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帝国主義 コトバンク2023.09.10
→百科事典マイペディア 「帝国主義」の意味・わかりやすい解説
帝国主義【ていこくしゅぎ】 最下↓
https://kotobank.jp/word/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E7%BE%A9-100031
帝国主義(読み)ていこくしゅぎ(英語表記)imperialism 英語
日本大百科全書(ニッポニカ) 「帝国主義」の意味・わかりやすい解説
帝国主義
ていこくしゅぎ
imperialism 英語
impérialisme フランス語
Imperialismus ドイツ語
帝国主義ということばはきわめて多義的に用いられる。広義かつ一般的には、その語源がローマ皇帝の支配する皇帝国家(インペリウムimperium)に由来することからも明らかなように、政治的、経済的、軍事的、さらには文化的な権力・権威をもってする他民族の領土や国家への侵略と支配、を意味する。近代では19世紀初めナポレオンによる皇帝国家実現の企てに関連して用いられ、ついで1870年代後半イギリスの植民地帝国の拡大強化をめぐる論争のなかで、領土膨張主義ないし植民地主義をさす政治上の用語として普及した。しかし、その後、20世紀への転換期を挟んで帝国主義は、近代資本主義の自由競争段階から独占と金融資本が支配的となる独占段階への移行転化を背景に、列強資本主義諸国による世界市場支配と植民地獲得をめぐる経済上の対立と紛争に関連して用いられるのが一般的な傾向となった。
[吉家清次]
帝国主義の歴史的形成
最初に近代資本主義体制を確立して以降、世界の工場、世界の商人、世界の銀行家として、その圧倒的な優位性を享受していたイギリスの地位も、19世紀後半になると、まずドイツ、フランス、ついでアメリカの急速な資本主義的発展によって脅かされつつあった。世界は諸資本主義国間の厳しい競争の時代に入ったのである。この厳しい競争の時代を象徴的に示したのが、1873年から実に23年間の長期にわたってヨーロッパを襲った大不況である。この長期不況への対応策として諸国が採用したのが、外に向かっては自国の支配市場領域としての植民地の獲得であり、内部的には独占的企業結合の推進であった。とくに、なお最強国であったイギリスは、世界市場での優位性を背景に次々と植民地・従属国を獲得し、第一次世界大戦前には本国の100倍もの領土の55の植民地を獲得した。もちろん植民地獲得は平和的にのみ行われたわけではなく、1869年のイギリスのスエズ運河の支配をめぐるフランスとの対立やエジプトへの武力侵入、1884年のイギリスによる「帝国連邦同盟」の結成と、続く南アフリカへの侵略、さらには1898年のアメリカ・スペイン戦争、1899年のイギリスによるブーア戦争など、つねに列強間の世界の分割と再分割をめぐる政治的・軍事的対立と闘争を通して進められたのである。そして第一次世界大戦が、イギリスやフランスなど「持てる国々」とドイツ(やがて日本やロシアも加わる)などの「持たざる国々」との間の世界の植民地・従属国の再分割をめぐる帝国主義戦争として勃発(ぼっぱつ)することになる。
ところで、諸列強の世界支配をめぐる対立激化の根底には、大不況期を背景とする自由競争資本主義の、独占と金融資本が支配する独占資本主義への発展転化がある。不況の長期化が、イギリスの一国資本主義の時代から諸資本主義国による競争的発展に伴う世界市場の生産力過剰化の時代への移行の結果として起こったとするならば、カルテルやトラストといった独占的企業結合が販路を求めての世界市場の分割のための企てとして広がっていく一方で、他方では過剰化した生産と資本の輸出先をめぐる諸列強の世界の再分割のための対立と抗争も激しくなっていく。とりわけこの期の国際経済関係で特徴的となった過剰資本そのものの輸出は、輸出資本の権益の擁護という名目での軍事的侵攻を伴う結果、諸列強による植民地的支配は不可避的な傾向となって広まっていった。こうして時代は、のちに歴史家たちのいう「帝国主義の古典的時代」となったのである。
