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ヘーゲル「小論理学」用語辞書 (1)

   単純な価値形態と「ヘーゲル論理学」(HP2016)

 
  『資本論』 第1章 第3節 価値形態または交換価値
「単純な価値形態」の形式をヘーゲル「小論理学」を対比しながら、詳細分析


*① 下記の「A 単純な, 個別的な, 偶然な」価値形態をヘーゲル小論理学の用法と対比するために下線部を選択すると、当該「小論理学」に移行します。
*② また、「資本論』経済学批判 第3節価値形態」からも、「小論理学」に移行できます。

単純な
 Einfache
個別的な
 einzelne
または,
oder
偶然的な
 zufällige
価値形態 (第1形態)
 Wertform


 x 量商品 A = y 量商品 B あるいは、x 量の商品 Aは y 量の商品 B に値する   ( 亜麻布20エレ = 上衣1着 または20エレの亜麻布は1着の上着に値する )
   

  1 価値表現の両極。すなわち、相対的価値形態と等価形態

 一切の価値形態の秘密は、この 単純なる価値形態 einfachen Wertform の中にかくされている。したがって、その分析が、まことの難事となるのである。
  ここでは、2種の異なった商品 AとB、われわれの例でいえば、亜麻布と上衣とは、明白に二つのちがった役割を演じている。亜麻布はその価値を上衣で表現している。上衣はこの価値表現の材料の役をつとめている。第一の商品は能動的の役割を演じ、第二の商品は受動的のそれを演じている。第一の商品の価値は、相対的価値として表わされている。いいかえると、第一の商品は相対的価値形態にあるのである。第二の商品は等価として als Äquivalent 機能している。すなわち等価形態 Äquivalentformにあるのである。


  単純な価値形態と「ヘーゲル論理学」(1)

 A 単純な、  個別的な、または 偶然的な 価値形態 (第1形態
   Einfache、 einzelne、oder  zufällige  Wertform

 『資本論』の第1価値形態 = ヘーゲル「小論理学」構造分析(本質論-概念論)
 1.「単純な  einfache 」 = §164, §171, §178, §181, §193.
 2.「個別的な einzelne 」 = §126補遺, §136補遺2, §163, §164.
 3.「偶然的な zufällige 」 = §136補遺2, §166補遺, §173補遺, §186.


1.「単純な einfache =§112, §144, §164, §171, §178, §181, §193.


「小論理学」第3部 概念論
   (§160-244)
   A 主観的概念 a 概念としての概念

§112
 本質(Wesen)は媒介的に定立された概念( gesetzter Begriff )としての概念である。その諸規定は本質においては相関的であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ反省したものとして存在していない。したがって概念はまだ向自(Fürsich)として存在していない。本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するものである。もっとも、この他者そのものが有的なものとしてではなく、定立され媒介されたものとして存在している。-有は消失していない。本質はまず、単純な自己関係として有である。しかし他方では、有は、直接的なものであるという一面的な規定からすれば、単に否定的なもの、すなわち、仮象(Schein)へひきさげられている。―したがって本質は、自分自身のうちでの反照(Scheinen)としての有である。

§115  〔 抽象 Abstraktion
 本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性(Identität mit sich)である。
  この同一性 Identität は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、抽象Abstraktion とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。
 同一性 Identität を、命題の主語としての絶対者と結合すると、絶対者は自己同一なものであるという命題がえられる。―この命題はきわめて真実ではあるが、しかしそれがその真理において言われているかどうかは疑問であり、したがってそれは、少くとも表現において不完全である。なぜなら、ここで意味されているのが抽象的な悟性的同一性、すなわち本質のその他の諸規定と対立しているような同一性であるか、それとも自己内で具体的な同一性であるか、はっきりしないからである。後者の場合には、後でわかるように、それはまず根拠であり、より高い真理においては概念である。―絶対的という言葉さえ、抽象的という意味しか持たないことが多い。絶対的空間、絶対的時間というような言葉は、抽象的な空間、抽象的な時間を意味するにすぎない。
  ・・・以下、省略・・・

§118  〔 相等性 Gleichheit =『資本論』向坂訳:同一性、等一性 
 相等性 Gleichheitとは、同じでないもの、互に同一でないものの同一性であり、不等性 Ungleichheitとは、等しくないものの関係である。したがってこの二つのものは、無関係で別々の側面あるいは見地ではなく、互に反照しあうものである。かくして差別は反省の区別、あるいは、それ自身に即した区別、特定の区別となる。

§118補遺
 単に差別されたものは互に無関係であるが、相等性と不等性とは、これに反して、あくまで関係しあい、一方は他方なしには考えられないような一対の規定である。単なる差別から対立へのこうした進展は、すでに普通の意識のうちにも見出される。というのは、相等を見出すということは、区別の現存を前提してのみ意味を持ち、逆に、区別するということは、相等性の現存を前提してのみ意味を持つ、ということをわれわれは認めているからである。区別を指摘するという課題が与えられている場合、その区別が一見して明かなような対象(例えばペンと駱駝のように)しか区別しえないような人に、われわれは大した慧眼を認めないし、他方、よく似ているもの(例えば「ぶな」と「かし」、寺院と教会)にしか相等性を見出しえないような人を、われわれは相等性を見出す勝れた能力を持っている人とは言わない。つまりわれわれは、区別の際には同一性を、同一性の際には区別を要求するものである。にもかかわらず、経験科学の領域では、人々はこれら二つの規定の一方のために他方を忘れることが非常に多く、或るときは学問的関心がひたすら現存する区別を同一性へ還元することに向けられ、また或るときは、同じく一面的に、ひたすら新しい区別の発見に向けられている。こうしたことは特に自然科学において行われている。人々はそこで、一方では新しい、ますます多くの新しい物質、力、類、種、等々を発見しようとしており、これまでは単純と考えられていた物体が複合物であることを示そうとしている。そして近代の物理学者や化学者は、たった四つの、しかも単純でさえない元素で満足していた古代人をわらっている。他方ではしかしかれらは、今度はまた単なる同一性をのみ眼中におき、例えば電気と化学的過程とを本質において同じものとみるにとどまらず、消化や同化作用のような有機的過程をも単なる化学的過程とみるのである。すでに103節の ▼補遺で述べたように、人々はしばしば現代の哲学を嘲笑的に同一哲学と呼んでいるが、哲学特に思弁的論理学こそまさに、もちろん単なる差別には満足せず、現存するすべてのものの内的同一性の認識を要求しはするけれども、区別を看過する単なる悟性的同一性の無価値を示すものなのである。



  ハ 根 拠 (Der Grund)

§121
 根拠(理由)は同一と区別との統一、区別および同一の成果の真理、自己へ反省すると同じ程度に他者へ反省し、他者へ反省すると同じ程度に自己へ反省するものである。それは統体性として定立された本質である。
  すべてのものはその十分な根拠を持っているというのが、根拠の原理である。これはすなわち、次のことを意味する。或るものの真の本質は、或るものを自己同一なものとして規定することによっても、異ったものとして規定することによっても、これをつかむことができず、また或るものを単に肯定的なものと規定しても、単に否定的なものとして規定することによっても、つかむことができない。或るものは、他のもののうちに自己の存在を持っているが、この他のものは、或るものの自己同一性をなすものとして、或るものの本質であるようなものである。そしてこの場合、この他者もまた同じく、単に自己のうちへ反省するものではなく、他者のうちへ反省する。根拠とは、自己のうちにある本質であり、そしてこのような本質は、本質的に根拠である。そして根拠は、それが或るものの根拠、すなわち或る他のものの根拠であるかぎりにおいてのみ、根拠である。

§144
 (ロ) しかし、自己内反省としての可能性から区別された現実性は、それ自身外的な具体物、非本質的な直接的なものにすぎない。あるいは直接的に言えば、現実性がまず(142節)内的なものと外的なものとの、単純な、直接的でさえある統一として存在するかぎり、それは非本質的な外的なものとして存在しており、かくして同時に(140節)単に内的なもの、自己内反省という抽象である。したがって現実性自身が単に可能なものとして規定されている。このように単なる可能性という価値しか持たぬ現実的なものは、一つの偶然的なものである、そして逆に、可能性は単なる偶然そのものである。

