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アシモス科学史と『資本論』の “Element”(sk)

2019.04.30


  第1回 『資本論』の科学史ハンドブック2019-1 

 「歴史的に、論理的に」 アシモス科学史と『資本論』の “Element”

  ~ アシモス著 『化学の歴史』 と 『生物学の歴史』 より ~
 <目次>
 第1部 古代ギリシャの元素 “Element”

 Ⅰ.アイザック・アシモス著『化学の歴史』
        -古代ギリシャの元素Element ・・・4月号
 Ⅱ.アリストテレスの「四元素説」と第一哲学  ・・・5月号に続く

 第2部 化学と生物学の相互進化

 Ⅰ.アシモス著 『生物学の歴史』 ・・・4月号から検索
 Ⅱ.『資本論』価値形態の「萌芽形態-胚芽」について ・・・(作業中)

 第3部 西洋科学史と『資本論』の“Element” ・・・(作業中)
 
  資本論ワールド編集部 はじめに

 『資本論』の科学史ハンドブック2019の開設にあたり、編集の概略をご案内します。
 マルクスは1859年に『経済学批判』「第1冊資本について」を刊行しましたが、「第1章商品」で中断しています。その後、『資本論』の初版第1巻(第1部)が、1867年に刊行され、第2版は1873年に出版されました。マルクスの死後に、『資本論』第2巻が1885年に、第3巻が1894年エンゲルスによって編集・刊行にされました。
 『経済学批判』から『資本論』第3巻までの19世紀後半は、西洋に始まった資本主義社会がヨーロッパからアメリカ大陸や世界の各地へと展開された時代です。グローバリゼーションの始まりですが、ちょうど近代西洋科学の成立と歩調をあわせて資本制生産が全地球規模で開始されます。ユーラシア大陸の東端に位置する日本列島にも「資本の時代」が押し寄せ、明治の“文明開化”が開始されてゆきます。
 こうして日本列島の住民-すなわち私たちの直接の先祖-は、はじめて日本人としての意識形成やアイデンティティが醸成される環境に置かれてゆくことになりました。1903(明治36)年4月小学校令の改正により、翌19年4月から教科書の国定制度がスタート、明治政府による全国共通の教科書が使用されてゆきます。
 西洋では、フランス革命と産業革命を経て「科学の進歩」による資本制生産の発展を目指す時代を迎えています。各種学校制度と研究機関の充実が、国力と直結する時代の幕開けともなり、科学教育の充実が各国政府の至上命題ともなりました。(日本では、江戸時代の寺小屋形式による識字教育が普及し、西洋に比べても格段に高かったと評価されています。)

 このような時代背景を横目で眺めながら、西洋の科学史を通覧することは、19世紀西洋文化から誕生した『資本論』の歴史性を実感してゆくうえで、欠かすことができません。近代の科学革命は、フランスのラヴォアジェ(1743-1794年)によって開始され、イギリスのドルトン(1766-1844年)による「原子論」が展開されることによって、物理化学の新しい世界が切り開かれました。一連の「元素革命-ラヴォアジェからメンデレーエフ-」は、元素・原子の規則性、法則性に関するメンデレーエフ(1834-1907年)の「周期律・表」によって現在に至っています。自然の“比例性”に新たな1ページを画することになりました。
 またドイツでは、カント(1724-1804年)の“星雲説”からゲーテ(1749-1832年)“形態学”を経て、ヘーゲル(1770-1831年)によるドイツ古典哲学が形成され、西洋の自然科学的思考に弁証法概念が深化してゆきます。
 こうした西洋科学史を背景に、「巨人の肩の上に立って」マルクスは、『資本論』を叙述してゆきます。エンゲルスが指摘しているように、「マルクスは、ヘーゲルの論理学の皮をむいて、この領域におけるヘーゲルの真の諸発見を包有している核をとりだし、かつ弁証法的方法からその観念論的外被をはぎとって、それを思想の展開の唯一のただしい形態となる簡明な姿につくりあげる、という仕事をひきうけえた唯一の人であったし、また唯一の人である。マルクスの経済学批判の基礎によこたわる方法の完成を、われわれはその意義においてほとんど唯物論的根本見解におとらない成果であると考える。」(『経済学批判』について参照)



