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 資本論用語事典2021
   資本論翻訳問題

  文献資料 翻訳問題「入門」第2部

翻訳問題「入門」第1部
柳父 章 著『翻訳語成立事情



  『資本論』と垂水雄二の「翻訳問題」


 資本論ワールド編集部 ・・・2021.08.03-作業進行中です・・

 『資本論』の翻訳問題「入門」として、翻訳家・垂水雄二氏の二つの著作から研究してゆきます。
 欧米文化の多様な水脈のなかから、一つの外国語の言葉を日本語に移し替えるー翻訳作業がどのような思考経路を経て行われるか、現場サイドの大変貴重な体験記です。
 グローバル化とIT革命を迎えた現代日本で、『資本論』翻訳問題の「何が」、「何処が」問題かー深刻な問いかけに通底しています。社会科学の言語構築に向けた必須の教材ー垂水氏は自然科学系ですがーとなっています。今回の第2部では、垂水氏の二つの著作から序文と7つの論文を選択しました。なお、文頭の数字と中見出し〔〕は、編集部による挿入です。


  『資本論』と垂水雄二の「翻訳問題」キーワード

 1-1. 変身 metamorphosis     『資本論』の「変態」
 1-2. 自然選択 natural selection   ダーウィン「自然淘汰」の翻訳問題
 1-3. 博物学 natural history     西洋文化史で考慮すること
 2-1. 有機体 organism        『資本論』の社会的生産有機体
 2-2. 自然の経済 economy of nature 古代ギリシャが生きている西洋語
 2-3. エコロジー ecology       ダーウィンの生態学(Ӧkologie:エコロジー)
 2-4. 生物学 biology         ElementとFormの統合ー上位概念の生成

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 教材:翻訳問題「入門」第2部
  垂水雄二著作 2021.06.21

 『悩ましい翻訳語』 科学用語の由来と誤訳 〔A〕
               八坂書房 2009年発行

 『厄介な翻訳語』 科学用語の迷宮 〔B〕
             八坂書房 2010年発行

   垂水雄二著作 目 次

 1.『悩ましい翻訳語』(A) はじめに
    1-1. 変身 metamorphosis (A)
    1-2. 自然選択 natural selection (A)
    1-3. 博物学 natural history (A)


 2.『厄介な翻訳語』(B) はじめに.
    2-1. 有機体 organism (B)
    2-2. 自然の経済 economy of nature (B)
    2-3. エコロジー ecology (B)
    2-4. 生物学 biology (B)


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    悩ましい翻訳語 』 科学用語の由来と誤訳A

 はじめに
   〔 1. 書かれている内容についての理解

1. いい翻訳者の条件はまず語学力で、これは原語(主として英語)と日本語の両方に言える。だが、もともと生物学が専門である私に語学のウンチクを傾ける資格はないし、翻訳一般についてどうこう言えるほどの能力もない。しかし、専門書の翻訳に関しては、もう一つ条件がある。それは書かれている内容についての理解で、ことに自然科学書の翻訳の場合には、必須の条件になる。
 どんな英語の達人でも、物理学の基礎知識がなければ量子力学の本を翻訳することはできない。分子生物学のイロハを知らなければ、遺伝学書の翻訳はできない。そうした知識の欠如がもっとも端的に表れるのが、訳語の選択である。それについては、私にも少しばかり、言うべきことがある。
 訳語の選択は異文化コミュニケーションの根幹にかかわるもので、歴史的にも漢語から日本語への翻訳に際して、多くの先人を悩ませてきたにちがいない。しかし西洋語から日本語の翻訳は、言語学的・文化的な背景がまるで異なるため、さらに大きな困難がともなう。

2. 西洋語から日本語への翻訳における訳語の問題について本格的に論じた最初の人物は、おそらく杉田玄白であろう。彼は『解体新書』の凡例において、翻訳・義訳・直訳の三つを区別している。現代風に説明すれば、(1)「翻訳」:原語に対応する日本語がすでにある場合にそれを当てること。(2)「義訳」:対応する日本語がないので、意味の上で適切な日本語をつくってそれを当てること。現代の意訳に当たる。(3)「直訳」:適当な造語がむつかしい場合に、原語の音をとりあえず当てておくこと。現代で言えば音訳に当たる。この三つのそれぞれの場合に、誤訳ないしは不適切な訳語が生じうる。
 まず(1)だが、雨、雪、鳥、魚のように、世界中どこにでも普遍的に存在する事象や概念の場合には大きな問題もないが、外国と日本で様態が著しく異なるものを翻訳する場合には、本当に対応しているかどうかの確認が必要になる。たとえ近い日本語があっても辞書に頼って安直に当てはめるのは誤りのもとである。・・・中略・・

 〔 2. 一つの単語に複数の意味があるとき

3. 一つの単語に複数の意味があるときには、状況に応じてもっとも適切な訳を選ばなければならない。たとえば、glass(ガラス)の複数形glassesが眼鏡を指すことはよく知られているが、望遠鏡や顕微鏡を意味することもあるので、場合によっては眼鏡と訳すと誤訳になる。
 次に(2)だが、生物学にかぎらず、近代的な学術用語はほとんどが外来語で、先人たちが苦労して、うまい日本語をつくってきた。生物学(これもbiologyの翻訳)の分野では、cellの細胞、geneの遺伝子、ecologyの生態学といったものはみなそうである。
 ここで、問題になるのは、本当に適切な造語であるかどうかだ。本書で、いくつか不適切と思われる訳語の例を取りあげたが、特定の学問分野で、仲間内でしか通じないような奇妙な訳語が定着してしまっているのは頭が痛い。また同じ言葉が分野にまったく異なる訳語をもっているのも困ったことだ。
 哲学者はmetaphysicsに形而上学という訳語を当て、physicsには、そのもとになるものという意味で、形而下学を当てる。しかし自然学分野ではphysicsは物理学(古くは自然学)のことである。
 英語で読めば、哲学と科学の関係(もともとは、アリストテレスの著作が編纂されたときに、physics [自然についての著作] の巻の後ろに収録された表題のない著作群を、「physicsの後にくる著作群」という意味でmeta‐physicsと呼んだのが起源で、たまたまその内容が自然法則の後ろ、すなわち根拠や基礎を探るものであったところから、この呼び名が定着したとされているがおおよそ見当がつくのに、形而上学と物理学ではさっぱり結びつかない。

