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『資本論』初版と
 ヘーゲル論理学・形式内容Forminhaltの研究
 2020.05.01


 (1) 『資本論』 初版 岡崎次郎訳 1976年 大月書店発行
 (2) 
形式 Form-内容 Inhalt ・ヘーゲルと『資本論』の対比 (作成中)
     1. 解説 島崎 隆 『ヘーゲル用語事典』
     2. 『経済学批判』-ヘーゲル論理学の応用事例 (作成中)
 (3) 
『資本論』 初版  参考資料 (原本・ドイツ語)

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 (1) 
『資本論』 初版 第1章商品と貨幣(1)商品  p.50-52

     岡崎次郎訳 1976年 大月書店発行



 〔新しい役割 neue Rolle-質的規定 qualitative Bestimmung の出現
    -
実現形態 Verwirklichungsform 〕 


51. われわれは、ここにおいて、価値形態〔Werthform 価値の形式〕の理解を妨げるあらゆる困難の噴出点に立っているのである。商品の価値を商品の使用価値から区別するということ、または、使用価値を形成する労働を、単に人間労働力の支出として商品価値に計算されるかぎりでのその同じ労働から区別するということは、比較的容易である。商品または労働を一方の形態/形式において考察する場合には、他方の形態/形式においては考察しないのであるし、また逆の場合には逆である。これらの抽象的な対立物 〔abstrakten Gegensätze 抽象的にとらえた対立〕 はおのずから互いに分かれるのであって、したがってまた容易に識別されるものである。

商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態〔価値の形式〕の場合はそうではない。使用価値または商品体はここでは一つの新しい役割 neue Rolle を演ずるのである。それは商品価値の現象形態 Erscheinungsform des Waarenwerths に、したがってそれ自身の反対物に、なるのである。それと同様に、使用価値のなかに含まれている具体的な有用労働が、それ自身の反対物に、抽象的人間労働の単なる実現形態に、なる。ここでは、商品の対立的な諸規定が別々に分かれて現われるのではなくて、
互いに相手のなかに反射し合っている。こういうことは、一見したところではあまりにも奇妙であるとはいえ、いっそう綿密に熟慮してみれば、必然的であることが判明する。

商品は、もともと、一つの二重物で使用価値にして価値、有用労働の生産物にして抽象的な労働凝固体〔 abstrakte Arbeitsgallerte : 労働膠状物〕なのである。それゆえ、自分をあるがままのものとして表わすためには、商品はその形態を二重化しなげればならないのである。使用価値という形態のほうは、商品は生まれつきそれをもっている。それは商品の現物形態 〔 Natural
form 自然形態〕である。価値形態 〔 Werthform : 価値の形式 〕 のほうは、商品は他の諸商品との交際においてはじめてそれを得るのである。ところが、商品の価値形態は、それ自身もまたやはり対象的な形態でなければならない。諸商品の唯一の対象的な諸形態は、諸商品の使用姿態 〔Gebrauchsgestalten : 使用態容〕であり、諸商品の現物形態である。

ところで、ある商品の、たとえばリンネルの、現物形態は、その商品の価値形態の正反対物であるから、その商品は、ある別の現物形態を、ある別の商品の現物形態を、自分の価値形態 〔価値の形式〕 にしなければならない。その商品は、自分自身にたいして直接にすることができないことを、直接に他の商品にたいして、したがってまた回り道をして自分自身にたいして、することができるのである。その商品は自分の価値を自分自身の身体において、または自分自身の使用価値において、表現することはできないのであるが、しかし、直接的価値定在としての他の使用価値または商品体に関係することはできるのである。その商品は、それ自身のなかに含まれている具体的な労働にたいしては、それを抽象的な人間労働の単なる実現形態Verwirklichungsform として関係することはできないが、しかし、他の商品
種類 () Waarenartに含まれている具体的な労働にたいしては、それを抽象的な人間労働の単なる実現形態Verwirklichungsform として関係することができるのである。そうするためにその商品が必要とするのは、ただ、他の商品を自分に等価物として等置する、ということだけである。

