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『資本論』と『小論理学』 (bs009)

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  マルクス 『資本論』序文 より

 私が用いた分析の方法は、まだ経済上の問題に適用されたことのなかったものであって、初めての諸章を読むのはかなりむずかしいのです。

 経済的諸形態の分析では、顕微鏡も化学的試薬も用いるわけにはいかぬ。抽象力なるものがこの両者に代わらなければならぬ。しかしながら、ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態は、経済の細胞形態である。

 私は、公然と、かの偉大な思想家の弟子であることを告白した。そして価値理論にかんする章の諸所で、ヘーゲルに特有の表現法を取ってみたりした。弁証法は、ヘーゲルの手で神秘化されはしたが、しかし、そのことは、決して、彼がその一般的な運動諸形態を、まず包括的に意識的な仕方で証明したのだということを妨げるものではない。弁証法は彼において頭で立っている。神秘的な殻につつまれている合理的な中核を見出すためには、これをひっくり返さなければならない。

 そしてただ、学問の急峻な山路をよじ登るのに疲労こんぱいをいとわない者だけが、輝かしい絶頂をきわめる希望をもつのです。

   ***  ***


 『資本論』と『小論理学』抄録 ページ構成 (2020.01.20 作業中)

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   2020.01 ヘーゲル「本質論」仮象 Schein の全文検索から
    『資本論』
-物神性・「対象的外観の研究

  ※1 外観・仮象・Schein〔資本論の「外観」、ヘーゲル小論理学「仮象」は、
    ドイツ語の「Schein」で同義語〕

 
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 ・・・最下段に『資本論』、『小論理学』当該ドイツ語原本 ―検索に利用―

  『資本論』目次  資本論ワールド編集部による探究と検索
(段落) 第1篇 商品と貨幣  (下線部のクリックで、当該ページにヒットします)
第1章 商 品 第2章 交換過程
1-1~
1-18
 第1節 商品の2要素 使用価値と価値
     (価値実体、価値の大いさ)
第3章 貨幣または商品流通
2-1~
2-16
 第2節 商品に表わされた労働の二重性  第1節 価値の尺度 
3-1~
3-
 第3節 価値形態または交換価値  第2節 流通手段
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態   a 商品の変態
 1 価値表現の両極、
      すなわち相対的価値形態と等価形態 
  b 貨幣の流通 ウムラウフ
 2 相対的価値形態   c 鋳貨 価値標章
  a 相対的価値形態の内実  第3節 貨幣
  b 相対的価値形態の量的規定性   a 貨幣退蔵
 3 等価形態   b 支払手段
 4 単純な価値形態の総体   c 世界貨幣
B 総体的または拡大された価値形態
 1 拡大された相対的価値形態 第2篇 貨幣の資本への転化 
 2 特別な等価形態  第4章 貨幣の資本への転化
 3 総体的または拡大された価値形態の欠陥
C 一般的価値形態
 1 価値形態の変化した性格
 2 相対的価値形態と等価形態の発展関係
 3 一般的価値形態から貨幣形態への移行
D 貨幣形態
第4節 商品の物神的性格とその秘密
    ヘーゲル小論理学_本質論
 『小論理学』第2部 本質論 目次
 §112 ― §156
 第2部 本質 Wesen 論
 (112-159)Die Lehre vom Wesen
A 現存在の根拠とっしての本質 (115-130)
a 純粋な反省規定 (115-122)
  a. Die reinen Reflexionsbestimmungen
 イ 同一性 (115) α. Identität
 ロ 区別 (116-120) β. Der Unterschied
 ハ 根拠 (121-122) γ. Der Grund
b 現存在 (123-124) b. Die Existenz
c 物 (125-130) c. Das Ding
B 現象 (131-141) B. Die Erscheinung
a 現象の世界 (131)
    a. Die Welt der Erscheinung
b 内容と形式 (133-134)
    b. Inhalt und Form
c 相関 (135-141) c. Das Verhältnis
C 現実性 (142-149) C. Die Wirklichkeit
a 実体性の相関 (150-152)
    a Substantialitätsverhältnis
b 因果性の相関 (153-154)
    b Kausalitätsverhältnis
c 交互作用 (155-159)
    c Die Wechselwirkung

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成素形態 経済学批判 アリストテレス バーボン 価値方程式 方程式
商品種 膠状物 凝結物
対象的外観 外観※1 仮象※1 Schein※1
商品 物神的性格 変態 資本物神
同一性 区別 根拠 現存在
ヘーゲル『小論理学』 マルクス『経済学批判』
ヘーゲル仮象と対象的外観

※1 外観・仮象・Schein〔資本論の「外観」、ヘーゲル小論理学「仮象」は、ドイツ語の「Schein」で同義語〕
※2 ヘーゲル小論理学の仮象 Scheinを参照・検索


『資本論』 向坂逸郎訳 岩波書店
 (1969年1月16日 岩波文庫版発行)

  
 ■資本論ワールドによる編集注意事項
 マルクスによる本文「注」は「原注」と表記。編集部による「注」は「*1」のように「*」の後に数字を記入し、リンクを貼った。また、本文中のドイツ語等外国語の挿入は、向坂訳ではドイツ語の同じ単語であっても必要に応じて意訳があり、元のドイツ語を表示した。

第1篇 商品と貨幣 第1章 商品

第1章 第1節
 
      第1節 商品の2要素 使用価値と価値 (価値実体、価値の大いさ)

 〔個々の商品は富のElementarform〕

1-1 資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積〔"ungeheure Warensammlung"*1(原注1)」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態Elementarform*2 として現われる。したがって、われわれの研究は商品 の分析をもって始まる。

 (注1) カール・マルクス『経済学批判』1859年、新潮社版第7巻p.57
「市民社会の富は、一見して、巨大な商品集積であり、個々の商品はこの富の成素的存在で あることを示している。しかして、商品は、おのおの、使用価値と交換価値(1)という二重の観点で現われる。」
   〔*『経済学批判』アリストテレスの注(1):「何故かというに、各財貨の使用は二重になされるからである。・・・・その一つは物そのものに固有であり、他の一つはそうではない。例えていえば、サンダ ルの使用は、はきものとして用いられると共に交換されるところにある。両者共にサンダル の使用価値である。何故かというにサンダルを自分のもっていないもの、例えば食物と交換 する人も、サンダルを利用しているからである。しかし、これはサンダルの自然的な使用法 ではない。何故かいうに、サンダルは交換されるためにあるのではないからである。他の諸 財貨についても、事情はこれと同じである。」(新潮社版p.57)

資本論ワールド編集部の注(*1:巨大なる商品集積)、(*2:成素形態)

1-2 商品はまず第一に外的対象である。すなわち、その属性によって人間のなんらかの種類の欲望を充足させる一つの物である。こ れらの欲望の性質は、それが例えば胃の腑から出てこようと想像によるものであろうと、こ との本質を少しも変化させない(注2)。ここではまた、事物が、直接に生活手段として、すなわち、享受の対象としてであれ、あるいは迂路をへて生活手段としてであれ、いかに人 間の欲望を充足させるかも、問題となるのではない。

  〔バーボン:価値は精神の欲望を充足する〕
   
(原注2)「願望をもつということは欲望を含んでいる。それは精神の食欲である。そして身体にたいする飢餓と同じように自然的なものである。・・・大多数(の物)が価値を有するのは、それが精神の欲望を充足させる3 からである」(ニコラス・バーボン『新貨幣をより軽く改鋳することにかんする論策、ロック氏の「考察」に答えて』 ロンドン、1696年、2-3ページ)。

1-3 鉄・紙等々のような一切の有用なる物は、質と量にしたがって二重の観点から考察され るべきものである。このようなすべての物は、多くの属性の全体をなすのであって、したが って、いろいろな方面に役に立つことができる。物のこのようないろいろの側面と、したがってその多様な使用方法を発見することは、歴史的行動(原注3)である。有用なる物の量をはかる社会的尺度を見出すこともまたそうである 。商品尺度の相違は、あるばあいには測定さるべき対象の性質の相違から、あるばあいには 伝習から生ずる。


  〔バーボン:物の特性は同一である。磁石は鉄を引きつける。〕

 (注3)「物は内的な特性(vertue ― これはバーボンにおいては使用価値の特別な名称である)をもっている。物の特性はどこに行っても同一である。例えば、磁石は、どこにいっても鉄を引きつける」(同上、6ページ)。磁石(関連コラム)の鉄を引きつける属性は、人がその性質を利用して磁極性を発見する4にいたって初めて有用となった。

3:精神の欲望を充足させる)、(4:磁極性を発見する)

1-4 一つの物の有用性は、この物を使用価値にする(原注4)。しかしながら、この有用性は 空中に浮かんでいるものではない。それは、商品体の属性によって限定されていて、商品体なくしては存在するものではない。だから、商品体自身が、鉄・小麦・ダイヤモンド等々というように、一つの使用価値または財貨である。このような商品体の性格は、その有効属性を取得することが、人間にとって多くの労働を要するものか、少ない労働を要するものか、ということによってきまるものではない。使用価値を考察するに際しては、つねに、1ダースの時計、1エレの亜麻布、1トンの鉄等々というよ うに、それらの確定した量が前提とされる。商品の使用価値は特別の学科である商品学(原注5)の材料となる。使用価値は使用または消費されることによってのみ実現される。使用価値は、富の社会的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容stofflichen Inhaltをなしている。われわれがこれ から考察しようとしている社会形態においては、使用価値は同時に-交換価値の素材的な担 い手 stofflichen Trägerをなしている。

(原注4) 「あらゆる物の自然価値(natural worth)とは、必要なる欲望を充足させ、あるいは人間生活の快適さに役立つ、物の適性のことである」(ジョン・ロック『利子低下の諸結果にかんする若干の考察』 1691年、『著作集』版、ロンドン、1777年、第2巻、28ページ)。第17世紀において、まだしばしばイギリスの著述家の間に „worth“ を使用価値の意味に、„value“ を交換価値の意味に、用いるのが見られる。全く、直接的の事物をゲルマン系語で、反省的事物をローマン系語で言い表わすことを愛する言語の精神にもとづくのである。

(原注5) ブルジョア社会においては、すべての人は商品の買い手〔アドラツキー版には売り手。エンゲルス版・カウツキー版・英語版・フランス語版およびディーツ版『全集』ではすべて買い手となっている。……訳者〕として、百科辞典的商品知識をもっているという法的擬制(fictio juris)が、当然のことになっている。


1-5 交換価値は、まず第一に量的な関係として、すなわち、ある種類の使用価値が他の種類 の使用価値と交換される比率として、すなわち、時とところとにしたがって、絶えず変化する関係として、現われる(原注6)。したがって、交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に 相対的なるものであって、商品に内在的な、固有の交換価値(valeur intrinseque)という ようなものは、一つの背理(原注7)*(contradictio in adjecto)のように思われる。われわ れはこのことをもっと詳細に考察しよう。

 (注6)「価値は一つの物と他の物との間、一定の生産物の量と他のそれの量との間に成立する交換関係である」(ル・トゥローヌ『社会的利益について』、『重農学派』デール版、パリ、1846年、889ページ)。
 
 (注7)「どんな物でも内的価値というようなものをもつことはできない」(N・バーボン『新貨幣をより軽く改鋳することにかんする論策、ロック氏の「考察」に答えて』6ページ)、
〔ここの(注7)のバーボン引用文「どんな物でも内的価値というようなものをもつことはできない」は、次の(注8)「同一価値の物には相違も差別も存しない。」と矛盾している。バーボンはこれに気がついていない。*「ロックーラウンズ・バーボン論争」を参照〕
 またはバットラのいうように、
 「物の価値なるものはそれがちょうど持ち来すだけのものである。」

1-6 一定の商品、1クォーターの小麦は、例えば、x量靴墨、またはy量絹、またはz量金等々 と、簡単にいえば他の商品と、きわめて雑多な割合で交換される。このようにして、小麦は 、唯一の交換価値のかわりに多様な交換価値をもっている。しかしながら、x量靴墨、同じく y量絹、z量金等々は、1クォーター小麦の交換価値であるのであるから、x量靴墨、y量絹、z 量金等々は、相互に置き換えることのできる交換価値、あるいは相互に等しい大いさの交換価値であるに相違ない。したがって、第一に、同一商品の妥当なる交換価値は、一つの同一 物を言い表している。だが、第二に、交換価値はそもそもただそれと区別さるべき内在物の 表現方式 〔Ausdrucksweise:表現の仕方〕すなわち、その「現象形態〔 "Erscheinungsform"〔現象の形式〕 」でありうるにすぎない。

1-7 さらにわれわれは二つの商品、例えば小麦と鉄をとろう*。その交換価値がどうであれ、 この関係〔Austauschverhältnis:交換関係〕はつねに一つの方程式Gleichung に表わすことができる。そこでは与えられた小麦量は、なん らかの量の鉄に等置される。例えば、1クォーター小麦=aツェントネル鉄というふうに。こ の方程式は何を物語るか?
二つのことなった物に、すなわち、1クォーター小麦にも、同様にaツェントネル鉄にも、同一大いさのある共通なものがあるということである。したがって、両つのものは一つの第三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身 としては、前の二つのもののいずれでもない。両者のおのおのは、交換価値である限り、こ うして、この第三のものに整約しうるのでなければならない。〔拡大されることを予知している〕

1-8 一つの簡単な幾何学上の例がこのことを明らかにする。一切の直線形の面積を決定し、それを比較するためには、人はこれらを三角形に解いていく 。三角形自身は、その目に見える形と全くちがった表現-その底辺と高さとの積の2分の1― に整約される。これと同様に、商品の交換価値も、共通なあるものに整約されなければなら ない。それによって、含まれるこの共通なあるものの大小が示される。

1-9 この共通なものは、商品の幾何学的・物理的・化学的またはその他の自然的属性である ことはできない。商品の形体的属性は、ほんらいそれ自身を有用にするかぎりにおいて、し たがって使用価値にするかぎりにおいてのみ、問題になるのである。しかし、他方において 、商品の交換価値をはっきりと特徴づけているものは、まさに商品の使用価値からの抽象で ある。この交換価値の内部においては、一つの使用価値は、他の使用価値と、それが適当の 割合にありさえすれば、ちょうど同じだけのもの〔量として同じに扱えるもの〕となる。あるいはかの老バーボンが言って いるように、「一つの商品種は、その交換価値が同一の大いさであるならば、他の商品と同 じだけのものである。このばあい同一の大いさの交換価値を有する物の間には、少しの相違 または差別がない(原注8)。」

 (注8)「一商品種は、もし価値が同一であれば、他の商品種と同じものである。同一価値の物には相違も差別も存しない。・・・・100ポンドの価値ある鉛または鉄は、100ポンドの価値ある銀や金と同一の大いさの交換価値をもっている」(N・バーボン、前掲書、53・57ページ)。

1-10 使用価値としては、商品は、なによりもまずことなれる質のものである。交換価値と しては、商品はただ量をことにするだけのものであって、したがって、一原子の使用価値を も含んでいない。

1-11 いまもし商品体の使用価値を無視するとすれば、商品体に残る属性は、ただ一つ、労働生産物という属性だけである。だが、われわれにとっては、この労働生産物も、すでにわ れわれの手中で変化している。われわれがその使用価値から抽象するならば、われわれは労 働生産物を使用価値たらしめる物体的な組成部分や形態からも抽象することとなる。それは もは指物労働の生産物でも、建築労働や紡績労働やその他なにか一定の生産的労働の生産物 でもない。労働生産物の有用なる性質とともに、その中に表わされている労働の有用なる性 質は消失する。したがって、これらの労働のことなった具体的な形態も消失する。それらは もはや相互に区別されることなく、ことごとく同じ人間労働、抽象的に人間的な労働に整約される。

1-12 われわれはいま労働生産物の残りをしらべて見よう。もはや、妖怪のような同一の対象性いがいに、すなわち、無差別な人間労働に、いいかえればその支出形態を考慮すること のない、人間労働力支出の、単なる膠状物というもの意外に、労働生産物から何物も残って いない。これらの物は、ただ、なおその生産に人間労働力が支出されており、人間労働が累 積されているということを表わしているだけである。これらの物は、おたがいに共通な、こ の社会的実体の結晶として、価値―商品価値である。

1-13 商品の交換関係そのものにおいては、その交換価値は、その使用価値から全く独立しているあるものとして、現われた。もしいま実際に労働生産物の使用価値から抽象するとすれば、いま規定されたばかりの労働生産物の価値が得られる。商品の交換比率または交換価値に表われている共通なものは、かくて、その価値である。研究の進行とともに、われわれは価値の必然的な表現方式または現象形態としての交換価値に、帰ってくるであろう。だが、この価値はまず第一に、この形態から切りはなして考察せらるべきものである。

1-14 このようにして、一つの使用価値または財貨が価値をもっているのは、ひとえに、その中に抽象的に人間的な労働が対象化されているから、または物質化されているからである。そこで、財貨の価値の大いさはどうして測定されるか? その中に含まれている「価値形成実体」である労働の定量によってである。労働の量自身は、その継続時間によって測られる。そして労働時間には、また時・日等のようか一定の時間部分としてその尺度標準がある。

1-15 もしある商品の価値が、その生産の間に支出された労働量によって規定されるならば、ある男が怠惰であり、または不熟練であるほど、その商品は価値が高いということになりそうである。というのは、その商品の製造に、この男はそれだけより多くの時間を必要とするからである。だが、価値の実体をなす労働は、等一の人間労働である。同一人間労働力の支出である。商品世界の価値に表わされている社会の全労働力は、ここにおいては同一の人間労働力となされる。もちろんそれは無数の個人的労働力から成り立っているのであるが。これら個人的労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力の性格をもち、またこのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間をのみ用いるというかぎりにおいて、他のものと同一の人間労働力なのである。社会的に必要な労働時間とは、現に存する社会的に正常な生産諸条件と労働の熟練と強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値を造り出すために必要とされる労働時間である。例えば、イギリスに蒸気織機が導入されたのちには、一定量の撚糸を織物に変えるために、おそらく以前の半ばほどの労働で足りた。イギリスの手織職人は、この織物に変えるために、実際上は前と同じように、同一の労働時間を要した。だが、彼の個人的労働時間の生産物は、いまではわずかに半分の社会的労働時間を表わしているだけとなった。したがって、その以前の価値の半ばに低落した。

1-16 そんなわけで、ある使用価値の価値の大いさを規定するのは、ひとえに、社会的に必要な労働の定量、またはこの使用価値の製造に社会的に必要な労働時間にほかならないのである(原注9)。個々の商品は、このばあい要するに、その種の平均見本にされてしまう。(原注10)同一の大いさの労働量を含む商品、または同一労働時間に製作されうる商品は、したがって、同一の価値の大いさをもっている。ある商品の価値の他の商品のそれぞれの価値にたいする比は、ちょうどその商品の生産に必要な労働時間の、他の商品の生産に必要な労働時間にたいする比に等しい。
「価値としては、すべての商品は、ただ凝結せる労働時間の一定量であるにすぎない。」(原注11)

 (原注9) 第二版への注。「使用対象の価値は、それらが相互に交換されるときには、その生産に必然的に要せられ、通例として投下される労働の量によって規定される」(『一般金利、とくに公債等における金利にかんする二、三の考察』ロンドン、三六ページ)。この注目すべき前世紀の匿名書には日付がない。だが、それがジョージ2世治下、およそ1739年または1740年に刊行されたものであることは、その内容から明らかである。

 (原注10)「すべて同一種の産物は、本来、その価格が一般的にかつ特別の事情を考慮することなく規定される一つの集塊であるにすぎない」(ル・トゥローヌ『社会的利益について』893ページ)。

 (原注11)カール・マルクス『批判』6ページ〔ディーツ版『全集』第13巻、18ページ。邦訳、岩波文庫版、26ページ。新潮社版『選集』第7巻、60ページ〕。


1-17 したがって、ある商品の価値の大いさは、もしその生産に必要な労働時間が不変であるならば、不変である。しかしながらこの労働時間は、労働の生産力における一切の変化とともに変化する。労働の生産力は、種々の事情によって規定される。なかでも、労働者の熟練の平均度、科学とその工学的応用の発展段階、生産過程の社会的組み合わせ、生産手段の規模と作用力とによって、さらに自然的諸関係によって、規定される。同一量の労働は、例えば豊年には 8ブッシェルの小麦に表わされるが、凶年には僅か4ブッシェルに表わされるにすぎない。同一量の労働は、富坑においては、貧坑におけるより多くの金属を産出する、等々。ダイヤモンドは、地殼中にまれにしか現われない。したがって、その採取には、平均して多くの労働時間が必要とされる。そのために、ダイヤモンドは、小さい体積の中に多くの労働を表わしている。ジェーコブは、金はいまだかつてその価値を完全に支払われたことはあるまい、といっている。このことは、
もっとつよくダイヤモンドにあてはまる。エッシュヴェーゲによれば、1823年、ブラジルのダイヤモンド坑80年間の総産出高は、ブラジルの砂糖栽培とコーヒー栽培の1ヵ年半の平均生産物の価格にも達しなかった。ダイヤモンド総産出高の方が、より多くの労働を、したがってより多くの価値を表わしていたのは勿論のことであったが。より豊かな鉱山では、同一の労働量がより多くのダイヤモンドに表わされ、その価値は低下するであろう。もし少量の労働をもって、石炭がダイヤモンドに転化されうるようになれば、その価値は練瓦以下に低下することになるだろう。一般的にいえば、労働の生産力が大であるほど、一定品目の製造に要する労働時間は小さく、それだけその品目に結晶している労働量は小さく、それだけその価値も小さい。逆に、労働の生産力が小さければ、それだけ一定品目の製造に必要な労働時間は大きく、それだけその価値も大きい。したがって、ある商品の大きさは、その中に実現されている労働の量に正比例し、その生産力に逆比例して変化する。

  *第1版には、次の一文がつづく。「われわれは、いまや価値の実体を知った。それは、労働である。われわれは価値の大いさの尺度を知った。それは労働時間である。価値をまさに交換価値にしてしまうその形態は、これから分析する。だが、その前に、すでにここで見出された規定を、いま少し詳しく述べておかなければならぬ。」―ディーツ版編集者

1-18  物は、価値でなくして使用価値であるばあいがある。その物の効用が、人間にとって労働によって媒介せられないばあいは、それである。例えば、空気・処女地・自然の草地・野生の樹木等々がそうである。物によっては、有用であり、また人間労働の生産物であって、商品でないばあいがある。自分の生産物で自身の欲望を充足させる者は、使用価値はつくるが、商品はつくらない。商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他の人々にたいする使用価値、すなわち、社会的使用価値を生産しなければならぬ。
(そしてただに他の人々にたいして生産するだけではない。中世の農民は封建領主のために年貢の穀物を、僧侶のために10分の1税の穀物を生産した。しかし、この年貢穀物も10分の1税穀物も、それらが他の人々のために生産されたということによって、商品となったわけではない。商品となるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他の人にたいして、交換によって移譲されるのでなければならない。(11a))最後にどんなものでも、使用対象でなくして、価値であることはできない。それが効用のないものであるならば、その中に含まれている労働も効用がなく、労働のうちにはいらず、したがってまた、なんらの価値をも形成しない。(11a)第4版への注。私はこのカッコ内の文句を入れた。というのは、この文旬を除くと、生産者以外の人々によって消費される生産物はすべてマルクスにおいて商品と考えられているという誤解が、きわめてしばしば生じたからである。― F・E(Friedrich Engels フリードリヒ・エンゲルス)

第1章 第2節


  第2節 商品に表わされた労働の二重性

2-1 最初商品はわれわれにとって両面性のものとして、すなわち、使用価値および交換価値として現われた。後には、労働も、価値に表現されるかぎり、もはや使用価値の生産者としての労働に与えられると同一の徴表をもたないということが示された。商品に含まれている労働の二面的な性質は、私がはじめて批判的に証明したのである(12)。この点が跳躍点であって、これをめぐって経済学の理解があるのであるから、この点はここでもっと詳細に吟味しなければならない。

  (注12)『批判』12、13ページおよびその他の諸所〔ディーツ版『全集』第13巻、22、23ページ以下。邦訳、岩波文庫版、33・35ページ以下、その他。新潮社版『選集』第7巻、64、65ページ、その他〕。

2-2  二つの商品、例えば1着の上衣と10エレの亜麻布とをとろう。前者は後者の2倍の価値をもっており、したがって、10エレの亜麻布がWとすれば、1着の上衣は2Wであるとしよう。

2-3  上衣は特別の欲望を充足させる一つの使用価値である。これを作るためには、一定の種類の生産的活動を必要とする。生産的活動はその目的、作業法、対象、手段および成果によって規定される。労働の有用性が、かくて、その生産物の使用価値に表わされ、すなわちその生産物が一つの使用価値であるということのうちに表わされているばあい、この労働を簡単に有用労働と名づける。この観点のもとでは、労働はつねにこの利用効果と結びつけて考察される。

2-4  上衣と亜麻布とが質的にちがった使用価値であるように、その存在を媒介する労働は、質的にちがっている。―裁縫と機織。もしそれらのものが質的にちがった使用価値でなく、したがって、質的にちがった有用労働の生産物でないとすれば、これらのものは、決して商品として相対することはありえないであろう。上衣は上衣に対しては交換されない。同一使用価値は同一使用価値と交換されることはない。

2-5  各種の使用価値または商品体の総体の中に、同じく属・種・科・亜種・変種等々というように、種々様々のちがった有用労働の総体が現われている〔参照例:生態学と生態系参照。― 社会的分業である。この分業は商品生産の存立条件である。商品生産は逆に社会的分業の存立条件ではないのであるが。古代インドの共同体では、労働に、社会的に分割されているが、生産物が商品となることはない。あるいはもっと近い例をあげると、あらゆる工場で労働は系統的に分割されている。だが、この分割は、労働者がその個人的生産物を交換するということによって媒介されてはいない。お互いに商品として相対するのは、独立的でお互いに分かれている私的労働の生産物だけである。

2-6  したがって、こういうことが明かとなる。すなわち、すべての商品の使用価値の中には、一定の目的にそった生産的な活動または有用労働が含まれている。もし使用価値の中に、質的にちがった有用労働が含まれていないとすれば、使用価値は商品として相対することはできない。その生産物が一般に商品の形態をとる社会においては、すなわち、商品生産者の社会においては、独立生産者の私業として相互に独立して営まれる有用労働のこのような質的な相違は、多岐に分かれた労働の体制に、すなわち社会的分業に発展する(*)

 (*)『資本論』の物質代謝ー自然と社会の物質循環

2-7  だが、上衣にとっては、それを裁縫職人が着るか、その顧客が着るかは、どうでもいいことなのである。そのいずれのばあいでも、上衣は使用価値として作用している。同じように、上衣とこれを生産する労働との関係は、それ自身としては、裁縫が特別の職業となること、社会的分業の独立の分肢となることによって、変化することはない。着物を着るという欲望が人間に強要するかぎり、人間は、ある男が裁縫職人となる以前に、幾千年の永きにわたって裁縫した。しかしながら、上衣・亜麻布等、自然に存在しない素材的富のあらする要素が現存するようにたったことは、特別な人間的要求に特別な自然素材を同化させる特殊的な目的にそった生産活動によって、つねに媒介されなければならなかった。したがって、使用価値の形成者として、すなわち、有用なる労働としては、労働は、すべての社会形態から独立した人間の存立条件であって、人間と自然との間の物質代謝を、したがって、人間の生活を媒介するための永久的自然必然性である。

2-8  上衣・亜麻布等々の使用価値、簡単に商品体は、自然素材と労働という二つ要素の結合である。上衣・亜麻布等々に含まれているちがった一切の有用労働の総和を引き去るならば、つねに入間の加工なしに自然に存在する物質的基盤が残る。人間は、その生産において、自然みずからするようにするほか仕方のないものである。すなわち、ただ素材の形態を変更するほかに仕方のないものである(13)。さらに、この製作の労働そのものにおいても、人間はたえず自然力の援けをかりている。したがって、労働はその生産する使用価値の、すなわち素材的富の、唯一の源泉ではない。ウィリアム・ペティがいうように、労働はその父であって、土地はその母である。

 (13) 「宇宙の一切の現象は、それが人間の手によってもたらされようと、物理学の一般法則によってもたらされようと、事実上の新創造ではなくして、単に素材の形態変更であるにすぎない。複合と分離は、人間精神が再生産の観念の分析にあたって、いかなるときにも見出す唯一の要素である。そして、価値(使用価値のこと。むろん、ヴェリはこのばあいその重農学派にたいする論争において、どんな種類の価値について自分が語っているのかを、自分ではよく知らないのである)と富の再生産についても、土地・空気および水が、耕地で穀物に転化されるばあい、あるいはまた人間の手によってある種の昆虫の分泌物が絹糸に転化され、あるいは若干の金属の小片が一つの時打ち懐中時計をつくるために組み立てられるばあいで見るように、ことは同様である」(ピエトロ・ヴェリ『経済学にかんする考察』―初版、1771年―。クストディの『イタリアの経済学者』版で刊行。近代篇、第15巻、21、22ページ)。

2-9 われわれは、使用対象という限度内で商品を論じたのであるが、これから商品価値に移ろう。

2-10 われわれの想定によれば、上衣は亜麻布の2倍の価値をもっている。しかしながら、このことは量的な相違にすぎないのであって、いまのところわれわれの関心を惹くものではない。したがって、われわれは、もし1着の上衣の価値が10エレの亜麻布の価値の2倍の大いさであるとすれば、20エレの亜応布は1着の上衣と同一の価値の大いさをもっているということを思い起こすのである。価値として、上衣と亜麻布とは同一実体のものであり、同一性質の労働の客観的表現である。しかしながら、裁縫と機織とは質的にちがった労働である。だが、こういう社会状態がある。そこでは同一人間が交互に裁縫したり織ったりする、したがって、この二つのちがった労働様式は、同一個人の労働の変形にすぎないもので、ちがった個人の特殊な固定した機能にまだなっていないのであって、ちょうど今日われわれの裁縫職人の作る上衣と明日彼のつくるズボンとが、同一の個人的労働の変化であるにすぎないことを前提するのと同じである。さらに、われわれは日頃こういうことを目で見ている。すなわち、われわれの資本主義社会では、労働需要の方向の変化によって、一定分の人間労働が交互に裁縫の形態で供給されたり、機織の形態で供給されたりするのである。このような労働の形態変更は、摩擦なく行なわれるわけではあるまいが、しかし、行なわれざるをえないものである。生産的活動の特定性、したがってまた労働の有用な性格を見ないとすれば、労働に残るものは、それが人間労働力の支出ということである。裁縫と機織とは、質的にちがった生産的活動ではあるが、両者ともに、人間の頭脳・筋肉・神経・手等々の生産的支出であって、この意味では両者ともに人間労働である。それは人間労働力を支出する二つのちがった形態であるにすぎない。もちろん、人間の労働力それ自身は、どの形態でも支出されうるためには、多少とも発達していなければならぬ。しかしながら、商品の価値は人間労働そのものを、すなわち人間労働一般の支出を表わしている。さてブルジョア的社会では、将軍または銀行家が大きな役割を演じ、人間そのものは、これに反して、きわめてみすぼらしい役割を演ずる(14)ように、このばあいでも人間労働は同じ取り扱いをうけている。この労働は、すべての普通の人間が特別の発達もなく、平均してその肉体的有機体の中にもっている単純な労働力の支出である。単純なる平均労働自身は、国のことなるにしたがい、また文化時代のことなるにしたがって、その性格を変ずるのではあるが、現にある一定の社会内においては与えられている。複雑労働は、強められた、あるいはむしろ複合された単純労働にすぎないものとなるのであって、したがって、複雑労働のより小なる量は、単純労働のより大なる量に等しくなる。この整約が絶えず行なわれているということを、経験が示している。ある商品はもっとも複雑な労働の生産物であるかもしれない。その価値はこの商品を、単純労働の生産物と等しい関係におく。したがって、それ自身、単純労働の一定量を表わしているにすぎない(15)。それぞれちがった種類の労働が、その尺度単位としての単純労働に整約される種々の割合は、生産者の背後に行なわれる一つの社会的過程によって確定され、したがって、生産者にとっては慣習によって与えられているように思われる。ことを簡単にするために、以下においてはどの種類の労働力も直接に単純労働力であると考えられる。これによってただ整約の労をはぶこうというのである。

