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資本論用語事典2021
資本物神と労働賃金
▼2020 資本論入門2月号-2 労働賃金と翻訳問題

(文献資料) 中山元訳 『資本論』 第6篇 労働賃金 

 カール・マルクス  『資本論』 経済学批判 第1巻  中山 元 訳
  日経BPクラシックス 2011年発行
           

 第6篇 労働賃金 ・・・労働力商品・物神性の現われ・・・

  第17章 労働力の価値または価格の労働賃金への転化
〔Verwandlung von Wert resp. Preis der Arbeitskraft in Arbeitslohn〕

 ■資本物神の発生現場からーはじめに 向坂訳 (岩波書店)から、読んでみましょう

 1. ブルジョア社会の表面においては、労働者の賃金は、労働の価格として、一定量の労働にたいして支払われる一定量の貨幣として、現われる erscheint。ここでは労働の価値ということが言われ、この価値の貨幣表現が、労働の必要価格、または自然価格と呼ばれる。他面では、労働の市場価格、すなわち、その必要価格を上下して変動する価格が論じられる。
 2. しかし、商品の価値とは何であるか? その生産において支出される社会的労働の対象的形態である。また、何によって、われわれは商品の価値の大いさを測るか? その中に含まれる労働の大いさによってである。しからば、たとえば12時間労働日の価値は、何によって規定されているだろうか? 12時間の1労働日に含まれている12労働時間によってである、これは馬鹿げた同義反復である(注21)。

 (注21) 「リカ-ドは、価値は生産に使用された労働の量に依存するという、一見彼の学説の障害となる恐れがあるように見える難点を、きわめて巧妙に避けている。もしこの原則が厳格に守られるならば、労働の価値は、労働の生産に使用された労働の量に依存するということになる―これは明らかに不合理である。そこでリカードは巧みに転回して、労働の価値を、労賃の生産に必要な労働の量に依存させる。あるいは彼自身の言葉で言えば、彼は、労働の価値は、労賃の生産に必要な労働の量によって評価されるべきである、と主張する。これによって彼の意味するものは、労働者に与えられる貨幣、または商品の生産に必要な労働の量である。これは、布の価値は、その生産に用いられた労働の量によってではたく、布と交換される銀の生産に用いられた労働の量によって評価されるべきである、というのと同じである」(〔S・ベイリー〕『価値の性質、尺度および原因にかんする批判的一論考』50・51ページ)。

 3. 商品として市場で売られるためには、とにかく労働は、それが売られる前に存在せねばならないであろう。しかし、労働者が労働に独立の存在を与えうるとすれば、彼は商品を売るのであって、労働を売るのではないであろう(注22)。
 (注22) 「諸君が労働を商品と呼ぶにしても、それは、交換するためにまず生産され、次いで市場に運ばれて、ちょうど市場に有り合わせる他の商品の相当量と交換されねばならない商品の如きものではない。労働はそれが市場に運ばれる瞬間につくられる。いな、それがつくられる前に市場に運ばれるのである」(『経済学におけるある種の言葉争いについての考察』75・76ページ)。〔岩波文庫(三)p.49〕
  ・・・中略・・・


 13. かくして、労働力の価値と価格を労働賃金の形態に、あるいは労働そのものの価値と価格に転化Verwandlungさせることの、決定的重要性が理解される。現実の関係を隠蔽して〔unsichtbar:目に見えない〕、その正反対を示すこの現象形態 Erscheinungsform こそは、労働者と資本家のあらゆる法律的観念、資本主義的生産様式のすべての瞞着 Mystifikation〔瞞着:ごまかすこと、だますこと。-この訳語は、大変な誤解をまねきます。-*ドイツ語の Mystifikationの原意は: mystifizierenすること、神秘化する。神秘のベールをかぶせること。
〕、そのあらゆる自由の幻想、俗流経済学のすべての弁護論的空論〔apologetischen Flause:弁護的ごまかし〕が、その上に立つ基礎なのである。
 14. 労働賃金の秘密〔Geheimnis:秘密、隠しごと〕を見破るには、世界史は多くの時間を要するとしても、この現象形態の必然性、存在理由 〔Gründe des Daseins:存在の根底、根拠〕ほど、理解しやすいものはないのである。〔岩波文庫(三)p.58〕