 さて、「科学史ハンドブック2019」の始まりは、『資本論』の “Element(Elementarform)” です。
 “Element” の日本語訳は、「原理、初め、初歩、要素、成分、分子、基本、第一原理、元素」などさまざまで、まさに西洋文化の伝統が凝縮されています。ちなみに『資本論』第1章冒頭の「個々の商品はこの富の成素形態として現われる。」(Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine "ungeheure Warensammlung", die einzelne Ware als seine Elementarform.) ―「Elementarform 」を翻訳した日本語をみますと以下のようです。
 岩波書店訳(向坂訳)の成素形態-Elementarform-をはじめ、基本形態、原基形態、要素形態となっています。「Element」が成素、基本、原基、要素と訳され、用語の不統一も甚だしく、これでは科学書としての「共通言語」が形成されていない状況が伺えます。50年ほど前までは、「世界に冠する日本のマルクス経済学」などともてはやされていましたが、今日では何とも底の浅い途上学問であったようです。―ちなみに18世紀末、ラヴォアジェの化学革命は「化学命名法」から始まり、ラヴォアジェ著『化学のはじめ』のフランス語は「TRAITE ÉLÉMENTAIRE DE CHIMIE, :化学の “基礎原理を扱う” 概論」となっています。― 難解であり、解読不能とまで言われる『資本論』の不人気は、出版社や翻訳者による不明瞭な用語法-翻訳書どうしの共通地盤の欠如-も拍車をかけているようです。



 今回ご紹介する「科学史ハンドブック2019」第1回に登場するアイザック・アシモス(1920-1992年)は、「現代科学の複雑な思想を、科学者ではない人にもわかる言葉で説明する、すばらしい才能によってよく知られた」科学者です。『化学の歴史』と『生物学の歴史』の2冊のうち、『資本論』の時代背景に直接結びつく事柄を選んで、「歴史的に、論理的に」西洋科学の歩みを学んでゆきます。『化学の歴史』では、「元素Elememt」概念の形成・発展史を早足で探索します。つぎに『生物学の歴史』から、「化学的な見方」と生物学の相互進化が果たした人類史への貢献を散策してゆきます。二つの科学史の相互交流によって、相補いながら、近代科学の成長を具体的に展望することができます。これらの基礎知識を土台にしながら、改めて『資本論』第1章から第3章を振り返った時、「歴史的に、論理的に」発展の思想で展開されたマルクスの文脈と文体に接し、西洋の最先端科学を駆使しているマルクスの雄姿を垣間見ることができます。
 なお、アシモスが引用している主要な科学者-アリストテレス、ロバート・ボイル、ラヴォアジェ、ドルトンそしてメンデレーエフ-について、当該書物の原本等が参照できるように工夫し、さらに探求を深められるよう便宜を図りましたので活用してください。 では、素晴らしい航海をお楽しみに!!


 
 第1部 古代ギリシャの元素 “Element


  ~「歴史的に、論理的に」 アシモス科学史~


  Ⅰ. アイザック・アシモス著『化学の歴史』
          -古代ギリシャの元素Element ・・・4月号
  Ⅱ. “元素Element概念の形成史”のなかの原子論 ・・・4月号
  Ⅲ. アリストテレスの「四元素説」と第一哲学 ・・・5月号に続く



