sind, und ebenso nicht nur die Juden und die Mohammedaner darum, weil sie Gott bloß als den Herrn wissen, sondern auch alle die vielen Christen, welche Gott bloß als das nicht erkennbare, höchste und jenseitige Wesen betrachten, des Atheismus beschuldigt werden. Der der spinozistischen Philosophie gemachte Vorwurf des Atheismus reduziert sich bei näherer Betrachtung darauf, daß in derselben das Prinzip der Differenz oder der Endlichkeit nicht zu seinem Rechte gelangt, und würde somit, da es nach derselben eigentlich gar keine Welt im Sinne eines positiv Seienden gibt, dieses System nicht als Atheismus, sondern vielmehr umgekehrt als Akosmismus zu bezeichnen sein. Hieraus ergibt sich dann auch, was von dem Vorwurf des Pantheismus zu halten ist. Versteht man, wie dies sehr häufig geschieht, unter Pantheismus eine Lehre, welche die endlichen Dinge als solche und den Komplex derselben als Gott betrachtet, so wird man nicht umhin können, die spinozistische Philosophie von dem Vorwurf des Pantheismus freizusprechen, da nach derselben den endlichen Dingen oder der Welt überhaupt schlechthin keine Wahrheit zukommt; dahingegen ist diese Philosophie allerdings pantheistisch, eben um ihres Akosmismus willen. Der hiermit anerkannte Mangel hinsichtlich des Inhalts erweist sich dann auch zugleich als ein Mangel in Beziehung auf die Form, und zwar zunächst insofern, als Spinoza die Substanz an die Spitze seines Systems stellt und dieselbe als die Einheit des Denkens und der Ausdehnung definiert, ohne nachzuweisen, wie er zu diesem Unterschied und zur Zurückführung desselben auf die substantielle Einheit gelangt. Die weitere Abhandlung des Inhalts erfolgt dann in der sogenannten mathematischen Methode, und es werden demgemäß zunächst Definitionen und Axiome aufgestellt, an welche sich Lehrsätze reihen, deren Beweis bloß in der verstandesmäßigen Zurückführung auf jene unbewiesenen Voraussetzungen besteht. Ob nun schon die spinozistische Philosophie auch von solchen, welche ihren Inhalt und ihre Resultate schlechthin verwerfen, wegen der strengen Konsequenz ihrer Methode gerühmt zu werden pflegt, so ist doch in der Tat diese unbedingte Anerkennung der Form ebenso unbegründet als die unbedingte 8/296 Verwerfung des Inhalts. Der Mangel des spinozistischen Inhalts besteht eben darin, daß die Form nicht als demselben immanent gewußt wird und deshalb nur als äußere, subjektive Form an ihn herantritt. Die Substanz, so wie dieselbe ohne vorangegangene dialektische Vermittlung unmittelbar von Spinoza aufgefaßt wird, ist, als die allgemeine negative Macht, gleichsam nur dieser finstere, gestaltlose Abgrund, der allen bestimmten Inhalt als von Haus aus nichtig in sich verschlingt und nichts, was einen positiven Bestand in sich hat, aus sich produziert.
§ 152
Nach dem Momente, daß die Substanz als absolute Macht die sich auf sich als auf nur innere Möglichkeit beziehende und sich damit zur Akzidentalität bestimmende Macht und [daß] hiervon die dadurch gesetzte Äußerlichkeit unterschieden ist, ist sie eigentliches Verhältnis, als wie sie in der ersten Form der Notwendigkeit Substanz ist, - Kausalitätsverhältnis.
40) Lasson schlägt folgende Ergänzung vor: " ... das in der Macht der Substanz in ein anderes Moment übergeht".