[吉家清次]
帝国主義の理論的分析
ホブソンの理論
最大の植民地帝国イギリスに生きたJ・A・ホブソンは、経済学の立場から帝国主義の理論的分析を試みた最初の人である。彼は、資本主義の産業不況の原因を富の分配の不平等と富裕階級による過剰投資からくる過少消費に求めたが、その著『帝国主義論』(1902)では、帝国主義の経済的原因を、国内の過剰な商品と資本のための市場を獲得しようとする産業家と金融投資家たちの(武力を伴った)対外政策にあると強調している。彼の帝国主義論は、植民地国家として莫大(ばくだい)な海外投資家階級を擁しているイギリスの現実を踏まえ、イギリス資本主義の寄生的な金利生活者国家への移行を鋭く批判したものであった。同時に彼は、もし所得分配が平等化され、消費が増大すれば、過剰生産と過剰資本したがって帝国主義政策も解消されるはずだと考えた。この理論は、独占資本主義のもとでの帝国主義の不可避性を強調するマルクス主義者たちによって改良主義と厳しく批判されたが、他方、のちにケインズにより、その過少消費説や金利生活者論とともに高く評価された。
[吉家清次]
ドイツ社会民主党の諸理論
帝国主義の分析は、ついでドイツ社会民主党に結集するマルクス主義者たちによって試みられた。まず、R・ヒルファーディングは『金融資本論』(1910)を著し、マルクスの『資本論』の理論を資本主義の最新の現実に適用し発展させようとした。彼は、資本主義経済過程に発生する遊休貨幣資本を集中的に動員し、株式会社制度や融資などを通して産業資本に転化している銀行資本を「金融資本」と規定し、この金融資本による産業とカルテルやトラストなどの独占的企業結合体の支配がみられるのが、資本主義の新しい特徴だと指摘した。そして帝国主義とは、高率保護関税、ダンピング、国際カルテル、資本輸出などとともに、金融資本が対外面でとる政策の一環であると説明した。
同様に社会民主党の理論家K・カウツキーは、第一次世界大戦中に発表した諸論文で、帝国主義を、先進工業国を支配する金融資本による独占利潤の獲得を目ざしての後進的農業地域支配のための政策体系であるとみた。ついで彼は、帝国主義戦争の莫大な負担に気づいた資本家たちが、やがて平和的な世界の分割支配のための協定を結ぶだろうとして、「超帝国主義」論を主張した。
彼らの理論は、レーニンの『帝国主義論』(後述)によって、独占資本の役割を過小に評価し、帝国主義を単なる政策体系とのみ考える点で誤っていると批判されたが、株式会社論や金融資本概念などは基本的に受け入れられた。
他方、R・ルクセンブルクは、同じ社会民主党の左派の立場から、『資本蓄積論』(1913)を著し、カウツキーらを批判した。彼女は、資本主義の現実的な資本蓄積の過程が可能となるためには、非資本主義的な地域の搾取と収奪を媒介としなければならないが、このことは、一方で保護関税や軍国主義などの帝国主義的傾向を、他方で非資本主義的領域の絶えざる狭隘(きょうあい)化とを必然的に引き起こすと説く。終局的には資本主義的世界の終焉(しゅうえん)を導くとみる彼女の理論は、帝国主義的対立の厳しさを鋭く指摘するものではあったが、マルクスの再生産=蓄積理論の誤解にたち、帝国主義を資本蓄積という資本主義の一般的性格に解消し、近代帝国主義の本質の解明にはならなかった。しかし、彼女の理論は、近代帝国主義したがって植民地主義の崩壊が進んだ第二次世界大戦後において、A・G・フランクやS・アミンらによる南北問題=発展途上国の自立的経済開発論の立場からの支配‐従属論(新帝国主義論)の先行理論として再評価された。
[吉家清次]
レーニンの理論