§148
§148 条件(Bedingung)、事柄(Sache)、活動(Tätigkeit)という三つのモメントのうち、
 a 条件は(イ) あらかじめ措定されているものである。それは、単に措定されたもの(Gesetztes)としては、事柄にたいして相関的なものにすぎない。しかし先行するもの(Voraus)としては、それは独立的なもの―事柄と無関係に存在する偶然的な、外的な事情である。しかし偶然的であるとはいえ、このあらかじめ措定されているものは、統体的なものである事柄と関係させてみれば、諸条件の完全な円である。
(ロ) 諸条件は受動的であり、事柄のために材料として使用され、かくして事柄の内容へはいっていく。それらはまたこの内容に適合しており、内容の規定全体をすでにそのうちに含んでいる。
 b 事柄も同じく(イ) あらかじめ措定されているものである。措定されたものとしては、まだ内的なものであり、可能なものにすぎないが、先行するものとしては、それだけで独立の内容である。
(ロ) 事柄は諸条件を使用することによって外へあらわれる、すなわち諸条件と対応しあう内容諸規定を実現する。したがって事柄は内容諸規定によって自己を事柄として示すとともに、また諸条件から出現するものである。
 c 活動 (Tätigkeit)も(イ) 同じく独立に存在するが(例えば人間、人物のように)しかもまた諸条件および事柄のうちにその可能性を持っている。
(ロ) それは諸条件を事柄へ移し、また事柄を諸条件(これは現存在に属する)へ移す運動である。否むしろ、そのうちに事柄が即自的に存在している諸条件から事柄のみを取り出し、そして諸条件が持っている存在を揚棄することによって、事柄に存在を与える運動である。
   これら三つのモメントが相互に独立した存在という形を持つかぎり、上の過程は外的必然として存在する。― 外的必然は限られた内容を事柄として持つ。なぜなら、事柄は単純な規定態における全体であるが、しかしこの全体的なものは、形式上、自己に外的であるから、自分自身においても、また自己の内容においても、自己に外的であり、そして事柄におけるこの外面性が、事柄の内容の制限をなすからである。
§164
 概念は端的に具体的なものである。というのは、自己との否定的統一が、個別性たる即-且-向-自的に規定された有として、それ自身、それの自己への関係を、つまり普遍性を構成するからである。そのかぎりにおいて、概念の諸契機は切り離されえない。反照諸規定Reflexionsbestimmungenはそれぞれ独立に、対立措定せられたものから切り離されて、把握せられ、通用すべきものである。しかし、概念においてはそれらの同一性が措定せられているので、概念の諸契機のおのおのは直接的に、他の諸契機からのみ、また他の諸契機とともにのみ、把握せられうるのである。
  普遍性、特殊性および個別性は、抽象的に受け取れば、 同一性、区別および根拠Identität, Unterschied und Grund.と同じである。しかし普遍者は、 その中に同時に特殊者と個別者とが含まれているという意味において特別に、自己と同一なるものである。さらに、特殊者は区別せられたもの、あるいは規定態Bestimmtheitであるが、しかしそれは、それが、自己本来普遍的であり、そして個別者としてある、という意味においてである。と同じように、個別者は、主観〔主体〕であり基礎であるという意味を持ち、この主観あるいは基礎は類と種とを自己内に含み、それ自身、実体的である。以上は、相互に区別のある概念の三契機の措定せられた不可分性である(第160節 参照)。―-これが概念の明瞭性であって、概念においてはおのおのの区別は中断とか混濁をなしておらず、すべて同じように透明である。
  概念とは何か抽象的なものだと言われるのがよく聞かれる。これぐらい普通であることはちょっと少ない。これも、経験的に具体的な感性的なものが概念の要素であるわけではなくて、思惟一般がそれの要素であるというかぎりにおいて、また概念はいまだ理念でないというかぎりにおいて正しい。そのかぎりにおいては、主観的概念はいまだ形式的であるが、しかしそれは、決して、概念が自己自身以外の何か或る他の内容を持つとか得るとかいうことではない。--絶対的な形式そのものとして、概念はすべての規定態ではあるが、ただし、その規定態がそれの真理においてあるような規定態なのである。したがって概念はどんなに抽象的であっても、しかも概念は具体的なものである。しかも端的に具体的なものであり、主観〔主体〕としての主観である。絶対に具体的なものは精神である(第159節注参照)、――概念は、それが概念として、自己の客観性から自己を区別するが、その客観性はその区別に妨げられることなく依然として概念の客観性たるを失わない、という形で、〔概念が〕現存するかぎりでは、絶対に-具体的なものは概念である、といってもよい。概念以外の他のすべての具体的なものは、どんなにそれが豊かであろうとも、それは〔概念ほど〕そんなに内的に自己と同一的ではなく、だからまたそれ自身においてそんなに具体的ではないのであって、人が普通に具体的なるものと解しているようなものは、具体的たること最も少ないものであって、これは一つの外的に寄せ集められた多様性にすぎないのである。――また、概念と呼ばれ、さらには規定された〔明確な〕概念と呼ばれているもの、例えば人間、家、動物 などという諸概念も、単純な規定であり抽象的な諸表象であって--概念から普遍性という契機だけを取り、特殊性と個別性とを除き、そのようにして、それら自身において展開せられたものではなく、したがってまさに概念を抽象してしまっているものなのである。

  A 主観的概念 b 判断
§171
 主語と述語と規定された内容または同一性は、さしあたり判断においては、それらの関係において、しかも差別あるもの、相互にばらばらなものとして措定せられている。自体的には、つまり概念からいえば、それらは同一的なのである。というのは主語の具体的な統体性とは、何か或る一つの無規定な多様性であるのではなくて、もっぱら個別性であるということ、つまり一つの同一性における特殊者と普遍者とであるということであるからであり、まさにこの統一こそ述語なのである(第170節参照)からである。―-さらに言えば、コプラにおいてはなるほど主語と述語との同一性が措定せられてはいるけれども、さしあたりただ抽象的な“である”としてにすぎない。この同一性によれば主語は述語の規定の中にも措定せられるべきであり、このことによってまた述語は主語の規定を維持し、コプラは満たされる。このことは、内容に満ちたコプラによって判断を推論へとさらに進んで規定することである。まず、判断においては、判断をさらに進んで規定するとは、最初は抽象的、感性的であった普遍性を全汎性(広くそのすべてにわたる)、類、および種Allheit, Gattung und Artへ、そして展開せられた概念の-普遍性entwickelten Begriffsallgemeinheitへと規定することである。
  判断をさらに進んで規定するこの規定を認識して初めて、普通に判断の種類として挙示されるのが常であるものの連関と意味とがわかるのである。普通になされる〔判断の種類の〕列挙は全く偶然的に見えるということはもちろんであるが、そのほかに、さらにこの列挙は、区別を立てるにあたっては、何か皮相的なものであり、無秩序で粗野でさえある。肯定判断、定言判断、断言判断がどうして区別されるのかということは、一般に空中からつかみ取られている面があるとともに、依然としてあいまいなままであるという面もある。各種の判断は必然的に一から他が出てくるものとして、概念のさらに進んだ規定として見なされねばならない。というのは、判断そのものが、規定された概念にほかならないからである。
  有と本質という以前の二つの領域との関係においては、規定せられた概念とは、判断として、以前の二つの領域の再生産であるが、ただし概念の単純な関係において措定されたものとしてである。

  A 主観的概念 b 判断 (δ) 概念の判断

§178
 概念の判断は概念を、単純な形式における統体性を、その内容とする、すなわち、完全な規定態を備えた普遍者を。主語は(1)まず、一個別者であり、これが、特殊な定在のそれ自らの普遍者への反照を― つまり、特殊な定在とそれの普遍者との一致または不一致を、述語として持つ。すなわち述語は、善い、真である、正しい等々となる。――これが断言判断である。
  一対象、一行為などが、善いか悪いか、真であるか、美であるかどうかといったようなそのような判断にして初めて、日常生活においてもまた人はこれを判断と呼ぶのである。たとえば、「このばらは赤い」、「この絵は赤い、緑だ、ほこりっぽい」などというような肯定判断あるいは否定判断をすることを心得ている人に判断力があるなどと誰も認めはしないであろう。
  実社会においてこの断言的な判断作用が自分勝手に妥当性を主張してゆずらないとしたら、それはむしろふとどきなことだと言われるであろうが、この同じ断言的判断作用が哲学においてさえ直接知と信仰との原理によって学説の唯一本質的な形式にされてしまっている。この原理を主張しているいわゆる哲学的著作の中には理性、知、思惟などに関する無数の断言が見られるが、これらの断言は、さすがに外的権威はもはやあまり役に立だなくなってしまったので、同じ一つのことを無限に反復して語ることによって信用を得ようと努めている。