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Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / b. Kausalitätsverhältnis



Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / a. Substantialitätsverhältnis
Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / c. Die Wechselwirkung

b. Kausalitätsverhältnis
§ 153
Die Substanz ist Ursache, insofern sie gegen ihr Übergehen in die Akzidentalität in sich reflektiert und so die ursprüngliche Sache ist, aber ebensosehr die Reflexion-in-sich oder ihre bloße Möglichkeit aufhebt, sich als das Negative ihrer selbst setzt und so eine Wirkung hervorbringt, eine Wirklichkeit, die so nur eine gesetzte, aber durch den Prozeß des Wirkens zugleich notwendige ist.
Die Ursache hat als die ursprüngliche Sache die Bestimmung von absoluter Selbständigkeit und einem sich gegen die Wirkung erhaltenden Bestehen, aber sie ist in der Notwendigkeit, deren Identität jene Ursprünglichkeit selbst ausmacht, nur in die Wirkung übergegangen. Es ist kein Inhalt, insofern wieder von einem bestimmten Inhalte die Rede sein kann, in der Wirkung, der nicht in der Ursache ist; - jene Identität ist der absolute Inhalt selbst; ebenso ist sie aber auch die Formbestimmung, die Ursprünglichkeit der Ursache wird in der Wirkung aufgehoben, in der 8/297 sie sich zu einem Gesetztsein macht. Die Ursache ist aber damit nicht verschwunden, so daß das Wirkliche nur die Wirkung wäre. Denn dies Gesetztsein ist ebenso unmittelbar aufgehoben, es ist vielmehr die Reflexion der Ursache in sich selbst, ihre Ursprünglichkeit; in der Wirkung ist erst die Ursache wirklich und Ursache. Die Ursache ist daher an und für sich causa sui. - Jacobi, fest in der einseitigen Vorstellung der Vermittlung, hat (Briefe über Spinoza,41) 2. Ausg., S. 416) die causa sui (der effectus sui ist dasselbe), diese absolute Wahrheit der Ursache, bloß für einen Formalismus genommen. Er hat auch angegeben, daß Gott nicht als Grund, sondern wesentlich als Ursache bestimmt werden müsse; daß damit das nicht gewonnen sei, was er beabsichtigte, würde sich aus einem gründlicheren Nachdenken über die Natur der Ursache ergeben haben. Auch in der endlichen Ursache und deren Vorstellung ist diese Identität in Ansehung des Inhalts vorhanden; der Regen, die Ursache, und die Nässe, die Wirkung, sind ein und dasselbe existierende Wasser. In Ansehung der Form fällt so in der Wirkung (der Nässe) die Ursache (der Regen) hinweg; aber damit auch die Bestimmung der Wirkung, die nichts ist ohne Ursache, und es bleibt nur die indifferente Nässe.
Die Ursache im gemeinen Sinne des Kausalverhältnisses ist endlich, insofern ihr Inhalt endlich ist (wie in der endlichen Substanz) und insofern Ursache und Wirkung als zwei verschiedene selbständige Existenzen vorgestellt werden, - was sie aber nur sind, indem bei ihnen vom Kausalitätsverhältnis abstrahiert wird. Weil in der Endlichkeit bei dem Unterschiede der Formbestimmungen in deren Beziehung stehengeblieben wird, so wird abwechslungsweise die Ursache auch als ein Gesetztes oder als Wirkung bestimmt; diese hat dann wieder eine andere Ursache; so entsteht auch hier der Progreß von Wirkungen zu Ursachen 8/298 ins Unendliche. Ebenso der absteigende, indem die Wirkung nach ihrer Identität mit der Ursache selbst als Ursache und zugleich als eine andere bestimmt wird, die wieder andere Wirkungen hat, und so fort ins Unendliche.