一商品の使用価値は、一般にただ、それがこのような仕方で他の一商品の価値の現象形態として役だつかぎりにおいてのみ、この他の商品のために存在するのである。もし簡単な相対的な価値表現 x量の商品A=y量の商品B のなかにただ量的な関係だけを見るならば、そこに見いだされるのは、やはりただ、前述の、相対的価値の運動に関する諸法則だけであって、これらの法則は、すべて、諸商品の価値の大きさはそれらの商品の生産に必要な労働時間によって規定されている、ということにもとづいているのである。しかし、
両商品の価値関係をその質的な側面から見るならば、かの単純な価値表現のなかに価値形態の、したがってまた、簡単に言えば貨幣形態の、秘密を発見するのである(20)
   
   
(20)ヘーゲル以前には専門の論理学者たちが判断および推論の範例(*編集部注)の形態内容〔Forminhalt 形式内容〕をさえも見落としていたのだから、経済学者たちが、まったく物的な関心に影響されて、相対的な価値表現の形態実質 Formgehalt を見落としてきたということも、驚くにあたらないのである。   〔編集部注:内容と形式、Inhalt<Gehalt>und Form〕


 (*編集部 注) 判断および推論(推理)の範例
  ヘーゲル「小論理学」 判断§166、 推理§181 参照



 (2) 形式Form-内容Inhaltヘーゲルと『資本論』の対比 (作成中)
     1. 解説 島崎 隆 『ヘーゲル用語事典』


  
形式Form-内容Inhalt
 
 解説 島崎 隆 ヘーゲル用語事典 - 根拠、根底、質量 -

 
一般的説明
  「内容」とは常識的にはそれ自身として存在している素材ないし中身を意味する。「形式」とは、そうした内容を入れる容器や枠組みのようなものとみられる(マルクス経済学では、「形式」の代わりに「形態」とよぶ→〔呼ばれている。資本論ワールドではFormの訳語として、形式と形態の両方を文脈により適宜使い分けすることを提唱している。〕)。たとえば、ロミオとジュリエットの悲恋はそれ自身としてひとつの具体的な内容であり、それが詩や小説のジャンルで表現されることは形式にかかわることである。このさい、いくつかの形式に共通するものとして、ないし形式に無関与なものとして内容は考えられている〔が、〕ヘーゲルはこうした考え〔が世間一般にあること〕を前提しながら、内容と形式の密接な関連を探っていく。
 内容と形式の関係については、『大論理学』では「根拠」の章〔第3章根拠A絶対的根拠(a)形式と本質(b)形式と質料(c)形式と内容〕で扱われ、これにたいし、「小論理学」では、さらにそのあとの「現象」論で展開される。

 
形式と本質    〔『資本論』価値形態論における「形態」を「形式」と読み替える
           なお、(*注・・)は、編集部の注記。〕

  『大論理学』では、①形式と本質、②形式と質料、③形式と内容という三段階の展開がみられる。そもそも本質の論理としての反省は、対立の規定にみられたように、他者を含んではじめて自己の存立を獲得する運動であった。根拠の規定もその反省の運動を内包しており、《根拠(Grund)》は根拠づけられるものを媒介してこそ根拠といえるのである。つまり、或るものを根拠づけてはじめてそれは根拠としての実を示す。
  だが、根拠はこの反省運動のほかに、しっかりした、安定した《根底(Grundlage)》を獲得している。ここに、たんなる反省の論理と「根拠」の区別がある。いまや、この不動の動者(自分は動かず、他者を動かすもの)である根拠(根底)こそ本質とみられ、そこを舞台として生ずる運動こそ形式(化作用)なのである。形式とは、じつは固定したものでなく、事物にたいし運動するシステムと合目的性格を与える活動である(
*注1)。こうして、「根拠」は区別を産出する反省の運動と、そこに安定的にみられる自己同一性(根底)との統一である(*注2)。

(*注1) 『資本論』第3節「価値形態または交換価値」では、第1形態の単純な価値形態から第4形態貨幣形態まで、事物(価値)にたいし運動するシステム(価値方程式)の活動を対象として分析している。
(*注2) 「根拠」のドイツ語は「Grund」であるが、マルクスはヘーゲル論理学を援用して『資本論』第3節に「亜麻布=上衣 ということは、方程式の基礎(Grund:根拠、理由)である。(岩波文庫p.93)」と解説している。