4. 自然科学と哲学の関係は、形而上と形而下というような上下関係にあるわけではなく、位相が異なるだけなのである。自然科学者が哲学のことにでしゃばるなと言われるかもしれないが、理学博士も英語ではdoctor of philosophyと呼ばれるのだから、哲学に口を挟む資格があるはずだ。形而上学 〔 アリストテレスの哲学では、「第一哲学」に相当する-資本論ワールド編集部 〕 は明治時代に井上哲次郎がつくった言葉で、それなりに根拠のある訳語だったが、現代日本人には、哲学の知識なしにほとんど意味が通じないだろう。
  アリストテレスの著作について云々するのでないかぎり、「純正哲学」や単なる「哲学」という訳語で十分に用をなすように思えるのだが、いかがなものだろう。専門家の意見が聞きたいものである。もし現代の西洋哲学者が、はじめてこの訳語をつくるのだとしたら、「メタ自然学」とでもするのではないだろうか。

  〔 3. 訳語のカタカナ

5. 最後に(3)だが、原語と日本語が厳密に一対一で対応することはまずないので、翻訳すると、かならず多少の意味のズレが生じる。そのズレを嫌がる人は、厄介な概念はすぐにカタカナにしてしまう。データやアイデンティティのような概念は、中途半端な訳語をつくるよりは、カタカナ表記にするのが無難かもしれない。
 しかし、近頃ではシンプルやスリムなど、適切な日本語がいくらでもあるような言葉までカタカナにする傾向は、日本語のために好ましいとは言いがたい。幕末から明治にかけての先人たちが苦心惨憺して適切な訳語をつくりだした努力を思えば、もう少し工夫してもいいのではなかろうか。DNAやMRIなどのように、翻訳すればあまりにも冗長になるものは、きちんと理解したうえで、略語を使うのもやむをえない。
 カタカナ表記にも、英語読み、ドイツ語読み、フランス語読み、ラテン語読みが混在するという問題がある。とくに医学・生物学の用語にはその傾向が強い。それぞれ歴史的な事情があるので、ひろく通用しているものを認めるしかない。
 人名の表記も、現地音主義を原則としても、帰化した人の扱いをどうするべきかなど、悩ましい問題がある。またギリシア・ローマ人名などは、ジュピター(ユピテル)やアレクサンダー(アレクサンドロス)大王のように、英語読みが流通してしまっているために、現地音主義で押し通しにくいものもある。

6. 私は、最初は編集者として、のちには翻訳者として、主として生物学を中心とする翻訳啓蒙書の出版にながらく携わってきた。そのなかで不適切な訳語の例に(自分自身が犯した誤りを含めて)数多く遭遇した。そうした経験を踏まえて、主として生物学の視点から、翻訳語にまつわる問題点をまとめてみたいと思うようになった。
 本書の目的は、他人の誤訳や失敗をあげつらうことではなく、一つの訳語決定の背景にどれだけ面倒な問題があるかを知ってもらいたいという思いで、半ば、翻訳者の自己弁護でもある。
 多岐にわたる、かなり異質な話題が含まれているので、どういう組み立てにすれば、多くの読者に受け入れてもらえるか、ない知恵を絞って考えたすえ、類似した問題を抱える訳語をまとめて、いくつかの章にすることにした。
 各章の中身は個別の訳語をめぐるウンチク話が中心になっているので、読み物として楽しんでいただけると思う。気楽に読んでいただいたうえで、自然科学書の翻訳を目指す人にとって、少しでも参考になるところがあれば望外の喜びである。



     厄介な翻訳語  科学用語の迷宮B

 はじめに
1. 幸いにも、前著『悩ましい翻訳語』が好評をもって迎えられたので、続編を書いてみようということになった。個別の単語について、前回書き残しかこともいくつかあるが、今回はとくに外国語と日本語の意味のちがいがもたらす訳語の問題に重点をおいてみた。
 翻訳に際して、訳語の選定に苦労するのは、言葉の守備範囲のちがいである。安直な英和辞書では一つの英単語に一つか二つの日本語しか与えられていないが、英語と日本語が厳密に一対一の対応をしていることなど滅多にない。一つの単語には定着するまでの歴史的な経緯があり、類似語や対立語との関係で、その言葉の守備範囲が決まってくる。

2. 一つの単語がどれはどの意味内容をもつか把握しようと思うなら、大きな英語辞書ないし英和辞書で、用例のすべてを読むのが一番だ。そうすれば、その言葉が射程とするおおよその範囲が理解でき、与えられている日本語が、その単語の氷山の一角でしかないことに気づくだろう。
 同じように、和英辞典で日本語に対して与えられている英語も、その日本語がもつ意味内容の ほんの一部でしかない。水面下に隠れている部分の意味で使われる場合に、翻訳者の工夫が問われることになる。
 こうした守備範囲のちがいをもたらす要因は、大きく二つある。一つは言語構造のちがいであり、もう一つは文化的というか、生活習慣のちがいである。私は言語学そのものについてはまったくの素人なので、ひょっとしたらまちかっているかもしれないが、翻訳の実践者としては、言語構造のちがいは厄介である。