 (14) ヘーゲル『法の哲学』ベルリン、1840年、250ページ、第190節参照。
  「労働における普遍的で客観的な面は、それが抽象化してゆくことにある。この抽象化は手段と欲求との種別化をひきおこすとともに、生産をも同じく種別化して、労働の分割 die Teilung der Arbeiten(分業)を生み出す。個々人の労働活動はこの分割によっていっそう単純になり、単純になることによって個々人の抽象的労働 abstrakten Arbeit における技能も、彼の生産量も、いっそう増大する。」
  「生産活動の抽象化 Die Abstraktion des Produzierens は、労働活動をさらにますます機械的にし、こうしてついに人間を労働活動から解除して機械をして人間の代わりをさせることうを可能にする。」(§198)

 (15) 読者に注意して貰わなければならぬことは、ここでは、労働者が例えば一労働日にたいして受け取る賃金または価値について論じているのではなくして、その労働日が対象化されている商品価値について論じているということである。労働賃金という範疇は、そもそもわれわれの説明のこの段階では、まだ問題にはならない。

2-11  したがって、上衣や亜麻布という価値においては、その使用価値の相違から抽象されているように、これらの価値に表わされている労働においては、その有用なる形態である裁縫や機織の相違から抽象されている。上衣や亜麻布という使用価値が、目的の定められた生産的な活動と布や撚糸との結合であるように、上衣や亜麻布という価値が、これと反対に、単なる同種の労働膠状物であるように、これらの価値に含まれている労働も、布や撚糸にたいするその生産的な結びつきによるのでなく、ただ人間労働力の支出となっているのである。上衣や亜麻布という使用価値の形成要素は、裁縫であり、機織である。まさにそれらの質がちがっていることによってそうなるのである。それらの労働が上衣価値や亜麻布価値の実体であるのは、ただそれらの特殊な質から抽象され、両者が同じ質、すなわち人間労働の性質をもっているかぎりにおいてである。

2-12  しかしながら、上衣と亜麻布とは、ただ価値そのものであるだけではなく、一定の大いさの価値である。そしてわれわれの想定によれば、1着の上衣は10エレの亜麻布の2倍だけの大いさ心価値である。どこから、それらの価値の大いさの相違が生ずるのか? それは、亜麻布がただ上衣の半分だけの労働を含んでいること、したがって、上衣の生産には、労働力が亜麻布の生産にくらべて2倍の時間、支出されなければならぬということから来るのである。

2-13  したがって、使用価値にかんしては、商品に含まれている労働がただ質的にのみ取り上げられているとすれば、価値の大いさについては、労働はすでに労働であること以外になんら質をもたない人間労働に整約されたのち、ただ量的にのみ取り上げられているのである。前者では、労働は、如何になされるかということ、何を作るかということが問題であるが、後者では、労働のどれだけということ、すなわち、その時間継続ということが問題なのである。ある商品の価値の大いさは、ただそれに含まれている労働の定量をのみ表わしているのであるから、商品はある割合をもってすれば、つねに同一の大いさの価値でなければならぬ。

2-14  例えば、1着の上衣の生産に必要な一切の有用労働の生産力が不変であるこすれば、上衣の価値の大いさは、それ自身の量とともに増大する。もし1着の上衣がX労働日を表わすそすれば、2着の上衣は2x労働日を表わす、等々である。しかしながら、1着の上衣の生産に必要な労働が2倍に増大するか、または半分だけ減少するという場合を仮定しよう。第一のばあいにおいては、1着の上衣は、以前の2着の上衣と同じ価値をもつものとなる。後のばあいには、2着の上衣が、以前の1着の上衣と同じ価値をもつにすぎないこととなる。もちろん、二つのばあいにおいて、1着の上衣は依然として同一のはたらきを果たし、それに含まれている有用労働は、依然として同一品質のものにとどまっているのであるが。ところが、その生産に支出されている労働量は、変化しているのである。

2-15  より大きな量の使用価値は、それ自身としてはより大きな素材的富をなしている。2着の上衣は1着よりは多い。2着の上衣では、2人の人に着せることができる。1着の上衣では、1人の人に着せることができるだけである、等々。だが、素材的富の量が増大するのにたいしては、その価値の大いさの同時的低下ということが、相応じうる。この相反する運動は、労働の両面的な性格から生じている。生産力は、もちろんついに有用な具体的な労働の生産力である。そして実際にただ与えられた期間における、目的にしたがった生産的活動の作用度を規定しているだけである。したがって、有用労働は、その生産力の増大あるいは低下と正比例して、より豊富な生産物源泉ともなれば、より貧弱なそれともなる。これに反して、生産力の変化は、価値に表わされている労働それ自身には、少しも触れるものではない。生産力は、労働の具体的な有用な形態がもっているものであるから、労働が、この具体的な有用な形態から抽象されるやいなや、当然にもはや労働に触れることはできない。したがって、同一の労働は、同一の期間に、生産力がどう変化しようと、つねに同一大いさの価値を生む。しかしながら、生産力は同一期間に、ちがった量の使用価値をもたらす。生産力が増大すればより多く、それが低下すればより少ない。労働の生産度を増大させ、したがって、これによってもたらされる使用価値の量を増加させる同じ生産力の変化は、このようにして、もしこの変化がその生産に必要な労働時間の総計を短縮するならば、この増大した総量の価値の大いさを減少させる。同じように、逆のばあいは逆となる。

2-16  すべての労働は、一方において、生理学的意味における人間労働力の支出である。そしてこの同一の人間労働、または抽象的に人間的な労働の属性において、労働は商品価値を形成する。すへての労働は、他方において、特殊な、目的の定まった形態における人間労働力の支出である。そしてこの具体的な有用労働の属性において、それは使用価値を生産する(16)。

  (16) 第2版への注。「労働のみがすべての商品の価値を、あらゆる時代に、評価し、比較しうる終局的な真実な尺度である」ということを証明するために、A・スミスはこう述べている。「同一量の労働は、あらゆる時代あらゆる場所において、労働者自身のために同一価値をもっていなければならぬ。労働者の健康・力および活動の正常な状態において、そして彼のもっていると考えられる熟練の平均度とともに、彼は、つねにその安息、その自由およびその幸福の、それ相応の部分を犠牲としなければならぬ」(『諸国民の富』第1篇第5章〔E・G・ウェイクフィールド版、ロンドン、1836年、第1巻、104ページ以下。邦訳、大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』岩波文庫版、第1分冊、155―156ページ〕)。一方A・スミスは、ここで(どこででもというわけではない)、商品の生産に支出された労働量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と混同している。したがって、同一量の労働が、つねに同一価値をもつことを証明しようと企てる。他方では彼は、労働が商品の価値に表わされるかぎり、労働力の支出としてのみ考えられるものであることを感じているが、この支出をまた、ただ安息・自由および幸福の犠牲とのみ解していて、正常な生活活動とも解していない。もちろん、彼は近代賃金労働者を眼前に浮かべている。
―注(9)に引用した匿名のA・スミスの先駆者は、はるかに正しくこう述べている。
「一人の男がこの欲望対象の製造に1週間をかけた。……そして彼に他の対象を交換で与える男は、彼にとって同じ大いさの労働と時間を費やさせるものを計算するよりほかには、より正しく実際に同価値であるものを算定することができない。このことは、事実上ある人間が一定の時間に一つの対象に費消した労働と、同一時間に他のある対象に費消された他の人の労働との、交換を意味している」(『一般金利……にかんする二、三の考察』 39ページ)。―{ 第4版に。英語は、労働のこの二つのことなった側面にたいして、二つのことなった言葉をもっているという長所がある。使用価値を作り出し、質的に規定される労働を Work といい、Labour に相対する。価値を作り出し、ただ量的にのみ測定される労働を Labour といって、Workに相対する。英語訳14ページの注を参照されよ。-F・E }。
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第1章 第3節
  第3節 価値形態または交換価値

3-1 商品は使用価値または商品体の形態で、すなわち、鉄・亜麻布・小麦等々として、生まれてくる。これが彼等の生まれたままの自然形態である。だが、これらのものが商品であるのは、ひとえに、それらが、二重なるもの、すなわち使用対象であると同時に価値保有者であるからである。したがって、これらのものは、二重形態、すなわち自然形態と価値形態をもつかぎりにおいてのみ、商品として現われ、あるいは商品の形態をもつのである。

3-2 諸商品の価値対象性は、かのマダム・クィックリ 〔シェイクスピアの『ヘンリー4世』等の中の人物。……訳者〕とちがって、一体どこを摑まえたらいいか、誰にもわからない。商品体の感覚的に手触りの荒い対象性と正反対に、諸商品の価値対象性には、一分子の自然素材もはいっていないのである。したがって、一々の商品をどう捻りまわして見ても、それを価値物として摑むことはできない。だが、もし諸商品が同一の社会的等一性である人間労働の表現であるかぎりでのみ、価値対象性を有ち、したがってそれらの価値対象性は、純粋に社会的であるということを想い起こして見るならば、おのずから価値対象性が、ただ商品と商品との社会的関係においてのみ現われうるものであるということも明らかとなる。われわれは、実際において商品の交換価値から、または交換比率から出発して、その中にかくされている商品の価値をさぐりえたのである。いまわれわれは、価値のこの現象形態に帰らなければならぬ。

3-3 人は、何はともあれ、これだけは知っている、すなわち、諸商品は、その使用価値の雑多な自然形態と極度に顕著な対照をなしているある共通の価値形態をもっているということである。―すなわち、貨幣形態である。だが、ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一事をなしとげようというのである。すなわち、この貨幣形態の発生を証明するということ、したがって、商品の価値関係に含まれている価値表現が、どうしてもっとも単純なもっとも目立たぬ態容から、そのきらきらした貨幣形態に発展していったかを追求するということである。これをもって、同時に貨幣の謎は消え失せる。

3-4 最も単純な価値関係は、明らかに、ある商品が、他のなんでもいいが、ただある一つの自分とちがった種類の商品に相対する価値関係である。したがって、二つの商品の価値関係は、一つの商品にたいして最も単純な価値表現を与えている。



 A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態



3-5
  A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

3-6   x量商品A = y量商品B あるいは、x量の商品Aは y量の商品B に値する (亜麻布20エレ = 上衣1着 または20エレの亜麻布は1着の上着に値する)。


3-7 1 価値表現の両極。すなわち、相対的価値形態と等価形態

 一切の価値形態の秘密は、この単純なる価値形態の中にかくされている。したがって、その分析が、まことの難事となるのである。

3-8 ここでは、2種の異なった商品 AとB、われわれの例でいえば、亜麻布と上衣とは、明白に二つのちがった役割を演じている。亜麻布はその価値を上衣で表現している。上衣はこの価値表現の材料の役をつとめている。第一の商品は能動的の役割を演じ、第二の商品は受動的のそれを演じている。第一の商品の価値は、相対的価値として表わされている。いいかえると、第一の商品は相対的価値形態にあるのである。第二の商品は等価として機能している。すなわち等価形態にあるのである。

3-9 相対的価値形態と等価形態とは、相関的に依存しあい、交互に条件づけあっていて、離すことのできない契機であるが、同時に相互に排除しあう、または相互に対立する極位である。すなわち、同一価値表現の両極である。この両極は、つねに価値表現が相互に関係しあうちがった商品の上に、配置されるものである。私は、例えば亜麻布の価値を、亜麻布で表現することはできない。亜麻布20エレ = 亜麻布20エレというのは、なんら価値表現とはならない。方程式はむしろ逆のことをいっている。すなわち、20エレの亜麻布は、20エレの亜麻布にほかならないということ、亜麻布という使用対象の一定量にほかならないということである。したがって、亜麻布の価値はただ相対的にのみ、すなわち、他の商品においてのみ、表現されうるのである。したがって、亜麻布の相対的価値形態は、何らかの他の商品が、自分にたいして等価形態にあるということを予定している。他方において、等価の役を引き受けているこの他の商品は、みすから同時に相対的価値形態にあるというわけにはいかぬ。この商品は自分の価値を表現しているのではない。この商品はただ他の商品の価値表現に、材料を供給しているだけである。

3-10 むろん、亜麻布20エレ=上衣1着 または20エレの亜麻布は1着の上衣に値するという表現は、上衣1着=亜麻布20エレ または1着の上着は20エレの亜麻布に値するという逆関係をも今んではいる。しかしながら、上衣の価値を相対的に表現するためには、方程式を逆にしなければならぬ。そして私がこれを逆にしてしまうやいなや、亜麻布は上衣のかわりに等価となる。したがって、同一の商品は同一価値表現において、同時に両形態に現われることはできない。この二つの形態は、むしろ対極的に排除しあうのである。

3-11 それで、ある商品が相対的価値形態にあるか、これに相対立する等価形態にあるかということは、もっぱら価値表現におけるその時々の位置にかかっているのである。ということは、ある商品がその価値を表現するものであるか、それともその商品によって価値が表現されるものであるか、にかかっているということである。


 
2 相対的価値形態

 a
相対的価値形態の内実


 a 相対的価値形態の内実

 1. どういう風に一商品の単純なる価値表現が、二つの商品の価値関係にふくされているかとい
うことを見つけ出してくるためには、価値関係を、まずその量的側面から全く独立して考察しなければならぬ。人は多くのばあい正反対のことをやっている。そして価値関係の中に、ただ二つの商品種の一定量が相互に等しいとされる割合だけを見ている。人は、異種の物の大いさが、同一単位に約元されてのちに、初めて量的に比較しうるものとなるということを忘れている。同一単位の表現としてのみ、これらの商品は、同分母の、したがって通約しうる大いさなのである(17)。

  (注17) S・ベイリーのように、価値形態の分析をやった少数の経済学者が、なんらの結論にも到達できなかったのは、第一に、彼らが価値形態と価値とを混同しているからであり、第二に、彼らが実際的なブルジョアの生のままの影響下にあって、初めから、もっぱら量的規定性だけを眼中に置いているからである。「量にたいする支配が、……価値をなすものである」(S・ベイリー『貨幣とその価値変動』ロンドン、1837年、11ページ)。

2. 亜麻布20エレ=上衣1着 または =20着 または =x着となるかどうか、すなわち、一定量の亜麻布が多くの上衣に値するか、少ない上衣に値するかどうかということ、いずれにしても、このようないろいろの割合にあるということは、つねに、亜麻布と上衣とが価値の大いさとしては、同一単位derselben Einheit,の表現であり、同一性質の物Dinge von derselben Naturであるということを含んでいる。亜麻布=上衣ということは、方程式の基礎である。Leinwand = Rock ist die Grundlage der Gleichung.


3.  しかしながら、二つの質的に等しいとされた商品は、同一の役割を演ずるものでない。ただ亜麻布の価値のみが表現されるのである。そしていかに表現されるか? 亜麻布の「等価」としての、あるいは亜麻布と「交換され得るもの」としての上衣に、関係せしめられることによってである。この関係において、上衣は価値の存在形態、すなわち、価値物となされる。なぜかというに、このようなものとしてのみ、上衣は亜麻布と同一物であるからである。他方において、亜麻布自身の価値たることが前景に押し出される、すなわち、独立の表現を得る。なぜかというに、ただ価値としてのみ亜麻布は、等価物としての、あるいは自分と交換されうるものとしての、上衣に関係するからである。このようにして、酪酸は蟻酸プロピルとはちがった物体である。しかし、この両者は同一の化学的実体―炭素(C)、水素(H)および酸素(O)―から、しかも同一割合の組成、すなわち、C4H8O2から成り立っている。そこで、もし酪酸に蟻酸プロピルが等しい関係に置かれるとすれば、この関係においては、第一に蟻酸プロピルは単にC4H8O2の存在形態とされ、第二に酪酸もまたC4H8O2から成り立つということがいわれるであろう。こうして、蟻酸プロピルを酪酸と等置することによって、その化学的実体は、その物体の形態と区別して表現されるであろう。


4.  価値としては、商品は人間労働の単なる凝結物であると、われわれがいうとすれば、われわれの分析は、これらの商品を価値抽象に整約するのではあるが、これらの商品に、その自然形態とちがった価値形態を与えるものではない。一商品の他のそれにたいする価値関係においては、ことはちがってくる。その価値性格は、この場合には、それ自身の他の商品にたいする関係によって現われてくる。

5.  例えば、上衣が価値物として亜麻布に等しいとされることによって、上衣にひそんでいる労働は、亜麻布にひそんでいる労働に等しいとされる。さて上衣を縫う裁縫は、亜麻布を織る機織とは種類のちがった具体的な労働であるが、しかしながら、機織に等しいと置かれるということは、裁縫を、実際に両労働にあって現実に同一なるものに、すなわち、両労働に共通な人間労働という性格に、整約するのである。この迂給を通って初めてこういわれるのである。機織も、価値を織りこむかぎり、裁縫にたいしてなんらの識別徴表をもっていない、すなわち、抽象的に人間的な労働であるというのである。ただおのおのちがった商品の等価表現のみが、種類のちがった商品にひそんでいる異種労働を、実際にそれらに共通するものに、すなわち、人間労働一般(17a)に整約して、価値形成労働の特殊性格を現出させる。

(注17a) 第2版への注。ウィリアム・ペティの後に、価値の性質を見破った最初の経済学者の一人である有名なフランクリンはこう述べている。「商業はそうじてある労働の他の労働にたいする交換にほかならないのであるから、すべての物の価値は、労働で評価されるのが、もっとも正しい」(『B・フランクリン著作集』スパークス版、ボストン、1836年、第2巻、267ページ)。フランクリンは、すべての物の価値を「労働で」評価して、交換された労働の異種性から抽象しているということを、―そしてこのようにして、これを同一人間労働に整約しているのだということを、意識していない。それでも、自分で知らないことを、彼は言っているのである。彼は、はじめ「ある労働」について、次いで「他の労働について」、最後に、すべての物の価値の実体であるほかなんらの名をもっていない「労働」について語っている。


6. だが、亜麻布の価値をなしている労働の特殊な性質を表現するだけでは、充分でない。流動状態にある人間労働力、  すなわち人間労働は、価値を形成するのではあるが、価値ではない。それは凝結した状態でin geronnenem Zustand,、すなわち、対象的な形態でin gegenständlicher Form価値となる。人間労働の凝結物としての亜麻布価値を表現するためには、それは、亜麻布自身とは物的に相違しているが、同時に他の商品と共通に亜麻布にも存する「対象性"Gegenständlichkeit"」として表現されなければならぬ。課題はすでに解決されている。


7. 亜麻布の価値関係において、上衣はこれと質的に等しいものqualitativ Gleichesとして、すなわち、同一性質の物とみなされる。というのは、上衣は価値であるからである。したがって、上衣はここでは価値の現われるerscheint物として、またはその掴みうる自然形態で、価値を表示している物となされている。ところが上衣、すなわち、上衣商品の肉体Körper der Rockwareは、たしかに単なる使用価値ではあるが、しかし、ある上衣をとって見ると、任意の一片の亜財布と同じように、価値を表現するものではない。このことは、ただ次のことを立証するだけである。すなわち、上衣が亜麻布にたいする価値関係の内部においては、その外部におけるより多くを意味すること、あたかも多くの人間が笹縁(ささべり)をつけた上衣の内部においては、その外部におけるより多くを意味するようなものであるというのである。

〔*笹縁(ささべり)をつけた上衣:eines galonierten Rockes >galonieren: 飾りひも<モール>を縫いつける。 >Galon: (金・銀の)組みひも、金<銀>モール。〕


8. 上衣の生産においては、事実上裁縫の形態で人間労働力が支出された。したがって、人間労働は上衣の中に堆積されている。この側面から見れば、上衣は「価値の保持者」である。もちろん、この上衣の属性そのものは、どんなに糸目がすいていても、のぞいて見えるわけではないが。そして亜麻布の価値関係においては、上衣はただこの側面からのみ、したがって、体現された価値としてのみ、価値体としてのみ取り上げられている。上衣がどんなにすまし顔で現われても、亜麻布は、彼の中に血のつながりのある美わしい価値ごころを認めている。だが、上衣は彼女にたいして、同時に価値が彼女のために上衣の形態をとることなくしては、価値を表わすことはできないのである。こうして、個人Aは個人Bにたいして、Aにとって、陛下が同時にBの肉体の姿をとり、したがってなお容貌や毛髪やその他多くのものが、その都度の国君とともに変わるということなくしては、陛下として相対するわけにはいかない。

9. 上衣が亜麻布の等価をなす価値関係においては、このように、上衣形態は、価値形態とされる。亜麻布なる商品の価値は、したがって、上衣なる商品の肉体で表現される。一商品の価値は他の商品の使用価値で表現されるのである。使用価値としては、亜麻布は上衣とは感覚的にちがった物である。価値としては、それは「上衣に等しいもの」であって、したがって、上衣に見えるのである。このようにして、亜麻布は、その自然形態とはちがった価値形態を得る。その価値たることが、上衣との同一性に現われること、ちょうどキリスト者の羊的性質が、その神の仔羊との同一性に現われるようなものである。

10.  商品価値の分析が以前に告げたような一切のことを、亜麻布は他の商品、上衣と交わるようになるやいなや、自身で、申し述べることがわかる。ただ、亜麻布は、その思いを自分だけにずる言葉、すなわち商品の言葉でもらすだけである。人間労働の抽象的な属性で労働が亜麻布自身の価値を形成することをいうために、亜麻布は、上衣が、亜麻布に等しいとされ、したがって価値であるかぎりにおいて、亜麻布と同一の労働から成っているという風に言うのである。亜麻布の森厳なる価値対象性が、そのゴワゴワした布の肉体とちがっているというために、亜麻布は、価値が上衣に見え、したがって、亜麻布自身が価値物としては、卵が他の卵に等しいと同じように、上衣に等しいという風に言うのである。ついでに述べておくと、商品の言葉も、ヘブライ語でほかに、なお多くの多少正確さのちがったいろいろの方言をもっている。ドイツ語の„Wertsein“〔価値あり〕という言葉は、例えば、ローマン語の動詞 valere, valer, valoir 〔上から順次にイタリア語・スペイン語・フランス語。……訳者〕 ほどにはっきりと、商品Bを商品Aと等置することが、商品A自身の価値表現であるということを表現しない。パリは確かにミサに値する!(Paris vant bien une messe !)〔アンリ4世はパリを支配下において王位につくために、新教から旧教に改宗した。そのとき右の言葉を発したといわれている。……訳者〕。


11.  したがって、価値関係を通して、商品Bの自然形態は、商品Aの価値の価値形態となる。あるいは商品Bの肉体は、商品Aの価値かがみとなる(18)。商品Aが商品Bを価値体として、すなわち、人間労働の体化物として、これに関係することにより、商品Aは、使用価値Bを、それ自身の価値表現の材料とするのである。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値に表現されて、相対的価値の形態を得るのである。

 (注18) このことは、商品と同じようにいくらか人間にもあてはまる。人間は、鏡をもって生まれてくるものでも、フィヒテ流の哲学者として、我は我であるといって生まれてくるものでもないのであるから、まず他の人間の中に、自分を照らし出すのである。ペーテルという人間は、パウルという人間にたいして、自身に等しいものとして相関係ずることによって、初めて、自分自身に人間として相関係する。しかしながら、このようにしてペーテルにとっては、パウルなるものの全身が、そのパウル的肉体性のままで、人間という種の現象形態と考えられるのである。



  2 相対的価値形態 

  b 相対的価値形態の量的規定性   

1. 価値の表現せられるべきあらゆる商品は、15シェッフェルの小麦、100ポンドのコーヒー等というように、一定量の使用対象である。この与えられた商品量は、人間労働の一定量を含んでいる。したがって、価値形態は、ただに価値一般を表現するだけでなく、量的に規定された価値、すなわち価値の大いさをも表現しなければならぬ。商品Aの商品Bにたいする価値関係、亜麻布の上衣にたいする価値関係においては、したがって、上衣なる商品種は、ただに価値体一般として亜麻布に質的に等しいと置かれるだけでなく、一定の亜麻布量、例えば20エレの亜麻布にたいして、価値体または等価の一定量、例えば1着の上衣が等しいと置かれるのである。


2. 亜麻布20エレ=上衣1着 または亜麻布20エレは上衣1着に値する」という方程式は、1着の上衣のなかにまさに20エレの亜麻布の中におけると同じだけの量の価値実体がかくされているということ、両商品量は、したがって、おなじだけの労働が加えられている、または同一大いさの労働時間がかけられているということを前提とする。しかしながら、20エレの亜麻布または1着の上衣の生産に必要なる労働時間は、機織または裁縫の生産力における一切の変化とともに変化する。そこで、価値の大いさの相対的表現に及ぼすこのような変化の影響が、もっと詳細に研究されなければならぬ。


3.  I 亜麻布の価値は変化するが(19)、上衣価値は不変であるとするばあい。亜麻布の生産に必要な労働時間が、例えば亜麻栽培地の豊度の減退の結果、2倍となったとすれば、その価値は2倍となる。亜麻布20エレ=上衣1着のかわりに、われわれは亜麻布20エレ=上衣2着という式をもつことになる。というのは、1着の上衣は、いまでは20の亜麻布の半ばだけの分量の労働時間を含むにすぎないのであるからである。これに反して、亜麻布の生産に必要な労働時間が半分だけ、例えば織台改良の結果、減少するとすれば、亜麻布価値は半分だけ低下する。したがってこんどは亜麻布20エレ=上衣1/2着となる。商品Aの相対的価値、すなわち、その商品Bに表現された価値は、このようにして、商品Bの価値を同一としても、商品Aの価値に正比例して上騰したり、低下したりするのである。

 (19) 「価植」(„Wert“)という表現は、ここでは、すでに以前に時々あちこちでやったたように、量的に規定された価値、すなわち、価値の大いさという意味に用いられている。


4.  Ⅱ 亜麻布の価値は不変であって、上衣価値が変化するばあい。この事情のもとでは上衣の生産に必要な労働時間が、例えば羊毛剪截〔せんせつ:はさみで断ち切ること〕が不便とたったために、2倍となったとすれば、われわれは亜麻布20エレ=上衣1着という式のかわりに、いまでは亜麻布20エレ=上衣1/2着という式を得る。これに反して、上衣の価値が半分に低下したとすれば、亜麻布20エレ=上衣2着という式を得ることになる。したがって商品Aの価値を不変としても、商品Bで表現されるその相対的価値は、Bの価値変化と反比例で、低下したり上騰したりするのである。

5.  I および Ⅱの項における各種のばあいを比較すると、次のような結果が生ずる。すなわち、相対的価値の同一なる量的変化が、全く相反した原因から発生しうるということである。このようにして、亜麻布20エレ=上衣1着という式から、(1)、亜麻布20エレ=上衣2着という方程式が出てくる。それは亜麻布の価値が2倍となったのか、または、上衣の価値が半ばに低下したのかによるのである。さらに、(2)、亜麻布20エレ=上衣1/2着という方程式も出てくる。それは亜麻布の価値が半分に低下したのか、または上衣の価値が2倍にのぼったからである。


6.  Ⅲ 亜麻布と上衣の生産に必要な労働量は、同時に同一方向に同一割合で変化することもある。このばあいには、その価値がどんなに変化しても、依然として亜麻布20エレ=上衣1着である。この価値変化を発見するには、これらの二つの商品を、価値不変なる第三の商品と比較しさえすればよいのである。一切の商品の価値が、同時に同一割合で上騰または低下するならば、その相対的価値は不変にとどまるであろう。こんどは、この実際の価値変化は、同一労働時間に、以前より大きな商品量か、小さな商品量かが、同じように供給されるということから明らかとなるであろう。


7.  Ⅳ 亜麻布と上衣の生産にそれぞれ必要な労働時間、したがって、それらの価値は、同時に同一の方向に変化するとしても、ちがった程度に変化するばあい、または反対の方向に変化するばあい等々がある。一商品の相対的価値にたいする、この種のあらゆる可能な組み合わせの影響は、簡単にI、Ⅱ、Ⅲのばあいの応用によって明らかとなる。
 このようにして価値の大いさの現実の変化は、その相対的な表現において、あるいは相対的価値の大いさにおいて、曖昧さを残さず反映されるわけでも、剰(あま)すところなく反映されるわけでもない。一商品の相対的価値は、その価値が不変であっても変化しうる。その相対的価値は、その価値が変化しても、不変でありうる。そして最後に、その価値の大いさとその価値の大いさの相対的表現とにおける同時的変化は、決して相互に一致するわけのものではないのである(20)。

 (20) 第2版への注。価値の大いさとその相対的表現との間のこの不一致は、俗学的経済学によってもちまえの鋭敏さで、利用しつくされている。例えば、「かりに、Aが低落するのは、その間にAにたいして支出される労働は減少しないとしても、その交換されるBが上騰するからであるということを承認するとしたらどうか。そうなったら、諸君の一般的な価値原理は崩壊するであろう。……もし、Aの価値は相対的にBにたいして上騰し、Bの価値は相対的にAにたいして低下するということを承認するならば、リカードが、一商品の価値はつねにこれに体現されている労働の量によって規定されるという、彼の大命題を樹立した基礎は、ゆらぐ。なぜかというに、もしAの費用における変化が、それが交換されるBにたいする比率において、それ自身の価値を変化させるだけでなく、Bの生産に要する労働量においてなんらの変化が起こらなかったにもかかわらず、相対的にAの価値にたいするBの価値をも変化させるとする力らば、一商品にたいして支出される労働量が、その価値を規制するということを主張する教義は、崩壊するだけでなく、一商品の生産費がその価値を規制するという教義も、亡びることになるからである」(J・ブロードハースト『経済学にかんする論策』ロンドン、1842年、11・14ページ)。
  ブロードハースト氏は、これと同じように、こうも言うことができたのだ。こころみに10/20、10/50、10/100等々という数的比率を考えて見るといい。10なる数に変わりはない。だがしかし、その比、その分母たる20,50,100にたいする相対的な大いさは、不断に減少している。だから、10というような整数の大いさが、例えば、これに含まれている1の倍数によって「規制」されるという大原理は、崩壊してしまう、と。

