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『資本論』-西洋哲学史と「形相と質料」の研究 -1-

 シュヴェーグラーと今道友信の『西洋哲学史』より 

-『資本論』の科学史ハンドブック2019-1 序論-

 ~ 

  資本論ワールド編集部 はじめに

 *『資本論』に登場する“商品種 Warenart”の翻訳に対して、向坂訳以外は、“-art (Art:生物の種) ”に対して岡崎訳をはじめとして「種類-商品種類」と翻訳しています。この翻訳語の違いは、『資本論』と“どのように向き合う”という姿勢の違いが顕著に現われています。ここにも、西洋文化に対する「認識の差異」あるいは「無意識的欠如の発露」とでも言える現象が、翻訳家個人個人の深層心理に根差しています。古代ギリシャは、考えられているよりも、ずっと存在の彼方だったのです。・・・

 今回紹介する二つの『西洋哲学史』は、古典的な名著として定評のある書物です。
シュヴェーグラー著『西洋哲学史』 (岩波書店上巻 1939年発行)と今道友信著『西洋哲学史』 (講談社 1987年発行)
 いずれも大変読みごたえがあり、西洋の伝統的思考方法を学ぶうえで、必須のテキストといえます。とくに、古代ギリシャ時代-アリストテレスの論理と思想は、中世から近代にわたって、西洋人の科学的思考の枠組みに根底的に、決定的な影響を及ぼしています。ヘーゲルはもとより、マルクスにおいてもこれら西洋科学の思考形式を継承し発展させながら『資本論』の叙述を行っています。『資本論』の科学史ハンドブック2019-1の中心テーマである「成素形態Elementarform」の「form」の語源とも直接に結びつく大変重要な論点です。

 さて、『資本論』の科学史ハンドブック2019に先立って、中核的な「形相と質料(形式と素材)」を中心に探求してゆきます。まずは最初に、今道氏のテキストから「形相エイドス」を研究します。古典ギリシャの「形相」は、私たちが『資本論』で理解している「形態/Form」や「形式/Form」の語源的な源流であり、マルクスの用語法の“背骨”を形成していますので、日本文化の代表的な作品として先に探索してゆきます。
 次に、ヘーゲルの後継者であり、世界的なベストセラーであるシュヴェーグラーの「四原理-形相と質料」そして「デュナミス(dynamis〔可能態〕)とエネルゲイア(energeia〔現実態〕)」を探求します。

 今回は、二つの『西洋哲学史』の当該箇所の紹介し、次回に『資本論』の関連個所と比較対照しながら分析をーマルクスの「経済学の方法」とともに行いますので、よろしくご検討ください。(〔〕の中見出しと段落分けの数字は、編集部による。)

 第1章 アリストテレスの「形相エイドス」について

    -今道友信『西洋哲学史』- 講談社 1987年発行



  〔第1節〕 アリストテレースの形相とは… (『西洋哲学史』 74ページ)
 
1. こういうソークラテースやプラトーンの伝統を継いでアリストテレースという人が出ました。先ほどプラトーンの年代をいうのを忘れました。ソークラテースは死んだ年だけがはっきりしていると申しましたが、これは前にもふれましたように、紀元前399年に死にました。 フラトーンは紀元前427から347年まで生きた人です。アリストテレスは、これから述べますが、紀元前384年から322年まで生きた人です。お互いが約40年の差で続いています。アリストテレースは東洋の大哲学者シナの荘周〔荘子〕と同時代者です。
 このアリストテレースは、プラトーンが考えて、神の創造の原型であるとしたイデア、それから、道徳をはじめ価値の理念的極点としてのイデア、精神の目でみなければならない支配的な法則としてのイデアという考え方に対して、現代的なわかりやすい考え方でエイドスを説明しました。これはイデアと同義ですが、彼はこれを好みました。
 アリストテレースは18歳のときにプラトーンに弟子入りをしたものですから、プラトーンにならってイデアとかエイドス(εἰδoς)という語を使いますが、後者のほうが多い。形相(エイドス)とは、手っ取り早く申しますと、生物の種(類種関係の種)だといってよろしい。エイドスとは、それゆえ、個物に内在して内的規定原理であるということになります。