3. きわめて単純化していえば、西洋語は関係代名詞や挿入を使うことで、一つの文章で立体的な構造を描写できるが、日本語で同じことをしようと思えば、いくつかの単文にばらして、接続詞を使って、それを連ねていくしかないのである。その関係は単語にもおよんでいて、日本語の単語が空間や時間の断面を切り取ったものが多いのに対して、英語の単語には時間的あるいは空間的な厚みをもつ単語が多いような気がする。この関係がどこまで普遍化できるか確信はないが、それに起因する誤訳の具体例はあり、そのいくつかをとりあげてみた。
 文化のちがいによる守備範囲の相違はつとに言われてきた。当たり前のことだが、物に名前をつけて区別するのは、区別することに意床があるからである。その意味が純粋に知的好奇心を満たすだけという場合もなくはないだろうが、ひろく一般に使われるためには、実用的な意味がなければならない。牧畜を基本とする人々が家畜の微細なちがいを区別する単語をもち、漁労を基本とする人々が豊かな魚の名前をもつのはそのためである。
 たとえば、日本語では年齢・性別を問わずに、すべて「馬」なのに、英語では詳細な区別がある。総称がhorseなのは誰でも知っているが、雌成馬はmare、雄成馬はstallion、去勢された雄成馬はgelding と呼ばれる。geldingに対しては騙馬(せんば)という漢字名がある。子ウマは一歳未満のものはfoal (競馬用語では当歳馬、北海道地方の方言では「とねっこ」)、一歳馬はyearling、四歳(英国では五歳)未満の雄はcolt、雌はfillyと呼ばれる。ほかに種馬のsireや母馬のdamというのまである。なお肩高147センチメートル以下の小型種はponyと呼ばれる。こうしたウマの多様な名称は英語だけの話ではなく、馬が生活の中心を占めるモンゴル語にも同じような区別があり、こちらでは一歳、二歳、三歳、四歳それぞれにちがう名前があるそうだ。 ・・・以下、省略・・・

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  『悩ましい翻訳語』7章 生物学用語の正しい使い方
 医学や心理学だけでなく、専門用語の翻訳には、ときにおかしなものがある。その概念ないし事物を最初に日本語に移し替えた人間が、その分野での特殊な使われ方にとらわれて、語の本来の意味を見失った訳語を採用してしまったためである。本章では、生物学やその周辺分野での不適切な訳語の例を取りあげてみる。

 〔『資本論』の不適切な訳語の例:剰余価値 Mehrwert [より多くの](surplus value)で、剰余の[剰]は、「上にはみ出ているものを刀で断つことで、あまる意味になる。[余]は、「あまる、あまり」ー小学館『漢和辞典』。すなわち「剰余価値=余った価値」となる。『資本論』第4章貨幣の資本への転化(岩波文庫p.262)の文脈でMehrwertは、「最初に前貸しされた貨幣額プラス増加分で、増加する価値」。中山元訳では、増殖価値と訳している。〕
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 1-1  変 身 metamorphosis (A)

  (1)独:Metamorphose (神話で、人間の動物などへの変身)。生物の変態
    (2) form:形→アリストテレスの形相eidos-質料への働きかけ 

  〔 1. 変身-形を変える

 この言葉は、形(morphe)を変える(meta)を意味するギリシア語に由来するもので、文化系の人には、「変身」または「転身」という訳語がなじみ深いだろう。古代ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』(『転身物語』『転身譜』という邦訳題もある)やアントーニーヌス・リーベラーリスの『変身物語集』の原題がこれなのである。
 『変身物語』は、さまざまな人物が動物や植物に変身するという神話の集成で、顔を見た人間を石に変えるメドゥーサや、水に映った自分の姿のとりことなったナルキッソス(ナルシス)がスイセンになった話など、数多くの奇譚が集められ、中世の冒険物語の種本となっていた。こうした変身譚の系譜はカフカの『変身』などに受け継がれている。
 
2. 変態-卵から成体まで個体発生の過程で体のつくりを大きく変える

 生物学ではこれを、生物が卵から成体になるまでの個体発生の過程で体のつくりを大きく変える現象を指すのに用い、変態と訳す。オタマジャクシがカエルに、チョウなどの昆虫の幼虫が蛹に、最後には成虫になるという変態は、誰もが一度や二度は目にしたことがあるはずだ。すでにアリストテレスの『動物発生論』第9章に昆虫の幼虫から蛹、蛹から成虫への三段階の変態が述されているし、日本でも、平安時代の古典、『堤中納言物語』の「虫めずる姫君」に、毛虫からチョウヘの変態が扱われている。文学における変身という概念そのものが、昆虫の変態からインスピレーションを受けたものである可能性は高い。
 水中の無脊椎動物でも、カニやエビをはじめとして、ほとんどの多細胞動物で変態が見られるが、水生動物の変態が知られるようになるのは、ずっと後世のことである。

3. 変換 transformation ( 独 Verwandlung 転化,変身,転換-「貨幣の資本への転化」〕

 同じように、形が変わることを意味する言葉にtransformationというのがある。この言葉はmetamorphosisと同じ意味で使われ、変態と訳されることもあるが、もっとも一般的な訳語は「変換」で、物理・化学分野ではこう訳されることが多い。同様の意味で、変化、変形、変容、変質、転換などとも訳される。
 しかし、この単語は、きわめて多様な使い方をされるので、場面によって訳し分ける必要がある。まず言語学では「変形規則」、経済学では「転化」、電気分野では「変圧」、鉱物学では「(相)転移」といった具合である。
 生物学関係では二つの重要な意味がある。一つは「形質転換」で、もともとは微生物に他の生物の遺伝形質(DNA)を取り込ませることによって、その形質(性質)を変えることを指したが、現在では、高等生物の細胞についても使われる。実質的な意味合いは遺伝子組み換えに近い。