・・・以上、「b 相対的価値形態の量的規定性」 終わり・・・

3 等価形態

1. われわれはこういうことを知った、すなわち、商品A(亜麻布)が、その価値を異種の商品B(上衣)という使用価値に表現することによって、Aなる商品は、Bなる商品自身にたいして独特な価値形態、すなわち、等価の形態を押しつけるということである。亜麻布商品は、それ自身の価値たることをば、次のことによって現わしてくる、すなわち、自分にたいして上衣が、その肉体形態とことなった価値形態をとることなくして、等しいものとして置かれるということである。このようにして、亜麻布は自分自身価値であることを、実際には上衣が直接に自分と交換しうるものであるということをつうじて、表現するのである。 一商品の等価形態は、それゆえに、この商品の他の商品にたいする直接的な交換可能性の形態である。


2. もし上衣というような一商品種が、亜麻布のような他の商品種にたいして、等価として用いられるとしても、したがって、上衣が亜麻布と直接に交換しうる形態にあるという独特の属性を得るとしても、これによって、決して上衣と亜麻布とが交換されうる割合も、与えられているというわけではない。この割合は、亜麻布の価値の大いさが与えられているから、上衣の価値の大いさにかかっている。
 上衣が等価として表現され、亜麻布が相対的価値として表現されるか、それとも逆に亜麻布が等価として表現され、上衣が相対的価値として表現されるか、そのいずれにしても、上衣の価値の大いさが、その生産に必要な労働時間によって、したがって、その価値形態からは独立して決定されているということには、変わりはない。しかし、上衣なる商品種が、価値表現において等価の地位をとることになると、その価値の大いさは、価値の大いさとしての表現をもたなくなる。
 その価値の大いさは、価値方程式において、むしろただ一物の一定量として現われるだけである。

3. 例えば、40エレの亜麻布は、一体何に「値する」のか?二着の上衣に。というのは、上衣なる商品種は、ここでは等価の役割を演じているのであり、上衣という使用価値は、亜麻布にたいして価値体とされているのであるから、一定の価値量としての亜麻布を表現するには、一定量の上衣ということで充分である。したがって、二着の上衣は、40エレの亜麻布の価値の大いさを表現することはできるが、決して自分自身の価値の大いさを、すなわち、上衣の価値の大いさを表現することはできないのである。
  等価が価値方程式においてつねに一物、すなわち、一使用価値の単に一定量の形態をもっているにすぎないというこの事実を、皮相に理解したことは、ベイリーをその先行者や後続者の多くとともに誤り導いて、価値表現においてただ量的な関係だけを見るようにしてしまった。一商品の等価形態は、むしろなんらの量的価値規定をも含んでいないのである。


4. 等価形態の考察に際して目立つ第一の特性は、このことである、すなわち、使用価値がその反対物の現象形態、すなわち、価値の現象形態となるということである。

5. 商品の自然形態が価値形態となる。しかしながら、注意すべきことは、このquid pro quo〔とりちがえ〕は、商品B(上衣または小麦または鉄等々)にとっては、ただ他の適宜(てきぎ)な商品A(亜麻布等々)が自分にたいしてとる価値関係の内部においてのみ、すなわち、この関連の内部においてのみ起こるということなのである。いかなる商品も、自分自身にたいして等価として関係することはなく、したがってまた、自分自身の自然の皮膚を、自分自身の価値の表現となすことは出来ないのであるから、このような商品は、他の商品を等価として、これに関係しなければならぬ。
 いいかえれば、他の商品の自然の皮膚を自分自身の価値形態にしなければならぬ。


6. このことを明らかにするために、商品体としての、すなわち、使用価値としての商品体に用いられるをつねとする度量衡の例を見よう。一つの砂糖塊は、物体であるから、重い。したがって重量をもっている。しかしながら、人は、砂糖塊をなでてさすっても、その重量を見つけることはできない。そこでわれわれは、あらかじめ重量の定められている種々なる鉄片を取り出すのである。
  鉄の物体形態も、砂糖塊のそれも、それだけを見れば、ともに、重さの現象形態ではない。だが、砂糖塊を重さとして表現するためには、われわれは、これを鉄との重量関係におく。この関係においては、鉄は、重さ以外の何ものをも示さない一物体となっている。
  従って、鉄量は砂糖の重量尺度として用いられ、砂糖体にたいして単なる重量態容、すなわち、重さの現象形態を代表する。鉄がこの役割を演ずるのは、ただこの関係の内部においてのみであって、この関係の内部で、砂糖は、あるいは重量を測ろうという他のどんな物体でも、鉄と相対するのである。両物が重さをもっていなければ、これらの物は、この関係にはいりえないであろうし、したがって、一物は他物の重量の表現として役立つことはできないであろう。われわれは、両者を秤皿(はかりざら)に投ずるならば、実際にこれらの二物が重さとして同一なるものであり、したがって、一定の割合において同一重量のものでもあるということを知るのである。鉄なる物体が、重量尺度として砂糖塊にたいして、ただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現においては、上衣体は、亜麻布にたいして、ただ価値を代表するだけである。


7. だが、ここで比喩は終わるのである。鉄は砂糖塊の重量表現で、両物体に共通なる自然属性、すなわち、それらの重さを代表したのであるが、――他方の上衣は亜麻布の価値表現において両物の超自然的属性を、すなわち、それらのものの価値を、およそ純粋に社会的なものを、代表しているのである。

8. 一商品、例えば亜麻布の相対的価値形態は、その価値たることを、何かその物体と物体の属性とから全く区別されたものとして、例えば、上衣に等しいものとして、表現しているのであるが、この表現自身が、一つの社会関係を内にかくしていることを示唆している。等価形態では逆になる。等価形態であるゆえんは、まさに、一商品体、例えば上衣が、あるがままのものとして価値を表現し、したがって、自然のままのものとして、価値形態をもっているということの中にあるのである。このことは、もちろんただ亜麻布商品が、等価としての上衣商品にたいして関係させられた価値関係の内部においてだけ、妥当することなのである。 しかし、一物の属性は、他物にたいするその関係から発生するのではなくて、むしろこのような関係においてただ実証されるだけのものであるから、上衣もその等価形態を、すなわち、直接的な交換可能性というその属性を、同じように天然にもっているかのように、それはちょうど、重いとか温いとかいう属性と同じもののように見える。

 このことから等価形態の謎が生まれるのであって、それは、この形態が完成した形で貨幣となって、経済学者に相対するようになると、はじめてブルジョア的に粗雑(そざつ)な彼の眼を驚かすようになる。そうなると彼は、金や銀の神秘的な性格を明らかにしようとして、これらのものを光り輝くことのもっと少ない商品にすりかえて、いつもたのしげに、すべて下賤な商品で、その時々に商品等価の役割を演じたものの目録を、述べ立てるのである。彼は、亜麻布20エレ=上衣1着というようなもっとも簡単な価値表現が、すでに等価形態の謎を解くようにあたえられていることを、想像してもみないのである。


9. 等価のつとめをしている商品の物体は、つねに抽象的に人間的な労働の体現として働いており、しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。したがって、この具体的労働は、抽象的に人間的な労働の表現となる。例えば、上衣が、抽象的に人間的な労働の単なる実現となっているとすれば、実際に上衣に実現されている裁縫が、抽象的に人間的な労働の単なる実現形態として働いているわけになる。亜麻布の価値表現においては、裁縫の有用性は、裁縫が衣服をつくり、したがってまた人をもつくる〔ドイツには「着物は人をつくる」という諺がある。訳者〕ということにあるのでなく、次のような一つの物体をつくるところにあるのである。
  すなわちこの物体にたいして、人は、それが価値であるという風に、したがって、亜麻布価値に対象化されている労働から少しも区別されない、労働の凝結物(ぎょうけつぶつ)であるというように、みなしてしまうのである。このような一つの価値鏡を作るために、裁縫自身は、人間労働であるというその抽象的な属性以外には、何ものをも反映してはならない。


10. 裁縫の形態でも、機織の形態でも、人間労働力は支出されるのである。したがって、両者は、人間労働の一般的な属性をもっている。そしてこのために一定のばあいには、例えば、価値生産においては、ただこの観点からだけ考察すればいいのである。すべてこれらのことは、神秘的なことではない。しかし、商品の価値表現においては、事柄は歪(ゆが)められる。
  例えば、機織が機織としての具体的な形態においてではなく、人間労働としてのその一般的な属性おいて、亜麻布価値を形成するということを表現するために、機織にたいして、裁縫が、すなわち亜麻布等価物を作りだす具体的労働が、抽象的に人間的な労働の摑(つか)みうべき実現形態として、対置されるのである。


11. それゆえに、具体的労働がその反対物、すなわち、抽象的に人間的な労働の現象形態となるということは、等価形態の第二の特性である。

12. しかしながら、この具体的労働、すなわち裁縫は、無差別な人間労働の単なる表現として働くことによって、他の労働、すなわち、亜麻布にひそんでいる労働と等一性の形態をもち、したがって、他の一切の商品生産労働と同じように私的労働ではあるが、しかし直接に社会的な形態における労働である。まさにこのために、この労働は、直接に他の商品と交換しうる一つの生産物に表わされている。このように、私的労働がその反対物の形態、すなわち、直接に社会的な形態における労働となるということは、等価形態の第三の特性である。

13. 最後に述べた等価形態の二つの特性は、価値形態、ならびにきわめて多くの思惟形態、社会形態および自然形態を、最初に分析した偉大なる探求者にさかのぼって見るとき、もっと解りやすくなる。それはアリストテレスである。



14. 商品の貨幣形態が、単純なる価値形態、すなわち、なんらか任意の他の商品における一商品の価値の表現のさらに発展した姿にすぎないということを、アリストテレスは最初に明言している。というのは彼はこう述べているからである。
    「しとね〔寝台〕5個=家1軒」〔ギリシャ語省略〕
 ということは
    「しとね〔寝台〕5個=貨幣-定額」〔ギリシャ語省略〕
 ということと「少しも区別はない」と。

15. 彼はさらにこういうことを看取している。この価値表現をひそませている価値関係は、それ自身として、家がしとねに質的に等しいとおかれるということと、これらの感覚的にちがった物が、このような本質の等一性なくしては、通約しうる大いさとして相互に関係しえないであろうということとを、条件にしているというのである。彼はこう述べている。「交換は等一性なくしては存しえない。だが、等一性は通約し得べき性質なくしては存しえない」〔ギリシャ語省略〕と。しかし、彼はここで立ちどまって、価値形態を、それ以上分析することをやめている。
  「しかしながら、このように種類のちがった物が通約できるということ」、すなわち、質的に同一であるということは「真実には不可能である」〔ギリシャ語省略〕。この等置は、物の真の性質に無関係なものでしかありえない、したがって、ただ「実際的必要にたいする緊急措置」でしかありえないと。


16. アリストテレスは、このようにして、どこで彼のそれ以上の分析が失敗しているかということについてすら、すなわち、価値概念の欠如(けつじょ)についてすら、述べているわけである。等一なるものは何か?すなわち、しとね〔寝台〕の価値表現において、家がしとね〔寝台〕に対していいあらわしている共通の実体は何か?そんなものは「真実には存しえない」と、アリストテレスは述べている。
  なぜか?家はしとね〔寝台〕にたいしてある等一物をいいあらわしている、家が、しとね〔寝台〕と家という二つの物で現実に同一なるものをいいあらわしているかぎりにおいて。そしてこれが――人間労働なのである。

17. しかしながら、商品価値の形態においては、すべての労働が等一なる人間労働として、したがって等一的に作用しているものとして表現されているということを、アリストテレスは、価値形態自身から読み取ることができなかった。というのは、ギリシア社会は奴隷労働にもとづいており、したがって、人間とその労働力の不等を自然的基礎としていたのであるからである。価値表現の秘密、すなわち一切の労働が等しく、また等しいと置かれるということは、一切の労働が人間労働一般であるから、そしてまたそうあるかぎりにおいてのみ、言えることであって、だから、人間は等しいという概念が、すでに一つの強固な国民的成心となるようになって、はじめて解きうべきものとなるのである。しかしながら、このことは、商品形態が労働生産物の一般的形態であり、しがってまた商品所有者としての人間相互の関係が、支配的な社会的関係であるような社会になって、はじめて可能である。
  アリストテレスの天才は、まさに彼が商品の価値表現において、等一関係を発見しているということに輝いている。 ただ彼の生活していた社会の歴史的限界が、妨げとなって、一体「真実には」この等一関係は、どこにあるかを見いだせなかったのである。

・・・3 等価形態 終わり ・・・



 4 単純な価値形態の総体

1.  ある商品の単純な価値形態は、その商品の他のある異種商品にたいする価値関係に、またはこの
商品との交換関係に含まれている。商品Aの価値は、質的には商品Bの商品Aとの直接的な文換可能性によって表現されている。この価値は量的には、商品Bの一定量が商品Aの一定量と交換されうるということによって、表現されている。他の言葉でいえば、ある商品の価値は、「交換価値」として現示されることによって、独立的に表現されている。この章のはじめに、普通に行なわれているように、商品は使用価値であり、また交換価値であるといったのであるが、このことは、正確にいえば誤りであった。商品は使用価値または使用対象であり、また「価値」である。商品は、その価値が、その自然形態とちがった独自の現象形態、すなわち交換価値という現象形態Erscheinungsformをとるとともに、ただちに本来の性質であるこのような二重性として示される。そして商品は、この形態を、決して孤立して考察するばあいにもっているのでなく、つねに第二の異種の商品にたいする価値関係、または交換関係Wert- oder Austauschverhältnisにおいてのみ、もっているのである。だが、このことを知ってさえいれば、先の言い方は無害であって、簡略にするに役立つのである。


2. われわれの分析の証明するところによれば、商品の価値形態、またはその価値表現は、商品価値の
本性Natur des Warenwertsから出てくるもので、逆に価値や価値の大いさWertgrößeが、交換価値としてのその表現様式から出てくるものではない。だが、このことは、重商学派とフェリエやガニール等(22)のような、その近代の蒸し返し屋たちの妄想であるとともに、またその対立者であるバスティアとその一派のような、近代自由貿易の外交員たちのそれでもある。重商学派は重点を、価値表現の質的側面に、したがって、貨幣として完成された姿になる商品の等価形態に置いている。――これに反して、近代自由貿易外交員たちは、その商品を、どんなにしても売り払わなければならないので、重点を相対的価値形態の量的側面においている。したがって、彼らにとっては商品の価値も価値の大いさも、交換関係を通した表現以外には存しないし、したがってただその日その日の時価表の中だけに存するのである。スコットランド人のマクラウドは、ロンバート・ストリートのもうろうたる観念を、できるだけ博学にめかし立てることを仕事にしているが、迷信的な重商学派と啓蒙された自由貿易外交員との間をうまくまとめている。

 (注22) 第2版への注。F・L・A・フェリエ(副関税検察官)、『商業にたいする関係で見た政府の考察』パリ、1805年、およびシャルル・ガニール『経済学体系』第2版、パリ、1822年。


3.  商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現を、くわしく考察すると、その内部に
おいて、商品Aの自然形態は、ただ使用価値の姿としてのみ、商品Bの自然形態は、ただ価値形態または価値の姿としてのみはたらいていることが明らかになった。それゆえに、商品の中に包みこまれている使用価値と価値の内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち、二つの商品の関係によって示されている。この関係において、価値が表現さるべき一方の商品は、直接にただ使用価値としてのみ、これにたいして身をもって価値を表現する他方の商品は、直接にただ交換価値としてのみ、働いている。それゆえに、ある商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態である。

4.  労働生産物は、どんな社会状態においても使用対象である。しかし、ただある歴史的に規定された
発展段階のみが、一つの使用物の生産に支出された労働を、そのものの「対象的」属性"gegenständliche" Eigenschaftとしてすなわち、その価値として表わすのであって、この発展段階が、労働生産物を商品に転化するのである。したがって、このことから、商品の単純なる価値形態は、同時に労働生産物の単純なる商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展も価値形態の発展と一致するという結果になる。


5.  一見すれば、すぐ単純な価値形態の不充分さがわかる。この形態は、一連の変態Metamorphoseをへて、やっと価格形態に成熟してくる萌芽形態Keimformなのである。

6.  なんらかの一商品Bにおける表現は、商品Aの価値を、ただそれ自身の使用価値から区別するのみであって、したがって、この商品を、ただそれ自身とちがった個々の商品種の何かにたいよる交換関係に置くのみであって、他の一切の商品との質的等一性と量的比率qualitative Gleichheit und quantitative Proportionalitätとを示すものではないのである。ある商品の単純なる相対的価値形態には、他の一商品の個々の等価形態が対応している。だから、上衣は亜麻布の相対的価値表現においては、この個々の商品種たる亜麻布と関連して、等価形態、または直接的交換可能性の形態を有するゐみである。


7.  だが、個々の価値形態はおのずから、より完全な形態に移行する。この単純な形態によっては、一商品Aの価値は、ただ一つの他の種の商品に表現されるのではあるが、この第二の商品が、どんな種類のものか、上衣か、鉄か、小麦その他の何か、というようなことは、全くどうでもよいのである。したがって、この商品がある商品種と価値関係にはいるか、それとも他の商品種と価値関係にはいるかによって、それぞれ同一商品のちがった単純な価値表現が成立する(22a)。それらの可能な価値表現の数は、ただそれぞれちがった商品種の数によって制限されるのみである。したがって、(*)その商品の個別的な価値表現は、そのそれぞれちがった単純な価値表現の、いくらでも延長されうる列に転化されるのである。

〔(*) JIhr vereinzelter Wertausdruck verwandelt sich daher in die stets verlängerbare Reihe ihrer verschiednen einfachen Wertausdrücke.  *verwandelt:verwandeln に姿を変える、に変貌する(【劇】:場面を転換する;die Szene verwandeln.) 参照;中山元訳 だからその商品の個々の価値表現は、さまざまに異なる単純な価値表現の系列へと変容しverwandelt、この系列はたえず長くなる一方である。(日経BP社)

(注22a) 第2版への注。例えば、ホメロスにあっては、一物の価値は、それぞれちがった物の列として表現されている。



B 総体的または拡大せる価値形態

 z量商品A= u量商品B または v量商品C または = w量商品D または = x量商品E または =その他
(亜麻布20エレ=上衣1着 または =茶10ポンド または =コーヒー40ポンド または =小麦1クウォーター または =金2オンス または =鉄1/2トン または =その他 )

 1 拡大された相対的価値形態

1. 一商品、例えば、亜麻布の価値は、いまでは商品世界の無数の他の成素に表現される。すべての他の商品体は亜麻布価値の反射鏡となる(23)。こうしてこの価値自身は、はじめて真実に無差別な人間労働の凝結物として現われる。なぜかというに、価値を形成する労働は、いまや明瞭に、一切の他の人間労働がそれに等しいと置かれる労働として、表わされており、その労働がどんな自然形態をもっていようと、したがって、それが上衣に対象化せられようと、小麦や鉄または金等々に対象化せられようと、これを問わないからである。したがって、いまや亜麻布は、その価値形態によって、もはやただ一つの個々の他の商品種と社会関係にあるだけでなく、商品世界と社会関係に立っているのである。それは、商品としてこの世界の市民なのである。同時に、この市民たる表現の無限の序列の中にあるから、商品価値は、使用価値が、どんな形態であろうと、その特別の形態にたいして、無関心であることにもなるわけである。

(23) それゆえに、人は亜麻布の価値が上衣で示されるばあいには、亜麻布の上衣価値について語り、これを穀物で示すばあいには、その穀物価値について語ることになる、等々。上衣、穀物等々の使用価値に現われるのが、亜麻布の価値であるということを、すべてこのような表現は言っていることになる。「あらゆる商品の価値は、〔なんらか他の商品との〕交換におけるその比率を示すのであるから、われわれは価値について、その商品が比較される商品にしたがって、それぞれ穀物価値、布価値……という風に語ることができるわけである。したがってまた、それぞれちがった数千の価値種があり、商品のあるかぎり、これと同じ数の価値がある。そしてすべての価値が、同じように真実であり、また同じように名目的である」(『価値の性質、尺 度および原因にかんする批判的一論考、主としてリカード氏とその追随者たちの著作に関連して』『所信の形成と公表にかんする諸論』の著者による。ロンドン、1825年、39ページ〔邦訳、鈴木鴻一郎訳『リカアド価値論の批判』日本評論社、世界古典文庫、54ページ〕)。S・ベイリーが、当時イギリスで大さわぎをひき起こしたこの匿名の著作の著者であるが、彼は、このように同一商品価値の相対的表現の乱雑さを指摘することによって、価値の一切の概念規定を破壊したと妄信している。だが、彼自身の偏狭固陋にもかかわらず、リカードの理論の痛い所を探り当てていたということを、リカード学派の彼を攻撃した激昂が証明した。例えば『ウェストミンスター・レヴュー』所載。

2. 亜麻布20エレ=上衣1着 という第1の形態においては、これら二つの商品が、一定の交換比率で交換されるということは、偶然の事実であるかもしれない。これに反して、第二の形態では直ちに、偶然の現象と本質的に区別され、かつこれを規定する背景が、露われている。亜麻布の価値は、上衣で示されようと、コーヒーや鉄等々で示されようと、種々雑多な所有者に属する無数にちがった商品で示されようと、同じ大いさである。二人の個人的な商品所有者の偶然的な関係はなくなってしまう。交換が商品の価値の大いさを規制するのでなく、逆に商品の価値の大いさが、その交換比率を規制するのであるということは、明瞭となっている。


 2 特別な等価形態

 上衣、茶、小麦、鉄等々というような商品は、それぞれ亜麻布の価値表現においては、等価として、したがってまた価値体として働いている。これらの商品のおのおのの特定なる自然形態は、いまでは多くの他の商品とならんで、一つの特別な等価形態である。同じように、各種の商品体に含まれている特定の具体的な有用な多種多様の労働種は、いまではそれと同じ数だけ、無差別の人間労働を、特別な実現形態または現象形態で示すことになっている。

 3 総体的または拡大された価値形態の欠陥

1. 第一に、商品の相対的な価値表現は未完成である。というのは、その表示序列がいつになっても終わらないからである。一つの価値方程式が、他のそれを、それからそれとつないでいく連鎖は、引きつづいてつねに、新しい価値表現の材料を与えるあらゆる新たに現われる商品種によって引き延ばされる。第二に、それは崩壊しがちな雑多な種類の価値表現の色とりどりの寄木細工をなしている。最後に、あらゆる商品の相対的価値は、この拡大された形態で表現されざるをえないのであるが、そうなると、あらゆる商品の相対的価値形態は、すべての他の商品の相対的価値形態とちがった無限の価値表現の序列である。―拡大された相対的価値形態の欠陥は、これに相応する等価形態に反映する。すべての個々の商品種の自然形態は、ここでは無数の他の特別な等価形態とならんで、一つの特別な等価形態であるのであるから、一般にただ制限された等価形態があるだけであって、その中のおのおのは他を排除するのである。これと同じように、すべての特別な商品等価に含まれている特定の具体的な有用労働種は、ただ人間労働の特別な、したがって十全でない現象形態である。人間労働は、その完全な、または総体的な現象形態を、かの特別な現象形態の総体的広がりの中にもってはいるか、なんら統一的の現象形態をもたない。

2. だが、拡大された相対的価値形態は、ただ単純な相対的価値表現、または第一形態の諸方程式の総和から成っているだけである。例えば
    亜麻布20エレ=上衣1着
    亜麻布20エレ=茶10ポンド 等々

3. これらの諸方程式のおのおのは、だが、両項を逆にしても同じ方程式である、
    上衣1着=亜麻布20エレ
    茶10ポンド=亜麻布20エレ 等々

4. 実際上、一人の男がその亜麻布を多くの他の商品と交換し、したがってその価値を、一連の他の商品の中に表現するとすれば、必然的に多くの他の商品所有者もまた、その商品を亜麻布と交換し、したがって、彼らの種々の商品の価値を同一の第三の商品、すなわち、亜麻布で表現しなければならぬ。―かくて、もしわれわれが、亜麻布20エレ=上衣1着 または =茶10ポンド または =その他 というような序列を逆にするならば、すなわち、われわれが、実際にはすでに序列の中に合まれていた逆関係を表現するならば、次のようになる。

 

  
C 一般的価値形態


 上着1着      =    
 茶10ポンド    =
 コーヒー40ポンド =
 小麦1クォーター   =    } 亜麻布20エレ
 金2オンス     =
 鉄1/2トン     =
 A商品x量     =
 その他の商品量   =


 1 価値形態の変化した性格  Veränderter Charakter der Wertform

1. 諸商品は、その価値をいまでは第一に、唯一の商品で示しているのであるから、単純に表わしていることになる。また第二に、同一商品によって示しているのであるから、統一的に表わしていることになる。それら商品の価慎形態は、単純で共同的であり、したがって一般的である。

2. 第一および第二の形態は、二つとも、一商品の価値を、その商品自身の使用価値、またはその商品体から区別したあるものとして表現するために、生じたものにすぎなかった。

3. 第一の形態は、上衣1着 = 亜麻布20エレ、茶10ポンド = 鉄1/2トン 等々というような価値方程式を作り出した。上衣価値は亜麻布に等しいものとして、茶価値は鉄に等しいものとして、というようなふうに表現される。しかしながら、亜麻布に等しいものと鉄に等しいもの、このような上衣および茶の価値表現は、亜麻布と鉄とがちがっているのと同じようにちがっている。この形態が明瞭に実際に現われるのは、ただ、労働生産物が、偶然的な、そして時折の交換によって商品に転化されるような、そもそもの端緒においてである。

4. 第二の形態は、第一のそれより完全に、商品の価値を、それ自身の使用価値から区別する。なぜかというに、例えば上衣の価値は、ここではその自然形態に、あらゆる可能な形態で、例えば亜麻布に等しいものとして、鉄に等しいもの、茶に等しいもの等として、すなわちただ上衣に等しいものでないだけで他の一切のものに等しいものとして、相対するからである。他方において、ここには商品のあらゆる共通な価値表現は、ただちにできなくされている。なぜかというに、ここでは一商品ごとに価値表現を行なって、すべての他の商品は、ただ等価の形態で現われるにすぎないからである。ある労働生産物、例えば家畜がもはや例外的にでなく、すでに習慣的に各種の他の商品と交換されるようになると、まず拡大された価値形態が、事実上出現するのである。

5. 新たに得られた形態は、商品世界の諸価値を、同一なる、この世界から分離された商品種で表現する、例えば亜麻布で、そしてすべての商品の価値を、かくて、その亜麻布と等しいということで示すのである。亜麻布に等しいものとして、あらゆる商品の価値は、いまやただそれ自身の使用価値から区別されるだけでなく、一切の使用価値から区別されるのである。そしてまさにこのことによって、この商品とあらゆる商品とに共通なるものとして表現される。したがって、この形態にいたって初めて現実に、商品を価値として相互に相関係させ、またはこれらを相互に交換価値として現われさせるようになる。

6. 先の二つの形態は、商品の価値を唯一の異種の商品をもってするばあいと、この商品と異なる多くの商品の序列をもってするばあいとの違いはあるが、いずれにしても一商品ごとに表現するのである。両場合ともに、価値形態を与えられるのは、個々の商品のいわば私事である。そして個々の商品は他の商品の協力なしに、このことをなすのである。他の諸商品は、先の一商品にたいして等価形態という単なる受動的の役割を演ずるのである。これに反して一般的価値形態は、商品世界の共通の仕事としてのみ成立するのである。一商品が一般的価値表現を得るのは、ただ、同時に他のすべての商品がその価値を同一等価で表現するからである。そして新たに現われるあらゆる商品種は、これを真似なければならない。このことによって、こういうことがはっきりとしてくる、すなわち、諸商品の価値対象性も、それがこれら諸物の単なる「社会的存在」であるのであるから、その全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって、その価値形態は、社会的に妥当する形態でなければならないということである。

7. 亜麻布に等しいものの形態において、いまではあらゆる商品が、ただに質的に等しいもの、すなわち価値一般としてだけでなく、同時に量的に比較しうる価値の大いさとしても現われる。すべての商品が、その価慎の大いさを同一材料で、亜麻布で写し出すのであるから、これらの価値の大いさは、交互に反映し合うのである。例えば 茶10ポンド = 亜麻布20エレ、さらに コーヒー40ポンド = 亜麻布20エレ. したがって、茶10ポンド = コーヒー40ポンド というようにである。あるいは1ポンドのコーヒーには、ただ1ポンドの茶におけるものの4分の1だけの価値実体、すなわち、労働が含まれているというようにである。

8. 商品世界の一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価商品である亜麻布に、一般的等価の性質をおしつける。亜麻布自身の自然形態は、この世界の共通な価値態容であり、したがって、亜麻布は他のすべての商品と直接に交換可能である。この物体形態は、一切の人間労働の眼に見える化身として、一般的な社会的な蛹化(ようか)としてのはたらきをなす。機織という亜麻布を生産する私的労働は、同時に一般的に社会的な形態、すなわち、他のすべての労働との等一性の形態にあるのである。一般的価値形態を成立させる無数の方程式は、順次に亜麻布に実現されている労働を、他の商品に含まれているあらゆる労働に等しいと置く。そしてこのことによって、機織を人間労働そのものの一般的な現象形態にするのである。このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実的労働のすべての具体的形態と有用なる属性とから抽象された労働として、たんに否定的に表示されるだけではない。それ自身の肯定的性質が明白に現われるのである。それは、すべての現実的労働を、これに共通なる人間労働の性質に、人間労働力の支出に、約元したものなのである。

9. 労働生産物を、無差別な人間労働のたんなる凝結物として表示する一般的価値形態は、それ自身の組立てによって、それが商品世界の社会的表現であるということを示すのである。このようにして、一般的価値形態は、この世界の内部で労働の一般的に人間的な性格が、その特殊的に社会的な性格を形成しているのを啓示するのである。


 C 一般的価値形態
 2 相対的価値形態と等価形態の発展関係




  2 相対的価値形態と等価形態の発展関係


1. 相対的価値形態の発展程度に、等価形態の発展程度が応ずる。しかしながら、そしてこのことはよく銘記されなければならぬのであるが、等価形態の発展は相対的価値形態の発展の表現であり、結果であるにすぎない。

2. ある商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的な等価にする。相対的価値の拡大された形態、一商品の価値の他のすべての商品におけるこのような表現は、これらの商品に各種の特別な等価の形態を刻印する。最後に、ある特別な商品種が一般的等価形態を得る。というのは、他のすべての商品が、これを自分たちの統一的一般的な価値形態の材料にするからである。

3. しかしながら、価値形態一般が発展すると同じ程度で、その二つの極たる相対的価値形態と等価形態の間の対立もまた発展する。

4. すでに第一の形態―亜麻布20エレ=上衣1着―がこの対立を含んでいる。しかしまだ固定してはいない。同じ方程式が順に読まれるか、逆に読まれるかにしたがって、亜麻布と上衣というような両商品極のおのおのが、同じように、あるときは相対的価値形態に、あるときは等価形態にあるのである。このばあいにおいては、なお両極的対立を固着せしめるのに骨が折れる。

5. 第二の形態では、依然としてまだ各商品種ごとに、その相対的価値を全体として拡大しうるのみである。言葉をかえていえば、各商品種自身は、すべての他の商品がこれにたいして等価形態にあるから、そしてそのかぎりにおいて、拡大せる相対的価値形態をもっているにすぎないのである。このばあいにおいては、もはや価値方程式―亜麻布20エレ=上衣1着 または =茶10ポンド または =小麦1クォーター等々―の両項を移し換えると、その総性格を変更し、これを総体的価値形態から一般的価値形態に転換させてしまうほかはないことになる。