以上のドイツ社会民主党の諸理論を批判的に継承し、マルクス主義の帝国主義分析を集大成したとされるのが、ロシアの革命家レーニンの『資本主義の最高の段階としての帝国主義』(1917。いわゆる『帝国主義論』)である。彼は、帝国主義の基本的特徴を次の5点に求めている。(1)資本主義的市場競争の過程で生産と資本がますます少数の巨大企業に集中し、この高度の集中と集積を基礎にカルテル、シンジケート、トラストといった独占的結合が発展し、自由競争資本主義は独占資本主義に移行した。独占は市場と価格を支配し、独占的高利潤を生み出すと同時に、多様な産業にまたがる大企業を統合する少数の企業結合体(コンビネーション)を形成し、全経済生活で決定的な位置を占めるに至っている。(2)これら独占形成を促すとともに、資金の融資や株式発行さらには役員派遣などを通して巨大産業と巨大銀行との融合・一体化が進み、支配的な資本形態としての金融資本が形成された。金融資本は、生産と資本の支配的部分を占め、独占体の形成を指導し、独占利潤を取得し、経済の全領域にわたる金融寡頭制支配を行っている。(3)金融寡頭制支配は、経済領域にとどまらず、政治の領域にも影響力を及ぼし、同時に国際的にも拡大している。すなわち、独占と金融資本の形成によって生じた過剰資本は、より高い利潤とより有利な投資機会を求めて後進的地域に輸出される。従来の商品輸出と並び、これを越えて独占資本主義の国際経済面の一大特徴となった資本輸出は、排他的で優遇的な取引条件(特恵的な通商条約、鉄道・港湾の排他的占有、有利な条件での証券発行の引受けなど)によって、金融資本の莫大な利潤の主要源泉となっている。(4)こうして世界市場は、国際的な独占体によって分割支配されるに至っている。電気産業や石油産業さらに国際金融資本などにみられる国際カルテル、国際シンジケート、国際トラストなどによる世界の分割協定が、その主要な形態である。(5)そればかりか世界市場の分割は、諸列強国による地球の領土的分割の経済的な基礎となり、植民地支配を発展させた。たとえば1914年では、本国の約100倍の植民地をもつイギリスと、同じく約20倍を支配するフランスを筆頭に、ロシア、ドイツ、アメリカ、日本を加えて六大列強は合計で本国の約4倍の植民地を支配していた。アフリカの90%、南洋諸島のほとんどが列強諸国の植民地となっていた。いまや諸列強の支配領土拡大による権益の強化は、世界の再分割以外によっては不可能となっている。この世界の再分割をめぐる列強国間の抗争こそ、帝国主義の根本であり、帝国主義戦争を不可避としている経済的背景である。この意味で帝国主義は、「資本主義の最高の発展段階」であり、その経済的基礎は独占資本主義である。同時に帝国主義は、国内・国際にまたがっての独占と金融資本による経済的支配と政治的専制のうえに成立している点で、金利生活者的な寄生性と腐朽化が進んだ資本主義の段階をも意味し、歴史的にみて、その進歩的な役割を終えた「死滅しつつある資本主義」とみなければならない。また独占的高利潤は、列強国内の一部の労働者に特権的な地位をもたらす経済的可能性をつくりだし、国際的な労働運動と社会主義運動の(この労働貴族層による)分裂傾向をつくりだす。しかし、帝国主義的な民族抑圧と政治的・経済的支配の強化は、これらの運動を拡大強化しており、その点で帝国主義は「社会主義革命の前夜」となっている。
以上のレーニンの帝国主義論は、それまでの諸理論を批判的に集大成するとともに、第一次世界大戦の根本を資本主義体制の基本動向から分析し、「戦争から内乱へ、そして革命へ」という彼の社会主義革命の戦略をマルクス主義の立場から理論化しようとしたものであったといえよう。そしてその後、(1)第一次世界大戦の過程でロシアに社会主義革命が成功して以後、世界は資本主義体制と社会主義体制との二大体制に分裂、競合の時代に入ったこと、(2)大戦の結果、敗戦国ドイツのみならず戦勝国イギリス、フランスといったヨーロッパ諸国の地位が経済的にも政治的にも大きく後退し、長期にわたって停滞していったこと、(3)他方、資本主義世界の指導国として目覚ましい発展をみせたアメリカも、1929年の恐慌に始まる長期不況に突入し、この不況を契機に世界は植民地圏を軸とする多極的なブロック経済の時代となっていったこと、(4)ついで第二次帝国主義戦争である第二次世界大戦に突入していったこと、そして、(5)第二次世界大戦後、東欧諸国や中国に人民民主主義革命が起こり、社会主義的世界が拡大したこと、など一連の現実を背景に、「資本主義の全般的危機」論や「国家独占資本主義」論といった新しい諸説に補強されながら、このレーニンの帝国主義論の正当性と権威が一段と高まっていった。
