8. 交換価値の労働時間による規定を理解するためには、次の主要な観点をしっかり理解しておかねばならない。すなわち、労働を単純な、いわば質の差のない労働に整約すること。交換価値を生む、したがって商品を生産する労働を、社会的労働となしている特殊な仕方。最後に、使用価値という結果を生む労働と、交換価値という結果を生む労働との相違。商品の交換価値を商品に含まれている労働時間で測るためには、さまざまな労働自身が、無差別の、一様な、単純な労働に、簡単にいえば、質的に同一であり、したがってただ量的にのみ区別される労働に整約されていなければならない。
9. この整約〔Reduktion:還元〕は抽象として現われる。しかし、それは、社会的生産過程において毎日行われている抽象である。すべての商品を労働時間に分解することは、決して、一切の有機体をガス体に分解する以上に進んだ抽象ではないが、しかし同時に、それ以下に現実性の希薄な抽象でもない。このように時間によって測られる労働は、実際には様々な主体の労働として現われるのではなく、むしろ労働する様々な個人が、同じ労働の単なる器官として現われる。あるいは、交換価値に表われる労働は、一般に人間的な労働という言葉で表わされえよう。この一般的に人間的な労働の抽象は、一定の与えられた社会の各平均的な個人が行いうる平均労働として存在している。すなわち、人間の筋肉、神経、脳髄等々の一定の生産的な支出である。それは、単純労働であって、すべての平均的な個人はこれをなすことが出来るようになっており、また彼は、どんな形態かでこれを行うにちがいない。この平均労働の性質は、それ自身国の異なるにしたがい、また文化時代の異なることによって、ちがっている。しかし、一定の与えられた社会では与えられたものとして現われる。単純労働は、いろいろな統計から人のよく知ることができるように、市民(ブルジョア)社会のすべての労働の圧倒的多数をしめている。Aが6時間の間に鉄を、また6時間の間に亜麻布を生産し、Bが同じく6時間の間に鉄を、6時間の間に亜麻布を生産するかどうか、あるいは、Aが12時間の間に鉄を、またBが12時間の間に亜麻布を生産するかどうかは、明らかに、同一労働時間を単にちがって用いているということにすぎない。しかしながら、より高度の活動性、より大きな特殊の重要さをもつ労働として、平均水準をぬいている複雑労働はどうなるのか?この種の労働は、複合された単純な労働に分解される。すなわち、倍加された単純労働に分解し、したがって、例えば、1複雑労働日は3単純労働日に等しいというようになる。この整約を規整する法則はまだここでの問題ではない。しかし、この整約が行われるということは、明瞭である。何故かというに、複雑労働の生産物は、交換価値としては、一定の割合で単純なる平均労働の生産物に対して等価をなし、したがって、この単純労働の一定量に等しいとおかれているからである。
10. 労働時間による交換価値の規定は、更に次のことを含んでいる。すなわち、一定の商品、例えば、1トンの鉄には、それがAの労働であるかBの労働であるかにかかわりなく、同量の労働が対象化されている、あるいはちがった個人が、質的にも量的にも一定した同一使用価値の生産のために、同じ大いさの労働時間を用いている、ということである。他の言葉でいえば、一つ商品の中に含まれている労働時間は、その生産のために必要な労働時間であるということ、すなわち、与えられた一般的な生産諸条件のもとで同一商品を新たにもう一つ生産するために必要な労働時間である、ということが含まれている。
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11. 交換価値の分析から生ずるこの価値を生む労働の諸条件は、労働の社会的規定である、あるいは、社会的な労働規定である。しかし、社会的といっても一般的にただ社会的であるというのではなく、特殊な様式をもつ社会的という意味である。それは、社会性の特殊な種である。まず第一に、労働の無差別な単純さということは、ちがった個人の労働が等一であるということを意味するのであって、つまり彼等の労働が等一なるものとして相互に関係することである。そしてしかもそれは一切の労働が同一種の労働に事実上整約されることによるのである。各個人の労働は、それが交換価値に表われる限りにおいて、等一性というこの社会的性格をもつのである。そしてこの労働は、それがすべての他の個人の労働に対して等一なるものとして相関係するかぎりでのみ、交換価値に表われるのである。