 ※第6篇労働賃金は、これから探究するように、第1章商品-商品物神の「外観(仮象)Schein」のキーワードを形成しています。

  ー*Mystifikationen:mystifizierenすること、神秘化する。神秘のベールをかぶせる。

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 図書案内 ※中山元訳『資本論』ーインタネット参照図書案内のPRより・・・
 訳者の中山元さんは独仏英の3ヶ国語に堪能なこともあり、ディーツ社のドイツ語版をベースに、ところによって分かりやすい仏語版を採用してもいる。編集面では、小見出しや改行、傍点を適宜加え、これまで剰余価値と訳されてきたMehrwertを「増殖価値」と改訳している。ともあれ、1920年に出た高畠素之の初訳以降の『資本論』翻訳史上に画期となる作品。

 訳者紹介記事よりー中山/元
 思想家・翻訳者。1949年生まれ。東京大学教養学部中退。インターネットの哲学サイト「ポリロゴス」を主宰(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)。カール・マルクス『ユダヤ人問題に寄せて/ヘーゲル法哲学批判序説』光文社古典新訳文庫、2014。  カント『純粋理性批判』(全7巻+別巻) 光文社古典新訳文庫、2010-2012。

分かりやすい翻訳箇所・例えば・現われる erscheint→見掛けのもとに現れるです。商品の物神性など、各翻訳者同士の比較研究に参照してください。・・・・



 中山元訳 『資本論』第6篇 労働賃金
         Der Arbeitslohn



  ■「労働の価値」という概念の矛盾

1. ブルジョワ社会の表層では、労働者の賃金は労働の価格という見掛けのもとに現れる。すなわち一定の量の労働にたいして支払われる一定の金額の貨幣という見掛けをとるのである。そこでは労働の価値という言葉が使われ、その価値を貨幣で表現したものが労働の必要価格または自然価格と呼ばれるのである。一方では労働の市場価格という表現が使われるが、これは必要価格よりも上か下に変動する価格である。
2.  しかしある商品の価値とは何か。商品を生産するために投じられた社会的な労働が、対象としての形態をとったものである。その価値の大きさはどのようにして計るのか。その商品のうちに含まれている労働の大きさによってである。それではたとえば12時間の労働日の価値はどのようにして決まるのか。それは12時間の労働日1日に含まれている12時間の労働によってである。これは何とも間の抜けた同義反復ではないだろうか(注21)。
3.  労働が商品として市場で売られるためには、売られる以前にいずれにしても労働が存在していなければならないだろう。しかし労働者が労働に、自分から独立した存在を与えることができるのであれば、労働者は商品を売っていることになり、労働を売っていることにはならないだろう(注22)。


4.  この矛盾を無視するとしても、生きた労働が貨幣と、すなわち対象化された労働と直接に交換されるならば、それは資本制的な生産を基盤として初めて自由に発達してきた価値法則を廃棄することになってしまう。あるいは賃金労働に依拠している資本制的な生産そのものを廃棄することになってしまうだろう。
12時間の労働日は、たとえば6シリングという貨幣価値で表現されるとしよう。それが等価物の交換であるならば、労働者は12時間の労働にたいして6シリングをうけとっていることになる。労働者の労働の価格は、生産物の価格に等しいだろう。すると労働者は、労働の買い手のために増殖価値を生産することはないだろう。その6シリングが資本に変容することはないので、資本制的な生産の土台が崩壊するだろう。しかし労働者はこの資本制的な生産の土台の上で自分の労働を売るのであり、この土台の上でこそ、彼の労働は賃金労働なのである。それでは労働者が12時間の労働にたいして6シリング以下のものしか、すなわち12時間の労働以下のものしか、うけとらないとしたらどうなるだろう。そのときはいわば12時間の労働が10時間の労働と、あるいは6時間の労働と交換されるということになってしまう。このように、等しくないものを等しいものと等置することは、価値の規定を廃棄することである。それだけではない。みずからを廃棄するこうした矛盾は、法則として表明したり、定式として示したりすることがそもそもできないのである(注23)。