4. form:形→アリストテレスの形相eidos-質料への働きかけ

 → ①「形式Form」について価値形態と形式の二重性
   ② 『資本論』「Form-形態-形式

 もう一つは、定訳ではないが進化を意味する場合があることである。言うまでもなく、transformationは動詞 transform の名詞形で、これはラテン語のtrans(通り越す、完全に変わる)とformから合成された言葉なので、変態、変形と訳すべきときもある。しかし、このformは単純に形だとは言い切れない難しさがあり、翻訳のときにいつも悩まされる。
 生物学の文脈では単に形という意味ではなく、ある形をもつものの総称、つまり類型、具体的には種や科を指すことがある。したがって場合によっては、formは種と訳した方がいいこともある。そこからtransformationには生物種の変遷すなわち、進化という意味合いがでてくる。実際に、transformationから派生したtransformismには、「生物変移説」または「生物進化説」という訳語が当てられる。
 しかし、transformismはダーウィンの進化とちかって、環境に対する反応としてではなく、生物の内在的な力によって起こるものとする見方が根底にある。その理由の一つは、formにはアリストテレスの「形相/けいそう」という意味もあることだ(プラトンのイデアも英語ではform)。
 「形相」は私も十分に理解しているとは言いがたい哲学的概念であるが、ものの形は「質料」に「形相」が働きかけることによって実現するという関係がある。transformという言葉の背景に「形相」的な考え方が潜む余地があるのである。
 現代進化論の祖であるダーウィンは実のところ進化(evolution)という言葉をほとんど使っておらず、transmutation か decent with modification(変化を伴う由来)を使った。transmutationは一般に「転成」と訳され(『オックスフォード英語大辞典』によれば、このような用法の初出は、1926〔1626〕年のフランシスコ・ベーコンの『森の森』(Sylva sylvarum )である)、転成について考察したダーウィンの有名なノートが残っている。ちなみに17世紀には後成説とのからみで、evolutionを変態の意味で使っていた時期があった。 ・・・・以上・・・・


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  悩ましい翻訳語』5章進化論をめぐる思い違い
 進化論は過去に起こった出来事を対象にしていて、実験によって確かめることができないために、古代史と同じように、素人による異論がたえない。しかし、さまざまな状況証拠から、現在ではかなり確かな進化の道筋が明らかになっている。本章では、進化論にまつわる訳語の問題についてみてみよう。
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 1-2 自然選択 自然淘汰 natural selection (A)

  〔 「自然淘汰」の語義:ヨキモノヲ取り、不用ノモノヲ除クコト〕

 この言葉は、明治以降、ほとんどの人が「自然淘汰」(加藤弘之の造語とされる)と訳してきた。ところが、「淘汰」の字が1981(昭和56)年に告示された常用漢字表に含まれなかったために、自然選択への言い換えが推奨されることになった。文部省(当時)の学術用語集では、最初は「自然淘汰」と「自然選択」の両論併記たった(現在の増訂版では「自然選択」のみ)が、教科書では自然選択に統一されてしまう。
 八杉龍一訳の岩波文庫版『種の起原』でも、ずっと自然淘汰だったが、1990年に改版(現在流通しているもの)されたときに、教科書で使われていることを理由に「自然選択」に改められた。
しかし、私はこれに反対で、自分の翻訳では一貫して「自然淘汰」で通してきた。理由の第一は、この言葉がすでに歴史的に定着した訳語であり、先取権という観点からも、明確な根拠がなければ変えるべきでないということ。第二に淘汰が悪いものをふるい落とすという意味しかもたないから selectionの訳語にふさわしくないという意見を容認できないことである。
 もともと「淘」は水で洗う、「汰」は水が濁るという意味で、諸橋轍次の『大漢和辞典』でも、淘汰の意味は、一が「洗い清める。洗って選り分ける。精選する」、二が「すぐる。悪しきを去り、良きを取る」とある。
 また『唐詩選国字解』附言の用例では、淘汰を「砂にまじった金を水にひたしてよりわけ、真金にすること」と説明しており、明らかに良いものを選び取るという意味合いである。また大槻文彦の『大言海』にも「ヨキモノヲ取り、不用ノモノヲ除クコト」という語義が見える。

  〔 2. 自然淘汰:有利なものを選び出す場合と劣ったものを除く

 チャールズ・ダーウィンは「Dノート」(1838年9月28日付)で、selection の意味で sort out (篩(フル)い分け)を使っているし、『種の起原』では、 natural selection に、有利なものを選び出す場合と劣ったものを除く場合があることをはっきり述べており (第4章の冒頭、 This preservation of favourable variations and the the rejection of injurious variations, I call Natural Selection. 八杉訳では「有利な変異が保存され、有害な変異が棄てさられていくことをさして、私は〈自然選択〉と呼ぶのである」となっている)、この意味で淘汰こそがふさわしい。また、第三に、まさにそのゆえに選択という訳語は、良いものを選ぶ場合にしか適合しないから適切ではない。
 この学術用語集の影響で(ただし『岩波生物学辞典』は自然淘汰を採用しつづけている)、進化関係の啓蒙書では一時期「自然選択」という訳語が多数派を占めていたが、近年、自然淘汰派が勢いを盛り返しつつある。
 その理由の一つは、ワープロの普及によって漢字制限が無意味になってきたことだが、もう一つ大きな理由がある。それは進化生態学において、配偶者選択( mate choice )という概念が重要になってきたことだ。
 小鳥の美しい体色や飾りバネ、ライオンのたてがみ、鹿の角といった、主として雄にのみ特異的に見られる形質は、雌がそうした形質を基準にして雄を選ぶ(配偶者選択)から進化したという考え方があり、これを性淘汰( sexual selection )という。性淘汰を性選択と翻訳すると、配偶者選択による性選択という紛らわしい表現になってしまう。そこで、やはり自然淘汰に戻そうという動きが大勢を占めつつあるというわけなのだ。
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   悩ましい翻訳語』3章 人と自然を取り巻く闇
 生物学に人間がかかわる分野では、人間の自然に対する態度の変化によって、ものの見方は大きく変わってくる。それにともなって一つの単語が指し示す意味も変わってくる。
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  1-3 博 物 学 natural history  (A)
 
