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 文献資料1. ヘーゲル「小論理学」
 文献資料2. ヘーゲル「大論理学」第2巻 本質論 第1章 仮象
 文献資料3. ヘーゲル「小論理学」第2巻 本質論 A §112-§123 (ドイツ語)
        Zweite Abteilung der Logik. Die Lehre vom Wesen



 ヘーゲル「小論理学」目次

    ヘーゲル「小論理学」
 第1部 有 論 (86-98)  第3部 概念論 (160-244)
 A 質 (86-98)  A 主観的概念(163-193)
a 有 (86-88) a 概念そのもの (163-165)
b 定有 (89-95) b 判 断 (172-173)
c 向自有 (96-98)  イ 質的判断 (172-173)
 B 量 (99-100)  ロ 反省の判断 (174-176)
a 純量 (99-100)  ハ 必然性の判断(177)
b 定量 (101-106)  ニ 概念の判断 (178-180)
c 度  (103-106) c 推 理 (181-193)
 C 限 度 (107-111)  イ 質的推理 (183-189)
 ロ 反省の推理 (190)
 ハ 必然性の推理 (191-193)
 第2部 本質論 §112 ― §156  B 客 観(194-212)
 第2部 本質 Wesen 論
   (112-159)Die Lehre vom Wesen
a 機械的関係 (195-199)
A 現存在の根拠とっしての本質 (115-122) b 化学的関係 (200-203)
a 純粋な反省規定 (115-122)
  a. Die reinen Reflexionsbestimmungen
c 目的的関係 (204-212)
 イ 同一性 (115) α. Identität  C 理 念 (213-244)
 ロ 区別 (116-120) β. Der Unterschied a 生命(216-222)
 ハ 根拠 (121-122) γ. Der Grund b 認識(223-235)
b 現存在 (123-124) b. Die Existenz  イ 認識(226-232)
c 物 (125-130) c. Das Ding  ロ 意志(233-235)
B 現象 (131-141) B. Die Erscheinung c 絶対的理念(236-244)
a 現象の世界 (131)
    a. Die Welt der Erscheinung
b 内容と形式 (133-134)
    b. Inhalt und Form
c 相関 (135-141) c. Das Verhältnis
C 現実性 (142-149) C. Die Wirklichkeit
a 実体性の相関 (150-152)
    a Substantialitätsverhältnis
b 因果性の相関 (153-154)
    b Kausalitätsverhältnis
c 交互作用 (155-159)
    c Die Wechselwirkung


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仮象 (Schein) 反照 (Scheinen) 相等性 (Gleichheit) 質料 (Materie) 実体 (Substanz) 事柄 (Sache)
形式 (Form) 形式規定 (Form) 転化 概念 (Begriff) 肢体 統一 (Einheit)
比 (Verhlätnis) 活動 (Tätigkeit) 極・分極性 (Polarität) 人格 媒介 (Vermittlung) 直接性 (unmittelbares)
個 (個別) (Einzelnheit) 特殊性 (Besonderheit) 普遍 (Allgemeinheit)
商品 物神的性格 変態 資本物神 資本物神




『小論理学』(下) 村松一人訳 岩波書店 1952年発行

  
 ■資本論ワールドによる編集注意事項
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第2部 本 質 論

§112


§112 本質(Wesen)は媒介的に定立された概念(gesetzter Begriff)としての概念である。その諸規定は本質においては相関的であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ反省したものとして存在していない。したがって概念はまだ向自(Fürsich)として存在していない。本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するものである。もっとも、この他者そのものが有的なものとしてではなく、定立され媒介されたものとして存在している。-有は消失していない。本質はまず、単純な自己関係として有である。しかし他方では、有は、直接的なものであるという一面的な規定からすれば、単に否定的なもの、すなわち、仮象(Schein)へひきさげられている。―したがって本質は、自分自身のうちでの反照(Scheinen)としての有である。
  絶対者は本質である。―この定義は、有も同じく単純な自己関係であるかぎり、絶対者は有であるという定義と同じである。しかしそれは同時により高い定義である。というのは、本質とは、自己のうちへはいっていった有であるからである。言いかえれば、本質の単純な自己関係は、否定的なものの否定、自己のうちでの自己媒介として定立された自己関係であるからである。しかし、絶対者を本質と定義するとき、人々はしばしば否定性をあらゆる特定の述語の捨象という意味にとる。すると、この捨象という否定的行為は、本質に無関係なものとなり、本質そのものは特定の諸述語という前提を持たぬ成果、捨象のかすとして存在するにすぎなくなる。しかしこの否定性*注は、有に外的なものではなくて、有自身の弁証法なのであるから、有の真理である本質は、自己のうちへはいっていった有、あるいは自己のうちにある有である。本質と直接的な有との相違をなすものは、先に述べた反省、すなわち、本質が自分自身のうちへ反照するということであって、これが本質そのものに特有の規定である。

(*注:否定性Negativität は、有自身の弁証法。§116参照。なお弁証法の「止揚、揚棄」の類語: aufheben, アウフヘーベン。「あるものをそのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生かすこと。」「矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。」(止揚はウィキペディアより)。
 訳者註。gesetztという言葉は、即自にたいしては、顕現の意味をもって使われるが、ここでは、他のものによってsetzen〔設定
〕される、すなわち媒介されるという意味である。

§112 補遺


§112 ▼補遺 本質と言う場合、われわれはそれを直接的なものとしての有から区別し、有を本質との関係においては単なる仮象とみる。しかしこの仮象は全く無いもの、無ではなく、揚棄されたもの〔aufheben〕としての有である。―本質の立場は一般にReflexion(反省)も立場である(訳者注)。Reflexionという言葉はまず、光が直進して鏡面にあたり、そしてそこから投げ返される場合、光にかんしては用いられる(*注-DSKの反射)。したがってここには二つのものがある。すなわち、一つは直接なもの、有的なものであり、もう一つは媒介されたもの、あるいは定立されたものである。このことは、われわれが或る対象をreflektieren(反省)する、あるいは、普通言われているようにnachdenken(反省〔熟考〕)する場合でも同じである。というのは、その場合われわれは対象を直接態においてでなく、媒介されたものとして知ろうとするからである。普通、人々は哲学の課題あるいは目的は、事物の本質を認識することにあると考えている。そして人々の理解するところによれば、このことはまさに、事物はその直接態のままに放置さるべきではなく、他のものによって媒介あるいは基礎づけられたものとして示されなければならないことを意味するにすぎない。ここでは事物の直接的存在は、言わばその背後に本質がかくされている外皮あるいは幕als eine Rinde oder als ein Vorhangと考えられているのである。--さらに、あらゆる事物は一つの本質を持つと言われるならば、それは、事物の真の姿は直接にあらわれているとおりのものではないことを意味する。単に一つの質から他の質への変転や、また単に質的なものから量的なものへの進展Fortgehen、およびその逆やですべてが終ったのではなく、事物のうちには不変なものがある。そしてこの不変なものがまず本質なのである。

Wesen(本質)というカテゴリーのその他の意味および用法について言えば、まず次のことを指摘することができる。われわれドイツ人は助動詞 sein において、過ぎ去った有を gewesen と呼ぶことによって、その過去を示すに Wesen (本質)という表現を用いる。この不規則な用法には、有と本質との関係にかんする正しい観念が含まれている。というのは、本質は過ぎ去った有とみることができるからである。この場合なお注意すべきことは、過ぎ去ったものはそのために全く否定されているのではなく、揚棄されているにすぎず、したがって同時に保存されてもいるのだ、ということである。
・・・以下、省略・・・

(訳者注) 
 Reflexion, reflektieren という言葉は、ヘーゲルでは独自な意味に使われている。もともと、ラテン語のrflexio は、まがりもどることを意味する。ここから、光については、反射の意味となる。自己をかえりみるという場合の反省も、原意と無関係ではない。しかし、ヘーゲルは相関関係のうちにある二つのものを、その一方から出発して考察するとき、Reflexion という言葉を使う。例えば、支配者というものは、支配される者なしには存在せず、考えられず、自分自身のみからは理解できないものである。このような相関は、そこに存在しているのであるが、われわれが今支配者というものを理解しようとすれば、支配されるものへいき、そして再び支配者へ帰ってこなければならない。相関においては、かくして相関する互の側から、このようReflexion が行われるわけである。これがReflexion の全体的な意味である。しかし、他者へのReflexion というように、この言葉が使われるとき、それは、とりあえず関係という意味しか表面に持っていない。ヘーゲルにおいては、概念が自覚する形をも持つから、反省と訳すが、十分ではない。エンチクロペディーの初版では、ヘーゲルは、「本質の領域では、相関性が支配的な規定をなしている」と言っている。マルクスは、『資本論』で、相対的価値形態を述べたところの、註のうちで Reflexionsbestimmung に言及し、次のように言っている。「Reflexionsbestimmung というものは、一般に、独特なものである。例えば、特定の人間が王であるのは、ただ他の人々が臣下としてかれにたいするからである。ところが、この人々は、かれが王であるからこそ、自分たちは臣下なのだと思っている。」なお、主観的思惟に Reflexion という言葉をヘーゲルが使うとき、それは、すでにこれまでの訳者註に述べたように、関係的、相関的思惟である。

§113


§113  本質における自己関係(Beziehung‐auf‐sich)は、同一性( Identität、自己内反省(Reflexion-insich)という形式である。これは有の直接性(Uumittelbarkeit)に代ってあらわれたものであって、両者はいずれも自己関係という抽象である。
  制限され有限なもののすべてを有るものとみる感性の無思想は、それを自己と同一なもの、自己のうちで自己と矛盾しないものと解する悟性の固執へ移っていくのである。

§114


§114  この同一性は、有から由来するものであるから、最初はただ有の特性にのみまとわれてあらわれ、外的なものと関係するように有と関係するにすぎない。有がこのように、本質から切りはなされて理解されるとき、有は非本質的なもの(das Unwesentliche)と呼ばれる。しかし本質は内在性であって、それは自分自身のうちに自己の否定、他者への関係、媒介を持つかぎりにおいてのみ、本質的である。したがって本質は、非本質的なものを自分自身の反照(Scheinen)として自己のうちに持っている。しかし反照あるいは媒介の作用には区別の作用が含まれており、区別されたものは、自分がそこから由来しながらそのうちに自分が存在しないところの、すなわち仮象として存在しているところの、同一性との区別のうちで、それ自身同一性の形式を持つようになるから、自己へ関係する直接性あるいは有として存在する。

これによって本質の領域は、直接性と媒介性とのまだ完全でない結合となる。ここではすべてが、自己に関係しながら同時に自己から出ているというように定立されている。それは反省の有(ein Sein der Reflexion)であり、自己のうちに他者が反照するとともに、他者のうちに反照する有である。― 本質の領域はしたがって、有の領域では即自的にのみ存在していた矛盾の定立された領域である。    

一つの概念があらゆるものの根抵にあるのであるから、本質の発展のうちには、反省的形式においてではあるが、有の発展におけると同じ諸規定があらわれてくる。したがって、有と無との代りに今や肯定的なもの(das Positive)と否定的なもの(das Negative)とがあらわれ、前者はまず同一性として対立なき有に対応し、後者は区別として展開される(自己のうちで反照することによって)。さらに成は定有の根拠(Grund)であり、定有は、根拠へ反省したものとしては、現存在(Existenz)である。等々。―論理学の(最も難解な)この部分は、主として形而上学および科学一般の諸カテゴリーを含んでいる。これらは反省的悟性の産物であって、この悟性は区別された二つのものを独立的なものとみると同時に、またその相関性を定立し、しかも、この独立性と相関性とを並列的あるいは継起的に「また」によって結合するにすぎず、これら二つの思想を綜合し、概念に統一することはしないのである。


 A 現存在の根拠としての本質 (115-122)
 (Das Wesen als Grund der Existenz)
 
 a 純粋な反省規定 (115-122)
  (Die reinen Reflexionsbestimmungen)
イ 同一性 (Identität)

§115


§115 
 本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性(ldentität mit sich)である。
  この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、抽象とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。
 同一性を、命題の主語としての絶対者と結合すると、絶対者は自己同一なものであるという命題がえられる。―この命題はきわめて真実ではあるが、しかしそれがその真理において言われているかどうかは疑問であり、したがってそれは、少くとも表現において不完全である。なぜなら、ここで意味されているのが抽象的な悟性的同一性、すなわち本質のその他の諸規定と対立しているような同一性であるか、それとも自己内で具体的な同一性であるか、はっきりしないからである。後者の場合には、後でわかるように、それはまず根拠であり、より高い真理においては概念である。―絶対的という言葉さえ、抽象的という意味しか持たないことが多い。絶対的空間、絶対的時間というような言葉は、抽象的な空間、抽象的な時間を意味するにすぎない。
  ・・・以下、省略・・・

§115 補遺


§115 ▼補遺 同一性はまず、われわれが先に有として持っていたものと同じものであるが、しかしそれは直接的な規定性の揚棄によって生成したものであるから、観念性としての有である― 同一性の本当の意味を正しく理解することは、非常に重要である。そのためにはまず第一に、それを単に抽象的な同一性として、すなわち、区別を排除した同一性として解さないことが必要である。これが、あらゆるつまらない哲学と本当に哲学の名に値する哲学とが分れる点である。本当の意味における同一性は、直接的に存在するものの観念性として、宗教的意識にたいしても、その他すべての思惟および意識にたいしても、高い意義を持つカテゴリーである。神にかんする真の知識は、神を同一性、絶対の同一性として知ることからはじまる、と言うことができる。そしてこのことは同時に、世界のあらゆる力と光栄とは神の前に崩れ去り、ただ神の力および光栄の映現としてのみ存在しうることを意味する。――人間を自然一般および動物から区別するものも、自己意識という同一性である。動物は、自分が自我であること、すなわち自己のうちにおける純粋な統一であることを理解する点まで達していないのである。
―思惟にたいして同一性が持っている意義について言えば、何よりも大切なことは、有およびその諸規定を揚棄されたものとして内に含んでいる本当の同一性と、抽象的な、単に形式的な同一性とを混同しないことである。思惟は一面的であるとか、融通がきかないとか、内容がないとかというような、特に感情および直観の立場から非常にしばしば思惟に加えられる非難は、思惟の働きがただ抽象的な同一性の定立にのみあるとする、誤った前提にもとづいているのである。そして本節で述べたような、いわゆる最高思惟法則を掲げることによって、こうした誤った前提を確認するものは、ほかならぬ形式論理学である。もし思惟が抽象的同一性を出ないとすれば、われわれはそれをこの上もなく無用で退屈な仕事と言わなければならないであろう。概念、より進んでは、理念は、確かに自己同一なものではある。しかしそれらは、同時に自己のうちに区別を含んでいるかぎりにおいてのみ、そうなのである。

 

口 区 別 (Der Unterschied)


§116


§116 本質は、それが自己に関係する否定性、したがって自己から自己を反撥するものであるときのみ、純粋な同一性であり、自分自身のうちにおける反照である。したがって本質は、本質的に区別(Unterschied)の規定を含んでいる。
  ここでは他在はもはや質的なもの、規定性、限界ではない。今や否定は、自己へ関係するものである本質のうちにあるのであるから、同時に関係として存在する。すなわちそれは区別であり、定立されて有るもの(Gesetztsein)であり、媒介されて有るもの(Vermitteltsein)である。


§128 ▼補遺


§116  ▼補遺 同一はいかにして区別となるかというような質問をする人があるとすれば、こうした質問のうちには、同一性は、単なる同一性すなわち抽象的な同一性として、単独に存在するものであり、区別も同様に単独に存在する或る別なものである、という前提が含まれている。このような前提をしていては、呈出された質問にたいする答は不可能である。同一を区別と別なものとみれば、そこにわれわれが持つのは区別だけである。進展の径路を問う者にとって、進展の出発点が全く存在しないのであるから、区別への進展を示そうにも、示しようがないわけである。したがってこうした質問は、よく考えてみると、全く無意味である。こんな質問をする人があったら、われわれはまず、かれは同一性という言葉のもとに何を考えているのかときいてみるといい。すると、その人が何も考えていないこと、その人にとって同一性とは空虚な名称にすぎないことがわかるであろう。なお、すでに考察したように、同一性は否定的なものではあるが、しかし抽象的な、空虚な無ではなく、有およびその諸規定の否定である。したがって同一性は同時に関係であり、しかも否定的な自己関係、言いかえれぼ、自分自身から自己を区別するものである。


§117 〔差別 Verschiedenheit と 相等性 Gleichheit〕


§117 (1) 区別は、第一に、直接的な区別、すなわち差別(Verschiedenheit)である。差別のうちにあるとき、区別されたものは各々そ
れ自身だけでそうしたものであり、それと他のものとの関係には無関心である。したがってその関係はそれにたいして外的な関係である。差別のうちにあるものは、区別にたいして無関心であるから、区別は差別されたもの以外の第三者、比較するもののうちにおかれることになる。こうした外的な区別は、関係させられるものの同一性としては、相等性(Gleichheit)であり、それらの不同一性としては、不等性(Ungleichheit)である。

 比較というものは、相等性および不等性にたいして同一の基体を持ち、それらは同じ基体の異った側面および見地でなければならない。にもかかわらず悟性は、これら二つの規定を全く切りはなし、相等性はそれ自身ひたすら同一性であり、不等性はそれ自身ひたすら区別であると考えている。
 差別も同じく一つの命題に変えられている。「すべてのものは異っている」とか、「互に全く等しい二つのものは存在しない」という命題がそれである。ここではすべてという主語に、最初の命題において与えられていた同一性という述語とは反対の述語が与えられている。したがって、最初の命題に矛盾する法則が与えられているわけである。しかし差別は外的な比較に属するにすぎないから、或るものは、それ自身としては、ひたすら自己と同一であり、この第二の命題は第一の命題と矛盾しない、という弁解も成立する。そうするとしかし、差別は、或るものすなわちすべてのものに属さず、このような主語の本質的な規定をなさないことになり、第二の命題は全く語ることのできないものとなる。―或るもの自身が、第二の命題に言われているように、異っているとすれば、それは或るもの自身の規定性によってそうなのである。これがライプエッツの命題の意味でもある。

 ▼補遺 ・・・省略・・・


§118


§118  相等性とは、同じでないもの、互に同一でないものの同一性であり、不等性とは、等しくないものの関係である。したがってこの二つのものは、無関係で別々の側面あるいは見地ではなく、互に反照しあうものである。かくして差別は反省の区別、あるいは、それ自身に即した区別、特定の区別となる。
  ▼補遺 単に差別されたものは互に無関係であるが、相等性と不等性とは、これに反して、あくまで関係しあい、一方は他方なしには考えられないような一対の規定である。単なる差別から対立へのこうした進展は、すでに普通の意識のうちにも見出される。というのは、相等を見出すということは、区別の現存を前提してのみ意味を持ち、逆に、区別するということは、相等性の現存を前提してのみ意味を持つ、ということをわれわれは認めているからである。区別を指摘するという課題が与えられている場合、その区別が一見して明かなような対象(例えばペンと駱駝のように)しか区別しえないような人に、われわれは大した慧眼を認めないし、他方、よく似ているもの(例えば「ぶな」と「かし」、寺院と教会)にしか相等性を見出しえないような人を、われわれは相等性を見出す勝れた能力を持っている人とは言わない。つまりわれわれは、区別の際には同一性を、同一性の際には区別を要求するものである。にもかかわらず、経験科学の領域では、人々はこれら二つの規定の一方のために他方を忘れることが非常に多く、或るときは学問的関心がひたすら現存する区別を同一性へ還元することに向けられ、また或るときは、同じく一面的に、ひたすら新しい区別の発見に向けられている。こうしたことは特に自然科学において行われている。人々はそこで、一方では新しい、ますます多くの新しい物質、力、類、種、等々を発見しようとしており、これまでは単純と考えられていた物体が複合物であることを示そうとしている。そして近代の物理学者や化学者は、たった四つの、しかも単純でさえない元素で満足していた古代人をわらっている。他方ではしかしかれらは、今度はまた単なる同一性をのみ眼中におき、例えば電気と化学的過程とを本質において同じものとみるにとどまらず、消化や同化作用のような有機的過程をも単なる化学的過程とみるのである。すでに103節の ▼補遺で述べたように、人々はしばしば現代の哲学を嘲笑的に同一哲学と呼んでいるが、哲学特に思弁的論理学こそまさに、もちろん単なる差別には満足せず、現存するすべてのものの内的同一性の認識を要求しはするけれども、区別を看過する単なる悟性的同一性の無価値を示すものなのである。


§119


§119 (2) 自己に即した区別は本質的な区別、肯定的なものと否定的なものである。肯定的なものは、否定的なものでないという仕方で自己との同一関係であり、否定的なものは、肯定的なものでないという仕方でそれ自身区別されたものである。両者の各々は、それが他者でない程度に応じて独立的なものであるから、各々は他者のうちに反照し、他者があるかぎりにおいてのみ存在する。したがって本質の区別は対立(Entgegensetzung)であり、区別されたものは自己にたいして他者一般をではなく、自己に固有の他者(sein Anderes)を持っている。言いかえれば、一方は他方との関係のうちにのみ自己の規定を持ち、他方へ反省しているかぎりにおいてのみ自己へ反省しているのであって、他方もまたそうである。つまり、各々は他者に固有の他者である。

  本質的な区別は、「すべてのものは本質的に区別されたものである」、あるいは別な言い方によれば、「二つの対立した述語のうち、一方のみが或るものに属し、第三のものは存在しない」という命題を与える。――この対立の命題は、きわめて明白に同一の命題に矛盾している。というのは、後者によれば或るものは自己関係にすぎないのに、前者によればそれは対立したもの、自己に固有の他者へ関係するものと考えられているからである。このような矛盾した二つの命題を、くらべることさえしないで、法則として並べておくということは、抽象に固有な無思想である。―排中の原理は、矛盾を避けようとし、しかもそうすることによって矛盾を犯す、有限な悟性の命題である。Aは+Aか-Aでなければならない、とそれは言う。しかしこれに・・・中略・・・
 ・・・・・・・・・
 物理学で大きな意義を持っている分極性(Polarität)〔*注〕という表象は、対立に関する正しい規定を含んでいる。にもかかわらず物理学は、思想にかんしては、普通の論理学に頼っている。もし分極性という表象を発展させて、そのうちに含まれている思想に達したら、物理学はおどろくであろう。

〔*注〕分極性(Polarität) 『資本論』1-1節 
1-3 〔磁極性〕
「鉄・紙等々のような一切の有用なる物は、質と量にしたがって二重の観点から考察され るべきものである。このようなすべての物は、多くの属性の全体をなすのであって、したが って、いろいろな方面に役に立つことができる。物のこのようないろいろの側面と、したがってその多様な使用方法を発見することは、歴史的行動(注3)である。有用なる物の量をはかる社会的尺度を見出すこともまたそうである 。商品尺度の相違は、あるばあいには測定さるべき対象の性質の相違から、あるばあいには 伝習から生ずる。」(注3)バーボンの磁極性参照
http://www.marx2016.com/ss_001.html#1-3_jikyokusei


§119 ▼補遺 1


§119 ▼補遺 1 肯定的なものは再び同一性であるが、しかしより高い真理における同一性であって、それは自分自身への同一関係であると同時に、否定的なものでないものである。否定的なものは、それ自身としては、区別そのものにほかならない。同一そのものは、まず無規定のものである。これに反して肯定的なものは、自己同一なものではあるが、他のものにたいするものとして規定されているものであり、否定的なものは、同一性でないという規定のうちにある区別そのものである。すなわち、否定的なものは自分自身のうちにおける区別の区別である。―人々は肯定的なものと否定的なものとを絶対の区別と考えている。しかし両者は本来同じものであり、したがってわれわれは、肯定的なものをまた否定的なものと呼ぶこともできるし、逆に否定的なものを肯定的なものと呼ぶこともできる。

例えば、財産と負債とは、特殊の、独立に存在する二種の財産ではない。一方の人、すなわち債務者にとって否定的なものは、他方の人、すなわち債権者にとっては肯定的なものである。東への道程の場合でも同じことであって、それは同時に西への道程である。肯定的なものと否定的なものとは、したがって、本質的に制約しあっているもの、相互関係においてのみ存在するものである。
磁石Magnetの北極Nordpolは南極Südpolなしには存在しえず、南極Sdpolは北極Nordpolなしには存在しえない。磁石を切断すれば、一片には北極が、他方には南極があるというようなことはない。同様に電気Elektrizitätにおいても、陽電気と陰電気とは独立に存続する別々の流動体ではない。

一般に対立においては、区別されたものは自己にたいして単に或る他物を持つのでなく、自己に固有の他者を持つのである。普通の意識は、区別されたものは相互に無関係であると考えている。例えば、われわれは、私は人間であり、私の周囲には空気、水、動物、および他者一般がある、と言う。ここではすべてのものが別々になっている。哲学の目的は、これに反して、このような無関係を排して諸事物の必然性を認識することにあり、他者をそれに固有の他者に対立するものとみることにある。例えば、われわれは無機的自然を単に有機的なものとは別なものとのみみるべきではなく、有機的なものに必然な他者とみなければならない。両者は本質的な相互関係のうちにあり、その一方は、それが他方を自分から排除し、しかもまさにそのことによって他方に関係するかぎりにおいてのみ、存在するのである。同様に自然もまた精神なしには存在せず、精神は自然なしには存在しない。物を考える場合、「なお別なことも可能だ」と言う段階を脱するのは、一般に重要な一歩前進である。こういう言い方をする場合、われわれはまだ偶然的なものから脱していないのであって、これに反して、先に述べたように、真の思惟は必然的なものの思惟である。―現代の自然科学は、まず磁気において極(Polaritat)として知られた対立を、全自然をつらぬいているもの、普遍的な自然法則と認めるにいたっているが、これは疑もなく学問上本質的な進歩である。ただこの場合大切なことは、折角それまで進みながら、またしても無造作に単なる差別を対立と同等なものと認めないことである。しかし人々は、よくそうしたことを行っている。例えば、人々は一方では正当にも色を二つの極のように対立するもの(いわゆる補色)とみながら、他方ではまた、赤、黄、緑、等々を、互に無関係な、また単に量的な区別とみている。


§119 ▼補遺2


§119 ▼補遺2 われわれは、抽象的悟性の命題である排中の原理にしたがって語るかわりに、むしろ「すべてのものは対立している」と言うべきであろう。悟性が主張するような抽象的な「あれか、これか」は実際どこにも、天にも地にも、精神界にも自然界にも存在しない。あるものはすべて具体的なもの、したがって自分自身のうちに区別および対立を含むものである。事物の有限性は、その直接的定有が、それが即自的にあるところのものに適合していないことにある。例えば無機的自然において酸は即自的には同時に塩基である。すなわち、それに固有の他者に関係しているということのみが、その有をなしているのである。だから酸はまた対立のうちに静かにとどまっているものではなく、常に自己の即自を実現しようと努めているものである。一般に、世界を動かすものは矛盾である。矛盾というものは考えられないと言うのは、わらうべきことである。このような主張において正しい点はただ、矛盾は最後のものではなく、自分自身によって自己を揚棄するということである。揚棄された矛盾は、しかし、抽象的な同一性ではない。同一性はそれ自身対立の一項にすぎないからである。矛盾として定立された対立の最初の結果は根拠(Grund)であって、それはそのうちに同一性ならびに区別を、揚棄され単なる観念的モメントヘおとされたものとして、含んでいるものである。


§120


§120  肯定的なものとは、向自的であると同時に自己の他者へ無関係であってはならないような、差別されたものである。否定的なものも同様に独立的で、否定的とはいえ自己へ関係し、向自的でなければならない。しかしそれは同時に、否定的なものとして、こうした自己関係、すなわち自己の肯定的なものを、他のもののうちにのみ持たなければならない。両者はしたがって定立された矛盾であり、両者は潜在的に同じものである。また、両者はそれぞれ他方の否定であるとともに自分自身の否定であるから、両者は顕在的にも同じものである。両者はかくして根拠へ帰っていく。―あるいは、直接的に言えば、本質的な区別は即自かつ対自的な区別であるから、それはただ自分自身から自己を区別するのであり、したがって同一的なものを含んでいる。したがって、区別の全体、即自かつ対立的にある区別には、区別自身のみならず同一性も属するのである。―自分自身へ関係する区別と言えば、それはすでに、この区別が自己同一的なものであることを言いあらわしているのであり、対立したものは一般に、或るものとその他者、自己と自己に対
立したものとを自己のうちに含んでいるものである。本質の内在性がこのように規定されるとき、それは根拠である。


ハ 根 拠 (Der Grund)


§121


§121  根拠(理由)は同一と区別との統一、区別および同一の成果の真理、自己へ反省すると同じ程度に他者へ反省し、他者へ反省すると同じ程度に自己へ反省するものである。それは統体性として定立された本質である。
  すべてのものはその十分な根拠を持っているというのが、根拠の原理である。これはすなわち、次のことを意味する。或るものの真の本質は、或るものを自己同一なものとして規定することによっても、異ったものとして規定することによっても、これをつかむことができず、また或るものを単に肯定的なものと規定しても、単に否定的なものとして規定することによっても、つかむことができない。或るものは、他のもののうちに自己の存在を持っているが、この他のものは、或るものの自己同一性をなすものとして、或るものの本質であるようなものである。そしてこの場合、この他者もまた同じく、単に自己のうちへ反省するものではなく、他者のうちへ反省する。根拠とは、自己のうちにある本質であり、そしてこのような本質は、本質的に根拠である。そして根拠は、それが或るものの根拠、すなわち或る他のものの根拠であるかぎりにおいてのみ、根拠である。