5.  より多くの労働がそれよりも少ない労働と交換されるのは、片方が対象化された労働であり、他方が生ける労働であるという形態の違いによるものであるという説明が行われることもあるが、こうした説明は何の役にもたたない。ある商品の価値はそもそも、その商品に現実に対象化されている労働の量によって決まるのではなく、その生産に必要な労働の量によって決まるのであるから、この説明はさらにばかげたものである。
  ある商品が6時間の労働時間を表現しているとしよう。さまざまな発明のおかげで、この商品が3時間で生産できるようになったとすると、すでに生産されている商品であっても、その価値は半減する。かつての6時間ではなく、今はその商品の表現する社会的な労働時間は3時間にすぎない。このように商品の価値の大きさを決定するのは、その生産に必要とされる労働の量であり、その商品に対象化された労働の形態ではないのである。



  ■古典派経済学の誤謬

6.  商品市場で貨幣の所有者と直接に向き合うのは、実際には労働ではなく、労働者である。労働者が売るのは、彼の労働力である。彼の労働が始まると、その瞬間からその労働は彼のものではなくなり、彼がそれを売ることはできなくなる。労働は価値の実質であり、内在的な尺度であるが、労働そのものにはいかなる価値もない(注25)。
7.  「労働の価値」という表現には、価値の概念がまったく拭(ぬぐ)いさられているだけでなく、その反対のものに変わってしまっている。それは地球の価値のような空想的な表現である。しかしこうした空想的な表現は生産関係そのものから生まれたものである。本質的な関係の現象形態を示すカテゴリーなのである。現象のうちでは事物がしばしば転倒して示される。これは経済学をのぞいて、どの学問分野でもかなり周知のことがらである(注26)。


8.  古典派経済学は、いかなる批判もせずに日常生活から「労働の価値」というカテゴリーを借りてきて、それからこの価値がどのようにして決まるのかと考えた。しかし古典派経済学はやがて、需要と供給の法則では、他のすべての商品の価格と同じように、労働の価格を決定できないことに気づくようになる。需要と供給の関係の変化で説明できるのは価格の変動だけなのであり、市場価格がある一定の水準よりも上あるいは下に変動する理由を説明できるだけなのである。需要と供給が一致すれば、他の事情が同一ならば、価格の変動はとまる。しかしそうなるともはや需要と供給の関係では何も説明するものがなくなってしまう。需要と供給が一致すれば、労働の価格は需要と供給とは無関係に決まる自然価格になる。そしてこの自然価格こそが、そもそも分析すべきものだったことが発見されたのである。
  あるいは市場価格の変動をかなり長期間、すなわち1年をつうじて調べみると、その上下の変動は中間の平均的な値、すなわち不変な大きさに収斂することが発見された。この不変な大きさは当然ながら、この不変の大きさからの偏差(これらの偏差はたがいに相殺される)では決定することができず、別の方法で決めなければならないのである。
  この不変な大きさは、偶然的な市場での労働の価格を支配し、決定する役割をはたすものであり、労働の「必要価格」(重農主義者)とか「自然価格」(アダム・スミス)と呼ばれた。この価格は他の商品の場合と同じように、貨幣によって表現された価値でしかありえない。経済学はこのような方法で、労働の偶然的な価格をつうじてその価値に迫ることができると考えたのであった。
  その後、この価値は他の商品と同じように、その生産費用によって決定されるものと考えられた。しかし生産費用とは何か、労働者を生産する費用とは、労働者自身を生産し、再生産する費用とは何か。最初の問いに代わってこの問いが、経済学のうちに無意識に入り込んできた。というのも労働そのものの生産費用を問題にしても循環論に陥るだけで、先に進めなくなったからである。
  経済学が労働の価値(ヴァリュー・オブ・レイバー)と呼んでいるものは、実際には労働力の価値であり、その労働力は労働者の人格のうちに存在するものであり、その機能である労働とは違うものである―。機械が、機械の作用とは違うものであるのと同じように。経済学では、労働の市場価格と労働のいわゆる価値との違いは何か、この価値と利潤率はどのような関係にあるのか、この価値と、労働によって生産された商品価値はどのような関係にあるのかといった問題に取り組んでいた。しかし分析を進めているうちに、分析の対象が労働の市場価格から労働の価値と呼ばれるものに変わってしまったこと、そしてこの労働そのもの価値が労働力の価値のうちに解消されてしまったことに気づかなかったのである。