 これは、時代と状況によって訳し分けなければならない難しい言葉である。博物学という訳語は明治期につくられたもので、ヘボンの『和英語林集成』の慶応3(1897)年の初版および2版(1872年刊)に項目はないが、明治19(1886)年の3版には博物学がある。学科の名前としては博物学でいいとしても、この英語にはもっと多くの意味があり、訳語も状況によって変えなければならない。
natural historyは直訳すれば自然の歴史(history)だが、この historyが難物である。英語でもこの単語は歴史という意味という意味だけでなく、歴史学、および自然の叙述という意味ももっている。 History の語源はギリシア・ラテン語の historia( history + la で、学んで知ったこと )で、物語を意味するstory も historia から派生した言葉である。
 Historia はヘロドトスの『歴史』の書名(ただし複数形の historiai )でもあり、要するに戦記を中心とした歴史物語を表していた。その後より一般的な使われ方をするようになるが、用法は大きく二つに分かれる。一つは人間のかかわる社会の歴史および歴史学( historia hominis )で、もう一つが自然の歴史( historia naturae )であり、これが英語の natural history の由来である。

 natural historyは、自然に存在する事物についての学問で、広義には自然科学全般を指すが、狭義には、動植物や鉱物・鉱物・岩石・地質などを扱ういわゆる博物学を指す。方法としては収集・記載・分類が中心で、分析的な研究はあまりなされなかった。
 20世紀に入って近代的な自然科学分野が成立するとともに、伝統的な博物学は生物学、地質学などに分化していき、実質的に博物学は解体されてしまう。現代的な意味で natural histry という言葉が使われるときには、実験室での研究に対する野外(フィールド)での、主としてアマチュアによる観察を中心とした研究を意味し、ふつう自然史ないし自然誌あるいはカタカナで、ナチュラル・ヒストリーという訳語が当てられる。
 各国にある natural histry museum は、博物学的な内容を展示するものが多いが、 museumに博物館という訳語が当てられるため、「博物」の重複を避けて、自然史博物館と訳すのが通例になっている。
 博物学の成果を書物の形にまとめたものが博物誌で、歴史上、この名を持つ有名な書物がいくつもある。もっとも古く有名なのがローマ時代のプリニウスの『博物誌』(Naturalis Historia )だが、これも英語では Natural History と表記する。
 もう一つ有名な『博物誌』は18 世紀フランスの博物学者ビュフォンのもので、こちらの原題は Histoire naturelle, générale et particulière である。こちらも英語で言えば当然、natural history になる。ほかに、いまなお博物学的文学の古典として読み継がれている18世紀の英国人ギルバート・ホワイトの『セルボーンの博物誌』があるが、こちらの原題は The Natural History and Antiquities of Selborne である。
 もう一つ『にんじん』で知られるフランスの19世紀の作家ジュール・ルナールも『博物誌』 (Histories naturelles )という作品を書いている。というわけで、 natural history という言葉は、場合によって、博物学、博物誌、自然誌、自然史、そしてごく最近ではナチュラル・ヒストリー(自然史研究)などと、訳し分ける必要がある。

 博物学的研究をする人間は naturalist と呼ばれるが、これはさらに別の要素が加わって翻訳がむずかしい。ダーウィンの時代以前であれば、博物学者と訳すのが正しいが、現代では博物学そのものが存在しないので、ふつうはナチュラリスト、ないし自然研究者、あるいは自然愛好家くらいに訳さなければならない。
 実際の活動がわかっていれば、動物学者や植物学者としても差し支えない場合がある。なお、本来の語義からの転用で、 naturalist がペット商や剥製師を指すこともあるので、注意が必要である。
  naturalist が厄介なのは、この言葉が naturalism すなわち自然主義を奉じる人々をも指すことで、この自然主義というのが、きわめて多義的なのである。芸術における自然主義は、絵画・文学・演劇において、独自の様式を指すが、その内容は一様ではなく、さらに同じ文学の自然主義といっても、フランスと日本では大きく異なっている。
 ほかにも「自然」という言葉の多義性に応じて、無数の自然主義が存在する。しかし、ここはそれらのちがいについて論じる場ではない。科学に関係して論じておく必要があるのは、科学哲学における自然主義である。これは、人間の社会や行動、倫理、心理なども基本的には自然現象であり、自然科学的な方法によって解明できるとする立場で、哲学など人文諸科学の特権性を否定する。当然のことながら、哲学の側からは強い反発があり、人間的な事象は自然現象に還元できず、哲学的な方法が不可欠であると批判する。
 その象徴的なフレーズが「自然主義的誤謬」( naturalistic fallacy )である。これは、英国の哲学者ジョージ・エドワード・ムーアがつくった言葉で、簡単に言えば、自然科学的な事実から道徳的な価値を導くのは誤りだということになる。科学における還元主義、生物学で言えば、動物行動学や進化心理学における、「動物ではこうだから、人間でもこうなるはずだ」式の発言が、しばしば自然主義的誤謬として非難を受ける。