  ところで、ヘーゲルでは、
形式(事物に形式を与える運動)は事物を動かす能動的なものであり、これがじつは反省の運動と同義であった。[それゆえに、形式は反省の完成した全体である](「大論理学」)。プラトン、アリストテレス以来の観念論の伝統によれば、イデア(形相=形式)は事物を動かす主体的な原理であり、これにたいし、物質的なもの(質料)はもっぱら受動的なものであり、形相が加わってはじめて運動すると主張される。
ヘーゲルはこの観念論的伝統を受け継ぐ。

  
形式と質料
  根底である自己同一性がまったく運動性から切り離され、もっぱら受動的にみられると、それは《
質料(Stoff)》といわれる(*注3)。プラトン、アリストテレスらによれば無規定的な質料に規定性と運動を与えるのは形式(形相)なのである。質料はたとえば、労働対象(原料)のようなものであり、人間の目的行為によってはじめて或るものへと形成される。このさい、人間の活動が形式を与える運動なのである。ところでヘーゲルは、この質料―これはけっきょく物質のことである―を形式から導こうとする(これは神が世界創造をすることの理論化となる)。さて、質料は「根底」のもつ同一性に由来した。質料とは、このまったくの同一性として他のものとの関係を断ち、運動性を失った受動的なものである。

(*注3)『資本論』岩波・向坂訳では、①「素材」を「Stoff(質料)」、②「材料」を「Material」と翻訳している。

 ①われわれがこれ から考察しようとしている社会形態においては、 使用価値は同時に-交換価値の素材的な担い手stofflichen Träger des Tauschwertsをなしている。(岩波文庫p.)
 ②亜麻布はその価値を上衣で表現している。上衣はこの
価値表現の材料 Material の役をつとめている。(岩波文庫p.90)

  
形式と内容
  みずからに与えられる形式に無関心な質料も、本来は根拠の反省運動のなかで形成されたものであった。ここでふたたび形式は質料と深く結ばれ、こうして質料は「内容」となる。逆にいえば、「内容は・・・形式づけられた質料として規定されている」(「大論理学」)。
形式と内容は相互に深く浸透し合っており、ある内容にとり、そこに与えられる形式はどうでもよいものではなくなる。たとえば、よい内容の本はけっして無形式ではなく、それに照合した、正しい表現形式をもつ。また、正しい形式を欠く芸術作品は真の芸術とはいえない。ギリシャ彫刻は木ではなく、大理石によってはじめて真の内容を与えられるであろう。ロミオとジュリエットの悲恋物語も小説としてのしっかりした形式を与えられてこそ、よい内容の作品となる。この内容にはこの形式以外にありえないというように、形式と内容がまったく調和しているのが真の芸術である。
  ヘーゲルは形式を優位におきながらも、形式と内容の相対性や両者の相互産出作用を強調する。形式とは内容がみずから産出したものであり、また逆に、内容とは形式が固定化して安定したものである。まさに、論理学の叙述は、絶対理念という形式がつぎからつぎへとみずからにふさわしい内容を産出する過程とも、意識と対象の統一という唯一の内容(=絶対理念)が多様な形態(形式)を自己付与する過程ともみられる。

  
形式内容
  
形式の展開が内容に無関係ではなく、まさに現実や認識の発展という内容的なものを反映していることを、マルクスは 「形式内容 ( Forminhalt 『資本論』の翻訳では形態内容)」という概念で表現した(『資本論』第1巻、初版)(*注4)。ここでは形式は内容へと完全にくり込まれている。いわゆる価値形能論は、内容に外的なたんなる形式の分析ではなく、商品が等価交換される関係がついに貨幣を産出するという内容上の展開を含んでいる(*注5)。ヘーゲルのいう形式は事物に形を与え、これこれのものと規定する作用とみられるが、このことは広く事物が安定的にみずからに形態〔形態・形式〕や構浩を与えることを意味する。またとくに、これには形づくり(Formierung)を行う人間の労働が第一のモデルになろう。というのは、労働はそもそも素材〔Stoff〕に形を与える目的行為だからである。こうして、ヘーゲルの観念論は、「形式」という言葉に弁証法とほぼ同義の事柄を含ませたのである。     (島崎 隆)

(*注4) 岡崎次郎訳『資本論』大月書店p.53 
(*注5) → 貨幣形態の発生」を証明する 参照




  
(3)参考資料
 
『資本論』 初版  原本(ドイツ語)