  A 主観的概念 

   
c 推 論

§181
  推論は概念と判断との統一である。―-推論は、判断の諸形式の区別が〔そこへと〕還帰して行っている単純な同一性としては概念であり、同時に概念が現実性において、すなわち概念諸規定の区別において措定されているというかぎりにおいては判断である。推論は理性的なものであり、どこまでも理性的なものである。
  たしかに、理性的なものの形式として推論が挙げられるのが常ではあるけれども、その場合、推論は一つの主観的な形式とみなされているのであり、この形式と、さらに一つの理性的な内容、たとえば一つの理性的原則、一つの理性的行為、理念などとの間になんらかの連関が指摘されるということがない。一般に、大いに、そしてしばしば、理性について語り理性に訴えるということがなされる。しかしその場合、理性の規定態が何であるのか、理性とは何であるのかが挙示されることはなく、ましてや推論作用に考え及ぶなどということはまずない。たしかに、形式的推論作用は理性的なものであるとはいっても、それは、なんらかの理性的内容とは何のかかわりもないといったような没理性的仕方においてそうなのである。それはそうだがしかし、内容が理性的でありうるのは、もっぱら、思惟を理性たらしめる規定態と同じ規定態によるのであるから、内容は推論という形式をとおしてのみ理性的でありうるのである。――しかし推論は、この節の本文で言い表わされているように、措定された、(さしあたり形式的―)現実的な概念にほかならない。それゆえ、推論はすべての真なるものの本質的根拠である。そして絶対者の定義は今や、絶対者は推論である、というふうに言えることになり、この規定を命題にして言い表わせば「すべては推論である」ということになる。すべては概念である。そして概念の定在Daseinは概念の諸契機の区別である。つまり、概念の普遍的本性が特殊性をとおして自己に外的現実性を与え、このことによって、また、否定的な自己-内-反照として、自己を個別者たらしめる。―-これを逆に言うと、現実的なものは一個別者であり、これが特殊性をとおして自己を普遍性へと高め、自己を自己と同一たらしめるのである。―現実的なものは一つのものであるが、しかしまた同時にそれは概念諸契機の相互分離でもある。そして推論とはこの概念諸契機を媒介する円環であって、この円環をとおして現実的なものは一つのものとして自らを措定するのである。


 A 主観的概念 c 推論 (γ) 必然性の推論
§193
 概念のこの実現、この実現においては、普遍者は自己へと還帰したこのような一つの統体Totalitätであり、この統体の諸区別もまた同じくこの統体であり、この統体は媒介を止揚することをとおして自己を直接的統一として規定しているのであるが、このような概念の実現、― これが客観である。主観から、概念一般から、さらに詳しく言えば、推論から- 客観へのこの移行は、特に人が悟性的推論と意識の一作用としての推論作用とだけを念頭に浮かべている場合には、一見はなはだ奇異に見えるかもしれないが、さりとて、そのような表象に対してこの移行を納得のいくように説明しようなどという気になるわけにはいかない。ただ、客観と呼ばれているものについてのわれわれの普通の表象が、ここ〔論理学〕で客観の規定をなしているものに大体において対応しているかどうかということに関して注意を喚起しておくぐらいのことはしてもよい。普通に人は客観という語を、単に、一抽象的存在者、現存する一つの物、あるいは一つの現実的なもの一般という意味に解するのではなく、一つの具体的で、自己において完結せる自立的なものという意味に解している。この完結性が〔ここで言う〕概念の統体性なのである。客観とは対象でもあって、一つの他者にとって外的なるものであるということ、このことは、客観が主観的なものとの対立へと自らを置くというかぎりにおいて、後に規定せられるであろう。ここではさしあたり、客観は、概念がそれの媒介から移行して行く行き先となるものとして、単に直接的な、何のかかわりもない客観なのである。それと同じよりに、概念もまた、後に対立へと置かれるようになって初めて主観的なものとして規定せられる。
  さらに、客観一般ということになれば、それは、一つの全体であるという以上にはまだまだ自己のうちで何も規定を持っていない一つの仝体であり、客観的世界一般であり、神であり、絶対的客観である。しかし客観はまた同様に、区別をも備え持ち、自己内において(客観的世界としての)無規定な多様性へと分解し、これらの個別化されたもののおのおのがまた一つの客観であり、自己内で具体的な、完結せる、自立的な一つの定在である。
  客観性が有、現存および現実性と比較せられたのであるが、それと同じように、現存と現実性とへの移行(有は最初の、全く抽象的な直接者であるから有への移行ということはありえない)が客観性への移行と比較せられうる。現存が出て来る出所となる根拠、および現実へと自己を止揚する反照-関係、これは、いまだ不完全な仕方で措定された概念にほかならず、言い換えると概念の抽象的側面なのである。― 根拠とは概念の単に本質領域での統一のことであり、関係とは単に実旧な、単に自己内へと反照しているものと考えられた両側面の関係なのである。― 概念はこの両者の統一であり、客観は単に本質領域内の統一ではなくて、自己本来的に普遍的な統一であり、単に実的な諸区別を自己内に含むのでなくて、それぞれが統体性であるような諸区別を自己内に含むのである。
  さらに、このような移行全体において、ただ一般的に概念あるいは思惟が有から切り離せないものだということを示すだけでこと足れりとするわけにはいかないということは明らかである。しばしば注意しておいたように、有とは自己自身への単純な関係以上の何ものでもなく、このような貧弱な規定はもちろん概念の中に、あるいは思惟の中にさえも含まれているのである。この移行の意味するところは、単に含まれているにすぎないままの諸規定を受け入れるということではない(このようなことは、神の存在の存在論的証明の中においても、有は諸現実性のうちの一つであるという命題によって、行なわれているのだが)。そうではなくて、この移行の意味は、概念を、有とかあるいは客観性というこのような遠い抽象物がまだ何も関係してこない、さしあたりただ概念として単独に規定されているはずのままで取り入れるということ、そして概念の規定態としてのそれの規定態において、この規定態が、概念に属し概念の中で現われる規定態とは違っている一つの形式へと移行するかどうかということ、また事実移行するということ、このことだけを見るということなのである。・・・以下、省略・・・


 2.「個別的な einzelne = §126補遺, §136補遺2, §163, §164.