2. たとえばアリストテレースは、有名な言葉、「アントローポス・アントローポン・ゲンナイ」と書きました。これはギリシア語で「人は人を生む」ということです。アントロポスというのは「人」という意味ですが、皆さまこのごろ人類学とか人間学とかいう言葉をお聞きになるでしょうが、文化人類学というときの人類学はアンソロポロジーと申します。アンソロポロジーというのはアントロポスからくる言葉です。哲学では、同じアンソロポロジーというのを人間学といっておりますが、それもアントロポス(人)のロゴス(論理)ということです。
 それはともかく、アリストテレースの言葉に戻りましょう。単語の意味がわかると覚えやすくなりましたでしょう。もういちどくり返しますと、「アントローポス・アントローポン・ゲンナイ(人は人を生む)」とアリストテレースはいっております。

 これはどういう意味かと申しますと、生物の種別は厳格で、定められた種〔「種」のドイツ語はArt、ラテン語で genusですが、 ギリシャ語は形相と同じ、「エイドス είδος : eidos 」〕しか生まない、ということです。犬は犬を生み、猫は猫を生む。それはなぜかといえば、みえざるある原理としてのエイドスが個体内にあって、それが誕生を通じて生物界を支配している。自然界の大きな現象である生殖の秘密を握っているものとして、生物の種があって、それはそれぞれの個体に内在し、そのかぎりにおいて自然の世界のなかにおける動きを支配しつづけている。それから考えつくものに、成立しているあらゆる事物について、それの設計図のようなものとしての形相(エイドス)がありはしないか、という問いがあります。
 たとえば大工が家を建築するというときに、あるタイプの設計図ができて、そのタイプに従って同じ形ではあるが、それぞれ違った家をどんどんつくってゆく。形相は同じでも一つ一つ別の家族の住んでいる違った家ができてゆく。そういうことを考えると、形相というのは設計図のようなもので種別の原理であると考えることができ、個別化の原理は物質のほうにあることになります。こうして、生物の種とか事物の設計図というような形で、アリストテレースはエイドス、すなわち形相という存在者をわれわれにわからせるように語りかけました。

   〔第2節〕 精神で本当のことを見ようとする努力

3. この形相が設計図であるというのであれば、図面になって外在的なものか、というとそうではない。図面がなくても、つくる人の頭のなかに明瞭に見取図があればそれでよいわけで、それを外化すれば設計図になる、というものです。
 設計図というのは頭のなかにある精神の目でみたものを紙の上に書くのですから、設計図がではなく、設計図のもととなる構想が形相だと考えなければならない。そうすると、一言でいうならば、ソークラテース、プラトーン、アリストテレースという、三人のギリシアを代表する哲学者たちは、ちょうど多くの人びとが、縄を使って土地を測っていたときに、夕レースがその縄を于がかりにして、実際の目にはみえない直線を考えていったように、つまり長さだけがあって、幅も大きさもない純粋幾何学的な直線を考えてゆくことができたように、実際の現象を手がかりにして、じつは現象を支配するみえざる世界を考えようとしたということ、多少の違いはあるが、現象を支配するみえざる形相をみつけようとした点では同じになります。そして、それが哲学の原型だといってよろしいと思います。そういう意味においては、ギリシアの哲人たちは、哲学の原型(Urtypus)をこしらえる努力をしていった人たちなのでございます。 ・・・略・・・

  第2章 シュヴェーグラーによる「アリストテレスの哲学」 

   - シュヴェーグラー『西洋哲学史』 上巻 岩波書店 1939年発行より


  資本論ワールド編集部 はじめに

 マルクスが古代ギリシャの巨人たちの末裔であり、『資本論』には度々アリストテレスが登場してきます。『資本論』の精華である商品と貨幣の「価値形態」に見られるアリストテレスの分析事例は、古典ギリシャ時代の到達点が示されています。

  ★デュナミス(dynamis 可能態〕)とエネルゲイア(energeia 現実態)