Zusatz. Sosehr der Verstand sich gegen die Substantialität zu sträuben pflegt, so geläufig ist ihm dagegen die Kausalität, d. h. das Verhältnis von Ursache und Wirkung. Wenn es sich darum handelt, einen Inhalt als notwendig aufzufassen, so ist es vornehmlich das Kausalitätsverhältnis, worauf denselben zurückzuführen die Verstandesreflexion sich zur Angelegenheit macht. Nun gehört zwar dieses Verhältnis allerdings zur Notwendigkeit, allein es ist dasselbe nur die eine Seite im Prozeß der Notwendigkeit, welcher ebensosehr dies ist, die in der Kausalität enthaltene Vermittlung aufzuheben und sich als einfache Beziehung-auf-sich zu erweisen. Bleibt man bei der Kausalität als solcher stehen, so hat man dieselbe nicht in ihrer Wahrheit, sondern bloß als endliche Kausalität, und die Endlichkeit dieses Verhältnisses besteht dann darin, daß Ursache und Wirkung in ihrem Unterschied festgehalten werden. Nun aber sind diese beiden nicht nur unterschieden, sondern ebensowohl auch identisch, und dies findet sich dann auch dergestalt in unserem gewöhnlichen Bewußtsein, daß wir von der Ursache sagen, daß sie dies nur ist, insofern sie eine Wirkung hat, und von der Wirkung, daß sie dies nur ist, insofern sie eine Ursache hat. Ursache und Wirkung sind somit beide ein und derselbe Inhalt, und der Unterschied derselben ist zunächst nur der des Setzens und des Gesetztseins, welcher Formunterschied sich dann aber auch ebenso wieder aufhebt, dergestalt, daß die Ursache nicht nur Ursache eines Anderen, sondern auch Ursache ihrer selbst, und die Wirkung nicht nur Wirkung eines Anderen, sondern auch Wirkung ihrer selbst ist. Die Endlichkeit der Dinge besteht hiernach darin, daß, während Ursache und Wirkung ihrem Begriff nach identisch sind, diese beiden Formen in der Art getrennt vorkommen, daß die Ursache zwar auch Wirkung und die Wirkung zwar auch Ursache ist, jedoch jene nicht in derselben Beziehung, in welcher sie Ursache und diese nicht in derselben Beziehung, in welcher sie Wirkung ist. Dies gibt dann wieder den unendlichen Progreß in der Gestalt einer endlosen Reihe von Ursachen, welche sich zugleich als eine endlose Reihe von Wirkungen zeigt.
§ 154
Von der Ursache ist die Wirkung verschieden; diese ist als solche Gesetztsein. Aber das Gesetztsein ist ebenso Reflexion-in-sich 8/299 und Unmittelbarkeit, und das Wirken der Ursache, ihr Setzen, ist zugleich Voraussetzen, insofern an der Verschiedenheit der Wirkung von der Ursache festgehalten wird. Es ist hiermit eine andere Substanz vorhanden, auf welche die Wirkung geschieht. Diese ist, als unmittelbar, nicht sich auf sich beziehende Negativität und aktiv, sondern passiv. Aber als Substanz ist sie ebenso aktiv, hebt die vorausgesetzte Unmittelbarkeit und die in sie gesetzte Wirkung auf, reagiert, d. h. sie hebt die Aktivität der ersten Substanz auf, welche aber ebenso dies Aufheben ihrer Unmittelbarkeit oder der in sie gesetzten Wirkung ist, hiermit die Aktivität der anderen aufhebt und reagiert. Die Kausalität ist hiermit in das Verhältnis der Wechselwirkung übergegangen.
In der Wechselwirkung, obgleich die Kausalität noch nicht in ihrer wahrhaften Bestimmung gesetzt ist, ist der Progreß von Ursachen und Wirkungen ins Unendliche als Progreß auf wahrhafte Weise aufgehoben, indem das geradlinige Hinausgehen von Ursachen zu Wirkungen und von Wirkungen zu Ursachen in sich um- und zurückgebogen ist. Diese Umbeugung des unendlichen Progresses zu einem in sich beschlossenen Verhältnis ist wie überall die einfache Reflexion, daß in jener gedankenlosen Wiederholung nur ein und dasselbe ist, nämlich eine und eine andere Ursache und deren Beziehung aufeinander. Die Entwicklung dieser Beziehung, das Wechselwirken, ist jedoch selbst die Abwechslung des Unterscheidens, aber nicht von Ursachen, sondern von den Momenten, an deren jedem für sich, wieder nach der Identität, daß die Ursache in der Wirkung Ursache (und umgekehrt) ist, - nach dieser Untrennbarkeit ebenso auch das andere Moment gesetzt wird.