[吉家清次]
戦後の帝国主義
しかしながら反面、第二次世界大戦後の世界の政治・経済的諸動向は、このレーニンの理論だけでは十分に説明しえない新しい諸問題をも生み出してきた。すなわち、(1)第二次世界大戦を契機に資本主義列強諸国の植民地・従属国が次々と独立し、植民地主義の崩壊、帝国主義の終焉が、世界史の紛れもない潮流となっていったこと、(2)にもかかわらず、戦後の資本主義経済は、戦後の混乱期を急速に脱し、程度の差はあれ歴史上まれなほどの経済成長の時期となったこと、(3)他方、社会主義世界でも独裁的指導者スターリンの死をきっかけに東西対立緩和の気運が生まれ、資本主義体制との平和共存の方向が打ち出されたこと、(4)しかし、資本主義体制の着実な成長に比べて、社会主義体制の経済的成果はかならずしも良好とはいえず、ソ連対東欧、ソ連対中国という対立と分裂化が進んでいったこと、(5)そして戦後独立を達成した旧植民地・従属国が国連などで多数派となり、国際政治・経済面での発言力と影響力を増大していったこと、など一連の動向は、帝国主義を資本主義の不可避的産物と規定し、社会主義革命と資本主義の「死滅」の必然性を強調したレーニン的理論では説明しきれない動きといえよう。
戦後の旧植民地の独立は形式的なものであり、実質的には依然として政治的、経済的、軍事的な従属関係にあり、レーニン的な帝国主義の根本は存続しているとする新植民地主義説も、一部に登場した。しかしこの理論では、石油産出諸国による国際石油資本(メジャー)の支配をはねのけての石油値上げの動きや、領土・資源の恒久主権を強めつつある資源ナショナリズムの動きなどを十分に説明しえないであろう。また、戦後の国際経済関係は、中枢的な先進工業諸国と衛星的発展途上諸国との間の不平等な支配‐従属関係にあり、発展途上国の「自立的国民経済の形成」は、この従属の鎖を断ち切ることから始まるとする新帝国主義論も説かれた。確かに、現在目覚ましく成長を遂げつつある新興工業諸国でさえ、莫大な累積対外債務を抱え、経済困難に直面していた。しかし、この対外債務をめぐる貸し手である先進諸国と借り手である新興工業諸国との利害関係は複雑であり、債務国の立場がつねに従属的であるとはかならずしもいえない。少なくとも第二次世界大戦後の「南北問題」の根本は、民族的独立と自立的な経済発展を達成しようとする改革運動にあり、かつての帝国主義的支配とはまったく反対の動きであるとみるべきであろう。
さらに1950、60年代以降での社会主義体制内部での分裂化傾向と、これを阻止しようとするソ連の東欧圏への政治的・経済的圧力と軍事的介入という問題があり、こうしたソ連の動きをとらえて、中国は、大国主義的で社会帝国主義的行動と厳しく批判した。こうした大国による弱小国への直接・間接の(ときに武力行使を伴った)介入をも帝国主義的行動とみるならば、アメリカのベトナム戦争への介入と同時にソ連のアフガニスタンへの進攻があり、社会経済体制にかかわりなく、政治的、経済的さらに軍事的に有力な大諸国が、その権力を用いて弱小で後進的な国や地域に及ぼす政治的、経済的、軍事的さらには社会的、文化的な多面にわたる支配的影響力の拡大・強化の企てだ、とする新しい帝国主義の特徴づけが可能となるであろう。その意味で、非マルクス経済学の立場から、帝国主義をある歴史的時代に生まれ発展する「時代精神」の現れとみて、その時代精神はむしろ経済社会の変化に取り残された古い勢力によって担われ鼓舞されるとみるJ・シュンペーターの『帝国主義の社会学』(1919)の理論が改めて注目されよう。そこで彼は、当時認められた帝国主義的傾向は、前記のような古い社会勢力に指導された「国家の無際限な拡張という無目的な素質」から生まれた「隔世遺伝的なもの」と分析し、近代資本主義が合理化され発展するにつれて、やがて消滅していく傾向だと結論している。