12. さらに、交換価値においては、個々の個人の労働時間が、直接に一般的労働時間として現われる。そして個別的な労働のこの一般的性格が、その労働の社会的性格として現われる。交換価値に表われる労働時間は、個々の人の労働時間である。個々の個人の労働時間ではあるが、他の個々の個人から、区別されない個々人の、すなわち同一労働を支出する限りでのあらゆる個々の個人の労働時間である。したがって、ある人にとって、一定の商品の生産に必要とされる労働時間は、同時に他の人もみな同一商品の生産に用うる必要労働時間なのである。この労働時間は個々の個人の労働時間である。すなわち、すべての人に共通の労働時間であるかぎりにおいてのみ、彼の労働時間である。したがって、この労働時間にとっては、個々の誰の労働時間であるかは、どうでもよいことである。この労働時間は、一般的労働時間として、一般的生産物に、すなわち一般的等価に、すなわち、対象化された労働時間の一定量に表わされる。それは、直接にある人の生産物として現われる使用価値の特定の形態には、まったく無関係なものであって、他のいずれかの他の人の生産物として表わされる使用価値のあらゆる他の形態に、いかようでも転化するものである。それが社会的な大いさであるのは、ただこのような一般的な大いさとしてのみである。交換価値という結果として表われるためには、個々人の労働は、一般的な等価とならざるをえない。すなわち、個々の人の労働時間を一般的な労働時間として表わし、または一般的な労働時間を個々人のそれとして表わすようにならざるをえない。それは、ちょうどさまざまな個人が彼等の労働時間を一緒にして、彼等の共有の労働時間をつくって、そのうちからそれぞれちがった分量を、おのおのちがった使用価値で表わしたようなものである。こうして、個々の人の労働時間は、実際には、社会が一定の使用価値をつくるために、すなわち、一定の欲望を充すために必要とする労働時間である。しかしながら、ここで問題であるのは、労働が社会的な性格をうけとるその特殊な形態だけである。紡績工の一定の労働時間は、例えば、100ポンドの亜麻糸に対象化される。職工の生産物である100エルレの亜麻布が、同一分量の労働時間を表わしているとする。この二つの生産物が一般的労働時間の同一量を示しており、したがって同一の大いさの労働時間を含むあらゆる使用価値に対して等価であるかぎり、それらの生産物はおたがいに等価となっている。ただ、この場合、紡績工の労働時間と職工の労働時間とが一般的労働時間として、したがって彼等の生産物が一般的等価として表われることによってのみ、職工の労働は紡績工のための、紡績工の労働は職工のための、一方の労働が他の者のための労働になることになる。すなわち、彼等の労働がそれぞれのための社会的な固有性をもつことになる。これに反して、紡績工と職工とが同一屋根の下に住んでいて、例えばその家族の自家用に、女性たちが紡ぎ、男性の側が織ったというような農村的=家父長的工業では、その家族の限界内で、糸と亜麻布とは社会的な生産物であり、紡績と職布とは社会的労働であった。しかし、その社会的な性格は、糸が一般的な等価として、同じく一般的な等価としての亜麻布に対して交換される、すなわち、両者が同一なる一般的労働時間の無差別で異なる所のない表現として、お互いに交換される、ということにあるのではなかった。むしろ、自然発生的な分業をもつ家族結合が、労働の生産物にその独特の社会的刻印を押しつけた。あるいは、中世の役務や実物給付をとって見よう。自然形態をとる個々の人の一定の労働、すなわちその特殊性が、ここでは社会的紐帯をなしていたのであって、労働の一般性ではなかった。あるいは、最後にわれわれがすべての文化民族の歴史の入口の辺りで見る自然発生的な形態の共同労働をとって見よう。ここでは、労働の社会的性格は、明らかに、個々人の労働が一般性の抽象的形態をとり、またはその生産物が一般的等価の形態をとるということによって媒介されているのではない。個々人の労働が私的労働であり、その生産物が私的生産物であることを妨げており、個々の労働をむしろ直接に社会的有機体の成員の機能として現われさせるのは、この生産の前提となっている共同体である。交換価値に表われる労働の前提となっているのは、個別的な個人の労働である。この労働が社会的となるのは、その直接的な反対物の形態、すなわち抽象的一般性の形態をとることによってである。