§121  ▼補遺


§121  ▼補遺 根拠は同一と区別との統一であると言う場合、われわれはこの統一を抽象的な同一と考えてはならない。・・・・・・以下、省略・・・


§122


§122 本質はまず自己のうちで反照し媒介されているものである。しかし媒介が完成されたからには、本質の自己統一は今や区別の揚棄、したがって媒介の揚棄として定立されている。したがってこれは直接態あるいは有の復活である。が、この有は媒介の揚棄によって媒介されている有、すなわち現存在(Existenz)である。
根拠は絶対的に規定された内容を持たず、また目的でもない。したがってそれは活動的でも産出的でもなく、現存在は根拠から単にあらわれ出るにすぎない。したがって特定の根拠と言ってもやはりそれは形式的なものである。言いかえれば、それはどんな規定性でもいいのであって、ただそれと連関している直接的な現存在との関係において、自己関係的なもの、肯定的なものとして定立されているものであればいいのである。それは根拠でありさえすれば、同時にしかるべき根拠でもある。というのは、しかるべきという言葉は、全く抽象的には、肯定的ということを意味するにすぎず、われわれがなんらかの仕方で明白に肯定的なものとして言いあらわしうる規定性は、すべてしかるべきものであるからである。だから、われわれは、あらゆるものにたいして、なんらかの根拠を見出し挙げることができ、しかるべき根拠(例えば行動のしかるべき動機)なるものは、何事かをひきおこすかもしれないし、またひきおこさないかもしれない、結果を持つかもしれないし、また持たないかもしれない。例をもって示せば、しかるべき理由は、意志のうちへ取り入れられてはじめて何事かをひきおこす動機となるのであり、意志がはじめてそれを活動的なもの、原因とするのである。


b 現 存 在 (Die Existenz)


§123


§123 現存在は、自己のうちへの反省と他者のうちへの反省との直接的な統一である。したがってそれは、自己のうちへ反省すると同時に他者のうちへ反照し、相関的であり、根拠と根拠づけられたものとの相互依存および無限の連関からなる世界を形成する、無数の現存在である。ここでは根拠はそれ自身現存在であり、現存在も同じく、多くの方面に向って、根拠でもあれば根拠づけられたものでもある。
  ▼補遺 Existenz〔現存在〕という言葉は、ラテン語のexistere〔出現する〕という動詞から作られたものであって、出現している有(Hervorgegangensein)を示す。すなわち現存在とは、根拠から出現し、媒介を揚棄することによって回復された有である。本質は揚棄された有であるから、まず自己のうちにおける反照であり、そしてこの反照の諸規定は同一、区別、および根拠であった。根拠は同一と区別との統一であり、したがって同時に自己を自分自身から区別するものである。

ところで、根拠から区別されたものは、根拠そのものが単なる同一性でないように、単なる区別ではない。根拠は自己を揚棄するものである。そして根拠が自己を揚棄して移っていくもの、すなわち根拠の否定の結果が、現存在である。これは根拠から出現したものであるから、根拠をその内に含んでおり、そして根拠は現存在の背後にとどまっているものではなく、自己を揚棄して現存在へ移っていくものである。こうした関係は、普通の意識のうちにも見出される。われわれが或るものの根拠を考察する場合、この根拠は単に内面的なものではなく、それ自身再び一つの現存在である。例えば、われわれは火事の根拠として或る建物に点火した電光を考え、同様にまた或る民族の政体の根拠としてその民族の風習および生活関係を考える。これが一般に、現存在する世界が最初にわれわれの反省の前にあらわれる姿である。それは、自己へ反省すると同時に他者へ反省し、互に根拠および根拠づけられたものとして関係しあっている無数の現存在である。現存在するものの総括としての世界のうちに行われている、このような種々様々の関係のうちには、まずどこにも確かな拠りどころが見出されない。すべては、他のものに制約されるとともに、他のものを制約する相対的なものとしてのみあらわれている。反省的悟性はこれらの全面的関係を探り追求することを仕事としているのであるが、それでは、究極目的は何かという問題は解決されないままに残る。したがって概念をとらえようとする理性は、論理的理念の一層の発展とともに、このような単なる相対性の立場を越えて進んで行くのである。


§124


§124  しかし、現存在するものの他者への反省は、自己への反省と不可分である。なぜなら、根拠は両者の統一であって、現存在はこの統一からあらわれ出たものだからである。したがって、現存在するものは、相関性、すなわち諸他の現存在と自分とのさまざまな連関を、自分自身のうちに含み、根拠としての自己のうちへ反省している。かくして、現存在するものは物(Ding)である。
  カント哲学においてあんなに有名になった物自体(Ding-an-sich)は、ここでその発生において示される。すなわちそれは、他者への反省および一般に異った諸規定が排除されて、そうした諸規定の空虚な基礎である抽象的な自己内反省が固執されているものである。


§124 ▼補遺


§124 ▼補遺 物自体は認識できないものであるという主張は、次のような意味でのみ正しい。すなわち、認識するとは、対象を具体的な規定性においてとらえることを意味するのに、物自体は、全く抽象的で無規定の物一般にすぎないのである。のみならず、もし物自体というようなことが言えるとすれば、同じ権利をもってわれわれは、質自体とか量自体とか言うこともできるであろうし、さらにその他のすべてのカテゴリーについても同様のことが言えるであろう。そしてわれわれはこうした言葉のもとに、単なる直接性における、言いかえれば、展開および内的規定性が捨象されているこれらのカテゴリーを理解するであろう。したがって、ただ物だけを特に自体のうちに固定するのは、悟性の気まぐれの一つと言わなければならない。さらに人々は、自体という言葉を自然および精神の世界の内容にも適用して、例えば電気自体とか植物自体とか、また人間自体とか国家自体とかいうような言葉を用い、自体という言葉によってこれらの対象の正しい本来の姿を意味させている。こうした言葉についても、物自体一般についてと全く同じことが言える。すなわち、われわれが対象の単なる自体にとどまっているならば、われわれはこれらの対象をその真の姿においてではなく、単なる抽象という一面的な姿においてとらえるのである。例えば、人間自体は子供であるが、子供はその抽象的で未発展の自体にとどまっているべきものではなく、それがまず即自的にのみあるもの、すなわち自由で理性的な存在に、対自的にもならなければならない。同様に、国家自体とはまだ発達しない族長的国家であって、そこではまだ国家の概念のうちに含まれているさまざまな政治的機能が、概念に適合した構成にまで達していない。同じ意味でまた、胚を植物自体と言うことができる。これらの例からわかるように、物の自体あるいは物自体がわれわれの認識の達しがたいものと考えるのは、甚しい誤りである。すべての事物は最初は即自的にある。しかしそれはそこにとどまっているものではなく、あたかも植物自体である胚が本質的に発展するものであるように、物一般もまた抽象的な自己内反省である単なる自体を越えて進み、更に他者への反省として自己を示すにいたる。かく考えられるとき、物は諸性質を持つのである。


c 物(Das Ding)


§125


§125 物Dingは根拠Grundと現存在Existenzという二つの規定が発展Entwicklung
して一つのもののうちで定立されているものとして、統体〔Totalität; 全体性、総体性〕である。それは、そのモメントの一つである他者内反省〔Reflexion-in-Anderes; 他者への反照〕からすれば、それに即してさまざまの区別を持ち、これによってそれは規定された、具体的な物konkretes Dingである。 
(イ) これらの諸規定は相互に異っており、それら自身のうちにではなく、物のうちにその自己内反省を持っている。それらは物の諸性質(Eigenschaften)であり、それらと物との関係は、持つという関係である。
  今や“ある”の代りに、持つという関係があらわれる。“或るもの”も自己に即してさまざまの質を持ってはいるが、このように持つという言葉を有的なものへ転用するのは正確ではない。なぜなら、質としての規定性は、或るものと直接に一体であって、或るものがその質を失うとき、或るものは存在しなくなるからである。しかし物は自己内反省であり、区別から、すなわち自己の諸規定から区別されてもいるところの同一性である。―Haben〔持つ〕という言葉は、多くの言語において過去をあらわすに用いられているが、これは当然である。というのは、過去とは揚棄された有であるからである。精神は過去の自己内反省であって、過去は精神のうちでのみなお存立を持っているが、しかし精神はまたこの自己のうちで揚棄された有を自己から区別してもいる。


§125 ▼補遺


§125 ▼補遺 物において、すべての反省規定が、現存在するものとして再びあらわれてくる。かくして物は、まず物自体としては、自己同一なものである。しかし、すでに述べたように、同一は区別なしには存在しない。そして物が持っている諸性質は、現存在している区別-差別のかたちにおける―である。以前は、差別されたものは相互に無関係であって、外的な比較がそれらの相互関係を作り出したのであるが、今やわれわれは物において、さまざまの性質を相互に結合する紐帯を持っている。

なお、われわれは性質Eigenschaftと質Qualitätとを混同してはならない。われわれは、或るものが質を持っているというような言い方をしないでもない。しかし、持つという言葉は、その質と直接に同一である或るものにはまだ属しないような独立性を示すから、こうした言い方は適当でないのである。或るものは、その質によってのみ或るものである。これに反して物は、諸性質を持つかぎりにおいてのみ現存在するものではあるが、しかしあれこれの特定の性質に結びつけられているものではなく、したがってそれらを失っても、その物でなくなるということはない。


§126


§126 (ロ) しかし根拠においてさえ、他者への反省はそれ自身直接に自己への反省である。したがって諸性質はまた自己同一であり、独立的でもあって、物に結びつけられていることから解放されてもいる。しかしそれらは、物の相互に区別された諸規定性が自己のうちへ反省したものであるから、それら自身具体的な物ではなく、抽象的な規定性として自己へ反省した現存在、質料(Materie)である。
  さまざまの質料、例えば磁気的、電気的質料は、実際また物とは呼ばれない。―それらは本来の意味における質、すなわちそれらの有と一つのものであり、直接態に達した規定性である。もっともこの直接態は、反省した有としての、したがって現存在であるところの有としての直接態であるけれども。


§126 ▼補遺


§126 ▼補遺 物が持つ諸性質が独立して、それらから物が成立する質料となるということは、物の概念にもとづいており、したがって経験のうちにも見出される。しかし、例えば、色とか匂とかのような物の諸性質を特殊の色素や臭素として示しうるということから、これですべては終ったのであって、物の本質をさぐるには物をその質料へ分解しさえすればよいと結論するのは、論理にも経験にも反している。独立的な諸質料への分解ということは、ただ無機的自然においてのみ本来の場所を持っている。したがって化学者が、例えば食塩や石膏をその質料に分解して、前者は塩酸とソーダ、後者は硫酸と石灰とから成ると言うとき、かれは正当である。また地質学が花崗岩を石英と長石と雲母とから合成されているとみるのも、同様に正当である。そして物を構成しているこれらの質料は、一部はそれ自身また物であり、したがってより抽象的な素材に分解されうる。例えば、硫酸は硫黄と酸素とから成っている。このような質料あるいは素材は、実際独立に存在するものとしてあらわされうるものであるが、このような独立を持たない諸性質が特殊の質料とみられることもしばしばある。例えば、熱や電気や磁気の質料とかいうようなことが言われているが、このような質料や素材は悟性の虚構にすぎない。一体に、理念の特定の発展段階としてのみ妥当する個々のカテゴリーを勝手にとらえてきて、すなおな直観と経験とに反するにもかかわらず、説明のためと称して、あらゆる考察の対象をそれに還元してしまうのが、抽象的な悟性的反省のやり方である。かくして、物が独立の諸質料からなるという思想は、それがもはや全く妥当しない領域にもしばしば適用されている。すでに自然の範囲内でも、有機的生命においてはこのカテゴリーは不十分である。われわれはこの動物は骨、筋肉、神経、等々から成ると言いはする。しかしこの場合、花崗岩の一片が上述のような諸質料から成るのとは、わけがちがうということはきわめて明白である。花崗岩を構成している諸質料は、その結合にたいして全く無関心であり、結合されていなくても存立することができる。これに反して有機的な肉体のさまざまの部分は、それらの結合のうちにのみ存立を持ち、はなればなれになると、そうしたものでなくなってしまう。


§127


§127 かくして質料は抽象的な、すなわち未規定の他者内反省であり、あるいは、同時に規定されたものとしての自己内反省である。質料はしたがって定有的な物性であり、物を存立させるものである。かくして物はその自己への反省を諸質料のうちに持ち(125節の反対)、自己に即して存立するものではなくて、諸質料からなるものであり、諸質料の表面的な連関、外面的な結合にすぎない。


§128


§128 (ハ) 質料は、現存在の自己との直接的統一であるから、規定性にたいして無関心でもある。したがって、さまざまの質料は合して一つの質料、すなわち、同一性という反省規定のうちにある現存在となる。他方、これらさまざまの規定性、およびそれらが物のうちで相互に持っている外面的な関係は、形式(Form)である。これは区別という反省規定であるが、しかし現存在しかつ統体性であるところの区別である。
  この無規定的な一つの質料もまた物自体と同じものである。ただ異るところは、物自体が全く抽象的な存在であるに反し、前者は即自的に他者との関係、まず第一に形式との関係を含んでいる点にある。

§128 ▼補遺


§128 ▼補遺 物を構成しているさまざまの質料は本来同じものである。これによってわれわれは、区別がそれにたいして外的なものとして、すなわち単なる形式として定立されているような一つの質料一般を持つことになる。物はすべて同一の質料をその基礎に持ち、それらの相違はただ外的にのみ、すなわち形式においてのみあるにすぎないという考え方は、反省的意識にはきわめてよく知られたものである。この場合質料は、それ自身は全く無規定的でありながら、しかもどんな規定でも受け入れることができるものであり、また絶対に永久不変で、あらゆる変転、変化のうちで自己同一にとどまるものである、と考えられている。特定の形式にたいする質料のこうした無関心は、確かに有限な事物のうちには見出される。例えば、大理石の一片にとっては、どんな立像の形が与えられようと、あるいはまた円柱の形が与えられようと、どうでもいいことである。
しかし、この場合見のがしてならないのは、大理石の一片のような質料でも、ただ相対的にのみ(彫刻家にたいしてのみ)形式に無関心なのであって、けっして、一般に無形式ではない、ということである。鉱物学者は、相対的にのみ無形式の大理石を特定の組成をもつ岩石とみ、同じく特定の組成をもつ他の岩石、例えば、砂石、斑岩などから区別している。したがって、質料をそれだけで独立させ、それ自身あくまで無形式のものと考えるのは、抽象を事とする悟性にほかならない。事実はこれに反して、質料という概念は、あくまで形式の原理を自己のうちに含んでいるのであり、だからこそ経験においても、形式のない質料はどこにも現存しないのである。なお、質料は本源的な存在であり、かつそれ自身無形式のものであるという考え方は、きわめて古く、すでにギリシャに見出される。その最初の姿はギリシャ神話のカオスであって、それは現存在の世界の没形式の基礎と考えられている。こうした考え方にしたがえば、神は世界の創造者ではなく、世界の単なる形成者、デミウルゴスと考えられなければならない。しかし一層深い見方は、神は世界を無から創造したという見方である。これは二つのことを含んでいる。一つには、質料そのものはけっして独立を持たないということであり、もう一つには、形式は外から質料に達するのではなく、統体性として質料の原理を自己のうちに持っているということである。このような自由で無限な形式は、後に示されるように、概念である。


§129


§129 かくして物は質料と形式とにわかれる。この両者はいずれも物性(Dingheit)の全体であり、おのおの独立的に存立している。しかし肯定的で無規定の現存在たるべき質料も、それが現存在である以上、自己内有とともにまた他者への反省を含んでいる。こうした二つの規定の統一として、質料はそれ自身形式の全体である。しかし形式は、諸規定の総括であるという点だけから言ってもすでに、自己への反省を含んでいる。言いかえれば、それは自分自身へ関係する形式として質料の規定をなすべきものを持っている。両者は即自的に同じものである。両者のこうした同一の定立されたものが、同時に異ったものでもあるところの質料と形式との関係である。


§130


§130 物はこのような統体性として矛盾である。すなわち、物は、否定的統一からすれば形式であり、質料はそのうちで規定されて諸性質にひきさげられているが(125節)、同時に物はもろもろの質料からなっており、これらは物の自己への反省のうちで、否定されたものであると同時に独立的なものでもある。かくして物は、自分自身のうちで自己を揚棄する現存在としての本質的な現存在、すなわち現象(Exscheinung)である。
  物においては、もろもろの質料の独立性と同時にそれらの否定が定立されているが、この否定は物理学では多孔性(Porosität)という姿をとってあらわれている。多くの質料(色素、嗅素、およびその他の諸質料。音素、熱素、電素等々というようなものなどまで考えている人もある)の各―は否定されてもいる。そしてこれらのこうした否定性、すなわち、これらが持っている多くの孔のうちに、他の多くの独立な質料が存在し、それらも同じく孔を持ち、かくして互に自分のうちに他のものを存在させるようになっている。この孔なるものはけっして経験的に見出されるものではなく、悟性の作りものである。悟性は、独立的な諸質料が持っている否定のモメントをこのような仕方で考え、そして矛盾のそれ以上の進展を、そのうちではすべてが独立的であるとともに、またすべてが互のうちで否定されているところの混沌をもっておおいかくすのである。―同じような仕方で精神の諸能力や諸作用が実体化される場合、それらの生きた統一は、それらが互に作用しあうという混乱となってしまう。
 孔が観察によって確証されうるものでないと同じように(ここで孔というのは、例えば木材や皮膚の孔のような有機体の孔をさすのではなく、色素とか熱素とか、あるいは金属や結晶などのような、いわゆる質料のうちにある孔である)、質料そのものとか、質料から切りはなされた形式というようなもの(その最も手近な例は、物が質料から成立しているという考え、および物はそれ自身存立していて諸性質を持つにすぎないという考えである)もまた反省的な悟性の産物である。この悟性は、観察しそして観察するものを記述すると称しながら、かえって一種の形而上学を作り出しているのであり、そしてこの形而上学は、あらゆる方面で矛盾にみちているのに、悟性はそれに気づかないのである


B 現 象 ( Die Erscheinung)


§131


§131 本質は現象しなければならない。本質が自己のうちで反照Scheinenするとは、自己を直接態へ揚棄することである。この直接態は自己への反省としては存立性(質料)であるが、同時にまたそれは形式、他者への反省、自己を揚棄する存立でもある。反照するということは、それによって本質が有でなく本質であるところの規定であり、そしてこの反照の発展した形態が現象である。したがって本質は現象の背後または彼方にあるものではなく、本質が現存在するものであることによって現存在は現象なのである。


§146 ▼補遺


§131 ▼補遺 現存在の矛盾が定立されたものが現象である。現象を単なる仮象(Schein)と混同してはならない。仮象は有あるいは直接態の最初の真理である。直接的なものは、われわれが思っているような独立的なもの、自己に依存しているものではなく、仮象にすぎない。かかるものとしてそれは、内在的な本質の単純性へ総括されている。本質は最初は自己内での反照の全体であるが、しかしそれはそうした内面性にとどまっていないで、根拠として現存在のうちへあらわれ出る。こうした現存在は、その根拠を自己のうちにではなく、他のもののうちに持つのであるから、まさに現象にほかならない。現象と言うとき、われわれは、その存在が全く媒介されたものにすぎず、したがって自分自身に依存せず、モメントとしての妥当性しか持っていないような多くの多様な現存在する物を思いうかべる。しかしこの表象のうちには同時に、本質は現象の背後または彼方にとどまるものではなく、自己の反照を直接態のうちへ解放して、それに定有の喜びを与える無限の仁慈であることが含まれている。このようにして定立された現象は、自分の足で立っているものではなく、その有を自分自身のうちでなく、他のもののうちに持っている。・・・以下、省略・・・


a 現象の世界(Die Welt der Erscheinung)


§132


§132 現象的なものの現存在の仕方においては、現象的なものの存立性(Bestehen)が直接的に揚棄されて、それは形式そのものの単なる一モメントとなっており、形式は存立性あるいは質料を、諸規定の一つとして自己のうちに含んでいる。かくして現象的なものは、その本質としての、すなわち、その直接態に対立する自己内反省としての、質料のうちにその根拠を持ってはいるが、しかし現象的なものはこのことによって、他者内反省としての形式のうちにのみその根拠を持つ。形式という現象の根拠も同じく現象的なものであり、かくして現象は、存立性の形式による、したがってまた非存立性による、無限の媒介へ進んでいく。この無限の媒介は、同時に自己への関係という統一であり、そして現存在は、現象すなわち反省された有限性の総体、つまり現象の世界へ発展させられている。


b 内容と形式 (Inhalt und Form)


§133


§133  現象の世界を作っている個々別々の現象は、全体として一つの統体をなしていて、現象の世界の自己関係のうちに全く包含されている。かくして現象の自己関係は完全に規定されており、それは自分自身のうちに形式を持っている。しかも、それは自己関係という同一性のうちにあるのであるから、それは形式を本質的な存立性として持っている。かくして形式は内容(Inhalt)であり、その発展した規定性は現象の法則(Gesetz)である。これに反して、現象の否定的な方面、すなわち非独立的で変転的な方面は、自己へ反省しない形式である。それは無関係的な、外的な形式である。
  形式と内容という対立において、けっして忘れてならないことは、内容は無形式なものではなく、形式は内容にたいして外的なものであると同時に、内容は形式を自分自身のうちに持っている、ということである。形式には二通りあって、それは一方自己へ反省したものとしては内容であり、他方自己へ反省しないものとしては内容に無関係な、外的な現存在である。ここには潜在的に内容と形式との絶対的相関、すなわち両者の相互転化があり、したがって内容と
は、内容への形式の転化にほかならず、形式とは、形式への内容の転化にほかならない。この転化はきわめて重要な法則の一つである。しかしそれは絶対的相関においてはじめて顕在するようになる。 


§133 ▼補遺


§133 ▼補遺 形式と内容という規定は、反省的悟性が非常にしばしば使用する一対の規定であるが、その際悟性は主として、内容を本質的で独立的のものとみ、これに反して形式を非本質的で独立的でないものと考えている。しかし、実際は両者ともに同様に本質的なものであって、形式を持たない質料が存在しないと同じように、形式を持たない内容も存在しないのである。内容と質料とがどうちがうかと言えば、質料は潜在的には無形式ではないけれども、その定有においては形式に無関心なものとしてあらわれているに反して、内容は、内容である以上、完全な形式を自己のうちに含んでいなければならない。もっとも、内容に無関係で外的な現存在であるような形式もまた存在する。こうしたことは、現象が一般にまだ外面性を脱しないところから起るのである。例えば、本について言えば、それが書かれたものであるか、印刷されたものであるか、あるいはまた、紙表紙であるか、皮表紙であるかは、確かにその内容には無関係である。しかし、このような外的でどうでもいいような形式を別とすれば、本の内容そのものが没形式だということはけっしてない。もちろん、内容から言っても当然無形式と言いうるような本がたくさんありはする。しかしこの場合、無形式というのと同じ意床であって、形式一般がないのではなく、正しい形式がないのである。正しい形式は、内容に無関係であるどころか、むしろ内容そのものである。したがって正しい形式を欠く芸術作品は、正しいすなわち真の芸術作品ではない。或る芸術家について、かれの作品の内容はいいが(否、すばらしくさえあるが)、ただ形式が欠けていると言われるとすれば、それは弁護になっていない。真の芸術作品は、その内容と形式が全き同一を示しているようなものである。・・・以下、省略・・・


§134


§134  しかし、直接的な現存在は、形式の規定性でもあれば、存立性そのものの規定性でもある。したがってそれは内容の規定性にたいして外的でもあるが、しかし他方内容がその存立性というモメントによって持つところのこの外面性は、内容にとって同じく本質的でもある。このようなものとして定立された現象が相関(Verhältnis)であって、ここでは同一のもの、すなわち内容が、発展した形式として、外的で対立した独立の現存在としてあると同時に、また同一的な関係としても存在し、異った二つのものは、こうした同一関係のうちでのみそれらがあるところのものである。


c 相  関 (Verhältnis)


§135


§135 (イ) 直接的な相関は、全体と部分(das Ganze und die Teile)とのそれである。内容は全体であり、自己の対立者である諸部分(形式)から成っている。諸部分は相互に異っていて、独立的なものである。しかしそれらは相互の同一関係においてのみ、すなわち、それらが総括されて全体を形成するかぎりにおいてのみ、諸部分である。しかし総括は部分の反対であり否定である。


§135  ▼補遺


§135  ▼補遺 本質的な相関ということは、規定された、全く普遍的な現象の仕方である。現存在するものは、すべて相関をなしており、この相関があらゆる現存在の真理である。したがって現存在するものは、単に独立的に存在するものではなく、他のもののうちにのみあるものである。しかしそれは他のもののうちで自己へ関係するから、相関は自己への関係と他者への関係との統一である。
 全体と諸部分という相関は、その概念と実在とが一致していないかぎりにおいて、真実でないものである。全体という概念は、諸部分を含むということである。しかし、全体がその概念上あるところのものとして定立されると、すなわち、それが分割されると、それは全体でなくなる。全体と部分という相関に対応しているような事物もあるにはあるが、しかしそれはまさにそれゆえに低い、真実でない存在である。この場合、一般に注意すべきことは、哲学において真実でないもの(das Unwahre)と言われるとき、そうしたものが現存しないという意味に解されてはならないということである。悪い国家とか病気の肉体というようなものはあくまで存在するであろう。が、これらは、その概念と実在とが一致していないから、真実でないものである。―全体と諸部分という相関は、直接的な相関であるから、反省的な悟性にはきわめてわかりやすい。そのために反省的悟性は、その実一層深い関係が問題である場合でも、この関係で満足していることが多い。例えば、生きた肉体の肢体や器官は、単に部分とのみみるべきものではない。なぜなら、それらは、それらの統一のうちにおいてのみ、肢体や器官であって、けっして統一に無関係なものではないからである。それらは、解剖学者の手にかかるとき、はじめて単なる諸部分となるのであり、解剖学者が取扱うのは、もはや生きた肉体ではなくて、死体にすぎない。こう言ったからといって、一般にこうした分解を行ってはならないと言うのではないが、しかし全体と諸部分というような外部的で機械的な関係は、有機的生命の真の姿を認識するには不十分なものである。

-全体と部分というような関係を、精神および精神の世界の諸形態に適用すれば、その不十分ははるかに著しいものとなる。心理学者は、心あるいは精神の諸部分というような言葉こそ使っていないが、しかし精神の活動の諸形態をそれぞれ独立させ、いわゆる特別の力及び能力として枚挙し記述している。このかぎりにおいて、人々が心理学を単に悟性の立場から研究する場合には、人々は同じく全体と部分という有限な相関関係の観念を根抵においているのである。


§136


§136 (ロ) したがってこの相関のうちにある同一なもの、すなわち自己関係は、直接に否定的な自己関係である。すなわち、それは媒介ではあるが、しかしこの媒介は、同一的なものが区別にたいして無関心でありながら、しかも否定的な自己関係であるというような媒介である。そしてこの否定的な自己関係は、自己への反省としての自分自身をつきはなして区別となり、他者への反省として現存在するようになるが、逆にまたこの他者への反省を自己への反省および無関心性へ復帰させる。こうした相関がすなわち力(Kraft)とその発現(Ӓusserung)である。
  全体と諸部分との相関は、直接的な、したがって無思想な相関であり、自己同一の差別への無思想な転化である。われわれは全体から諸部分へ、諸部分から全体へ移っていく。そして一方のうちで、それがもう一つのものへ対立したものだということを忘れ、各々をそれだけで、すなわち或るときは全体を、或るときは諸部分を、独立の存在と考える。別の言葉で言えば、われわれは、諸部分は全体のうちに存立し、全体は諸部分から成立すると考えているから、或るときは全体を本質的で諸部分を非本質的と考え、或るときは諸部分を本質的で全体を非本質的と考えているのである。機械的関係の表面的な形式は、諸部分が相互にたいしてもまた全体にたいしても独立的なものとして存在することにある。
 物質の可分性にかんする無限進行は、この相関を利用することもできる。すると、その無限進行は、この相関の二つの側面の無思想な交替となる。すなわち、或る物がまず全体的なものととられ、次にわれわれは部分の規定へ移っていく。今度はこの規定を忘れ、以前部分であったものを全体と考える。するとまた部分の規定が考えられてくる、という風にして無限に進むのである。われわれがしかしこの無限を、それが実際そうであるように、否定的なものと解すると、この無限は、全体と部分という相関の否定的な自己関係である。すなわち、自己内にあるものとして自己同一的全体でありながら、しかもこの自己内有を揚棄して発現するところの力であり、また逆に、消滅して力のうちへ帰っていくところの発現である。

 力は、このように無限であるにもかかわらず、また有限でもある。なぜなら、内容すなわち力と発現とのうちにある同一なものは、潜在的にのみ同一であるにすぎず、相関の二つの側面の各々は、まだそれ自身顕在的には相関の具体的な同一でなく、まだ統体性でないからである。したがって二つの側面は、相互にたいして異ったものであり、相関は有限な相関である。力はしたがって外からの誘発を必要とし、盲目的に作用する。そしてその形式がそうした欠陥を持っているために、内容もまた制限され偶然的である。その内容はまだ形式と真に同一でなく、絶対的に規定されている概念や目的ではない。―この区別はきわめて根本的なものであるが、その理解は容易でない。それは目的概念のところではじめて詳しく規定されるであろう。この区別をみのがすと、特にヘルダーにみられるように、神と力と混同するというようなことがおこってくる。
 人々はよく、力の本性そのものは認識できないものであって、認識できるのはその発現だけであると言う。しかし一方、力の内容規定の全体はまさに発現のそれと同じものであり、したがって現象を力から説明するのは、空虚な同語反復である。だから、人々があくまで認識できないと考えているものは、その実自己への反省という空虚な形式にすぎない。力はこうした形式によってのみ発現と区別されているのであって、それはよく知られているものでもある。こうした形式は、現象からのみ認識さるべき内容および法則に、何一つ新しいものをつけ加えはしないのである。また人々はよく、自分は力という言葉を使うが、力とはどういうものかについては何も主張しない、というようなことを言う。それでは、なぜ力という形式を諸科学に導き入れたのか理解に苦しまざるをえない。―他方、力の本性は認識できないものでもある。なぜなら、力の内容が制限されたものであり、したがってその規定性を自己以外のものによって持っているものであるかぎり、力の内容にはまだその内容の必然性も、内容のそれ自身のうちにおける連関の必然性も欠けているからである。