§126
 (ロ)しかし根拠においてさえ、他者への反省はそれ自身直接に自己への反省である。したがって諸性質はまた自己同一であり、独立的でもあって、物に結びつけられていることから解放されてもいる。しかしそれらは、物の相互に区別された諸規定性が自己のうちへ反省したものであるから、それら自身具体的な物ではなく、抽象的な規定性として自己へ反省した現存在、質料(Materie)である。
  さまざまの質料、例えば磁気的、電気的質料は、実際また物とは呼ばれない。―それらは本来の意味における質、すなわちそれらの有と一つのものであり、直接態に達した規定性である。もっともこの直接態は、反省した有としての、したがって現存在であるところの有としての直接態であるけれども。
§126補遺
物が持つ諸性質が独立して、それらから物が成立する質料となるということは、物の概念にもとづいており、したがって経験のうちにも見出される。しかし、例えば、色とか匂とかのような物の諸性質を特殊の色素や臭素として示しうるということから、これですべては終ったのであって、物の本質をさぐるには物をその質料へ分解しさえすればよいと結論するのは、論理にも経験にも反している。独立的な諸質料への分解ということは、ただ無機的自然においてのみ本来の場所を持っている。したがって化学者が、例えば食塩や石膏をその質料に分解して、前者は塩酸とソーダ、後者は硫酸と石灰とから成ると言うとき、かれは正当である。また地質学が花崗岩を石英と長石と雲母とから合成されているとみるのも、同様に正当である。そして物を構成しているこれらの質料は、一部はそれ自身また物であり、したがってより抽象的な素材に分解されうる。例えば、硫酸は硫黄と酸素とから成っている。このような質料あるいは素材は、実際独立に存在するものとしてあらわされうるものであるが、このような独立を持たない諸性質が特殊の質料とみられることもしばしばある。例えば、熱や電気や磁気の質料とかいうようなことが言われているが、このような質料や素材は悟性の虚構にすぎない。一体に、理念の特定の発展段階としてのみ妥当する個々のカテゴリーを勝手にとらえてきて、すなおな直観と経験とに反するにもかかわらず、説明のためと称して、あらゆる考察の対象をそれに還元してしまうのが、抽象的な悟性的反省のやり方である。かくして、物が独立の諸質料からなるという思想は、それがもはや全く妥当しない領域にもしばしば適用されている。すでに自然の範囲内でも、有機的生命においてはこのカテゴリーは不十分である。われわれはこの動物は骨、筋肉、神経、等々から成ると言いはする。しかしこの場合、花崗岩の一片が上述のような諸質料から成るのとは、わけがちがうということはきわめて明白である。花崗岩を構成している諸質料は、その結合にたいして全く無関心であり、結合されていなくても存立することができる。これに反して有機的な肉体のさまざまの部分は、それらの結合のうちにのみ存立を持ち、はなればなれになると、そうしたものでなくなってしまう。
§136
 したがってこの相関のうちにある同一なもの、すなわち自己関係は、直接に否定的な自己関係である。すなわち、それは媒介ではあるが、しかしこの媒介は、同一的なものが区別にたいして無関心でありながら、しかも否定的な自己関係であるというような媒介である。そしてこの否定的な自己関係は、自己への反省としての自分自身をつきはなして区別となり、他者への反省として現存在するようになるが、逆にまたこの他者への反省を自己への反省および無関心性へ復帰させる。こうした相関がすなわち力(Kraft)とその発現(Ӓusserung)である。
  全体と諸部分との相関は、直接的な、したがって無思想な相関であり、自己同一の差別への無思想な転化である。われわれは全体から諸部分へ、諸部分から全体へ移っていく。そして一方のうちで、それがもう一つのものへ対立したものだということを忘れ、各々をそれだけで、すなわち或るときは全体を、或るときは諸部分を、独立の存在と考える。別の言葉で言えば、われわれは、諸部分は全体のうちに存立し、全体は諸部分から成立すると考えているから、或るときは全体を本質的で諸部分を非本質的と考え、或るときは諸部分を本質的で全体を非本質的と考えているのである。機械的関係の表面的な形式は、諸部分が相互にたいしてもまた全体にたいしても独立的なものとして存在することにある。
 物質の可分性にかんする無限進行は、この相関を利用することもできる。すると、その無限進行は、この相関の二つの側面の無思想な交替となる。すなわち、或る物がまず全体的なものととられ、次にわれわれは部分の規定へ移っていく。今度はこの規定を忘れ、以前部分であったものを全体と考える。するとまた部分の規定が考えられてくる、という風にして無限に進むのである。われわれがしかしこの無限を、それが実際そうであるように、否定的なものと解すると、この無限は、全体と部分という相関の否定的な自己関係である。すなわち、自己内にあるものとして自己同一的全体でありながら、しかもこの自己内有を揚棄して発現するところの力であり、また逆に、消滅して力のうちへ帰っていくところの発現である。

 力は、このように無限であるにもかかわらず、また有限でもある。なぜなら、内容すなわち力と発現とのうちにある同一なものは、潜在的にのみ同一であるにすぎず、相関の二つの側面の各々は、まだそれ自身顕在的には相関の具体的な同一でなく、まだ統体性でないからである。したがって二つの側面は、相互にたいして異ったものであり、相関は有限な相関である。力はしたがって外からの誘発を必要とし、盲目的に作用する。そしてその形式がそうした欠陥を持っているために、内容もまた制限され偶然的である。その内容はまだ形式と真に同一でなく、絶対的に規定されている概念や目的ではない。―この区別はきわめて根本的なものであるが、その理解は容易でない。それは目的概念のところではじめて詳しく規定されるであろう。この区別をみのがすと、特にヘルダーにみられるように、神と力と混同するというようなことがおこってくる。
 人々はよく、力の本性そのものは認識できないものであって、認識できるのはその発現だけであると言う。しかし一方、力の内容規定の全体はまさに発現のそれと同じものであり、したがって現象を力から説明するのは、空虚な同語反復である。だから、人々があくまで認識できないと考えているものは、その実自己への反省という空虚な形式にすぎない。力はこうした形式によってのみ発現と区別されているのであって、それはよく知られているものでもある。こうした形式は、現象からのみ認識さるべき内容および法則に、何一つ新しいものをつけ加えはしないのである。また人々はよく、自分は力という言葉を使うが、力とはどういうものかについては何も主張しない、というようなことを言う。それでは、なぜ力という形式を諸科学に導き入れたのか理解に苦しまざるをえない。―他方、力の本性は認識できないものでもある。なぜなら、力の内容が制限されたものであり、したがってその規定性を自己以外のものによって持っているものであるかぎり、力の内容にはまだその内容の必然性も、内容のそれ自身のうちにおける連関の必然性も欠けているからである。

§136補遺2
 認識できるのは力の発現にすぎず、力そのものは認識できないものであるという、非常にしばしば繰返される主張は、根拠のない主張である。なぜなら、力とはまさに発現するものにほかならず、したがってわれわれは、法則として把握された発現の総体のうちに、同時に力そのものを認識するからである。しかしてこの場合みのがしてならないのは、力そのものが認識できないという主張には、この相関が有限だという正しい予感が含まれているということである。
力の個々の発現は種々様々であり、また個別的であるから、それらはわれわれにまず偶然的なものとしてあらわれてくる。われわれは次にこの多様なものを、われわれが力と名づける内的な統一に還元する。そして、それらのうちにある法則を認識することによって、一見偶然とみえるものを必然的なものとして意識する。ところが、個々の力そのものがまたさまざまのものであって、それらの単なる並存においては偶然的なものとしてあらわれる。かくしてわれわれは、経験的物理学では重力、磁力、電気力、等々について語り、また同じく経験的心理学では記憶力、想像力、意志力、その他あらゆる心的な力について語る。この場合再び、さまざまな力を一つの全体として意識しようとする要求が起ってくる。しかしこの要求は、さまざまの力がそれらに共通な一つの原力というようなものに還元されたとしても、やはり満足させられないであろう。それは抽象的な物自体と同じように無内容な、空虚な抽象物にすぎないであろう。その上、力とその発現は本質的に媒介された相関であるから、力を根源的なもの、すなわち自己にのみ依存するものとみるのは、力の概念に矛盾する。- 力の本性は以上のごとくであるから、現存在する世界を神の諸力の発現と言うのはまだいいとしても、神そのものを単なる力とみるのは正しくない。なぜなら、力はまだ従属的で有限な規定だからである。ルネッサンスの時代に、個々の自然現象をその根抵にあるさまざまの力に還元しようとする試みがなされたとき、もし天体の運動、植物の生長、等々をひきおこすものが重力、生長力、等々であるとすれば、神が世界を支配する余地は全くなくなり、神はこうしたさまざまの力の働きを手をつかねて傍観するものになりさがってしまうという理由から、教会がそうした企てをさして神を否定するものと宣告したのも、同じ意味であった。自然科学者たち、そして特にニュートンは、力という反省形式を用いて自然現象を説明する場合、このことはけっして世界の創造者、支配者としての神の尊厳を傷つけることにはならないとあらかじめ言明してはいる。しかし、力をもってする説明は、その論理的帰結として、理由づけをこととする悟性が個々のをそれだけで独立させ、そうした有限なものをあくまで究極的なものと考えるにいたるということを含んでいる。一度こうした独立の諸力および諸素材の有限な世界を認めると、神の規定としては、認識できない最高の彼岸的存在というような抽象的な無限しか残らない。これこそまさに唯物論の立場であり、また、神について知りうることは、神が何であるかということではなくて、神があるということにすぎないとする、近代の啓蒙思想の立場である。さて、有限な悟性的諸形式は、自然の本当の姿をも、また精神の世界の諸形態のそれをも、十分には認識しえないのであるから、上述の教会や宗教的意識の反駁は、このかぎりにおいては正しいと言わなければならないけれども、しかし他方まず第一に経験的諸科学にも、形式的には正しい点があることをみのがしてはならない。そしてその正しさは、現存する世界の規定された内容を思惟によって認識し、神の世界創造および統治というような抽象的な信仰にのみ満足しないところにある。教会の権威にもとづくわれわれの宗教的意識が、神とはその全能の意志によって世界を創造し、星辰の軌道を定め、あらゆる被創造物に存立と繁栄とを与えるものである、とわれわれに教えるとしても、なおなぜという問題に答えることが残されている。この問題に答えるのが、経験的であろうと哲学的であろうと、学問に共通の任務である。もし宗教的意識がこうした任務とこうした任務のうちに含まれている権利とを認めず、神意の測りがたさに訴えるとすれば、それはそれ自身上述の単に悟性的な啓蒙思想の立場に立つのである。こうした訴えは、神を精神および真理のうちに認識せよというキリストの明白な掟に背く勝手な独断であり、けっしてキリスト教的謙譲から出たものではなくて、高慢な狂信にもとづくものである。