1990年前後でのソ連社会主義体制の崩壊とアメリカ一国による政治的、軍事的超大国体制の形成、さらにはEU(ヨーロッパ連合)などの超国家的な地域統合化の動きなどをとらえて、現代経済の国際化・世界化に伴う帝国主義の新しい展開形態、すなわち(米ソ二極体制の第二段階に続く)20世紀帝国主義の第三の発展段階と規定して、レーニン的帝国主義理論の有効性を説くむきもあるが、しかし日米欧先進諸国間に加えて東アジアや中国などの新興工業諸国地域を交えての世界市場での激しい経済競争や旧植民地諸国の経済的自立化と政治的発言力の増大などを考えるならば、こうした説は分析の概念枠の無原則的な拡張であり、説得力をもつものではない。多くの歴史家が指摘するように、帝国主義とは、基本的には19世紀から20世紀の二つの世界戦争に至る近現代史の重要ではあるが一つの側面を特徴づける歴史の現実とみるべきものであろう。
[吉家清次]
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日本における帝国主義
日本帝国主義の成立の時期については、いくつかの説がある。日本において独占資本主義が確立したのは第一次世界大戦後であり、独占資本主義=帝国主義とみるならば、日本帝国主義の成立は第一次世界大戦後ということになり、そういう説も現に存在する。しかし、日本帝国主義の特徴としてレーニンも指摘した、「軍事力の、あるいは広大な領土の、または他民族、中国その他を略奪する特殊な便宜の独占が、現代の最新の金融資本の独占を、一部は補充し、一部は代位している」という事実に示されているように、独占資本主義の確立以前に帝国主義的他民族支配に乗り出しているという事実があるので、日本帝国主義は、独占資本主義の確立以前に成立したとする諸説が生まれてくる。それらの説も、日清(にっしん)戦争、義和団事件、日露戦争の時期というように分かれている。さらにこのような国内的要因のほかに、19世紀末から20世紀初めにかけて世界史的に帝国主義が成立して、日本の動向が国際的な帝国主義的対立の一環となることで帝国主義的な役割を演じるという事情も、このような説の生まれる根拠になっている。いまのところ学界の多数意見は、この独占資本主義確立以前に日本帝国主義の成立を主張している。
こうして成立した日本帝国主義の特徴の第一は、「独占資本主義の侵略性は、絶対主義的な軍事的封建的帝国主義の軍事的冒険主義によって倍加されている」(三二年テーゼ)点にある。つまり、経済構造上では独占資本主義によって特徴づけられる近代的資本主義的帝国主義の段階に到達しているにもかかわらず、この基礎構造のうえに、半封建的な絶対主義的天皇制が君臨しており、この天皇制の固有の物質的基礎は半封建的小作制度=寄生地主制にあり、日本帝国主義は、この絶対主義的侵略主義=軍事的封建的帝国主義と近代資本主義的帝国主義との二重の契機をもち、いわば二重の帝国主義として特徴づけられる。この二重の帝国主義の理論に賛成できない論者も、日本帝国主義は軍事的封建的な特徴をもつものとする点では一致している。
日本帝国主義の特徴の第二は、英・米帝国主義に金融的に従属した帝国主義であるという点にある。1916年(大正5)における外資の総額は約19億円で、国民所得総額の36億円の52%を占め、政治的には独立しているが、金融的に従属した帝国主義の特徴をもっている。この金融的従属から外交的従属のコース=「外務省外交=霞が関(かすみがせき)外交」とよばれるものも生まれ、一方、それに反対する軍部外交=「三宅坂(みやけざか)外交」も生まれる。