§136  ▼補遺1 ・・・略・・・
     ▼補遺2 ・・・略・・・

§137


§137  力は、自分自身に即して自己へ否定的に関係する全体であるから、自己を自己から反撥し、そして発現するものである。しかしこのような他者への反省、すなわち諸部分の区別は、同様に自己への反省でもあるから、発現は、自己のうちへ帰る力が、それによって力として存在するところの媒介である。力の発現はそれ自身、この相関のうちにあるこつの項の差別の揚棄であり、潜在的に内容をなしている同一性の定立である。力と発現との真理はしたがって、その二つの項が内的なものと外的なものとしてのみ区別されているような相関である。


§138


§138 (ハ) 内的なもの(das Innere)は、現象および相関の一側面という単なる形式としてあるような根拠であり、自己内反省という空虚な形式である。そしてそれには、他者への反省という空虚な規定を持ち、同じく相関のもう一つの側面という形式としての現存在が、外的なもの(das Ӓussere)として対立している。内的なものと外的なものとの同一は、実現された同一であり、内容であり、自己への反省と他者への反省との統一が力の運動のうちで定立されたものである。両者は同じ一つの総体であり、この統一が両者を内容とするのである。


§139


§139
 したがってまず第一に、外的なものは内的なものと同じ内容である。内にあるものは外にもあり、外にあるものは内にもある。現象が示すものはすべて本質のうちにあり、本質のうちにあるものはすべて顕現されている。

§140


§140 第二に、内的なものと外的なものとは、形式規定としてはまた対立しあってもいる。しかも、一方は自己同一という抽象物であり、他方は単なる多様性あるいは実在性という抽象物であるから、全く正反対のものである。しかし両者は、一つの形式のモメントとして、本質的に同一なものであるから、一方の抽象物のうちに定立されているにすぎないものは、直接にまた他方のうちに定立されているにすぎない。したがって内的なものにすぎないものは、また外的なものにすぎず、外的なものにすぎないものは、また内的なものにすぎない。
  反省は普通本質を単に内的なものと思い誤っている。本質を単にそうしたものとみる場合、その見方もまた全く外面的であって、その場合考えられている本質は、空虚な外面的抽象にぎない。
  或る詩人はこう言っている― 
いかなる創られた精神も
自然の内部へ透入することはできない
その外殻だけでも示しうれば
この上もない幸と言わねばならぬ(*原注)

この言葉はむしろ、自然の本質を内的なものと規定するとき、人は外殻しか知りえない、と言わるべきであったろう。―有一般あるいはまた単に感覚的な知覚のうちでは、概念はまだ内的なものにすぎないから、それは有や感覚的知覚にたいして外的なものであり、主観的な、真理を持たない存在および思惟である。―精神におけると同じく、自然においても、概念、目的、法則がまだ内的な素質、全くの可能性にすぎないかぎり、それらはまだ外的な無機的自然、第三者の知識、外的な強力、等々にすぎない。―人間は外的に、すなわち行為においてあるとおりに(もちろん単に肉体的な外面をさすのではないが)、内的にある。内的にのみ、すなわち意図や心情においてのみ有徳、道徳的、等々であって、外が内と同じでない人があるとすれば、その人の内部も外部と同じようにからっぽなのである。
(*原註)。ゲーテの不満にたえかねた叫び「自然科学へ」第1巻、第3篇、を参照せよ。
  私はこうした言葉を60十年間幾度となく聞いた
  そしてひそかにそれを呪ってきた―
  自然には心もなければ殼もない
  それは同時にその両者なのだ、云々。
 ▼補遺 ・・・略・・


§141


§141 同一の内容をなお相関のうちにひきとどめようとする二つの空虚な抽象物は、互のうちでの直接的な移行のうちで自己を揚棄する。内容はそれ自身両者の同一性にほかならず(138節)、両者は本質の仮象が仮象として定立されたものである。力の発現によって内的なものは現存在のうちへ定立される。しかしこの定立は空虚な抽象物による媒介であり、それはそれ自身のうちで消滅して直接態となる。そしてこの直接態においては内的なものと外的なものとは即自かつ対自的に同一であって、両者の区別は単に被措定有(Gesetztsein)として規定されているにすぎない。このような同一性がすなわち現実性である。


C 現 実 性 (Die Wirklichkeit)


§142


§142 現実性とは、本質と現存在との統一あるいは内的なものと外的なものとの統一が、直接的な統一となったものである。現実的なものの発現は、現実そのものである。したがって現実的なものは、発現のうちにあっても、依然として本質的なものであるのみならず、直接的な外的現存在のうちにあるかぎりにおいてのみ本質的なものである。
 前には直接的なものの形式として有および現存在があらわれた。有は一般に無反省の直接態であり、他者への移行である。現存在は有と反省との直接的な統一、したがって現象であって、根拠から出て根拠へ帰る。現実的なものは、この統一の定立されたものであり、自己と同一となった相関である。したがってそれはもはや移行することなく、その外面性はその顕在態である。それは外面性のうちで自分自身に反省しており、その定有は自分自身の顕現であって、他のもののそれではない。

 ▼補遺 ・・・略・・・


§143


§143 現実性はこのような具体的なものであるから、それは上に述べた諸規定およびそれらの区別を含んでいる。したがってまた現実はそれらの展開であり、それらは現実においては同時に仮象、すなわち単に措定されたものとして規定されている(141節)。 (イ) 同一性一般としては現実性はまず可能性(Mӧglichkeit)、すなわち現実の具体的な統一に対峙するものとして、抽象的で非本質的な本質性として定立されている自己内反省である。可能性は現実性にとって本質的なものであるが、しかし同時に単に可能性であるような仕方でそうなのである。
  カントは「これらの規定は客観としての概念を少しも増すものではなく、ただ認識能力への関係を表現するにすぎない」と言って、可能性と必然とを様態(Modalität)とみたが、カントがそういうことをなしえたのは、おそらく可能性の規定によってである。実際可能性は自己反省という空虚な抽象であり、前に内的なものと呼ばれていたものであるが、ただそれがここでは、揚棄された、単に定立されているにすぎぬ、外在的な、内的なものとして規定されているのである。したがってそれは単なる様態、不十分な抽象物、もっと具体的に言えば、単に主観に属するにすぎないものとして定立されてもいる。

現実性と必然性とはこれに反して、他のものにたいする様態であるどころか、まさにその正反対のものであり、単に他によって定立されているのではなく、自己のうちで完結した具体的なものとして定立されている。―可能性はまず、現実的なものとしての具体的なものにたいして、自己同一という単なる形式であるから、可能性の基準はただ、或るものが自己矛盾を含まないということにすぎない。かくしてすべてのものは可能である。というのは、われわれは、抽象によって、どんな内容にでもこうした同一性を与えることができるからである。しかしすべてのものは同様に不可能でもある。
というのは、あらゆる内容は具体的なものであるから、われわれはどんな内容においても、その規定性を特定の対立、したがって矛盾と考えることができるからである。―だからこのような可能、不可能の議論ほど空虚なものはない。特に哲学においては、或ることが可能であるとか、また他のことが可能であるとか、あるいはまたよく言われるように、或ることが考えられるとかいうような指摘に言葉を費すべきではない。以上から歴史家もまた、それ自身としてすでに真実でないことが明かになったこのカテゴリーを用うべきではないことがわかるであろう。しかし空虚な悟性の慧眼というものは、可能なこと、しかも実に多くの可能性を、役にも立たないのに、考え出して得々としているものである。
 ▼補遺 ・・・略・・・


§144


§144 (ロ) しかし、自己内反省としての可能性から区別された現実性は、それ自身外的な具体物、非本質的な直接的なものにすぎない。あるいは直接的に言えば、現実性がまず(142節)内的なものと外的なものとの、単純な、直接的でさえある統一として存在するかぎり、それは非本質的な外的なものとして存在しており、かくして同時に(140節)単に内的なもの、自己内反省という抽象である。したがって現実性自身が単に可能なものとして規定されている。このように単なる可能性という価値しか持たぬ現実的なものは、一つの偶然的なものである、そして逆に、可能性は単なる偶然そのものである。


§145


§145 可能性と偶然性とは現実性のモメント、すなわち、現実的なものの外面性をなす単なる形式として定立されている、内的なものと外的なものである。この二つのものは、それらの自己内反省を、自己のうちで規定されている現実的なもの、すなわち、本質的な規定根拠としての内容において持っている。したがってもっとはっきり言えば、偶然と可能との有限性は、形式規定が内容から区別されていることにあり、或ることが偶然であり可能であるかどうかは、内容にかかっている。
 ▼補遺 ・・・略・・・


§146


§146
 現実性の外面は、より立ち入って考えてみると、次のことを含んでいる。すなわち、偶然性は、直接的な現実性であるから、本質的に被措定有としてのみ自己同一なものであるが、しかしこの被措定有も同様に揚棄されており、定有的な外面性である。かくして偶然性は前提されているものであるが、同時にその直接的な定有は一つの可能性であり、揚棄されるという定め、他のものの可能性であるという定めを持っている。すなわちそれは条件(Bedingung)である。

§146 ▼補遺

§146 ▼補遺 偶然的なものは、直接的な現実性として、同時に他のものの可能性でもあるが、しかしそれはすでに、われわれが最初に持っていたような抽象的な可能性ではなく、有るものとしての可能性であり、かくしてそれは条件である。われわれが或る事柄の条件と言うとき、そこには二つのことが含まれている。一つは定有、現存在、一般的に言えば直接的なものであり、もう一つは、この直接的なものが揚棄されて他のものの実現に役立つという定めである。―直接的な現実性は真の現実性ではなく、自己のうちで分裂した、有限な現実性であり、消耗されるということがその定めである。しかし現実性のもう一つの側面は本質性である。これはまず内的なものであるが、内的なものは単なる可能性にすぎないから、同じく揚棄される定めを持っている。揚棄された可能性としては、それは一つの新しい現実の出現であって、この現実は最初の直接的な現実を前提として持っている。これが条件の概念のうちに含まれている交替関係である。われわれが或る事柄の条件を考えてみるとき、それはただそれだけのもののようにみえる。その実はしかし、こうした直接的な現実は、自分とは全く別な或るものへの萌芽をそのうちに含んでいるのである。この別なものは、最初は単に可能なものにすぎないが、やがてこの可能性という形式は自己を揚棄して現実となる。かくして出現するこの新しい現実は、それが消費する直接的な現実自身の内面である。したがってそこには全く別な姿を持った事物が生じるが、しかしそれは最初の現実の本質が定立されたものにすぎないのであるから、なんら別なものは生じないのである。自己を犠牲にし、亡びさり、消耗される諸条件は、他の現実のうちでただ自分自身とのみ合一するのである。― 現実性の過程はこうしたものである。現実は単に直接的な存在ではなく、本質的存在として自分自身の直接性を揚棄し、それによって自己を自己自らへ媒介するものである。


§147


§147(ハ) 現実性の外面性がこのように可能性および直接的現実性という二つの規定からなる円、すなわち両者の相互的媒介として展開されるとき、それは実在的可能性(die reale Mӧglichkeit)一般である。このような円としてそれはさらに統体性であり、したがって内容、即自かつ対自的に規定されている事柄(Sache)である。そしてそれはまた、このような統一のうちにある二つの規定の区別から見れば、対自的な形式の具体的な総体であり、内的なものの外的なものへの、および外的なものの内的なものへの直接的な転化である。形式がこのように動いていくということが活動(Tätigkeit)、すなわち自己を揚棄して現実となる実在的根拠としての事柄の働きであり、また偶然的な現実、諸条件の働きである。諸条件の働きとはすなわち、諸条件の自己内反省、諸条件が自己を揚棄して一つの異った現実、事柄の現実となることである。あらゆる条件が現存すれば、事柄は現実的にならざるをえない。そして、事柄はそれ自身諸条件の一つである。なぜなら、それは最初は内的なものとして、それ自身単に前提されたものにすぎないからである。展開された現実性は、内的なものと外的なものとが一つのものとなる交互的な転化、一つの運動へと合一されているところの両者の対立的な運動の交替であって、これがすなわち必然性(Notwendigkeit)である。
  必然性が可能性と現実性との統一と定義されるのは正しい。しかし単にそう言いあらわしただけでは、この規定は表面的であり、したがって理解しがたいものである。必然性という概念は非常に難解な概念である。というのは、必然性はその実概念そのものなのであるが、その諸契機はまだ現実的なものとして存在しており、しかもこれら現実的なものは同時に単なる形式、自己のうちで崩壊し移行するところの形式としてとらえられなければならないからである。で 私は次の2節において、必然性を構成する諸モメントをもっと詳細に述べなければならない。
  ▼補遺 或ることが必然だと言われるとき、われわれはまず最初に、なぜそうなのかと問う。これによってわれわれは必然性が措定されたもの、媒介されたものとして示されることを要求するのである。しかしわれわれが単なる媒介に立ちどまるならば、それはまだ本当の意味における必然性ではない。単に媒介されたものは、自分自身によってそれが現にあるところのものであるのではなく、他のものにそうなのであるから、やはり偶然的なものにすぎない。われわれが必然的なものに要求することは、これに反して、自分自身によってそれが現にあるところのものとして
 ▼補遺 ・・・略・・・


§148


§148 条件(Bedingung)、事柄(Sache)、活動(Tätigkeit)という三つのモメントのうち、
 a 条件は(イ) あらかじめ措定されているものである。それは、単に措定されたもの(Gesetztes)としては、事柄にたいして相関的なものにすぎない。しかし先行するもの(Voraus)としては、それは独立的なもの―事柄と無関係に存在する偶然的な、外的な事情である。しかし偶然的であるとはいえ、このあらかじめ措定されているものは、統体的なものである事柄と関係させてみれば、諸条件の完全な円である。
(ロ) 諸条件は受動的であり、事柄のために材料として使用され、かくして事柄の内容へはいっていく。それらはまたこの内容に適合しており、内容の規定全体をすでにそのうちに含んでいる。

 b 事柄も同じく(イ) あらかじめ措定されているものである。措定されたものとしては、まだ内的なものであり、可能なものにすぎないが、先行するものとしては、それだけで独立の内容である。
(ロ) 事柄は諸条件を使用することによって外へあらわれる、すなわち諸条件と対応しあう内容諸規定を実現する。したがって事柄は内容諸規定によって自己を事柄として示すとともに、また諸条件から出現するものである。

 c 活動 (Tätigkeit)も(イ) 同じく独立に存在するが(例えば人間、人物のように)しかもまた諸

条件および事柄のうちにその可能性を持っている。
(ロ) それは諸条件を事柄へ移し、また事柄を諸条件(これは現存在に属する)へ移す運動である。否むしろ、そのうちに事柄が即自的に存在している諸条件から事柄のみを取り出し、そして諸条件が持っている存在を揚棄することによって、事柄に存在を与える運動である。
   これら三つのモメントが相互に独立した存在という形を持つかぎり、上の過程は外的必然として存在する。― 外的必然は限られた内容を事柄として持つ。なぜなら、事柄は単純な規定態における全体であるが、しかしこの全体的なものは、形式上、自己に外的であるから、自分自身においても、また自己の内容においても、自己に外的であり、そして事柄におけるこの外面性が、事柄の内容の制限をなすからである。


§149


§149 必然性はしたがって即自的には、自己のうちで反照しその諸区別が独立の諸現実という形式を持っているところの、自己同一的でありながらも、内容にみちた一つの本質である。そしてこの同一的なものは、同時に絶対的な形式として、直接的なものを揚棄して媒介されたものとし、媒介を揚棄して直接的なものとする活動である。―必然的であるものは、他のものによってそうなのである。そしてこの他のものは、媒介する根拠(事柄と活動)と直接的な現実、すなわち、同時に条件でもある偶然的なものとにわかれる。他のものによるものとしての必然は、絶対的でなく、措定されたものにすぎない。しかしこの媒介はまた直接に自分自身の揚棄である。というのは、根拠と偶然的な条件は、直接態へ移され、そしてこのことによって、措定されたものは揚棄されて現実となり、事柄は自分自身と合一するからである。このように自己のうちへ帰ったものとしての必然的なものは、無条件的な現実性として端的に存在する。―必然的なものは、一群の諸事情に媒介されて必然的なのである。すなわち、必然的なものは、諸事情が必然的であるから、必然的なのである。と同時に、必然的なものは、媒介されないで必然的である。すなわち、必然的であるから、必然的なのである。

a 実体性の相関 (Substantialitäts-Verhältnis)


§150


§150
 必然的なものは自己のうちで絶対的な相関である。すなわち、(上の諸節に述べたように)相関が同時に自己を揚棄して絶対的な同一となる過程である。
 その直接的な形態は実体性(Substantialität)と偶有性(Akzidentalität)との相関である。この相関の絶対的自己同一は実体そのものである。実体は必然性であるから、こうした内面性の形式の否定であり、したがって自己を現実性として定立する。しかしそれは同時にまたこうした外面性の否定であって、この面からすれば、直接的なものとしての現実は偶有的なものにすぎない。そして偶有的なものは、こうした単なる可能性であるために、他の現実へ移っていく。この推移が形式活動(148節および149節)としての実体的同一性である。

§151


§151 したがって実体は偶有の全体であり、偶有のうちで実体は、それが偶有の絶対的否的、すなわち絶対の力であること、しかも同時にあらゆる豊かな内容であることを顕示する。この内容はしかしこうした顕示そのものにすぎない。というのは、自己へ反省して内容となった規定性そのものは、実体の力のうちで移り変っていく、形式の一モメントにすぎないからである。実体性は絶対的な形式活動であり、必然性の力である。そしてあらゆる内容は、ひたすらこうした過程に属するモメントにすぎず、形式と内容との絶対的な交互転化である。


§151 ▼補遺


§151 ▼補遺 哲学の歴史においては、われわれは実体にスピノザの哲学の原理として出あう。名声と悪評の並び行われているこの哲学の意義および価値については、すでにスピノザの生時から大きな誤解があって、それ以来も多くの議論の的となっている。スピノザの体系にたいして普通なされている主な非難は、無神論という非難、さらにまた汎神論という非難である。そしてその理由は、それが神を実体として、しかもただ実体としてのみ理解しているというのである。こうした非難をどう考えたらいいかは、まず第一に、論理的理念の体系のうちで実体が占めている位置をみればわかる。実体は理念の発展過程における一つの本質的な段階であるが、しかしそれは理念そのもの、絶対的理念ではなく、必然性というまだ限られた形式のうちにある理念である。もちろん、神は必然性であり、われわれはそれを絶対的な事物ということもできるが、しかしそれは同時に絶対の人格でもある。この点がスピノザの到達していない点であり、そしてこの点でスピノザの哲学は、キリスト教的意識の内容をなしている真の神の概念より劣っているのである。・・・略・・・


§152


§152 実体は絶対的な力であるから、単なる内的可能性としての自己に関係することによって自己を偶有性へ規定する力であり、かくして措定された外面性はこの力から区別されている。この点からみるとき、実体は、必然性の最初の形式において実体であったように、本来の相関、すなわち因果性の相関である。

b 因果性の相関 (Kausalitäts-Verhältnis)


§153


§153 実体は一方では、偶有性への移行とは反対に、自己へ反省し、かくして本源的な事柄であるが、しかし他方それは、自己内反省あるいは単なる可能態を揚棄して、自己を自己そのものの否定として定立し、かくして結果(Wirkung)、すなわち、単に定立されたものではあるが、同時に作用の過程によって必然的なものでもあるところの、現実を産出する。このかぎりにおいて実体は原因(Ursache)である。

 原因は、本源的な事柄として、絶対的な独立性と、結果にたいして自己を保持する存立性とを持っているが、その同一性は、原因の本源性そのものをなしている必然性のうちで、全く結果へ移行している。特定の内容がここでも問題となりうるかぎり、結果のうちには原因のうちにないようないかなる内容も存在しない。右に述べた同一性が絶対的な内容そのものである。しかしこの同一性はまた形式規定でもあって、原因の本源性は、そのうちでそれが自己を措定された存在とするところの結果のうちで揚棄される。しかし原因はこれによって消失するのではなく、結果のみが現実的なものとして残るのではない。というのは、この措定された存在も同様に直接的に揚棄されており、それはむしろ原因の自己すなわちその本源性への反省だからである。原因は、結果のうちではじめて現実的であり、原因なのである。したがって原因は、即時かつ対自的には自己原因(causa sui)である。―ヤコービは媒介をあくまで一面的に考えたために、原因の絶対的真理である自己原因(自己結果effectus suiも同じものである)を単に形式主義と考えた(「スピノザにかんする手紙」第2版、416ページ)。かれはまた、神は根拠と規定すべきものではなく、本質的に原因と規定されなければならないと述べているが、かれの意図したことがこれによって達成されないということは、原因の本性をもっと根本的に反省してみればわかったであろう。有限な原因およびその表象においてさえ、内容の同一は存在している。原因である雨と結果である湿りとは、同一の現在する水である。形式からすれば、原因(雨)は結果(湿り)のうちで消失する。しかしそれとともにまた結果という規定も失われてしまうのであって、結果は原因なしには無であり、そしてこの場合無関係な湿りが残るにすぎない。
 普通考えられているような因果関係の意味では、原因は有限である。というのは、その内容が有限であり(有限な実体におけるように)、また原因と結果が二つの別々の独立な存在と考えられている―これは因果関係が捨象されているからにすぎない―からである。有限の領域においては、われわれは関連のある二つの形式規定の区別ということに立ちどまっているから、一度原因とされたものが、今度は措定されたもの、すなわち結果と規定されるようになる。するとこれはまた他の原因を持つことになり、かくしてここでもまた結果から原因への無限進行が生じる。同様に下降的な無限進行も生じる。なぜなら、結果が原因そのものと同一であるという面からみれば、それは原因として、しかも同時にはじめの原因とは別の原因として規定され、そしてこの原因は再び他の結果を持つ、という風に無限に進んでいくからである。


§153 ▼補遺


§153 ▼補遺 悟性は、実体性というものは容易に受け入れようとしないが、それに反して因果性、すなわち原因と結果との関係はよく知っている。或る内容を必然的なものとみようとする場合、悟性的な反省が努力するのは、主としてそれを因果関係に還元することである。もちろん、因果関係は、必然性に属してはいるが、しかしそれは必然性の過程における一側面にすぎず、必然性の
過程は、因果性のうちに含まれている媒介を揚棄して、自分が全くの自己関係であることを示すものである。われわれが因果性そのものに立ちどまるならば、われわれは真の因果性ではなく、有限な因果性を持つにすぎない。この関係の有限性は、原因と結果とがあくまで区別されている点にある。ところが、この二つのものは、単に異っているだけでなく、また同一でもある。この
同一性は普通の意識のうちにも見出される。われわれは、原因について、それが結果を持つかぎりにおいてのみ原因であると言い、結果については、それが原因を持つかぎりにおいてのみ結果であると言う。したがって原因と結果とは同一の内容であり、両者の相違はまず措定と被措定との相違にすぎない。しかもこの形式上の相違も同じくまた揚棄される。すなわち、原因は単に他のものの原因であるにとどまらず、また自分自身の原因であり、結果は単に他のものの結果であるにとどまらず、また自分自身の結果である。したがって事物の有限性がどこにあるかと言えば、それは、原因と結果は概念上同一であるのに、この二つの形態が分離されていることにある。すなわち原因は結果であり、結果は原因であるが、しかし原因はそれが原因であると同じ関係において結果ではなく、結果はそれが結果であると同じ関係において原因ではないのである。このことは再び原因の果しない系列―これは同時に、結果の果しない系列でもある―という形をとる無限進行を出現させる。


§154


§154 結果は原因とは別なものである。結果はこの意味では措定されたものである。しかし被措定有もまた自己反省であり、直接なものである。そして原因の作用、すなわちその措定作用は、結果があくまで原因と異るものとされているかぎり、同時に結果を前提する作用である。したがって結果がそこで起るところの他の実体が存在する。この実体は直接的なものであるから、自己へ関係する否定性でもなければ能動的でもなく、受動的なものである。しかしそれはまた実体であるから能動的でもあって、前提された直接性と自己のうちへ措定された結果とを揚棄し、反作用する。言いかえれば、それは最初の実体―これもまたその直接性あるいはそのうちへ措定された結果を揚棄するものなのであるが―の能動性を揚棄し、そして反作用する。かくして因果性は交互作用(Wechselwirkung)へ移っていく。
  交互作用において、因果関係はまだその真の規定において定立されてはいないけれども、原因から結果への、および結果から原因への直線的な運動が、自己のうちへ曲り戻らされていることによって、原因と結果との無限進行は真の仕方で揚棄されている。このように無限進行を自己完結的な関係へ曲り戻らせるものは、常にそうであるように、ここでもまた、無思想的な反復のうちには、同じもの、すなわち或る原因ともう一つの原因および両者相互の関係があるにすぎないという単純な反省である。しかしこうした関係の発展である交互作用は、それ自身区別の交替ではあるが、しかしそれは原因の区別の交替ではなくて、因果関係を構成する二つのモメントの区別の交替であり、そしてこれら二つのモメントの各々において再び、原因は結果のうちで原因であり、結果は原因のうちで結果であるという同一性、不可分性にしたがって、同じくもう一つのモメントも定立されるのである。


c 交互作用 (Wechselwirkung)


§155


§155 交互作用のうちであくまで区別されている二つの規定は(イ) 即自的には同じものである。すなわち、一方の側面は他の側面と同じように原因であり、本源的であり、能動的であり、受動的である、等々。同様に、他の側面を前提することとそれへ働きかけること、直接の本源性と交替によって措定されることとは、同一である。最初のものと考えられた原因は、その直接性によって受動的であり、措定されたものであり、結果である。したがって二つと言われた原因の区別は空
虚であって、即自的にはただ一つの原因、すなわち、結果のうちで実体としての自己を揚棄するとともに、またこの働きのうちではじめて自己を独立化する原因が存在するにすぎない。


§156


§156 (ロ) しかしこの同一性はまた対自的でもある。なぜなら、上に述べたような交替の全体は、原因自身の措定作用であり、原因のこうした措定作用のみが原因の有をなしているからである。区別は即自的にのみ、あるいはわれわれの反省によってのみ空無であるのでなく(前節を見よ)、交互作用そのものが、措定された二つの規定の各々を再び揚棄して、反対の規定へ逆転させるものなのであり、したがって二つのモメントの即自的に存在する空無性を措定するものなのである。結果は本源性のうちへ定立される、すなわち本源性が揚棄される、原因の作用は反作用となる、等々。


§156 ▼補遺


§156 ▼補遺 交互作用は完全に展開された因果関係であり、実際また反省は、因果性の見地の下に事物を考察することが、前に述べたような無限進行のために不十分であることがわかると、普通それへ逃路を求めるものである。例えば、人々が歴史を考察する場合、人々はまず或る国民の性格および風習はその政体および法律の原因であるか、それとも逆に結果であるかというように問題を論じていき、それから性格と風習および政体と法律を交互作用の見地の下にすなわち、原因はそれが原因であるのと同じ関係において同時に結果であり、結果はそれが結果であるのと同じ関係において同時に原因でもある、という風に理解するにいたる。同じことはまた自然を考察する場合、特に生物を考察する場合にも行われ、生物の諸器官および諸機能は同じく交互作用の関係にあるものとして示される。交互作用は原因と結果の関係の最も近接した真理であって、言わば概念の入口に立っているが、しかしまさにそれゆえに、概念的認識が必要である場合、われわれはこの関係の適用で満足してはならないのである。われわれが与えられた内容を単に交互作用の見地の下にみるにとどまるならば、それは全く没概念的な態度である。というのは、その場合われわれは単なる事実を取扱うにすぎず、因果関係を適用する際まず問題になっている媒介の要求は、再び満足されないままに残るからである。交互作用という関係の適用がなぜ不十分であるかをよく考えてみると、それは、この関係が概念に等しいものでなく、まず概念的に把握されなければならないものである、という点にある。そしてこのことは、この相関の二つの側面を直接に与えられたものとして放置せず、前の二節で示したように、それらをより高い第三のもののモメントとして認識することによって行われる。そしてこの第三のものこそまさに概念なのである。・・・略・・・


§157 ・・・略・・・
§158 ・・・略・・・
§158 ▼補遺 ・・・略・・・
§159 ・・・略・・・
・・・以上で、第2部本質論 終わり・・・

 第3部 概念論 ・・・略・・・


 ヘーゲル 『大論理学』 第2巻本質論

   第1章 仮 象 Der Schein

  
  『大論理学』 第2巻 本質論   

 〔1、有から本質への過程〕 

 有の真理は本質である。
 有は直接的なものである。知識が有の即且向自的な真の相を認識しようとするときは、知識はこの直接的なものとその諸規定にとどまらず、この有の背後に有そのものとは異なる何か他のものが存在し、その背後こそ有の真理をなしているものだという前提をもって、この直接的なものを貫き抜ける。このような認識は媒介された知識である。というのは、この認識は本質の下で、また本質の中で直接的に見出されるものではなくて、むしろ或る他者から、即ち有から出発して、その有を超出する道、或いはむしろ有の中への沈潜の道を予め歩まなければならないからである。そして知識が、この直接的な有の中から自己を想起する〔内化する〕ときはじめて、知識はこの媒介を通して本質を見出すのである。動詞のSein(有る)という言葉は、その過去の時称 gewesen の中に Wesen (本質)を含んでいる。というのは、本質は過ぎ去った〔過去になった〕有であるが、しかも無時間的に過ぎ去った有だからである。
 