41) Friedrich Heinrich Jacobi, Über die Lehre des Spinoza in Briefen an den Herrn Moses Mendelssohn (1785), neue verm. Ausgabe, 1789

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Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / c. Die Wechselwirkung



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c. Die Wechselwirkung
§ 155
Die in der Wechselwirkung als unterschieden festgehaltenen 8/300 Bestimmungen sind α) an sich dasselbe; die eine Seite ist Ursache, ursprünglich, aktiv, passiv usf. wie die andere. Ebenso ist das Voraussetzen einer anderen und das Wirken auf sie, die unmittelbare Ursprünglichkeit und das Gesetztsein durch den Wechsel, ein und dasselbe. Die als erste angenommene Ursache ist um ihrer Unmittelbarkeit willen passiv, Gesetztsein und Wirkung. Der Unterschied der als zwei genannten Ursachen ist daher leer, und es ist an sich nur eine, sich in ihrer Wirkung ebenso als Substanz aufhebende als sich in diesem Wirken erst verselbständigende Ursache vorhanden.
§ 156
[β] Aber auch für sich ist diese Einheit, indem dieser ganze Wechsel das eigene Setzen der Ursache und nur dies ihr Setzen ihr Sein ist. Die Nichtigkeit der Unterschiede ist nicht nur an sich oder unsere Reflexion (vorhg. §), sondern die Wechselwirkung ist selbst dies, jede der gesetzten Bestimmungen auch wieder aufzuheben und in die entgegengesetzte zu verkehren, also jene Nichtigkeit der Momente zu setzen, die an sich ist. In die Ursprünglichkeit wird eine Wirkung gesetzt, d. h. die Ursprünglichkeit wird aufgehoben; die Aktion einer Ursache wird zur Reaktion usf.
Zusatz. Die Wechselwirkung ist das Kausalitätsverhältnis in seiner vollständigen Entwicklung gesetzt, und dies Verhältnis ist es dann auch, zu welchem die Reflexion ihre Zuflucht zu nehmen pflegt, wenn sich ihr die Betrachtung der Dinge unter dem Gesichtspunkt der Kausalität, um des vorher erwähnten unendlichen Progresses willen, nicht als genügend erweist. So wird z. B. bei geschichtlichen Betrachtungen zunächst die Frage verhandelt, ob der Charakter und die Sitten eines Volkes die Ursache seiner Verfassung und seiner Gesetze oder ob dieselben umgekehrt deren Wirkung seien, und es wird dann dazu fortgeschritten, diese beiden, Charakter und Sitten einerseits und Verfassung und Gesetze andererseits, unter dem Gesichtspunkt der Wechselwirkung aufzufassen, dergestalt, daß die Ursache in derselben Beziehung, in der sie Ursache, zugleich Wirkung und daß die Wirkung in derselben Beziehung, in der sie Wirkung, zugleich Ursache ist. Dasselbe geschieht dann auch bei Betrachtung der Natur und 8/301 namentlich des lebendigen Organismus, dessen einzelne Organe und Funktionen sich gleichfalls als zueinander im Verhältnis der Wechselwirkung stehend erweisen. Die Wechselwirkung ist