  Das Kapital.
  Kritik der politischen Oekonomie.
   Von  Karl Marx.
  Erster Band.
  Buch I: Der Produktionsprocess des Kapitals.
  1867

  〔新しい役割 neue Rolle-質的規定 qualitative Bestimmung の出現
   -実現形態
Verwirklichungsform


 Wir stehn hier bei dem Springpunkt aller Schwierigkeiten, welche das Verständniss der Werthform 価値の形式 hindern. Es ist relativ leicht, den Werth der Waare von ihrem Gebrauchswerth zu unterscheiden, oder die den Gebrauchswerth formende Arbeit von derselben Arbeit, so weit sie bloss als Verausgabung mensehlicher Arbeitskraft im Waarenwerth berech- net wird. Betrachtet man Waare oder Arbeit in der einen Form, so nicht in der andern und vice versa. Diese abstrakten Gegensätze 抽象的な対立 fallen von selbst auseinander und sind daher leicht auseinander zu halten.
Anders mit der Werthform, die nur im Verhältniss von Waare zu Waare existirt. Der Gebrauchswerth oder Waarenkörper spielt hier eine
neue Rolle. Er wird zur Erscheinungsform des Waarenwerths, also seines eignen Gegentheils. Ebenso wird die im Gebrauchswerth enthaltene konkrete nützliche Arbeit zu ihrem eignen Gegentheil, zur blossen Verwirklichungsform 実現形態 abstrakter menschlicher Arbeit. Statt auseinanderzufal-len, reflektiren sich die gegensätzlichen Bestimmungen der Waare hier in einander. So befremdlich diess auf ersten Blick, erweist es sich bei wei-terem Nachdenken als nothwendig. Die Waare ist von Haus aus ein zwieschlächtig Ding, Gebrauchswerth und Werth, Produkt nütz-licher Arbeit und abstrakte Arbeitsgallerte 労働膠状物. Um sich darzustellen als das was sie ist, muss sie daher ihre Form verdoppeln. Die Form eines Gebrauchswerths besitzt sie von Natur. Es ist ihre Naturalform.
Werthform erwirbt sie erst im Umgang mit andren Waaren. Aber ihre Werthform muss selbst wieder gegenständliche Form sein. Die ein- zigen gegenständlichen Formen der Waaren sind ihre Gebrauchsgestalten, ihre Naturalformen. Da nun die Naturalform einer Waare, der Leinwand
z. B., das grade Gegentheil ihrer Werthform ist, muss sie eine andre Naturalform, die Naturalform einer andern Waare zu ihrer Werthform machen. Was sie nicht unmittelbar für sich selbst, kann sie unmittelbar für andre Waare und daher auf einem Umweg für sich selbst thun. Sie kann ihren Werth nicht in ihrem eignen Körper oder in ihrem eignen Gebrauchswerth ausdrücken, aber sie kann sich auf einen andern Gebrauchswerth oder Waarenkörper als unmittelbares Werthdasein beziehn. Sie kann sich nicht zu der in ihr selbst, wohl aber zu der in andrer Waaren
art enthaltenen konkreten Arbeit als blosser Verwirklichungs-form abstrakter menschlicher Arbeit verhalten. Sie braucht dazu nur die andre Waare sich als Aequivalent gleichzusetzen. Der Gebrauchs-werth einer Waare existirt überhaupt nur für eine andre Waare, soweit er in dieser Weise zur Erscheinungsform ihres Werths dient. Betrachtet man in dem einfachen relativen Werthausdrucke: x Waare A = y Waare B nur das quantitative Verhältniss, so findet man auch nur die oben entwickelten Gesetze über die Bewegung des relativen Werths, die alle darauf beruhn, dass die Werthgrösse der Waaren durch die zu ihrer Produktion nothwendige Arbeitszeit bestimmt ist. Betrachtet man aber das Werthverhältniss der beiden Waaren nach seiner qualitativen Seite, so entdeckt man in jenem einfachen Werthausdruck das Geheimniss der Werthform und daher, in nuce, des Geldes 20).


 20)  Es ist kaum verwunderlich, dass die Oekonomen, ganz unter dem Einfluss stofflicher Interessen, den Formgehalt des relativen Werthausdrucks übersehn haben, wenn vor Hegel die Logiker von Profession sogar den Forminhalt der Urtheils- und Schlussparadigmen übersahen.

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