だが、この運動を知識の行程と考えるとすると、この有からの出発と、この有を止揚して、媒介されたものとしての本質に達するところの進行とは、有に對して外面的で、有自身の本性とは無関係な認識の活動であるかのように見える。
 けれども、この行程は有自身の運動である。それで、この行程において明らかにせられたことは、有がその本性によって自己を想起〔内化〕し、この自己内行( Insichgehen )を通して本質となるということである。
それ故に、絶對者は最初には有と規定されたが、いまは本質と規定される。認識は一般に多様な定有にとどまることはできないが、それはまた有、純粋有にとどまることもできない。そこで認識は直ちに反省を行うことになる。その反省は即ち、この純粋有、即ち、すべての有限的なものの否定が、直接的定有を純粋有にまで純化した想起〔内化〕と運動とを前提しているという反省である。有は、それによって本質として規定される。即ち、すべての規定的なものと有限的なものとがその中で否定されているような有として規定される。その意味で、本質は無規定的で単純な統一であって、この統一からは規定的なものは或る外面的な仕方で取り除かれているのである。だから規定的なものそのものは、この統一に對して外面的な存在であったし、それはこの除去の後にも依然この統一に對立している。というのは、この規定的なものは即自的に〔それ自身として〕止揚されているのではなくて、相對的に、即ち、ただこの統一との関係においてのみ止揚されているからである。―すでに前に注意したように、もしこの純粋な本質がすべての実在性の総括と規定される場合には、これらの実在性はまた規定性という性質の下に、従ってまた抽象を行う反省の下におかれることになり、その結果この総括は空虚な単純性に還元されてしまうことになる。このような仕方では本質は単に産出されたもの、即ち一つの製作物にすぎない。即も抽象にほかならないところの外面的否定が、本質として残るところのものから有の諸規定性を全く剥ぎ取るのである。従って本質は、これらの規定性を云わば次々と或る他の場所に移し加えてみるだけで、それらが有的な規定性である点は前と少しもちがわない。しかし本質は、このような仕方では即自的にも、また向自的にも存在しない。本質は或る他者、即ち外面的な、抽象的な反省を通してあることになる。即ち或る他者に對するものとしてある。即ち抽象に對してのみあり、従って一般に、あくまでも本質に對立するところの有的なものに對するものとしてのみある。だから、このような規定の中では本質は死んだ、空な没規定性である。
 けれども、ここに現われて来たところの本質は、真の相における本質である。それは自己に外的な否定を通して現われたものではなく、自己自身の運動、即ち有の無限の運動を通じて現われたものである。それは即且向自的有である。即ち、この本質は有のすべての規定性に無関心であって、そこでは他在と他者への関係とが全く止揚されている点で、絶對的な即自有である。しかし、それは単にこのような即自有にとどまらない。単なる即自有であれば、本質は、ただ純粋な本質という抽象にすぎないであろう。そうではなくて、本質は同様にまた本質的に向自有でもある。即ち本質そのものは、このような否定性であり、他在と規定性との自己止揚なのである。

〔2、本質の本性 〕 

本質は有の完全な自己復帰であるから、最初は無規定的な本質である。有の諸々の規定性は、その中では止揚されている。本質は、それらを即自的には含んでいるが、しかし本質において措定されているところの規定性としてではない。このような自己の単純性の中にある絶對的本質は何らの定有をももたない。けれども、それは定有へ移行しなければならない。なぜなら、それは即且向自有だからである。云いかえると、本質は、その即自的に含むところの各規定を区別するものだからである。即ち絶對的本質は自己反発であり、或いは自己に對する無関心性であり、自己に對する否定的関係である故に、それは自己を自己自身に對立させるのであって、しかもこの自己との区別の中にありながら自己との統一であるという意味でのみ、無限的な向自有なのである。― そこで、この本質の規定作用は有の領域における規定作用とはちがった性質をもっている。また本質の諸規定は有の諸規定性とは別種の性格をもつ。本質は即且向自有という絶對的統一である。だから本質の規定は、どこまでもこの統一の中にとどまるものであって、それは生成でも、移行でもない。またその各々の規定そのものも他者としての他者ではなく、また他者への関係でもない。各規定は自立的なものであるが、しかしそれらが相互の統一の中にあるところの規定だという意味でのみそうである。― 本質は、はじめは単純な否定性であるが故に、次にそれは、それが単に即自的にのみ含んでいるところの規定性を自己の領域の中で措定しなければならない。それは、自己に定有を、また更に向自有を与えるためにである。

 本質は全体としては、有の領域の中で量として現われたものである。即ち限界に對する絶對的無関心心性である。量は、しかし直接的な規定の中にある無関心性であって、限界は量においては直接的に外的な規定性であり、量は定量に移行する。外的限界は量にとっては必然のものであって、従ってそれは量においては有的で〔直接的に〕ある。これに反して本質においては、規定性は有るのでは〔直接的では〕ない。それは本質そのものによって措定されているのである。即ち、それは自由にあるのではなくて、ただ本質の統一に對する関係の中にのみある。― 本質の否定性は反省〔反映〕である。従って各規定は反省された規定であり、即ち本質自身によって措定されたところの、しかも止揚されたものとして、あくまでも本質の中にとどまっているところの規定である。
 本質は有と概念との間に立ち、両者の中間をなしている。そしてその運動は有から概念への移行を形成する。本質は即且向自有であるが、ただし即自有の規定の中にあるところの即且向自有である。というのは、本質の一般的規定は、有から出て来たという点、云いかえると有の最初の否定であるという点にあるからである。本質の運動は、否定または規定を自己の中に措定し、それによって自身に定有を与え、またそこから無限的な向自有となって、本来の本質そのものとなることにある。こうして本質は自己の即自有に等しいところの定有を自己に与えて、概念となる。そのわけは、概念とは定有の中にあって絶對的または即且向自的であるところの絶對者を意味するからである。けれども、本質が自身に与えるところの定有は、まだ即且向自的な定有ではない。それは、あくまでも本質が与える定有という意味を脱しない。云いかえると、それは措定された定有である。だから概念の定有とは、まだ区別がある。

〔3、区分〕 

本質は、まず第一には、自己自身の中へ映現〔Scheinen:照り返し〕する。云いかえると、それは反省( Reflexion )である。第二に、それは現象する。第三に、それは自己を啓示する。故に本質の運動は次のような規定をとる。
 1 自己の内部の各規定の中にとどまっているところの単純な、即自有的本質という規定。
 2 定有の中へ現われ出たものという規定、云いかえると、その実存( Existenz )と現象( Erscheinung )という面での規定。
 3 その現象と合一したところの本質、即ち現実性( Wirklichkeit )としての規定。
 ◆目次
 第2巻 本質論 Die Lehre vom Wesen
  第1篇 自己自身における反省としての本質 Das Wesen als Reflexion in ihm selbst
 第1章 仮象 Der Schein
   A 本質的存在と非本質的存在 Das Wesentliche und das Unwesentliche
   B 仮象 Der Schein
   C 反省 Die Reflexion
 第2章 本質性または反省規定 Die Wesenheiten oder die Reflexionsbestimmungen
 第3章 根拠 Der Grund
  第2篇 現象 Die Erscheinung
  第3篇 現実性 Die Wirklichkeit

第2巻 本質論 Die Lehre vom Wesen
第一篇 自己自身における反省としての本質

 本質は有から出て来る。そのかぎりにおいて、本質はそのまま即且向自的であるのではなく、有の運動の結果である。云いかえると、本質は最初は直接的な本質と見られるから、本質は一つの規定的な定有であって、それに對しては或る他の規定的定有が對立している。即ち、それは非本質的な定有に對立する本質的な定有にすぎない。しかし、本質は帥且向自的に止揚された有である。そして本質に對立するところのものは単に仮象( Schein )にすぎない。けれども、仮象は本質自身の措定である。
 本質は第一に反省である。反省は自己を規定する。即ち反省の両規定は被措定有( Gesetztsein )であるが、この被措定有は同時に自己への反省( Reflexions in sich )であるようなそれである。
 第二に、これらの反省規定( Reflexions-bestimmung )または本質性( Wesenheit )が考察されなければならない。
 第三に、本質は規定作用の自己自身への反省として、自己を根拠( Grund )とする。そこで次に、この本質は実存と現象とに移って行く。


 第1章  仮 象

 本質は有から出て来たものとして、有に對立するように見える。そしてこの直接的な有はまず差し当っては非本質的存在( das Unwesentliche )である。
 けれども第二に、この有は単に非本質的な有よりも以上のものであって、それはむしろ本質を欠くところの有、即ち仮象である。
 第三に、この仮象は外面的なもの、本質に對する他者ではなくて、むしろ本質自身の仮象である。そしてこの本質のそれ自身における仮現が反省である。

 A 本質的存在と非本質的存在

 〔1、本質的存在と非本質的存在〕 
 本質は止揚された有である。本質は自己との単純な同等性であるが、しかしそのことは本質が有の領域の一般的否定であるかぎりにおいてである。それ故に本質は、直接性〔有〕が本質の生成の源であって、この止揚の過程〔本質の生成〕の中に保存され、維持されているものとして、その直接性を自己に對立させる。このような規定の中にあるために、本質自身も有的な、直接的な本質であって、また有もただ本質との関係における否定的なものにすぎず、即且向自的にあるものではない。それ故に、本質は一つの規定的な否定である。有と本質とは、このような仕方で再び互に他者一般として関係しあう。というのは、その各々は一つの有、即ち相互に無関心な直接性をもつのであって、この有の点では両者の価値は同等だからである。
 けれども、同時に有は本質に對立するものとして非本質的存在であって、有は本質に對しては止揚されたものという規定をもつ。だが、この有が一般に他者として本質に関係するかぎり、本質も本来の意味での本質ではなくて、有とは別の仕方で規定された定有、即ち本質的存在( das Wesentliche )にすぎない。

 〔2、第三者の外面的見地による両者の区別 〕 

本質的存在と非本質的存在との区別は本質を再び定有の領域に逆行させる。というのは本質は、この最初の形では直接的な有的本質として、従って有に對して単に他者として規定されているにすぎないからである。そのために、定有の領域が、その根底におかれている。それで、この定有の中にある有の真相が即且向自有であるということは、ずっと高次の規定で、定有そのものにとっては外面的な規定である。逆にまた、本質はたしかに即且向自有ではあるが、しかしそれもただ或る他者に比べてみてのことで、一定の顧慮〔見地〕の下で、そうであるにすぎない。― だから、定有の形で本質的存在と非本質的存在之が互に区別されるかぎり、この区別は一つの外面的な措定である。定有そのものの核心には触れないところの分離であり、定有の或る面と他の面との分離にすぎない。つまり、第三者が行うところの分離である。従って、その場合には、何が本質的存在に属し、何か非本質的存在に属すかは不定である。即ち、この区別を立てるものは何らかの外面的な顧慮と考察とであって、それ故に同一の内容が時には本質的と見られ、時には非本質的と見られることになる。

 〔3、仮象への移行〕 

 しかし更によく考えてみると、本質が非本質的存在に對立するところの単に本質的存在となるのは、本質が止揚された有、または定有とせられるからである。けれども、このような仕方では、本質は単に最初の否定にすぎず、または規定性としての否定にすぎない。即ち、この否定によって有は単に定有になり、定有は単に他者となるにすぎない。ところが、本質は有の絶對否定性である。本質は有そのものではあるが、しかし単に他者として規定されているのではなくて、直接的有としても、或る他在に結びついているような否定としての直接的否定としても止揚されたところの有である。従ってまた、有または定有も自己を本質とは別のものとして〔本質との関係において〕保持しているのではない。それで、この本質と全く区別されたところの直接的なものは単に非本質的な定有ではなくて、むしろ即且向自的に〔全く〕空な直接者である。それは草に非本質( das Unwesen )にすぎず、仮象にすぎない。

  B 仮 象 

   (*注:「直接性:Unmittelbarkeit」について→用語解説を参照してください)

 1 〔仮象としての有〕 
有は仮象である。仮象の有は全くただ有が止揚されているという点、有の空無性の点でのみありうる。有は、この空無性を本質の中でもつのであって、仮象は、その空無性を離れては、云いかえると本質を離れては存在しない。仮象は否定的なものとして措定されているところの否定的なものである。
 仮象は有の領域からまだ残っているところの唯一の残り物である。しかし、それはなお本質から独立した直接的な面をもち、本質の他者一般であるような観を呈する。他者は一般に定有と非定有との二契機を含んでいる。ところが、非本質的存在はもはや有をもたないから、それにとっては、その他在の面の中で全くの非定有の契機だけが残されている。仮象とは、この直接的な非定有である。即ち他者に對する関係の中でのみ、即ち自己の非定有の中でのみ定有をもつという意味における有の規定性の中にある直接的な非定有である。即ち自己の否定の中にあるところの非自立的な存在である。それ故に、非本質的存在に残されているのは、ただ直接性という純粋な規定性のみである。即ち、この非本質的存在は反省された直接性として存在する。即ち反省された直接性とは、自己の否定をその媒介とすることによってのみ存在するところのものであり、従って、それは〔媒介のないものであるから〕その媒介に對しては、むしろ単に非定有の 直接性(*注)という空か規定にほかならない。
  ―この意味で、仮象は懐疑論のいう幻影〔 Phänomenフェノメーン〕である。或いはまた、観念論の現象〔 Erscheinungエアシャイヌング〕も、このような直接性(*注:Unmittelbarkeit )である。これは〔客観的糊立的な〕或る物でもなく、また物でもなく、一般に自己の規定性、従って主観に對する開係を離れてあるような無開心な有ではない。懐疑論にとっては「何かが有る」と云うことは許されない。また近代の観念論には、認識を物自信の知識と見ることは許されない。即ち懐疑論の仮象は一般に何ら有の根底をもつべきではなく、また物自体は、この観念論の認識の中へ這入りこむべきではない。けれども同時に懐疑論は、仮象の多様な規定を認容した。或いはむしろ、その仮象が世界の多種多様な事象の全体を、その内容としてもつものと見る。同様に観念論の現象も、この多様な規定性の全範團を、その中に包容する。即ち前者の仮象も、後者の現象も、直接的にこのような多様な規定をもっている。それ故に、実際この内容の根底には如何なる有も、物も、物自膿も存在する必要はあるまい。内容は内容だけで内容としてある。内容は有から仮象へ移し変えられているにすぎない。そのために、仮象は仮象そのものの中に、そのような多様な規定性を、即ち直接的で、有的な、互に他者であるような多様な規定性をもつのである。それ故に仮象は、それ自身一つの直接的に規定されたものである。仮象は、これやあれやのいろいろの内容をもつことができるが、しかしどのような内容をもつにしても、それは仮象自身によって措定されたものではない。仮象は内容を直接的にもつのである。ライプニッツ、或いはカント、フィヒテの観念論ならびに、その観念論の諸形式は、懐疑論と同様に、規定性としての有を、即ち上述の直接性を超越していない。懐疑論にも、その仮象の内容が与えられることはできる。けれども、如何なる内容をもつにせよ、それは懐疑論にとっては、直接的にある。ライプニッツの単子は、それ自身の中から、その表象を展開する。けれども、単子は生産力または結合力ではなく、諸々の表象は、あたかも気泡のように単子の中に浮び出て来る。即も、これらの表象は互に無関心で、直接的であって、従って単子自身に對しても無開心である。同様にカントの現象も所与の知覚内容である。この内容は感覚を前提し、主観の諸々の規定を予想するが、これらの規定は相互にも、また主観に對しても直接的にある。フィヒテの観念論における無限の衝撃は、なるほど物自体をその根底とするものではなく、従ってそれは純粋に自我の中の規定性を意味するといってよい。けれども、この規定性もまた、それを自己自身の規定性となし、その外面性を止揚するところの自我に對して直接的な規定性である。即ち、それは自我の制限である。この制限は自我がそれを越えることのできるものではあるけれども、しかしそれはまた、その中に無関心性の面をもち、その無関心性の面では制限は自我の中にあるにかかわらず、また自我の直接的非有という意味をももっている。

 2 〔仮象の本性-仮象と本質〕 
このように仮象は一つの直接的な前提を、即ち本質に對して猫立的な一面を含んでいる。しかし仮象が本質と区別されているかぎり、仮象について、それが自己を止揚して本質の中へ復帰するということは示され得ない。というのは、有は全体として本質の中へ復帰したのであり、仮象はそれ自身空なものだからである。そこで、ここに明らかにしなければならない唯一の点は、仮象を本質と区別するところの諸規定が本質自身の規定であるということ、及びこの本質の規定性、即ち仮象は本質そのものの中では止揚されているということである。

 仮象を形成しているところのものは非有の直接性(*注)である。しかし、この非有は本質のそれ自身における否定性にほかならない。有は本質の中での非有である。〔Es ist die Unmittelbarkeit des Nichtseins, welche den Schein ausmacht; dies Nichtsein aber ist nichts anderes als die Negativität des Wesens an ihm selbst. Das Sein ist Nichtsein in dem Wesen.〕

 (*注)直接性 : 用語解説を参照のこと。

有の空無性は即自的には本質そのものの否定的な本性である。しかも、この非有が含むところの直接性または無関心性は本質自身の絶對的な即自有である。即ち本質の否定性は本質の自己同等性、または本質の単純な直接性であり、無関心性である。本質が、その無限な否定性の中に、このような自己同等性をもつかぎりで、有は本質の中で自己を保持しているのである。その点で、本質自身が有である。だから、規定性が仮象の中で本質に對してもつところの直接性は、本質自身の直接性にほかならない。もっとも、それは有的な直接性なのではなくて、全く媒介された、即ち反省された直接性であって、この直接性が仮象なのである。―即ち、それは有としての有ではなくて、単に媒介に對してあるところの有の規定性としての有であり、即ち契機としての有である。
 それ故に、この2契機、即ち空無性ではあるがしかし存立としての空無性と、有ではあるがしかし契機としての有とは、云いかえると仮象の2契機を形成しているところの即自有的な否定性と反省した直接性とは、本質それ自身の二つの契機である。即ち有の仮象が本質の中に存在するのでもなければ、また本質の仮象が有の中に存在するのでもない。本質の中にあるところの仮象は或る他者の仮象ではない。仮象は即自的な仮象であり、本質自身の仮象である。

 仮象は有の規定性の中にあるところの本質そのものである。本質が仮象をもつのは、本質がそれ自身の中で規定され、そのために自己の絶對的統一から区別されることによる。けれども、この規定性は同様にまた全くそれ自身において止揚されている。なぜなら、本質は自立的なものであり、本質自身であるところの自己の否定によって自己を自己と媒介するものとして有るものだからである。それ故に、本質は絶對的否定性と直接性との同一的な統一である。
―否定性は即自的な否定性である。即ち、それは否定性の自己への闘係である。故に否定性は即自的には直接性である。けれども、否定性は自己への否定的な開係であり、自己自身を反発する否定作用であるから、この即自有的な直接性は否定的なものであり、或いは直接性に對して規定されているものである。しかし、この規定性は、それ自身絶對的な否定性であり、また規定するものとして、そのまま自己自身の止揚、即ち自己への復帰であるような規定作用である。

 仮象は否定的なものである。しかし、この否定的なものは有をもってはいるか、これを他者の中で、即ち自己の否定の中でもつところの否定的なものである。故に仮象は、それ自身止揚されたものであり、空かものであるような非自立性である。この意味で、仮象は自己に復蹄するところの否定的なものであり、それ自身において非自立的なものとしての非自立的存在である。このような否定的存在または非自立性の自己への関係が、仮象の直接性である。従って、この関係〔即ち、この意味の直接性〕は、否定的なものそのものとは別のものである。この関係は否定的なものが自己に對立するところの規定性であり、云いかえると否定的なものに對する否定である。けれども、否定的なものに對する否定とは、ただ自己にのみ関係するところの否定性であり、即ち規定性そのものの絶對的止揚である。
 それ故に、本質の中における仮象であるところの規定性は無限的な規定性である。それは全く自己と合致する否定的なものにほかならない。故に、この規定性はこういう規定性として自立性であって、従って規定されていないような規定性である。― 逆に、自立性は自己に関係する直接性として、同様に全くの規定性であり、契機であって、ただ自己に関係する否定性としてのみある。―このような直接性と同一のものであるところの否定性、従ってまた否定性と同一のものであるところの直接性が、本質である。それ故に、仮象は本質そのものである。但しそれは、単に本質の契機にすぎないような規定性の中にあるところの本質である。こうして本質は、自己の自己自身の中における映現Scheinenである。

 〔3、仮象の反省への移行〕 

 有の領域においては、直接的存在としての有に對立して同様に直接的存在としての非有が生起するのであって、両者の真理は成である。ところが、本質の領域においては、第一に本質と非本質的存在とが、次に本質と仮象とが對立する。そして非本質的存在と仮象とは有の残り物である。けれども、この両者ならびに両者と本質とのに別が成り立つのは、本質がまず一つの直接的な本質と見られて、その真の相において見られなかったこと、云いかえると純粋な媒介または絶對的否定性として直接性であるような直接性として見られなかった故にほかならない。従って、前の最初の直接性は単に直接性の規定性にすぎない。だから、本質のこのような規定性の止揚が成り立つためには、次の点を明らかにすればよい。即ち非本質的存在は仮象にすぎないものだということ、しかも本質は、この仮象をむしろ自己における無限の運動として自己自身の中に含んでいるということ、そしてこの自己の中における無限の運動は本質の直接性を否定性として規定すると共に、またその否定性を直接性として規定するのであって、その意味で本質の自己自身の中における映現であるということが、それである。ところで、このような自己運動の中にあるところの本質は、即ち反省である。

      C 反  省 Die Reflexion
 
 〔1、反省の本性〕 

 仮象は反省と同一のものである。しかし、仮象は直接的な反省としての反省である。そこで、この自己の中に復帰したところの、従ってその直接性を離脱したところの仮象に對して、われわれは外国語の反省( Reflexion )という言葉を使う。
 本質は反省である。それは自己自身の中にとどまるところの生成と移行との運動であって、それにおいては区別された存在は全くそれ自身否定的なものとして、仮象として規定されているにすぎない。-有の場合の成においては、規定性の根底に有が存在していて、その規定性は他者への関係であった。これに反して、反省的運動は否定それ自身としての他者であって、この否定は自己に関係する否定という意味でのみ有をもっている。或いは、この自己への関係は、まさにこのような否定の否定である故に、否定は否定として存在するのであり、即ち自己の否定態の中に自己の有をもつような否定として、言いかえると仮象として存在する。それ故に他者は、この場合には否定または限界を伴うところの有なのではなくて、否定をともなうところの否定なのである。・・・

 ・・・以下、省略・・・


   Zweite Abteilung der Logik. Die Lehre vom Wesen

  D.ヘーゲル「小論理学」第2部本質論A112-123

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    ヘーゲル「小論理学」
 第1部 有 論 (86-98)  第3部 概念論 (160-244)
 A 質 (86-98)  A 主観的概念(163-193)
a 有 (86-88) a 概念そのもの (163-165)
b 定有 (89-95) b 判 断 (172-173)
c 向自有 (96-98)  イ 質的判断 (172-173)
 B 量 (99-100)  ロ 反省の判断 (174-176)
a 純量 (99-100)  ハ 必然性の判断(177)
b 定量 (101-106)  ニ 概念の判断 (178-180)
c 度  (103-106) c 推 理 (181-193)
 C 限 度 (107-111)  イ 質的推理 (183-189)
 ロ 反省の推理 (190)
 ハ 必然性の推理 (191-193)
 第2部 本質論 §112 ― §156  B 客 観(194-212)
 第2部 本質 Wesen 論
 (112-159)Die Lehre vom Wesen
a 機械的関係 (195-199)
A 現存在の根拠としての本質
A.Das Wesen als Grund der Existenz
(115-122)
b 化学的関係 (200-203)
a 純粋な反省規定 (115-122)
a. Die reinen Reflexionsbestimmungen
c 目的的関係 (204-212)
 イ 同一性 (115) α. Identität  C 理 念 (213-244)
 ロ 区別 (116-120)
       β. Der Unterschied
a 生命(216-222)
 ハ 根拠 (121-122)
        γ. Der Grund
b 認識(223-235)
b 現存在 (123-124)
        b. Die Existenz
 イ 認識(226-232)
c 物 (125-130) c. Das Ding  ロ 意志(233-235)
  B 現象 (131-141)
     B. Die Erscheinung
c 絶対的理念(236-244)
a 現象の世界 (131)
  a. Die Welt der Erscheinung
b 内容と形式 (133-134)
    b. Inhalt und Form
c 相関 (135-141)
     c. Das Verhältnis
 C 現実性 (142-149)
     C. Die Wirklichkeit
a 実体性の相関 (150-152)
  a Substantialitätsverhältnis
b 因果性の相関 (153-154)
    b Kausalitätsverhältnis
c 交互作用 (155-159)
    c Die Wechselwirkung

D.ヘーゲル「小論理学」第2部本質論A112-123

 §112 - §123

 Zweite Abteilung der Logik. Die Lehre vom Wesen

§ 112
Das Wesen ist der Begriff als gesetzter Begriff, die Bestimmungen sind im Wesen nur relative, noch nicht als schlechthin in sich reflektiert; darum ist der Begriff noch nicht als Fürsich. Das Wesen, als das durch die Negativität seiner selbst sich mit sich vermittelnde Sein, ist die Beziehung auf sich selbst, nur indem sie Beziehung auf Anderes ist, das aber unmittelbar nicht als Seiendes, sondern als ein Gesetztes und Vermitteltes ist. - Das Sein ist nicht verschwunden, sondern erstlich ist das Wesen, als einfache Beziehung auf sich selbst, Sein; fürs andere ist aber das Sein nach seiner einseitigen Bestimmung, unmittelbares zu sein, zu einem nur negativen herabgesetzt, zu einem Scheine. - Das Wesen ist hiermit das Sein als Scheinen in sich selbst.
Das Absolute ist das Wesen. - Diese Definition ist insofern dieselbe als die, daß es das Sein ist, insofern Sein gleichfalls die einfache Beziehung auf sich ist; aber sie ist zugleich höher, weil das Wesen das in sich gegangene Sein ist, d. i. seine einfache Beziehung auf sich ist diese Beziehung, gesetzt als die Negation des Negativen, als Vermittlung seiner in sich mit sich selbst. - Indem das Absolute als Wesen bestimmt wird, wird aber die Negativität häufig nur in dem Sinne einer Abstraktion von allen bestimmten Prädikaten genommen. Dieses negative Tun, das Abstrahieren, fällt dann außerhalb des Wesens, und das Wesen selbst ist so nur als ein Resultat ohne diese seine Prämisse, das caput mortuum der Abstraktion. Aber da diese Negativität dem Sein nicht äußerlich, sondern seine eigene Dialektik ist, so ist seine Wahrheit, das Wesen, als das in sich gegangene oder in sich seiende Sein; seinen Unterschied vom unmittelbaren Sein macht jene Reflexion, sein Scheinen in sich selbst, aus, und sie ist die eigentümliche Bestimmung des Wesens selbst. 8/231