  いずれ検討するように、古典派経済学がこのように、解きがたい混乱と矛盾のうちに巻き込まれたのは、自分たちの分析の結果にあまりにも無頓着であり、考察している価値関係の最終的な適切な表現として、「労働の価値」や「労働の自然価格」などのカテゴリーを無批判的にうけいれたからである。そしてこれが、原則として表層的なみかけしか重視しない俗流経済学にとっては、考察のための確固とした土台となったのである。



  ■労働賃金に示された労働力の価値と価格

9.  ここではまず、労働力の価値と価格がどのように変化して、労働賃金のうちに表現されるようになるかを調べてみよう。
10.  すでに考察してきたように、労働力の1日あたりの価値は、労働者の一定の寿命に基づいて計算されるのであり、その寿命には一定の労働日の長さが対応している。たとえばその土地で習慣として行われている労働日を12時間、労働力の1日あたりの価値を3シリングとしよう。その3シリングは6労働時間を表わす価値の貨幣表現であるとしよう。労働者が3シリングをうけとると、12時間にわたって機能する彼の労働力の価値をうけとったことになる。
  この労働力の1日あたりの価値を〈1日の労働の価値〉と呼ぶことにすれば、「12時間の労働は3シリングの価値をもつ」と表現することができる。このように労働力の価値は、“労働の価値”を決定する。あるいは貨幣表現で言えば労働の必要価格を決定するのである。これにたいして、労働力の価格がその価値と一致しない場合には、労働の価格も、労働のいわゆる価値とは一致しなくなる。

11.  労働の価値は、労働力の価値を不合理な形で表現したものにすぎない。そこで労働の価値が労働の価値生産物よりもつねに小さくならざるえないのは明らかである。というのは、資本家はつねに労働力を、労働力の価値の再生産に必要な時間よりも長く機能させるからである。前の例では、12時間つづけて機能する労働力の価値は3シリングである。この価値を再生産するためには、6時間の労働力を必要とする。ところがこの労働力が生みだす価値生産物は6シリングである。この労働力は実際には12時間にわたって機能したのであり、その価値生産物は労働力自身の価値によってではなく、その機能が継続された時間の長さで決まるからである。こうして、6シリングの価値を生みだす労働が3シリングの価値しかないという、一見したところばかげた結論がえられたのである(注27)。



  ■奴隷労働と賃金労働の違い

12.  さらに次のことが明らかになる。3シリングの価値のうちには、労働日のうちの支払労働の部分、すなわち6時間の労働が表現されているが、これが6時間の不払労働の時間を含む12時間の労働日全体の価値または価格として現われる。つまり労働賃金という形態は、労働日が必要労働と増殖労働に分割され、支払労働と不払労働に分割されるという痕跡をまったく拭いさってしまうのである。すべての労働が支払労働であるかのように現れてくる。
  賦役労働であれば、賦役労働者が自分のために行う労働と、領主のために行う強制労働は、空間的にも時間的にも、感覚的に明確に区別されている。奴隷労働においては、奴隷が自分自身の生活手段の価値を作りだしている労働日の部分、すなわち奴隷が実際には自分のためには働いている労働日の部分までもが、その主人のための労働として現れる。奴隷のすべての労働は、不払労働として現れるのである(注28)。
これとは逆に賃金労働という形態にあっては、増殖労働〔剰余労働〕すなわち不払労働も、支払労働として現れる。〔Bei der Lohnarbeit erscheint umgekehrt selbst die Mehrarbeit oder unbezahlte Arbeit als bezahlt.〕 奴隷労働においては所有関係によって、奴隷が自分自身のために働いていることが隠蔽されるが、賃金労働では貨幣関係によって、賃金労働者が無償で働いていることが隠蔽されるのである。