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〔 商品に表わされた労働の二重性 『資本論』第1章第2節(注12)より 〕
ー*13~20段落などー
*13. 最後に、人間の社会的関係が、いわば逆さに、すなわち、物の社会的関係として、表われるというのが交換価値を生む労働の特徴となるのである。一の使用価値が他のそれに対して交換価値として関係するかぎりにおいてのみ、それぞれちがった人間の労働がたがいに、等一な一般的な労働としてあい関係する。したがって、もし交換価値は人間の間の関係である、ということが正しいとすれば、これに対して、物的な外被におおわれた関係であるということが付け加えられなければならない。1ポンドの鉄と1ポンドの金とが、物理学的に化学的にちがった性質であるにもかかわらず、同一量の重さを表わすように、同一労働時間を含む商品の二つの使用価値は、同一の交換価値を表わしている。かくて、交換価値は、使用価値の社会的な性質規定性として、すなわち、これらの物としての使用価値に与えられる規定性として表われる。そしてこの性質規定のために、これらの使用価値は交換過程で、ちょうど単純な化学的元素が一定の量的比率で化合し、化学的等価をなしているように、一定の量的比率で置き換えられ、等価をなしている。社会的生産関係が対象の形態をとり、その結果人間の関係がその労働において、むしろ物相互の間及び物と人間との間にとる関係として表わされるということは、日常の生活習慣にすぎないものであって、それは少しもめずらしくない自明のこととして表われる。商品ではこの神秘化はまだ極めて単純である。ここでは商品の交換価値としての関係は、むしろ人間の相互的な生産活動に対する関係であるということが、多かれ少なかれ、まだすべての人々の目に浮ぶ。もっと高い生産諸関係では、この単純さの外観は消えてしまう。重金(モネタール)主義(ジュステム)の一切の幻想は、貨幣について、それが社会的生産関係を、しかも一定の性質を持つ自然物の形態で、表わしているということを、看取していないことから生れている。重金(モネタール)主義(ジュステム)の幻想を嘲笑する近代経済学者にあっても、彼等がより高度の経済学的諸範疇、例えば資本を取扱うことになると、同じような幻想があらわれてくる。彼等が同じように不器用に物としてちゃんとつかんでいると考えたものが、とたんに社会関係として表われ、また彼等が社会関係として固定させたものが、すぐにまた物として彼等をなぶることになると、幻想は、彼らの無邪気な驚きの告白の中にどっと表われてくる。
14. 商品の交換価値が事実上、個々の人々のおたがいの間の等一にして一般的なものとしての労働の関係に外ならず、労働の特殊的に社会的な形態の対象的な表現に外ならないのを見れば、労働が交換価値の唯一の源泉であり、したがって、交換価値からなる限り、富の唯一の源泉である、というようなことをいうのは、無意味である。同じように、自然素材は、少しの労働も含んでいないから、そのものとしては何らの交換価値をもたない、また交換価値は、そのものとしては何等の自然素材を含んでいない、というようなことを教えるのも、無意味なのである。しかし、ウィリアム・ペティが「労働は富の父であり、土地はその母である」といい、またはバークリ僧正が、「四大(地水火風)とその中における人間の労働が富の真の源泉であるのではないか」と問い、あるいはアメリカ人のTh・クーパーは通俗の言葉で「一かたまりのパンからこれに用いられた労働、すなわち、パン焼工、製粉工、小作人等々の労働をとり去って見よ。そこに一体何が残るか?残るのは野生で人間に少しも役に立たぬ若干の穀粒である」ことを明言したのであるが、これらのすべての考え方は、交換価値の源泉である抽象的労働については少しも論じなくて、素材的富の源泉としての具体的な労働について、簡単に言えば、使用価値を生むかぎりにおいての労働について論じているのである。商品の使用価値が前提されると、このために費消された労働の特別な有用性、特定の合目的性が前提されることになる。しかし、それと同時に、商品の立場からいえば、有用労働としての労働についての一切の考慮はつくされている。使用価値としてのパンについてわれわれの関心をひくのは、食糧品としての性質であって、決して小作人や製粉工やパン焼工等の労働なのではない。