6. 最後の形態である第三形態は、ついに商品世界にたいして一般的社会的な相対的価値形態を与える、それは、唯一の例外を除いて、この世界に属するすべての商品が一般的等価形態から排除されるからであり、またそのかぎりにおいてである。ある商品、すなわち亜麻布は、したがって、他のすべての商品と直接的な交換可能性の形態に、あるいは直接的に社会的な形態にある。というのは、他の一切の商品がこの形態をとっていないからであり、また、そのかぎりにおいてである(24)。

 (注24) 人は、一般的な直接的な交換可能性の形態について、その形態が対立的な商品形態であって、直接的な交換可能性でない形態から、一つの電極
の陽性が他の極の陰性にたいすると同じように、分離しえないものであることを、事実上すこしも見ようとしない。したがって、すべての商品に、同時に直接的交換可能性の刻印を押しつけることができるという風に、妄想を描いているようである。ちょうどあらゆるカトリック信者を、教皇にすることができると思いこんでいる人があるように。商品生産に人間の自由と個人の独立の nec plus ultra (絶頂)を見る小市民にとっては、この形態に結びつけられている不都合を、ことに商品の直接に交換可能でないということを、除くことは、むろんきわめて願わしいことであろう。この俗人的空想境の色どりを示しているのは、プルードンの社会主義である。それは、私が他の所で示したように、独創という功績すらもっていないのであって、彼よりずっと以前にグレーやブレーその他の人々によって、はるかにうまく展開されたのである。このことは、このようなこざかしさが、今日ある仲間で「科学」の名で流行するというようなことをさまたげないのである。プルードン学派ほどに、「科学」という言葉を乱用した学派はかつてなかった。なぜかというに、 「ちょうど概念のない所へ詞(ことば)が猶予なく差し出ているものだ」〔ゲーテ『ファウスト』第1部、1995、森林太郎訳による〕から。


7. 逆に、一般的等価という役割を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがって一般的な相対的価値形態から排除される。亜麻布が、すなわち、一般的等価形態にあるなんらかのある商品が、同時に一般的相対的価値形態にもなるとすれば、その商品は、自分自身にたいして等価としてつかえるということにならなければなるまい。そうすると、われわれは、亜麻布20エレ=亜麻布20エレという式を得ることになる。これは内容のない繰り返しであって、そこには価値も価値の大いさも表現されてはいない。一般的等価の相対的価値を表現するためには、われわれはむしろ第三形態を引っくり返さなければならない。一般的等価は、他の商品と共同の相対的価値形態をもってはいないのであって、その価値は、すべての他の商品体の無限の序列の中に相対的に表現されるのである。このようにして、いまでは拡大せる相対的の価値形態または第二形態は、等価商品の特殊的な相対的価値形態として現われる。

 ・・・以上、 2 相対的価値形態と等価形態の発展関係 終わり・・・


  3 一般的価値形態から貨幣形態への移行

1.  一般的等価形態は価値一般の形態である。したがって、それは、どの商品にも与えられることがで
きる。他方において一商品は、それが他のすべての商品によって等価として除外されるために、そしてそのかぎりにおいてのみ、一般的な等価形態(第3形態)にあるのである。そして、この除外が、終局的にある特殊な商品種に限定される瞬間から、初めて商品世界の統一的相対的価値形態が、客観的固定性と一般的に社会的な通用性とを得たのである。

2.  そこでこの特殊なる商品種は、等価形態がその自然形態と社会的に合生するに至って、貨幣商品
となり。または貨幣として機能する。商品世界内で一般的等価の役割を演ずることが、この商品の特殊的に社会的な機能となり、したがって、その社会的独占となる。この特別の地位を、第2形態で亜麻布の`別の等価たる役を演じ、また第3形態でその相対的価値を共通に亜麻布に表現する諸商品のうちで、一定の商品が、歴史的に占有したのである。すなわち、金である。したがって、われわれが、第3形態において、商品金を商品亜麻布のかわりにおくならば、次のようになる。


 D 貨幣形態
 
   亜麻布20エレ    =
   上衣1着      =
   茶20封度      =
   コーヒー40封度   =  } 金2オンス
   小麦1クォーター  =
   鉄1/2トン     =
   A商品x量    

D 貨幣形態 Geldform

1.  第1形態から第2形態へ、第2形態から第3形態への移行にさいしては、本質的な変化が生じて
いる。これに反して、第4形態は、ただ亜麻布のかわりに、いまや金が一般的等価形態をもつに至ったということ以外には、第3形態と少しもことなるところはない。金は第4形態で亜麻布が第3形態であったとおりのもの、すなわち一般的等価にとどまるのである。進歩があるのは次のことだけである、すなわち、直接的な一般的な交換可能性の形態、または一般的な等価形態が、いまや社会的習慣によって、終局的に商品金の特殊な自然形態と合生してしまったということである。

2. 金が他の商品にたいして貨幣としてのみ相対するのは、金がすでに以前に、それらにたいして商品
として相対したからである。すべての他の商品と同じように、金も、個々の交換行為において個別的の等価としてであれ、他の商品等価と並んで特別の等価としてであれ、とにかく等価として機能した。しだいに金は、あるいは比較的狭い、あるいは比較的広い範囲で一般的等価として機能した。金が、商品世界の価値表現で、この地位の独占を奪うことになってしまうと、それは貨幣商品となる。そして金がすでに貨幣商品となった瞬闇に、やっと第4形態が第3形態と区別される。いい換えると一般的価値形態は貨幣形態に転化される。

3. すでに貨幣商品として機能する商品、例えば金における、一商品、例えば金における、一商品、例えば亜麻布の、単純な相対的価値表現は価格形態である。亜麻布の「価格形態」はしたがって、
      亜麻布20エレ=金2オンス
  または、もし2オンスの金の鋳貨名が、2ポンド・スターリングであるならば、
      亜麻布20エレ=2ポンド・スターリング
である。

4. 貨幣形態という概念の困難は、一般的等価形態の、したがって、一般的価値形態なるものの、すなわち、第3形態の理解に限られている。第3形態は、関係を逆にして第2形態に、すなわち、拡大された価値形態に解消する。そしてその構成的要素〔konstituierendes Element:構成する成素〕は第1形態である。すなわち、亜麻布20エレ=上衣1着 または A商品x量=B商品y量である。したがって、単純なる商品形態〔すなわち、A商品x量=B商品y量〕は貨幣形態の萌芽〔Keim:胚、胚芽〕である。


  第4節 商品の物神的性格とその秘密

第4節 商品の物神的性格とその秘密 

  Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis

 ■検索
 1. 感覚的にして超感覚的な物
 2. お互いの労働は社会的の形態を得る
 3. 謎にみちた性質はこの形態から
 4. 商品形態の神秘・・・物神的性格・・・
 5. 私的労働の複合が社会的総労働
 6. 私的労働の二重の社会的性格
 7. 労働生産物の価値発見は人類史上の画期・・・新約聖書「ヨハネの黙示録」
 8. 彼等の社会的運動は物の運動形態をとる
 9. 価値性格の確定は貨幣表現から
 10. 商品世界の神秘

 
 第4節 商品の物神的性格とその秘密 

   〔 感覚的にして超感覚的な物 〕

1. 一つの商品は、見たばかりでは自明的な平凡な物であるように見える。
これを分析して見ると、商品はきわめて気むずかしい物であって、形而上学的小理屈(けいじじょうがくてきこりくつ)と神学的偏屈(へんくつ)にみちたものであることがわかる。商品を使用価値として見るかぎり、私がこれをいま、商品はその属性によって人間の欲望を充足させるとか、あるいはこの属性は人間労働の生産物として得るものであるとかいうような観点のもとに考察しても、これに少しの神秘的なところもない。人間がその活動によって自然素材の形態を、彼に有用な仕方で変えるということは、真昼のように明らかなことである。例えば材木の形態は、もしこれで一脚の机を作るならば、変化する。それにもかかわらず、机が木であり、普通の感覚的な物であることに変わりない。しかしながら、机が商品として現われるとなると、感覚的にして超感覚的な物に転化する。机はもはやその脚で床(ゆか)の上に立つのみでなく、他のすべての商品にたいして頭で立つ。そしてその木頭から、狂想を展開する、それは机が自分で踊りはじめるよりはるかに不可思議なものである(注1)。

    (注1)シナと机とは、他のすべての世界が静止しているように見えたときに踊りはじめた(他の人々を元気づけるために)、ということが想い起こされる。



  〔 お互いの労働は社会的の形態を得る 〕

2. だから、商品の神秘的性質はその使用価値から出てくるものではない。それは、同じように価値規定の内容から出てくるものでもない。なぜかというに、第一に、有用な労働または生産的な活動がどんなにいろいろあるにしても、これが人間有機体の機能であり、かかる機能のおのおのが、その内容その形態の如何にかかわらず、本質的に人間の脳髄と神経と筋肉と感覚器官等の支出であるということは、生理学的真理であるからである。第二に、価値の大いさの規定の基礎にあるものは、すなわち、それらの支出の継続時間、または労働の量であるが、この量は、労働の質から粉(まご)うかたなく区別できるといってよい。どんな状態においても、生活手段の生産に用いられる労働時間は、発展段階のことなるにしたがって均等であるとはいえないが、人間の関心をもたざるをえないものである(注2)。 最後に、人間がなんらかの仕方でお互いのために労働するようになると、その労働は、また社会的の形態をも得るのである。
   
 (注2)第二版への注。古代ゲルマン人においては、一モルゲンの土地の大いさは、一日の労働にしたがって はかられた。したがって、一モルゲンは(日仕事)(男仕事)(男力)(男草地)(男刈地)等々と呼ばれた。ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・マウレル『マルク・農園・村落および都市諸制度ならびに公権の歴史序説』ミュンヘン、1854年


  〔 謎にみちた性質はこの形態から 〕

3. それで、労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎にみちた性質はどこから発生するのか?明らかにこの形態自身からである。人間労働の等一性は、労働生産物の同一なる価値対象性の物的形態をとる。人間労働力支出のその継続時間によって示される大小は、労働生産物の価値の大いさの形態をとり、最後に生産者たちの労働のかの社会的諸規定が確認される、彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態をとるのである。



  〔 商品形態の神秘 ・・・物神的性格・・・ 〕

4. それゆえに、商品形態の神秘に充ちたものは、単純に次のことの中にあるのである。すなわち、商品形態は、人間にたいして彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として、反映するということ、したがってまた、総労働にたいする生産者の社会的関係をも、彼らのほかに存する対象の社会的関係として、反映するということである。このquid proquo(とりちがえ)によって、労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または社会的な物となるのである。このようにして、ある物の視神経にたいする光印象は、視神経自身の主観的刺激としてでなく、眼の外にある物の対象的形態として示される。しかしながら、視るということにおいては、実際に光がある物から、すなわち外的対象から、他のある物、すなわち眼にたいして投ぜられる。それは物理的な物の間における物理的な関係である。これに反して、商品形態とそれが表われる労働諸生産物の価値関係とは、それらの物理的性質やこれから発出する物的関係をもっては、絶対にどうすることも出来ないものである。このばあい、人間にたいして物の関係の幻影的形態をとるのは、人間自身の特定の社会関係であるにすぎない。したがって、類似性を見出すためには、われわれは宗教的世界の夢幻境にのがれなければならない。ここでは人間の頭脳の諸生産物が、それ自身の生命を与えられて、相互の間でまた人間との間で相関係する独立の姿に見えるのである。商品世界においても、人間の手の生産物がそのとおりに見えるのである。私は、これを物神礼拝 Fetischismus と名づける。それは、労働生産物が商品として生産されるようになるとただちに、労働生産物に付着するものであって、したがって、商品生産から分離しえないものである。

 〔 商品世界の物神的性格・・・労働の独特な社会的性格・・・〕

5. 商品世界のこの物神的性格は、先に述べた分析がすでに示したように〔*注1〕、商品を生産する労働の独特な社会的性格から生ずるのである。


   〔 私的労働の複合が社会的総労働の形成 〕

6. 使用対象が一般に商品となるのは、もっぱらそれが相互に相独立して営まれる私的労働の生産物であるからである。これらの私的労働の複合が社会的総労働をなす。生産者たちは、彼らの労働生産物の交換によって、はじめて社会的接触にはいるのであるから、彼らの私的労働の特殊的に社会的なる性格も、この交換の内部においてはじめて現われる。いい換えると、私的労働は、事実上、交換のために労働生産物が、そしてこれを通じて生産者たちが置かれる諸関係によって、はじめて社会的総労働の構成分子たることを実証する。したがって、生産者たちにとっては、彼らの私的労働の社会的連結は、あるがままのものとして現われる。
すなわち、彼らの労働自身における人々の直接に社会的な諸関係としてでなく、むしろ人々の物的な諸関係として、また物の社会的な諸関係として現われるのである。


  〔 私的労働の二重の社会的性格 〕

7. 労働生産物はその交換の内部においてはじめて、その感覚的にちがった使用対象性から分離された、社会的に等一なる価値対称性を得るのである。労働生産物の有用物と価値物とへのこのような分裂は、交換がすでに充分な広さと重要さを得、それによって有用物が交換のために生産され、したがって事物の価値性格が、すでにその生産そのもののうちで考察されるようになるまでは、まだ実際に存在を目だたせるようにはならない。この瞬間から、生産者たちの私的労働は、事実上、二重の社会的性格を得るのである。これらの私的労働は、一方においては特定の有用労働として一定の社会的欲望を充足させ、そしてこのようにして総労働の、すなわち、社会的分業の自然発生的体制の構成分子であることを証明しなければならぬ。これらの私的労働は、他方において、生産者たち自身の多様な欲望を、すべてのそれぞれ特別に有用な私的労働がすべての他の有用な私的労働種と交換されうるかぎりにおいて、したがって、これと等一なるものとなるかぎりにおいてのみ、充足するのである。(全く)ちがった労働が等しくなるということは、それが現実に不等一であることから抽象されるばあいにのみ、それらの労働が、人間労働力の支出として、抽象的に人間的な労働としてもっている共通な性格に約元されることによってのみ、ありうるのである。
私的生産者の脳髄は、彼らの私的労働のこの二重な社会的性格を、ただ実際の交易の上で、生産物交換の中で現われる形態で、反映するのである。すなわち――したがって、彼らの私的労働の社会的に有用なる性格を、労働生産物が有用でなければならず、しかも他人にたいしてそうでなければならぬという形態で――異種の労働の等一性の社会的性格を、これらの物質的にちがった物、すなわち労働生産物の共通な価値性格の形態で、反映するのである。


  〔 労働生産物の価値発見は人類史上の画期をなす 〕

8. したがって、人間がその労働生産物を相互に価値として関係させるのは、これらの事物が、彼らにとって同種的な人間的労働の、単に物的な外被(がいひ)であると考えられるからではない。逆である、彼らは、その各種の生産物を、相互に交換において価値として等しいと置くことによって、そのちがった労働を、相互に人間労働として等しいと置くのである。彼らはこのことを知らない。しかし、彼らはこれをなすのである。したがって、価値のひたいの上には、それが何であるかということは書かれていない。〔→新約聖書「ヨハネの黙示録」〕 価値は、むしろあらゆる労働生産物を、社会的の象形文字(しょうけいもじ)に転化するのである。後になって、人間は、彼ら自身の社会的生産物の秘密を探(さぐ)るために、この象形文字の意味を解こうと試みる。なぜかというに、使用対象の価値としての規定は、言語と同様に彼らの社会的な生産物であるからである。労働生産物が、価値である限り、その生産に支出された人間労働の、単に物的な表現であるという、後の科学的発見は、人類の発展史上に時期を画するものである。しかし、決して労働の社会的性格の対象的外観同義語外観・仮象・Schein資本論「外観」、ヘーゲル「仮象」、ドイツ語「Schein」〕を逐(お)い払うものではない。この特別なる生産形態、すなわち、商品生産にたいしてのみ行なわれているもの、すなわち、相互に独立せる私的労働の特殊的に社会的な性格が、人間労働としてのその等一性にあり、そして労働生産物の価値性格の形態をとるということは、かの発見以前においても以後においても、商品生産の諸関係の中に囚(とら)われているものにとっては、あたかも空気をその成素に科学的に分解するということが、物理学的物体形態としての空気形態を存続せしめるのを妨げぬと同じように、終局的なものに見えるのである。


  〔 物の運動の形態をとりその運動に規制される 〕

9. 生産物交換者がまず初めに実際上関心をよせるものは、自分の生産物にたいしてどれだけ他人の生産物を得るか、したがって、生産物はいかなる割合で交換されるかという問題である。このような割合は、ある程度習慣的な固定性をもつまでに成熟すると同時に、労働生産物の性質から生ずるように見える。したがって、例えば1トンの鉄と2オンスの金とは、1ポンドの金と1ポンドの鉄が、その物理学的化学的属性を異にするにかかわらず同じ重さであるように、同じ価値であることになる。事実、労働生産物の価値性格は、価値の大いさとしてのその働きによってはじめて固定する。この価値の大いさは、つねに交換者の意志、予見、行為から独立して変化する。彼ら自身の社会的運動は、彼らにとっては、物の運動の形態をとり、交換者はこの運動を規制するのではなくして、その運動に規制される。相互に独立して営まれるが、社会的分業の自然発生的構成分子として、あらゆる面において相互に依存している私的労働が、継続的にその社会的に一定の割合をなしている量に整約されるのは、私的労働の生産物の偶然的で、つねに動揺せる交換諸関係において、その生産に社会的に必要なる労働時間が、規制的な自然法則として強力的に貫かれること、あたかも家が人の頭上に崩れかかるばあいにおける重力の法則のようなものであるからであるが(注3)、このことを、経験そのものの中から科学的洞察が成長してきて看破するに至るには、その前に完全に発達した商品生産が必要とされるのである。
労働時間によって価値の大いさが規定されるということは、したがって、相対的商品価値の現象的運動のもとにかくされた秘密である。その発見は、労働生産物の価値の大いさが、単なる偶然的な規定であるという外観・仮象・Schein〔資本論「外観」、ヘーゲル「仮象」、ドイツ語「Schein」〕をのぞくが、しかし、少しもその事物的な形態をなくするものではない。

    (注3)「周期的な革命によってのみ貫徹されうる法則を何と考えるべきであろうか?それはまさしく一つの自然法則であって、関与者たちの無意識にもとづいているものなのである」 (フリードリヒ・エンゲルス 『国民経済学批判大綱』、『独仏年誌(アーノルト・ルーゲおよびカール・マルクス編、パリ、1844年)

  〔 価値性格の確定は、貨幣表現から 〕

10. 人間生活の諸形態に関する思索、したがってまたその科学的分析は、一般に現実の発展とは対立した途を進む。このような思索は、(後から)始まり、したがって、発展過程の完成した成果とともに始まる。労働生産物に商品の刻印を捺(お)し、したがって、商品流通の前提となっている形態が、すでに社会生活の自然形態の固定性をもつようになってはじめて、人間は、彼らがむしろすでに不変であると考えている、このような諸形態の歴史的性質についてでなく、それらの形態の内包しているものについて、考察をめぐらすようになる。このようにして、価値の大いさの規定に導いたのは、商品価格の分析にほかならず、その価値性格の確定に導いたのは、商品が共同してなす貨幣表現にほかならなかったのである。ところが、私的労働の社会的性格を、したがって、私的労働者の社会的諸関係を明白にするかわりに、実際上蔽いかぶせてしまうのも、まさに商品世界のこの完成した形態――貨幣形態――である。私が、上衣、深靴等々は、抽象的人間的労働の一般的体現としての亜麻布に関係しているというとすれば、この表現の倒錯(とうさく)は、目を射るように明らかである。しかし、もし上衣や深靴等々の生産者たちが、これらの商品を一般的等価としての亜麻布に――あるいは事実上すこしもことなるところはないのだが、金や銀に―関係せしめるとすれば、彼らにとっては、その私的労働の社会的総労働にたいする関係は、正確にこの倒錯した形態で現われる。


   〔 商品世界の一切の神秘、一切の魔術と妖怪は、他の諸生産形態に移って見ると消えてなくなる 〕

11. このような形態が、まさにブルジョア的経済学の諸範疇(しょはんちゅう)をなしているのである。それは、この歴史的に規定された社会的生産様式の、すなわち、商品生産の生産諸関係にたいして、社会的に妥当した、したがって客観的である思惟形態なのである。それゆえに、商品生産にもとづく労働生産物を、はっきり見えないようしている商品世界の一切の神秘、一切の魔術と妖怪は、われわれが身をさけて、他の諸生産形態に移って見ると消えてなくなる。


12 経済学はロビンソン物語を愛好するから、まず、ロビンソンをかれの島に出現させよう。本来彼は控え目な男ではあったが、それでもとにかく彼は、各種の欲望を充足せしめなければならない。したがってまた、各種の有用労働をなさなければならない。道具を作り、家具を製造し、ラクバを馴らし、漁りし、猟をしなければならない。祈禱その他のことはここでは語らない。というのは、われわれのロビンソンは、このことに楽しみを見出し、このような活動を休息と考えているからである。彼の生産的な仕事がいろいろとあるにもかかわらず、彼は、それらの仕事が同じロビンソンのちがった活動形態にすぎないことを知っている。したがって、人間労働のちがった仕方であるにすぎないことを知っている。必要そのものが、彼の時間を、正確にそのちがった仕事の間に分配しなければならないようにする。
彼の総活動の中で、どの仕事が割合をより多く、どのそれがより少なく占めるかということは、目的とした有用効果の達成のために克服しなければならぬ困難の大小にかかっている。経験が彼にこのことを教える。そして、時計、台帳、インクおよびペンを難破船から救い出したわがロビンソンは、よきイギリス人として、まもなく自分自身について記帳しはじめる。彼の財産目録は、彼がもっている使用対象、彼の生産に必要な各種の作業、最後に、これら各種の生産物の一定量が、平均して彼に支出させる労働時間の明細表を含んでいる。ロビンソンと彼の自分で作り出した富をなしている物との間の一切の関係は、ここではきわめて単純であり、明白であって、M・ヴィルト氏すら、特別に精神を緊張させることなくとも、これを理解できるようである。そしてそれにもかかわらず、この中には価値の一切の本質的な規定が含まれている。

 (注29) 第2版への注。リカードにも彼のロビンソン物語がないわけではない。「彼は原始漁夫と原始猟師を、ただちに商品所有者にして魚と野獣とを交換させる、これらの交換価値に対象化されている労働時間に比例して。このおり、彼は、原始漁夫と原始猟師とが、彼らの労働要具の計算のために、1817年ロンドンの取引所で行なわれるような減価計算表を利用するという、時代錯誤に陥っている。″オーウェン氏の平行四辺形″は、彼がブルジョア的社会形態以外に識っている唯一の社会形態であるように見える」(カール・マルクス『批判』38.39ページ〔岩波文庫版、69.70ページ。新潮社版『選集』第7巻、86.87ページ〕)。

14 いまわれわれは、ロビンソンの明るい島から陰惨なヨーロッパの中世に移ろう。ここでは独立人のかわりに、すべての人が非独立的であるのを見出す―農奴と領主、家臣と封主、俗人と僧侶という風に。人身的な隷属ということが、物質的生産の社会的諸関係にも、その上に築かれている生活部面にも、特徴となっている。しかしながら、与えられた社会的基礎をなしているのは、まさしく人身的隷属関係であるのであるから、労働と生産物とは、その実在性とちがった幻想的な態容ihrer Realität verschiedne phantastische Gestaltをとる必要はない。それらのものは、奉仕として、また現物貢納として、社会の営為の中にはいる。労働の自然形態Die Naturalform der Arbeitと、そして商品生産の基礎におけるようにその一般性Allgemeinheitではなく、その特殊性Besonderheitとが、ここでは労働の直接に社会的な形態unmittelbar gesellschaftliche Formである。径役労働は、商品を生産する労働と同じように時間によってはかられる。だが、各農奴は、彼がその主人の仕事のために支出するのが、彼の個人的労働力の一定量であるということを知っている。

僧侶にたいして納むべき10分の1税は、僧侶の祝福よりずっとはっきりしている。したがって、人々がここで相対して着ている仮装die Charaktermaskenをどう観るにしても、彼らの労働における人々の社会的関係は、いずれにしても彼ら自身の人的の関係persönlichen Verhältnisseとして現われ〔gegenübertreten:向かい合って歩み出る〕、 物の、すなわち、労働生産物の社会的関係に扮装してはいないsind nicht verkleidet in gesellschaftliche Verhältnisse der Sachen, der Arbeitsprodukte.。

15 共同的な、すなわち直接に社会的となっている労働を考察するために、われわれはその自然発生的な形態、すなわち、すべての文化民族の歴史の入口で、われわれが出会うような形態に帰る必要はない。もっと身近な例をあげると、自家の欲望のために穀物や家畜や撚糸や亜麻布や衣服等を生産している、農家の田園的家父長的な産業がある。これら各種の物は、家族にとって、その家族労働のそれぞれの生産物である。しかしそれがお互いに商品として相対するのではない。これらの生産物を作り出す各種の労働、すなわち、農耕、牧畜、紡績、機織、裁縫等々は、それぞれの自然形態のままで社会的な機能gesellschaftliche Funktionenをなしている。というのは、それらは、商品生産と同じように、それ自身の自然発生的な分業naturwüchsige Teilung der Arbeitをもって行なわれている家族の機能であるからである。性別や年齢別、ならびに季節の変化とともに変化する労働の自然諸条件が、家族間における労働の分配と個々の家族員の労働時間とを規制する。しかしながら、継続時間によって測定される個人的労働力の支出は、ここでは、初めから労働自身の社会的規定として現われる。というのは個人的労働力は、本来家族の共同の労働力の器官としてのみ作用するからである。

 (注30) 第2版への注。
「自然発生的な共有財産制の形態が、特殊的にスラブ人的の形態であるとか、さらには、ロシア以外にはない形態であるなどというような主張は、最近拡がっている笑うべき偏見である。それは、ローマ人、ゲルマン人、ケルト人に立証されうる原始形態であるが、これについては、いろいろな見本でいっぱいの見本帳が、インド人の間に、部分的には崩壊しているが、なお依然として存している。アジア的な、とくにインドの共有財産形態のより正確な研究は、各種の自然発生的共有財産制の形態から、いかにその崩壊の種々の形態が出てくるかということを証明するであろう。こうして例えば、ローマ人やゲルマン人の私有財産制の各種の原型を、インド共有財産制の種々なる形態から導き出すことができるのである」(カール・マルクス『批判』10ページ〔ディーツ版『全集』第13巻、21ページ。邦訳、岩波文庫版、31ページ。新潮社版『選集』第7巻、63ページ〕)。


  〔 社会の生産有機体

16 最後にわれわれは、目先きを変えて、自由な人間の一つの協力体を考えてみよう。人々は、共同の生産手段をもって労働し、彼らの多くの個人的労働力を、意識して一つの社会的労働力として支出する。ロビンソンの労働の一切の規定がここで繰り返される。ただ、個人的であるかわりに社会的であることがちがっている。ロビンソンのすべての生産物は、もっぱら彼の個人的な生産物であった。したがってまた、直接に彼のための使用対象であった。この協力体の総生産物は一つの社会的生産物である。この生産物の一部は、再び生産手段として用いられてそれは依然として社会的である。しかしながら、他の部分は生活手段として、協力体の成員によって費消される。したがって、この部分は彼らの間に分配されなければならぬ。この分配の様式は、社会的生産有機体 〔gesellschaftlichen Produktionsorganismus :社会の生産有機体 〕自身の特別な様式とともに、またこれに相応する生産者の歴史的発展の高さとともに、変化するであろう。ただ商品生産と比較するために、各生産者の生活手段にたいする分け前は、その労働時間によって規定されると前提する。したがって、労働時間は二重の役割を演ずるであろう。労働時間の社会的に計画的な分配は、各種の労働機能が各種の欲望にたいして正しい比例をとるように規制する。他方において、労働時間は、同時に生産者の共同労働にたいする、したがってまた共同生産物の個人的に費消さるべき部分にたいする、個人的参加分の尺度として役立つ。人々のその労働とその労働生産物とにたいする社会的な連結は、このばあい生産においても分配においても簡単明瞭であることに変わりない。

17 商品生産者の一般的に社会的な生産関係は、彼らの生産物に商品として、したがって価値として相対し、また、この物的な形態の中に、彼らの私的労働が相互に等一の人間労働として相連結するということにあるのであるが、このような商品生産者の社会にとっては、キリスト教が、その抽象的人間の礼拝をもって、とくにそのブルジョア的発展たるプロテスタンティズム、理神論等において、もっとも適応した宗教形態となっている。古代アジア的な、古代的な、等々の生産様式においては、生産物の商品への転化、したがってまた人間の商品生産者としての存在は、一つの副次的な役割を演ずる。だが、この役割は、その共同体が没落の段階にすすむほど、重要となってくる。本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、あるいはポーランド社会の小穴の中のユダヤ人のように、古代世界の合間合間にのみ、存在している。かの古代の社会的生産有機体は、ブルジョア的なそれにくらべると、特別にずっと単純であり明瞭である。しかし、それは個々の人間が、他の人間との自然的な種族結合の臍の緒をまだ切り取っていない、その未成熟にもとづくか、あるいは直接的な支配関係または隷属関係にもとづいているのである。これらの諸関係は、労働の生産諸力の発展段階が低いということ、これに応じて、人間の物質的な生活をつくり出す過程の内部における諸関係、したがって相互間と自然とにたいする諸関係が、狭隘であるということによって、条件づけられている。このような実際の狭隘さは、思想的には古い自然宗教や民族宗教に反映されている。現実世界の宗教的反映は、一般に、実際的な日常勤労生活の諸関係が、人間にたいして、相互間のおよび自然との間の合理的な関係を毎日明瞭に示すようになってはじめて、消滅しうるものである。社会的生活過程、すなわち、物質的生産過程の態容は、それが自由に社会をなしている人間の生産物として、彼らの意識的な計画的な規制のもとに立つようになってはじめて、その神秘的なおおいをぬぎすてるのである。だが、このためには、社会の物質的基礎が、いいかえると一連の物質的存立条件が、必要とされる。これらの諸条件自体は、また永い苦悩にみちた発展史の自然発生的な産物である。



18 さて経済学は不完全ではあるが (注31) 価値と価値の大いさを分析したし、またこれらの形態にかくされている内容を発見したのではあるが、それはまだ一度も、なぜにこの内容が、かの形態をとり、したがって、なぜに労働が価値において、また労働の継続時間による労働の秤量が、労働生産物の価値の大いさの中に、示されるのか?(注32)という疑問をすら提起しなかった。生産過程が人々を支配し、人間はまだ生産過程を支配していない社会形成体に属するということが、その額に書き記されている諸法式は、人問のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものと同じように、自明の自然必然性と考えられている。したがって、社会的生産有機体の先ブルジョア的形態は、あたかも先キリスト教的宗教が、教父たちによってなされたと同じ取扱いを、経済学によって受けている(注33)。