この日本帝国主義は三大基本矛盾をもっていた。第一の基本矛盾は、国内における天皇制・ブルジョアジー・地主と、労働者・農民・都市小市民との矛盾、すなわち国内矛盾である。第二の基本矛盾は、列強帝国主義、ことに米・英帝国主義との矛盾である。第三の基本矛盾は、日本帝国主義と植民地・半植民地の諸民族との矛盾である。1917年ロシア革命が成功して社会主義が出現して以後は、第四の基本矛盾として、日本帝国主義と社会主義との矛盾が加わる。日本帝国主義は、1931年(昭和6)の中国東北=満州侵略以来、1937年の日中戦争を経て太平洋戦争に突入し、1945年8月敗北して、連合国に占領され、その「非軍事化、民主化政策」によって、崩壊させられた。
[犬丸義一]
『J・シュンペーター著、都留重人訳『帝国主義と社会階級』(1956・岩波書店)』▽『小山弘健・浅田光輝著『日本帝国主義史』全3巻(1958~60・青木書店)』▽『井汲卓一他編『現代帝国主義講座』(1963・日本評論社)』▽『井上清著『日本帝国主義の形成』(1968・岩波書店)』▽『江口朴郎著『帝国主義の時代』(1969・岩波書店)』▽『J・A・ホブソン著、矢内原忠雄訳『帝国主義論』(岩波文庫)』▽『R・ヒルファディング著、岡崎次郎訳『金融資本論』上下(岩波文庫)』▽『レーニン著、副島種典訳『帝国主義論』(大月書店・国民文庫)』
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◆百科事典マイペディア 「帝国主義」の意味・わかりやすい解説
帝国主義 【ていこくしゅぎ】
軍事力を背景に他国を植民地や従属国に転化する政策。英語ではimperialism。歴史上の膨張主義,征服主義と同義に使うこともあるが,特に19世紀末以来金融独占資本主義段階に至った国家が,商品や資本の輸出を保護するために発展途上諸国を支配しようとした政策をいう。J.A.ホブソンの《帝国主義論》(1902年)やヒルファディングの《金融資本論》(1910年)などの先駆的研究があるが,これらに学びつつレーニンは《帝国主義論》(1917年)においてマルクスの経済理論を発展させ,資本主義が独占資本の段階に入った時にその最高形態としての帝国主義に転化すると規定し,帝国主義の五つの特徴として生産の集中・独占,金融寡頭支配の確立,資本輸出,国際カルテルによる国際市場の分割支配,世界分割の完了をあげている。帝国主義の段階に入って資本主義の基本的矛盾は著しくなり,国内では階級対立が激化し軍事体制が強化され,また帝国主義国と植民地・従属国との対立,先進国と発展途上国の対立,国際市場の争奪戦等が激化した。2度にわたる世界大戦はその必然的結果であった。第2次大戦後,植民地の大部分は独立国となり,世界の構造は大きく変動したが,新たに巨大化した多国籍企業が台頭して発展途上国をはじめ国境を越えた支配網を張りめぐらしており,また先進諸国と新独立国の間に〈新植民地主義〉と称される経済的・政治的な支配・従属関係が形成されている。このような構造を,〈中枢〉が〈周辺部〉の経済的余剰を収奪し,低開発を再生産していると捉える〈従属論〉(A.G.フランク)が提起されている。→近代世界システム/構造的暴力
→関連項目アジア|金融資本|資本主義|太平洋戦争(日本)|ナショナリズム
出典 株式会社平凡社
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レーニン 1. 「さしせまる破局、それとどうたたかうか」
2. 『帝国主義』
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レーニン『帝国主義論』
構成
生産の集積と独占体
銀行とその新しい役割
金融資本と金融寡頭制
資本の輸出
資本家のあいだでの世界の分割
列強のあいだでの世界の分割
資本主義の特殊な段階としての帝国主義
資本主義の寄生性と腐朽
帝国主義の批判
帝国主義の歴史的地位
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→■植民地帝国の形成 小学館より
世界の植民地支配ってどうして始まったの? きっかけは?