A 主観的概念  
a 概念としての概念

§163
 概念は概念そのもとしては三つの契機を含んでいる。すなわち、まず普遍性Allgemeinheitという契機、すなわち、自らの規定態における〔しかも〕自己自身との自由なる相等性Gleichheitとしての、普遍性という契機。-一次に特殊性Besonderheit,という契機、すなわち、特殊性でありながら、そこでは普遍性がなんら妨げられることなく自己自身と同一にとどまっているようなそのような規定態。次に、個別性Einzelheitという契機、すなわち、普遍性と特殊性といり二つの規定態の相互内反照としての個別性という契機。  この自己との否定的統一は即且向自的に規定せられたものであり、同時に自己と同一なるもの、あるいは普遍者である。個別者は現実的なるものと同じものである。ただ、個別者は概念から出て来たものであり、したがって普遍者として、自己との否定的同一性として措定せられている、という違いがあるだけである。現実的なものは、やっとまだ自体的あるいは直接的に本質と現存との統一であるにすぎないから、はたらきかけることができることはできる。ところが概念の個別性は端的にはたらきかけるものなのであり、しかも、もはや或る他者を〔結果として〕生み出すという仮象Scheinを伴う原因のようにではなく、それは自分自身を生み出すものなのである。--しかし、個別者は、われわれが個々の物とか個々の人とか言う場合の直接的な個別性という意味にのみ受け取られるべきではない。このような〔直接的な〕規定態は判断のところで初めて現われるのである。概念の契機はどれもみなそれ自身全体的概念なのである(第160節参照)が、しかし個別性、すなわち主観は統体性Totalitätとして措定せられた概念なのである。

§164
概念は端的に具体的なものである。というのは、自己との否定的統一が、個別性たる即-且-向-自的に規定された有として、それ自身、それの自己への関係を、つまり普遍性を構成するからである。そのかぎりにおいて、概念の諸契機は切り離されえない。反照諸規定Reflexionsbestimmungenはそれぞれ独立に、対立措定せられたものから切り離されて、把握せられ、通用すべきものである。しかし、概念においてはそれらの同一性が措定せられているので、概念の諸契機のおのおのは直接的に、他の諸契機からのみ、また他の諸契機とともにのみ、把握せられうるのである。
 普遍性、特殊性および個別性、抽象的に受け取れば、 同一性、区別および根拠Identität, Unterschied und Grund.と同じである。しかし普遍者は、その中に同時に特殊者と個別者とが含まれているという意味において特別に、自己と同一なるものである。さらに、特殊者は区別せられたもの、あるいは規定態Bestimmtheitであるが、しかしそれは、それが、自己本来普遍的であり、そして個別者としてある、という意味においてである。と同じように、個別者は、主観〔主体〕であり基礎であるという意味を持ち、この主観あるいは基礎は類と種とを自己内に含み、それ自身、実体的である。以上は、相互に区別のある概念の三契機の措定せられた不可分性である(第160節 参照)。―-これが概念の明瞭性であって、概念においてはおのおのの区別は中断とか混濁をなしておらず、すべて同じように透明である。
  概念とは何か抽象的なものだと言われるのがよく聞かれる。これぐらい普通であることはちょっと少ない。これも、経験的に具体的な感性的なものが概念の要素であるわけではなくて、思惟一般がそれの要素であるというかぎりにおいて、また概念はいまだ理念でないというかぎりにおいて正しい。そのかぎりにおいては、主観的概念はいまだ形式的であるが、しかしそれは、決して、概念が自己自身以外の何か或る他の内容を持つとか得るとかいうことではない。--絶対的な形式そのものとして、概念はすべての規定態ではあるが、ただし、その規定態がそれの真理においてあるような規定態なのである。したがって概念はどんなに抽象的であっても、しかも概念は具体的なものである。しかも端的に具体的なものであり、主観〔主体〕としての主観である。絶対に具体的なものは精神である(第159節注参照)、――概念は、それが概念として、自己の客観性から自己を区別するが、その客観性はその区別に妨げられることなく依然として概念の客観性たるを失わない、という形で、〔概念が〕現存するかぎりでは、絶対に-具体的なものは概念である、といってもよい。概念以外の他のすべての具体的なものは、どんなにそれが豊かであろうとも、それは〔概念ほど〕そんなに内的に自己と同一的ではなく、だからまたそれ自身においてそんなに具体的ではないのであって、人が普通に具体的なるものと解しているようなものは、具体的たること最も少ないものであって、これは一つの外的に寄せ集められた多様性にすぎないのである。――また、概念と呼ばれ、さらには規定された〔明確な〕概念と呼ばれているもの、例えば人間、家、動物 などという諸概念も、単純な規定であり抽象的な諸表象であって--概念から普遍性という契機だけを取り、特殊性と個別性とを除き、そのようにして、それら自身において展開せられたものではなく、したがってまさに概念を抽象してしまっているものなのである。


3.「 偶然的な zufällige= §136補遺2,§144, §145, §145補遺, §146,

     §146補遺, §147補遺, §148, §166補遺, §173補遺, §186


§136
(ロ) したがってこの相関のうちにある同一なもの、すなわち自己関係は、直接に否定的な自己関係である。すなわち、それは媒介ではあるが、しかしこの媒介は、同一的なものが区別にたいして無関心でありながら、しかも否定的な自己関係であるというような媒介である。そしてこの否定的な自己関係は、自己への反省としての自分自身をつきはなして区別となり、他者への反省として現存在するようになるが、逆にまたこの他者への反省を自己への反省および無関心性へ復帰させる。こうした相関がすなわち力(Kraft)とその発現(Ӓusserung)である。
  全体と諸部分との相関は、直接的な、したがって無思想な相関であり、自己同一の差別への無思想な転化である。われわれは全体から諸部分へ、諸部分から全体へ移っていく。そして一方のうちで、それがもう一つのものへ対立したものだということを忘れ、各々をそれだけで、すなわち或るときは全体を、或るときは諸部分を、独立の存在と考える。別の言葉で言えば、われわれは、諸部分は全体のうちに存立し、全体は諸部分から成立すると考えているから、或るときは全体を本質的で諸部分を非本質的と考え、或るときは諸部分を本質的で全体を非本質的と考えているのである。機械的関係の表面的な形式は、諸部分が相互にたいしてもまた全体にたいしても独立的なものとして存在することにある。
 物質の可分性にかんする無限進行は、この相関を利用することもできる。すると、その無限進行は、この相関の二つの側面の無思想な交替となる。すなわち、或る物がまず全体的なものととられ、次にわれわれは部分の規定へ移っていく。今度はこの規定を忘れ、以前部分であったものを全体と考える。するとまた部分の規定が考えられてくる、という風にして無限に進むのである。われわれがしかしこの無限を、それが実際そうであるように、否定的なものと解すると、この無限は、全体と部分という相関の否定的な自己関係である。すなわち、自己内にあるものとして自己同一的全体でありながら、しかもこの自己内有を揚棄して発現するところの力であり、また逆に、消滅して力のうちへ帰っていくところの発現である。

 力は、このように無限であるにもかかわらず、また有限でもある。なぜなら、内容すなわち力と発現とのうちにある同一なものは、潜在的にのみ同一であるにすぎず、相関の二つの側面の各々は、まだそれ自身顕在的には相関の具体的な同一でなく、まだ統体性でないからである。したがって二つの側面は、相互にたいして異ったものであり、相関は有限な相関である。力はしたがって外からの誘発を必要とし、盲目的に作用する。そしてその形式がそうした欠陥を持っているために、内容もまた制限され偶然的である。その内容はまだ形式と真に同一でなく、絶対的に規定されている概念や目的ではない。―この区別はきわめて根本的なものであるが、その理解は容易でない。それは目的概念のところではじめて詳しく規定されるであろう。この区別をみのがすと、特にヘルダーにみられるように、神と力と混同するというようなことがおこってくる。
 人々はよく、力の本性そのものは認識できないものであって、認識できるのはその発現だけであると言う。しかし一方、力の内容規定の全体はまさに発現のそれと同じものであり、したがって現象を力から説明するのは、空虚な同語反復である。だから、人々があくまで認識できないと考えているものは、その実自己への反省という空虚な形式にすぎない。力はこうした形式によってのみ発現と区別されているのであって、それはよく知られているものでもある。こうした形式は、現象からのみ認識さるべき内容および法則に、何一つ新しいものをつけ加えはしないのである。また人々はよく、自分は力という言葉を使うが、力とはどういうものかについては何も主張しない、というようなことを言う。それでは、なぜ力という形式を諸科学に導き入れたのか理解に苦しまざるをえない。―他方、力の本性は認識できないものでもある。なぜなら、力の内容が制限されたものであり、したがってその規定性を自己以外のものによって持っているものであるかぎり、力の内容にはまだその内容の必然性も、内容のそれ自身のうちにおける連関の必然性も欠けているからである。