何かの発明によって、この労働の20分の19がしなくてすむようになったとしても、一塊のパンは、以前と同じような働きをするだろう。もし出来上ったパンが天から落ちてきたとしても、その使用価値が、ほんの少しでもなくなると言うようなことはない。一方交換価値を生む労働が、一般的等価として諸商品が等しいということに実現されているとすれば、合目的的な生産的活動としての労働は、その使用価値の無限の多様性のうちに実現されている。交換価値を生む労働が、抽象的で一般的なそして等一の労働であるとすれば、使用価値を生む労働は、具体的で、特殊な労働であって、この労働は形態と素材にしたがって無限に違った労働様式に分れる。
15. 使用価値を生むかぎりの労働について、これが、つくり出した富、すなわち素材的富の唯一の源泉である、というのは間違っている。労働は、いかなる目的かのために素材的なものを獲得する活動であるのだから、前提として素材を必要とする。使用価値の異なるにしたがって、労働と自然素材との割合は大変ちがっている。しかし、つねに使用価値は、自然的な原基を含んでいる。どんな形態かで自然的なものを獲得するための合目的的な活動としては、労働は、人間の生存の自然条件である。すなわち、人間と自然との間の物質代謝の条件であって、すべての社会形態から独立している。これに反して、交換価値を生む労働は、労働の特殊的に社会的な形態である。例えば、特別な生産活動として、一定の物質的性質を与えられた裁縫労働は、上衣を生産するのではあるが、上衣の交換価値を生産するのではない。労働が上衣の交換価値を生産するのは、裁縫労働としてではなく、抽象的で一般的な労働としてである。そしてこの抽象的で一般的な労働は、社会関係から生ずるものであって、これを裁縫師が縫い上げるわけのものではない。このようにして、古代の家内工業では、職工は上衣を生産したが、上衣の交換価値を生産することはなかった。素材的富の源泉としての労働は、立法者モーゼにも、税官吏のアダム・スミスにも知られていた。
16. そこで交換価値を労働時間に帰着させることから生ずる若干のもっと細かい規定を考察しよう。
17. 使用価値としては、商品は、原因の作用をする。例えば、小麦は、食糧のはたらきをする。機械は一定の割合で労働に代わる。商品はこの作用によってのみ使用価値となり、消費の対象となるのであるが、これを商品の効役(ディーンスト)と名づけることができる。すなわち、商品が使用価値としてはたす効役である。しかしながら、交換価値としては、商品は、つねに結果の観点からのみ考察される。ここで問題となるのは、商品のはたす効役ではなく、商品を生産するとき商品のためになされた効役なのである。だから、例えば、一の機械の交換価値は、この機械によって置き代えられる一定量の労働時間によって定められるのではなく、この機械そのものに用いられ、したがって同一種の新しい機械を生産するために必要とされる一定量の労働時間によって定められる。
18. したがって、商品の生産のために必要とされる労働量が不変であるとすれば、その交換価値は不変ということになろう。しかし、生産の難易はたえず変化している。労働は、その生産力が増大するならば同一の使用価値をより短い時間で生産する。労働の生産力が低下するならば、同一の使用価値の生産のために要する時間は多くなる。一商品に含まれている労働時間の大いさ、すなわち、その交換価値は、したがって変化するものであって、労働の生産力の増減に逆比例して増減する。製造工業で予め定められた度合で用いられている労働の生産力は、農業や抽出産業においては、同時に統御しえない自然関係によって制約されている。同一労働を用いても、地殻中にふくまれる一定金属の割合が少ないか多いかにしたがって、それぞれそれらの金属の採掘量は、大きくなったり小さくなったりするだろう。同一労働が、豊年には2ブシェルの小麦に、凶年には恐らく1ブシェルの小麦に対象化されるだろう。ここでは、自然関係として稀少であったり、過剰であったりすることが、商品の交換価値を定めるように見える。というのは、この稀少と過剰とが、自然関係に拘束されている特殊の現実の労働の生産力を定めるからである。