  Ⅰ. アイザック・アシモス著 『化学の歴史』 プロメテから原子力まで 

     玉虫文一、竹内敬人訳 河出書房 1967年発行

 第1章 古 代

1. 火と石
 人間の祖先が初めて道具を使いはじめた時、彼らは目にふれた自然の産物を、そのまま利用した。大きな動物の大腿骨は手ごろのこん棒になったし、木から折った枝も同じ役に立った。岩石は便利な飛び道具だった。
 何千年という時がたつうちに人間は岩石を刻んで刃や握りをつけることを覚えたし、握りの形にした木の柄に岩石をとりつけることも学んだ。しかし所詮、岩石は岩石であり、木は木であるにすぎなかった。
 ところが物質の性質が変化するようなことも起こった。落雷で森が火事になると、後に残る粉状の黒い灰はもとの木とは似ても似つかぬものになっていた。肉が腐っていやな臭いを出すこともあったし、果汁を放置しておくと、酸っぱくなったり、飲むと妙に浮き浮きするようにもなった。
 われわれが今目化学とよんでいる科学の主題は、物質の性質のこのような(最後に人間が発見したように、構造の根本的変化を伴った)変化である。物質の性質や構造の根本的変化が化学変化である。
 ・・・中略・・・
  この初期の文明の初めの数千年間には、石を扱う新しい技術が工夫されたけれども、依然として石が特有な道具の材料であった。この新石器時代の特徴は、注意深く石を磨く技術にあるが、陶器もまた一段と発達した。そしてこの新石器時代への進歩は、中東から次第に広がっていった。たとえば、紀元前4000年までにこの文明の特徴は、西ヨーロッパにも及んだ。しかしその時すでに新しい変化が中東に-エジプトや、(今イラクという近代国家が占めている) シュメール地方に起こる機運が熟していた。
 人間は比較的まれにしかない材料を利用することを学び始めた。新しい材料はきわめて有用だったので、人間はそれを苦労して探した末に、あれこれ処理したりする不便をあえて忍ぶようになった。われわれはこれらの材料を金属(metal)とよんでいるが、この言葉自身がこの変化の事情をよく伝えている。というのも、金属という言葉は、おそらくギリシャ語の「さがす」という意味の言葉から派生しているからである。


2. 金属
 最初に見いだされた金属は、金属の固まりの形として存在していたに違いないし、またそれも金塊や銅塊であったに違いない。というのも、これらは時折天然に単体として産出することもある、数少ない金属の仲間だからである。銅の赤みがかった色とか、金の黄色は人目を引いたに違いなく、その上、概して単調で特徴のない色をしている石に比べると、はるかにすばらしく美しい金属の光沢は、人々の眼を引きつけたに違いない。どんな形で金属が発見されたにせよ、全属は、美しい色の小石や真珠貝と同じように、初めは装飾品として用いられた。
 けれども金属が他の美しいものよりもまさっている点は、銅や金には展性がある、つまり、こわさないで平らに打ち延ばしがきく、という点にある(そんなことを試みれば、石はこなごなになってしまうし、木や骨は裂けてバラバラになってしまう)。確かにこの性質の発見は偶然によるが、一度発見されると、人間は美的感覚に駆られて、金属塊をその美しさがいっそう増すように複雑な形に打ち延ばしたのであった。
 ・・・中略・・・
  ともかく、少なくとも進んだ文明の中心地では、銅は道具にも使えるほどありふれたものになった。エジプトのある墓の中で発見されたフライパンは、紀元前3200年のものである。紀元前3000年までに、銅のきわめて硬い変種が発見された。それは(初めは疑いもなく偶然に)銅の鉱石とスズの鉱石を、同時に熱することによって得られた。・・・

 純粋な鉄(練鉄)はあまり堅くはない。しかし鉄の道具や武器は、木炭から炭素を得て、鋼鉄とよばれる鉄-炭素合金の層を表面に形成している。この表面は最上の青銅よりも堅く、また鋭い刀を長持ちさせる。ヒッタイト地方におけるこの「鋼鉄化」の発見こそ、鉄の冶金における決定的な転換点となつた。鋼鉄のよろいをつけ、鋼鉄の武器で武装した軍隊が、青銅のよろいと武器で武装した他の軍隊を打ち負かすのは当然のことであった。こうして鉄器時代が訪れた。

 良質の鉄の武器を大量に装備した最初の軍隊はアッシリア人の軍隊であった。卓越した軍備によって、彼らは紀元前900年までに強大な帝国を建設した。
 ギリシアの偉大な時代が訪れる以前にも、実用的な化学技術はかなり進んだ段階に達していたのであった。それは死後の人体を防腐保蔵することに強い宗教的関心のあったエジプトで、特に著しかった。エジプト人は冶金だけではなく、鉱物から顔料を作ったり、植物から汁や煎じ汁をとったりする名人であった。・・・