詳しく知るための本も紹介【親子で歴史を学ぶ】
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金本位制
金本位制 2022.04.17
→旺文社日本史事典 三訂版「金本位制」の解説
→本位貨幣 コトバンク ブリタニカ
金本位制
きんほんいせい
金を貨幣価値の基準とし,他の貨幣と金との自由な交換(兌換 (だかん) )や,金の自由な輸出入を認める制度
日本では1871(明治4)年の新貨条例で採用したが,貿易決済には銀を用い,国内でも実質的には銀本位制に変わった。のち世界的に金本位制が広まり,日本も日清戦争の賠償金を準備金として,'97年の貨幣法で名実ともに採用した。1917年,第一次世界大戦のため金輸出を禁止,'30年に解禁したが世界恐慌の打撃をうけ,'31年末,犬養毅内閣が再禁止し,金本位制は事実上停止された。
出典 旺文社日本史事典 三訂版
■金本位制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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金本位制(きんほんいせい、英語: gold standard)とは、一国の貨幣価値(交換価値)を金に裏付けられた形で金額を表すものであり、商品の価格も金の価値を標準として表示される。この場合、その国の通貨は一定量の金の重さで表すことができ、これを法定金平価という[注釈 1] 。19世期後半の大不況期に採用が進み、20世紀には国際決済銀行とブレトン・ウッズ体制の礎となった。しかし、1971年の米ドルの金兌換停止以降、先進国のほとんどは管理通貨制度に移行した。
概要
狭義では、その国の貨幣制度の根幹を成す基準を金と定め、その基礎となる貨幣、すなわち本位貨幣を金貨とし、これに自由鋳造[注釈 2]、自由融解を認め、無制限通用力を与えた制度である。これは特に金貨本位制という。つまり、金そのものを貨幣として実際に流通させる事である。実際には、流通に足りる金貨が常備できない、高額になりがちな金貨は持ち運びが不便、使用により磨耗するなどの理由により、金貨を流通させられない場合が多い。そこで、中央銀行が金地金との交換を保証された兌換紙幣(だかんしへい)および、本位金貨に対する補助貨幣を流通させる事により、貨幣価値を金に裏付けさせる事が行われた。これを金地金本位制(きんじがねほんいせい)という。一般には、金貨本位制と金地金本位制を含めて金本位制という。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「本位貨幣」の解説
本位貨幣
ほんいかへいstandard money
一国の貨幣制度の基本となる貨幣。金本位制国の金貨や銀本位制国の銀貨がその代表的な例。商品の価値尺度および価格の度量基準としての機能をもち,その価値はそれと純分および量目を等しくする貨幣素材の価値に等しい。この本位貨幣は正貨と呼ばれる。金本位制度のなかでも金貨と金地金との自由な交換が行われ,金貨が最も典型的な本位貨幣であるが,金貨が現実には流通しない金地金本位制度や金為替本位制度においても,金が価値尺度および価格基準の機能を果している以上,金貨が本位貨幣であることに変りはない。これら金貨,金地金,金為替は銀行券の兌換の基礎となり,正貨準備と呼ばれる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
科事典マイペディア「本位貨幣」の解説
本位貨幣【ほんいかへい】
一国における価値尺度および価格の度量標準として法律により認められた貨幣(法貨)で,無制限の強制通用力をもつ。補助貨幣に対する。本位貨幣の価値は本来一定量の金属(金または銀)と関係づけられており,日本でも金貨が発行されていたが,1931年の金本位制停止により発行を止めた。→本位制度
典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて
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本位貨幣
日本大百科全書(ニッポニカ)
「本位貨幣」の意味・わかりやすい解説
本位貨幣
ほんいかへい
standard money 英語
Währungsgeld ドイツ語
法定された金(銀)純分を含有する鋳貨のこと。おもに近代的な貨幣制度である金本位制のものをさすが、それ以前であっても、価値尺度機能を果たす金属の鋳貨をさしてこのようにいう。特定の金属がすでに価値尺度となっている現実を基礎に、国家は本位standardを制定する。すなわち、特定金属の一定重量をもって価格の単位とし、これに貨幣単位名称を与えるのである。たとえば、日本の貨幣法(1897年制定)では、純金の重量750ミリグラムを価格の単位とし、これを円とよぶよう定めていたので、これに基づいて鋳造される10円金貨は、純金7.5グラムを含有していることになる。このような鋳貨を本位貨幣といい、補助貨幣と区別している。本位貨幣は、その金額に制限なく通用する無制限法貨であり、その品位(他金属との合金の割合)と量目(重量)は法定される。さらに、流通する本位貨幣の金量を維持するために「通用最軽量目」を定め、摩損によってこれを下回るものは引き換えられる。このような本位貨幣の鋳造・発行は、その「自由鋳造」「自由鎔解(ようかい)」(金地金(じがね)の金貨鋳造が求められれば政府はこれに応じること、およびその逆)による金の市場価格と鋳造価格(純金750ミリグラム=1円)との乖離(かいり)防止を通じて、また、金の自由輸出入、中央銀行券の金貨兌換(だかん)によって、価格標準を固定し、為替(かわせ)相場を安定させることとなった。