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 2-1 有機体 organism (B

  〔 独:Organismus , 生産有機体 Produktionsorganismus〕
  *ヘーゲル「有機体的な自然学ー動物的な有機体/- -人間有機体
  *『資本論』「人間有機体-社会的生産有機体
   渡辺一雄著「物質としての生命
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 オーガニズム(organism)は、派生語であるorganizationや organic、organize とともに非常に訳しにくい言葉であるが、生物学の文脈で出てくるときには、単に「生物」、あるいは「微生物」と訳していい場合が多い。この一連の単語の語根は organ で、「オルガン」「楽器」「器官」「機関」など多様な意味がある。語源はギリシア語のorganon で、やはり「道具」「手段」「器官」というような意味をもっている。それは単純な機関ではなく、特定の目的を達成するために多数の部分(パーツ)が有機的に組み合わされてできた複雑な機関という含意があり、そこからあらゆる意味が派生してきている。アリストテレスは自らの論理学について述べた著作に『オルガノン』というタイトルをつけているが、これは、論理学を学問の「道具」に見立てているわけである。
 そこでorganism だが、これはいろんな部分が寄り集まって、統一のとれた有機的実体となっているものを言い、「生物」はその典型であるが、まとまりのある組織一般については「有機体」と呼ぶことができる。/organization もほとんど同じような意味だが、こちらは動詞のorganize から生まれたもので、組織化され、構造化されたものであり、無生物について言われるときには、「組織」「体制」「機構」「編成」などの訳語がふさわしい場合が多く、生物については organism と区別するために「生物体」という訳が好ましいと思われる。もちろん、動詞からきた名詞なので、組織化」「構造化」といった使われ方もある。

 動詞のorganize には、「組織する」とか「編成する」という意味があるのは当然だが、「有機的関係を構築する」「系統立てる」「秩序立てる」「統合する」といった意味でも使われる。organizeする主体は organizer で、労働組合運動のオルグというのはorganizer の略語である。生物学では、発生学におけるオルガナイザー(形成体)という重要な概念がある。
 どれも、状況に応じて訳しわけなければいけないむずかしい単語なのだが、さらに厄介なのは形容詞のorganic である。これはもともとorgan の形容詞形なのだから、「生物の」「有機」(有機化学のような使い方)「器官の」「臓器の」(医学では「器質性」という訳語も使われる)といった訳でよかったのだが、20世紀後半から「有機農法( organic farming)」「有機肥料( organic fertilizer )」「有機野菜( organic vegetable )」といった用法から大きな変化が起きる。この「有機」だけが独立して、「オーガニック」と称して一人歩きをはじめたのである。
 「有機」というのは生物由来という意味で、有機化合物は生物が体の成分としてもつ化合物のことをいうが、体内には無機物もあるので、「無機」との境界は厳密ではない。一般には炭素を主成分とする化合物を有機化合物というが、ダイヤモンドや炭酸ガス、あるいは金属炭酸塩などは例外として無機物とされる。有機農法というのは、農薬や化学肥料の濫用がもたらす環境汚染が問題になりはじめるにつれ、心身と環境の安全のためにそういったものを使用しない、つまり有機肥料や有機薬品だけを使う農業として提唱されたもので、それでできた野菜が「有機野菜」ということになる。しかし、有機野菜や有機作物という言い方はorganic の本来の用法から逸脱している。なぜなら野菜も作物ももともと有機物で、無機野菜や無機作物などありえないからである。でも、ここまでは許容できなくもない。ただし、作物に有機野菜とかオーガニック野菜という表示をするためには、農林水産省の登録を受けた機関の認証による有機 JASの格付け審査を合格する必要がある。
 困ったことというのは、日本語の「オーガニック」という言葉が原義を遠く離れて、オーガニック・ライフがロハスと同様な意味で使われるようになっていることだ。ロハス(LOHAS)というのは Lifestyles Of Health And Sustainability の略で、健康と持続可能性を重視するライフスタイルのことで、「有機的」とは関係がない。本来の「生物由来」という意味とは無関係に、新興住宅地を「オーガニックタウン」と名づけるような誤用がまかり通っているのは、嘆かわしいことである。(『厄介な翻訳語』5章 智に働けば角が立つ)

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  2-2 自然の経済 economy of nature (B)

 これは非常に訳しづらい成句である。economyは経済で、economics は経済学に決まっているだろうと思う人がいるかもしれないが、どっこいそうではないのだ。・economy の語源はギリシア語の「家」を意味する oikos と「管理」を意味する nomos で、合わせて「家計」ということになる。ちなみにnomosは、次項で述べるecologyの語源でもある。現在の英和辞書でeconomyには、「節約・倹約」「経済・家計・財政」「理法・秩序」「摂理・経綸」といった訳語が当てられている。これだけの意味がどうして一つの単語から出てくるのか、その理由を知る必要がある。
 語源からわかるように、原義は「家計」あるいは「家政」である。この意味でのeconomyという単語がはじめて使われたのは、15世紀の修道院の家計つまり経営管理においてであったとされる。家計の極意はやりくり、無駄をなくし必要不可欠な支出だけに抑えるということで、そこから節約・倹約という意味が出てくる。一方で、財産管理という意味が拡大されて、管理一般、経済行政という意味をもつようになった。節約は無駄がないということであり、整然たる体制や秩序の証でもある。一方で神学者たちは以前からラテン語のoeconomiaが「神の定めた秩序」「神の摂理」という意味で使っていたこともあって、17世紀ころにはeconomyが「神の英知による自然の秩序」を表す言葉となっていた。
 近世において博物学者が、economyという単語をどう使っているかを、ギルバート・ホワイ卜の『セルボーンの博物誌』(1789年刊行)で見てみよう。全部で、七か所ほどeconomyいう単語が出てくるが、最初は、economy of providence(第1巻、第17信)で、オタマジャクシがカエルになると尾が消え、脚が出てくることが、驚嘆すべき「神の摂理」だという使い方である。二つ目は動物のeconomy(第1巻、第33信)という用法で、properties, propagation, conversation などと並列されているので、非常にうまくできた「体のつくり」、すなわち体制を指しているようである。三つ目は domestic economy (第2巻、第26信)で、これは文字通り家計で、ここでは「日常のやりくり」というような意味合いである。四つ目はrural economy(第2巻、第26信)で、「田舎のつましい暮らしぶり」、あるいは「田舎の経済観念」といったところだろう。五つ目が本命のeconomy of nature (第2巻、第46信)で、これについてはあとで詳しく論じよう。六つ目はコオロギのeconomyを調べる(第2巻、第46信)という用法で、ここも「体のつくり」を意味している。最後もまた domestic economy (第2巻、第48信)だが、前後の文脈から、「日々の暮らし」「日常生活」というほどの意味のように思われる。このように、当時にあっては、今日の「経済」という使われ方はほとんどされていないのである。