19. さまざまな使用価値は、その不等な分量の中に、同一の労働時間または同一の交換価値を含んでいる。一定量の労働時間を含んでいるある商品の使用価値の分量が、他の使用価値と比較して小さければ小さいほど、この商品の特殊な交換価値は大きい。文化段階がそれぞれ遠く時をへだててちがっている場合に、いろいろの使用価値がおたがいの間に特別の交換価値の系列をつくっており、それらの交換価値が、正確に同じ数の比例をなしてはいなくとも、例えば、金、銀、銅、鉄、または小麦、裸麦、大麦、燕麦というように、相互に上位下位の一般関係をたもっているとするならば、このことから生ずる結果は次のようになる外ない。すなわち、社会的生産諸力の前進的な展開は、かの各種の商品の生産のために必要な労働時間に作用して、これを均等に、あるいは近似的に均等にしてゆくということである。
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*20. 商品の交換価値は、それ自身の使用価値のうちに表われるものではない。だか、一商品の使用価値は、一般的な社会的労働時間の対象化として、他の商品の使用価値と比例関係Verhältnisseにおかれる。この一商品の交換価値は、このように、他の商品の使用価値で表明されているmanifestiert。
実際上、他の一商品の使用価値に表現された一商品の交換価値が等価(物)である。例えば、1エルレの亜麻布は2ポンドのコーヒーに値するとすると、亜麻布の交換価値は、コーヒーという使用価値で、しかもこの使用価値の特定の量で表現されている。この割合 Proportion が与えられているとすれば、亜麻布のいかなる分量でもその価値をコーヒーでいい表わすことができる。
一商品、例えば亜麻布の交換価値は、他の特別な一商品、例えば、コーヒーがその等価(物)をなしている比例関係Proportion でつきているものでないことは明らかである。一般的労働時間の一定量は、これを表示しているのが1エルレの亜麻布であるが、同時に他のすべての商品の使用価値の無限に多様な分量に実現されている。あらゆる他の商品の使用価値が等量の労働時間を表わしている割合 Proportion にしたがって、それらの商品の使用価値は、1エルレの亜麻布の等価(物)をなしている。
したがって、この個々の商品の交換価値を十分に〔余すところなく〕表現するには、他のすべての商品の使用価値がその〔個々の商品の〕等価をなしている無限に多数の方程式をもってくる外ない。これらの方程式の総計(合計)Summe dieser Gleichungen、または一商品が他のあらゆる商品と交換される種々の比例関係 Proportionen の総体(全部・全体) Gesamtheit においてのみ、この商品は一般的/普遍的等価(物) allgemeines Äquivalent として、あますところなく表現される。
例えば方程式の系列Reihe 〔連立方程式〕 〔編集部注〕
1エルレ 亜麻布 = 1/2 ポンド 茶 〔①〕
1エルレ 亜麻布 = 2 ポンド コーヒー 〔②〕
1エルレ 亜麻布 = 8 ポンド パン 〔③〕
1エルレ 亜麻布 = 6 エルレ キャラコ 〔④〕
は、次のように表わされうる、
1エルレ 亜麻布 = 1/8 ポンド 茶 + 1/2 ポンド コーヒー +
2 ポンド パン + (1+1/2) エルレ キャラコ 〔⑤〕
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〔編集部注〕
「例えば方程式の系列Reihe」〔①~④〕が、 1エルレ亜麻布=1/8 ポンド茶+1/2 ポンドコーヒー+2 ポンドパン+(1+1/2) エルレキャラコ 〔⑤〕の式に変形できるのは、1エルレ亜麻布の式〔⑤〕の因数(要素としての茶,コーヒー,パン,キャラコ)と定義する扱いを行なうことになる。この操作により数学的に「連立方程式(未知数の解法)」を立てることと同義となる。この操作により、亜麻布の交換価値が、諸商品の使用価値の違いにも関わらずに”未知数としてのある共通なもの”を表示し、数式化が可能となる。 →「価値方程式のはじまり(1)」作業中ですが、参照ください。
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21. したがって、もしわれわれが、1エルレの亜麻布の価値があますところなく表現されている方程式の総計をもってくれば、その商品の交換価値を一の系列の形で表わすことができよう。事実上この系列は無限である。というのは、商品の範囲は決して最後的に完結するものではなく、つねに拡大されてゆくものであるからである。しかしながら、ある一つの商品は、その交換価値を他のすべての商品の使用価値で測っているのであるから、逆に他のすべての商品の交換価値は、これらの商品で測られているこの一つの商品の使用価値で測られる。1エルレ亜麻布の交換価値が