 §112 Zusatz.
Wenn wir vom Wesen sprechen, so unterscheiden wir davon das Sein als das Unmittelbare und betrachten dieses im Hinblick auf das Wesen als einen bloßen Schein. Dieser Schein ist nun aber nicht gar nicht, nicht ein Nichts, sondern das Sein als aufgehobenes. - Der Standpunkt des Wesens ist überhaupt der Standpunkt der Reflexion. Der Ausdruck Reflexion wird zunächst vom Lichte gebraucht, insofern dasselbe in seinem geradlinigen Fortgange auf eine spiegelnde Fläche trifft und von dieser zurückgeworfen wird. Wir haben somit hier ein Gedoppeltes: einmal ein Unmittelbares, ein Seiendes, und dann zweitens dasselbe als ein Vermitteltes oder Gesetztes. Dies ist nun aber eben der Fall, wenn wir über einen Gegenstand reflektieren oder (wie man auch zu sagen pflegt) nachdenken, insofern es hier nämlich den Gegenstand nicht gilt in seiner Unmittelbarkeit, sondern wir denselben als vermittelt wissen wollen. Man pflegt wohl auch die Aufgabe oder den Zweck der Philosophie so aufzufassen, daß das Wesen der Dinge erkannt werden soll, und versteht darunter eben nur so viel, daß die Dinge nicht in ihrer Unmittelbarkeit gelassen, sondern als durch Anderes vermittelt oder begründet nachgewiesen werden sollen. Das unmittelbare Sein der Dinge wird hier gleichsam als eine Rinde oder als ein Vorhang vorgestellt, hinter welchem das Wesen verborgen ist. - Wenn dann ferner gesagt wird: alle Dinge haben ein Wesen, so wird damit ausgesprochen, daß sie wahrhaft nicht das sind, als was sie sich unmittelbar erweisen. Es ist dann auch nicht abgetan mit einem bloßen Herumtreiben aus einer Qualität in eine andere und mit einem bloßen Fortgehen aus dem Qualitativen ins Quantitative und umgekehrt, sondern es ist in den Dingen ein Bleibendes, und dies ist zunächst das Wesen. Was nunmehr die sonstige Bedeutung und den Gebrauch der Kategorie des Wesens anbetrifft, so kann hier zunächst daran erinnert werden, wie wir uns im Deutschen beim Hilfszeitwort sein zur Bezeichnung der Vergangenheit des Ausdrucks Wesen bedienen, indem wir das vergangene Sein als gewesen bezeichnen. Dieser Irregularität des Sprachgebrauchs liegt insofern eine richtige Anschauung vom Verhältnis des Seins zum Wesen zugrunde, als wir das Wesen allerdings als das vergangene Sein betrachten können, wobei dann nur noch zu bemerken ist, daß dasjenige, was vergangen ist, deshalb nicht abstrakt negiert, sondern nur aufgehoben und somit zugleich konserviert ist. Sagen wir z. B.: Cäsar ist in Gallien gewesen, so ist damit nur die Unmittelbarkeit dessen, was hier vom Cäsar ausgesagt wird, nicht aber sein Aufenthalt in Gallien überhaupt negiert, denn dieser ist es ja eben, der den Inhalt dieser Aussage bildet, welcher Inhalt aber hier als aufgehoben vorgestellt wird. - Wenn im gemeinen Leben vom Wesen 8/232 die Rede ist, so hat dies häufig nur die Bedeutung einer Zusammenfassung oder eines Inbegriffs, und man spricht demgemäß z. B. vom Zeitungswesen, vom Postwesen, vom Steuerwesen usw., worunter dann nur so viel verstanden wird, daß diese Dinge nicht einzeln in ihrer Unmittelbarkeit, sondern als ein Komplex und dann etwa auch weiter in ihren verschiedenen Beziehungen genommen werden sollen. In solchem Sprachgebrauch ist dann nur so ungefähr dasjenige enthalten, was sich uns als das Wesen ergeben hat. - Man spricht dann auch von endlichen Wesen und nennt den Menschen ein endliches Wesen. Wenn indes vom Wesen gesprochen wird, so ist man eigentlich über die Endlichkeit hinaus, und diese Bezeichnung des Menschen ist insofern ungenau. Wenn dann ferner gesagt wird: es gibt ein höchstes Wesen, und Gott damit bezeichnet werden soll, so ist hierüber zweierlei zu bemerken. Einmal nämlich ist der Ausdruck geben ein solcher, der auf Endliches hindeutet und wir sagen so z. B.: es gibt soundsoviel Planeten, oder: es gibt Pflanzen von solcher und es gibt Pflanzen von solcher Beschaffenheit. Das, was es so gibt, ist somit etwas, außer und neben welchem es auch noch anderes gibt. Nun aber ist Gott, als der schlechthin Unendliche, nicht ein solcher, den es eben nur gibt und außer und neben welchem es auch noch andere Wesen gibt. Was es außer Gott sonst noch gibt, dem kommt in seiner Trennung von Gott keine Wesentlichkeit zu, vielmehr ist dasselbe in dieser Isolierung als ein in sich Halt- und Wesenloses, als ein bloßer Schein zu betrachten. Hierin liegt nun aber auch zweitens, daß es ungenügend genannt werden muß, von Gott bloß als höchstem Wesen zu sprechen. Die hier zur Anwendung gebrachte Kategorie der Quantität findet in der Tat ihre Stelle nur im Bereich des Endlichen. Wir sagen so z. B.: dies ist der höchste Berg auf der Erde, und haben dabei die Vorstellung, daß es außer diesem höchsten Berg auch noch andere, gleichfalls hohe Berge gibt. Ebenso verhält es sich, wenn wir von jemand sagen, daß er der reichste oder der gelehrteste Mann in seinem Lande ist. Gott ist indes nicht bloß ein und auch nicht bloß das höchste, sondern vielmehr das Wesen, wobei dann aber auch sogleich zu bemerken ist, daß, obschon diese Auffassung Gottes eine wichtige und notwendige Stufe in der Entwicklung des religiösen Bewußtseins bildet, doch durch dieselbe die Tiefe der christlichen Vorstellung von Gott noch keineswegs erschöpft wird. Betrachten wir Gott nur als das Wesen schlechthin und bleiben wir dabei stehen, so wissen wir ihn nur, erst als die allgemeine, widerstandslose Macht oder, anders ausgedrückt, als den Herrn. Nun aber ist die Furcht des Herrn wohl der Anfang, aber auch nur der Anfang der Weisheit. - Es ist zunächst die jüdische und dann weiter die mohammedanische Religion, in 8/233 welchen Gott als der Herr und wesentlich nur als der Herr aufgefaßt wird. Der Mangel dieser Religionen besteht überhaupt darin, daß hier das Endliche nicht zu seinem Rechte kommt, welches Endliche für sich festzuhalten (sei es als ein Natürliches oder als ein Endliches des Geistes) das Charakteristische der heidnischen und hiermit zugleich polytheistischen Religionen ausmacht. - Ferner ist es nun aber auch häufig geschehen, daß man behauptet hat, Gott, als das höchste Wesen, könne nicht erkannt werden. Dies ist überhaupt der Standpunkt der modernen Aufklärung und näher des abstrakten Verstandes, welcher sich damit begnügt zu sagen: il y a un être suprême, und es dann dabei bewenden läßt. Wenn so gesprochen und Gott nur als das höchste jenseitige Wesen betrachtet wird, so hat man die Welt in ihrer Unmittelbarkeit vor sich als etwas Festes, Positives, und vergißt dabei, daß das Wesen gerade die Aufhebung alles Unmittelbaren ist. Gott als das abstrakte jenseitige Wesen, außerhalb dessen hiermit der Unterschied und die Bestimmtheit fällt, ist in der Tat ein bloßer Name, ein bloßes caput mortuum des abstrahierenden Verstandes. Die wahre Erkenntnis Gottes fängt damit an, zu wissen, daß die Dinge in ihrem unmittelbaren Sein keine Wahrheit haben.
Nicht bloß in Beziehung auf Gott, sondern auch in sonstiger Beziehung geschieht es häufig, daß man sich der Kategorie des Wesens in abstrakter Weise bedient und dann bei Betrachtung der Dinge das Wesen derselben als ein gegen den bestimmten Inhalt ihrer Erscheinung Gleichgültiges und für sich Bestehendes fixiert. Man pflegt so namentlich zu sagen, es komme bei den Menschen nur auf ihr Wesen an und nicht auf ihr Tun und ihr Betragen. Darin liegt nun zwar das Richtige, daß dasjenige, was ein Mensch tut, nicht in seiner Unmittelbarkeit, sondern nur als vermittelt durch sein Inneres und als Manifestation seines Innern zu betrachten ist. Nur darf dabei nicht übersehen werden, daß das Wesen und dann weiter das Innere sich eben nur dadurch als solche bewähren, daß sie in die Erscheinung heraustreten; wohingegen jener Berufung der Menschen auf ihr von dem Inhalt ihres Tuns unterschiedenes Wesen nur die Absicht zugrunde zu liegen pflegt, ihre bloße Subjektivität geltend zu machen und sich dem, was an und für sich gültig ist, zu entziehen.

§ 113
Die Beziehung-auf-sich im Wesen ist die Form der Identität, der Reflexion-in-sich; diese ist hier an die Stelle der Unmittelbarkeit des Seins getreten; beide sind dieselben Abstraktionen der Beziehung-auf-sich. 8/234
Die Gedankenlosigkeit der Sinnlichkeit, alles Beschränkte und Endliche für ein Seiendes zu nehmen, geht in die Hartnäckigkeit des Verstandes über, es als ein mit sich Identisches, sich in sich nicht Widersprechendes zu fassen.

§ 114
Diese Identität erscheint, als aus dem Sein herkommend, zunächst nur mit den Bestimmungen des Seins behaftet und darauf als auf ein Äußerliches bezogen. Wird dasselbe so von dem Wesen abgesondert genommen, so heißt es das Unwesentliche. Aber das Wesen ist Insichsein, es ist wesentlich, nur insofern es das Negative seiner in ihm selbst, die Beziehung-auf-Anderes, die Vermittlung in ihm selbst hat. Es hat daher das Unwesentliche als seinen eigenen Schein in sich. Aber indem das Unterscheiden im Scheinen oder Vermitteln enthalten ist, das Unterschiedene aber im Unterschiede von derjenigen Identität, aus der es kommt und in der es nicht ist oder als Schein liegt, selbst die Form der Identität erhält, so ist dasselbe so in der Weise der sich auf sich beziehenden Unmittelbarkeit oder des Seins; die Sphäre des Wesens wird dadurch zu einer noch unvollkommenen Verknüpfung der Unmittelbarkeit und der Vermittlung. Es ist in ihr alles so gesetzt, daß es sich auf sich bezieht und daß zugleich darüber hinausgegangen ist, - als ein Sein der Reflexion, ein Sein, in dem ein Anderes scheint und das in einem Anderen scheint. - Sie ist daher auch die Sphäre des gesetzten Widerspruches, der in der Sphäre des Seins nur an sich ist.
Es kommen in der Entwicklung des Wesens, weil der eine Begriff in allem das Substantielle ist, dieselben Bestimmungen vor als in der Entwicklung des Seins, aber in reflektierter Form. Also statt des Seins und Nichts treten jetzt die Formen des Positiven und Negativen ein, jenes zunächst dem gegensatzlosen Sein als Identität entsprechend, dieses entwickelt (in sich scheinend) als der Unterschied; - so ferner das Werden als Grund sogleich selbst 8/235 des Daseins, das, als auf den Grund reflektiert, Existenz ist usf. - Dieser (der schwerste) Teil der Logik enthält vornehmlich die Kategorien der Metaphysik und der Wissenschaften überhaupt, - als Erzeugnisse des reflektierenden Verstandes, der die Unterschiede als selbständig annimmt und zugleich auch ihre Relativität setzt, beides aber nur neben- oder nacheinander durch ein Auch verbindet und diese Gedanken nicht zusammenbringt, sie nicht zum Begriffe vereint.
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 A. Das Wesen als Grund der Existenz
 a. Die reinen Reflexionsbestimmungen

 α. Identität

§ 115
Das Wesen scheint in sich oder ist reine Reflexion, so ist es nur Beziehung auf sich, nicht als unmittelbare, sondern als reflektierte, - Identität mit sich.
Formelle oder Verstandesidentität ist diese Identität, insofern an ihr festgehalten und von dem Unterschiede abstrahiert wird. Oder die Abstraktion ist vielmehr das Setzen dieser formellen Identität, die Verwandlung eines in sich Konkreten in diese Form der Einfachheit, - es sei, daß ein Teil des am Konkreten vorhandenen Mannigfaltigen weggelassen (durch das sogenannte Analysieren) und nur eines derselben herausgenommen wird, oder daß mit Weglassung ihrer Verschiedenheit die mannigfaltigen Bestimmtheiten in eine zusammengezogen werden.
Die Identität mit dem Absoluten, als Subjekte eines Satzes, verbunden, - so lautet er: das Absolute ist das mit sich Identische. - So wahr dieser Satz ist, so ist es zweideutig, ob er in seiner Wahrheit gemeint ist; er ist darum in seinem Ausdrucke wenigstens unvollständig: denn es ist unentschieden, 8/236 ob die abstrakte Verstandesidentität, d. i. im Gegensatze gegen die anderen Bestimmungen des Wesens, oder aber die Identität als in sich konkrete gemeint ist; so ist sie, wie sich ergeben wird, zunächst der Grund und dann in höherer Wahrheit der Begriff. - Auch das Wort "absolut" selbst hat häufig keine weitere Bedeutung als die von "abstrakt"; so heißt absoluter Raum, absolute Zeit nichts weiter als der abstrakte Raum und die abstrakte Zeit.
Die Bestimmungen des Wesens als wesentliche Bestimmungen genommen, werden sie Prädikate eines vorausgesetzten Subjekts, das, weil sie wesentlich [sind], Alles ist. Die Sätze, die dadurch entstehen, sind als die allgemeinen Denkgesetze ausgesprochen worden. Der Satz der Identität lautet demnach: "Alles ist mit sich identisch; A = A"; und negativ: "A kann nicht zugleich A und nicht A sein". - Dieser Satz, statt ein wahres Denkgesetz zu sein, ist nichts als das Gesetz des abstrakten Verstandes. Die Form des Satzes widerspricht ihm schon selbst, da ein Satz auch einen Unterschied zwischen Subjekt und Prädikat verspricht, dieser aber das nicht leistet, was seine Form fordert. Namentlich wird es aber durch die folgenden sogenannten Denkgesetze aufgehoben, welche das Gegenteil dieses Gesetzes zu Gesetzen machen. - Wenn man behauptet, dieser Satz könne nicht bewiesen werden, aber jedes Bewußtsein verfahre danach und stimme ihm nach der Erfahrung sogleich zu, wie es ihn vernehme, so ist dieser angeblichen Erfahrung der Schule die allgemeine Erfahrung entgegenzusetzen, daß kein Bewußtsein nach diesem Gesetze denkt, noch Vorstellungen hat usf., noch spricht, daß keine Existenz, welcher Art sie sei, nach demselben existiert. Das Sprechen nach diesem seinsollenden Gesetze der Wahrheit (ein Planet ist - ein Planet; der Magnetismus ist - der Magnetismus; der Geist ist - ein Geist) gilt mit vollem Recht für albern; dies ist wohl allgemeine Erfahrung. Die Schule, in der allein solche Gesetze 8/237 gelten, hat sich längst mit ihrer Logik, welche dieselbe ernsthaft vorträgt, bei dem gesunden Menschenverstande wie bei der Vernunft um den Kredit gebracht.

 §115 Zusatz.
Die Identität ist zunächst wieder dasselbe, was wir früher als Sein hatten, aber als geworden durch Aufhebung der unmittelbaren Bestimmtheit, und somit das Sein als Idealität. - Es ist von großer Wichtigkeit, sich über die wahre Bedeutung der Identität gehörig zu verständigen, wozu dann vor allen Dingen gehört, daß dieselbe nicht bloß als abstrakte Identität, d. h. nicht als Identität mit Ausschließung des Unterschiedes aufgefaßt wird. Dies ist der Punkt, wodurch sich alle schlechte Philosophie von dem unterscheidet, was allein den Namen der Philosophie verdient. Die Identität in ihrer Wahrheit, als Idealität des unmittelbar Seienden, ist eine hohe Bestimmung, sowohl für unser religiöses Bewußtsein als auch für alles sonstige Denken und Bewußtsein überhaupt. Man kann sagen, daß das wahre Wissen von Gott damit beginnt, ihn als Identität - als absolute Identität zu wissen, worin dann zugleich dies liegt, daß alle Macht und alle Herrlichkeit der Welt vor Gott zusammensinkt und nur als das Scheinen seiner Macht und seiner Herrlichkeit zu bestehen vermag. - Ebenso ist es dann auch die Identität als Bewußtsein seiner selbst, wodurch sich der Mensch von der Natur überhaupt und näher vom Tier unterscheidet, welches letztere nicht dazu gelangt, sich als Ich, d. h. als reine Einheit seiner in sich selbst zu erfassen. - Was dann ferner die Bedeutung der Identität in Beziehung auf das Denken anbetrifft, so kommt es hierbei vor allen Dingen darauf an, die wahre, das Sein und dessen Bestimmungen als aufhoben in sich enthaltende Identität nicht mit der abstrakten, bloß formellen Identität zu verwechseln. Alle jene, namentlich vom Standpunkt der Empfindung und der unmittelbaren Anschauung aus, dem Denken so häufig gemachten Vorwürfe der Einseitigkeit der Härte, der Inhaltslosigkeit usw. haben ihren Grund in der verkehrten Voraussetzung, daß die Tätigkeit des Denkens nur die des abstrakten Identischsetzens sei, und die formelle Logik ist es selbst, welche diese Voraussetzung durch Aufstellung des im obigen § beleuchteten, angeblich höchsten Denkgesetzes bestätigt. Wenn das Denken weiter nichts wäre als jene abstrakte Identität, so müßte dasselbe für das überflüssigste und langweiligste Geschäft erklärt werden. Allerdings sind der Begriff und weiter die Idee mit sich identisch, allein nur insofern dieselben zugleich den Unterschied in sich enthalten. 8/238
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 β. Der Unterschied

 § 116
Das Wesen ist nur reine Identität und Schein in sich selbst, als es die sich auf sich beziehende Negativität, somit Abstoßen seiner von sich selbst ist; es enthält also wesentlich die Bestimmung des Unterschieds.
Das Anderssein ist hier nicht mehr das qualitative, die Bestimmtheit, Grenze; sondern als im Wesen, dem sich auf sich beziehenden, ist die Negation zugleich als Beziehung, Unterschied, Gesetztsein, Vermitteltsein.
Zusatz. Wenn gefragt wird: wie kommt die Identität zum Unterschied?, so liegt in dieser Frage die Voraussetzung, daß die Identität als bloße, d. h. als abstrakte Identität etwas für sich sei, und dann ebenso der Unterschied etwas anderes, gleichfalls für sich. Durch diese Voraussetzung wird indes die Beantwortung der aufgeworfenen Frage unmöglich gemacht, denn wenn die Identität als vom Unterschied verschieden betrachtet wird, so hat man in der Tat hiermit bloß den Unterschied, und es kann um deswillen der Fortgang zum Unterschied nicht nachgewiesen werden, weil dasjenige, von welchem fortgegangen werden soll, für den, welcher nach dem Wie des Fortganges fragt, gar nicht vorhanden ist. Diese Frage erweist sich somit, näher besehen, als durchaus gedankenlos, und [es] wäre dem, welcher dieselbe aufwirft, zuvörderst die andere Frage vorzulegen, was er sich unter der Identität denkt, wobei sich dann ergeben würde, daß er sich eben nichts dabei denkt und daß die Identität für ihn bloß ein leerer Name ist. Weiter ist nun, wie wir gesehen haben, die Identität allerdings ein Negatives, jedoch nicht das abstrakte, leere Nichts überhaupt, sondern die Negation des Seins und seiner Bestimmungen. Als solche aber ist die Identität zugleich Beziehung, und zwar negative Beziehung auf sich oder Unterscheidung ihrer von sich selbst.

 § 117
Der Unterschied ist 1. unmittelbarer Unterschied, die Verschiedenheit, in der die Unterschiedenen jedes für sich ist, was es ist, und gleichgültig gegen seine Beziehung auf das Andere, welche also eine ihm äußerliche ist. Um der Gleichgültigkeit der Verschiedenen gegen ihren Unterschied willen 8/239 fällt derselbe außer ihnen in ein Drittes, Vergleichendes. Dieser äußerliche Unterschied ist als Identität der Bezogenen die Gleichheit, als Nichtidentität derselben die Ungleichheit.
Diese Bestimmungen selbst läßt der Verstand so auseinanderfallen, daß, obschon die Vergleichung ein und dasselbe Substrat für die Gleichheit und Ungleichheit hat, dies verschiedene Seiten und Rücksichten an demselben sein sollen, aber die Gleichheit für sich ist nur das vorige, die Identität, und die Ungleichheit für sich ist der Unterschied.
Die Verschiedenheit ist gleichfalls in einen Satz verwandelt worden, in den, daß alles verschieden ist oder daß es nicht zwei Dinge gibt, die einander vollkommen gleich sind33) . Hier wird Allem das entgegengesetzte Prädikat von der ihm im ersten Satze beigelegten Identität gegeben, also ein dem ersten widersprechendes Gesetz gegeben. Jedoch aber soll, insofern die Verschiedenheit nur der äußeren Vergleichung angehörig sei, etwas für sich selbst nur identisch mit sich und so dieser zweite Satz nicht dem ersten widersprechend sein. Dann aber gehört auch die Verschiedenheit nicht dem Etwas oder Allem an, sie macht keine wesentliche Bestimmung dieses Subjekts aus; dieser zweite Satz kann auf diese Weise gar nicht gesagt werden. - Ist aber das Etwas selbst, nach dem Satze, verschieden, so ist es dies durch seine eigene Bestimmtheit; hiermit ist dann aber nicht mehr die Verschiedenheit als solche, sondern der bestimmte Unterschied gemeint. - Dies ist auch der Sinn des Leibnizischen Satzes.

 §117 Zusatz.
Indem der Verstand sich an die Betrachtung der Identität begibt, so ist er in der Tat bereits darüber hinaus, und was er vor sich hat, das ist der Unterschied in der Gestalt der bloßen Verschiedenheit. Sagen wir nämlich nach dem sogenannten Denkgesetz der Identität: das Meer ist das Meer, die Luft ist die Luft, der Mond ist der Mond usw., so gelten uns diese Gegenstände als gleichgültig gegeneinander, und es ist somit nicht die Identität, 8/240 sondern der Unterschied, welchen wir vor uns haben. Weiter bleiben wir dann aber auch nicht dabei stehen, die Dinge bloß als verschieden zu betrachten, sondern wir vergleichen dieselben miteinander, und wir erhalten hierdurch die Bestimmungen der Gleichheit und der Ungleichheit. Das Geschäft der endlichen Wissenschaften besteht zum großen Teil in der Anwendung dieser Bestimmungen, und man pflegt heutzutage, wenn von wissenschaftlicher Behandlung die Rede ist, darunter vorzugsweise dasjenige Verfahren zu verstehen, welches darauf ausgeht, die zur Betrachtung gezogenen Gegenstände miteinander zu vergleichen. Es ist nicht zu verkennen, daß man auf diesem Wege zu manchen sehr wichtigen Resultaten gelangt ist, und in dieser Beziehung ist insbesondere an die großen Leistungen der neueren Zeit auf den Gebieten der vergleichenden Anatomie und der vergleichenden Sprachforschung zu erinnern. Dabei ist jedoch nicht nur zu bemerken, daß man zu weit gegangen ist, wenn man gemeint hat, es sei dieses vergleichende Verfahren auf alle Gebiete des Erkennens mit gleichem Erfolg anzuwenden, sondern auch außerdem noch besonders hervorzuheben, daß durch das bloße Vergleichen dem wissenschaftlichen Bedürfnis noch nicht letztlich genügt zu werden vermag und daß Resultate der vorher erwähnten Art nur als (allerdings unentbehrliche) Vorarbeiten für das wahrhaft begreifende Erkennen zu betrachten sind. - Insofern es übrigens beim Vergleichen darum zu tun ist, vorhandene Unterschiede auf Identität zurückzuführen, so muß die Mathematik als diejenige Wissenschaft betrachtetwerden, in welcher dieses Ziel am vollständigsten erreicht wird, und zwar um deswillen, weil der quantitative Unterschied nur der ganz äußerliche Unterschied ist. So werden z. B. in der Geometrie ein Dreieck und ein Viereck, welche qualitativ verschieden sind, indem von diesem qualitativen Unterschied abstrahiert wird, ihrer Größe nach einander gleichgesetzt. Daß die Mathematik um diesen Vorzug weder von seiten der empirischen Wissenschaften noch von seiten der Philosophie zu beneiden ist, davon ist bereits früher (§ 99 Zusatz) die Rede gewesen, und [es] ergibt sich außerdem aus demjenigen, was vorher über die bloße Verstandesidentität bemerkt wurde. - Man erzählt, daß, als Leibniz einst bei Hofe den Satz der Verschiedenheit ausgesprochen, die Hofkavaliere und Hofdamen, im Garten herumspazierend, sich bemüht hätten, zwei nicht voneinander zu unterscheidende Blätter zu finden, um durch deren Vorzeigung das Denkgesetz des Philosophen zu widerlegen. Es ist dies ohne Zweifel eine bequeme, auch noch heutzutage beliebte Weise, sich mit Metaphysik zu beschäftigen; jedoch ist rücksichtlich des Leibnizischen Satzes zu bemerken, daß der Unterschied eben nicht bloß als die äußerliche und gleichgültige 8/241 Verschiedenheit, sondern als Unterschied an sich aufzufassen ist und daß es somit den Dingen an ihnen selbst zukommt, unterschieden zu sein.

 § 118
Die Gleichheit ist eine Identität nur solcher, die nicht dieselben, nicht identisch miteinander sind, - und die Ungleichheit ist Beziehung der Ungleichen. Beide fallen also nicht in verschiedene Seiten oder Rücksichten gleichgültig auseinander, sondern eine ist ein Scheinen in die andere. Die Verschiedenheit ist daher Unterschied der Reflexion oder Unterschied an sich selbst, bestimmter Unterschied.
Zusatz. Während die bloß Verschiedenen sich als gleichgültig gegeneinander erweisen, so sind dagegen die Gleichheit und die Ungleichheit ein Paar Bestimmungen, die sich schlechthin aufeinander beziehen und von denen die eine nicht ohne die andere gedacht werden kann. Dieser Fortgang von der bloßen Verschiedenheit zur Entgegensetzung findet sich dann auch insofern schon im gewöhnlichen Bewußtsein, als wir einräumen, daß das Vergleichen nur einen Sinn hat unter der Voraussetzung eines vorhandenen Unterschiedes, und ebenso umgekehrt das Unterscheiden nur unter der Voraussetzung vorhandener Gleichheit. Man schreibt demgemäß auch, wenn die Aufgabe gestellt wird, einen Unterschied anzugeben, demjenigen keinen großen Scharfsinn zu, der nur solche Gegenstände voneinander unterscheidet, deren Unterschied unmittelbar zutage liegt (wie z. B. eine Schreibfeder und ein Kamel), wie man andererseits sagen wird, daß es derjenige nicht weit im Vergleichen gebracht hat, welcher nur einander Naheliegendes - eine Buche mit einer Eiche, einen Tempel mit einer Kirche - zu vergleichen weiß. Wir verlangen somit beim Unterschied die Identität und bei der Identität den Unterschied. Gleichwohl geschieht es auf dem Gebiet der empirischen Wissenschaften sehr häufig, daß über der einen dieser beiden Bestimmungen die andere vergessen und daß das eine Mal das wissenschaftliche Interesse nur in Zurückführen vorhandener Unterschiede auf Identität und anderes Mal wieder ebenso einseitigerweise in das Auffinden neuer Unterschiede gesetzt wird. Dies ist namentlich in der Naturwissenschaft der Fall. Hier macht man es sich zunächst zum Geschäft, neue und immer mehr neue Stoffe, Kräfte, Gattungen, Arten u. zu entdecken oder, nach einer anderen Wendung, Körper, welche bisher für einfach gegolten, als zusammengesetzt nachzuweisen, und neuere Physiker und Chemiker belächeln wohl die Alten, 8/242 welche sich nur mit vier und nicht einmal einfachen Elementen begnügt haben. Andererseits wird dann aber auch wieder die bloße Identität ins Auge gefaßt und werden demgemäß z. B. nicht nur Elektrizität und Chemismus als wesentlich dasselbe, sondern sogar auch die organischen Prozesse der Verdauung und Assimilation als ein bloß chemischer Prozeß betrachtet. Es wurde bereits früher (§ 103 Zusatz) bemerkt, daß, wenn man die neuere Philosophie nicht selten spottweise als Identitätsphilosophie bezeichnet hat, es gerade die Philosophie, und zwar zunächst die spekulative Logik ist, welche die Nichtigkeit der vom Unterschied abstrahierenden, bloßen Verstandesidentität aufzeigt, dann aber allerdings auch ebensosehr darauf dringt, es nicht bei der bloßen Verschiedenheit bewenden zu lassen, sondern die innere Einheit alles dessen, was da ist, zu erkennen.

 § 119
2. Der Unterschied an sich ist der wesentliche, das Positive und das Negative, so daß jenes so die identische Beziehung auf sich ist, daß es nicht das Negative, und dieses das Unterschiedene so für sich ist, daß es nicht das Positive ist. Indem jedes so für sich ist, als es nicht das Andere ist, scheint jedes in dem Anderen und ist nur, insofern das Andere ist. Der Unterschied des Wesens ist daher die Entgegensetzung, nach welcher das Unterschiedene nicht ein Anderes überhaupt, sondern sein Anderes sich gegenüber hat; d. h. jedes hat seine eigene Bestimmung nur in seiner Beziehung auf das Andere, ist nur in sich reflektiert, als es in das Andere reflektiert ist, und ebenso das Andere; jedes ist so des Anderen sein Anderes.
Der Unterschied an sich gibt den Satz: "Alles ist ein wesentlich Unterschiedenes", - oder wie er auch ausgedrückt worden ist: "Von zwei entgegengesetzten Prädikaten kommt dem Etwas nur das eine zu, und es gibt kein Drittes". - Dieser Satz des Gegensatzes widerspricht am ausdrücklichsten dem Satze der Identität, indem Etwas nach dem einen nur die Beziehung auf sich, nach dem anderen aber ein Entgegengesetztes, die Beziehung auf sein Anderes sein soll. Es ist die eigentümliche Gedankenlosigkeit der Abstraktion, zwei solche widersprechende 8/243 Sätze als Gesetze nebeneinanderzustellen, ohne sie auch nur zu vergleichen. - Der Satz des ausgeschlossenen Dritten ist der Satz des bestimmten Verstandes, der den Widerspruch von sich abhalten will und, indem er dies tut, denselben begeht. A soll entweder +A oder -A sein; damit ist schon das Dritte, das A ausgesprochen, welches weder + noch - ist, und das ebensowohl auch als +A und als -A gesetzt ist. Wenn +W 6 Meilen Richtung nach Westen, -W aber 6 Meilen Richtung nach Ost bedeutet und + und - sich aufheben, so bleiben die 6 Meilen Wegs oder Raums, was sie ohne und mit dem Gegensatz waren. Selbst das bloße plus und minus der Zahl oder der abstrakten Richtung haben, wenn man will, die Null zu ihrem Dritten; aber es soll nicht in Abrede gestellt werden, daß der leere Verstandesgegensatz von + und - nicht auch seine Stelle habe bei ebensolchen Abstraktionen wie Zahl, Richtung usf.
In der Lehre von den kontradiktorischen Begriffen heißt der eine Begriff z. B. Blau (auch so etwas wie die sinnliche Vorstellung einer Farbe wird in solcher Lehre Begriff genannt), der andere Nichtblau, so daß dies Andere nicht ein Affirmatives, etwa Gelb wäre, sondern nur [als] das Abstrakt-Negative festgehalten werden soll. - Daß das Negative in ihm selbst ebensosehr positiv ist, s. folg. §; dies liegt auch schon in der Bestimmung, daß das einem Anderen Entgegengesetzte sein Anderes ist. - Die Leerheit des Gegensatzes von sogenannten kontradiktorischen Begriffen hatte ihre volle Darstellung in dem sozusagen grandiosen Ausdruck eines allgemeinen Gesetzes, daß jedem Dinge von allen so entgegengesetzten Prädikaten das eine zukomme und das andere nicht, so daß der Geist sei entweder weiß oder nicht weiß, gelb oder nicht gelb usf. ins Unendliche.
Indem vergessen wird, daß Identität und Entgegensetzung selbst entgegengesetzt sind, wird der Satz der Entgegensetzung auch für den der Identität in der Form des Satzes 8/244 des Widerspruchs genommen und ein Begriff, dem von zwei einander widersprechenden Merkmalen keins (s. vorhin) oder alle beide zukommen, für logisch falsch erklärt, wie z. B. ein viereckiger Zirkel. Ob nun gleich ein vieleckiger Zirkel und ein geradliniger Kreisbogen ebensosehr diesem Satze widerstreitet, haben die Geometer doch kein Bedenken, den Kreis als ein Vieleck von geradlinigen Seiten zu betrachten und zu behandeln. Aber so etwas wie ein Zirkel (seine bloße Bestimmtheit) ist noch kein Begriff; im Begriffe des Zirkels ist Mittelpunkt und Peripherie gleich wesentlich, beide Merkmale kommen ihm zu; und doch ist Peripherie und Mittelpunkt einander entgegengesetzt und widersprechend.
Die in der Physik so viel geltende Vorstellung von Polarität enthält in sich die richtigere Bestimmung der Entgegensetzung, aber wenn die Physik sich in Ansehung der Gedanken an die gewöhnliche Logik hält, so würde sie leicht erschrecken, wenn sie sich die Polarität entwickelte und zu den Gedanken käme, die darin liegen.
 