nun zwar allerdings die nächste Wahrheit des Verhältnisses von Ursache und Wirkung, und es steht dieselbe sozusagen an der Schwelle des Begriffs; jedoch eben um deswillen hat man sich mit der Anwendung dieses Verhältnisses nicht zu begnügen, insofern es um das begreifende Erkennen zu tun ist. Bleibt man dabei stehen, einen gegebenen Inhalt bloß unter dem Gesichtspunkt der Wechselwirkung zu betrachten, so ist dies in der Tat ein durchaus begriffloses Verhalten; man hat es dann bloß mit einer trockenen Tatsache zu tun, und die Forderung der Vermittlung, um die es sich zunächst bei der Anwendung des Kausalitätsverhältnisses handelt, bleibt wieder unbefriedigt. Das Ungenügende bei der Anwendung des Verhältnisses der Wechselwirkung besteht näher betrachtet darin, daß dies Verhältnis, anstatt als ein Äquivalent für den Begriff gelten zu können, vielmehr selbst erst begriffen sein will, und dies geschieht dadurch, daß die beiden Seiten desselben nicht als ein unmittelbar Gegebenes belassen, sondern, wie solches in den beiden vorhergehenden §§ gezeigt worden, als Momente eines Dritten, Höheren, erkannt werden, welches dann eben der Begriff ist. Betrachten wir z. B. die Sitten des spartanischen Volkes als die Wirkung seiner Verfassung und so umgekehrt diese als die Wirkung seiner Sitten, so mag diese Betrachtung immerhin richtig sein, allein diese Auffassung gewährt um deswillen keine letzte Befriedigung, weil durch dieselbe in der Tat weder die Verfassung noch die Sitten dieses Volkes begriffen werden, welches nur dadurch geschieht, daß jene beiden und ebenso alle die übrigen besonderen Seiten, welche das Leben und die Geschichte des spartanischen Volkes zeigen, als in diesem Begriff begründet erkannt werden.
§ 157
[γ] Dieser reine Wechsel mit sich selbst ist hiermit die enthüllte oder gesetzte Notwendigkeit. Das Band der Notwendigkeit als solcher ist die Identität als noch innere und verborgene, weil sie die Identität von solchen ist, die als Wirkliche gelten, deren Selbständigkeit jedoch eben die Notwendigkeit sein soll. Der Verlauf der Substanz durch die Kausalität und Wechselwirkung ist daher nur das Setzen, daß die Selbständigkeit die unendliche negative Beziehung auf sich ist, - negative überhaupt, in der das Unterscheiden 8/302 und Vermitteln zu einer Ursprünglichkeit gegeneinander selbständiger Wirklichen wird, - unendliche Beziehung auf sich selbst, indem die Selbständigkeit derselben eben nur als ihre Identität ist.
§ 158
Diese Wahrheit der Notwendigkeit ist somit die Freiheit, und die Wahrheit der Substanz ist der Begriff, - die Selbständigkeit, welche das sich von sich Abstoßen in unterschiedene Selbständige, als dies Abstoßen identisch mit sich, und diese bei sich selbst bleibende Wechselbewegung nur mit sich ist.