[齊藤 正]
[参照項目] | 貨幣 | 貨幣法 | 新貨幣法 | 補助貨幣 | 本位制度
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
◆ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
「本位貨幣」の意味・わかりやすい解説
本位貨幣ほんいかへい standard money
一国の貨幣制度の基本となる貨幣。金本位制国の金貨や銀本位制国の銀貨がその代表的な例。商品の価値尺度および価格の度量基準としての機能をもち,その価値はそれと純分および量目を等しくする貨幣素材の価値に等しい。この本位貨幣は正貨と呼ばれる。金本位制度のなかでも金貨と金地金との自由な交換が行われ,金貨が最も典型的な本位貨幣であるが,金貨が現実には流通しない金地金本位制度や金為替本位制度においても,金が価値尺度および価格基準の機能を果している以上,金貨が本位貨幣であることに変りはない。これら金貨,金地金,金為替は銀行券の兌換の基礎となり,正貨準備と呼ばれる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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「本位貨幣」の意味・わかりやすい解説
一国における価値尺度および価格の度量標準として法律により認められた貨幣(法貨)で,無制限の強制通用力をもつ。補助貨幣に対する。本位貨幣の価値は本来一定量の金属(金または銀)と関係づけられており,日本でも金貨が発行されていたが,1931年の金本位制停止により発行を止めた。→本位制度
→関連項目金銀複本位制度|金属本位制度|金本位制度|銀本位制度|新貨条例|正貨|通貨|平価切下げ|法定平価
出典 株式会社平凡社
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管理通貨制度2023.06.12 管理通貨制度
(005-2) 管理通貨制度 managed currency system
国内通貨の流通量を,正貨(金)準備の増減によって,機械的に増大させたり減少させるのではなく,通貨当局が政策目標に応じて国内の通貨流通量を管理調節しようという制度。1920年代前半にケインズ(J.M.Keynes)によって構想されたが,具体化したのは一般的に1930年代である。今日ではほとんどの国がこれを採用している。
==日本の管理通貨制度==日本銀行のホームページ
管理通貨制度とは,中央銀行が通貨の供給(流通貨幣量)を政策的に管理する制度である。この制度の政策目標は,物価の安定,通貨の購買力の調節と信用と雇用の安定にあり,またその実現の責務を中央銀行は負っている。日本では,1882年の日本銀行設立後,戦時立法である1942年の日本銀行法によって管理通貨制に移行する。日本銀行は特殊法人(資本金1億円で政府55%,民間45%所有)であるが,「通貨の調節,金融の調整及び信用制度の保持育成」を目的とする中央銀行である。この中央銀行は一般的には次のような3つの機能をもつ。
第1は発券銀行であり,発行権を独占しているが,発券限度は政府決定による。第2は銀行の銀行であり,民間銀行との間で当座預金による取引・貸付け・債券売買・為替取引を行う。第3には政府の銀行であり,政府との間で預金・貸付け・国庫事務・外国為替事務などを行う。金融政策としては,公定歩合操作(手形再割引率),公開市場操作(手形や債権の売買で買オペレーションと売オペレーションで操作),預金準備率操作(支払準備率の変化で信用創造を調整。銀行の規模と種類,預金の種類に応じて1.2%~0.05%の幅)を行っている。
(増田・沢田編著『現代と現代経済学(第2版)』有斐閣,有斐閣ブックス,2007年,38頁)
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◆国債本位制2023.06.12
ーウィキペディア
国債本位制(こくさいほんいせい)とは、その国の中央銀行が発行する貨幣が、その国の政府が発行し中央銀行が保有している国債に裏付けられているという貨幣制度である[1]。
国債本位制を成り立たせる条件
その国の中央銀行が発行する貨幣(当座預金、中央銀行券)によって、その国の政府が発行する国債(元本保証と金利保証がある)を購入できるし、その国債をその国の中央銀行が発行する貨幣(当座預金、中央銀行券)に交換することもできるし、その貨幣によって物やサービスをその国において十分に購入できるために必要な、生産と流通と決済の仕組みが維持されている事である。
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