 (注31) リカードの価値の大いさの分析
 ―そしてこれは最良のものである―に不十分なところがあることについては、本書の第3および第4巻で述べる。しかしながら、価値そのものについていえば、古典派経済学はいずこにおいても、明白にそして明瞭な意識をもって、価値に示されている労働を、その生産物の使用価値に示されている同じ労働から、区別することをしていない。古典派経済学は、もちろん事実上区別はしている。というのは、それは労働を一方では量的に、他方では質的に考察しているからである。しかしながら、古典派経済学には労働の単に量的な相違が、その質的な同一性または等一性を前提しており、したがって、その抽象的に人間的な労働への整約を前提とするということは、思いもよらぬのである。リカードは、例えば、デステュット・ド・トラシがこう述べるとき、これと同見解であると宣言している、すなわち「われわれの肉体的および精神的の能力のみが、われわれの本源的な富であることは確かであるから、これら能力の使用、すなわち一定種の労働は、われわれの本源的な財宝である。われわれが富と名づけるかの一切の物を作るのが、つねにこの使用なのである。……その上に、労働が作り出したかの一切の物は、労働を表わしているにすぎないことも確かである。そしてもしこれらの物が、一つの価値をもち、あるいは二つの相ことなる価値をすらもっているとすれば、これらの物は、これをただ自分がつくられてくる労働のそれ(価値)から得るほかにありえない」(リカード『経済学および課税の原理』第三版、ロンドン、1821年、〔邦訳、岩波文庫版、下巻、19ページ〕。〔デステュット・ドゥ・トラシ『観念学概要』第四・第五部、パリ、1826年、35・36ページ、参照〕)。われわれはリカードが、デステュットにたいして、彼自身のより深い意味を押しつけていることだけを示唆しておく。デステュットは、事実、一方では富をなす一切の物が「これを作り出した労働を代表する」と言っているが、他方では、それらの物が、その「二つのちがった価値」(使用価値と交換価値)を「労働の価値」から得ると言っている。彼は、これをもって、俗流経済学の浅薄さに堕ちている。俗流経済学は、一商品(この場合労働)の価値を前提して、これによって後で他の商品の価値を規定しようとするのである。リカードは彼をこう読んでいる、すなわち、使用価値においても交換価値においても、労働(労働の価値ではない)が示されていると。しかし彼自身は、同じく二重に表示される労働の二重性を区別していない。したがって、彼は、「価値と富、その属性の相違」という章全体にわたって、苦心してT・J・B・セイ程度の男の通俗性と闘わなければならない。したがって、最後にまた彼は、デステュットが、彼自身と価値源泉としての労働について一致するが、また他方で価値概念についてセイと調和することを、大変に驚いている。

 (注32) 古典派経済学に、商品の、とくに商品価値の分析から、まさに価値を交換価値たらしめる形態を見つけ出すことが達成されなかったということは、この学派の根本欠陥の一つである。A・スミスやリカードのような、この学派の最良の代表者においてさえ、価値形態は、何か全くどうでもいいものとして、あるいは商品自身の性質に縁遠いものとして取り扱われている。その理由は、価値の大いさの分析が、その注意を吸いつくしているということにだけあるのではない。それはもっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式のもっとも抽象的な、だがまたもっとも一般的な形態であって、この生産様式は、これによって社会的生産の特別なる種として特徴づけられ、したがって同時に歴史的に特徴づけられているのである。したがって、もし人あって、これを社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的に価値形態の、したがってまた商品形態の、さらに発展して、貨幣形態、資本形態等の特殊性をも看過することになる。それゆえに、労働時間による価値の大いさの秤定について全く一致する経済学者に、貨幣、すなわち一般的等価の完成体についての、もっとも混乱した、 そしてもっとも矛盾した観念を見ることになるのである。このことは、はっきりと、例えば銀行制度の取扱いにあらわれる。ここでは、貨幣の陳腐な定義だけでは、もはや間に合わなくたる。反対に、価値を社会的形態とだけ考え、あるいはむしろその実体のない幻影としか見ないような新装の重商主義(ガニール等々)が、ここに発生した。―これを最後にしておくが、私が古典派経済学と考えるものは、W・ペティ以来の一切の経済学であって、それは俗流経済学と反対に、ブルジョア的生産諸関係の内的関連を探究するものである。俗流経済学は、ただ外見的な関連のなかをうろつき廻るだけで、いわばもっとも粗けずりの現象を、尤もらしくわかったような気がするように、またブルジョアの自家用に、科学的な経済学によってとっくに与えられている材料を、絶えず繰りかえして反芻し、しかもその上に、ブルジョア的な生産代理者が、彼ら自身の最良の世界についてもっている平凡でうぬぼれた観念を、体系化し、小理窟づけ、しかもこれを永遠の真理として言言する、ということに限られているのである。

 (注33) 「経済学者たちは一種独特のやり方をするものだ。彼らにとっては、制度に二種類があるだけである。人工的なそれと、自然的なそれである。封建体制の制度は人工的のそれであり、ブルジョアジーの制度は自然的である。彼らはこの点では神学者に似ている。彼らも同じように二種の宗教をたてる。彼らの宗教でない宗政は、すべて人間の作ったものであるが、彼ら自身の宗教は神の啓示である。―かくて、歴史はそのようにつづいたのであるが、もはや歴史は終わった」(カール・マルクス 『哲学の貧困。プルードン氏の″貧困の哲学″に答えて』 1847年、112ページ〔ディーツ版『全集』第4巻、139ページ。邦訳、山村喬訳『哲学の貧困』岩波文庫版、132-133ページ。新潮社版『選集』第3巻、93-94ページ〕)。古代ギリシア人やローマ人が掠奪だけで生きていたと思っているバスティア氏は、まことにおかしい考え方だ。しかし、もし数世紀を通じて掠奪で生きられるとすれば、絶えず何か掠奪さるべきものが、ここになければならない。いいかえれば、掠奪の対象が継続的に再生産されなければならない。したがって、ギリシア人もローマ人も、一つの生産過程をもっていたようである。したがって、ブルジョア経済が今日の世界の物質的基礎をなしているのと全く同じように、彼らの世界の物質的基礎をなしていた経済をもっていたようである。それともバスティアは、奴隷労働にもとづく生産様式が、一つの掠奪体制によるものであるとでも考えているのだろうか? こうなると、彼の立っている土台があぶないことになる。アリストテレスほどの巨人思想家が、奴隷労働の評価において過っているとすれば、バスティアのようなこびと経済学者が、どうして賃金労働の評価において正しいことをいえようか?―私はこの機会を摑んで、私の著書『経済孚批判』(1859年)の刊行に際して、一ドイツ語アメリカ新聞によってなされた抗議を駁しておきたい。この新聞は、こういうのである、私の見解、すなわち、一定の生産様式とこれにつねに相応する生産諸関係、簡単にいえば「社会の経済的構造が、法律的政治的上部構造のよって立ち、かつこれにたいして一定の社会的意識形態が相応する現実的基礎である」ということ、「物質的生活の生産様式が社会的政治的および精神的生活過程一般を条件づける」〔ディーツ版『全集』第13巻、8-9ページ。邦訳、岩波文庫版、13ページ。新潮社
版『選集』第7巻、54ページ〕ということ、―すべてこれらのことは、物質的利益が支配している今日の社会にとっては正しいが、カ
トリック教が支配していた中世にたいしても、政治が支配していたアテネやローマにたいしても、当たらないというのである。まず第一に、おかしなことは、中世と古代世界にかんする、よく人の言うこれらのきまり文句を、誰か知っていない者がいると、前提したがる男がいることである。これだけのことは明らかである。すなわち、中世はカトリック教によって生きていられたわけでなく、古代世界は政治によって生きえたのでもない。彼らがその生活を維持していた仕方が、逆に、なぜ古代に政治が主役をつとめ、なぜ中世にカトリック教が主役であったかを説明するのである。なお、土地所有の歴史が、その秘密を語っているということを知るためには、例えばローマ共和国の歴史にそれほど通暁している必要はない。他方において、すでにドン・キホーテは、遍歴騎士が、社会のどんな経済形態とでも同じように調和するものだ、と妄信していた誤りにたいして、充分につぐないをうけた。


19 一部の経済学者が、どんなに商品世界に付着している物神礼拝、または社会的な労働規定の対象的外観・仮象・Schein〔資本論「外観」、ヘーゲル「仮象」、ドイツ語「Schein」〕gegenständlichen Scheinによって、謬(あやま)らされたかということを証明するものは、ことに、交換価値の形成における自然の役割についてなされた、退屈で愚劣な争論である。交換価値は、ある物の上に投ぜられた労働を表現する一定の社会的な仕方であるのだから、それはちょうど為替相場と同じように、少しの自然素材Naturstoffも含みえない。

20 商品形態は、ブルジョア的生産のもっとも一般的でもっとも未発達の形態であり、そのために商品形態は今日と同じように支配的で、したがって特徴的な仕方ではないが、すでに早く出現しているのであるから、その物神的性格Fetischcharakterは、比較的にはもっと容易に見破られていいように思われる。より具体的な形態を見ると、この単純さの外観・仮象・Schein〔資本論「外観」、ヘーゲル「仮象」、ドイツ語「Schein」〕dieser Schein der Einfachheit.すら消える。重金主義(モネタル・ジュステム)の幻想はどこから来たか?重金主義は、金と銀とにたいして、それらのものが貨幣として一つの社会的生産関係を表わしているが、特別の社会的属性をもった自然物の形態で、これをなしているということを見なかった。そして上品に重金主義を見下している近代経済学も、資本を取扱うようになると、物神礼拝Fetischismusにつかれていることが明白にならないか?地代が土地から生じて、社会から生ずるものでないという重農主義的な幻想は、消滅して以来どれだけの歳月を経たか?

21 だが、あまり先まわりしないために、ここではなお商品形態自身について、一例をあげるだけで沢山だろう。もし商品が話すことが出来たら、こういうだろう、われらの使用価値が人間の関心事なのであろう。使用価値は物としてわれらに属するものではない。が、われらに物として与えられているものは、われらの価値である。商品物としてのわれら自身の交易が、このことを証明している。われらはお互いに交換価値としでのみ、関係しているのである。そこでいかに経済学者が商品の心を読みとって語るかを聴け。曰く「価値(交換価値)は物の属性であり、富(使用価値)は人の属性である。この意味で価値は必然的に交換を含んでいるが、富はそうでない(注34)」。「富(使用価値)は人間の特性であるが、価値は商品の特性である。一人の人間または一つの社会は富んでいる。一個の真珠または一個のダイヤモンドには価値がある。……一個の真珠または一個のダイヤモンドは、真珠またはダイヤモンドとして価値をもっている(注35)」。

 (注34) „Value is a property of things, riches of men. Value,in this sense, necessarily implies exchange, riches do not.“ (『経済学におけるある種の言葉の争いについての考察、とくに価値ならびに需要および供給に関連して』ロンドン、1821年、16ページ)

 (注35) „Riches are the attribute of man, value is the attribute of commodities. A man or a community is rich, a pearl or a diamond is valuable. ・・・・・ A pearl or a diamond is valuable as a pearl or diamond.“ (S・ベイリー『価値の性質、尺度および原因にかんする批判的一論考』165ページ〔邦訳、鈴木鴻一郎訳『リカード価値論の批判』151ページ〕)

22 これまでまだ、一人の化学者として、真珠またはダイヤモンドの中に、交換価値を発見したものはない。しかし、特別の深い批判力をもっているこの化学的実体の経済学的発見者たちは、物財の使用価値が、その物的属性から独立しているのに反して、その価値は、物としての属性に属しているということを発見している。彼らがここで立証することは、物の使用価値は人間にとって交換なしで実現され、したがって、物と人間との間の直接的関係において実現されるのに、逆にそれらの価値は交換においてのみ、すなわち、社会的過程においてのみ実現されるという特別の事態である。誰かここであの愛すべきドッグベリを思い出さないであろうか。彼は夜警人のシーコールにこう教えている、「立派な容貌の男であるのは境遇の賜物だが、読み書きが出来るということは生まれつきだ(注36)」〔シェイクスピア『むだ騒ぎ』。……訳者〕。

 (注36) 『考察』の著者およびS・ベイリーは、リカードを非難して、彼は交換価値を、相対的にすぎないものから、何か絶対的なものに転化したと言っている。逆だ。彼は、これらの物、例えばダイヤモンドと真珠とが交換価値として有する仮装相対性を、この外観・仮象・Schein〔資本論「外観」、ヘーゲル「仮象」、ドイツ語「Schein」〕の背後にかくれている真の関係に、すなわち、人間労働の単なる表現としてのそれらの物の相対性に、約元したのである。リカード派の人々がベイリーにたいして粗雑に答えて、的確に答えなかったとすれば、これはただ彼らが、リカード自身に、価値と価値形態または交換価値との間の内的関連について、少しも解明を見出さなかったからであるにすぎない。

・・・以上、第4節 終わり・・・

 第2章 交換過程


  第2章 交換過程
 
1. 商品は、自分自身で市場に行くことができず、また自分自身で交換されることもできない。したがって、われわれはその番人を、すなわち、商品所有者をさがさなければならない。商品は物であって、したがって人間にたいして無抵抗である。もし商品が従順でないようなばあいには、人間は暴力を用いることができる。言葉を換えていえば、これを持って歩くことができる。これらの物を商品として相互に関係せしめるために、商品の番人は、お互いに人として相対しなければならぬ。彼らの意志がそれらの物の中にひそんでいる。したがって、ある一人は、他人の同意をもってのみ、したがって各人は、ただ両者に共通な意志行為によってのみ、自身の商品を譲渡して他人の商品を取得する。したがって、彼らは交互に私有財産所有者として、認め合わなければならぬ。契約という形態をとるこの法関係は、適法的なものとして進行するかどうかは別として、一つの意志関係である。この関係に経済的関係が反映されている。この法関係または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている。人々はここではただ相互に商品の代表者として、したがってまた商品所有者として存在している。叙述の進行とともに、われわれは、一般に、人々の経済的仮装は経済的諸関係の人格化にすぎず、この経済的諸関係の担い手として、彼らが相対しているということを見るであろう。



 (37)―略―
 (38)―略―

2. 商品所有者をとくに商品から区別するものは、商品にとっては、すべての他の商品体が、ただ自分の価値の現象形態と考えられるにすぎないという事情である。だから、生まれつきの平等主義者で皮肉屋である商品は、つねに、他のあらゆる商品と、自分はマリトルネス〔セルヴァンテスの『ドン・キホーテ』に出てくる醜い女中。・・・訳者〕よりもっと醜い様子をしていても、心だけでなく、肉体も換える用意をしている。商品に欠けているこの商品体の具体的なるものにたいする感覚を、商品所有者は、彼自身の五感ないし六感で補うのである。彼の商品は、彼にとってはなんら直接の使用価値ではない。そうでなければ、彼はこれを市場に心ってば行かない。商品は他人にたいする使用価値をもっているのである。彼にとっては、商品は直接には、交換価値の担い手であり、したがって交換手段であるという使用価値をもっているだけである(39)。それゆえに、彼はこれを、その使用価値が彼に満足を与える商品にたいして譲渡しようとする。すべての商品は、その所有者にたいしては非使用価値であり、その非所有者にたいしては使用価値である。商品は、こうして全般的に持ち手を換えなければならない。しかし、この持ち手変更がその交換をなすのである。そしてこの交換が商品を価値として相互に関係させる。さらにこれを価値として実現する。したがって、商品は、それが使用価値として実現されうる前に、価値として実現されなければならない。


(39) 「なぜかというに、すべての財貨の使用は二重であるからである。―その一つは物自体に固有であり、他はそうではない。サンダルのように、はくことに用いられると同時に交換されうるものである。両者ともにサンダルの使用価値である。なぜかというに、サンダルを、自分でもっていないものと、例えば、食物と交換する人でも、サンダルはサンダルとして利用するのであるからである。しかしながら、その自然の使用方法で利用するのではない。なぜかというに、サンダルは、交換のだめにあるのではないからである」(アリストテレス『デ・レプブリカ』第1巻、第9章)。
〔注:この注(39)は、『経済学批判』では第1章最初の第1回の注となっている。『アリストテレス全集』第15巻岩波書店p.23〕

3. 他方において、商品は、それが価値として実現されうる前に、使用価値であることを立証しなければならない。なぜかというに、商品に支出された人間労働は、それが他人にたいして有用な形態で支出されるかぎりでのみ、かかる人間労働の性質を受け取るからである。その労働が他人に有用であるか、したがって、その生産物が他人の欲望を充足させるかどうかは、だが、諸商品が交換されてはじめて証明しうることである。

4. あらゆる商品所有者は、その商品を、ただ彼の欲望を充足させる使用価値をもつ他の商品にたいして譲渡するだけである。そのかぎりにおいて、交換は彼にとって個人的な過程であるにすぎない。他方において、彼はその商品を価値として、したがって、同一価値をもっている任意のあらゆる他の商品に実現しようとする。ここでは彼自身の商品が他の商品の所有者にとって、使用価値をもっているかどうかは問題でない。そのかぎりにおいて、交換は彼にとって、一般的に社会的な過程である。だが、この同じ過程が、同時にすべての商品所有者にたいして、もっぱら個人的であって、同時にまたもつぱら一般的に社会的であるというようなことはありえない。

5. もっと詳細に見るならば、すべての商品所有者にたいして、あらゆる他人の商品は、彼の商品の特別な等価besondres Äquivalentとなっている。したがって彼の商品は、また他のすべての商品の一般的な等価allgemeines Äquivalentとなる。しかしながら、すべての商品所有者が、同一のことをするのであるから、いずれの商品も一般的の等価allgemeines Äquivalentではなく、したがって、諸商品は、それが価値として等置され、また価値の大いさとして比較さるべき、なんらの一般的相対的価値形態allgemeine relative Wertformをもっていない。したがって、諸商品は一般に商品として対立するのではなくして、ただ生産物または使用価値として対立するのである。

6. わが商品所有者たちは、困りはてて、ファウストのように考える。初めに行ないありき。したがって彼らは、彼らが考える前にすでに行なっていたのである。商品性質Warennaturの諸法則は、商品所有者の自然本能Naturinstinktの中に活動していた。彼らは、その商品をただ価値としてのみ、それゆえにまたただ商品としてのみ、相互に相関係せしめることができるのであるが、それをなすのに彼らは商品を、対立的に、一般的等価としてのなんらかの他の商品にたいして相関係せしめていたのである。これを商品の分析は明らかにした。しかし、ただ社会的行為のみが、一定の商品を一般的等価となすことができるのである。したがって、すべての他の商品の社会的行動は、諸商品が全般的にその価値を表示する一定の商品を除外する。このことによって、この商品の自然形態は、社会的に用いられる等価形態となる。一般的な等価であることは、社会的の過程によって、この除外された商品の特殊的に社会的な機能となる。こうして、この商品は―貨幣となる。「彼らは心を一つにして己が能力と権威とを獣にあたう。この徽章をもたぬすべての者に売買することを得ざらしめたり。その徽章は獣の名、もしくは其の名の数字なり」(ヨハネ黙示録、第17章13節および第13章17節)。

7. 貨幣結晶は交換過程の必然的な生産物である。交換過程で、種類のちがう労働生産物がおたがいに事実上等しく置かれ、したがってまた、事実上商品に転化される。交換の歴史的な拡がりと深化は、商品性質の中にねむっている使川価値と価値の対立を展開させる。この対立を、交易のために外的に表示しようという欲求は、商品価値の独立形態の成立へとかり立てる。そしてこの独立形態〔einer selbständigen Form des Warenwerts:selbständig-独立する、一本立ちする。〕が、商品を商品と貨幣とに二重化することによって、終局的に確立されるまでは、安定し憩うことを知らない。したがって、労働生産物の商品への転化が行なわれると同じ程度に、商品の貨幣への転化が行なわれる(40)。

 (40) このことによって、小ブルジョア社会主義の狡猾さを判断してもらいたい。それは商品生産を永久化し、同時に「貨幣と商品の対立」を、したがってまた貨幣自身を―なぜかというに貨幣はただこの対立があってのみ存するのであるから―なくそうとするのである。これと同じように、人は教皇をなくして、カトリック教を存続させることができるかもしれない。このことにかんするもっと詳細なことは、拙著『経済学批判』61ページ以下〔・・・邦訳、岩波文庫版、103ページ以下。新潮社版『選集』第7巻、106ページ以下〕において見られたい。

8. 直接的な生産物交換は、一方において単純なる価値表現の形態をもち、他方においてまだこれをもたない。かの形態はA商品x量=B商品y量であった。直接的な生産物交換の形態は、A使用対象x量=B使用対象y量である(41)。AおよびBという物は、交換前には、このばあいまだ商品でなくして、交換によってはじめて商品となる。ある使用対象が可能性の上から交換価値となる最初の様式は、使用対象が非使用価値として、すなわち、その所有者の直接的欲望を超える使用価値のある量として、存在するということである。物は、それ自身としては人間にたいして外的のものである。したがってまた譲渡しうるものである。この譲渡が相互的であるためには、人間はただ暗黙の間に、かの譲渡さるべき物の私的所有者として、またまさにこのことによって、相互に相独立せる個人として、たいすることが必要であるだけである。だが、このような相互に分離している関係は、一つの自然発生的な共同体の成員にとっては存しない。それがいま家父長的家族の形態をとろうと、古代インドの村やインカ国等々の形態をとろうと、同じことである。商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる。しかしながら、物はひとたび共同体の対外生活において商品となると、ただちに、また反作用をおよぼして、共同体の内部生活においても商品となる。その量的交換比率は、まず初めは全く偶然的のものである。それらの物は、その所有者が、これを相互的に譲渡し合おうという意志行為によって、交換されうるものである。だが、他人の使用対象にたいする欲望は、次第に固定化する。交換の絶えざる反復は、これを一つの規則的な社会過程とする。したがって時の経過とともに、少なくとも労働生産物の一部は、故意に交換のために生産されなければならなくなる。この瞬間から、一方においては直接的欲望のための物の有用性と、その交換のための有用性との間の分裂が固定化する。その使用価値はその交換価値から分離する。他方において、それらが交換される量的関係は、その生産自身に依存するようになる。習慣は、それらの生産物を価値の大いさとして固定化する。

 (41)まだ二つのちがった使用対象が交換されず、われわれがこれをしばしば未開人に見るように、雑多なものが、第三の一つの物にたいして等価として提供されるかぎり、直接の生産物交換自身は、やっとその玄関にある。

9. 直接的な生産物交換においては、すべての商品は、直接にその所有者にとっては交換手段、その非所有者にとっては等価Äquivalentである。もちろん、それがこの非所有者にとって使用価値であるかぎりにおいてである。したがって、交換物品は、まがたんらそれ自身の使用価値から、または交換者の個人的欲望から、独立した価値形態を得ていない。この形態の必然性は、交換過程にはいる商品数が増大し、多様化されるとともに発展する。課題は、その解決の手段と同時に発生する。商品所有者が自分の物品を、ほかのいろいろな物品と交換し、比較する交易は、各種の商品所有者の各種の商品が、その交易の内部で同一の第三の商品種と交換され、また価値として比較されるということを必ず伴う。このような第三の商品は、各種の他の商品にたいして等価Äquivalentとなることによって、狭い限界内においてではあるが、直接に、一般的なまたは社会的な等価形態allgemeine oder gesellschaftliche Äquivalentformとなる。このような一般的等価形態は、これを発生させた瞬間的な社会的接触とともに成立し、消滅する。この一般的等価形態は、あの商品へこの商品へと、常なくかわるがわる与えられる。しかし、商品交換の発達とともに、一般的等価形態は、もっぱら特別な商品種besondere Warenartenに付着する、すなわち、結晶して貨幣形態kristallisiert zur Geldformとなる。どの商品種に付着してしまうかは、まず初めは偶然である。だが、大体においては二つの事情が決定する。貨幣形態は、あるいは、外域からのもっとも重要な交換品目に付着する。それらの物品は事実上、領域内生産物の交換価値の自然発生的な現象形態である。あるいはまた、例えば家畜のように、領域内の譲渡しうべき所有物の主要素をなす使用対象に付着する。遊牧民族が、最初に貨幣形態Formを発展させる。というのは、彼らの一切の財産は動かしうる、したがって直接に譲渡しうる形態にあるからであり、また彼らの生活様式は、彼らをつねに他の共同体と接触させ、したがって、生産物交換をひき起こしていくからである。人間は、しばしば人間自身を、奴隷の姿で最初の貨幣材料にした。しかしまだかつて、土地を貨幣材料にしたことはない。このような思想は、ただ、すでに完成したブルジョア社会においてのみ、出現することができた。それは17世紀の最後の3分の1期にあらわれた。そしてその実行は、国民的規模において、やっと一世紀後にフランス人のブルジョア革命で試みられたのである。


10. 商品交換が全く地方的な束縛を突き破るのに比例して、したがって、商品価値が人間労働一般の体化物Materiaturに拡がっていくのに比例して、貨幣形態は、本来一般的等価の社会的機能に適する商品、すなわち、貴金属に移行する。


11. そこで「金と銀はほんらい貨幣ではないが、貨幣はほんらい金と銀である(42)」ということが、それらのものの自然属性とその機能との一致を示している(43)。だが、これまでわれわれは、商品価値の現象形態として役立ち、または商品の価値の大いさが社会的に表現される材料として役立つという、貨幣の一つの機能を識っているのみである。価値の適当な現象形態、または抽象的な、したがってまた等一な人間労働の体化物となりうるものは、ただその見本のどれをとっても、同一の、ことなるところのない質をもっているような物質だけである。他方において、価値の大いさの差異は、純粋に量的なものであるから、貨幣商品は、純粋に量的差異を表わしえなければならない。したがって、随意に分割しえ、またその分割部分を再び合体させうるものでなければならぬ。しかして金と銀とは、このような属性をほんらいもっている。

(42) カール・マルクス『経済学批判』〔新潮社版『選集』第7巻166ページ〕「これらの金属は・・・ほんらい貨幣である」(ガリアニ『貨幣について』クストディの叢書、近代篇、第3巻、72ページ)

(43) これにかんする詳細は、私のすぐ前に引用した著書の「貴金属」の節にある。

12. 貨幣商品の使用価値は二重となる。商品としてのその特別な使用価値、例えば、金は、むし歯を充填するためとか。奢侈商品の原料等々に用いられるほかに、その特殊な社会的機能から生ずる、一つの形式的な使用価値〔formalen Gebrauchswert:形式上の使用価値〕を得るのである。

13. すべての他の商品は、貨幣の特別の等価besondre Äquivalente des Geldesにすぎず、貨幣はそれらの一般的等価allgemeines Äquivalentなのであるから、それらの商品は、一般的商品allgemeinen Ware(44)としての貨幣にたいして、特別の商品besondre Warenとしてたいするわけである。

  (44)「貨幣は一般的商品である」(ヴェリ『経済学にかんする考察』16ページ)。

14. 貨幣形態は、ただ、他の一切の商品の関係が、一商品に固着して反射されているものであるにすぎないことを知ったのである。したがって、貨幣が商品であること(45)は、その完成した姿から出発して、後からこれを分析しようとする人にとって、一つの発見であるにすぎない。交換過程は、貨幣に転化する商品に、その価値を与えるのではなく、その特殊な価値形態を与えるのである。両規定を混同すると、金と銀の価値を想像的なものと考えるような誤りにおちいる(46)。貨幣は一定の機能においては、それ自身の単なる標章によって置き代えられうるのであるから、貨幣が単なる標章であると考えるような、他の誤りも生じた。他方において、この誤りの中には、物の貨幣形態は、物自身にとっては外的のものであり、その背後にかくされている人間関係の単なる現象形態であるという予感がはいっていた。この意味では、あらゆる商品は一つの標章であろう。というのは、価値としては、ただ商品に支出された人間労働の物財的の外被にすぎないからである(47)。しかしながら、人は、物財が一定の生産様式の基礎の上に得る社会的性格、または労働の社会的規定が一定の生産様式の基礎の上に得る物財的性格、これらのものを、単なる標章と称えることによって、同時にこれらのものを人間の恣意的な想像の産物と称することになるのである。それは第18世紀愛好の啓蒙風であって、成立過程をまだ解くことのできなかった人間的諸関係の謎のような形相〔rätselhaften Gestalten:謎のような状態、形状〕から、少なくとも一応無知の外観・仮象・Schein〔資本論「外観」、ヘーゲル「仮象」、ドイツ語「Schein」〕を除こうとしたのである。

 (45) 「われわれが『貴金属』という一般的な名称で表わしうる銀と金そのものが、・・・商品・・・であって、価値・・・において上騰したり低落したりする。もし、その比較的小量にたいして、生産物またはその国の製造品等の比較的大量を取得することができるならば、貴金属により高い価値のあることが判定できる」(『相互関係として観た貨幣、商業および為替の一般的観念にかんする一論。一商人著』ロンドン、1695年、7ページ)。「銀と金とは、鋳造されようと、されまいと、すべての他の物にたいする尺度標準として用いられるが、しかし、葡萄酒、油、煙草、布、または服地と同じように商品である」(『商業、とくに東インドのそれにかんする一論』ロンドン、1689年、2ページ)。わが王国の財産と富とは、貨幣からのみ成っているわけではない。また金と銀とを商品でないと考えるのも、当をえない」(〔トーマス・パピロン〕、『最も有利な貿易としての東インド貿易』ロンドン、1677年、4ページ)。

(46) 「金と銀は、それが貨幣である前に、金属として価値をもっている」(ガリアニ『貨幣について』72ページ)。ロックはこう述べている、「人間の一般的な合意は、銀にたいして、その貨幣に適した性質のために、一つの想像的価値を与えた」〔ジョン・ロック『利子低下の諸結果にかんする若干の考察』1691年。『著作集』版、1777年。第2巻、15ページ〕と。これにたいしてローは、「どうしていろいろの国民が、なんらかの物財に想像的の価値を与えることができようか。・・・・あるいは、どうしてこの想像的な価値が、保持されえたであろうか?」といっている。しかし、その彼自身は、どんなに事柄を理解していなかったかを次のことが示している。すなわち「銀は、それがもっていた使用価値にしたがって交換された。すなわち、その実際の価値にしたがって。その貨幣・・・・としての性質によって、銀は付加的の価値(une valeur additionelle)を得た」(ジョン・ロー『鋳貨と商業にかんする考察』、『第18世紀の金融経済学者』デール版、469・470ページ)。

(47) 「貨幣はその(商品の)標章である」(V・ドゥ・フォルボネ『商業の基礎概念』新版、ライデン、1766年、第2巻、143ページ)。「標章として、貨幣は、商品によって引きつけられる」(前掲書、155ページ)。「貨幣は物財の標章であって、これを代表している」(モンテスキュー『法の精神』、『全集』ロンドン、1767年、第2巻、3ページ〔邦訳、宮沢俊義訳『法の精神』岩波文庫版、下巻、98ページ〕)。「貨幣は、決して単純な標章ではない。なぜかというに、貨幣自身が富であるからである。貨幣は価値物を代表するのではない。それは価値物にたいして価値を等しくするのである」(ル・トゥローヌ。『社会的利益について』910ページ)。「価値の概念を考察するならば、物財そのものは、ただ一つの標章と考えられるのみである。物財はそれ自身として意味をもつことなく、それが値するところのものとして、意味をもつのである」(ヘーゲル『法の哲学』100ページ)。経済学者たちよりずっと以前に、法律家は、貨幣の観念を、単なる標章として、また貴金属の純粋に想像的な価値として、大いに論じていたのであった。彼らは、これで王権にお追従のつとめをしていたのである。その鋳貨の悪鋳権を、彼らは、全中世を通じて、ローマ帝国の伝統とパンデクテンの貨幣概念によって支持していたのであった。その呑込のいい生徒たる、フィリップ・ドゥ・ヴァロアは、1346年の勅令でこう言っている、「貨幣事務、鋳造、品位、在高および鋳貨をわれらの自由に一定の価格で流通に投ずるに必要な一切の鋳貨関係命令、これらのことが全くわが国とわが陛下の権能に属するということは、何びとも疑いえず、また疑うべからざるものである」。皇帝が貨幣価値を制定するということは、ローマ法の信条であった。貨幣を商品として取り扱うことを、明文をもって禁じていた。「だが貨幣を買うことは、何びとにも許さるべきでない。なぜかというに、一般の使用のために作られたるものであって、それは商品であってはならないからである」。G・F・パニニのこれらにかんするすぐれた論議がある。G・F・パニニ『ローマ人の物の正当価格。正しき鋳貨価値および商業にかんする試論』1751年(クストディ編、近代篇、第2巻)。とくにこの書の第2部で、パニニは法律家諸君にたいして論駁している。