§136補遺2
 認識できるのは力の発現にすぎず、力そのものは認識できないものであるという、非常にしばしば繰返される主張は、根拠のない主張である。なぜなら、力とはまさに発現するものにほかならず、したがってわれわれは、法則として把握された発現の総体のうちに、同時に力そのものを認識するからである。しかしてこの場合みのがしてならないのは、力そのものが認識できないという主張には、この相関が有限だという正しい予感が含まれているということである。
力の個々の発現は種々様々であり、また個別的であるから、それらはわれわれにまず偶然的なものとしてあらわれてくる。われわれは次にこの多様なものを、われわれが力と名づける内的な統一に還元する。そして、それらのうちにある法則を認識することによって、一見偶然とみえるものを必然的なものとして意識する。ところが、個々の力そのものがまたさまざまのものであって、それらの単なる並存においては偶然的なものとしてあらわれる。かくしてわれわれは、経験的物理学では重力、磁力、電気力、等々について語り、また同じく経験的心理学では記憶力、想像力、意志力、その他あらゆる心的な力について語る。この場合再び、さまざまな力を一つの全体として意識しようとする要求が起ってくる。しかしこの要求は、さまざまの力がそれらに共通な一つの原力というようなものに還元されたとしても、やはり満足させられないであろう。それは抽象的な物自体と同じように無内容な、空虚な抽象物にすぎないであろう。その上、力とその発現は本質的に媒介された相関であるから、力を根源的なもの、すなわち自己にのみ依存するものとみるのは、力の概念に矛盾する。- 力の本性は以上のごとくであるから、現存在する世界を神の諸力の発現と言うのはまだいいとしても、神そのものを単なる力とみるのは正しくない。なぜなら、力はまだ従属的で有限な規定だからである。ルネッサンスの時代に、個々の自然現象をその根抵にあるさまざまの力に還元しようとする試みがなされたとき、もし天体の運動、植物の生長、等々をひきおこすものが重力、生長力、等々であるとすれば、神が世界を支配する余地は全くなくなり、神はこうしたさまざまの力の働きを手をつかねて傍観するものになりさがってしまうという理由から、教会がそうした企てをさして神を否定するものと宣告したのも、同じ意味であった。自然科学者たち、そして特にニュートンは、力という反省形式を用いて自然現象を説明する場合、このことはけっして世界の創造者、支配者としての神の尊厳を傷つけることにはならないとあらかじめ言明してはいる。しかし、力をもってする説明は、その論理的帰結として、理由づけをこととする悟性が個々の力をそれだけで独立させ、そうした有限なものをあくまで究極的なものと考えるにいたるということを含んでいる。一度こうした独立の諸力および諸素材の有限な世界を認めると、神の規定としては、認識できない最高の彼岸的存在というような抽象的な無限しか残らない。これこそまさに唯物論の立場であり、また、神について知りうることは、神が何であるかということではなくて、神があるということにすぎないとする、近代の啓蒙思想の立場である。さて、有限な悟性的諸形式は、自然の本当の姿をも、また精神の世界の諸形態のそれをも、十分には認識しえないのであるから、上述の教会や宗教的意識の反駁は、このかぎりにおいては正しいと言わなければならないけれども、しかし他方まず第一に経験的諸科学にも、形式的には正しい点があることをみのがしてはならない。そしてその正しさは、現存する世界の規定された内容を思惟によって認識し、神の世界創造および統治というような抽象的な信仰にのみ満足しないところにある。教会の権威にもとづくわれわれの宗教的意識が、神とはその全能の意志によって世界を創造し、星辰の軌道を定め、あらゆる被創造物に存立と繁栄とを与えるものである、とわれわれに教えるとしても、なおなぜという問題に答えることが残されている。この問題に答えるのが、経験的であろうと哲学的であろうと、学問に共通の任務である。もし宗教的意識がこうした任務とこうした任務のうちに含まれている権利とを認めず、神意の測りがたさに訴えるとすれば、それはそれ自身上述の単に悟性的な啓蒙思想の立場に立つのである。こうした訴えは、神を精神および真理のうちに認識せよというキリストの明白な掟に背く勝手な独断であり、けっしてキリスト教的謙譲から出たものではなくて、高慢な狂信にもとづくものである。
§144
(ロ) しかし、自己内反省としての可能性から区別された現実性は、それ自身外的な具体物、非本質的な直接的なものにすぎない。あるいは直接的に言えば、現実性がまず(142節)内的なものと外的なものとの、単純な、直接的でさえある統一として存在するかぎり、それは非本質的な外的なものとして存在しており、かくして同時に(140節)単に内的なもの、自己内反省という抽象である。したがって現実性自身が単に可能なものとして規定されている。このように単なる可能性という価値しか持たぬ現実的なものは、一つの偶然的なものである、そして逆に、可能性は単なる偶然そのものである。
§145
可能性と偶然性とは現実性のモメント、すなわち、現実的なものの外面性をなす単なる形式として定立されている、内的なものと外的なものである。この二つのものは、それらの自己内反省を、自己のうちで規定されている現実的なもの、すなわち、本質的な規定根拠としての内容において持っている。したがってもっとはっきり言えば、偶然と可能との有限性は、形式規定が内容から区別されていることにあり、或ることが偶然であり可能であるかどうかは、内容にかかっている。

§145補遺
・・・ これまで述べたところからわかるように、偶然性は現実性の一面的なモメントにすぎず、したがってわれわれはそれを現実性そのものと混同してはならない。しかし偶然性もやはり理念の一形式であるから、それは当然客観的な世界のうちにその位置を持っている。このことはまず自然について言えるのであって、自然の表面には、言わば偶然がほしいままにはびこっている。・・・例えば、言語というものは、言わば、思惟の肉体ではあるけれども、そこにはやはり偶然もまた決定的な役割をつとめているのであって、法律や芸術、等々の諸形態についても同じことが言える。学問および特に哲学の任務が、偶然の仮象のもとにかくされている必然を認識することにあるというのは、全く正しい。・・・

§146
 現実性の外面は、より立ち入って考えてみると、次のことを含んでいる。すなわち、偶然性は、直接的な現実性であるから、本質的に被措定有としてのみ自己同一なものであるが、しかしこの被措定有も同様に揚棄されており、定有的な外面性である。かくして偶然性は前提されているものであるが、同時にその直接的な定有は一つの可能性であり、揚棄されるという定め、他のものの可能性であるという定めを持っている。すなわちそれは条件(Bedingung)である。

§146補遺
 偶然的なものは、直接的な現実性として、同時に他のものの可能性でもあるが、しかしそれはすでに、われわれが最初に持っていたような抽象的な可能性ではなく、有るものとしての可能性であり、かくしてそれは条件である。われわれが或る事柄の条件と言うとき、そこには二つのことが含まれている。一つは定有、現存在、一般的に言えば直接的なものであり、もう一つは、この直接的なものが揚棄されて他のものの実現に役立つという定めである。―直接的な現実性は真の現実性ではなく、自己のうちで分裂した、有限な現実性であり、消耗されるということがその定めである。しかし現実性のもう一つの側面は本質性である。これはまず内的なものであるが、内的なものは単なる可能性にすぎないから、同じく揚棄される定めを持っている。揚棄された可能性としては、それは一つの新しい現実の出現であって、この現実は最初の直接的な現実を前提として持っている。これが条件の概念のうちに含まれている交替関係である。われわれが或る事柄の条件を考えてみるとき、それはただそれだけのもののようにみえる。その実はしかし、こうした直接的な現実は、自分とは全く別な或るものへの萌芽をそのうちに含んでいるのである。この別なものは、最初は単に可能なものにすぎないが、やがてこの可能性という形式は自己を揚棄して現実となる。かくして出現するこの新しい現実は、それが消費する直接的な現実自身の内面である。したがってそこには全く別な姿を持った事物が生じるが、しかしそれは最初の現実の本質が定立されたものにすぎないのであるから、なんら別なものは生じないのである。自己を犠牲にし、亡びさり、消耗される諸条件は、他の現実のうちでただ自分自身とのみ合一するのである。― 現実性の過程はこうしたものである。現実は単に直接的な存在ではなく、本質的存在として自分自身の直接性を揚棄し、それによって自己を自己自らへ媒介するものである。