 「貨幣形態という概念の困難は、一般的等価形態の、したがって、一般的価値形態なるものの、すなわち、第三形態の理解に限られている。第三形態は、関係を逆にして第二形態に、すなわち、拡大された価値形態に解消する。そしてその構成的要素konstituierendes Elementは第一形態である。すなわち、亜麻布20エレ=上衣1着 または A商品x量=B商品y量 である。したがって、単純なる商品形態〔A商品x量=B商品y量〕は貨幣形態の萌芽〔Keim:胚芽〕である。」(『資本論』第1章商品 岩波文庫 p.129)



   〔第1節 アリストテレスの「形相と質料」について〕



  〔プラトンのイデア〕

1. プラトンでは個物とイデアとの関係が全く曖昧である。かれはイデアを原型と呼び、事物はイデアを分有する(metechein)とする。しかしこれは空虚な詩的比喩にすぎない。超越的な典型の「分有」、模写とは一体どう考えたらよいのか。プラトンにはこの点についてもっと立ちいっか説明は少しもない。質料がいかにしてまたなぜイデアを分有するかはまったくわからない。これを説明するには、事物の「分有」の原因を含んでいるような、もっと高い原理をイデアに認めなければならないであろう。というのは、動かすものなしには「分有」の根拠は理解できないからである。とにかくイデア(例えば人間のイデア)と現象(例えば個々の人々)との上に、両者を合一する第三のもの、共通のものがなければならないであろう。すなわち、アリストテレスが慣用している非難の言葉を用いれば、イデア説は「第三の人間」(tritos anthrōpos)の想定に導くのである。

  〔アリストテレスのイデア説批判〕

2. ―このようにイデア説を批判した結果アリストテレスがどうしているかと言えば、かれは普遍が個物のうちに内在するものとしている。個物の本質としての普遍を見出して概念的定義を与えようとしたソクラテスの方法は、普遍的なものなしには学は不可能なのだから、きわめて正しかったのであるが、といつてこの普遍的概念を独立させて実在する個別的実体にまで高めあげたプラトンの学説は誤っている。普遍的なものである種や類は、けっして個物以外に個物から離れて存在しはしない。事物とその概念とは互に分離して存在することのできないものである。

 このように言っているからといってアリストテレスは、普遍的なものだけが真実在であり個物の本質であるとするプラトンの根本観念からはなれたのではない。かれはむしろそれを、それにつきまとっている抽象性から解放し、それをいっそう密接に現象界と結びつけたのである。かれの根本前提は、一見師の説に反するように見えるが、プラトンのそれと同一であってかれもまた概念のうちに事物の本質(to ti estin, to ti ēn einai)が認識され表現されるとしているのである。ただかれは普遍的なもの、概念が、形相と質料とが不可分であるように、特定の現象から不可分であると考えている。かれによれば、もっとも本来の意味での本質すなわち実体(ousia ウーシア)とは、他のものについて述べられず、他のものがそれについて述べられるものだけである。すなわち「このもの」(tode ti)、個別的存在、個物であって、普遍ではないのである。

  〔 アリストテレスの四原理あるいは四原因、および形相と質料との関係〕

3. プラトンのイデア説の批判から直接に、アリストテレスの体系の枢軸をなしている、質料(hylē ヒュレー:素材、材料)および形相(eidos エイドス)という二つの根本規定が生れてくる。アリストテレスは、完全を期するばあい、概して形而上学的原理(archē)あるいは原因を四つ挙げている。質料、形相、運動因(to dia ti)、目的(to telos, to hou heneka)がこれである。家屋を例にとれば、質料は木材であり、形相は家屋の概念、運動の原因は建築師、目的は現実の家屋である。しかしながら、すべての存在の以上四つの根本規定は、つきつめて見れば質料と形相との対立に還元される。第一に運動因という概念は、二つの観念的原理である形相因および目的囚と合致する。すなわち、運動因は完成されていない現実態すなわち可能的存在(dynamei einai)を現実態あるいは完全現実態(energeia, entelecheia)へ、質料を形相へともたらすものである。しかし、不完全なものが完全なものへ向って運動するばあいには、必ず完全なものが概念上この運動に先だっており、その概念的動機をなしている。したがって質料の運動因は形相である。