15. 先に述べたように、ある商品の等価形態は、その価値の大いさの量的規定を含んでいない。金が貨幣であり、したがって、すべての他の商品と直接に交換されうるということを知っても、これによっては、例えば10ポンドの金は、どれだけの価値をもっているかを知ったことにはならない。すべての商品と同じように、金〔カウツキー版・ポール英訳版では金、初版から第3版までは貨幣、エンゲルス版も貨幣、アドラツキー版・ディーツ『全集』版も貨幣であるが、前後の関係から金とした。……訳者〕は、それ自身の価値の大いさを、相対的に、他の商品で表現するほかない。それ自身の価値は、その生産に要した労働時間によって規定される。そして一切の他の商品の一定量で表現される。これら商品にも同一量の労働時間が凝結している(48)。このように金の相対的な価値の大いさの確定は、その生産源でなされる直接の物々交換で行なわれる。それが貨幣として流通にはいると同時に、その価値はすでに与えられている。すでに第17世紀の最後の10年間に、貨幣が商品であるということを知るために、ずっと突き進んだ貨幣分析の開始がなされているのであるが、これはやはり開始にすぎないものである。困難は、貨幣が商品であるのを理解することよりも、商品は、いかにして、なぜに、何によって、貨幣であるかを理解することにある(49)。

 (48) 「人間が1オンスの銀をペルーの地中から、1ブッシェルの穀物を生産するために要すると同一時間で、ロンドンにもって来ることができるとすれば、前者は後者の自然価格である。もし彼がいま新しい、より生産的な鉱山の採掘によって、以前の1オンスと同一の投下時間に2オンスの銀を得ることができるとすれば、穀物は、以前に1ブッシェル当り5シリングの価格であったのが、いまでは10シリングの価格となるであろう、caeteris paribus(他の条件を同一とすれば)」(ウィリアム・ペテイ『租税および貢納にかんする論策』ロンドン、1667年、31ページ)。

(49)ロッシェル教授がわれわれに、「貨幣のあやまれる定義は二つの主要群に分かたれる、すなわち、一つは貨幣を商品以上のものに考え、一つはこれを商品以下のものに考えているのである」ということを教えてくれたのち、貨幣制度にかんする混乱した著書目録が続く。これによっては、理論の真実の歴史へのかすかな洞察さえも見られない。それにお説教が続く、「しかして、大多数の近代国民経済学者が、貨幣を他の商品から区別する(では、一体商品以上のものか以下のものか?)諸特性を、充分に念頭に浮かべていないということは、否定すべくもない。……そのかぎりにおいて、ガニールの半重商主義的反動は、……全く理由のないことでもない』(ヴィルヘルム・ロッシェル『国民経済学大綱』第3版、1858年、207-210ページ)。以上―以下―充分でない―そのかぎり―全く・・・・ではない! そしてこのような折衷的な大学教授的たわごとを、ロッシェル氏は謙遜して経済学の「解剖学的・生理学的方法」と名づけている! だが、一つの発見だけは、彼に負うものである。すなわち、貨幣は「快適な商品」であるということである。



16. A商品x量=B商品y量というもっとも単純な価値表現において、すでに、ある他の物の価値の大いさを表示している一物が、その等価形態を、この関係から独立して社会的の自然属性としてもっているように見えるということを、われわれは知ったのである。われわれは、この誤った外観・仮象・Schein〔falschen Scheins:誤った仮象〕がどうして固定していくかを追究した。この外観・仮象・Scheinは、一般的等価形態が、ある特別な商品種の自然形態と合生し〔verwachsen:合体する、合生する〕、または貨幣形態に結晶する〔kristallisiert:結晶する、明確な形をとる〕とともに、完成するのである。一商品は、他の諸商品が全面的にその価値を、それで表示するから、そのために貨幣となるのであるようには見えないで、諸商品は、逆に一商品が貨幣であるから、一般的にその価値をこれで表わすように見える。媒介的な運動は、それ自身の結果を見ると消滅しており、なんらの痕跡をも残していない。諸商品は、自分では何もするところなく、自分自身の価値の姿が、彼らのほかに彼らと並んで存在する商品体として完成されているのを、そのまま見出すのである。これらのもの、すなわち、土地の内奥から取り出されてきたままの金と銀とは、同時にすべての人間労働の直接的な化身Inkarnationである。このようにして貨幣の魔術が生まれる。人間がその社会的生産過程で、単に原子的な行動を採っているにすぎぬということ、したがって、彼らの規制と彼らの意識した個人的行為とから独立した彼ら自身の生産諸関係の物財的な姿sachliche Gestaltは、まず、彼らの労働生産物が一般的に商品形態をとるということの中に現われるのである。したがって、貨幣物神の謎は、商品物神の目に見えるようになった、眩惑的な謎であるにすぎないのである。

・・・以上、第2章終わり・・・

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  第3章 貨幣または商品流通

  第1節 価値の尺度


 (第3章_第1節-第1段落=3s_1-1)

 私は説明を簡略にするために、この著作では何処でも、金が貨幣商品であると前提する。
 金の第一の機能は、商品世界にたいして、その価値表現の材料を供し、または商品価値を同分母をもつ大いさ、すなわち質的に等一で、量的に比較のできる大いさとして、表示することにある。こうして、金は価値の一般的尺度として機能し、この機能によってはじめて金という特殊的な等価商品が、まず貨幣となる。
 諸商品は貨幣によって通約しうべきものとなるのではない。逆だ。すべての商品は、価値として対象化された人間労働であり、したがって、それ自体として通約しうるものであるから、その価値を同一の特殊な商品で、共通に測り、このことによってこの商品を、その共通の価値尺度、または貨幣に転化しうるのである。価値尺度としての貨幣は、商品の内在的な価値尺度である労働時間の必然的な現象形態である(50)。



 (50) なぜ貨幣が直接に労働時間そのものを代表しないか、したがって、例えば一紙幣がX労働時間を表わすというようにならぬのかという問題は、きわめて簡単に、なぜ商品生産の基礎の上においては、労働生産物が商品として表示されねばならぬか、という問題に帰着するのである。なぜかというに、商品の表示は、この商品が商品と貨幣商品に二重化するということを含んでいるからである。あるいはなぜ私的労働は直接に社会的労働として、すなわち、その反対物として、取り扱われることができないかの問題に帰着する。私は商品生産を基礎とする「労働貨幣」ということが浅薄な空想であるわけを、他の個所で詳しく論じておいた(カール・マルクス『批判』61ページ以下〔邦訳、岩波文庫版103ページ以下。新潮社版106ページ〕



 ある商品の金における価値表現―A商品x量=貨幣商品y量―は、その商品の貨幣形態であり、またはその価格である。こうなると、鉄1トン=金2オンスというような個々の方程式は、鉄価値を社会的に通用するように表示するために、充分なものとなる。方程式は、これ以上、他の諸商品の価値方程式と隊伍を組んで行進する必要がない。というのは、等価商品である金は、すでに貨幣の性質をもっているからである。したがって、商品の一般的な相対的価値形態は、いまや再びその本源的な、単純な、または個々的な相対的価値形態の姿をとるにいたっている。他方において、拡大された相対的価値表現、または相対的価値表現の無限の列は、貨幣商品の特殊的に相対的な価値形態となっている。しかしながら、この列は、いまやすでに商品価格で社会的に与えられている。物価表を逆に読めばいいのだ。そうすれば、可能な、ありとあらゆる商品における貨幣の価値の大いさが、表示されていることを知るのである。これに反して、貨幣は価格をもっていない。このような他の諸商品の統一的な相対的価値形態に参加するためには、貨幣は自分自身にたいして、自分自身の等価として、関係しなければなるまい。



 商品の価格または貨幣形態は、その価値形態一般と同じく、手でつかみうるような、その実在的の物体形態とちがった、したがって理念的または観念化された形態にすぎない。鉄、亜麻布、小麦等々の価値は、見ることはできないが、これらの物そのものの中に存在している。それはこれらの物の金との等一性によって、すなわち、金にたいするいわばその頭脳の中に棲んでいる連結によって、表示される。したがって、商品番人は商品の代弁をしてやるか、商品に紙片をはりつけてやるかして、その価格を外界に知らせねばならない。金における商品価値の表現は、観念的なものであるから、この表現を実際に行なうためには、また観念的の、または理念としての金が用いられればいいのである。どんな商品番人も、自分が商品の価値に価格の形態を、または観念となった金形態を与えても、まだ決して彼の商品を金に化しているのではないということ、そして金で幾百万の商品価値を評価するためには、一片の現実の金をも必要としないということを、知っている。したがって貨幣は、その価値尺度の機能においては、―ただ観念となった貨幣、または理念的の貨幣としてのみ用いられる。この事情は、きわめて馬鹿げた理論を考え出させるにいたった。観念となった貨幣のみが価値尺度の機能に用いられるとしても、価格は全く実在的な貨幣材料に依存しているのである。価値、すなわち、例えば1トンの鉄の中に含まれている人間労働の一定量は、同一量の労働を含んでいる一定の観念化された貨幣商品の量の中に表現される。したがって、金、銀または銅が、価値尺度として用いられるにしたがって、それぞれ1トンの鉄の価値は、全くちがった価格表現を受ける。いいかえれば、全くちがった量の金、銀または銅で表わされる。


 
 したがって、例えば金および銀なる二つのちがった商品が、同時に価値尺度として用いられるとすれば、すべての商品は二つのちがった価格表現をもつことになる。金価格と銀価格であって、銀の金にたいする価値比率が不変であつて、例えば1対15であるかぎり、これは悠々と並んで行なわれる。だが、この価値比率が少しでも変化すると、商品の金価格と銀価格の比率は撹乱される。このようにして価値尺度の二重化が、その機能に矛盾することは、事実の上で立証される。

 価格のさだまった商品は、すべてA商品a量=金x量、B商品b量=金z量、C商品c量=金y量 等々の形態で表示される。このばあい、a、b、cは商品種A、B、Cの一定量を、x、z、yは金の一定量を表わすのである。したがって、商品価値は各種の大いさの観念化された金量に転化される。だから、商品体の種類は雑多であるが、同一名目の大いさ、すなわち、金の大いさに表わされる。それらの商品価値は、このような各種の金量として、相互に比較され、測定される。そして技術的に、これらの価値を、尺度単位としての一つの固定した量目の金にたいして、関係させようとする必然性が展開してくる。この尺度単位自身は、さらに各可除部分に分割されて、尺度標準に発展する。金や銀や銅は、貨幣となる以前に、すでにその金属重量で、このような尺度標準をもっている。こうして、例えば1ポンドが尺度単位として用いられ、一方には、さらに小分されてオンス等になり、他方では加算されてツェッントネル等になるのである。したがって、すべての金属流通においては、既存の重量尺度標準の名称が、貨幣尺度標準、すなわち、価格の尺度標準の最初の名称ともなっている。


  (第3章_第1節-第8段落=3s_1-8)
  価値の尺度として、また価格の尺度標準として、貨幣は二つの全くちがった機能を行なう。貨幣は、人間労働の社会的化身として、価値の尺度である。確定した金属重量としては、価格の尺度標準である。貨幣は、価値尺度としては、雑多にちがっている商品の価値を価格に、すなわち、観念化された金量に転化するために用いられる。価格の尺度標準としては、貨幣はこの金量を測るのである。価値の尺度において、商品は価値として測られ、これに反して、価格の尺度標準は、金量を一定の金量で測るのであって、ある金量の価値を他のそれの重量で測るのではない。価格の尺度標準にとっては、一定の金の重量が尺度単位として固定されなければならない。ここでは、他のすべての同名目の大いさの尺度を定める場合のように、尺度比率の固定ということが必ずなされなければならぬものになる。したがって、価格の尺度標準は、同一量の金が、尺度単位として変わることなく用いられるほど、その機能をよりよく充たす。価値の尺度として金が用いられうるのは、ひとえに金そのものが、労働生産物であり、したがって、可能性の上から、可変的な価値であるからである。

  ・・・中略・・・

 

 (第3章_第1節-第13段落=3s_1-13)

 さてわれわれは価格形態の考察に帰ろう。・・・

 (第3章_第1節-第13段落=3s_1-16~21)

 価格、または商品の価値が観念的に転化している金定量は、このようにしていまや貨幣名、または法的に通用する金尺度標準の計算名で表現される。したがって、1クォーターの小麦は、1オンスの金に等しいというかわりに、イギリスでは、それは3ポンド・スターリング17シリング10ペンス1/2に等しいと言われるであろう。商品は、このようにしてその貨幣名をもって、どれだけの価値があるかということを示すのである。そして、ある物財が価値として、したがって貨幣形態で一定されるということが必要となるごとに、貨幣は計算貨幣として用いられる。

 一物財の名称は、その性質にとっては全く外的のものである。私は、かりにある人がヤコブスということを知っても、その人間についてなんら知ることにはならない。これと同様に、ポンド、ターレル、フラン、ドゥカート等々の貨幣名において、価値関係のあらゆる痕跡は消えている。このような秘教的な標章の秘義にかんする混乱は、貨幣名が商品の価値を、そして同時に、ある金属重量の、すなわち、貨幣尺度標準の可除部分を表現するだけに、ますます大きくなっている。他方において、価値が商品世界の雑多な物体から区別されて、このような分りにくい物財的な、しかしまた単純に社会的な形態に発展するということは、必然的である。

 価格は商品に対象化されている労働の貨幣名である。商品と、みずからの名を商品の価格としている貨幣定量とが、等価であるということは、したがって、同じ言葉の反復である。ちょうどそれは一般に1商品の相対的価値表現が、つねに2商品の等価たることの表現であるというのと同様である。しかしながら、価格が商品の価値の大いさの指数として、その貨幣との交換比率の指数であるとしても、逆に、商品の貨幣との交換比率の指数は、必然的にその価値の大いさの指数であるという結論にはならない。同一大いさの社会的に必要な労働は、1クォーターの小麦や2ポンド・スターリング(約1/2オンス金)に表示されるとしよう。そこで2ポンド・スターリングは1クォーターの小麦の価値の大いさの貨幣表現であり、すなわちその価格である。事情がこの価格を、3ポンド・スターリングに引き上げることを許し、またはこれをIポンド・スターリングに引き下げざるを得ざらしめるとすれば、1ポンド・スターリングと3ポンド・スターリングは、小麦の価値の大いさの表現としては、小にすぎまたは大にすぎる。しかし、それらはたしかに小麦の価格である。なぜかというに、第一にそれは小麦の価値形態で、貨幣である。そして第二にその貨幣との交換比率の指数であるからである。労働の生産諸条件が同一であり、労働の生産力に変化がなければ、依然として1クォーターの小麦の再生産には、同一量の社会的労働時間が支出されなければならない。この事態は、小麦生産者の意志にも他の商品所有者の意志にも、よるものではない。したがって、商品の価値の大いさは、一つの必然的な、その形成過程に内在している社会的労働時間にたいする関係を、表現している。価値の大いさが価格に転化するとともに、この必然的な関係は、一商品の、その外部にある貨幣商品との交換比率として現われる。しかし、この比率では、商品の価値の大いさも、商品が与えられた事情のもとで手ばなされる大小も、表現せられうる。価格と価値の大いさとの量的な不一致の可能性、すなわち価値の大いさに対する価格偏差の可能性は、かくて、価格形態そのものの中にある。このことは少しもこの形態の欠陥ではなく、逆にこれを一生産様式によく当てはまる形態にするのである。この生産様式では、規律は、もっぱら無規律性の盲目的に作用する平均法則としてのみ、貫かれうるのである。

 だが、価格形態は、価値の大いさと価格との、すなわち、価値の大いさとそれ自身の貨幣表現との間の、量的不一致の可能性をもたらすのみならず、一つの質的矛盾をも生ぜしめうるのである。つまり、そのために、貨幣は商品の価値形態であるにほかならないのに、価格が一般に価値表現たることをやめることにもなる。それ自体としてなんら商品でない物、例えば良心、名誉等々も、その所有者は貨幣にたいして売ることができるし、かくてまた、これらのものがその価格によって、商品形態を得ることができる。したがって、ある物は価値をもたないでも、形式的に一つの価格をもつことができる。価格表現はここでは、ちょうど数学におけるある量〔虚数:die imaginäre Zahl〕のように、想像的のものとなる。他方において、例えば、すこしの人間労働もその中に対象化されていたいために、なんら価値をもたない未耕地の価格のような想像的な価格形態も、現実的な価値関係、またはそれから派生した結びつきを隠していることがある。〔Der Preisausdruck wird hier imaginär wie gewisse Größen der Mathematik. Andrerseits kann auch die imaginäre Preisform, wie z.B. der Preis des unkultivierten Bodens, der keinen Wert hat, weil keine menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht ist, ein wirkliches Wertverhältnis oder von ihm abgeleitete Beziehung verbergen.〕

 相対的な価値形態一般と同じように、価格は一商品、例えばIトンの鉄の価値を、次のようにして表現する、すなわち、一定量の等価、例えば1オンスの金が、直接に鉄と交換されうるということによってである。しかし、決して逆に、鉄の方が直接に金と交換されうるということによって、表現するのではない。したがって、実際に一つの交換価値の作用をなしうるために、商品はその自然的な肉体をぬぎ去らなければならない。すなわち、観念的な金であるにすぎないものから、現実の金に転化されなければならない。もちろん、商品にとってこのような化体は、へーゲルの「概念」にとって、必然から自由への移行や、ざりがににとって、その甲殻の破壊や、あるいは教父ヒエロニムスにとって、おのれの罪を脱ぎ捨てることよりも、少し「骨の折れる」ことかも知れない。例えば、鉄というその実在的な姿のほかに、商品は価格という観念的な価値の姿、または観念化された金の姿をもつことができる。しかし、商品は同時に現実的に鉄であって、また現実的に金であるということはできない。その価格を提示するには、観念化された金をこれに等しいと置けば足りる。その所有者にたいして、一般的等価の役目を果たすためには、商品は、金によって代置されなければならない。鉄の所有者が、例えば、現世快楽的商品の所有者に相対するとすれば、そして貨幣形態であるところの鉄価格を指して、これで貨幣になったと言ったとすれば、この現世快楽者は、天国でペテロが、自分の前に信仰個条を読唱したダンテにたいして答えたように答えるであろう。
  「究めつくされたり、これら鋳貨の品位と重さは。 だが、語れ、汝がこれを汝の財布の中にもっているかを」 〔ダンテ『神曲』第3篇、第24歌、83―85。カウツキー版による。……訳者〕。

 価格形態は、諸商品の貨幣にたいする売り渡し可能性と、かかる売り渡しの必然性を包含している。他方において金は、すでに交換過程で貨幣商品として歩き廻っているからこそ、観念的価値尺度として機能するのである。したがって、価値の観念的な尺度の中に、硬い貨幣が待ち伏せているのである。


  ・・・以上、第3章貨幣または商品流通 第1節価値の尺度 終わり・・・

・・・以下、省略・・・


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 『資本論』 商品の変態


 第3章 貨幣または商品流通

 第2節 流通手段 a 商品の変態


  a 商品の変態


1. 商品の交換過程は、矛盾したお互いに排除し合う関係を含んでいることを知った。商品の発達は、これらの矛盾を止揚しないで、それが運勤しうる形態を作り出している。これがとりもなおさず、一般に現実の矛盾が解決される方法である。例えば、ある物体が不断に他の物体に落下しながら、同じく不断にこれから飛び去るというのは、一つの矛盾である。楕円は、その中でこの矛盾が解決され、また実現されてもいる運動形態の一つである。
2. 交換過程は、諸商品を、それが非使用価値である持ち手から、使用価値となる持ち手に移すかぎり、社会的な物質代謝である。ある有用な労働様式の生産物が、他のそれとかわる。商品はひとたび使用価値として用いられる個所に達すると、商品交換の部面から消費の部面にはいる。ここでわれわれの関心事となるのは、前の方の部面のみである。したがって、われわれは全過程を、その形式的側面から、したがって、ただ商品の形態変化または社会的物質代謝を媒介する、その変態をのみ、考察しなければならぬ。


3. この形態変化を、きわめて不充分にしか理解しないのは、価値概念そのものにかんしてはっきりしていないのを別とすれば、次の事情によるのである。すなわち、ある商品の形態変化は、すべて二つの商品、すなわち、普通の商品と貨幣商品の交換において行なわれるということである。この素材的要素である商品と金との交換をのみ固執すると、人は、まさに見なければならぬもの、すなわち、形態について起こることを看過する。金は単なる商品としては貨幣でないということ、そして他の諸商品自身がその価格を金で表わすことによって、金は商品そのものの貨幣態容となっているということ、人はこれを見のがしている。

4. 商品は、まず最初は金メッキもされないで、砂糖もふりかけられないで、あるがままの姿で交換過程にはいる。交換過程は、諸?商品の商品と貨幣とへの二重化を生ぜしめる。すなわち、一つの外的な対立を生ぜしめる。この対立の中に、商品は、使用価値と価値の内在的対立を示しているのである。この対立において、諸商品は使用価値として、交換価値としての貨幣に相対する。他方において、対立の両側は商品である。したがって、使用価値と価値の統一である。しかしながら、この差別の統一は、両極のおのおのにおいて逆に表示されている。そしてこのことによって、同時に、両極の相互関係が示されているのである。商品は現実に使用価値である。その価値たることは、ただ観念的に価格に現われる。価格は、商品を、その実在的な価値態容として対立する金に、関係せしめる。逆に、金材料は価値体化物として、貨幣としてのみ働いている。したがって、貨幣は現実に交換価値である。その使用価値は、ただ観念的に相対的な価値表現の序列の中に現われるにすぎない。この表現において貨幣は、相対する諸商品に、これをその現実的な使用態容の全範囲として関係する。商品のこれらの対立的な形態は、その交換過程の現実的な運動形態である。


5. われわれはいま、誰か一人の商品所有者、例えばわれわれの旧いなじみの亜麻布織職について、交換過程の場面、すなわち商品市場に行って見よう。その商品である20エレの亜麻布は、価格が定められている。その価格は2ポンド・スターリングである。彼はこの商品を2ポンド・スターリングと交換する。昔気質のこの男は、この2ポンド・スターリングをもって、再び同一価格の家庭用聖書と交換する。亜麻布は、彼にとって商品、すなわち価値の担い手であるにすぎないが、金、すなわち、その価値態容にたいして売り渡される。そして、この態容からまた他の商品、すなわち、聖書にたいして売り渡される。この聖書は、こうして、使用対象として織職の家にやってきて、ここで教化欲望を充足させるわけである。したがって、この商品の交換過程は、二つの対立した、そして相互に補足し合う変態―商品の貨幣への転化と貨幣から商品への反転 ― となって遂行される(65)。商品変態の契機は、同時に商品所有者の取引―売り、すなわち商品の貨幣との交換、買い、すなわち貨幣の商品との交換、さらにまた買うために売るというこの両行為の統一 ― である。

 (65) 「ヘラクレイトスはこう言った、だが、すべてのものが火……から成り、そして火は一切から成る。それはあたかも金から財貨が、財貨から金が成るようなものである、と」(F・ラッサール『暗き人ヘラクレイトスの哲学』ベルリン、1858年、第1巻、222ページ)。この個所にたいするラッサールの注(224ページ、注3)は、貨幣を単なる価値標章と説いているが、謬りである。

6. そこで亜麻布織職にとって大事なことは、その取引の最終結果であるが、彼は亜麻布のかわりに聖書を、すなわち彼の最初の商品のかわりに、同一価値の、しかし有用性をことにする他の商品をもっている。同様にして、彼は、その他の生活手段と生産手段とを獲得する。彼の立場からすれば、この全過程は、ただ彼の労働生産物を他の人の労働生産物と交換すること、すなわち生産物交換を媒介するだけである。

7. 商品の交換過程は、こうしてつぎのような形態変化をなして遂行される。
   商品―貨幣―商品
    W - G - W


8. W-Wなる運動、商品の商品にたいする交換は、その素材的内容からいえば、社会的労働の物質代謝であって、その結果としてこの過程自身が消滅する。

9. W―Gすなわち、商品の第一の変態または売り。商品価値の商品体から金体への飛躍は、私が他のところで名づけたように〔『経済学批判』岩波文庫版、110ページ〕、商品の salto mortale (生命がけの飛躍)である。この飛躍が失敗すれば、商品は別に困ることもないが、商品所有者は恐らく苦しむ。社会的分業は、彼の労働を一方的に偏せしめると同時に、彼の欲望を多方面にする。まさにこのゆえに、彼の生産物が彼にとって用をなすのは、交換価値としてだけであることになる。しかしその生産物が一般的な社会的に通用する等価形態を得るのは、貨幣としてだけである。そして貨幣は、他人のポケットの中にあるのである。これを引き出すためには、商品は、とくに貨幣所有者にたいして使用価値でなければならない。すなわち、この商品にたいして支出された労働は、かくて社会的に有用なる形態で支出されていなければならない。あるいは社会的分業の一環たることを立証しなければならない。しかしながら、分業は、自然発生的生産有機体をなしているのであって、その繊維は商品生産者の背後で織られたのであり、またつづいて織られているのである。商品は、ある新しい労働様式の生産物であって、これは新しく現われた欲望をまず充足させるためになされたものであるかもしれないし、あるいは自分の力で、欲望をまず呼び起こそうとするものであるかもしれない。昨日なお同一商品生産者の多くの機能の中の一機能であっても、ある特別の労働操作が、今日はおそらくこの関連から脱して、独立化し、まさにこのゆえに、その部分生産物を、独立の商品として市場におくる。事情は、この分離過程にとって熟しているかもしれず、熟していないかもしれない。生産物は今日は社会の欲望を充足させる。おそらく明日は、これは、全くまたは部分的に、他の類似の生産物種によって、その地位から追われるかもしれない。わが亜麻布織職のそれのように、労働は社会的分業の特許つきの一環であっても、彼のこの20エレの亜麻布の使用価値は、これでは確保されはしない。もし亜麻布にたいする社会的の欲望が、そしてこれは他の一切のものと同じく、限界をもっているのであるが、すでに競争者である亜麻布織職によって充たされているならば、わが友人の生産物は過剰となり、無用となり、したがってまた、有用性のないものとなる。もらい物のあらさがしをするな、という諺もあるが、彼は贈り物するために市場に出てきたのではない。しかし、がりに彼の生産物の使用価値が立証され、したがって貨幣がこの商品によって引き寄せられると仮定しよう。だが、さてどれだけの貨幣が?という問題がある。答えは、もちろんすでに商品の価格、その価値の大いさの指数によって先廻りして与えられている。われわれは、商品所有者が、純粋に主観的な、いって見れば、計算の誤りをする、というようなことを無視しよう。これは、市揚でただちに客観的に訂正される。彼は、その生産物にたいして、社会的に必要な労働時間の平均だけを支出したであろう。したがって、商品の価格は、その中に対象化されている社会的労働の定量の貨幣名であるにすぎない。しかし、わが亜麻布織職の許しなく、または彼の知らないうちに、亜麻布織職の古くから行なわれている生産諸条件が、はげしく動いていたかもしれない。昨日疑いもなく1エレの亜麻布の生産にたいして、社会的に必要な労働時間であったものが、今日では、そうでなくなっているかもしれない。このことを、貨幣所有者が熱心に、わが友人のいろいろな競争者の値段づけから、明らかにしてくるのである。彼にとって不幸なことには、世の中には多くの織職がいる。最後に、市場にあるすべての亜麻布が、社会的に必要な労働時間のみを含んでいると仮定しよう。それにもかかわらず、これら各布片の総額は、不用に支出された労働時間を含んでいることもありうる。市場の胃の俯が、亜麻布の総量を、1エレ当り2シリングの正常価格で吸収しえないとすれば、このことは、亜麻布機織の形態で、社会的総労働時間の過大なる部分が、支出されたことを証明する。結果は、各個々の亜麻布織職が、彼の個人的生産物にたいして、社会的に必要なる労働時間より多くのものを投じたのと同様である。このばあい、ともに捕われともに絞首にされるとでも言うべきである。市場にあるすべての亜麻布は、ただ一つの取引品目として作用し、各布片は、ただその可除部分であるにすぎない。そして実際において、個々別々の布各エレの価値もまた、同一種の人間労働の同一なる社会的に一定した分量を、体化しているものであるにすぎない。


10. 商品は貨幣を愛する。が、「まことの恋がおだやかに実を結んだためしはない」〔シェイクスピア『夏の夜の夢』第1幕、第1場、邦訳、土井光知訳、岩波文庫版、38ページ〕ことを、われわれは知っている。

11. 分業体制の中に、その肢体(membra disjecta)が八方に分岐していることを示している社会的生産有機体の量的構成は、 質的なそれと同じように、自然発生的で偶然的である。したがって、わが商品所有者は、彼らを独立の私的生産者となす同じ分業が、社会的生産過程とこの過程における彼らの関係を、彼ら自身から独立のものとしていること、人々相互の独立性が、全般的な物的依存の体制となって補足されているということを、発見するのである。

12. 分業は、労働生産物を商品に転化する。そしてこのことによって、労働生産物の貨幣への転化を必然的にする。この分業は同時に、この化体が成就するかどうかを、偶然的のものにする。だが、ここでは現象が純粋に考察さるべきである。したがって、その正常な進行が前提さるべきである。そこで、ことは、ともかく滑かに進行し、したがって、商品は売れ残るようなことがないとすれば、その形態変化がつねに行なわれているということになる。むろん、この形態変化が正常に行なわれないことになれば、実体―価値の大いさ―が失われたりするかもしれない。

13. 一方の商品所有者には、金がその商品にかわり、他方の商品所有者には商品が金にかわる。目立つ現象は商品と金との、20エレの亜麻布と2ポンド・スターリングとの持ち于変更、または場所変更、すなわちその交換である。だが、商品は何と交換されるか? 自分自身の一般的価値態容と。そして金は何と交換されるか? その使用価値の特別な態容と。なぜ金は亜麻布にたいして貨幣として相対するか? 亜麻布の2ポンド・スターリングという価格、またはその貨幣名が、亜麻布をすでに貨幣としての金に関係せしめているからである。本来の商品形態を脱することは、商品の売渡しによって、すなわち、その使用価値が、その価格の中において観念としてのみ存している金を、現実に引きつける瞬間に、行なわれるのである。価格の実現、または商品の観念的に存するにすぎない価値形態の実現は、したがって、同時に逆に観念的にのみ存する貨幣の使用価値の実現である。すなわち、商品の貨幣への転化は、同時に貨幣の商品への転化である。この一つの過程が、商品所有者の極からは売りであり、貨幣所有者の反対の極からは、買いであるという二面の過程である。言葉を換えていうと、売りは買いである。W-G は同時に G-W である(66)。