  ■労働賃金の現象形態 Erscheinungsform

13.  このようにして、労働力価値と価格が労働賃金の形に変化すること、労働そのものの価値と価格に変化することが決定的に重要であることが分かる。この現象形態は、実際の関係をみえなくしながら、まさにその反対の姿を提示するのである。この現象形態を土台として、労働者と資本家についてのあらゆる法的な概念が生まれ、資本制的な生産様式のあらゆる神秘化が行われ、自由についてのあらゆる幻想が生まれ、俗流経済学のあらゆる護教的な詭弁が成立する。


  ・・・  ・・・・   ・・・

  -翻訳問題の研究

(1) このようにして、労働力価値と価格Wert und Preis der Arbeitskraftが労働賃金の形にin die Form des Arbeitslohns 変化する Verwandlungこと、労働そのものの価値と価格に変化する 〔Verwandlung 姿を変える-変身する-〕 ことが決定的に重要であることが分かる。
  Man begreift daher die entscheidende Wichtigkeit重要性 der Verwandlung 変身・変貌von Wert und Preis der Arbeitskraft in die Form des Arbeitslohns oder in Wert und Preis der Arbeit selbst.

(2) この現象形態は、実際の関係をみえなくしながら、まさにその反対の姿を提示するのである。
   Auf dieser Erscheinungsform, die das wirkliche Verhältnis unsichtbar macht und grade sein Gegenteil zeigt,
(3) この現象形態を土台として、労働者と資本家についてのあらゆる法的な概念が生まれ、
beruhn alle Rechtsvorstellungen des Arbeiters wie des Kapitalisten,
(4) 資本制的な生産様式のあらゆる神秘化が行われ、
  alle Mystifikationen der kapitalistische Produktionsweise,

  ・・・・・   ・・・・   ・・・・


14.  世界史は、労働賃金の秘密 Geheimnis des Arbeitslohns を説き明かすために長い時間をかけたが、この現象形態の必然性Notwendigkeit〔ヘーゲル小論理学 §177 必然性の判断 Urteil der Notwendigkeit〕とその存在理由 <Gründe des Daseins> ほど、たやすく理解できるものはないのである。

15.  資本と労働のあいだの交換は、最初は他のすべての商品の購入および販売と同じ種類のものとして知覚される。買い手がある一定の金額の貨幣を[売り手に]与え、売り手は貨幣とは違う物を[買い手に]販売する。法的な意識からみると、ここにはせいぜい素材の違いしか存在しない。これは法的には「汝が与えんがために我は与える。汝がなさんがために我は与える。汝が与えんがために我はなす。汝がなさんがために我はなす」という等価な公式である。

16.  さらに交換価値と使用価値は、それ自体としては通約することのできない量である。そのため「労働の価値」や「労働の価格」という表現は、「綿花の価値」や「綿花の価格」という表現と同じように合理的なものにみえる。しかも、労働者が支払いをうけるのは、働いた後であるという事情も加わる。その場合には支払手段として機能する貨幣は、供給された物、この場合には供給された労働の価値あるいは価格を、[その物をうけとった]後になってから現実のものとするのである。  最後につけ加えておけば、労働者が資本家に供給する「使用価値」は、実際には彼の労働力ではなく、労働力の機能であり、具体的には裁縫労働、製靴労働、紡績労働などの一定の有用労働である。この同じ労働が他面からみると一般的な価値形成要素なのである。これが労働が他のあらゆる商品と異なる特徴であるが、この特徴は通常は意識されない。


17.  ここで12時間労働の対価として、たとえば6時間労働の価値生産物である3シリングをうけとる労働者の立場に立ってみよう。彼にとっては実際に、12時間の労働は3シリングを購入するための手段である。彼の労働力の価値は、彼が習慣的に購入する生活手段の価値が変動すると、3シリングから4シリングに増えるかもしれないし、3シリングから2シリングに減るかもしれない。あるいは彼の労働力の価値が同一であっても、需要と供給の関係の変化によって、その価格は4シリングに増えたり、2シリングに減ったりするかもしれない。 いずれの場合にも彼は12時間の労働を提供する。彼がうけとる等価物の大きさが変動すると、彼にとっては自分の12時間の労働の価値ないし価格が変動したものとして現れるのは必然的なことである。この事情のために労働日は不変であるとみなすアダム・スミスは(注29)、反対に次のような主張をするようになった。すなわちスミスは生活手段の価値は変動するかもしれないし、同じ労働日が労働者にとっては多くの貨幣として現れるか、少ない貨幣として現れるかもしれないが、労働の価値は不変であると主張したのである。