3. ギリシア人の「元素」
 紀元前600年までに快活で知的なギリシア人は、宇宙の本性や、それをつくっている材料の構造に対して、注意をはらうようになった。ギリシアの学者、つまり「哲学者」(知恵を愛する人)の関心は、ものごとの「理由」にあって、技術とか実用的発展への関心は薄かった。つまり彼らは、今日ならば、われわれが化学理論とよぶようなものを取り扱った、最初の人々であった。
 このような理論はタレス(紀元前640頃-546)に始まる。物質の本性の変化の奥にひそむ意味を、深く、そして充分に考えたギリシア人がタレス以前にもいたかもしれないし、またギリシャ人以外にもそういう人々がいたかもしれないが、彼らの名前も思想も全然伝わっていない。
 タレスは、現在トルコ領になっている、エーゲ海西沿岸地方にあるイオニアのミレトスに住んでいたギリシア哲学者であった。タレスは自分自身に次のように問いかけたに違いない。青い石が赤い銅に変化することができるように、もし一つの物質が他の物質に変化することができるのであれば、物質の本性とは何であろうか?それは岩石であろうか、それとも銅であろうか? それとも二つのものは全く異なったものであろうか? すべての物質は一つの基本的材料の異なる面にすぎないのであって、一つの物質は(おそらくいくつかの段階を経て)他のどのような物質にも変化できるのであろうか?
 タレスにとっては、この最後の質問に対する答えは肯定的であると考えられた。というのもこうすることによって初めて、宇宙に根本的な単純さと秩序を導入することが可能になるからである。こう考えれば、残っている仕事は、何がその基本的材料、すなわち元素であるかを決めることであった。
 タレスは元素は水であると決めた。すべての物質のなかで、水ほど多量に存在するものはないように思われた。水は大地をとり囲み、蒸気となって大気中に充満し、固い地面の間をちょろちょろ流れた。水がなければ生命も存在し得なかった。彼は、地球は半球の空をいただいている円板で、無限の大きさをもつ大洋にただよっているものと見立てていた。
 すべての物質のもとになる元素が存在する、というタレスの決定は、のちの哲学者たちにかなりひろく受け入れられたが、その元素が水であるという考えは反論された。・・・中略・・・

 アナクシメネスの時代に、ペルシア人はイオニア沿岸地方を征服した。イオニア人の反乱が失敗すると、ペルシアの統治は苛酷になり、弾圧の下で科学的伝統は衰えていったが、しかしその前に移住してきたイオニア人はその伝統を西方に伝えた。イオニアからはなれた島の出身の、サモスの人ピタゴラス(紀元前582頃-497)は紀元前529年にサモスを離れ、南イタリアに旅行したが、ここで彼の教えは有力な思想団体を後に残した。
 ピクゴラス派の教えに傾倒した人の中でぬきんでていたのはシチリア出身のギリシア哲学者エンペドクレス(紀元前490頃-430頃)であった。彼もまた、宇宙がつくられている元素の問題にとりくんだ。イオニアの哲学者のいろいろの提案のどれをとるか、を決する方法はないように思われたので、、エンペドクレスは一つの妥協を考えついた。
なぜ元素は一つしかないのであろうか? なぜ四つではいけないのであろうか? ヘラクレイトスの火、アナクシメネスの空気、タレスの水、そしてエンペドクレス自身が加えた土がすべての元素であってもよかった。

 四元素の説は最も偉大なギリシア哲学者アリストテレス(紀元前384- 322)に受け入れられた。アリストテレスは、元素とはそう名付けられた文字どおりの物質である、とは考えなかった。つまり、彼は、われわれが触れたり感じたりできる水が、実際元素の「水」であるとは考えなかった。実際の水は、元素に最も近い実在の物質にすぎなかった。
 アリストテレスは、元素を二対の相反する性質、温と冷、乾と湿の組み合わせであるとした。彼は一つの性質はその反対の性質と結合できないと考えたので、彼の図式のなかには四つの可能な組み合わせが残り、その各々が異なる元素を表わした。温-乾は火、温-湿は空気、冷-乾は土、冷-湿は水であった。
 彼はさらに一歩を進めた。各々の元素はそれぞれいくつかの固有の性質をそなえていた。つまり落下するのは土の本性であり、上昇するのは火の本性であった。ところが天体は、地上にある物質のもっている、どんな性質とも異なる性質を示すと考えられた。上昇することも落下することもなく、天体は地球の周りを不変の円をえがいて動くように思われた。
 そこでアリストテレスは、天体は五番目の元素からできていると推論し、それを「エーテル」(「輝く」という意味の言葉からとった、というのも天体の最も顕著な特徴はそれらが発光することであったから)と呼んだ。天体は不変であると思われたので、アリストテレスは、エーテルは完全で、永遠で、腐敗しないものであって、地球にある四つの不完全な元素とは全く異なったものであると考えた。
 四元素説は2000年にわたって人間の心を支配してきた。・・・