 (66) 「あらゆる売りは買いである」(ドクトル・ケネー『商業と手工業者の労働にかんする対話』、『重農学派』第1部、パリ、1846年、170ページ)。あるいはケネーが彼の『一農業国における経済政策の一般原理』で言っているように「売ることは買うことである」。

14. われわれは、これまで人間の経済関係を、ただ商品所有者の関係としてだけ見てきた。これは、商品所有者たちが、もっぱら自己の労働生産物を手離して、他人の労働生産物を取得する関係である。したがって、一方の商品所有者にたいして、他方の商品所有者は、ただ貨幣所有者としてのみ、相対することができる。それができるのは、彼の労働生産物がほんらい貨幣形態をとっており、したがって貨幣材料であり、金等々であるからであるか、あるいは彼自身の商品がすでに脱皮して、その最初の使用形態を脱ぎ去ったからであるかである。貨幣として機能するためには、金はもちろんいずれかの点で、商品市場にはいり込まねばならない。この点は、その生産源にある。ここで金は直接の労働生産物として、同一価値の他の労働生産物と交換される。しかしながら、この瞬間から、たえず、金は実現された商品価格を表わしている(67)。商品と金のその生産源における交換を別とすれば、金はすべての商品所有者の手中で、彼の売渡した商品の脱皮した姿となっている。すなわち、売りの生産物、または W-G なる最初の商品変態の生産物である(68)。金が観念的の貨幣、または価値尺度となったのは、すべての商品がその価値を金で測り、かくてこれをその使用態容の観念化された反対物、すなわち、その価値態容となしたからである。金が実在的な貨幣となるのは、諸商品がその全面的な売渡しによって、金を諸商品の現実に脱皮した、または転化した使用態容となし、したがって、諸商品の現実の価値態容となすからである。その価値態容においては、商品は、その自然発生的にもっている使用価値、そしてその成立を負っている特別な有用労働の、あらゆる痕跡をはらい落としている。こうして、無差別な人間労働の一様な社会的な体化物に蛹化していくのである。したがって、人は貨幣にたいしては、貨幣に転化された商品がどんな種類のものかということを、少しも顧みない。どんな商品もその貨幣形態においては、他のそれと寸分たがわぬ顔つきをしている。だから、もちろん糞尿は貨幣ではないが、貨幣は糞尿であることもある。わが亜麻布織職が、その商品を売り渡した2個の金貨は、1クウォーターの小麦の転化した姿であると想定しよう。亜麻布の売り、W-G は、同時にその買い G-W である。しかしながら、亜麻布の売りとしては、この過程は一つの運動を始めている。この運動は、その反対物、すなわち聖書の買いで終わる。亜麻布の買いとしては、この過程は、一つの運動を終えている。それは、この過程の反対物、すなわち、小麦の売りをもって始まったのである。W―G(亜麻布-貨幣)という W-G-W (亜麻布-貨幣-聖書)の第一段階は、同時にG-W(貨幣-亜麻布)で、他の運動W-G-W(小麦―貨幣-亜麻布)の最後の段階である。ある商品の最初の変態、その商品形態から貨幣への転化は、つねに同時に、他の商品の第二の相対立した変態、すなわちその貨幣形態から商品への再転化である(69)。

(67) 「ある商品の価格は、ただ他の商品の価格をもってのみ、支払うことができる」(メルシェ・ドゥ・リヴィエール『政治社会の自然的本質的秩序』、『重農学派』テール版、第2部、554ページ)。
(68) 「この貨幣を得るためには、人は売っているはずである」(同上、543ページ)。
(69) 先に述べたように、例外をなすのは、金または銀生産者であって、彼はその生産物を、あらかじめ売っておかないで交換する。

15. G-W 商品の第二、または終局変態、すなわち、買い。―貨幣は、すべての他の商品の脱皮した姿、またはその一般的な売渡しの産物であるから、それは、絶対的に売渡しうる商品である。貨幣は、すべての価格を逆読みにする。そしてこのようにして、貨幣は、彼自身が商品となるための献身的な材料であるすべての商品体に、反映されている。同時に、諸商品が彼にウィンクする愛のまなざし、つまり価格は、彼の転化能力の限界、すなわち彼自身の量を示している。商品は、貨幣となることによって消滅するのであるから、人が貨幣について見るところは、貨幣がその所有者の手中にどうして達したか、または何が貨幣に転化したかということではない。どんな生まれであろうと、お金はくさくないものだ(„non olet“)。貨幣は、一方で売られた商品を代表するとすれば、他方で買いうべき商品を代表する(70)。

  (70) 「貨幣は、われわれの手中で、われわれが買いたいと思う物を示すのであるが、またわれわれがこの貨幣のために売った物をも示している」(メルシェ・ドゥ・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的本質的秩序』586ページ)。

16. G-W 買いは同時に売り W-G である。したがって、ある商品の最後の変態は、同時に他の商品の最初の変態である。われわれの亜麻布織職にとっては、彼の商品の生涯は、聖書をもって閉じられる。この聖書に、彼は、その2ポンド・スターリングを再転化させたのである。しかしながら、聖書販売者は、亜麻布織職から得た2ポンド・スターリングを、ウィスキーに転化する。G-WというW-G-W(亜麻布-貨幣―聖書)の終局段階は、同時にW-GなるW-G-W(聖書-貨幣-ウィスキー)の第一段階である。商品生産者は、一方的な生産物を供給するにすぎないのであるから、彼はこれを比較的大量に頻繁に売る。他方、彼は、その多方面な欲望のために、実現した価格を、または売上げて得た貨幣量を、つねに多数の買いに分散させなければならない事情にある。したがって、一つの売りは、各種の商品の多くの買いに流れこむ。ある商品の終局変態は、このようにして、他の商品の最初の変態の総和をなしている。

17. いまある商品の、例えば亜麻布の総変態を考察するとすれば、われわれは、まず第一に、それが二つの相対立した、そして相互に補足する運動W-G-WおよびG-Wからなることを見るのである。商品のこの二つの相対立した変転は、商品所有者の二つの相対立した社会的過程として行なわれ、その二つの相対立した経済的役柄に反映される。彼は、売りの担い手としては売り手であり、買いの担い手としては買い手である。しかし、商品のあらゆる変転の中に、その両形態、すなわち商品形態と貨幣形態が、同時に、しかしただ相対立した極に存するように、同一商品所有者が売り手である場合には、他の買い手が、買い手であるときは他の売り手が、彼に相対している。同一商品が、二つの逆の変転をひきつづいて経過して、商品から貨幣が、また貨幣から商品が生ずるように、同じ商品所有者は、売り手と買い手の役割を交代して演ずる。したがって、売り手や買い手になることは、決して固定した役柄なのではなくて、商品流通の内部で、絶えず人を交代させる役柄である。

18. 一商品の総変態には、その最も単純な形態において、四つの極と三人の登揚人物が想定される。最初に、商品に、たいして貨幣が、その価値態容として相対する。それは彼方に、他人の懐の中に、物的に硬い実在性をもっている。こうして、商品所有者に、貨幣所有者が相対する。商品がいま貨幣に転化されるやいなや、貨幣は商品の消過的な等価形態となる。貨幣のがわからいうと、その使用価値または内容は、他のいろいろの商品体の中にある。第一の商品変転の終局点として、貨幣は、同時に第二のそれの出発点である。このようにして、第一幕の売り手は第二幕の買い手となる。第二幕ではこの買い手に、第三の商品所有者が、売り手として相対する(71)。

  (71)「これによれば、4つの終局点と3人の契約当事者がある。このうち一人は2度関与する」(ル・トゥローヌ『社会的利益について』908ページ)。

19. 商品変態の二つの逆の運動段階が、一つの循環をつくり上げている。すなわち、商品形態-商品形態の脱却-商品形態への帰還である。もちろん、商品自身は、ここでは対立的な性質を示している。出発点では商品は、その所有者にとって非使用価値であり、終局点では使用価値である。このようにして、貨幣は、まず商品の転化した堅い価値結晶として現われ、後にはその単なる等価形態として消え去る。

20. 一商品の循環をなす二つの変態は、同時に、二つの他の商品の逆の部分変態をなす。この同じ一つの商品(亜麻布)は、それ自身の変態の序列を開始し、他の一商品(小麦)の総変態を閉ざす。第一の変転、売りの間に、この商品は、身一つでこの二つの役割を演ずる。これに反して、それ自身死という万物の運命をたどるはかない金の蛹として、商品は、同時に第三の商品の第一の変態を終結させることになる。各商品の変態序列が描く循環は、こうして他の商品の循環と入りまじっていて解けない。総過程は商品流通として表われる。

21. 商品流通は、形式だけでなく、本質的にも、直接的な生産物交換とはちがっている。その進行過程を、ちょっと見てみればわかる。亜麻布織職は、無条件に亜麻布を聖書と、自分の商品を他人のそれと交換した。しかし、この現象は、彼にとって真実であるだけである。冷いものより熱いものを選んだ聖書販売人は、亜麻布を聖書に代えようとは考えてもみなかった。ちょうど亜麻布織職は、小麦がその亜麻布と交換されたというようなことを、少しも知らないように。等々。Bの商品は、Aの商品に代わる。しかし、AとBとは、お互いにその商品を交換することはない。実際上AとBとが、お互いの間で交互に買い合うということも起こりうる。しかし、このような特別の結びつきは、決して商品流通の一般的関係から必ず生ずるわけではない。むしろ一方において、ここに示されているのは、商品交換が、直接的な生産物交換のもつ個人的地方的の限界を、どうして突き破り、人間労働の物質代謝を発展させるかということである。他方において、行動する各個人の手ではどうにもしがたい社会的な自然関連の大きな範囲が、発展してくる。織職が亜麻布を売りうるのは、ひとえに農民が小麦を売ったからであり、短慮者が聖書を売りうるのは、ひとえに織職が亜麻布を売ったからであり、火酒製造者が熱い水を売りうるのは、ひとえに他の者が永遠の生命の水を、すでに売ったからである、等々。

22. 流通過程は、それゆえに、直接の生産物交換のように、使用価値の場所変更、または持ち手変更で、消滅することはない。貨幣は消失することはない、というのは、それは結局ある商品の変態序列から、脱げて出てくるものであるからである。貨幣は、つねに商品が席をあけた流通個所に沈澱する。例えば、亜麻布の総変態、亜麻布―貨幣―聖書において、はじめに亜麻布が流通から脱落し、貨幣がその個所に進み、次に聖書が流通から脱し、貨幣がそのあとに進む。商品が商品によっておき代えられると、同時に、貨幣商品は第三の手にとどまる(72)。流通は絶えず貨幣を発汗している。

  (72) 第二版への注。この現象は、このように明瞭なるにもかかわらず、しかも経済学者によって、とくに俗流自由貿易論者によって、多くは看過されている。

23. あらゆる売りが買いであり、またその逆であるのであるから、商品流通は、売りと買いの必然的な均衡を含んでいるものであるというドグマほど、とんまな考えはあるまい。もしこのことが、現実に行なわれた売りの数は買いの同じ数に等しいと、いおうとするのだとすれば、これはなんの内容もない空しい言葉である。だが、問題は、売り手が自分自身の買い手を市場につれてくるということを、証明することにある。売買は、二人の対極的に対立している人、すなわち、商品所有者と貨幣所有者の間の相互関係としては、同一の行動である。それは同一人の行為としては、二つの対極的に対立した行動をなしている。したがって、売りと買いの一致は次のことを含んでいる、商品は、もし流通の錬金術的レトルトの中に投ぜられて、貨幣として出てこないとすれば、すなわち、商品所有者によって売られず、したがって貨幣所有者によって買われないとすれば。無用となるということである。さらに、先の一致は次のことを含んでいる、すなわち、この過程は、もしそれが成功すれば、商品の一つの静止点を、すなわち、長くあるいは短くつづきうる商品の生涯のくぎりをなしているのである。商品の第一の変態は、同時に売りと買いであるから、この部分過程は同時に独立の過程である。買い手は商品を、売り手は貨幣、すなわち、遅かれ早かれ再び市場に現われる流通能力ある形態を保持する一商品を、もっている。何びとも、他人が買うことなくしては、売ることはできない。しかし何びとも、彼自身が売ったから、直接に買わなければならぬということはない。流通は、生産物交換の時間的、場所的および個人的な限界をうち破るのであるが、それはこうしてである、すなわち、流通そのものが、自分の労働生産物を交換に出し、他人のそれと交換してくるという生産物交換に存する直接の一致を、売りと買いの対立に分裂させることによってである。独立的に相互に相対する過程が、内的統一をなすということは、同じくその内的統一が、外的の対立をなして運動するということを意味する。相互に補足し合うのであるから、内的には非独立的である者が、外的に独立している。この独立が一定の点まで進展すると、統一は強力的に一つの ―
恐慌によって貫かれる。商品に内在している対立、使用価値と価値、同時に直接的に社会的なる労働を表わさなければならない私的労働、同時にただ抽象的に一般的な労働となされる特別な具体的労働、物の人格化と人の物化 〔 Personifizierung der Sache und Versachlichung der Personen 〕。― というようなこの内在的矛盾は、商品変態の対立の中に、その発展した運動形態を保持している。したがって、これらの形態は、恐慌の可能性を、だがまたその可能性のみを、含んでいる。この可能性の現実性への発展は、単純な商品流通の立場からは、まだ少しも存在していない諸関係の全範囲を、必要とするのである(73)。

  (73) 『批判』74-76ページ〔邦訳、岩波文庫版、121一122ぺ-ジ。新潮社版『選集』第七巻、117ページ〕におけるジェイムズ・ミルにかんする、私の叙述を参照されよ。経済学的弁護論の方法の特徴的な点は二つある。第一に、商品流通と直接の生産物交換とを、それらの区別から単純に抽象することによって、  同一視するということである。第二に、資本主義的生産過程の矛盾をば、その生産代理者の諸関係を、商品流通から生ずる単純な諸関係に解消することによって、否定し去ろうという試みである。しかしながら、商品生産と商品流通とは、その範囲と深さとを異にしてではあるが、きわめて多種類の生産様式に属する現象である。したがって、これらに共通な抽象的な商品流通の範疇を識っただけでは、これらの生産様式のもつ differentia specifica (種差)について、すこしも知ることにならない。したがってまた、これを判断することはできない。経済学以外のいかなる科学においても、初歩的な陳腐なことを、このようにもったいぶって語ることは、行なわれていない。例えばJ・B・セイは、彼が商品は生産物であるということを知っているから、恐慌について権威ぶることができると思い上がっている。

24. 商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段の機能を得る。

 ・・・・以上、a 商品の変態 終わり・・・・

    ヘーゲル小論理学_本質論
 『小論理学』第2部 本質論 目次
 §112 ― §156
 第2部 本質 Wesen 論
 (112-159)Die Lehre vom Wesen
A 現存在の根拠とっしての本質 (115-122)
a 純粋な反省規定 (115-122)
  a. Die reinen Reflexionsbestimmungen
 イ 同一性 (115) α. Identität
 ロ 区別 (116-120) β. Der Unterschied
 ハ 根拠 (121-122) γ. Der Grund
b 現存在 (123-124) b. Die Existenz
c 物 (125-130) c. Das Ding
B 現象 (131-141) B. Die Erscheinung
a 現象の世界 (131)
    a. Die Welt der Erscheinung
b 内容と形式 (133-134)
    b. Inhalt und Form
c 相関 (135-141) c. Das Verhältnis
C 現実性 (142-149) C. Die Wirklichkeit
a 実体性の相関 (150-152)
    a Substantialitätsverhältnis
b 因果性の相関 (153-154)
    b Kausalitätsverhältnis
c 交互作用 (155-159)
    c Die Wechselwirkung

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仮象 (Schein) 反照 (Scheinen) 相等性 (Gleichheit) 質料 (Materie) 実体 (Substanz) 事柄 (Sache)
形式 (Form) 形式規定 (Form) 転化 概念 (Begriff) 肢体 統一 (Einheit)
比 (Verhlätnis) 活動 (Tätigkeit) 極・分極性 (Polarität) 人格 媒介 (Vermittlung) 直接性 (unmittelbares)
個 (個別) (Einzelnheit) 特殊性 (Besonderheit) 普遍 (Allgemeinheit)
商品 物神的性格 変態 資本物神 資本物神




『小論理学』(下) 村松一人訳 岩波書店 1952年発行


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第2部 本 質 論

§112


§112 本質(Wesen)は媒介的に定立された概念(gesetzter Begriff)としての概念である。その諸規定は本質においては相関的であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ反省したものとして存在していない。したがって概念はまだ向自(Fürsich)として存在していない。本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するものである。もっとも、この他者そのものが有的なものとしてではなく、定立され媒介されたものとして存在している。-有は消失していない。本質はまず、単純な自己関係として有である。しかし他方では、有は、直接的なものであるという一面的な規定からすれば、単に否定的なもの、すなわち、仮象(Schein)へひきさげられている。―したがって本質は、自分自身のうちでの反照(Scheinen)としての有である。
  絶対者は本質である。―この定義は、有も同じく単純な自己関係であるかぎり、絶対者は有であるという定義と同じである。しかしそれは同時により高い定義である。というのは、本質とは、自己のうちへはいっていった有であるからである。言いかえれば、本質の単純な自己関係は、否定的なものの否定、自己のうちでの自己媒介として定立された自己関係であるからである。しかし、絶対者を本質と定義するとき、人々はしばしば否定性をあらゆる特定の述語の捨象という意味にとる。すると、この捨象という否定的行為は、本質に無関係なものとなり、本質そのものは特定の諸述語という前提を持たぬ成果、捨象のかすとして存在するにすぎなくなる。しかしこの否定性*注は、有に外的なものではなくて、有自身の弁証法なのであるから、有の真理である本質は、自己のうちへはいっていった有、あるいは自己のうちにある有である。本質と直接的な有との相違をなすものは、先に述べた反省、すなわち、本質が自分自身のうちへ反照するということであって、これが本質そのものに特有の規定である。

(*注:否定性Negativität は、有自身の弁証法。§116参照。なお弁証法の「止揚、揚棄」の類語: aufheben, アウフヘーベン。「あるものをそのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生かすこと。」「矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。」(止揚はウィキペディアより)。
 訳者註。gesetztという言葉は、即自にたいしては、顕現の意味をもって使われるが、ここでは、他のものによってsetzen〔設定
〕される、すなわち媒介されるという意味である。

§112 補遺


§112 ▼補遺 本質と言う場合、われわれはそれを直接的なものとしての有から区別し、有を本質との関係においては単なる仮象Scheinとみる。しかしこの仮象Scheinは全く無いもの、無ではなく、揚棄されたもの〔aufheben〕としての有である。―本質の立場は一般にReflexion(反省)も立場である(訳者注)。Reflexionという言葉はまず、光が直進して鏡面にあたり、そしてそこから投げ返される場合、光にかんしては用いられる(*注-DSKの反射)。したがってここには二つのものがある。すなわち、一つは直接なもの、有的なものであり、もう一つは媒介されたもの、あるいは定立されたものである。このことは、われわれが或る対象をreflektieren(反省)する、あるいは、普通言われているようにnachdenken(反省〔熟考〕)する場合でも同じである。というのは、その場合われわれは対象を直接態においてでなく、媒介されたものとして知ろうとするからである。普通、人々は哲学の課題あるいは目的は、事物の本質を認識することにあると考えている。そして人々の理解するところによれば、このことはまさに、事物はその直接態のままに放置さるべきではなく、他のものによって媒介あるいは基礎づけられたものとして示されなければならないことを意味するにすぎない。ここでは事物の直接的存在は、言わばその背後に本質がかくされている外皮あるいは幕als eine Rinde oder als ein Vorhangと考えられているのである。--さらに、あらゆる事物は一つの本質を持つと言われるならば、それは、事物の真の姿は直接にあらわれているとおりのものではないことを意味する。単に一つの質から他の質への変転や、また単に質的なものから量的なものへの進展Fortgehen、およびその逆やですべてが終ったのではなく、事物のうちには不変なものがある。そしてこの不変なものがまず本質なのである。

Wesen(本質)というカテゴリーのその他の意味および用法について言えば、まず次のことを指摘することができる。われわれドイツ人は助動詞 sein において、過ぎ去った有を gewesen と呼ぶことによって、その過去を示すに Wesen (本質)という表現を用いる。この不規則な用法には、有と本質との関係にかんする正しい観念が含まれている。というのは、本質は過ぎ去った有とみることができるからである。この場合なお注意すべきことは、過ぎ去ったものはそのために全く否定されているのではなく、揚棄されているにすぎず、したがって同時に保存されてもいるのだ、ということである。
・・・以下、省略・・・

(訳者注) 
 Reflexion, reflektieren という言葉は、ヘーゲルでは独自な意味に使われている。もともと、ラテン語のrflexio は、まがりもどることを意味する。ここから、光については、反射の意味となる。自己をかえりみるという場合の反省も、原意と無関係ではない。しかし、ヘーゲルは相関関係のうちにある二つのものを、その一方から出発して考察するとき、Reflexion という言葉を使う。例えば、支配者というものは、支配される者なしには存在せず、考えられず、自分自身のみからは理解できないものである。このような相関は、そこに存在しているのであるが、われわれが今支配者というものを理解しようとすれば、支配されるものへいき、そして再び支配者へ帰ってこなければならない。相関においては、かくして相関する互の側から、このようReflexion が行われるわけである。これがReflexion の全体的な意味である。しかし、他者へのReflexion というように、この言葉が使われるとき、それは、とりあえず関係という意味しか表面に持っていない。ヘーゲルにおいては、概念が自覚する形をも持つから、反省と訳すが、十分ではない。エンチクロペディーの初版では、ヘーゲルは、「本質の領域では、相関性が支配的な規定をなしている」と言っている。マルクスは、『資本論』で、相対的価値形態を述べたところの、註のうちで Reflexionsbestimmung に言及し、次のように言っている。「Reflexionsbestimmung というものは、一般に、独特なものである。例えば、特定の人間が王であるのは、ただ他の人々が臣下としてかれにたいするからである。ところが、この人々は、かれが王であるからこそ、自分たちは臣下なのだと思っている。」なお、主観的思惟に Reflexion という言葉をヘーゲルが使うとき、それは、すでにこれまでの訳者註に述べたように、関係的、相関的思惟である。

§113


§113  本質における自己関係(Beziehung‐auf‐sich)は、同一性( Identität、自己内反省(Reflexion-insich)という形式である。これは有の直接性(Uumittelbarkeit)に代ってあらわれたものであって、両者はいずれも自己関係という抽象である。
  制限され有限なもののすべてを有るものとみる感性の無思想は、それを自己と同一なもの、自己のうちで自己と矛盾しないものと解する悟性の固執へ移っていくのである。

§114


§114  この同一性は、有から由来するものであるから、最初はただ有の特性にのみまとわれてあらわれ、外的なものと関係するように有と関係するにすぎない。有がこのように、本質から切りはなされて理解されるとき、有は非本質的なもの(das Unwesentliche)と呼ばれる。しかし本質は内在性であって、それは自分自身のうちに自己の否定、他者への関係、媒介を持つかぎりにおいてのみ、本質的である。したがって本質は、非本質的なものを自分自身の反照(Scheinen)として自己のうちに持っている。しかし反照あるいは媒介の作用には区別の作用が含まれており、区別されたものは、自分がそこから由来しながらそのうちに自分が存在しないところの、すなわち仮象として存在しているところの、同一性との区別のうちで、それ自身同一性の形式を持つようになるから、自己へ関係する直接性あるいは有として存在する。

これによって本質の領域は、直接性と媒介性とのまだ完全でない結合となる。ここではすべてが、自己に関係しながら同時に自己から出ているというように定立されている。それは反省の有(ein Sein der Reflexion)であり、自己のうちに他者が反照するとともに、他者のうちに反照する有である。― 本質の領域はしたがって、有の領域では即自的にのみ存在していた矛盾の定立された領域である。    

一つの概念があらゆるものの根抵にあるのであるから、本質の発展のうちには、反省的形式においてではあるが、有の発展におけると同じ諸規定があらわれてくる。したがって、有と無との代りに今や肯定的なもの(das Positive)と否定的なもの(das Negative)とがあらわれ、前者はまず同一性として対立なき有に対応し、後者は区別として展開される(自己のうちで反照することによって)。さらに成は定有の根拠(Grund)であり、定有は、根拠へ反省したものとしては、現存在(Existenz)である。等々。―論理学の(最も難解な)この部分は、主として形而上学および科学一般の諸カテゴリーを含んでいる。これらは反省的悟性の産物であって、この悟性は区別された二つのものを独立的なものとみると同時に、またその相関性を定立し、しかも、この独立性と相関性とを並列的あるいは継起的に「また」によって結合するにすぎず、これら二つの思想を綜合し、概念に統一することはしないのである。


 A 現存在の根拠としての本質 (115-130)
 (Das Wesen als Grund der Existenz)


 
 a 純粋な反省規定 (115-122)
  (Die reinen Reflexionsbestimmungen)
イ 同一性 (Identität)

§115


§115 
 本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性(ldentität mit sich)である。
  この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、抽象とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。
 同一性を、命題の主語としての絶対者と結合すると、絶対者は自己同一なものであるという命題がえられる。―この命題はきわめて真実ではあるが、しかしそれがその真理において言われているかどうかは疑問であり、したがってそれは、少くとも表現において不完全である。なぜなら、ここで意味されているのが抽象的な悟性的同一性、すなわち本質のその他の諸規定と対立しているような同一性であるか、それとも自己内で具体的な同一性であるか、はっきりしないからである。後者の場合には、後でわかるように、それはまず根拠であり、より高い真理においては概念である。―絶対的という言葉さえ、抽象的という意味しか持たないことが多い。絶対的空間、絶対的時間というような言葉は、抽象的な空間、抽象的な時間を意味するにすぎない。
  ・・・以下、省略・・・

§115 補遺


§115 ▼補遺 同一性はまず、われわれが先に有として持っていたものと同じものであるが、しかしそれは直接的な規定性の揚棄によって生成したものであるから、観念性としての有である― 同一性の本当の意味を正しく理解することは、非常に重要である。そのためにはまず第一に、それを単に抽象的な同一性として、すなわち、区別を排除した同一性として解さないことが必要である。これが、あらゆるつまらない哲学と本当に哲学の名に値する哲学とが分れる点である。本当の意味における同一性は、直接的に存在するものの観念性として、宗教的意識にたいしても、その他すべての思惟および意識にたいしても、高い意義を持つカテゴリーである。神にかんする真の知識は、神を同一性、絶対の同一性として知ることからはじまる、と言うことができる。そしてこのことは同時に、世界のあらゆる力と光栄とは神の前に崩れ去り、ただ神の力および光栄の映現としてのみ存在しうることを意味する。――人間を自然一般および動物から区別するものも、自己意識という同一性である。動物は、自分が自我であること、すなわち自己のうちにおける純粋な統一であることを理解する点まで達していないのである。
―思惟にたいして同一性が持っている意義について言えば、何よりも大切なことは、有およびその諸規定を揚棄されたものとして内に含んでいる本当の同一性と、抽象的な、単に形式的な同一性とを混同しないことである。思惟は一面的であるとか、融通がきかないとか、内容がないとかというような、特に感情および直観の立場から非常にしばしば思惟に加えられる非難は、思惟の働きがただ抽象的な同一性の定立にのみあるとする、誤った前提にもとづいているのである。そして本節で述べたような、いわゆる最高思惟法則を掲げることによって、こうした誤った前提を確認するものは、ほかならぬ形式論理学である。もし思惟が抽象的同一性を出ないとすれば、われわれはそれをこの上もなく無用で退屈な仕事と言わなければならないであろう。概念、より進んでは、理念は、確かに自己同一なものではある。しかしそれらは、同時に自己のうちに区別を含んでいるかぎりにおいてのみ、そうなのである。

 
口 区 別 (Der Unterschied)


§116


§116 本質は、それが自己に関係する否定性、したがって自己から自己を反撥するものであるときのみ、純粋な同一性であり、自分自身のうちにおける反照である。したがって本質は、本質的に区別(Unterschied)の規定を含んでいる。
  ここでは他在はもはや質的なもの、規定性、限界ではない。今や否定は、自己へ関係するものである本質のうちにあるのであるから、同時に関係として存在する。すなわちそれは区別であり、定立されて有るもの(Gesetztsein)であり、媒介されて有るもの(Vermitteltsein)である。


§128 ▼補遺

§116  ▼補遺 同一はいかにして区別となるかというような質問をする人があるとすれば、こうした質問のうちには、同一性は、単なる同一性すなわち抽象的な同一性として、単独に存在するものであり、区別も同様に単独に存在する或る別なものである、という前提が含まれている。このような前提をしていては、呈出された質問にたいする答は不可能である。同一を区別と別なものとみれば、そこにわれわれが持つのは区別だけである。進展の径路を問う者にとって、進展の出発点が全く存在しないのであるから、区別への進展を示そうにも、示しようがないわけである。したがってこうした質問は、よく考えてみると、全く無意味である。こんな質問をする人があったら、われわれはまず、かれは同一性という言葉のもとに何を考えているのかときいてみるといい。すると、その人が何も考えていないこと、その人にとって同一性とは空虚な名称にすぎないことがわかるであろう。なお、すでに考察したように、同一性は否定的なものではあるが、しかし抽象的な、空虚な無ではなく、有およびその諸規定の否定である。したがって同一性は同時に関係であり、しかも否定的な自己関係、言いかえれぼ、自分自身から自己を区別するものである。



§117 〔差別 Verschiedenheit と 相等性 Gleichheit〕

§117 (1) 区別は、第一に、直接的な区別、すなわち差別(Verschiedenheit)である。差別のうちにあるとき、区別されたものは各々そ
れ自身だけでそうしたものであり、それと他のものとの関係には無関心である。したがってその関係はそれにたいして外的な関係である。差別のうちにあるものは、区別にたいして無関心であるから、区別は差別されたもの以外の第三者、比較するもののうちにおかれることになる。こうした外的な区別は、関係させられるものの同一性としては、相等性(Gleichheit)であり、それらの不同一性としては、不等性(Ungleichheit)である。

 比較というものは、相等性および不等性にたいして同一の基体を持ち、それらは同じ基体の異った側面および見地でなければならない。にもかかわらず悟性は、これら二つの規定を全く切りはなし、相等性はそれ自身ひたすら同一性であり、不等性はそれ自身ひたすら区別であると考えている。
 差別も同じく一つの命題に変えられている。「すべてのものは異っている」とか、「互に全く等しい二つのものは存在しない」という命題がそれである。ここではすべてという主語に、最初の命題において与えられていた同一性という述語とは反対の述語が与えられている。したがって、最初の命題に矛盾する法則が与えられているわけである。しかし差別は外的な比較に属するにすぎないから、或るものは、それ自身としては、ひたすら自己と同一であり、この第二の命題は第一の命題と矛盾しない、という弁解も成立する。そうするとしかし、差別は、或るものすなわちすべてのものに属さず、このような主語の本質的な規定をなさないことになり、第二の命題は全く語ることのできないものとなる。―或るもの自身が、第二の命題に言われているように、異っているとすれば、それは或るもの自身の規定性によってそうなのである。これがライプエッツの命題の意味でもある。