 そこで問題のeconomy of nature だが、この成句は1658年に英国のチャールズ1世の廷臣、サー・ケネルム・ディグビー(1603-65)がはじめて使ったとされ、神が被造物である自然をいかに巧妙に統御しているかということを表す言葉だった。これが世間に流布するにあたってリンネの論文 “Oeconomia Nature”(1749年)が大きな役割を果たした。このラテン語の表題が意味するところは、あらゆる生物が相互に密接に関連しあっていて、すべてに無駄がない。多すぎる草食動物の子供は肉食動物の餌になるように配剤されているのであり、余分なものも足らざるものも一つとしてない。そうした秩序によって自然の平衡が保たれているということであ った。当然のことながら、そのように神が創造したのであり、神の摂理なのだという前提があった。この論文はラテン語で書かれていたが、1759年には英訳が出版されていて、ひろく読まれ、ホワイトやダーウィンもその影響を受けて、この成句を使っている。
  ダーウィンはもちろん、自然が神によって創造された静的な秩序をもつとは考えず、生存競争を通じて動的に均衡が保たれていると考えていたので、リンネとまったく同じ意味でeconomy of nature を使いはしなかった。
  『種の起原』(初版)には、9回、この成句が使われているが、そのうちの8回は places in economy of nature という形で使われている。これは自然の有機的な関係の連鎖のなかにおける位置のことで、現代の生態学用語で、ニッチ(niche)あるいは生態的地位と呼ばれるものにほかならない。残りの一回は単独で使われているが(第2章)、ここでも自然の有機的な関係の総体という意味で使われている。したがって、ダーウィンがeconomy of nature で表そうとしたのは、自然界における食うものと食われるものの関係をはじめとして相互の依存によって保たれている関係なのであり、「自然の経済」という訳語はかならずしも適切とはいえない。それならば代案を出せと言われそうだが、なかなかピッタリの訳語がない。あえて言えば、「自然の有機的関係」くらいだろう。場合によっては「自然の理法」がふさわしい場合があるし、より現代的な文脈では、生態学そのものが経済学の用語を数多く取り入れていることもあって、「自然の経済」が適訳となる場合もある。いずれにせよ、こうした歴史の垢がこびりついた言葉は翻訳がむずかしい。(『悩ましい翻訳語』5章 智に働けば角が立つ)

  2-3 エコロジー ecology (B)

 話のついでとして、同じギリシア語の oikos を語源にもつ ecology について触れないわけにはいかない。この英語には「エコロジー」と「生態学」という二つの訳語があるが、日本語としてはまったく異なる意味をもつ。・ecology (原語はドイツ語で Ӧkologie )が1866年にドイツの発生学者エルンスト・ヘッケル(1834-1919)によって造語されたものであることはよく知られている。ヘッケルは熱烈なダーウィン主義者で、「非生物的環境と生物的環境のあいだのすべての関係、すなわち生物の家計(ドイツ語でHaushalt)に関する科学であり、ダーウィンが生存競争における諸種の条件と呼んだ複雑な相互関係のすべてを研究する学問」と定義した。すさしく、economy of nature の研究なのである。実際に『オックスフォード英語大群典』(OED)のecologyの項には二つの意味が書かれていて、第一は日本語の「生態学」を指すもので、その説明として、 the science of the economy of animals and plants としてある。
 一時期、ecology という言葉を最初に使ったのはヘンリー・ディヴィット・ソロー(1817-62)で、1858年の1月に従兄弟に宛てた手紙に書かれているという説が幅をきかせたことがある。実際にOEDの1972年版の4冊本の「補遺(supplement)」には、この説が採用され、初出はヘッケルでなく、ソローだとされた。しかし、のちにこれは手紙の文字のgeologyを ecologyと読みまちがえたものであることが判明し、1989年刊行の第二版本体に収録された ecologyの項で、誤りを認めて訂正されている。

 日本では1894年に日本寄生虫学の始祖である五島清太郎が、字義通りに「生計学」と訳したが普及せず、1895年に植物学者三好学が Biologie の訳語としてつくった「生態学」が定着することになった。また民俗学者南方熊楠は明治44(1911)年の柳田國男宛の手紙で、「植物棲態学」という訳語を用いているが、こちらも普及しなかった。
 生物学としての生態学は、ダーウィンが目指し、ヘッケルが明確に示したように、生物の相互関係を明らかにする学問である。生態学は現代生物学における一大分野を形成しており、生態系、生物群集、生態的ピラミッド、食物連鎖、ニッチ、遷移、共生といった用語は生物学の専門家以外にもひろく知られる言葉となっている。最近では、進化に焦点を当てた進化生態学や、自然保護の理論的支えとしての保全生態学などが大きな関心を集めている。
 OEDに載っているecologyの第二の意味は、日本語でエコロジーと翻訳されるもので、政治的な文脈における公害などの環境問題に関連して用いられ、とくに、西欧では環境運動や「緑の」運動を指す。こちらの源流はリンネ的な意味で economy of nature を使ったギルバート・ホワイトにさかのぼる。それは牧歌的あるいはロマン主義的といえるような自然観で、自然界の秩序のみごとさに対する称賛を出発点にするものだが、やがて、近代社会の開発がもたらす自然破壊に対する批判へと発展していく。とくに米国におけるギルバート的精神の継承者であるジョン・バローズ、デイヴィット・ソロー、レイチェル・カーソンといった人々において、その傾向はより強くなっていった。「エコロジー」的な考え方は、開発をもたらした近代的科学思想、機械論的で還元論的な考え方そのものに対する反発として、生気論的、全体論的な考え方に傾いていく。ときには近代科学としての「生態学」の成果を援用しながらも、全体としては反近代・反科学的な色彩の強いものである。
 同じギルバート・ホワイトやダーウィンの仕事から出発しながら現代の二つのecologyは、ずいぶんと遠く離れた地点へときてしまったものである。(『悩ましい翻訳語』5章 智に働けば角が立つ)