4. ギリシアの「原子」
 ギリシア哲学者の間に起ったもう一つの大きな疑問は、物体の分割可能性に関するものであった。二つに割られた、もしくは粉々になった石のかけらは、依然として石であり、そのかけらをさらに細分することもできた。ごのような分割、そして再分割を無限に続けることができるであろうか?
 イオニアの人レウキッポス(紀元前450頃)は、どんなに小さい物体の一片でも、さらに小さい破片に分割できるという、一見無理のない仮定を疑問視した最初の人のようである。レウキッポスは、もうこれ以上小さくなれないし、これ以上分割もできないという破片が最終的に得られると主張した。
 北エ-ゲ海沿岸の町アブデラの人である彼の弟子のデモクリトス(紀元前470頃-380頃)は、この考え方を追った。彼はこの究極的な小粒子を「分割できない」という意味でアトモスと呼んだが、われわれはこれを原子(アトム)として引き継いでいる。物体は究極的な小粒子からできていて、無限には分割されないという学説は、原子論として知られている。

 デモクリトスは、各々の元素の原子は大きさも形も異なっていて、この差異が各元素に異なった生質を与える、と考えた。われわれが見たり触れたりすることのできる物質は、異なる元素の原子の混合物からできていて、一つの物質は原子の混合の割合を変えることによって他の物質に変化させることができた。
 これらのすべては現代的な考え方に非常に近いように思われる。しかしデモクリトスは確証するため実験にたよることは全くできなかった(ギリシア哲学者たちは実験はしないで、「第一原理」から議論を始めることによって結論に達していた)。
 ほとんどの哲学者にとって、特にアリストテレスにとって、物体の破片をさらに小さい破片に分割できないという概念はあまりにも逆説的なので、これを認めることはできなかった。そのため原子論的な考え方は不人気で、デモクリトスの時代から2000年もの間ほとんど問題にされなかった。
 しかし原子論は死に絶えたのではなかった。ギリシアの哲学者エピクロス(紀元前342頃-270)は自分の学説に原子論をとり入れ、そしてエピクロス派の哲学はその後数世紀にわたって、多くの信奉者を得た。この信奉者の中にローマの詩人ルクレティウス(紀元前95頃-55頃)がいた。彼はデモクリトス、エピクロスら原子論者の考えを『事物の本性について』という題の長い詩のなかで解説した。これは今までにかかれた教訓詩(教えることを目的とした詩)のなかで最上のものだと考える人も多い。
 とにかく、デモクリトスやエピクロスの作品は失われてしまい、ただ断片や他の哲学者による引用だけが残っているのに反して、ルクレティウスの詩は完全な形で残り、原子論者の考えを現代に伝えた。現代において、新しい科学的方法による努力によって原子論は最終的勝利を収めた。〔編集部注1、2参照〕

・・・以上、『化学の歴史』第1章 ギリシャ人の「元素」要約終わり・・・ 
   →アシモス『生物学の歴史』はこちら・・・

 Ⅱ. “元素
Element 概念の形成史” の “原子論”


 “元素 Element 概念の形成史”のなかの原子論として、Ⅰ.アイザック・アシモス著『化学の歴史』に続いて19世紀の科学史の概略を参照します。ドルトンからメンデレーエフの周期律にいたる元素と原子説は、幾多の混乱を経て西洋の科学者たちが達成した一大イベントであり、“科学の金字塔”を樹立したものです。マルクスは、これらの業績に敬意を表して、『資本論』第2版へ “Element” を刻印し、「経済学の世界」に “Elementarform” として編入させたものです。
 では、足早に「原子論」のその後の歩みを辞典から参照しましょう。