 人間を生みだす運動因は人間であり、彫刻家の芸術的直観のうちにある彫像の形相は、彫像を作りだす運動の原因である。また、健康はそれが快癒の運動因となる以前に、医者の観念のうちにあるのである。したがって、健康は或る意味において医術のはたらきをし、家屋の形相は建築術のはたらきをする。しかし同様に、あらゆる生成と運動との動機は目的であるから、運動因すなわち第一原因は、目的因すなわち究極原因と同一である。家屋の運動因は建築師であるが、建築師の運動因は実現さるべき目的である家屋である。この例を見てもわかるように、形相および目的という根本規定も、両者がエネルゲイアすなわち現実態という概念のうちで結びつきあうかぎりでは、合致する。というのは、すべての物の目的は、その完成された存在である概念、すなわち形相であり、事物のうちに可能的に含まれているものを開示して完全な現実態へもたらすことにあるからである。手の目的は手の概念であり、種子の目的は、同時にその本質でもあるところの木である。このように見てくると、われわれに残るものは、互に他のうちへ還元されない二つの根本規定、質料と形相である。

   〔自然物は現実に到達した“可能的なもの”〕

4. アリストテレスによれば、質料とは、形相を捨象して考えられるばあい、まったく述語をもたず無規定で区別のないものである。それはすべての生成の根柢に常に存在しており、まったく反対の形相をさえ受けいれるが、それ自身としてはすべての生成したものとは異なっており、少しも特定の形相をもたない。それは何にでもなりうるものであるが、現実的には何でもないものである。椅子にたいして木材があり、彫像にたいして青銅があるように、すべて規定されたものの根抵には第一質料がある、とアリストテレスは考える。そしてこの質料という概念によって、存在するものは存在するものからも存在しないものからも生ずることができないのに、一般に或るものがどうして生成することができるかという、多くの論議をまねいた難問を解決したと考えているのである。というのは、或るものは絶対の非有からではなく、ただ現実には存在しないもの、すなわち能力から言えば存在するものから生ずるのだからである。可能的存在は、非有でもなく現実でもない。すべて現存している自然物は、現実へ到達した可能的なものである。質料はしたがってアリストテレスにあっては、質料をまったくの非有としたプラトンにおけるよりも、はるかに積極的な基体である。アリストテレスが質料を形相に対立させて、積極的な消極、形相に対立するものと考え、積極的な否定(sterēsis)と名づけることができたのも、ここから説明される。

   〔質料から形相への不断の移行〕

5. 質料がデュナミスと一致するように、形相はエネルゲイアと一致する。区別なく規定のない質料を、区別あるもの「このもの」(tde ti)、現実的なものとするのは形相である。それはあらゆる事物に特有の能力、完成された活動、魂である。したがってアリストテレスが形相と呼んでいるものを、われわれの言う型(Façon)のようなものと混同してはならない。例えば、切断された手もなお手の外形をもってはいるか、アリストテレス的に考えれば、これは手の質料にすぎず、手の形相ではない。現実の手すなわち形相としての手とは、手に特有の働きをなしうるものである。純粋な形相とは、質料をもたぬ本質(to ti ēn einai)、純粋な概念である。しかしこのような純粋な形相は、限定されている存在の世界には見出されず、限定されている存在、個別的実体(ousia)、「このもの」は、すべて質料と形相とから合成されたもの、シュノロン(synolon)である。したがって、存在するものが純粋な形相、純粋な概念であることをさまたげるのは質料である。質料は生成、多、多様、および偶然の原因であり、同時に学を限界づけるものである。なぜなら、個物は質料を含む程度に応じて認識できないものだからである。

 しかし、以上述べたことから、質料と形相との対立は固定したものでないこと、或る関係において質料であるものも他の関係においては形相であることがわかる。材木はできあがった家屋にたいしては質料であるが、切られない木にたいしては形相である。魂は肉体にたいしては形相であるが、形相の形相(eidos eidous)である理性〔ヌース〕にたいしては質料である。このような見地からすれば、存在全体は一般に、少しも形相を含まぬ第一質料(prōtē hylē)を最下段とし、少しも質料を含まず純粋な形相である究極の形相(絶対的、神的な精神)を頂点とする、一つの段階をなしているはずである。そして両端の間にあるものは、或る観点からすれば質料であり、他の観点からすれば形相であって、言いかえれば、質料から形相への不断の移行である。