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  2-4 生物学 biology (B) 
 
    生物学という概念には二つの革命的な側面
    ・植物と動物を総合した生物という上位概念
    ・
生きた動植物を研究  →
「細胞理論の歴史」
          
 この訳語のどこが問題なのかと言われそうだが、じつは、英語の文献で「生物学」と訳すと不適切な場合がある。三好学がドイツ語のBiologie に生態学という訳語を当てたように、生態ないし生態学と訳した方がいい場合がしばしばあるのだ。
 現代的な生物学という言葉の創始者として、ほぼ同時代の三人の名があげられるのがふつうである。1800年にドイツ人のK・F・ブルダハ(1776-1847)、1802年にフランス人のJ・B・ラマルクとドイツ人のG・R・トレヴィラヌスが、それぞれドイツ語でBiologie、フランス語でbiologieという言葉をはじめて使ったとされている(言葉そのものだけなら、1766年にM・C・ハノフが本のタイトルに使っていたし、17世紀のドイツで Biologie は、biography[伝記] という意味でまれに使われていたらしい)。
 ブルダハは生理学者で、ある医学の教科書の脚注でBiologieという言葉をつくったが、そこでは、「人間の形態学的、生理学的、心理学的研究」を指していた。英国での最初の用例は1813年のJ・スタンフォードという人物によるものだが、そこでは、「biography [伝記、経歴] のほかに biologyとでも呼ぶべきものがある」と書かれていて、やはり人間の生物学的研究を意味していた。トレヴィラヌスの方は、『生物学すなわち生きた自然についての哲学( Biologie oder Philosophie der lebenden Natuer )』という実質的には分類学の本のタイトルとして使ったのだが、見ての通り生物哲学というニュアンスが濃厚である。

 ラマルクは『水理地質学』という本ではじめて、この言葉を使ったのだが、その内容を説明するものとして「生物学、すなわち生物の性質、能力、発達、および起源についての考察」と題する草稿を書いていたことが報告されている(グラッセ、1944)。その意味では、ラマルクがもっとも現代の生物学に近い意味で用いていることになる。
 18世紀にベーコンやデカルト、あるいはカントが科学というとき、生物学という分野は存在していなかった。当時生物学にかかわりのある学問としては、医学(生理学と解剖学を含む)、博物学、および植物学しかなかった。解剖学は人体解剖が主流であり、植物学も薬草としての関心が主であった。生物学にあたるものは、博物学に含まれたが、もっぱら記載的なものであり、それも神の設計を立証するための自然神学や自然哲学の一部として研究されている場合が多かった。ここでラマルクがつくりだした生物学という概念は、そうした実用的・応用的な目的のための生物学ではなく、生物の多様性に目を向け、なぜ、どのようにして、そのような生物が存在しうるのかを問うためのものだった。そうした問いの探求にはもちろん、チャールズ・ダーウィンがのちに、もっと本格的な形で取り組むことになる。

 生物学という概念には二つの革命的な側面がある。一つは動物学と植物学の統合である。アリストテレスは「生物学の父」とも呼ばれ、確かに科学的な生物学の先駆者と呼ぶにふさわしい業績を残しているが、彼の著作はほとんど動物に偏っていた。それに対してアリストテレスの弟子で、「植物学の父」と呼ばれるテオフラストスには動物についての著作はない。つまり博物学のなかで動物と植物は別の世界とされ、まったく異なった方法論で学問がなされていたのである(この傾向は20世紀の半ばまで、多かれ少なかれ続いており、古い大学の理学部には、生物学科ではなく、動物学科と植物学科があった)。
 ところが17世紀末のフックによる細胞の発見は植物と動物が同じ構造単位からなることを明らかにし、植物と動物を総合した生物という上位概念を考えずにはいられなくなった。また18世紀のeconomy of nature Sという見方に支えられた博物学的観察は、自然のなかで動物と植物が相互に影響を及ぼしあっていることを実感させ、両者を統合する視点を必要とした。さらにリンネによって最終的に体系化される近代的な分類学は、動物と植物を同じ原理で扱うことを可能にした。そしてラマルクは、無脊椎動物の分類学者として名高いが、じつはフランスの植物相に関する研究によってビュフォンに認められて自然史博物館の職につくことができたのである。植物と動物の両方に精通したラマルクにとって、生物学という見方は自然なものであった。
 生物学という言葉がもつ、もう一つの革命的な側面は、従来の死体、標本、化石といった本当の意味で「生きてはいない」対象から、生きた動植物を研究することへの転換、すなわち、「死んだもの」ではなく、「生きたもの」を相手にするという意味での生き物の学への転換であった。そのことは、先にあげたトレヴィラヌスの本の表題からもうかがうことができる。当然のことながら、生き物の学には現在の生物学のあらゆる分科が含まれたが、生さているということの強調として、生態学的な側面を指す場合が多かっか。ヘッケルは生物学のなかから生態学を切り離す目的でӦkologie という言葉をつくったのだが、依然としてbiologyは生態学という意味で使われることがある。たとえば、論文などで比較生態学 Comparative biology や繁殖生態 reproductive biology という言い方が今でもよく使われている。

 最後にもう一つ。Chemistry やphysiology の場合も同じだが、biology も、その学問によって知り得た法則や事実、性質といった意味をもつことも注意しなければならない。Chemistry を化学ではなく化学的性質(特徴ないし法則)、physiology を生理学ではなく生理学的性質、biology を生物学ではなく生物学的性質と訳すべき場合は、少なくないのである。(『厄介な翻訳語』5章 智に働けば角が立つ )

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