ポンドの茶、または2ポンドのコーヒー、または6エルレのキャラコ、または8ポンドのパン等々で表現されているとすれば、コーヒー、茶、キャラコ、パン等々は、それらのものが第三のもの、すなわち亜麻布に等しい割合にしたがって、お互いに等しいということ、したがって亜麻布がこれらの交換価値の共通の尺度としてはたらいている、という結果になる。すべての商品は、対象化された一般的労働時間として、すなわち、一般的労働時間の一定量として、その交換価値を、他のすべての商品の使用価値の一定の分量で、順次に表現する。そして他のすべての商品の交換価値は、逆にもっぱらこの一つの商品の使用価値で測られる。しかし、交換価値としては、いかなる商品も他のすべての商品の交換価値の共通の尺度として役立つ唯一の商品であり、また同時に他方では、他のいずれもの商品が多くの商品の全範囲にわたって、その価値を表わすさいのこれらの多くの商品の一つにすぎないものである。
22. 一商品の価値の大いさは、その商品の外に他の種類の商品が、沢山あるか少ないか、ということによるのではない。しかしながら、その交換価値が実現される方程式の系列が、大きいか小さいかは、他の商品の多様性が大きいか小さいかにかかっている。例えば、コーヒーの価値が表わされる方程式の系列は、その交換可能性の範囲を、すなわち、コーヒーが交換価値として機能する限界を言い表わしている。一般的社会的労働時間の対象化としての一商品の交換価値に対して、無限に多様な使用価値におけるその商品の等価性の表現が相応じている。
23.
商品の交換価値は、直接にそれ自身の中に含まれている労働時間の量ともに変化するということがわかった。商品の実現された、すなわち、他の諸商品の使用価値に表現された交換価値は、同じように、他のあらゆる商品の生産に投ぜられた労働時間が変化する割合によるということにならざるをえない。例えば、1シェッフェルの小麦の生産に必要な労働時間は変らないで同一であっても、他のすべての商品の生産に要する労働時間が二倍となれば、等価に表現された1シェッフェルの小麦の交換価値は、半分だけ低下したことになる。この結果は実際には、ちょうど1シェッフェルの小麦の生産に要する労働時間が半分だけ減って、他のすべての商品の生産に要する労働時間が不変にとどまるのと同じである。商品の価値は、同一の労働時間で生産されうる割合によって定められる。この割合が、どんなおそるべき変化を受けるかを知るために、われわれは、かりにAとBという二商品をとってみよう。第一に、Bの生産に必要な労働時間が、不変であるとする。この場合には、Bに表現されたAの交換価値は、Aの生産に要する労働時間が減少するか増加するかに正比例して減少したり、増加したりする。第二に、Aの生産に要する労働時間が、不変であるとしよう。Bに表現されたAの交換価値は、Bの生産に要する労働時間が減少するか増加するかに逆比例して減少したり、増加したりする。第三に、AとBの生産に要する労働時間が、同じ比例で減少するか増加するかするとしよう。AのBにおける等価の表現は、この場合は不変にとどまるだろう。どんな事情かで、すべての労働の生産力が、同じ程度に減退し、したがってすべての商品が同じ割合でその生産のためにより多くの労働時間を必要としたとしよう。この場合、すべての商品の価値は増大するだろう。その交換価値の現実の表現は、不変にとどまるだろう。そして社会の実際の富は、減少したであろう。というのは、社会は同一量の使用価値をつくり出すために、より多くの労働時間を必要とするからである。第四に、AとBの生産に要する労働時間が、両者にとって、ちがった程度で増大するか、減少するかするとしよう。あるいはAに必要な労働時間は増大したのに、Bに対するそれは減少するとする。あるいは、逆だとする。これらすべての場合は、簡単に、一商品の生産に必要な労働時間は不変であるのに、他の商品のそれは増大するか、減少するかする場合に還元することができる。
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