§147
(ハ) 現実性の外面性がこのように可能性および直接的現実性という二つの規定からなる円、すなわち両者の相互的媒介として展開されるとき、それは実在的可能性(die reale Mӧglichkeit)一般である。このような円としてそれはさらに統体性であり、したがって内容、即自かつ対自的に規定されている事柄(Sache)である。そしてそれはまた、このような統一のうちにある二つの規定の区別から見れば、対自的な形式の具体的な総体であり、内的なものの外的なものへの、および外的なものの内的なものへの直接的な転化である。形式がこのように動いていくということが活動(Tätigkeit)、すなわち自己を揚棄して現実となる実在的根拠としての事柄の働きであり、また偶然的な現実、諸条件の働きである。諸条件の働きとはすなわち、諸条件の自己内反省、諸条件が自己を揚棄して一つの異った現実、事柄の現実となることである。あらゆる条件が現存すれば、事柄は現実的にならざるをえない。そして、事柄はそれ自身諸条件の一つである。なぜなら、それは最初は内的なものとして、それ自身単に前提されたものにすぎないからである。展開された現実性は、内的なものと外的なものとが一つのものとなる交互的な転化、一つの運動へと合一されているところの両者の対立的な運動の交替であって、これがすなわち必然性(Notwendigkeit)である。
 必然性が可能性と現実性との統一と定義されるのは正しい。しかし単にそう言いあらわしただけでは、この規定は表面的であり、したがって理解しがたいものである。必然性という概念は非常に難解な概念である。というのは、必然性はその実概念そのものなのであるが、その諸契機はまだ現実的なものとして存在しており、しかもこれら現実的なものは同時に単なる形式、自己のうちで崩壊し移行するところの形式としてとらえられなければならないからである。で 私は次の2節において、必然性を構成する諸モメントをもっと詳細に述べなければならない。

§147補遺
 或ることが必然だと言われるとき、われわれはまず最初に、なぜそうなのかと問う。これによってわれわれは必然性が措定されたもの、媒介されたものとして示されることを要求するのである。しかしわれわれが単なる媒介に立ちどまるならば、それはまだ本当の意味における必然性ではない。単に媒介されたものは、自分自身によってそれが現にあるところのものであるのではなく、他のものにそうなのであるから、やはり偶然的なものにすぎない。われわれが必然的なものに要求することは、これに反して、自分自身によってそれが現にあるところのものとして ・・・略・・・

§148
 条件(Bedingung)、事柄(Sache)、活動(Tätigkeit)という三つのモメントのうち、
 a 条件は(イ) あらかじめ措定されているものである。それは、単に措定されたもの(Gesetztes)としては、事柄にたいして相関的なものにすぎない。しかし先行するもの(Voraus)としては、それは独立的なもの―事柄と無関係に存在する偶然的な、外的な事情である。しかし偶然的であるとはいえ、このあらかじめ措定されているものは、統体的なものである事柄と関係させてみれば、諸条件の完全な円である。
(ロ) 諸条件は受動的であり、事柄のために材料として使用され、かくして事柄の内容へはいっていく。それらはまたこの内容に適合しており、内容の規定全体をすでにそのうちに含んでいる。
 b 事柄も同じく(イ) あらかじめ措定されているものである。措定されたものとしては、まだ内的なものであり、可能なものにすぎないが、先行するものとしては、それだけで独立の内容である。
(ロ) 事柄は諸条件を使用することによって外へあらわれる、すなわち諸条件と対応しあう内容諸規定を実現する。したがって事柄は内容諸規定によって自己を事柄として示すとともに、また諸条件から出現するものである。
 c 活動 (Tätigkeit)も(イ) 同じく独立に存在するが(例えば人間、人物のように)しかもまた諸条件および事柄のうちにその可能性を持っている。
(ロ) それは諸条件を事柄へ移し、また事柄を諸条件(これは現存在に属する)へ移す運動である。否むしろ、そのうちに事柄が即自的に存在している諸条件から事柄のみを取り出し、そして諸条件が持っている存在を揚棄することによって、事柄に存在を与える運動である。
   これら三つのモメントが相互に独立した存在という形を持つかぎり、上の過程は外的必然として存在する。― 外的必然は限られた内容を事柄として持つ。なぜなら、事柄は単純な規定態における全体であるが、しかしこの全体的なものは、形式上、自己に外的であるから、自分自身においても、また自己の内容においても、自己に外的であり、そして事柄におけるこの外面性が、事柄の内容の制限をなすからである。


   b 判断
§166
 判断とはその特殊性における概念である。向自有〔独立〕的であって、自己と同一なるものとして措定せられていて、互いに同一なものとは措定されておらない概念の諸契機を、区別されたものとしながらも〔しかもそれらを〕関係させることとして。
  普通には、判断というと、まず主語と述語という両項の自立性が想い浮かべられ、主語は独立の一つの物あるいは一つの規定であり、同じく述語も主語とは違った一つの普遍的規定であって、自分の頭の中かどこかにあるが、――それが私によって主語と結びつけられて、判断がなされるにいたるのだ、というふうに考えられている。しかしながら、「である」というコプラは、主語について述語を言い表わすものであるから、かの外的で主観的な包摂作用はふたたび止揚せられ、判断は対象そのものの一つの規定と考えられる。--ドイツ語の判断Urteilという語の語源学的な意味はもっと深いものであって、概念の統一を第一のものとして表現し、概念の区別を根源的分割として表現している。このことこそ真の判断なのである。判断を抽象的な形で言い表わすと、「個別者は普遍者である」という命題になる。この個別者と普遍者という二つが、主語と述語とが最初に対立して持つ規定なのであって、これは個別者と普遍者という概念の二つの契機がそれらの直接的な規定態、あるいは最初の抽象において受け取られているのである。(「特殊者は普遍者である」という命題と「個別者は特殊者である」という命題とは判断のさらに進んだ規定に属している。)いかなる判断といえども、そこには「個別者は普遍者である」あるいはもっと明確に言えば、「主語は述語である」(たとえば「神は絶対的な精神である」)というような命題が表現せられているのだという事実が多くの論理学書中に挙示せられていないということは驚くべき観察不足と見なさるべきである。もちろん、個別性と普遍性、主語と述語というような諸規定も、区別せられてはいるけれども、しかし、それにもかかわらず、いかなる判断もこの両者を同一だと言っているということもまた依然として一般的な事実であることにかわりはない。
 「である」というコプラは、その外化において自己と同一であるという概念の本性から来ている。個別者と普遍者とは概念の契機として、どうしても切り離されえない規定態なのである。いままでに出てきた多くの反照諸規定態はそれらの諸関係においてやはり相互関係を持ってはいる。しかしそれらの関連はただ持つということであって、あるということではない。つまりそのようなものとして措定せられた同一性あるいは普遍性ではない。このゆえに、判断こそは初めて、概念の真の特殊性である。判断は概念の規定あるいは概念の規定態あるいは概念の区別でありながら、この規定態あるいは区別が依然として普遍性にとどまっているからである。