 ~日本大百科全書解説「原子論」 より、(〔〕内に一部追加と編集部注)~

 ・・・一方、古代において原子論と対立した〔アリストテレス四元素説などの〕元素説も、化学反応の間にも変化を被らずに保存されるものがあると化学者たちが考え始め、原子論に接近していった。オランダのゼンナートの、四元素に対応した4種の原子あるいは粒子の想定はその現れである。
 しかし、元素説と原子論の完全な結合は、四元素説を払拭した近代的元素説の誕生後であった。1803年にイギリスのドルトンは、ラボアジエの諸元素に原子を、化合物に分子(複合原子)〔ドルトンは複合原子と命名〕を対応させ、それぞれの相対重量を算出した。ここに初めて、異種原子の規定がほぼ実証的に重量によって〔相対的重量として〕なされたのである。この結果、哲学的傾向の勝っていたこれまでの原子論は、科学の名に値するものになり、ラボアジエの元素説とともに化学を一新し、実り豊かな成果をあげることとなった。スウェーデンのベルツェリウスは精確な原子量決定の努力を長年続けた。

 〔資本論ワールド編集部では、「ラヴォアジェからドルトンを経て、メンデレーエフにいたる一連の元素・原子の統一的概念の発展・成立を“元素 Element 概念の形成史”として位置づけています。〕

 しかし、分子中の原子数を決定する一貫した根拠を欠いたため、倍数比例則などの傍証にもかかわらず、原子論への懐疑が化学者の一部にあり、原子量のかわりに当量〔equivalent weight ;独語 Ӓquivalentgewicht 相対的な比例量として扱い、原子量を認めていない〕を用いる者も現れた。単体における多原子分子の想定によって、ゲイ・リュサックの気体反応の法則と原子論とを調和させたアボガドロの仮説(1811)はこの問題を解決するはずであったが、実証性に欠けていると考えられた。〔半世紀にわたって無視されつづけた。〕この世紀に新しくおこってきた有機化学において、原子量が不確定なために、一つの化合物の分子式がさまざまに〔多数の分子式が〕決められ混乱が生じた。この問題を解決するためにドイツのカールスルーエで開かれた国際化学者会議(1860)の閉会後に配付されたカニッツァーロの論文別刷はアボガドロの仮説に実証性を与え、ついに原子量問題に決着をつけた。〔編集部注1〕この結果、すでに生まれつつあった原子価概念が明確になり、有機化学構造論の発展、J・L・マイヤー、メンデレーエフによる周期律の発見(1869)が引き続いた。後者は、「諸元素の化学的性質と物理的性質は原子量に周期的依存性をもつ」(メンデレーエフ)ことを明らかにしたもので、ドルトンの開始した元素と原子の統一を、その本質解明は20世紀を待たねばならなかったが、名実ともに完成したものである。[肱岡義人・阿部恭久]。〔編集部注2〕・・・以下、省略・・・

 〔編集部注1〕 国際化学者会議の提唱者は、31歳の若いアウグスト・ケキュレで、ヨーロッパ各地からブンゼン、フランクランドそしてメンデレーエフら著名な化学者が参集した。カニッツァーロは、会議で4項目の提案を行っている。
アボガドロの仮説、「同温、同圧の下では、すべての気体の同体積は、同数の分子を含む」を認めるべきである。
化学物質の性質を保持する最小粒子、すなわち「分子」(原子の集合体)、の概念を確立すべきである。
単一からなる気体分子は、例外を除き、2原子分子である。
原子の結合能力、「原子価」は、無機化合物、有機化合物に関係なく、等しく適用できる。

 〔編集部注2〕 メンデレーエフ(1834-1907年)は、元素を原子量順に並べた周期表に、将来発見されることを予測して3ヵ所の「空席」を設けた。予言した新しい元素は、1875年ガリウム、1879年スカンジウム、1886年ゲルマニウムとして命名され発見されている。予言の的中によって、周期表がはじめて科学的に実証されたといえる。


 ・・・第1回 『資本論』の科学史ハンドブック2019-1 4月号 終わり・・・
 
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