 全自然は質料が永遠に段階的に形相となることであり、この尽きぬ根源が次第により高い観念的形成物へ発展することである―これが特にアリストテレスの自然観の根柢にある見地、まず分析的な自然観察によつて見出された見地である。もちろん、すべての質料が形相となり、すべてのデュナミスがエネルゲイアに、すべての存在が知識になるということは、実現されえぬ理性の要求であり、すべての生成の目標である。なぜ実現できぬかと言えば、アリストテレスがはっきり言っているように、質料は形相の欠如であるから、決して完全にエネルゲイアに達することはなく、したがってまた完全に認識されることはないからである。これを見れば、アリストテレスの体系も結局質料と形相との二元論を克服していないのである。
  〔第3章 デュナミス(dynamis〔可能態〕)とエネルゲイア(energeia〔現実態〕)〕

6. 質料と形相との関係は、これを論理的に理解すれば、デュナミスとエネルゲイアとの関係であることがわかった。デュナミスとエネルゲイアという言葉は、哲学的意味においては、アリストテレスがはじめて創ったものであって、アリストテレスの体系の特性をもっともよく示している。可能的に存在するものが現実的に存在するものになるということのうちには、生成の概念が顕現的に示されているのであって、一般にアリストテレスの四原因は生成の概念をその諸モメントへ分解したものである。したがってアリストテレスの体系は生成の体系であり、エレア学派の原理がプラトンにおいてそうなっているように、アリストテレスにおいてはヘラクレイトスの原理がより豊かにより発展したかたちで復帰しているのである。アリストテレスはこれによってプラトンの二元論を克服する重要な一歩を進めたのである。質料が形相のデュナミスであり、生成しつつある理性であるとすれば、イデアと現象の世界との対立は、少くとも原理的、可能的には克服されている。というのは、質料および形相としてあらわれるものは、ただ発展段階を異にした同じ存在だからである。デュナミスとエネルゲイアとの関係を具体的に説明するに、アリストテレスは、加工されぬものと加工されたもの、建築師と現に建築に従事している者、眠っている人とめざめている人との関係を例にとっている。木のデュナミスは種子であり、エネルゲイアは生長した木である。可能的に哲学者である人は、現に哲学的思索をなしつつある人ではない。可能的な勝利者は、戦場にのぞむ以前にもすぐれた将軍である。

 可能的には空間は無限に分割できるものである。一般に、運動、発展、変化、他在の原理をもつもの、妨げられさえしなければ自分自身によって存在するようになるものは、可能的にあるのである。エネルゲイアあるいはエンテレケイアとはこれに反して、完全な行動、到達された目標、完成された現実性であり(例えば、生長した木は種子のエンテレケイア〔実現態〕である)、行為と行為の完成とが合致している活動である。例えば、見ること、考えることについて言えば、われわれは見つつあると同時に見てしまったのであり、考えつつあると同時に考えてしまったのであって、二つのものは同一である。(生成と結びついている活動、例えば学ぶこと、行くこと、健康になることなどにおいては、二つのものは同一でない。)このように形相(すなわちイデア)をエネルゲイアあるいはエンテレケイアとして、すなわち生成の運動と結びつけて理解するのが、アリストテレスの体系がプラトンのそれと異なっている主な点てある。プラトンはイデアを静止したもの、生成と運動とに対立したもの、自立的存在としているが、アリストテレスにあっては、イデアは生成によって永遠に作り出されるものであり、永遠のエネルゲイア、すなわち完全な現実性のうちにある活動であり、アン・ジヒ〔an sich : 自己の即して〕にあるもの(可能的なもの)のフュール・ジヒ〔für sich : 自己が分化して〕にあるもの(現実的なもの)への運動によって不断に到達される目標であって、できあがった存在ではなく、不断に産出される存在である。 ・・・以下、省略・・・