§166補遺 (松村訳)
  判断は普通二つの概念の結合、しかも異種の概念の結合と考えられている。このような考え方も、概念が判断の前提をなし、そして概念は判断のうちで区別の形式をとってあらわれるという点では正しいが、しかし、概念にさまざまな種類があると考えるのは正しくない。なぜなら、概念そのものは具体的なものではあるが、本質的に一つのものであり、概念のうちに含まれている諸モメントは異った種類とみるべきものではないからである。また判断の両項が結合されると考えるのも同様に誤っている。というのは、結合されると言えば、結合されるものは結合されることなく独立にも存在していると考えられるからである。こうした外面的な理解は、判断は主語に述語が附加されることによって作られると言われるとき、もっとはっきり示される。この場合、主語は外界に独立的に存在し、述語はわれわれの頭のうちにあると考えられているのである。しかし、「である」という繋辞がすでにこうした考え方に反している。われわれが「このばらは赤い」とか、「この絵は美しい」とか言う場合、われわれは、われわれが外からはじめてばらに赤を加え、絵に美を加えるのではなく、それらはこれらの対象自身の規定であるということを言いあらわしているのである。さらに形式論理学で普通行われている判断の解釈の欠陥は、それによれば判断一般が偶然的なもののようにみえ、概念から判断への進展が示されていない、ということである。ところが概念は、悟性が考えるように自分自身のうちに静かにとどまっているものではなく、無限の形式として、あくまで活動的なもの、言わばあらゆる生動性の核心であり、したがって自己を自己から区別するものである。このように概念は、それ自身の活動によって自己をその異った諸モメントへ区別するものであって、この区別の定立されたものが判断であり、したがって判断の意義は概念の特殊化と解されなければならない。概念はすでに即自的には特殊なものであるが、しかし概念そのもののうちでは特殊はまだ定立されていず、それはまだ普遍との透明な統一のうちにある。かくして例えば、先にも述べたように(160節の補遺)植物の胚はすでに根、枝、葉、等々というような特殊なものを含んでいるが、しかしこの特殊なものはようやく即自的に存在するにすぎず、それは胚が発展することによってはじめて定立されるのである。これは植物の判断とみることができる。この例はまた、概念も判断も単にわれわれの頭のうちにあるものでなく、また単にわれわれによって作られるものではない、ということをも示している。概念は事物に内在しているものであり、そしてこのことによって事物は現にあるような姿を持っているのである。したがって対象を把握するとは、その概念を意識することである。われわれがさらに対象の評価に進むとき、対象にあれこれの述語を帰するのは、われわれの主観的行為ではなく、われわれは対象を、その概念によって定立されている規定態において考察するのである。

イ 質的判断 ( Quanlitatives Urteil )
§172
 直接的判断は定有の判断( das Urteil des Daseins )である。ここでは主語は、その述語である一つの普遍性のうちに定立されているが、この述語は一つの直接的な(したがって感性的な)質である。定有の判断は(1) 個は一つの特殊なものである、という肯定判断( positives Urteil )である。しかし個は特殊なものではない。もっとはっきり言えば、そうした単一の質は主語の具体的な性質に適応しない。 (2) これが否定判断( negatives Urteil )である。
「ばらは赤い」とか、「ばらは赤くない」というような質的判断が真理を含みうると考えるのは、普通の論理学の最も偏見の一つである。こうした判断も正しく( richtig )はありうる。言いかえれば、知覚、有限な表象および有限な思惟のかぎられた範囲内では、そうでありうる。そしてそれが正しいかどうかは、それ自身としては真理でない有限な内容に依存している。しかし真理は形式にのみ、すなわち、定立された概念とそれに対応する実在とにのみ依存している。しかしこうした真理は質的判断のうちには存在しない。

§172補遺 (松村訳)
 正しさ( Richtigkeit )と真理( Wahrheit )は普通同じ意味にとられており、したがってある内容が正しいにすぎない場合に、それが真理であると言われることがよくある。正しさとは、一般にわれわれの表象とその内容との形式的な一致をさすにすぎず、その内容がどんなものであるかは問題でない。これに反して、真理〔真実態〕とは、対象の自分自身との、すなわちその概念との一致である。或る人が病気であるとか、或る人が盗みをした、というようなことは、正しいかもしれない。しかしこうした内容は真理ではない。なぜなら、病気にかかっている肉体は、肉体の概念に一致していないし、また盗みは人間の行為という概念に適応しない行為だからである。この例から、直接的な個物について一つの抽象的な質を言いあらわす直接的判断は、それがたとい正しくても、その主語と述語とが互に実在と概念との関係をなしていないのであるから、真理を含むことはできないことがわかる。― さらにまた直接的判断の真理ではない点は、その形式と内容とが適応しあっていないことにある。「このばらは赤くある」と言うとき、「ある」という繋辞は、主語と述語とが合致することを含んでいる。しかしばらは具体的なものであるから、単に赤くあるだけでなく、また香いや一定の形をも持ち、その他赤という述語のうちには含まれていない多くの規定を持っている。他方またこの述語は、抽象的な普遍として、単にこの主語にのみ属するものではなく、同じく赤くある他の多くの花や一般に他の多くの物が存在している。
 かくして直接的判断においては、主語と述語とは、言わば一点で触れあうにすぎず、互に合致はしない。概念の判断となるとちがう。「この行為は善い」と言えば、それは概念の判断であるが、こうした判断においてすぐに気のつくことは、ここでは主語と述語とのあいだに直接的判断におけるような、ゆるい、外面的な関係はないということである。直接的判断においては述語は一つの抽象的な質であって、それは主語に属することもあれば、また属さないこともありうるが、これに反して概念の判断においては、述語は言わば主語の魂であり、この魂の肉体である主語は魂によって全く規定されている。

§173
 最初の否定であるこの否定においては、主語と述語との関係が依然として存在している。このことによって述語は相対的な普遍として存在し、否定判断において否定されたのは、この普遍の規定性にすぎない(「ばらは赤くない」ということは、「しかしそれはなお色を持ってはいる」ということを含んでいる。言いかえれば、それはまず他の一つの色を持っている。しかしこう言うと、それは再び肯定判断になってしまう)。しかし個は普遍ではない。かくして判断は(3)次の二つにわかれる。(イ) 同一判断( identisches Urteil )、これは「個は個である」という空虚な同一関係である。(ロ) いわゆる無限判断( unendliches Urteil )、これは主語と述語との完全な不一致の存在を示すものである。
  無限判断の例を挙げれば、「精神は象でないものである」、「ライオンは机でないものである」等々がそれである。こうした命題は、「象は象である」、「精神は精神である」というような同一命題と同じように、正しくはあるが馬鹿らしいものである。こうした命題は、直接的判断、いわゆる質的判断の真相を示すものではあるが、しかしそれはおよそ判断ではなく、真実でない抽象さえも固持する能力を持っている主観的思惟においてのみ行われうる。― 客観的にみれば、この判断は、有的なものの、あるいは感性的な事物の本性を表現している。すなわち空虚な同一と充実した関係― といってもその実、関係させられているものは質的に異っており、全く適合しあっていないのだが― とへの分裂を表現している。

§173補遺 (松村訳)
 主語と述語との間にもはやなんらの関係もなくなっている否定的無限判断は、形式論理学では普通単に無意味な骨董的なものとして挙げられているにすぎない。しかし実際この無限判断は、主観的思惟の偶然的な一形式とのみ見らるべきものでなく、それは先行する直接的判断(肯定判断と単なる否定判断)の最初の弁証法的成果として出てくるものであって、直接的判断が有限であり真理でないということは、そのうちに明白にあらわれるのである。犯罪は否定的無限判断の客観的な一例とみることができる。犯罪、例えば盗みを行う者は、民法上の係争におけるように、特定の物にたいする他人の特殊な権利を否定するのみでなく、他人の権利一般を否定するのであり、したがってかれは盗んだものの返還を要求されるにとどまらず、その上になお罰せられる。なぜなら、かれは法そのもの、すなわち法一般を傷つけたからである。民法上の係争は、これに反して、単なる否定判断の例である。というのは、そこでは特殊の法が否定されるにすぎず、したがって法一般は承認されているからである。「この花は赤くない」という否定判断においても事情は全く同じである。それは、この花において、赤という特殊の色を否定するにすぎず、色一般を否定するのではない。なぜなら、この花はなお青、黄、等々でありうるからである。同じく死も、単なる否定判断である病気とはちがって、否定的無限判断である。病気においては、あれこれの特殊な生活機能が妨げられ、あるいは否定されるにすぎないが、これに反して死においては、普通ひとが言うように、肉体と魂とが離れ去るのであって、すなわち主語と述語とが全く分離するのである。

(α)質的な推論
§186
 推論はこの形式〔個-特-普〕をとるとき絶対に正しいと見なされているけれども、私はいま(経験的な意味で重要なことだと思うから)この推論の欠陥を指摘したのである。しかしこの欠陥は推論をさらに立ち入って規定して行くにつれておのずから止揚されるにちがいない。今の場合、概念の領域内にいるのであるから、判断においてと同様、対立的な規定態は単に即自的に存在しているのではなくて、措定されているのである。だから推論をさらに立ち入って規定して行くためにも、推論によってそのつど措定せられるものをただ受け取っていけばよいのである。
 個-特-普という直接的推論によって個別者が普遍者と媒介せられ、この結論の中で普遍者として措定せられている。主語としての個別者はそれ自身がこのように普遍者としてあるものなのだから、したがって今やそれは二つの項の統一であり、媒介者である。このことが推論の第二格を与える。すなわち(2)普-個-特。これは推論の第一格型が含む真理を表現している。すなわち、媒介は個別性の中で生じている、したがってそれは何か偶然的なものであるetwas Zufälliges ist ということを表現している。