Zusatz. Die Notwendigkeit pflegt hart genannt zu werden, und zwar mit Recht, insofern bei derselben als solcher, d. h. in ihrer unmittelbaren Gestalt stehengeblieben wird. Wir haben hier einen Zustand oder überhaupt einen Inhalt, welcher sein Bestehen für sich hat, und in der Notwendigkeit ist dann zunächst dies enthalten, daß über solchen Inhalt ein anderes kommt, wodurch derselbe zugrunde gerichtet wird. Dies ist das Harte und das Traurige der unmittelbaren oder abstrakten Notwendigkeit. Die Identität der beiden, welche in der Notwendigkeit als aneinander gebunden erscheinen und dadurch ihrer Selbständigkeit verlustig gehen, ist nur erst eine innere und noch nicht für die vorhanden, welche der Notwendigkeit unterworfen sind. So ist dann auch die Freiheit auf diesem Standpunkt nur erst die abstrakte Freiheit, welche nur durch Verzichtung auf dasjenige, was man unmittelbar ist und hat, gerettet wird. - Weiter ist nun aber, wie wir bisher gesehen haben, der Prozeß der Notwendigkeit von der Art, daß durch denselben die zunächst vorhandene starre Äußerlichkeit überwunden und daß ihr Inneres offenbart wird, wodurch es sich dann zeigt, daß die aneinander Gebundenen in der Tat einander nicht fremd, sondern nur Momente eines Ganzen sind, deren jedes in der Beziehung auf das andere bei sich selbst ist und mit sich selbst zusammengeht. Dies ist die Verklärung der Notwendigkeit zur Freiheit, und diese Freiheit ist nicht bloß die Freiheit der abstrakten Negation, sondern vielmehr konkrete und positive Freiheit. Hieraus ist dann auch zu entnehmen, wie verkehrt es ist, die Freiheit und die Notwendigkeit als einander gegenseitig ausschließend zu betrachten. Allerdings ist die Notwendigkeit als solche noch nicht die Freiheit; aber die Freiheit hat die Notwendigkeit zu ihrer Voraussetzung und enthält dieselbe als aufgehoben in sich. Der sittliche Mensch ist sich des Inhalts seines Tuns 8/303 als eines Notwendigen, an und für sich Gültigen bewußt und leidet dadurch so wenig Abbruch an seiner Freiheit, daß diese vielmehr erst durch dieses Bewußtsein zur wirklichen und inhaltsvollen Freiheit wird, im Unterschied von der Willkür als der noch inhaltlosen und bloß möglichen Freiheit. Ein Verbrecher, welcher bestraft wird, mag die Strafe, die ihn trifft, als eine Beschränkung seiner Freiheit betrachten; in der Tat ist jedoch die Strafe nicht eine fremde Gewalt, der er unterworfen wird, sondern nur die Manifestation seines eignen Tuns, und indem er dies anerkennt so verhält er sich hiermit als ein Freier. Überhaupt ist dies die höchste Selbständigkeit des Menschen, sich als schlechthin bestimmt durch die absolute Idee zu wissen, welches Bewußtsein und Verhalten Spinoza als den amor intellectualis Dei bezeichnet.
§ 159
Der Begriff ist hiermit die Wahrheit des Seins und des Wesens, indem das Scheinen der Reflexion in sich selber zugleich selbständige Unmittelbarkeit und dieses Sein verschiedener Wirklichkeit unmittelbar nur ein Scheinen in sich selbst ist.
Indem der Begriff sich als die Wahrheit des Seins und Wesens erwiesen hat, welche beide in ihn als in ihren Grund zurückgegangen sind, so hat er umgekehrt sich aus dem Sein als aus seinem Grunde entwickelt. Jene Seite des Fortgangs kann als ein Vertiefen des Seins in sich selbst, dessen Inneres durch diesen Fortgang enthüllt worden ist, diese Seite als Hervorgang des Vollkommeneren aus dem Unvollkommeneren betrachtet werden. Indem solche Entwicklung nur nach der letzten Seite betrachtet worden ist, hat man der Philosophie daraus einen Vorwurf gemacht. Der bestimmtere Gehalt, den die oberflächlichen Gedanken von Unvollkommenerem und Vollkommenerem hier haben, ist der Unterschied, den das Sein, als unmittelbare Einheit mit sich, vom Begriffe, als der freien Vermittlung mit sich, hat. Indem sich das Sein als ein Moment des Begriffs gezeigt hat, hat er sich dadurch als die Wahrheit des Seins erwiesen; als diese seine Reflexion-in-sich und als Aufheben der Vermittlung ist er das Voraussetzen des 8/304 Unmittelbaren - ein Voraussetzen, das mit der Rückkehr-in-sich identisch ist, welche Identität die Freiheit und den Begriff ausmacht. Wenn daher das Moment das Unvollkommene genannt wird, so ist der Begriff, das Vollkommene, allerdings dies, sich aus dem Unvollkommenen zu entwickeln, denn er ist wesentlich dies Aufheben seiner Voraussetzung. Aber er ist es zugleich allein, der als sich setzend die Voraussetzung macht, wie sich in der Kausalität überhaupt und näher in der Wechselwirkung ergeben hat.