18.  次に、資本家の立場に立ってみよう。彼はできるだけ小額の貨幣で、できるだけ多くの労働を獲得しようとする。そのため彼が実際に関心をもつのは、労働力の価格と、労働力の機能が生みだす価値のあいだの差額だけである。しかし資本家はすべての商品をできるだけ安価に購入したいと考えている。そして自分が利潤を手にするのは、いつでも実際の価値よりも安く購入して、実際の価値よりも高く販売するといういわば単純な<いんちきPrellerei〉によってであると考えているのである。そのため資本家は、もしも労働の価値というものが実際に存在していて、彼が実際にその価値に支払いをしているならば、資本は存在しえず、彼の貨幣は資本に変容しないことを洞察できないのである。

19.  さらに労働賃金の現実の運動が作りだすさまざまな現象 Phänomene からは、支払いの対象となっているのが労働力の価値ではなく、労働力の機能の価値、すなわち労働そのものの価値であることを証明しているようにみえる。これらの現象は大きく分けて二つのグループに分類できる。
  第一は、労働日の長さが変化すると、労働賃金の額が変動することである。機械について考えてみると、機械を1週間だけ賃借するには、1日だけ賃借するよりも高い費用がかかる。そこで支払いの対象となっているのは機械そのものではなく、機械の機能の価値であることが結論できる[そして労働賃金も同じように考えてしまうのである]。
  第二は、労働者の賃金は、たとえ同じ機能をはたす仕事についていても、個人ごとに異なることである。このような違いは奴隷制にもみられるが、奴隷制では労働力そのものがいかなる迷彩もほどこさずにそのまま正直に、公然と売られるので、そこに幻想が入り込む余地はない。ただし奴隷制では、奴隷の労働が平均を上回った場合の利益も、平均を下回った場合の損害も、奴隷の所有者にかかってくるが、賃金労働のシステムでは、それが労働者にかかってくるという違いがある。なぜなら労働賃金の場合には労働力を売るのは労働者自身であるが、奴隷制の場合には第三者が売るからである。

20.  いずれにしてもこの「労働の価値と価格」とか「労働賃金」という現象形態は、現象の背後にある本質的な関係、すなわち労働力の価値と価格とは異なるものである。そしてあらゆる現象形態とその隠された背景について語りうることが、この労働賃金という現象形態にもあてはまる。すなわち現象形態はありきたりな思考形態として、直接にひとりでに再生産されていくが、その隠された背景は、科学によって初めて発見されなければならないのである。古典派経済学は、事態の真実にかなり近づいているが、それを意識的に表現していない。ブルジョワ的な覆いのうちに安住しているかぎり、古典派経済学にはそれができないのである。


 〔原注〕
  (21) 「リカード氏は、価値は、生産に投じられた労働の量によって決まるという彼の理論に反するようにみえる難問を、きわめて巧みに回避している。もしもこの原則を固守すると、労働の価値は労働の生産に投じられた労働の量によって決まるということになるが、これは明らかに無意味である。そこでリカードはすばやく方向を転換し、労働の価値を決めるのは、労働賃金の生産に必要な労働量であると主張した。彼自身の言葉を借りると、労働の価値は労働賃金の生産に必要な労働量で評価する必要があるというのである。ここで労働量というのは、労働者に与えられる貨幣や商品を生産するために必要な労働の量ということである。これでは、布の価値はその生産に投じられた労働量ではなく、その布と交換される銀の生産に投じられた労働量によって評価すべきだというのと同じである」([S・ベイリー]『価値の性質、尺度および原因に関する批判的な試論』 50、51ページ)。


(22) 「諸君が労働を一つの商品と呼ぶとしても、労働は商品とは似ていないではないか。商品というものは、交換を目的として生産され、それから市場にもちこまれ、そこでたまたま市場にある別の商品と、適切な比率で交換しなければならないもののことである。しかし労働は市場にもちこまれた瞬間に作られる。いや、労働は作られる前から、市場にもちこまれるのである」(『経済学におけるある種の言葉争いについての考察』 75、76ページ)。