 §119 Zusatz 1.
Das Positive ist wieder die Identität, aber in ihrer höheren Wahrheit, als identische Beziehung auf sich selbst und zugleich so, daß es nicht das Negative ist. Das Negative für sich ist nichts anderes als der Unterschied selbst. Das Identische als solches ist zunächst das Bestimmungslose; das Positive dagegen ist das mit sich Identische, aber als gegen ein Anderes bestimmt, und das Negative ist der Unterschied als solcher in der Bestimmung, nicht Identität zu sein. Dies ist der Unterschied des Unterschiedes in ihm selbst. - Am Positiven und Negativen meint man einen absoluten Unterschied zu haben. Beide sind indes an sich dasselbe, und man könnte deshalb das Positive auch das Negative nennen und ebenso umgekehrt das Negative das Positive. So sind denn auch Vermögen und Schulden nicht zwei besondere, für sich bestehende Arten von Vermögen. Was bei dem einen, als Schuldner, ein Negatives ist, dasselbe ist bei dem anderen, dem Gläubiger, ein Positives. Ebenso verhält es sich mit einem Weg nach Osten, welcher zugleich ein Weg nach Westen ist. Positives und Negatives sind also wesentlich durch einander bedingt und nur in ihrer Beziehung aufeinander. Der Nordpol am Magnet kann nicht sein ohne den Südpol und der Südpol nicht ohne den Nordpol. 8/245 Schneidet man einen Magnet auseinander, so hat man nicht an dem einen Stück den Nordpol und am anderen den Südpol. Ebenso sind dann auch bei der Elektrizität die positive und die negative Elektrizität nicht zwei verschiedene, für sich bestehende Fluida. In der Entgegensetzung hat überhaupt das Unterschiedene nicht nur ein Anderes, sondern sein Anderes sich gegenüber. Das gewöhnliche Bewußtsein betrachtet die Unterschiedenen als gleichgültig gegeneinander. Man sagt so: Ich bin ein Mensch, und um mich herum ist Luft, Wasser, Tiere und Anderes überhaupt. Alles fällt da auseinander. Der Zweck der Philosophie ist dagegen, die Gleichgültigkeit zu verbannen und die Notwendigkeit der Dinge zu erkennen, so daß das Andere als seinem Anderen gegenüberstehend erscheint. So ist z. B. die unorganische Natur nicht bloß als etwas anderes als das Organische zu betrachten, sondern als das notwendige Andere desselben. Beide sind in wesentlicher Beziehung aufeinander, und das Eine von beiden ist nur, insofern es das Andere von sich ausschließt und eben dadurch sich auf dasselbe bezieht. Ebenso ist auch die Natur nicht ohne den Geist, und dieser ist nicht ohne die Natur. Es ist überhaupt ein wichtiger Schritt, wenn man im Denken davon abgekommen ist, zu sagen: nun ist auch noch anderes möglich. Indem man so spricht, so ist man noch mit Zufälligem behaftet, wohingegen, wie vorher bemerkt wurde, das wahre Denken ein Denken der Notwendigkeit ist. - Wenn man in der neueren Naturwissenschaft dazu gekommen ist, die zunächst am Magnetismus als Polarität wahrgenommene Entgegensetzung als durch die ganze Natur hindurchgehend, als ein allgemeines Naturgesetz anzuerkennen, so ist dies ohne Zweifel als ein wesentlicher Fortschritt der Wissenschaft; betrachten, nur wäre es dabei zunächst darum zu tun, daß man nicht neben der Entgegensetzung ohne weiteres auch wieder die bloße Verschiedenheit gelten ließ. So betrachtet man aber z. B. das eine Mal mit Recht die Farben als in polarer Entgegensetzung einander gegenüberstehend (als sogenannte Ergänzungsfarben), sodann aber auch wieder als den gleichgültigen und bloß quantitativen Unterschied des Roten, des Gelben, des Grünen usw.

 §119 Zusatz 2.
Anstatt nach dem Satz des ausgeschlossenen Dritten (welches der Satz des abstrakten Verstandes ist) zu sprechen, wäre vielmehr zu sagen: alles ist entgegengesetzt. Es gibt in der Tat nirgends, weder im Himmel noch auf Erden, weder in der geistigen noch in der natürlichen Welt, ein so abstraktes Entweder- Oder, wie der Verstand solches behauptet. Alles was irgend ist, das ist ein Konkretes, somit in sich selbst Unterschiedenes und Entgegengesetztes. Die Endlichkeit der Dinge besteht dann darin, 8/246 daß ihr unmittelbares Dasein dem nicht entspricht, was sie an sich sind. So ist z. B. in der unorganischen Natur die Säure an sich zugleich die Basis, d. h. ihr Sein ist schlechthin nur dies, auf ihr Anderes bezogen zu sein. Somit ist dann aber auch die Säure nicht das im Gegensatz ruhig Beharrende, sondern dahin strebend, sich als das zu setzen, was sie an sich ist. Was überhaupt die Welt bewegt, das ist der Widerspruch, und es ist lächerlich zu sagen, der Widerspruch lasse sich nicht denken. Das Richtige in dieser Behauptung ist nur dies, daß es beim Widerspruch nicht sein Bewenden haben kann und daß derselbe sich durch sich selbst aufhebt. Der aufgehobene Widerspruch ist dann aber nicht die abstrakte Identität, denn diese ist selbst nur die eine Seite des Gegensatzes. Das nächste Resultat der als Widerspruch gesetzten Entgegensetzung ist der Grund, welcher sowohl die Identität als auch den Unterschied als aufgehoben und zu bloß ideellen Momenten herabgesetzt in sich enthält.

  § 120
Das Positive ist jenes Verschiedene, welches für sich und zugleich nicht gleichgültig gegen seine Beziehung auf sein Anderes sein soll. Das Negative soll ebenso selbständig, die negative Beziehung auf sich, für sich sein, aber zugleich als Negatives schlechthin diese seine Beziehung auf sich, sein Positives, nur im Anderen haben. Beide sind somit der gesetzte Widerspruch, beide sind an sich dasselbe. Beide sind es auch für sich, indem jedes das Aufheben des Anderen und seiner selbst ist. Sie gehen hiermit zu Grunde. - Oder unmittelbar ist der wesentliche Unterschied, als Unterschied an und für sich, nur der Unterschied seiner von ihm selbst, enthält also das Identische; zum ganzen an und für sich seienden Unterschiede gehört also sowohl er selbst als die Identität. - Als sich auf sich beziehender Unterschied ist er gleichfalls schon als das mit sich Identische ausgesprochen, und das Entgegengesetzte ist überhaupt dasjenige, welches das Eine und sein Anderes, sich und sein Entgegengesetztes, in sich selbst enthält. Das Insichsein des Wesens, so bestimmt, ist der Grund.
33) vgl. Leibniz, Monadologie, § 9
Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / A. Das Wesen als Grund der Existenz
Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / γ. Der Grund

Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / β. Der Unterschied
Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse / ... / b. Die Existenz


 γ. Der Grund

 § 121
Der Grund ist die Einheit der Identität und des Unterschiedes; 8/247 die Wahrheit dessen, als was sich der Unterschied und die Identität ergeben hat, - die Reflexion-in-sich, die ebensosehr Reflexion-in-Anderes und umgekehrt ist. Er ist das Wesen als Totalität gesetzt.
Der Satz des Grundes heißt: "Alles hat seinen zureichenden Grund", d. h. nicht die Bestimmung von Etwas als Identisches mit sich, noch als Verschiedenes, noch als bloß Positives oder als bloß Negatives ist die wahre Wesenheit von Etwas, sondern daß es sein Sein in einem Anderen hat, das als dessen Identisches-mit-sich sein Wesen ist. Dieses ist ebensosehr nicht abstrakte Reflexion in sich, sondern in Anderes. Der Grund ist das in sich seiende Wesen, und dieses ist wesentlich Grund, und Grund ist es nur, insofern es Grund von Etwas, von einem Anderen ist.
Zusatz. Wenn vom Grunde gesagt wird, er sei die Einheit der Identität und des Unterschiedes, so ist unter dieser Einheit nicht die abstrakte Identität zu verstehen, da wir sonst nur eine andere Benennung, dem Gedanken nach hingegen nur wieder die als unwahr erkannte Verstandesidentität selbst hätten. Man kann deshalb, um jenem Mißverständnis zu begegnen, auch sagen, daß der Grund nicht nur die Einheit, sondern ebensowohl auch der Unterschied der Identität und des Unterschiedes ist. Der Grund, welcher sich uns zunächst als die Aufhebung des Widerspruchs ergab, erscheint hiermit als ein neuer Widerspruch. Als solcher aber ist er nicht das ruhig in sich Beharrende, sondern vielmehr Abstoßen seiner von sich selbst. Der Grund ist nur Grund, insofern er begründet; das aus dem Grunde Hervorgegangene aber ist er selbst, und hierin liegt der Formalismus des Grundes. Das Begründete und der Grund sind ein und derselbe Inhalt, und der Unterschied zwischen beiden ist der bloße Formunterschied der einfachen Beziehung auf sich und der Vermittlung oder des Gesetztseins. Wenn wir nach den Gründen der Dinge fragen, so ist dies überhaupt der bereits früher (§ 112 Zusatz) erwähnte Standpunkt der Reflexion; wir wollen die Sache dann gleichsam doppelt sehen, einmal in ihrer Unmittelbarkeit und zweitens in ihrem Grunde, wo sie nicht mehr unmittelbar ist. Dies ist dann auch der einfache Sinn des sogenannten Denkgesetzes vom zureichenden Grunde, durch welches eben nur ausgesprochen wird, daß die Dinge wesentlich als vermittelt zu betrachten sind. Die formelle 8/248 Logik gibt übrigens den anderen Wissenschaften bei Aufstellung dieses Denkgesetzes insofern ein übles Beispiel, als sie verlangt, daß dieselben ihren Inhalt nicht unmittelbar gelten lassen sollen, während sie doch selbst dieses Denkgesetz aufstellt, ohne dasselbe abzuleiten und dessen Vermittlung aufzuzeigen. Mit demselben Recht, mit welchem der Logiker behauptet, unser Denkvermögen sei einmal so beschaffen, daß wir bei allem nach einem Grund fragen müßten, könnte dann auch der Mediziner wenn er gefragt wird, weshalb ein Mensch, der ins Wasser fällt, ertrinkt, antworten, der Mensch sei einmal so eingerichtet, unterm Wasser nicht leben zu können, und ebenso ein Jurist, welcher gefragt wird, weshalb ein Verbrecher bestraft wird, die bürgerliche Gesellschaft sei einmal so beschaffen, daß Verbrechen nicht unbestraft bleiben dürften. Wenn dann aber auch von der an die Logik zu machenden Forderung einer Begründung des Denkgesetzes vom Grunde abgesehen wird, so hat dieselbe doch wenigstens die Frage zu beantworten, was man unter dem Grund zu verstehen hat. Die gewöhnliche Erklärung, der Grund sei dasjenige, was eine Folge hat, erscheint auf den ersten Anblick einleuchtender und faßlicher als die im Obigen angegebene Begriffsbestimmung. Fragt man indes weiter, was die Folge sei, und erhält zur Antwort, die Folge sei dasjenige, was einen Grund hat, so zeigt es sich, daß die Faßlichkeit dieser Erklärung nur darin besteht, daß bei derselben dasjenige vorausgesetzt wird, was sich bei uns als das Resultat einer vorangegangenen Gedankenbewegung ergeben hat. Nun aber ist das Geschäft der Logik eben nur dies, die bloß vorgestellten und als solche unbegriffenen und unbewiesenen Gedanken als Stufen des sich selbst bestimmenden Denkens aufzuzeigen, womit dieselben dann zugleich begriffen und bewiesen werden. - Im gewöhnlichen Leben und ebenso in den endlichen Wissenschaften bedient man sich sehr häufig dieser Reflexionsform, in der Absicht durch deren Anwendung dahinterzukommen, wie es sich mit den zur Betrachtung gezogenen Gegenständen eigentlich verhält. Ob nun schon wider diese Betrachtungsweise, insofern es sich dabei sozusagen nur um den nächsten Hausbedarf des Erkennens handelt, nichts einzuwenden ist, so muß doch zugleich bemerkt werden, daß dieselbe weder in theoretischer noch in praktischer Hinsicht eine definitive Befriedigung zu gewähren vermag, und zwar um deswillen, weil der Grund noch keinen an und für sich bestimmten Inhalt hat und wir somit dadurch, daß wir etwas als begründet betrachten, den bloßen Formunterschied der Unmittelbarkeit und der Vermittlung erhalten. Man sieht so z. B. eine elektrische Erscheinung und fragt nach dem Grund derselben; erhalten wir darauf zur Antwort, die Elektrizität sei der Grund 8/249 dieser Erscheinung, so ist dieses derselbe Inhalt, den wir unmittelbar vor uns hatten, nur in die Form eines Innerlichen übersetzt. - Weiter ist nun aber auch der Grund nicht bloß das einfach mit sich Identische, sondern auch unterschieden, und es lassen sich deshalb für einen und denselben Inhalt verschiedene Gründe angeben, welche Verschiedenheit der Gründe, nach dem Begriff des Unterschiedes, dann weiter zur Entgegensetzung in der Form von Gründen für und wider denselben Inhalt fortschreitet. - Betrachten wir z. B. eine Handlung, etwa näher einen Diebstahl, so ist dies ein Inhalt, an welchem mehrere Seiten unterschieden werden können. Es ist dadurch Eigentum verletzt worden; der Dieb, welcher in Not war, hat dadurch aber auch die Mittel zur Befriedigung seiner Bedürfnisse erhalten, und es kann ferner der Fall sein, daß derjenige, welcher bestohlen worden, keinen guten Gebrauch von seinem Eigentum machte. Es ist nun zwar richtig, daß die hier stattgefundene Eigentumsverletzung der entscheidende Gesichtspunkt ist, vor welchem die übrigen zurücktreten müssen, allein im Denkgesetz vom Grunde liegt diese Entscheidung nicht. Zwar ist nach der gewöhnlichen Fassung dieses Denkgesetzes nicht bloß vom Grunde überhaupt, sondern vom zureichenden Grunde die Rede, und man könnte deshalb meinen, die bei der beispielsweise erwähnten Handlung außer der Eigentumsverletzung sonst noch hervorgehobenen Gesichtspunkte seien wohl Gründe, allein diese Gründe seien nicht zureichend. Darüber ist indes zu bemerken, daß, wenn von einem zureichenden Grund gesprochen wird, dies Prädikat entweder müßig oder von der Art ist, daß durch dasselbe über die Kategorie des Grundes als solchen hinausgeschritten wird. Müßig und tautologisch ist das gedachte Prädikat, wenn dadurch nur überhaupt die Fähigkeit zu begründen ausgedrückt werden soll, da der Grund eben nur insofern Grund ist, als er diese Fähigkeit besitzt. Wenn ein Soldat aus der Schlacht entläuft, um sein Leben zu erhalten, so handelt er zwar pflichtwidrig, allein es ist nicht zu behaupten, daß der Grund, der ihn so zu handeln bestimmt hat, nicht zureichend wäre, da er sonst auf seinem Posten geblieben sein würde. Ferner muß nun aber auch gesagt werden, daß, so wie einerseits alle Gründe zureichen, ebenso andererseits kein Grund als solcher zureicht, und zwar um deswillen, weil, wie oben bereits bemerkt wurde, der Grund noch keinen an und für sich bestimmten Inhalt hat und somit nicht selbsttätig und hervorbringend ist. Als solcher an und für sich bestimmter und somit selbsttätiger Inhalt wird sich uns demnächst der Begriff ergeben, und dieser ist es, um den es sich bei Leibniz handelt, wenn derselbe vom zureichenden Grunde spricht und darauf dringt, die Dinge unter diesem Gesichtspunkt 8/250 zu betrachten. Leibniz hat dabei zunächst die noch heutzutage bei vielen so beliebte, bloß mechanische Auffassungsweise vor Augen, welche er mit Recht für unzureichend erklärt. So ist es z. B. eine bloß mechanische Auffassung, wenn der organische Prozeß des Blutumlaufs bloß auf die Kontraktion des Herzens zurückgeführt wird, und ebenso mechanisch sind jene Strafrechtstheorien, welche die Unschädlichmachung, die Abschreckung oder andere dergleichen äußerliche Gründe als Zweck der Strafe betrachten. Man tut Leibniz in der Tat sehr Unrecht, wenn man meint, daß derselbe sich mit etwas so Dürftigem, wie dies das formelle Denkgesetz vom Grunde ist, begnügt habe. Die von ihm geltend gemachte Betrachtungsweise ist gerade das Gegenteil von jenem Formalismus, der, wo es sich um ein begreifendes Erkennen handelt, es mit bloßen Gründen sein Bewenden haben läßt. Leibniz stellt in dieser Hinsicht causas effizientes und causas finales einander gegenüber und macht die Forderung, nicht bei den ersteren stehenzubleiben, sondern zu den letzteren hindurchzudringen. Nach diesem Unterschied würden z. B. Licht, Wärme, Feuchtigkeit zwar als causae efficientes, nicht aber als causa finalis des Wachstums der Pflanzen zu betrachten sein, welche causa finalis dann eben nichts anderes ist als der Begriff der Pflanze selbst. - Es kann hier noch bemerkt werden, daß das Stehenbleiben bei bloßen Gründen, namentlich auf dem Gebiet des Rechtlichen und Sittlichen, überhaupt der Standpunkt und das Prinzip der Sophisten ist. Wenn von Sophistik gesprochen wird, so pflegt man darunter häufig bloß eine solche Betrachtungsweise zu verstehen, bei welcher es darum zu tun ist, das Rechte und das Wahre zu verdrehen und überhaupt die Dinge in einem falschen Lichte darzustellen. Diese Tendenz liegt indes nicht unmittelbar in der Sophistik, deren Standpunkt zunächst kein anderer als der des Räsonnements ist. Die Sophisten sind bei den Griechen aufgetreten zu einer Zeit, als diesen auf dem religiösen und auf dem sittlichen Gebiet die bloße Autorität und das Herkommen nicht mehr genügte und sie das Bedürfnis empfanden, sich dessen, was ihnen gelten sollte, als eines durch das Denken vermittelten Inhalts bewußt zu werden. Dieser Forderung sind die Sophisten dadurch entgegengekommen, daß sie Anweisung dazu erteilten, die verschiedenen Gesichtspunkte aufzusuchen, unter denen sich die Dinge betrachten lassen, welche verschiedenen Gesichtspunkte dann zunächst eben nichts anderes als Gründe sind. Da nun, wie vorher bemerkt wurde, der Grund noch keinen an und für sich bestimmten Inhalt hat und für das Unsittliche und Widerrechtliche nicht minder als für das Sittliche und Rechtliche Gründe aufzufinden sind, so fällt die Entscheidung darüber, welche Gründe gelten 8/251 sollen, in das Subjekt, und es kommt auf dessen individuelle Gesinnung und Absichten an, wofür dasselbe sich entscheidet. Hiermit ist dann der objektive Boden des an und für sich Gültigen, von allen Anerkannten untergraben, und diese negative Seite der Sophistik ist es, welche dieselbe verdientermaßen in den vorher erwähnten üblen Ruf gebracht hat. Sokrates hat bekanntlich die Sophisten überall bekämpft, jedoch nicht dadurch, daß er dem Räsonnement derselben nur ohne weiteres die Autorität und das Herkommen entgegengestellt, sondern vielmehr dadurch, daß er die Haltlosigkeit der bloßen Gründe dialektisch aufgezeigt und dagegen das Gerechte und das Gute, überhaupt das Allgemeine oder den Begriff des Willens geltend gemacht hat. Wenn heutzutage nicht nur in Erörterungen über weltliche Dinge, sondern auch in Predigten oft vorzugsweise nur räsonierend zu Werke gegangen wird und so z. B. alle möglichen Gründe zur Dankbarkeit gegen Gott beigebracht werden, so würden Sokrates und ebenso Platon keinen Anstand genommen haben, dergleichen für Sophisterei zu erklären, da es, wie gesagt, bei dieser zunächst nicht um den Inhalt zu tun ist, welcher immerhin der wahrhafte sein kann, sondern um die Form der Gründe, durch welche alles verteidigt, aber auch alles angegriffen werden kann. In unserer reflexionsreichen und räsonierenden Zeit muß es einer noch nicht weit gebracht haben, der nicht für alles, auch für das Schlechteste und Verkehrteste, einen guten Grund anzugeben weiß. Alles, was in der Welt verdorben worden ist, das ist aus guten Gründen verdorben worden. Wenn auf Gründe provoziert wird, so ist man zunächst geneigt, davor zurückzutreten; hat man dann aber die Erfahrung gemacht, wie es sich damit verhält, so wird man harthörig dagegen und läßt sich dadurch nicht weiter imponieren.

 § 122
Das Wesen ist zunächst Scheinen und Vermittlung in sich; als Totalität der Vermittlung ist seine Einheit mit sich nun gesetzt als das Sichaufheben des Unterschiedes und damit der Vermittlung. Dies ist also die Wiederherstellung der Unmittelbarkeit oder des Seins, aber des Seins, insofern es durch das Aufheben der Vermittlung vermittelt ist; - die Existenz.
Der Grund hat noch keinen an und für sich bestimmten Inhalt, noch ist er Zweck, daher ist er nicht tätig noch hervorbringend; sondern eine Existenz geht aus dem 8/252 Grunde nur hervor. Der bestimmte Grund ist darum etwas Formelles, irgendeine Bestimmtheit, insofern sie als bezogen auf sich selbst, als Affirmation gesetzt wird, im Verhältnis zu der damit zusammenhängenden unmittelbaren Existenz. Er ist eben damit, daß er Grund ist, auch ein guter Grund, denn "gut" heißt ganz abstrakt auch nicht mehr als ein Affirmatives, und jede Bestimmtheit ist gut, die in irgendeiner Weise als ein zugestanden Affirmatives ausgesprochen werden kann. Ein Grund kann daher für alles gefunden und angegeben werden, und ein guter Grund (z. B. guter Beweggrund zu handeln) kann etwas bewirken oder auch nicht, eine Folge haben oder auch nicht. Beweggrund, der etwas bewirkt, wird er z. B. durch die Aufnahme in einen Willen, der ihn erst zum tätigen und einer Ursache macht.



D.ヘーゲル「小論理学」第2部本質論A123-124
 123-124

 b. Die Existenz

 § 123
Die Existenz ist die unmittelbare Einheit der Reflexion-in-sich und der Reflexion-in-Anderes. Sie ist daher die unbestimmte Menge von Existierenden als in-sich-Reflektierten, die zugleich ebensosehr in-Anderes-scheinen, relativ sind, und eine Welt gegenseitiger Abhängigkeit und eines unendlichen Zusammenhangs von Gründen und Begründeten bilden. Die Gründe sind selbst Existenzen und die Existierenden ebenso nach vielen Seiten hin Gründe sowohl als Begründete.
Zusatz. Der Ausdruck Existenz (abgeleitet von existere) deutet auf ein Hervorgegangensein, und die Existenz ist das aus dem Grunde hervorgegangene, durch Aufhebung der Vermittlung wiederhergestellte Sein. Das Wesen, als das aufgehobene Sein, hat sich uns zunächst als Scheinen in sich erwiesen, und die Bestimmungen dieses Scheinens sind die Identität, der Unterschied und der Grund. Dieser ist die Einheit der Identität und des Unterschiedes, und als solche zugleich Unterscheiden seiner von sich selbst. Nun aber ist das vom Grund Unterschiedene ebensowenig 8/253 der bloße Unterschied, als er selbst die abstrakte Identität ist. Der Grund ist das Aufheben seiner selbst, und das, wozu er sich aufhebt, das Resultat seiner Negation, ist die Existenz. Diese als das aus dem Grund Hervorgegangene enthält denselben in sich, und der Grund bleibt nicht hinter der Existenz zurück, sondern er ist eben nur dies, sich aufzuheben und in Existenz zu übersetzen. Dies findet sich dann auch insofern im gewöhnlichen Bewußtsein, daß, wenn wir den Grund von etwas betrachten, dieser Grund nicht ein abstrakt Innerliches, sondern vielmehr selbst wieder ein Existierendes ist. So betrachten wir z. B. als Grund einer Feuersbrunst den Blitzstrahl, welcher ein Gebäude in Brand gesetzt hat, und ebenso als Grund der Verfassung eines Volkes dessen Sitten und Lebensverhältnisse. Dies ist nun überhaupt die Gestalt, unter welcher sich die existierende Welt der Reflexion zunächst präsentiert als eine unbestimmte Menge von Existierenden, die sich, als zugleich in sich und in Anderes reflektiert, zueinander gegenseitig als Grund und als Begründetes verhalten. In diesem bunten Spiel der Welt als des Inbegriffs des Existierenden zeigt sich zunächst nirgends ein fester Halt, alles erscheint hier nur als ein Relatives, bedingt durch Anderes und ebenso Anderes bedingend. Der reflektierende Verstand macht es sich zum Geschäft, diese allseitigen Beziehungen zu ermitteln und zu verfolgen; allein die Frage nach einem Endzweck bleibt dabei unbeantwortet, und das Bedürfnis der begreifenden Vernunft schreitet deshalb mit der weiteren Entwicklung der logischen Idee über diesen Standpunkt der bloßen Relativität hinaus.

§ 124
Die Reflexion-in-Anderes des Existierenden ist aber ungetrennt von der Reflexion-in-sich; der Grund ist ihre Einheit, aus der die Existenz hervorgegangen ist. Das Existierende enthält daher die Relativität und seinen mannigfachen Zusammenhang mit anderen Existierenden an ihm selbst und ist in sich als Grund reflektiert. So ist das Existierende Ding.
Das Ding-an-sich, das in der Kantischen Philosophie so berühmt geworden, zeigt sich hier in seiner Entstehung, nämlich als die abstrakte Reflexion-in-sich, an der gegen die Reflexion-in-Anderes und gegen die unterschiedenen 8/254 Bestimmungen überhaupt als an der leeren Grundlage derselben festgehalten wird.
Zusatz. Wenn behauptet wird, daß das Ding-an-sich unerkennbar sei, so ist dies insofern zuzugeben, als man unter dem Erkennen das Auffassen eines Gegenstandes in seiner konkreten Bestimmtheit zu verstehen hat, das Ding-an-sich aber nichts anderes ist als das ganz abstrakte und unbestimmte Ding überhaupt. Mit demselben Recht übrigens, mit welchem vom Ding-an-sich gesprochen wird, wäre auch von der Qualität-an-sich, von der Quantität-an-sich und ebenso weiter von allen übrigen Kategorien zu sprechen und [es] würden darunter diese Kategorien in ihrer abstrakten Unmittelbarkeit, d. h. abgesehen von ihrer Entwicklung und inneren Bestimmtheit zu verstehen sein. Es ist insofern als eine Willkür des Verstandes zu betrachten, wenn gerade nur das Ding in seinem Ansich fixiert wird. Weiter pflegt nun aber auch das Ansich auf den Inhalt der natürlichen sowohl als auch der geistigen Welt angewendet und demgemäß z. B. von der Elektrizität oder von der Pflanze an sich und ebenso vom Menschen oder vom Staat an sich gesprochen und unter dem Ansich dieser Gegenstände das Rechte und Eigentliche derselben verstanden zu werden. Hiermit verhält es sich nicht anders als mit dem Ding-an-sich überhaupt, und zwar näher so, daß, wenn bei dem bloßen Ansich der Gegenstände stehengeblieben wird, dieselben nicht in ihrer Wahrheit, sondern in der einseitigen Form der bloßen Abstraktion aufgefaßt werden. So ist z. B. der Mensch-an-sich das Kind, dessen Aufgabe darin besteht, nicht in diesem abstrakten und unentwickelten Ansich zu verharren, sondern das, was es zunächst nur an sich ist - nämlich ein freies und vernünftiges Wesen -, auch für sich zu werden. Ebenso ist der Staat-an-sich der noch unentwickelte, patriarchalische Staat, in welchem die im Begriff des Staats liegenden verschiedenen politischen Funktionen noch nicht zu ihrer begriffsmäßigen Konstituierung gelangt sind. In demselben Sinn kann auch der Keim als die Pflanze-an-sich betrachtet werden. Aus diesen Beispielen ist zu entnehmen, daß man sich sehr im Irrtum befindet, wenn man meint, das Ansich der Dinge oder das Ding-an-sich überhaupt sei etwas für unser Erkennen Unzugängliches. Alle Dinge sind zunächst an sich, allein es hat dabei nicht sein Bewenden, und so wie der Keim, welcher die Pflanze an sich ist, nur dies ist, sich zu entwickeln, so schreitet auch das Ding überhaupt über sein bloßes Ansich, als die abstrakte Reflexion-in-sich, dazu fort, sich auch als Reflexion-in-Anderes zu erweisen, und so hat es Eigenschaften. 8/255

D.ヘーゲル「小論理学」第2部本質論A125-130

c. Das Ding
§ 125
Das Ding ist die Totalität als die in Einem gesetzte Entwicklung der Bestimmungen des Grundes und der Existenz. Es hat nach dem einen seiner Momente, der Reflexion-in-Anderes, die Unterschiede an ihm, wonach es ein bestimmtes und konkretes Ding ist. α) Diese Bestimmungen sind voneinander verschieden; an dem Dinge, nicht an ihnen selbst, haben sie ihre Reflexion-in-sich. Sie sind Eigenschaften des Dings, und ihre Beziehung auf dasselbe ist das Haben.
Haben tritt als Beziehung an die Stelle des Seins. Etwas hat zwar auch Qualitäten an ihm, aber diese Übertragung des Habens auf das Seiende ist ungenau, weil die Bestimmtheit als Qualität unmittelbar eins mit dem Etwas ist und Etwas aufhört zu sein, wenn es seine Qualität verliert. Das Ding aber ist die Reflexion-in-sich, als die von dem Unterschiede, seinen Bestimmungen, auch unterschiedene Identität. - Das Haben wird in vielen Sprachen zur Bezeichnung der Vergangenheit gebraucht, - mit Recht, indem die Vergangenheit das aufgehobene Sein und der Geist deren Reflexion-in-sich ist, worin sie allein noch Bestehen hat, der aber dieses in ihm aufgehobene Sein auch von sich unterscheidet.
Zusatz. Am Dinge rekurrieren die sämtlichen Reflexionsbestimmungen als existierend. So ist das Ding, zunächst als Ding-an-sich, das mit sich Identische. Die Identität aber ist, wie wir gesehen haben, nicht ohne den Unterschied, und die Eigenschaften, welche das Ding hat, sind der existierende Unterschied, in der Form der Verschiedenheit. Während früher die Verschiedenen sich als gegeneinander gleichgültig erwiesen und die Beziehung derselben aufeinander nur durch die ihnen äußerliche Vergleichung gesetzt wurde, so haben wir nunmehr am Dinge ein Band, welches die verschiedenen Eigenschaften untereinander verknüpft. Übrigens ist die Eigenschaft nicht mit der Qualität zu verwechseln. Man sagt zwar auch, etwas habe Qualitäten. Diese Bezeichnung ist indes insofern unpassend, als das Haben eine Selbständigkeit andeutet, die dem mit seiner Qualität unmittelbar identischen Etwas noch 8/256 nicht zukommt. Etwas ist das, was es ist, nur durch seine Qualität, wohingegen das Ding zwar gleichfalls nur existiert, insofern es Eigenschaften hat, jedoch nicht an diese oder jene bestimmte Eigenschaft gebunden ist und somit auch dieselbe verlieren kann, ohne daß es deshalb aufhört, das zu sein, was es ist.