Der Begriff ist so in Beziehung auf Sein und Wesen bestimmt, das zum Sein als einfacher Unmittelbarkeit zurückgegangene Wesen zu sein, dessen Scheinen dadurch Wirklichkeit hat und dessen Wirklichkeit zugleich freies Scheinen in sich selbst ist. Das Sein hat der Begriff auf solche Weise als seine einfache Beziehung auf sich oder als die Unmittelbarkeit seiner Einheit in sich selbst; Sein ist eine so arme Bestimmung, daß sie das Wenigste ist, was im Begriffe aufgezeigt werden kann.
Der Übergang von der Notwendigkeit zur Freiheit oder vom Wirklichen in den Begriff ist der härteste, weil die selbständige Wirklichkeit gedacht werden soll, als in dem Übergehen und der Identität mit der ihr anderen selbständigen Wirklichkeit allein ihre Substantialität zu haben; so ist auch der Begriff das Härteste, weil er selbst eben diese Identität ist. Die wirkliche Substanz als solche aber, die Ursache, die in ihrem Fürsichsein nichts in sich eindringen lassen will, ist schon der Notwendigkeit oder dem Schicksal, in das Gesetztsein überzugehen, unterworfen, und diese Unterwerfung ist vielmehr das Härteste. Das Denken der Notwendigkeit ist dagegen vielmehr die Auflösung jener Härte; denn es ist das Zusammengehen Seiner im Anderen mit Sich selbst, - die Befreiung, welche nicht die Flucht der Abstraktion ist, sondern in dem anderen 8/305 Wirklichen, mit dem das Wirkliche durch die Macht der Notwendigkeit zusammengebunden ist, sich nicht als anderes, sondern sein eigenes Sein und Setzen zu haben. Als für sich existierend heißt diese Befreiung Ich, als zu ihrer Totalität entwickelt freier Geist, als Empfindung Liebe, als Genuß Seligkeit. - Die große Anschauung der spinozistischen Substanz ist nur an sich die Befreiung von endlichem Fürsichsein; aber der Begriff selbst ist für sich die Macht der Notwendigkeit und die wirkliche Freiheit.
Zusatz. Wenn der Begriff, wie dies hier geschehen, als die Wahrheit des Seins und des Wesens bezeichnet wird, so muß man der Frage gewärtig sein, warum nicht mit demselben der Anfang gemacht worden ist. Darauf dient zur Antwort, daß, wo es sich um denkende Erkenntnis handelt, mit der Wahrheit um deswillen nicht angefangen werden kann, weil die Wahrheit, als den Anfang bildend, auf bloßer Versicherung beruht, die gedachte Wahrheit aber als solche sich dem Denken zu bewähren hat. Würde der Begriff an die Spitze der Logik gestellt und, wie dies dem Inhalt nach ganz richtig ist, als die Einheit des Seins und des Wesens definiert, so entstände die Frage, was man sich unter dem Sein und was unter dem Wesen zu denken hat und wie diese beiden dazu kommen, in die Einheit des Begriffs zusammengefaßt zu werden. Hiermit wäre dann aber nur dem Namen und nicht der Sache nach mit dem Begriff angefangen worden. Der eigentliche Anfang würde mit dem Sein gemacht, wie solches auch hier geschehen, nur mit dem Unterschied, daß die Bestimmungen des Seins und ebenso auch die des Wesens unmittelbar aus der Vorstellung würden aufzunehmen sein, wohingegen wir das Sein und das Wesen in ihrer eigenen dialektischen Entwicklung betrachtet und als sich selbst zur Einheit des Begriffs aufhebend erkannt haben. 8/306

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Dritte Abteilung der Logik. Die Lehre vom Begriff
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