(23) 「労働を一つの商品として扱い、労働の生産物である資本を別の商品として扱うとしよう。この二つの商品が等しい労働量によって決まるとすれば、ある決まった量の労働が、……その同じ労働量によって生みだされる量の資本と交換されるということになるだろう。そのときには過去の労働が……現在の労働と同じ額で交換されるということになる。しかし他の商品との関係における労働の価値は、……等しい労働量によっては決定されない」(アダム・スミス『国富論』、E・G・ウェイクフィールド版、ロンドン、1835年、第1巻、230、231ページのウェイクフィールドによる注)。


(24) 「すでに行われた労働が、これから行われる労働と交換される場合には、つねに後者が(資本家のことである―マルクス)、前者(労働者のことである―マルクス)よりも高い価値をうけとるべきであることに合意すべきである(これもまた新たぶ社会契約である―マルクス)」シモンド・ド・シスモンディ『商業的な富について』ジュネーヴ、1803年、第1巻、37ページ)。

(25) 「労働は価値の唯一の基準であり、……あらゆる富の創造者であるが、商品ではない」(トマス・ホジスキン『通俗経済学』 186ページ)。

(26) こうした表現をたんなる詩人の自由として説明するのは、分析の無力さを示すものにほかならない。プルードンは「労働に価値があるのは、それがほんらいの意味での商品であるからではなく、そのうちに潜在的に含まれていると信じられている価値によってである。労働の価値とは比喩的な表現なのである」と語る。そこでわたしは[『哲学の貧困』において]次のように指摘した。「恐るべき現実である労働という商品のうちに、プルードンはたんなる文法的な省略文しかみようとしない。労働という商品の上に成立している今日の社会が、いまや詩人の自由のうちに、比喩的な表現のうちに根拠づけられているというのである。社会が<すべての不都合をとりのぞきたい〉と悩んでいるのであれば、社会は耳障りな言葉をとりのぞき、言語を変えればよいということになる。そのためにはアカデミーに依頼して、新しい版の辞書を発行してもらえばすむことである」(カール・マルクス『哲学の貧困』 34、35ページ。邦訳は前掲の全集4巻、86ページ)。
  もちろんもっとも手軽な方法は、価値の意味などについて何も考えないことである。そうすればすべてのものをこの価値のカテゴリーに含めることができる。たとえば J・B・セーのように。「価値とは何か」。答えは「それはあるものが値するところのものである」。では「価格とは何か」。答えは「それはあるものの価値を貨幣で表現したものである」。ではなぜ「土地の労働は…価値をもつのか。それは人々がそれに一つの価格を認めるからである」。すると価値とはあるものが値するところのものであり、土地が「価値」をもつのは、人々がそれを「貨幣で表現する」からである、ということになる。いずれにしてもこれは「なぜ」と「何のため」について理解するためのきわめて手軽な方法である。


(27) 『経済学批判』 40ページ参照。ここでわたしは資本を考察する際には、次の問題を解決する必要があることを予告しておいた。「たんなる労働時間によって決定される交換価値を土台とする生産から、労働の交換価値が労働の生産物の交換価値よりも小さいという結果がどのようにして生じうるのか」(邦訳は前掲の全集第13巻、46ページ)。

(28) 愚かしいほどに素朴なロンドンの自由貿易主義の機関紙 『モーニングースター』 は、アメリカの南北戦争のあいだに、人間として可能なかぎりの道徳的な憤慨の念をもって、「南部諸州」の黒人奴隷がまったく無償で働いていることを何度も繰り返して強調していた。同紙は、こうした奴隷を維持するために毎日かかる費用を、ロンドンのイーストエンドの自由労働者がみずからを維持するためにかかる費用と、一度は比較してみるべきだったのである。

(29) スミスが労働日の変動を考察したこともないわけではないが、それは出来高賃金について、たんに偶然的な形でふれただけである。

 訳者の注
 マルクスはここで Do ut des, do ut facio, facio ut des, (und) facio ut facias. と、ラテン語で表記している。


  ・・・以上で、終わり・・・