 § 126
β) Die Reflexion-in-Anderes ist aber auch im Grunde unmittelbar an ihr selbst die Reflexion-in-sich, daher sind die Eigenschaften ebensosehr mit sich identisch, selbständig und von ihrem Gebundensein an das Ding befreit. Weil sie aber die voneinander unterschiedenen Bestimmtheiten des Dinges als reflektiert-in-sich sind, sind sie nicht selbst Dinge, als welche konkret sind, sondern in sich reflektierte Existenzen als abstrakte Bestimmtheiten, Materien.
Die Materien, z. B. magnetische, elektrische Materien, werden auch nicht Dinge genannt. - Sie sind die eigentlichen Qualitäten, eins mit ihrem Sein, die zur Unmittelbarkeit gelangte Bestimmtheit, aber einem Sein, welches ein reflektiertes, Existenz ist.
 
 §126 Zusatz.
Die Verselbständigung der Eigenschaften, welche das Ding hat, zu Materien oder Stoffen, aus welchen dasselbe besteht, ist zwar im Begriff des Dinges begründet und findet sich deshalb auch in der Erfahrung, allein es ist ebenso gedanken- als erfahrungswidrig, daraus, daß gewisse Eigenschaften eines Dinges, wie z. B. die Farbe, der Geruch usw., sich als besonderer Farbstoff, Riechstoff usw. darstellen lassen, zu folgern, daß damit alles abgetan sei und daß man, um dahinterzukommen, wie es sich mit den Dingen eigentlich verhalte, weiter nichts zu tun habe, als dieselben in die Stoffe zu zerlegen, aus denen dieselben zusammengesetzt sind. Dieses Zerlegen in selbständige Stoffe findet seine eigentliche Stelle nur in der unorganischen Natur, und der Chemiker befindet sich in seinem Recht, wenn er z. B. das Küchensalz oder den Gips in ihre Stoffe zerlegt und dann sagt, jenes bestehe aus Salzsäure und Natron und dieser aus Schwefelsäure und Kalk. Ebenso betrachtet 8/257 dann auch die Geognosie mit Recht den Granit als aus Quarz, Feldspat und Glimmer zusammengesetzt. Diese Stoffe, aus denen das Ding besteht, sind dann zum Teil selbst wieder Dinge, die als solche abermals in abstraktere Stoffe zerlegt werden können, wie z. B. die Schwefelsäure, welche aus Schwefel und aus Sauerstoff besteht. Während nun dergleichen Stoffe oder Materien tatsächlich als für sich bestehend dargestellt werden können, so geschieht es auch häufig, daß andere Eigenschaften der Dinge gleichfalls als besondere Materien betrachtet werden, denen gleichwohl diese Selbständigkeit nicht zukommt. So spricht man z. B. von Wärmestoff, von elektrischer und von magnetischer Materie, welche Stoffe und Materien indes als bloße Fiktionen des Verstandes zu betrachten sind. Es ist dies überhaupt die Weise der abstrakten Verstandesreflexion, einzelne Kategorien, die nur als bestimmte Entwicklungsstufen der Idee ihre Gültigkeit haben, willkürlich zu ergreifen und diese dann, wie es heißt, zum Behuf der Erklärung, jedoch im Widerspruch mit der unbefangenen Anschauung und Erfahrung, dergestalt zu handhaben, daß alle zur Betrachtung gezogenen Gegenstände darauf zurückgeführt werden. So wird dann auch das Bestehen des Dinges aus selbständigen Stoffen vielfältig auf solchen Gebieten zur Anwendung gebracht, wo dasselbe keine Gültigkeit mehr hat. Schon innerhalb der Natur, beim organischen Leben, erweist sich diese Kategorie als ungenügend. Man sagt wohl, dieses Tier besteht aus Knochen, Muskeln, Nerven usw., allein es leuchtet unmittelbar ein, daß es damit eine andere Bewandtnis hat als mit dem Bestehen eines Stücks Granit aus den vorhergenannten Stoffen. Diese Stoffe verhalten sich vollkommen gleichgültig gegen ihre Vereinigung und können auch ebensogut ohne dieselbe bestehen, wohingegen die verschiedenen Teile und Glieder des organischen Leibes nur in ihrer Vereinigung ihr Bestehen haben und getrennt voneinander aufhören, als solche zu existieren.

 § 127
Die Materie ist so die abstrakte oder unbestimmte Reflexion-in-Anderes oder die Reflexion-in-sich zugleich als bestimmte; sie ist daher die daseiende Dingheit, das Bestehen des Dings. Das Ding hat auf diese Weise an den Materien seine Reflexion-in-sich (das Gegenteil von § 125), besteht nicht an ihm selbst, sondern aus den Materien und ist nur deren oberflächlicher Zusammenhang, eine äußerliche Verknüpfung derselben. 8/258
 
 § 128
γ) Die Materie ist als die unmittelbare Einheit der Existenz mit sich auch gleichgültig gegen die Bestimmtheit; die vielen verschiedenen Materien gehen daher in die eine Materie, die Existenz in der Reflexionsbestimmung der Identität zusammen, welcher gegenüber diese unterschiedenen Bestimmtheiten und deren äußerliche Beziehung, die sie im Ding aufeinander haben, die Form sind, - die Reflexionsbestimmung des Unterschiedes, aber als existierend und als Totalität.
Diese eine, bestimmungslose Materie ist auch dasselbe, was das Ding-an-sich, nur dieses als in sich ganz abstraktes, jene als an sich auch für-Anderes, zunächst für die Form Seiendes.

 §128 Zusatz.
Die verschiedenen Materien, aus denen das Ding besteht, sind an sich die eine dasselbe, was die andere ist. Wir erhalten hiermit die eine Materie überhaupt, an welcher der Unterschied als derselben äußerlich, d. h. als bloße Form gesetzt ist. Die Auffassung der Dinge als sämtlich die eine und selbe Materie zur Grundlage habend und bloß äußerlich, ihrer Form nach verschieden, ist dem reflektierenden Bewußtsein sehr geläufig. Die Materie gilt hierbei als an sich durchaus unbestimmt, jedoch aller Bestimmung fähig und zugleich schlechthin permanent und in allem Wechsel und aller Veränderung sich selbst gleichbleibend Diese Gleichgültigkeit der Materie gegen bestimmte Formen findet sich nun allerdings in endlichen Dingen; so ist es z. B. einem Marmorblock gleichgültig, ob demselben die Form dieser oder jener Statue oder auch einer Säule gegeben wird. Dabei ist jedoch nicht zu übersehen, daß solche Materie wie ein Marmorblock nur relativ (in Beziehung auf den Bildhauer) gegen die Form gleichgültig, jedoch keineswegs überhaupt formlos ist. Der Mineralog betrachtet demgemäß auch den nur relativ formlosen Marmor als eine bestimmte Steinformation, in seinem Unterschied von anderen, ebenso bestimmten Formationen, wie z. B. Sandstein Porphyr u. dgl. Es ist somit nur der abstrahierende Verstand, welcher die Materie in ihrer Isolierung und als an sich formlos fixiert, wohingegen in der Tat der Gedanke der Materie das Prinzip der Form durchaus in sich schließt und darum auch in der Erfahrung nirgends eine formlose Materie als existierend vorkommt. Die Auffassung der Materie als ursprünglich vorhanden und als an sich formlos ist übrigens sehr alt und begegnet uns schon bei den Griechen, zunächst in der mythischen Gestalt des 8/259 Chaos, welches als die formlose Grundlage der existierenden Welt vorgestellt wird. In der Konsequenz dieser Vorstellung liegt es dann, Gott nicht als den Erschaffer der Welt, sondern als bloßen Weltbildner, als Demiurgen zu betrachten. Die tiefere Anschauung ist dagegen diese, daß Gott die Welt aus Nichts erschaffen habe, womit dann überhaupt ausgesprochen ist, einerseits daß der Materie als solcher keine Selbständigkeit zukommt, und andererseits daß die Form nicht von außen an die Materie gelangt, sondern als Totalität das Prinzip der Materie in sich selbst trägt, welche freie und unendliche Form sich uns demnächst als der Begriff ergeben wird.

 § 129
Das Ding zerfällt so in Materie und Form, deren jedes die Totalität der Dingheit und selbständig für sich ist. Aber die Materie, welche die positive, unbestimmte Existenz sein soll, enthält als Existenz ebensowohl die Reflexion-in-Anderes als das Insichsein; als Einheit dieser Bestimmungen ist sie selbst die Totalität der Form. Die Form aber enthält schon als Totalität der Bestimmungen die Reflexion-in-sich, oder als sich auf sich beziehende Form hat sie das, was die Bestimmung der Materie ausmachen soll. Beide sind an sich dasselbe. Diese ihre Einheit, gesetzt, ist überhaupt die Beziehung der Materie und Form, welche ebenso unterschieden sind.

  § 130
Das Ding als diese Totalität ist der Widerspruch, nach seiner negativen Einheit die Form zu sein, in der die Materie bestimmt und zu Eigenschaften herabgesetzt ist (§ 125), und zugleich aus Materien zu bestehen, die in der Reflexion des Dings in sich zugleich ebenso selbständige als negierte sind. Das Ding ist so, die wesentliche Existenz als eine sich in sich selbst aufhebende zu sein, ist Erscheinung.
Die im Ding ebenso gesetzte Negation als Selbständigkeit der Materien kommt in der Physik als die Porosität vor. Jede der vielen Materien (Färbestoff, Riechstoff und andere Stoffe, nach einigen darunter auch Schallstoff, dann ohnehin Wärmestoff, elektrische Materie usw.) ist auch negiert, und in dieser ihrer Negation, ihren Poren, 8/260 sind die vielen anderen selbständigen Materien, die ebenso porös sind und in sich die anderen so gegenseitig existieren lassen. Die Poren sind nichts Empirisches, sondern Erdichtungen des Verstandes, der das Moment der Negation der selbständigen Materien auf diese Weise vorstellt und die weitere Ausbildung der Widersprüche mit jener nebulosen Verwirrung, in der alle selbständig und alle ineinander ebenso negiert sind, deckt. - Wenn auf gleiche Weise im Geiste die Vermögen oder Tätigkeiten hypostasiert werden, so wird ihre lebendige Einheit ebenso zur Verwirrung des Einwirkens der einen in die andere.
Wie die Poren (von den Poren im Organischen, denen des Holzes, der Haut ist nicht die Rede, sondern von [denen] in den sogenannten Materien, wie im Färbestoff, Wärmestoff usf. oder in den Metallen, Kristallen u. dgl.) nicht in der Beobachtung ihre Bewährung haben, so ist auch die Materie selbst, ferner eine von ihr getrennte Form, zunächst das Ding und das Bestehen desselben aus Materien oder daß es selbst besteht und nur Eigenschaften hat, Produkt des reflektierenden Verstandes, der, indem er beobachtet und das anzugeben vorgibt, was er beobachte, vielmehr eine Metaphysik hervorbringt, die nach allen Seiten Widerspruch ist, der ihm jedoch verborgen bleibt.



 D.ヘーゲル「小論理学」第2部本質論 B 現象131-141-131

 B. Die Erscheinung
 § 131
Das Wesen muß erscheinen. Sein Scheinen in ihm ist das Aufheben seiner zur Unmittelbarkeit, welche als Reflexion-in-sich so Bestehen (Materie) ist, als sie Form, Reflexion-in-Anderes, sich aufhebendes Bestehen ist. Das Scheinen ist die Bestimmung, wodurch das Wesen nicht Sein, sondern Wesen ist, und das entwickelte Scheinen ist die Erscheinung. Das Wesen ist daher nicht hinter oder jenseits der Erscheinung, 8/261 sondern dadurch, daß das Wesen es ist, welches existiert, ist die Existenz Erscheinung.
Zusatz. Die Existenz, gesetzt in ihrem Widerspruch, ist die Erscheinung. Diese ist nicht mit dem bloßen Schein zu verwechseln. Der Schein ist die nächste Wahrheit des Seins oder der Unmittelbarkeit. Das Unmittelbare ist nicht dasjenige, was wir an ihm zu haben meinen, nicht ein Selbständiges und auf sich Beruhendes, sondern nur Schein, und als solcher ist dasselbe zusammengefaßt in die Einfachheit des in sich seienden Wesens. Dieses ist zunächst Totalität des Scheinens in sich, bleibt dann aber nicht bei dieser Innerlichkeit stehen, sondern tritt als Grund heraus in die Existenz, welche, als ihren Grund nicht in sich selbst, sondern in einem Anderen habend, eben nur Erscheinung ist. Wenn wir von der Erscheinung sprechen, so verbinden wir damit die Vorstellung einer unbestimmten Mannigfaltigkeit existierender Dinge, deren Sein schlechthin nur Vermittlung ist und welche somit nicht auf sich selbst beruhen, sondern nur als Momente ihre Gültigkeit haben. Hierin liegt nun aber auch zugleich, daß das Wesen nicht hinter oder jenseits der Erscheinung verbleibt, sondern vielmehr gleichsam die unendliche Güte ist, seinen Schein in die Unmittelbarkeit zu entlassen und ihm die Freude des Daseins zu gönnen. Die hiermit gesetzte Erscheinung steht nicht auf eigenen Füßen und hat ihr Sein nicht in sich selbst, sondern in einem Anderen. Gott als das Wesen, so wie er die Güte ist, dadurch, daß er den Momenten seines Scheinens in sich Existenz verleiht, eine Welt zu erschaffen, erweist sich zugleich als die Macht über dieselbe und als die Gerechtigkeit, den Inhalt dieser existierenden Welt, insofern dieselbe für sich existieren will, als bloße Erscheinung zu manifestieren.
Die Erscheinung ist überhaupt eine sehr wichtige Stufe der logischen Idee, und man kann sagen, daß die Philosophie sich vom gemeinen Bewußtsein dadurch unterscheidet, daß sie dasjenige, was diesem als ein Seiendes und Selbständiges gilt, als bloße Erscheinung betrachtet. Dabei kommt es indes darauf an, daß die Bedeutung der Erscheinung gehörig aufgefaßt wird. Wenn nämlich von etwas gesagt wird, daß es nur Erscheinung sei, so kann dies so mißverstanden werden, als ob in Vergleichung mit diesem nur Erscheinenden das Seiende oder Unmittelbare das Höhere sei. In der Tat verhält es sich gerade umgekehrt, so nämlich, daß die Erscheinung ein Höheres ist als das bloße Sein. Die Erscheinung ist überhaupt die Wahrheit des Seins und eine reichere Bestimmung als dieses, insofern dieselbe die Momente der Reflexion-in-sich und der Reflexion-in-Anderes in sich vereinigt enthält, wohingegen 8/262 das Sein oder die Unmittelbarkeit noch das einseitig Beziehungslose und (scheinbar) nur auf sich Beruhende ist. Weiter deutet dann aber jenes Nur der Erscheinung allerdings auf einen Mangel und dieser besteht darin, daß die Erscheinung noch dies in sich Gebrochene, seinen Halt nicht in sich selbst Habende ist. Das Höhere als die bloße Erscheinung ist zunächst die Wirklichkeit, von welcher, als der dritten Stufe des Wesens, späterhin gehandelt werden wird. - In der Geschichte der neueren Philosophie ist es Kant, welchem das Verdienst gebührt, den vorher erwähnten Unterschied zwischen dem gemeinen und dem philosophischen Bewußtsein zuerst wieder geltend gemacht zu haben. Kant ist indes insofern noch auf halbem Wege stehengeblieben, als er die Erscheinung nur im subjektiven Sinn aufgefaßt und außer derselben das abstrakte Wesen als das unserem Erkennen unzugängliche Ding an sich fixiert hat. Nur Erscheinung zu sein, dies ist die eigene Natur der unmittelbar gegenständlichen Welt selbst, und indem wir dieselbe als solche wissen, so erkennen wir damit zugleich das Wesen, welches nicht hinter oder jenseits der Erscheinung bleibt, sondern eben dadurch sich als Wesen manifestiert, daß es dieselbe zur bloßen Erscheinung herabsetzt. - Es ist übrigens dem unbefangenen Bewußtsein bei seinem Verlangen nach einer Totalität nicht zu verargen, wenn dasselbe Anstand nimmt, sich bei der Behauptung des subjektiven Idealismus, daß wir es schlechthin bloß mit Erscheinungen zu tun haben, zu beruhigen. Nur widerfährt es diesem unbefangenen Bewußtsein, indem es sich daran begibt, die Objektivität des Erkennens zu retten, leicht, daß es zur abstrakten Unmittelbarkeit zurückkehrt und diese ohne weiteres als das Wahre und Wirkliche festhält. Fichte hat in einer kleinen Schrift unter dem Titel: "Sonnenklarer Bericht an das größere Publikum über das eigentliche Wesen der neuesten Philosophie; ein Versuch, den Leser zum Verstehen zu zwingen" [Berlin 1801], den Gegensatz zwischen dem subjektiven Idealismus und dem unmittelbaren Bewußtsein in der Form eines Gesprächs zwischen dem Autor und dem Leser in populärer Form abgehandelt und sich bemüht, die Berechtigung des subjektiv idealistischen Standpunktes nachzuweisen. In diesem Gespräch klagt der Leser dem Autor seine Not, daß es ihm durchaus nicht gelingen wolle, sich auf jenen Standpunkt zu versetzen, und äußert sich trostlos darüber, daß die Dinge, die ihn umgeben, nicht wirkliche Dinge, sondern bloß Erscheinungen sein sollen. Diese Betrübnis ist insofern allerdings dem Leser nicht zu verdenken, als ihm zugemutet wird, sich als in einen undurchdringlichen Kreis bloß subjektiver Vorstellungen eingebannt zu betrachten; übrigens muß indes, abgesehen von der bloß subjektiven 8/263 Auffassung der Erscheinung, gesagt werden, daß wir alle Ursache haben, zufrieden damit zu sein, daß wir an den Dingen, welche uns umgeben, es bloß mit Erscheinungen und nicht mit festen und selbständigen Existenzen zu tun haben, da wir in diesem Fall sowohl leiblich als geistig alsbald verhungern würden.


 a 現象の世界 132

 a. Die Welt der Erscheinung
 § 132
Das Erscheinende existiert so, daß sein Bestehen unmittelbar aufgehoben, dieses nur ein Moment der Form selbst ist; die Form befaßt das Bestehen oder die Materie als eine ihrer Bestimmungen in sich. Das Erscheinende hat so seinen Grund in dieser als seinem Wesen, seiner Reflexion-in-sich gegen seine Unmittelbarkeit, aber damit nur in einer anderen Bestimmtheit der Form. Dieser sein Grund ist ebensosehr ein Erscheinendes, und die Erscheinung geht so zu einer unendlichen Vermittlung des Bestehens durch die Form, somit ebenso durch Nichtbestehen fort. Diese unendliche Vermittlung ist zugleich eine Einheit der Beziehung auf sich, und die Existenz [ist] zu einer Totalität und Welt der Erscheinung, der reflektierten Endlichkeit, entwickelt.


 D.ヘーゲル「小論理学」第2部本質論 B 現象131-141_133-134

 b. Inhalt und Form
 § 133
Das Außereinander der Welt der Erscheinung ist Totalität und ist ganz in ihrer Beziehung-auf-sich enthalten. Die Beziehung der Erscheinung auf sich ist so vollständig bestimmt, hat die Form in ihr selbst und, weil in dieser Identität, als wesentliches Bestehen. So ist die Form Inhalt und nach ihrer entwickelten Bestimmtheit das Gesetz der Erscheinung. In die Form als in sich nicht reflektiert fällt das Negative der Erscheinung, das Unselbständige und Veränderliche, - sie ist die gleichgültige, äußerliche Form.
Bei dem Gegensatze von Form und Inhalt ist wesentlich festzuhalten, daß der Inhalt nicht formlos ist, sondern 8/264 ebensowohl die Form in ihm selbst hat, als sie ihm ein Äußerliches ist. Es ist die Verdopplung der Form vorhanden, die das eine Mal als in sich reflektiert der Inhalt, das andere Mal als nicht in sich reflektiert die äußerliche, dem Inhalte gleichgültige Existenz ist. An-sich ist hier vorhanden das absolute Verhältnis des Inhalts und der Form, nämlich das Umschlagen derselben ineinander, so daß der Inhalt nichts ist als das Umschlagen der Form in Inhalt, und die Form nichts als Umschlagen des Inhalts in Form. Dies Umschlagen ist eine der wichtigsten Bestimmungen. Gesetzt aber ist dies erst im absoluten Verhältnisse.

 §133 Zusatz.
Form und Inhalt sind ein Paar Bestimmungen, deren sich der reflektierende Verstand sehr häufig bedient, und zwar vornehmlich in der Art, daß der Inhalt als das Wesentliche und Selbständige, die Form dagegen als das Unwesentliche und Unselbständige betrachtet wird. Dawider ist jedoch zu bemerken, daß in der Tat beide gleich wesentlich sind und daß, während es einen formlosen Inhalt so wenig gibt als einen formlosen Stoff, diese beiden (Inhalt und Stoff oder Materie) sich eben dadurch voneinander unterscheiden, daß die letztere, obschon an sich nicht ohne die Form, doch in ihrem Dasein sich als gegen dieselbe gleichgültig erweist, wohingegen der Inhalt als solcher das, was er ist, nur dadurch ist, daß er die ausgebildete Form in sich enthält. Weiter finden wir dann aber die Form auch als eine gegen den Inhalt gleichgültige und demselben äußerliche Existenz, und dies ist um deswillen der Fall, weil die Erscheinung überhaupt noch mit der Äußerlichkeit behaftet ist. Betrachten wir z. B. ein Buch, so ist es für den Inhalt desselben allerdings gleichgültig, ob dasselbe geschrieben oder gedruckt, ob es in Papier oder in Leder eingebunden ist. Damit ist dann aber keineswegs gesagt, daß, abgesehen von solcher äußerlichen und gleichgültigen Form, der Inhalt des Buches selbst ein formloser sei. Es gibt freilich Bücher genug, die auch in Beziehung auf ihren Inhalt nicht mit Unrecht als formlos zu bezeichnen sind; in dieser Beziehung auf den Inhalt ist jedoch die Formlosigkeit gleichbedeutend mit Unförmlichkeit, worunter nicht die Abwesenheit der Form überhaupt, sondern nur das Nichtvorhandensein der rechten Form zu verstehen ist. Diese rechte Form aber ist so wenig gegen den Inhalt gleichgültig, daß dieselbe vielmehr der Inhalt selbst ist. Ein Kunstwerk, welchem die rechte Form fehlt, ist eben darum kein rechtes, d. h. kein 8/265 wahres Kunstwerk, und es ist für einen Künstler als solchen eine schlechte Entschuldigung, wenn gesagt wird, der Inhalt seiner Werke sei zwar gut (ja, wohl gar vortrefflich), aber es fehle denselben die rechte Form. Wahrhafte Kunstwerke sind eben nur solche, deren Inhalt und Form sich als durchaus identisch erweisen. Man kann von der Ilias sagen, ihr Inhalt sei der Trojanische Krieg oder bestimmter der Zorn des Achill, damit haben wir alles und doch nur sehr wenig, denn was die Ilias zur Ilias macht, das ist die poetische Form, zu welcher jener Inhalt herausgebildet ist. Ebenso ist der Inhalt von Romeo und Julia der durch die Zwietracht ihrer Familien herbeigeführte Untergang zweier Liebenden; allein dies ist noch nicht Shakespeares unsterbliche Tragödie. - Was dann ferner das Verhältnis von Inhalt und Form auf dem wissenschaftlichen Gebiete anbetrifft, so ist in dieser Beziehung an den Unterschied zwischen der Philosophie und den übrigen Wissenschaften zu erinnern. Die Endlichkeit der letzteren besteht überhaupt darin, daß hier das Denken als bloß formelle Tätigkeit seinen Inhalt als einen gegebenen von außenher aufnimmt und daß der Inhalt nicht als durch die ihm zugrunde liegenden Gedanken von innen heraus bestimmt gewußt wird, daß somit Form und Inhalt einander nicht vollständig durchdringen, wohingegen in der Philosophie diese Trennung hinwegfällt und dieselbe deshalb als unendliches Erkennen zu bezeichnen ist. Gleichwohl wird auch das philosophische Denken sehr häufig als bloße Formtätigkeit betrachtet, und zumal von der Logik, welche es zugestandenermaßen nur mit Gedanken als solchen zu tun hat, gilt deren Inhaltslosigkeit als eine ausgemachte Sache. Versteht man unter Inhalt nur das Handgreifliche überhaupt, das sinnlich Wahrnehmbare, so wird allerdings, wie von der Philosophie überhaupt, so insbesondere von der Logik, bereitwillig zuzugeben sein, daß dieselbe keinen, d. h. nicht einen solchen sinnlich wahrnehmbaren Inhalt hat. Nun aber bleiben auch schon das gewöhnliche Bewußtsein und der allgemeine Sprachgebrauch rücksichtlich dessen, was unter Inhalt verstanden wird, keineswegs bloß bei der sinnlichen Wahrnehmbarkeit noch überhaupt beim bloßen Dasein stehen. Wenn von einem inhaltslosen Buche die Rede ist, so versteht man darunter bekanntlich nicht bloß ein Buch mit leeren Blättern, sondern ein solches, dessen Inhalt so gut wie keiner ist, und wird es sich bei näherer Betrachtung in letzter Analyse ergeben, daß für ein gebildetes Bewußtsein dasjenige, was zunächst als Inhalt bezeichnet wird, keine andere Bedeutung als die der Gedankenmäßigkeit hat. Damit ist dann aber auch zugleich eingeräumt, daß die Gedanken nicht als gegen den Inhalt gleichgültige und an sich leere Formen zu betrachten sind und daß, wie in der Kunst, 8/266 ebenso auch auf allen anderen Gebieten die Wahrheit und Gediegenheit des Inhalts wesentlich darauf beruht, daß derselbe sich als mit der Form identisch erweist.
 
 § 134
Die unmittelbare Existenz aber ist Bestimmtheit des Bestehens selbst wie der Form; sie ist daher ebenso der Bestimmtheit des Inhalts äußerlich, als diese Äußerlichkeit, die er durch das Moment seines Bestehens hat, ihm wesentlich ist. Die Erscheinung, so gesetzt, ist das Verhältnis, daß ein und dasselbe, der Inhalt, als die entwickelte Form, als die Äußerlichkeit und Entgegensetzung selbständiger Existenzen und deren identische Beziehung ist, in welcher Beziehung die Unterschiedenen allein das sind, was sie sind.


 D.ヘーゲル「小論理学」第2部本質論 B 現象131-141_135-141

 c. Das Verhältnis
 § 135
α) Das unmittelbare Verhältnis ist das des Ganzen und der Teile: der Inhalt ist das Ganze und besteht aus den Teilen (der Form), dem Gegenteile seiner. Die Teile sind voneinander verschieden und sind das Selbständige. Sie sind aber nur Teile in ihrer identischen Beziehung aufeinander oder insofern sie zusammengenommen das Ganze ausmachen. Aber das Zusammen ist das Gegenteil und Negation des Teiles.

 §135 Zusatz.
Das wesentliche Verhältnis ist die bestimmte, ganz allgemeine Weise des Erscheinens. Alles, was existiert, steht im Verhältnis, und dies Verhältnis ist das Wahrhafte jeder Existenz. Das Existierende ist dadurch nicht abstrakt für sich, sondern nur in einem Anderen, aber in diesem Anderen ist es die Beziehung auf sich, und das Verhältnis ist die Einheit der Beziehung auf sich und der Beziehung auf Anderes.
Das Verhältnis des Ganzen und der Teile ist insofern unwahr, als dessen Begriff und Realität einander nicht entsprechen. Der Begriff des Ganzen ist der, Teile zu enthalten; wird dann aber das Ganze als das gesetzt, was es seinem Begriff nach ist, wird es geteilt, so hört es damit auf, ein Ganzes zu sein. Es gibt nun zwar Dinge, welche diesem Verhältnis entsprechen, allein dies sind auch 8/267 eben um deswillen nur niedrige und unwahre Existenzen. Dabei ist überhaupt daran zu erinnern, daß, wenn in einer philosophischen Erörterung von Unwahrem die Rede ist, dies nicht so verstanden werden darf, als ob dergleichen nicht existiere. Ein schlechter Staat oder ein kranker Leib mögen immerhin existieren; diese Gegenstände sind aber unwahr, denn ihr Begriff und ihre Realität entsprechen einander nicht. - Das Verhältnis des Ganzen und der Teile, als das unmittelbare Verhältnis, ist überhaupt ein solches, welches dem reflektierenden Verstand sehr naheliegt und mit welchem sich derselbe um deswillen häufig auch da begnügt, wo es sich in der Tat um tiefere Verhältnisse handelt. So sind z. B. die Glieder und Organe eines lebendigen Leibes nicht bloß als dessen Teile zu betrachten, da dieselben das, was sie sind, nur in ihrer Einheit sind und sich gegen dieselbe keineswegs als gleichgültig verhalten. Zu bloßen Teilen werden diese Glieder und Organe erst unter den Händen des Anatomen, welcher es dann aber auch nicht mehr mit lebenden Körpern, sondern mit Kadavern zu tun hat. Es ist damit nicht gesagt, daß solche Zerlegung überhaupt nicht stattfinden sollte, wohl aber, daß das äußerliche und mechanische Verhältnis des Ganzen und der Teile nicht hinreicht, um das organische Leben in seiner Wahrheit zu erkennen. - In noch viel höherem Grade ist dies der Fall mit der Anwendung dieses Verhältnisses auf den Geist und die Gestaltungen der geistigen Welt. Wenn auch in der Psychologie nicht ausdrücklich von Teilen der Seele oder des Geistes gesprochen wird, so liegt doch der bloß verstandesmäßigen Behandlung dieser Disziplin die Vorstellung jenes endlichen Verhältnisses insofern gleichfalls zugrunde, als die verschiedenen Formen der geistigen Tätigkeit bloß in ihrer Isolierung als sogenannte besondere Kräfte und Vermögen nacheinander aufgezählt und beschrieben werden.

 § 136
β) Das Eine und Dasselbe dieses Verhältnisses, die in ihm vorhandene Beziehung auf sich, ist somit unmittelbar negative Beziehung auf sich, und zwar als die Vermittlung, daß ein und dasselbe gleichgültig gegen den Unterschied, und daß es die negative Beziehung auf sich ist, welche sich selbst als Reflexion-in-sich zum Unterschiede abstößt und sich als Reflexion-in-Anderes existierend setzt und umgekehrt diese Reflexion-in-Anderes zur Beziehung auf sich und zur Gleichgültigkeit zurückführt, - die Kraft und ihre Äußerung. 8/268
Das Verhältnis des Ganzen und der Teile ist das unmittelbare, daher das gedankenlose Verhältnis und Umschlagen der Identität-mit-sich in die Verschiedenheit. Es wird vom Ganzen zu den Teilen und von den Teilen zum Ganzen übergegangen und in einem der Gegensatz gegen das andere vergessen, indem jedes für sich, das eine Mal das Ganze, das andere Mal die Teile, als selbständige Existenz genommen wird. Oder indem die Teile in dem Ganzen und dieses aus jenen bestehen soll, so ist das eine Mal das eine, das andere Mal das andere das Bestehende und ebenso jedesmal das andere desselben das Unwesentliche. Das mechanische Verhältnis besteht in seiner oberflächlichen Form überhaupt darin, daß die Teile als selbständige gegeneinander und gegen das Ganze sind.
Der Progreß ins Unendliche, welcher die Teilbarkeit der Materie betrifft, kann sich auch dieses Verhältnisses bedienen und ist dann die gedankenlose Abwechslung mit den beiden Seiten desselben. Ein Ding wird das eine Mal als ein Ganzes genommen, dann wird zur Teilbestimmung übergegangen; diese Bestimmung wird nun vergessen und, was Teil war, als Ganzes betrachtet; dann tritt wieder die Bestimmung des Teils auf usf. ins Unendliche. Diese Unendlichkeit aber als das Negative, das sie ist, genommen ist die negative Beziehung des Verhältnisses auf sich, die Kraft, das mit sich identische Ganze als Insichsein, - und als dies Insichsein [sich] aufhebend und sich äußernd, und umgekehrt die Äußerung, die verschwindet und in die Kraft zurückgeht.
Die Kraft ist dieser Unendlichkeit ungeachtet auch endlich; denn der Inhalt, das Eine und Dasselbe der Kraft und der Äußerung, ist nur erst an sich diese Identität; die beiden Seiten des Verhältnisses sind noch nicht selbst jede für sich die konkrete Identität desselben, noch nicht die Totalität. Sie sind daher füreinander Verschiedene und das Verhältnis ein endliches. Die Kraft bedarf daher der Sollizitation von außen, wirkt blind, und um dieser Mangelhaftigkeit 8/269 der Form willen ist auch der Inhalt beschränkt und zufällig. Er ist mit der Form noch nicht wahrhaft identisch, ist noch nicht als Begriff und Zweck, der das an und für sich Bestimmte ist. - Dieser Unterschied ist höchst wesentlich, aber nicht leicht aufzufassen, er hat sich erst am Zweckbegriffe selbst näher zu bestimmen. Wird er übersehen, so führt dies in die Verwirrung, Gott als Kraft aufzufassen, eine Verwirrung, an der Herders Gott vornehmlich leidet.34)
Man pflegt zu sagen, daß die Natur der Kraft selbst unbekannt sei und nur ihre Äußerung erkannt werde. Einesteils ist die ganze Inhaltsbestimmung der Kraft ebendieselbe als die der Äußerung; die Erklärung einer Erscheinung aus einer Kraft ist deswegen eine leere Tautologie. Was unbekannt bleiben soll, ist also in der Tat nichts als die leere Form der Reflexion-in-sich, wodurch allein die Kraft von der Äußerung unterschieden ist, - eine Form, die ebenso etwas Wohlbekanntes ist. Diese Form tut zum Inhalte und zum Gesetze, welche nur aus der Erscheinung allein erkannt werden sollen, im geringsten nichts hinzu. Auch wird überall versichert, es solle damit über die Kraft nichts behauptet werden; es ist also nicht abzusehen, warum die Form von Kraft in die Wissenschaften eingeführt worden ist. - Andernteils ist aber die Natur der Kraft allerdings ein Unbekanntes, weil sowohl die Notwendigkeit des Zusammenhangs ihres Inhalts in sich selbst als [auch] desselben, insofern er für sich beschränkt ist und daher seine Bestimmtheit vermittels eines Anderen außer ihm hat, noch mangelt.

 §136 Zusatz 1.
Das Verhältnis der Kraft und ihrer Äußerung ist im Rückblick auf das unmittelbare Verhältnis des Ganzen und der Teile als unendlich zu betrachten, da in demselben die Identität der beiden Seiten, welche in diesem letzten Verhältnis nur erst an sich vorhanden war, gesetzt ist. Das Ganze, obschon an sich aus 8/270 Teilen bestehend, hört gleichwohl auf, ein Ganzes zu sein, indem es geteilt wird, wohingegen die Kraft erst dadurch daß sie sich äußert, sich als Kraft bewährt und in ihrer Äußerung zu sich selbst zurückkehrt, denn die Äußerung ist selbst wieder Kraft. Ferner ist nun aber auch dies Verhältnis wieder endlich, und die Endlichkeit desselben besteht überhaupt in diesem Vermitteltsein, so wie umgekehrt das Verhältnis des Ganzen und der Teile sich um seiner Unmittelbarkeit willen als endlich erwiesen hat. Die Endlichkeit des vermittelten Verhältnisses der Kraft und ihrer Äußerung zeigt sich zunächst darin, daß eine jede Kraft bedingt ist und zu ihrem Bestehen eines Anderen bedarf, als Sie selbst ist. So hat z. B. die magnetische Kraft bekanntlich ihren Träger vornehmlich am Eisen, dessen sonstige Eigenschaften (Farbe, spezifische Schwere, Verhältnis zu Säuren usw.) von dieser Beziehung zum Magnetismus unabhängig sind. Ebenso verhält es sich mit allen übrigen Kräften, welche sich durchgängig als durch anderes, als sie selbst sind, bedingt und vermittelt erweisen - Die Endlichkeit der Kraft zeigt sich ferner darin, daß dieselbe, um sich zu äußern, der Sollizitation bedarf. Dasjenige, wodurch die Kraft sollizitiert wird, ist selbst wieder Äußerung einer Kraft, welche, um sich zu äußern, gleichfalls sollizitiert werden muß. Wir erhalten auf diese Weise entweder wieder den unendlichen Progreß oder die Gegenseitigkeit des Sollizitierens und des Sollizitiertwerdens, wobei es dann aber immer noch an einem absoluten Anfang der Bewegung fehlt. Die Kraft ist noch nicht wie der Zweck das sich in sich selbst Bestimmende, der Inhalt ist ein bestimmt gegebener, und indem dieselbe sich äußert, so ist sie, wie man zu sagen pflegt, in ihrer Wirkung blind, worunter dann eben der Unterschied zwischen der abstrakten Kraftäußerung und der zweckmäßigen Tätigkeit zu verstehen ist.
Zusatz 2. Obschon die so oft wiederholte Behauptung, daß nur die Äußerung der Kräfte, nicht aber diese selbst zu erkennen seien, um deswillen als unbegründet von der Hand gewiesen werden muß, weil die Kraft eben nur dies ist, sich zu äußern, und wir somit in der als Gesetz aufgefaßten Totalität der Äußerung zugleich die Kraft selbst erkennen, so ist dabei doch nicht zu übersehen, daß in dieser Behauptung von der Unerkennbarkeit des Ansich der Kräfte eine richtige Ahnung der Endlichkeit dieses Verhältnisses enthalten ist. Die einzelnen Äußerungen einer Kraft treten uns zunächst in unbestimmter Mannigfaltigkeit und in ihrer Vereinzelung als zufällig entgegen, wir reduzieren dann dieses Mannigfaltige auf seine innere Einheit, welche wir als Kraft bezeichnen, und werden uns des scheinbar Zufälligen, indem wir 8/271 das darin herrschende Gesetz erkennen, als eines Notwendigen bewußt. Nun aber sind die verschiedenen Kräfte selbst wieder ein Mannigfaltiges und erscheinen in ihrem bloßen Nebeneinander als zufällig. Man spricht demgemäß in der empirischen Physik von Kräften der Schwere, des Magnetismus, der Elektrizität usw., und ebenso in der empirischen Psychologie von Erinnerungskraft, von Einbildungskraft, von Willenskraft und allerhand sonstigen Seelenkräften. Hierbei rekurriert dann das Bedürfnis, sich dieser verschiedenen Kräfte gleichfalls als eines einheitlichen Ganzen bewußt zu werden, und dieses Bedürfnis würde seine Befriedigung dadurch nicht erhalten, daß man die verschiedenen Kräfte etwa auf eine denselben gemeinsame Urkraft reduzierte. Wir hätten an solcher Urkraft in der Tat nur eine leere Abstraktion, ebenso inhaltslos als das abstrakte Ding an sich. Dazu kommt, daß das Verhältnis der Kraft und ihrer Äußerung wesentlich das vermittelte Verhältnis ist und daß es somit dem Begriff der Kraft widerspricht, wenn dieselbe als ursprünglich oder auf sich beruhend aufgefaßt wird. - Wir lassen es uns bei dieser Bewandtnis, die es mit der Natur der Kraft hat, zwar gefallen, wenn gesagt wird, die existierende Welt sei eine Äußerung göttlicher Kräfte, allein wir werden Anstand nehmen, Gott selbst als bloße Kraft zu betrachten, weil die Kraft noch eine untergeordnete und endliche Bestimmung ist. In diesem Sinn hat dann auch die Kirche, als man beim sogenannten Wiedererwachen der Wissenschaften sich daran begab, die einzelnen Erscheinungen der Natur auf denselben zugrunde liegende Kräfte zurückzuführen, dies Unternehmen um deswillen für gottlos erklärt, weil, wenn es die Kräfte der Gravitation, der Vegetation usw. seien, welche die Bewegung der Himmelskörper, das Wachstum der Pflanzen usw. veranlassen, für die göttliche Weltregierung nichts zu tun übrig bleibe und Gott somit zu einem müßigen Zuschauer bei solchem Spiel der Kräfte herabgesetzt werde. Nun haben zwar die Naturforscher und namentlich Newton, indem sie sich der Reflexionsform der Kraft zur Erklärung der Naturerscheinungen bedient, zunächst ausdrücklich befürwortet, daß damit der Ehre Gottes, als des Erschaffers und Regierers der Welt, kein Abbruch geschehen solle; es liegt indes in der Konsequenz dieses Erklärens aus Kräften, daß der räsonierende Verstand dazu fortschreitet, die einzelnen Kräfte eine jede für sich zu fixieren und dieselben in dieser Endlichkeit als ein Letztes festzuhalten, welcher verendlichten Welt selbständiger Kräfte und Stoffe gegenüber zur Bestimmung Gottes 8/272 nur die abstrakte Unendlichkeit eines nicht erkennbaren, höchsten jenseitigen Wesens übrigbleibt. Dies ist dann der Standpunkt des Materialismus und der modernen Aufklärung, deren Wissen von Gott, unter Verzichtleistung auf das Was, sich auf das bloße Daß seines Seins reduziert. Ob nun schon der Kirche und dem religiösen Bewußtsein bei der hier erwähnten Polemik insofern recht zu geben ist, als die endlichen Verstandesformen allerdings nicht genügen, weder um die Natur noch um die Gestaltungen der geistigen Welt in ihrer Wahrheit zu erkennen, so ist doch auch andererseits die formelle Berechtigung zunächst der empirischen Wissenschaft nicht zu übersehen, welche Berechtigung überhaupt darin besteht, die vorhandene Welt in der Bestimmtheit ihres Inhalts der denkenden Erkenntnis zu vindizieren und es nicht bloß bei dem abstrakten Glauben an das Erschaffensein und Regiertwerden der Welt durch Gott bewenden zu lassen. Wenn unser auf die Autorität der Kirche gestütztes religiöses Bewußtsein uns darüber belehrt, daß Gott es ist, welcher durch seinen allmächtigen Willen die Welt erschaffen hat, und daß er es ist, der die Gestirne in ihren Bahnen lenkt und aller Kreatur ihr Bestehen und Gedeihen verleiht, so bleibt dabei doch auch das Warum zu beantworten, und die Beantwortung dieser Frage ist es überhaupt, welche die gemeinschaftliche Aufgabe der Wissenschaft, sowohl der empirischen als auch der philosophischen, bildet. Indem das religiöse Bewußtsein, diese Aufgabe und das darin enthaltene Recht nicht anerkennend, sich auf die Unerforschlichkeit der göttlichen Ratschlüsse beruft, so tritt dieselbe damit selbst auf den vorher erwähnten Standpunkt der bloßen Verstandesaufklärung und ist solche Berufung nur als eine mit dem ausdrücklichen Gebot der christlichen Religion, Gott im Geist und in der Wahrheit zu erkennen, im Widerspruch stehende, beliebige Versicherung einer keineswegs christlichen, sondern hoffärtig fanatischen Demut zu betrachten.

 § 137
Die Kraft ist als das Ganze, welches an sich selbst die negative Beziehung auf sich ist, dies, sich von sich abzustoßen und sich zu äußern. Aber da diese Reflexion-in-Anderes, der Unterschied der Teile, ebensosehr Reflexion-in-sich ist, so ist die Äußerung die Vermittlung, wodurch die Kraft, die in sich zurückkehrt, als Kraft ist. Ihre Äußerung ist selbst das Aufheben der Verschiedenheit der beiden Seiten, welche in diesem Verhältnisse vorhanden ist, und das Setzen der 8/273 Identität, die an sich den Inhalt ausmacht. Ihre Wahrheit ist darum das Verhältnis, dessen beide Seiten nur als Inneres und Äußeres unterschieden sind.

§ 138
γ) Das Innere ist der Grund, wie er als die bloße Form der einen Seite der Erscheinung und des Verhältnisses ist, die leere Form der Reflexion-in-sich, welcher die Existenz gleichfalls als die Form der andern Seite des Verhältnisses mit der leeren Bestimmung der Reflexion-in-Anderes als Äußeres gegenübersteht. Ihre Identität ist die erfüllte, der Inhalt, die in der Bewegung der Kraft gesetzte Einheit der Reflexion-in-sich und der Reflexion-in-Anderes; beide sind dieselbe eine Totalität, und diese Einheit macht sie zum Inhalt.

 § 139
Das Äußere ist daher fürs erste derselbe Inhalt als das Innere. Was innerlich ist, ist auch äußerlich vorhanden und umgekehrt; die Erscheinung zeigt nichts, was nicht im Wesen ist, und im Wesen ist nichts, was nicht manifestiert ist.

§ 140
Zweitens. Inneres und Äußeres sind aber auch als Formbestimmungen sich, und zwar schlechthin, entgegengesetzt als die Abstraktionen von Identität mit sich und von bloßer Mannigfaltigkeit oder Realität. Indem sie aber als Momente der einen Form wesentlich identisch sind, so ist das, was nur erst in der einen Abstraktion gesetzt ist, unmittelbar auch nur in der anderen. Was daher nur ein Innerliches ist, ist auch damit nur ein Äußerliches, und was nur ein Äußerliches ist, ist auch nur erst ein Innerliches.
Es ist der gewöhnliche Irrtum der Reflexion, das Wesen als das bloß Innere zu nehmen. Wenn es bloß so genommen wird, so ist auch diese Betrachtung eine ganz äußerliche und jenes Wesen die leere äußerliche Abstraktion.
Ins Innre der Natur - sagt ein Dichter - 8/274
dringt kein erschaffner Geist,
Zu glücklich, wenn er nur die äußre Schale weißt.35)
Es hätte vielmehr heißen müssen, eben dann, wenn ihm das Wesen der Natur als Inneres bestimmt ist, weiß er nur die äußere Schale.36) - Weil im Sein überhaupt oder auch im nur sinnlichen Wahrnehmen der Begriff nur erst das Innere, ist er ein demselben Äußeres - ein subjektives, wahrheitsloses Sein wie Denken. - An der Natur, so wie am Geiste, insofern der Begriff, Zweck, Gesetz nur erst innere Anlagen, reine Möglichkeiten sind, sind sie nur erst eine äußerliche unorganische Natur, Wissenschaft eines Dritten, fremde Gewalt usf. - Der Mensch, wie er äußerlich, d. i. in seinen Handlungen (freilich nicht in seiner nur leiblichen Äußerlichkeit) [ist], ist er innerlich; und wenn er nur innerlich, d. i. nur in Absichten, Gesinnungen tugendhaft, moralisch usf. und sein Äußeres damit nicht identisch ist, so ist eins so hohl und leer als das andere.

 §140 Zusatz.
Das Verhältnis des Inneren und des Äußeren ist, als die Einheit der beiden vorangehenden Verhältnisse, zugleich die Aufhebung der bloßen Relativität und der Erscheinung überhaupt. Indem nun aber gleichwohl der Verstand das Innere und das Äußere in ihrer Trennung festhält, so sind dies ein Paar leere Formen, die eine so nichtig als die andere. - Es ist sowohl bei Betrachtung der Natur als auch der geistigen Welt von großer Wichtigkeit, die Bewandtnis, welche es mit dem Verhältnis des Inneren und des Äußeren hat, gehörig ins Auge zu fassen und sich vor dem Irrtum zu hüten, daß nur jenes das Wesentliche sei, worauf es eigentlich ankommt, dieses dagegen das Unwesentliche 8/275 und Gleichgültige. Dieser Irrtum begegnet uns zunächst, wenn, wie dies häufig geschieht, der Unterschied zwischen der Natur und dem Geiste auf den abstrakten Unterschied des Äußeren und des Inneren zurückgeführt wird. Was hierbei die Auffassung der Natur anbetrifft, so ist dieselbe zwar allerdings nicht nur das für den Geist, sondern auch an sich Äußerliche überhaupt. Dieses überhaupt ist jedoch nicht in dem Sinne der abstrakten Äußerlichkeit zu nehmen, denn eine solche gibt es gar nicht, sondern vielmehr so, daß die Idee, welche den gemeinschaftlichen Inhalt der Natur und des Geistes bildet, in der Natur als nur äußerlich, aber eben um deswillen auch zugleich als nur innerlich vorhanden ist. Wie sehr nun auch der abstrakte Verstand mit seinem Entweder-Oder sich gegen diese Auffassung der Natur sträuben mag, so findet sich dieselbe doch gleichwohl auch in unserem sonstigen und am bestimmtesten in unserem religiösen Bewußtsein. Diesem zufolge ist die Natur nicht minder als die geistige Welt eine Offenbarung Gottes und unterscheiden sich beide dadurch voneinander, daß, während die Natur es nicht dazu bringt, sich ihres göttlichen Wesens bewußt zu werden, dies die ausdrückliche Aufgabe des (hiermit zunächst endlichen) Geistes ist. Diejenigen, welche das Wesen der Natur als ein bloß Inneres und deshalb für uns Unzugängliches betrachten, treten damit auf den Standpunkt jener Alten, welche Gott als neidisch betrachteten, wogegen sich dann aber schon Platon und Aristoteles erklärt haben. Was Gott ist, das teilt er mit, das offenbart er, und zwar zunächst durch die Natur und in derselben. - Weiter besteht nun überhaupt der Mangel oder die Unvollkommenheit eines Gegenstandes darin, nur ein Innerliches und damit zugleich nur ein Äußerliches oder, was dasselbe ist, nur ein Äußerliches und damit nur ein Innerliches zu sein. So ist z. B. das Kind, als Mensch überhaupt, zwar ein vernünftiges Wesen, allein die Vernunft des Kindes als solchen ist zunächst nur als ein Innerliches, d. h. als Anlage, Beruf usw. vorhanden und dieses nur Innerliche hat zugleich für das Kind, als der Wille seiner Eltern, die Kenntnis seiner Lehrer, überhaupt als die dasselbe umgebende vernünftige Welt, die Form eines nur Äußerlichen. Die Erziehung und Bildung des Kindes besteht dann darin, daß es das, was es zunächst nur an sich und damit für andere (die Erwachsenen) ist, auch für sich wird. Die im Kinde nur erst als innere Möglichkeit vorhandene Vernunft wird durch die Erziehung verwirklicht, und ebenso umgekehrt wird dasselbe der zunächst als äußere Autorität betrachteten Sittlichkeit, Religion und Wissenschaft sich als seines Eigenen und Inneren bewußt. - Wie mit dem Kinde, so verhält es sich in dieser Beziehung auch mit dem erwachsenen Menschen, insofern derselbe, seiner Bestimmung 8/276 zuwider, in der Natürlichkeit seines Wissens und Wollens befangen bleibt; so hat z. B. für den Verbrecher die Strafe, der er unterworfen wird, zwar die Form einer äußeren Gewalt, in der Tat aber ist dieselbe nur die Manifestation seines eigenen verbrecherischen Willens. - Aus der bisherigen Erörterung ist dann auch zu entnehmen, was davon zu halten ist, wenn jemand seinen dürftigen Leistungen, ja verwerflichen Taten gegenüber sich auf die davon zu unterscheidende Innerlichkeit seiner angeblich vortrefflichen Absichten und Gesinnungen beruft. Es mag immerhin im einzelnen der Fall sein, daß durch die Ungunst äußerer Umstände wohlgemeinte Absichten vereitelt, daß zweckmäßige Pläne in der Ausführung verkümmert werden; im allgemeinen gilt jedoch auch hier die wesentliche Einheit des Inneren und des Äußeren dergestalt, daß gesagt werden muß: was der Mensch tut, das ist er, und der lügnerischen Eitelkeit, welche sich an dem Bewußtsein innerlicher Vortrefflichkeit wärmt, ist jener Spruch des Evangeliums entgegenzuhalten: "An ihren Früchten sollt ihr sie erkennen"37) . Dies große Wort gilt, wie zunächst in sittlicher und religiöser Hinsicht, so auch weiter in Beziehung auf wissenschaftliche und künstlerische Leistungen. Was hierbei die letzteren anbetrifft, so mag etwa ein scharfblickender Lehrer, indem er an einem Knaben entschiedene Anlagen gewahr wird, die Meinung äußern, daß in demselben ein Raffael oder ein Mozart stecke, und der Erfolg wird dann lehren, inwieweit solche Meinung begründet war. Wenn dann aber ein stümperhafter Maler und ein schlechter Poet sich damit trösteten, daß ihr Inneres voll hoher Ideale sei, so ist solches ein schlechter Trost, und wenn sie die Forderung machen, man solle sie nicht nach ihren Leistungen beurteilen, sondern nach ihren Intentionen, so wird solche Prätention mit Recht als leer und unbegründet von der Hand gewiesen. Umgekehrt ist es dann auch häufig der Fall, daß man bei Beurteilung anderer, die Rechtes und Tüchtiges zustande gebracht, sich des unwahren Unterschiedes vom Inneren und Äußeren dazu bedient um zu behaupten, solches sei nur ihr Äußeres, innerlich aber sei es ihnen um etwas ganz anderes, um die Befriedigung ihrer Eitelkeit oder sonstiger verwerflicher Leidenschaften zu tun gewesen. Dies ist die Gesinnung des Neides, welcher, unfähig, selbst Großes zu vollbringen, das Große zu sich herabzuziehen und zu verkleinern bestrebt ist. Dagegen ist an den schönen Ausspruch Goethes zu erinnern, daß es gegen große Vorzüge anderer kein anderes Rettungsmittel gibt als die Liebe. Wenn dann weiter bei löblichen Leistungen anderer, um dieselben zu verkümmern, von Heuchelei 8/277 gesprochen wird, so ist dawider zu bemerken, daß der Mensch sich zwar im einzelnen verstellen und manches verbergen kann, nicht aber sein Inneres überhaupt, welches im decursus vitae unfehlbar sich kundgibt, dergestalt daß auch in dieser Beziehung gesagt werden muß, daß der Mensch nichts anderes ist als die Reihe seiner Taten. Es ist insbesondere die sogenannte pragmatische Geschichtsschreibung, welche sich durch diese wahrheitswidrige Trennung des Inneren vom Äußeren in der neueren Zeit vielfältig an großen historischen Charakteren versündigt und deren reine Auffassung getrübt und entstellt hat. Anstatt sich damit zu begnügen, die großen Taten, welche durch die weltgeschichtlichen Heroen vollbracht worden sind, einfach zu erzählen und ihr Inneres als dem Inhalt dieser Taten entsprechend anzuerkennen, hat man sich für berechtigt und verpflichtet erachtet, hinter dem, was offen zutage liegt, angeblich geheime Motive auszuspüren, und dann gemeint, die Geschichtsforschung sei um so profunder, je mehr es ihr gelinge, das bisher Gefeierte und Gepriesene seines Nimbus zu entkleiden und dasselbe hinsichtlich seines Ursprungs und seiner eigentlichen Bedeutung auf das Niveau gemeiner Mittelmäßigkeit herabzusetzen. Zum Behuf solcher pragmatischen Geschichtsforschung ist dann häufig auch das Studium der Psychologie empfohlen worden, weil man durch diese Auskunft darüber erhalte, welches die eigentlichen Triebfedern seien, wodurch überhaupt die Menschen zu handeln bestimmt werden. Die Psychologie, an welche hier verwiesen wird, ist indes nichts anderes als jene kleinliche Menschenkennerei, welche anstatt des Allgemeinen und Wesentlichen der menschlichen Natur vornehmlich nur das Partikuläre und Zufällige vereinzelter Triebe, Leidenschaften usw. zum Gegenstand ihrer Betrachtung macht. Während übrigens bei diesem psychologisch-pragmatischen Verfahren in Beziehung auf die großen Taten zugrunde liegenden Motive für den Historiker doch zunächst die Wahl bleiben würde zwischen den substantiellen Interessen des Vaterlandes, der Gerechtigkeit, der religiösen Wahrheit usw. einerseits und den subjektiven und formellen Interessen der Eitelkeit, Herrschsucht, Habsucht usw. andererseits, so werden die letzteren als das eigentlich Bewegende um deswillen betrachtet, weil ja sonst die Voraussetzung des Gegensatzes zwischen dem Inneren (der Gesinnung der Handelnden) und dem Äußeren (dem Inhalt der Handlung) die Bestätigung nicht erhalten würde. Da nun aber der Wahrheit nach das Innere und das Äußere denselben Inhalt haben, so muß dann auch jener schulmeisterlichen Gescheitheit gegenüber ausdrücklich behauptet werden, daß, wenn es den geschichtlichen Heroen bloß um subjektive und formelle Interessen zu tun gewesen wäre, sie das nicht vollbracht 8/278 haben würden, was sie vollbracht haben, und ist im Hinblick auf die Einheit des Inneren und des Äußeren anzuerkennen, daß die großen Männer das gewollt, was sie getan, und das getan, was sie gewollt haben.

§ 141
Die leeren Abstraktionen, durch welche der eine identische Inhalt noch im Verhältnisse sein soll, heben sich in dem unmittelbaren Übergehen, die eine in der anderen, auf; der Inhalt ist selbst nichts anderes als deren Identität (§ 138), sie sind der als Schein gesetzte Schein des Wesens. Durch die Äußerung der Kraft wird das Innere in Existenz gesetzt; dies Setzen ist das Vermitteln durch leere Abstraktionen; es verschwindet in sich selbst zur Unmittelbarkeit, in der das Innere und Äußere an und für sich identisch und deren Unterschied als nur Gesetztsein bestimmt ist. Diese Identität ist die Wirklichkeit.
34) vgl. u. a. Gott. Einige Gespräche, Gotha 1787
35) *vgl. Goethes unwilligen Ausruf, Zur Naturwissenschaft [Zur Morphologie] I. Bd., 3. Heft [1820; S. 304]:

Das hör ich sechzig Jahre wiederholen,
Und fluche drauf, aber verstohlen, ...
Natur hat weder Kern noch Schale,
Alles ist sie mit einemmale, usw.
36) vgl. Albrecht von Haller, "Die Falschheit der menschlichen Tugenden" (in: Versuch schweizerischer Gedichte, Bern 1732), V. 289 f.: "Ins Innere der Natur dringt kein erschaffner Geist, / Zu glücklich, wenn sie noch die äußre Schale weist!" Der Kontext zeigt, daß Hegel "Weißt" (= weiß) meint und nicht "weist" wie im Hallerschen Gedicht, wo das Subjekt die Natur ist.
37) Matth. 7, 16