 ▼補遺 ・・・省略・・・



§118

§118  相等性とは、同じでないもの、互に同一でないものの同一性であり、不等性とは、等しくないものの関係である。したがってこの二つのものは、無関係で別々の側面あるいは見地ではなく、互に反照しあうものである。かくして差別は反省の区別、あるいは、それ自身に即した区別、特定の区別となる。
  ▼補遺 単に差別されたものは互に無関係であるが、相等性と不等性とは、これに反して、あくまで関係しあい、一方は他方なしには考えられないような一対の規定である。単なる差別から対立へのこうした進展は、すでに普通の意識のうちにも見出される。というのは、相等を見出すということは、区別の現存を前提してのみ意味を持ち、逆に、区別するということは、相等性の現存を前提してのみ意味を持つ、ということをわれわれは認めているからである。区別を指摘するという課題が与えられている場合、その区別が一見して明かなような対象(例えばペンと駱駝のように)しか区別しえないような人に、われわれは大した慧眼を認めないし、他方、よく似ているもの(例えば「ぶな」と「かし」、寺院と教会)にしか相等性を見出しえないような人を、われわれは相等性を見出す勝れた能力を持っている人とは言わない。つまりわれわれは、区別の際には同一性を、同一性の際には区別を要求するものである。にもかかわらず、経験科学の領域では、人々はこれら二つの規定の一方のために他方を忘れることが非常に多く、或るときは学問的関心がひたすら現存する区別を同一性へ還元することに向けられ、また或るときは、同じく一面的に、ひたすら新しい区別の発見に向けられている。こうしたことは特に自然科学において行われている。人々はそこで、一方では新しい、ますます多くの新しい物質、力、類、種、等々を発見しようとしており、これまでは単純と考えられていた物体が複合物であることを示そうとしている。そして近代の物理学者や化学者は、たった四つの、しかも単純でさえない元素で満足していた古代人をわらっている。他方ではしかしかれらは、今度はまた単なる同一性をのみ眼中におき、例えば電気と化学的過程とを本質において同じものとみるにとどまらず、消化や同化作用のような有機的過程をも単なる化学的過程とみるのである。すでに103節の ▼補遺で述べたように、人々はしばしば現代の哲学を嘲笑的に同一哲学と呼んでいるが、哲学特に思弁的論理学こそまさに、もちろん単なる差別には満足せず、現存するすべてのものの内的同一性の認識を要求しはするけれども、区別を看過する単なる悟性的同一性の無価値を示すものなのである。



§119


§119 (2) 自己に即した区別は本質的な区別、肯定的なものと否定的なものである。肯定的なものは、否定的なものでないという仕方で自己との同一関係であり、否定的なものは、肯定的なものでないという仕方でそれ自身区別されたものである。両者の各々は、それが他者でない程度に応じて独立的なものであるから、各々は他者のうちに反照し、他者があるかぎりにおいてのみ存在する。したがって本質の区別は対立(Entgegensetzung)であり、区別されたものは自己にたいして他者一般をではなく、自己に固有の他者(sein Anderes)を持っている。言いかえれば、一方は他方との関係のうちにのみ自己の規定を持ち、他方へ反省しているかぎりにおいてのみ自己へ反省しているのであって、他方もまたそうである。つまり、各々は他者に固有の他者である。

  本質的な区別は、「すべてのものは本質的に区別されたものである」、あるいは別な言い方によれば、「二つの対立した述語のうち、一方のみが或るものに属し、第三のものは存在しない」という命題を与える。――この対立の命題は、きわめて明白に同一の命題に矛盾している。というのは、後者によれば或るものは自己関係にすぎないのに、前者によればそれは対立したもの、自己に固有の他者へ関係するものと考えられているからである。このような矛盾した二つの命題を、くらべることさえしないで、法則として並べておくということは、抽象に固有な無思想である。―排中の原理は、矛盾を避けようとし、しかもそうすることによって矛盾を犯す、有限な悟性の命題である。Aは+Aか-Aでなければならない、とそれは言う。しかしこれに・・・中略・・・
 ・・・・・・・・・
 物理学で大きな意義を持っている分極性(Polarität)〔*注〕という表象は、対立に関する正しい規定を含んでいる。にもかかわらず物理学は、思想にかんしては、普通の論理学に頼っている。もし分極性という表象を発展させて、そのうちに含まれている思想に達したら、物理学はおどろくであろう。

〔*注〕分極性(Polarität) 『資本論』1-1節 
1-3 〔磁極性〕
「鉄・紙等々のような一切の有用なる物は、質と量にしたがって二重の観点から考察され るべきものである。このようなすべての物は、多くの属性の全体をなすのであって、したが って、いろいろな方面に役に立つことができる。物のこのようないろいろの側面と、したがってその多様な使用方法を発見することは、歴史的行動(注3)である。有用なる物の量をはかる社会的尺度を見出すこともまたそうである 。商品尺度の相違は、あるばあいには測定さるべき対象の性質の相違から、あるばあいには 伝習から生ずる。」(注3)バーボンの磁極性参照
http://www.marx2016.com/ss_001.html#1-3_jikyokusei


§119 ▼補遺 1

§119 ▼補遺 1 肯定的なものは再び同一性であるが、しかしより高い真理における同一性であって、それは自分自身への同一関係であると同時に、否定的なものでないものである。否定的なものは、それ自身としては、区別そのものにほかならない。同一そのものは、まず無規定のものである。これに反して肯定的なものは、自己同一なものではあるが、他のものにたいするものとして規定されているものであり、否定的なものは、同一性でないという規定のうちにある区別そのものである。すなわち、否定的なものは自分自身のうちにおける区別の区別である。―人々は肯定的なものと否定的なものとを絶対の区別と考えている。しかし両者は本来同じものであり、したがってわれわれは、肯定的なものをまた否定的なものと呼ぶこともできるし、逆に否定的なものを肯定的なものと呼ぶこともできる。

例えば、財産と負債とは、特殊の、独立に存在する二種の財産ではない。一方の人、すなわち債務者にとって否定的なものは、他方の人、すなわち債権者にとっては肯定的なものである。東への道程の場合でも同じことであって、それは同時に西への道程である。肯定的なものと否定的なものとは、したがって、本質的に制約しあっているもの、相互関係においてのみ存在するものである。
磁石Magnetの北極Nordpolは南極Südpolなしには存在しえず、南極Sdpolは北極Nordpolなしには存在しえない。磁石を切断すれば、一片には北極が、他方には南極があるというようなことはない。同様に電気Elektrizitätにおいても、陽電気と陰電気とは独立に存続する別々の流動体ではない。

一般に対立においては、区別されたものは自己にたいして単に或る他物を持つのでなく、自己に固有の他者を持つのである。普通の意識は、区別されたものは相互に無関係であると考えている。例えば、われわれは、私は人間であり、私の周囲には空気、水、動物、および他者一般がある、と言う。ここではすべてのものが別々になっている。哲学の目的は、これに反して、このような無関係を排して諸事物の必然性を認識することにあり、他者をそれに固有の他者に対立するものとみることにある。例えば、われわれは無機的自然を単に有機的なものとは別なものとのみみるべきではなく、有機的なものに必然な他者とみなければならない。両者は本質的な相互関係のうちにあり、その一方は、それが他方を自分から排除し、しかもまさにそのことによって他方に関係するかぎりにおいてのみ、存在するのである。同様に自然もまた精神なしには存在せず、精神は自然なしには存在しない。物を考える場合、「なお別なことも可能だ」と言う段階を脱するのは、一般に重要な一歩前進である。こういう言い方をする場合、われわれはまだ偶然的なものから脱していないのであって、これに反して、先に述べたように、真の思惟は必然的なものの思惟である。―現代の自然科学は、まず磁気において極(Polaritat)として知られた対立を、全自然をつらぬいているもの、普遍的な自然法則と認めるにいたっているが、これは疑もなく学問上本質的な進歩である。ただこの場合大切なことは、折角それまで進みながら、またしても無造作に単なる差別を対立と同等なものと認めないことである。しかし人々は、よくそうしたことを行っている。例えば、人々は一方では正当にも色を二つの極のように対立するもの(いわゆる補色)とみながら、他方ではまた、赤、黄、緑、等々を、互に無関係な、また単に量的な区別とみている。


§119 ▼補遺2 われわれは、抽象的悟性の命題である排中の原理にしたがって語るかわりに、むしろ「すべてのものは対立している」と言うべきであろう。悟性が主張するような抽象的な「あれか、これか」は実際どこにも、天にも地にも、精神界にも自然界にも存在しない。あるものはすべて具体的なもの、したがって自分自身のうちに区別および対立を含むものである。事物の有限性は、その直接的定有が、それが即自的にあるところのものに適合していないことにある。例えば無機的自然において酸は即自的には同時に塩基である。すなわち、それに固有の他者に関係しているということのみが、その有をなしているのである。だから酸はまた対立のうちに静かにとどまっているものではなく、常に自己の即自を実現しようと努めているものである。一般に、世界を動かすものは矛盾である。矛盾というものは考えられないと言うのは、わらうべきことである。このような主張において正しい点はただ、矛盾は最後のものではなく、自分自身によって自己を揚棄するということである。揚棄された矛盾は、しかし、抽象的な同一性ではない。同一性はそれ自身対立の一項にすぎないからである。矛盾として定立された対立の最初の結果は根拠(Grund)であって、それはそのうちに同一性ならびに区別を、揚棄され単なる観念的モメントヘおとされたものとして、含んでいるものである。


§119 ▼補遺2



 
§120 
 肯定的なものとは、向自的であると同時に自己の他者へ無関係であってはならないような、差別されたものである。否定的なものも同様に独立的で、否定的とはいえ自己へ関係し、向自的でなければならない。しかしそれは同時に、否定的なものとして、こうした自己関係、すなわち自己の肯定的なものを、他のもののうちにのみ持たなければならない。両者はしたがって定立された矛盾であり、両者は潜在的に同じものである。また、両者はそれぞれ他方の否定であるとともに自分自身の否定であるから、両者は顕在的にも同じものである。両者はかくして根拠へ帰っていく。―あるいは、直接的に言えば、本質的な区別は即自かつ対自的な区別であるから、それはただ自分自身から自己を区別するのであり、したがって同一的なものを含んでいる。したがって、区別の全体、即自かつ対立的にある区別には、区別自身のみならず同一性も属するのである。―自分自身へ関係する区別と言えば、それはすでに、この区別が自己同一的なものであることを言いあらわしているのであり、対立したものは一般に、或るものとその他者、自己と自己に対
立したものとを自己のうちに含んでいるものである。本質の内在性がこのように規定されるとき、それは根拠である。



ハ 根 拠 (Der Grund)


§121


§121  根拠(理由)は同一と区別との統一、区別および同一の成果の真理、自己へ反省すると同じ程度に他者へ反省し、他者へ反省すると同じ程度に自己へ反省するものである。それは統体性として定立された本質である。
  すべてのものはその十分な根拠を持っているというのが、根拠の原理である。これはすなわち、次のことを意味する。或るものの真の本質は、或るものを自己同一なものとして規定することによっても、異ったものとして規定することによっても、これをつかむことができず、また或るものを単に肯定的なものと規定しても、単に否定的なものとして規定することによっても、つかむことができない。或るものは、他のもののうちに自己の存在を持っているが、この他のものは、或るものの自己同一性をなすものとして、或るものの本質であるようなものである。そしてこの場合、この他者もまた同じく、単に自己のうちへ反省するものではなく、他者のうちへ反省する。根拠とは、自己のうちにある本質であり、そしてこのような本質は、本質的に根拠である。そして根拠は、それが或るものの根拠、すなわち或る他のものの根拠であるかぎりにおいてのみ、根拠である。



§121  ▼補遺

§121  ▼補遺 根拠は同一と区別との統一であると言う場合、われわれはこの統一を抽象的な同一と考えてはならない。・・・・・・以下、省略・・・




§122

§122 本質はまず自己のうちで反照し媒介されているものである。しかし媒介が完成されたからには、本質の自己統一は今や区別の揚棄、したがって媒介の揚棄として定立されている。したがってこれは直接態あるいは有の復活である。が、この有は媒介の揚棄によって媒介されている有、すなわち現存在(Existenz)である。
根拠は絶対的に規定された内容を持たず、また目的でもない。したがってそれは活動的でも産出的でもなく、現存在は根拠から単にあらわれ出るにすぎない。したがって特定の根拠と言ってもやはりそれは形式的なものである。言いかえれば、それはどんな規定性でもいいのであって、ただそれと連関している直接的な現存在との関係において、自己関係的なもの、肯定的なものとして定立されているものであればいいのである。それは根拠でありさえすれば、同時にしかるべき根拠でもある。というのは、しかるべきという言葉は、全く抽象的には、肯定的ということを意味するにすぎず、われわれがなんらかの仕方で明白に肯定的なものとして言いあらわしうる規定性は、すべてしかるべきものであるからである。だから、われわれは、あらゆるものにたいして、なんらかの根拠を見出し挙げることができ、しかるべき根拠(例えば行動のしかるべき動機)なるものは、何事かをひきおこすかもしれないし、またひきおこさないかもしれない、結果を持つかもしれないし、また持たないかもしれない。例をもって示せば、しかるべき理由は、意志のうちへ取り入れられてはじめて何事かをひきおこす動機となるのであり、意志がはじめてそれを活動的なもの、原因とするのである。


b 現 存 在 (Die Existenz)



§123


§123 現存在は、自己のうちへの反省と他者のうちへの反省との直接的な統一である。したがってそれは、自己のうちへ反省すると同時に他者のうちへ反照し、相関的であり、根拠と根拠づけられたものとの相互依存および無限の連関からなる世界を形成する、無数の現存在である。ここでは根拠はそれ自身現存在であり、現存在も同じく、多くの方面に向って、根拠でもあれば根拠づけられたものでもある。
  ▼補遺 Existenz〔現存在〕という言葉は、ラテン語のexistere〔出現する〕という動詞から作られたものであって、出現している有(Hervorgegangensein)を示す。すなわち現存在とは、根拠から出現し、媒介を揚棄することによって回復された有である。本質は揚棄された有であるから、まず自己のうちにおける反照であり、そしてこの反照の諸規定は同一、区別、および根拠であった。根拠は同一と区別との統一であり、したがって同時に自己を自分自身から区別するものである。

ところで、根拠から区別されたものは、根拠そのものが単なる同一性でないように、単なる区別ではない。根拠は自己を揚棄するものである。そして根拠が自己を揚棄して移っていくもの、すなわち根拠の否定の結果が、現存在である。これは根拠から出現したものであるから、根拠をその内に含んでおり、そして根拠は現存在の背後にとどまっているものではなく、自己を揚棄して現存在へ移っていくものである。こうした関係は、普通の意識のうちにも見出される。われわれが或るものの根拠を考察する場合、この根拠は単に内面的なものではなく、それ自身再び一つの現存在である。例えば、われわれは火事の根拠として或る建物に点火した電光を考え、同様にまた或る民族の政体の根拠としてその民族の風習および生活関係を考える。これが一般に、現存在する世界が最初にわれわれの反省の前にあらわれる姿である。それは、自己へ反省すると同時に他者へ反省し、互に根拠および根拠づけられたものとして関係しあっている無数の現存在である。現存在するものの総括としての世界のうちに行われている、このような種々様々の関係のうちには、まずどこにも確かな拠りどころが見出されない。すべては、他のものに制約されるとともに、他のものを制約する相対的なものとしてのみあらわれている。反省的悟性はこれらの全面的関係を探り追求することを仕事としているのであるが、それでは、究極目的は何かという問題は解決されないままに残る。したがって概念をとらえようとする理性は、論理的理念の一層の発展とともに、このような単なる相対性の立場を越えて進んで行くのである。


§124


§124  しかし、現存在するものの他者への反省は、自己への反省と不可分である。なぜなら、根拠は両者の統一であって、現存在はこの統一からあらわれ出たものだからである。したがって、現存在するものは、相関性、すなわち諸他の現存在と自分とのさまざまな連関を、自分自身のうちに含み、根拠としての自己のうちへ反省している。かくして、現存在するものは物(Ding)である。
  カント哲学においてあんなに有名になった物自体(Ding-an-sich)は、ここでその発生において示される。すなわちそれは、他者への反省および一般に異った諸規定が排除されて、そうした諸規定の空虚な基礎である抽象的な自己内反省が固執されているものである。


§124 ▼補遺


§124 ▼補遺 物自体は認識できないものであるという主張は、次のような意味でのみ正しい。すなわち、認識するとは、対象を具体的な規定性においてとらえることを意味するのに、物自体は、全く抽象的で無規定の物一般にすぎないのである。のみならず、もし物自体というようなことが言えるとすれば、同じ権利をもってわれわれは、質自体とか量自体とか言うこともできるであろうし、さらにその他のすべてのカテゴリーについても同様のことが言えるであろう。・・・以下、省略・・・


c 物(Das Ding)



§125

§125 物は根拠と現存在という二つの規定が発展して一つのもののうちで定立されているものとして、統体である。それは、そのモメントの一つである他者内反省からすれば、それに即してさまざまの区別を持ち、これによってそれは規定された、具体的な物である。 
(イ) これらの諸規定は相互に異っており、それら自身のうちにではなく、物のうちにその自己内反省を持っている。それらは物の諸性質(Eigenschaften)であり、それらと物との関係は、持つという関係である。
  今や“ある”の代りに、持つという関係があらわれる。“或るもの”も自己に即してさまざまの質を持ってはいるが、このように持つという言葉を有的なものへ転用するのは正確ではない。なぜなら、質としての規定性は、或るものと直接に一体であって、或るものがその質を失うとき、或るものは存在しなくなるからである。しかし物は自己内反省であり、区別から、すなわち自己の諸規定から区別されてもいるところの同一性である。―Haben〔持つ〕という言葉は、多くの言語において過去をあらわすに用いられているが、これは当然である。というのは、過去とは揚棄された有であるからである。精神は過去の自己内反省であって、過去は精神のうちでのみなお存立を持っているが、しかし精神はまたこの自己のうちで揚棄された有を自己から区別してもいる。



§124 ▼補遺


§125 ▼補遺 物において、すべての反省規定が、現存在するものとして再びあらわれてくる。かくして物は、まず物自体としては、自己同一なものである。しかし、すでに述べたように、同一は区別なしには存在しない。そして物が持っている諸性質は、現存在している区別-差別のかたちにおける―である。以前は、差別されたものは相互に無関係であって、外的な比較がそれらの相互関係を作り出したのであるが、今やわれわれは物において、さまざまの性質を相互に結合する紐帯を持っている。

なお、われわれは性質Eigenschaftと質Qualitätとを混同してはならない。われわれは、或るものが質を持っているというような言い方をしないでもない。しかし、持つという言葉は、その質と直接に同一である或るものにはまだ属しないような独立性を示すから、こうした言い方は適当でないのである。或るものは、その質によってのみ或るものである。これに反して物は、諸性質を持つかぎりにおいてのみ現存在するものではあるが、しかしあれこれの特定の性質に結びつけられているものではなく、したがってそれらを失っても、その物でなくなるということはない。


§126


§126 (ロ) しかし根拠においてさえ、他者への反省はそれ自身直接に自己への反省である。したがって諸性質はまた自己同一であり、独立的でもあって、物に結びつけられていることから解放されてもいる。しかしそれらは、物の相互に区別された諸規定性が自己のうちへ反省したものであるから、それら自身具体的な物ではなく、抽象的な規定性として自己へ反省した現存在、質料(Materie)である。
  さまざまの質料、例えば磁気的、電気的質料は、実際また物とは呼ばれない。―それらは本来の意味における質、すなわちそれらの有と一つのものであり、直接態に達した規定性である。もっともこの直接態は、反省した有としての、したがって現存在であるところの有としての直接態であるけれども。


§126 ▼補遺

§126 ▼補遺 物が持つ諸性質が独立して、それらから物が成立する質料となるということは、物の概念にもとづいており、したがって経験のうちにも見出される。しかし、例えば、色とか匂とかのような物の諸性質を特殊の色素や臭素として示しうるということから、これですべては終ったのであって、物の本質をさぐるには物をその質料へ分解しさえすればよいと結論するのは、論理にも経験にも反している。独立的な諸質料への分解ということは、ただ無機的自然においてのみ本来の場所を持っている。したがって化学者が、例えば食塩や石膏をその質料に分解して、前者は塩酸とソーダ、後者は硫酸と石灰とから成ると言うとき、かれは正当である。また地質学が花崗岩を石英と長石と雲母とから合成されているとみるのも、同様に正当である。そして物を構成しているこれらの質料は、一部はそれ自身また物であり、したがってより抽象的な素材に分解されうる。例えば、硫酸は硫黄と酸素とから成っている。このような質料あるいは素材は、実際独立に存在するものとしてあらわされうるものであるが、このような独立を持たない諸性質が特殊の質料とみられることもしばしばある。例えば、熱や電気や磁気の質料とかいうようなことが言われているが、このような質料や素材は悟性の虚構にすぎない。一体に、理念の特定の発展段階としてのみ妥当する個々のカテゴリーを勝手にとらえてきて、すなおな直観と経験とに反するにもかかわらず、説明のためと称して、あらゆる考察の対象をそれに還元してしまうのが、抽象的な悟性的反省のやり方である。かくして、物が独立の諸質料からなるという思想は、それがもはや全く妥当しない領域にもしばしば適用されている。すでに自然の範囲内でも、有機的生命においてはこのカテゴリーは不十分である。われわれはこの動物は骨、筋肉、神経、等々から成ると言いはする。しかしこの場合、花崗岩の一片が上述のような諸質料から成るのとは、わけがちがうということはきわめて明白である。花崗岩を構成している諸質料は、その結合にたいして全く無関心であり、結合されていなくても存立することができる。これに反して有機的な肉体のさまざまの部分は、それらの結合のうちにのみ存立を持ち、はなればなれになると、そうしたものでなくなってしまう。



§127

§127 かくして質料は抽象的な、すなわち未規定の他者内反省であり、あるいは、同時に規定されたものとしての自己内反省である。質料はしたがって定有的な物性であり、物を存立させるものである。かくして物はその自己への反省を諸質料のうちに持ち(125節の反対)、自己に即して存立するものではなくて、諸質料からなるものであり、諸質料の表面的な連関、外面的な結合にすぎない。


§128

§128 (ハ) 質料は、現存在の自己との直接的統一であるから、規定性にたいして無関心でもある。したがって、さまざまの質料は合して一つの質料、すなわち、同一性という反省規定のうちにある現存在となる。他方、これらさまざまの規定性、およびそれらが物のうちで相互に持っている外面的な関係は、形式(Form)である。これは区別という反省規定であるが、しかし現存在しかつ統体性であるところの区別である。
  この無規定的な一つの質料もまた物自体と同じものである。ただ異るところは、物自体が全く抽象的な存在であるに反し、前者は即自的に他者との関係、まず第一に形式との関係を含んでいる点にある。


§128 ▼補遺


§128 ▼補遺 物を構成しているさまざまの質料は本来同じものである。これによってわれわれは、区別がそれにたいして外的なものとして、すなわち単なる形式として定立されているような一つの質料一般を持つことになる。物はすべて同一の質料をその基礎に持ち、それらの相違はただ外的にのみ、すなわち形式においてのみあるにすぎないという考え方は、反省的意識にはきわめてよく知られたものである。この場合質料は、それ自身は全く無規定的でありながら、しかもどんな規定でも受け入れることができるものであり、また絶対に永久不変で、あらゆる変転、変化のうちで自己同一にとどまるものである、と考えられている。特定の形式にたいする質料のこうした無関心は、確かに有限な事物のうちには見出される。例えば、大理石の一片にとっては、どんな立像の形が与えられようと、あるいはまた円柱の形が与えられようと、どうでもいいことである。
しかし、この場合見のがしてならないのは、大理石の一片のような質料でも、ただ相対的にのみ(彫刻家にたいしてのみ)形式に無関心なのであって、けっして、一般に無形式ではない、ということである。鉱物学者は、相対的にのみ無形式の大理石を特定の組成をもつ岩石とみ、同じく特定の組成をもつ他の岩石、例えば、砂石、斑岩などから区別している。したがって、質料をそれだけで独立させ、それ自身あくまで無形式のものと考えるのは、抽象を事とする悟性にほかならない。事実はこれに反して、質料という概念は、あくまで形式の原理を自己のうちに含んでいるのであり、だからこそ経験においても、形式のない質料はどこにも現存しないのである。なお、質料は本源的な存在であり、かつそれ自身無形式のものであるという考え方は、きわめて古く、すでにギリシャに見出される。その最初の姿はギリシャ神話のカオスであって、それは現存在の世界の没形式の基礎と考えられている。こうした考え方にしたがえば、神は世界の創造者ではなく、世界の単なる形成者、デミウルゴスと考えられなければならない。しかし一層深い見方は、神は世界を無から創造したという見方である。これは二つのことを含んでいる。一つには、質料そのものはけっして独立を持たないということであり、もう一つには、形式は外から質料に達するのではなく、統体性として質料の原理を自己のうちに持っているということである。このような自由で無限な形式は、後に示されるように、概念である。


§129

§129 かくして物は質料と形式とにわかれる。この両者はいずれも物性(Dingheit)の全体であり、おのおの独立的に存立している。しかし肯定的で無規定の現存在たるべき質料も、それが現存在である以上、自己内有とともにまた他者への反省を含んでいる。こうした二つの規定の統一として、質料はそれ自身形式の全体である。しかし形式は、諸規定の総括であるという点だけから言ってもすでに、自己への反省を含んでいる。言いかえれば、それは自分自身へ関係する形式として質料の規定をなすべきものを持っている。両者は即自的に同じものである。両者のこうした同一の定立されたものが、同時に異ったものでもあるところの質料と形式との関係である。



§130

§130 物はこのような統体性として矛盾である。すなわち、物は、否定的統一からすれば形式であり、質料はそのうちで規定されて諸性質にひきさげられているが(125節)、同時に物はもろもろの質料からなっており、これらは物の自己への反省のうちで、否定されたものであると同時に独立的なものでもある。かくして物は、自分自身のうちで自己を揚棄する現存在としての本質的な現存在、すなわち現象(Exscheinung)である。
  物においては、もろもろの質料の独立性と同時にそれらの否定が定立されているが、この否定は物理学では多孔性(Porosität)という姿をとってあらわれている。多くの質料(色素、嗅素、およびその他の諸質料。音素、熱素、電素等々というようなものなどまで考えている人もある)の各―は否定されてもいる。そしてこれらのこうした否定性、すなわち、これらが持っている多くの孔のうちに、他の多くの独立な質料が存在し、それらも同じく孔を持ち、かくして互に自分のうちに他のものを存在させるようになっている。この孔なるものはけっして経験的に見出されるものではなく、悟性の作りものである。悟性は、独立的な諸質料が持っている否定のモメントをこのような仕方で考え、そして矛盾のそれ以上の進展を、そのうちではすべてが独立的であるとともに、またすべてが互のうちで否定されているところの混沌をもっておおいかくすのである。―同じような仕方で精神の諸能力や諸作用が実体化される場合、それらの生きた統一は、それらが互に作用しあうという混乱となってしまう。
 孔が観察によって確証されうるものでないと同じように(ここで孔というのは、例えば木材や皮膚の孔のような有機体の孔をさすのではなく、色素とか熱素とか、あるいは金属や結晶などのような、いわゆる質料のうちにある孔である)、質料そのものとか、質料から切りはなされた形式というようなもの(その最も手近な例は、物が質料から成立しているという考え、および物はそれ自身存立していて諸性質を持つにすぎないという考えである)もまた反省的な悟性の産物である。この悟性は、観察しそして観察するものを記述すると称しながら、かえって一種の形而上学を作り出しているのであり、そしてこの形而上学は、あらゆる方面で矛盾にみちているのに、悟性はそれに気づかないのである


B 現 象 ( Die Erscheinung)



§131

§131 本質は現象しなければならない。本質が自己のうちで反照Scheinenするとは、自己を直接態へ揚棄することである。この直接態は自己への反省としては存立性(質料)であるが、同時にまたそれは形式、他者への反省、自己を揚棄する存立でもある。反照するということは、それによって本質が有でなく本質であるところの規定であり、そしてこの反照の発展した形態が現象である。したがって本質は現象の背後または彼方にあるものではなく、本質が現存在するものであることによって現存在は現象なのである。



§131 ▼補遺

§131 ▼補遺 現存在の矛盾が定立されたものが現象である。現象を単なる仮象(Schein)と混同してはならない。仮象は有あるいは直接態の最初の真理である。直接的なものは、われわれが思っているような独立的なもの、自己に依存しているものではなく、仮象にすぎない。かかるものとしてそれは、内在的な本質の単純性へ総括されている。本質は最初は自己内での反照の全体であるが、しかしそれはそうした内面性にとどまっていないで、根拠として現存在のうちへあらわれ出る。こうした現存在は、その根拠を自己のうちにではなく、他のもののうちに持つのであるから、まさに現象にほかならない。現象と言うとき、われわれは、その存在が全く媒介されたものにすぎず、したがって自分自身に依存せず、モメントとしての妥当性しか持っていないような多くの多様な現存在する物を思いうかべる。しかしこの表象のうちには同時に、本質は現象の背後または彼方にとどまるものではなく、自己の反照を直接態のうちへ解放して、それに定有の喜びを与える無限の仁慈であることが含まれている。このようにして定立された現象は、自分の足で立っているものではなく、その有を自分自身のうちでなく、他のもののうちに持っている。・・・以下、省略・・・


a 現象の世界(Die Welt der Erscheinung)



§132

§132 現象的なものの現存在の仕方においては、現象的なものの存立性(Bestehen)が直接的に揚棄されて、それは形式そのものの単なる一モメントとなっており、形式は存立性あるいは質料を、諸規定の一つとして自己のうちに含んでいる。かくして現象的なものは、その本質としての、すなわち、その直接態に対立する自己内反省としての、質料のうちにその根拠を持ってはいるが、しかし現象的なものはこのことによって、他者内反省としての形式のうちにのみその根拠を持つ。形式という現象の根拠も同じく現象的なものであり、かくして現象は、存立性の形式による、したがってまた非存立性による、無限の媒介へ進んでいく。この無限の媒介は、同時に自己への関係という統一であり、そして現存在は、現象すなわち反省された有限性の総体、つまり現象の世界へ発展させられている。


b 内容と形式 (Inhalt und Form)



§133

§133  現象の世界を作っている個々別々の現象は、全体として一つの統体をなしていて、現象の世界の自己関係のうちに全く包含されている。かくして現象の自己関係は完全に規定されており、それは自分自身のうちに形式を持っている。しかも、それは自己関係という同一性のうちにあるのであるから、それは形式を本質的な存立性として持っている。かくして形式は内容(Inhalt)であり、その発展した規定性は現象の法則(Gesetz)である。これに反して、現象の否定的な方面、すなわち非独立的で変転的な方面は、自己へ反省しない形式である。それは無関係的な、外的な形式である。
  形式と内容という対立において、けっして忘れてならないことは、内容は無形式なものではなく、形式は内容にたいして外的なものであると同時に、内容は形式を自分自身のうちに持っている、ということである。形式には二通りあって、それは一方自己へ反省したものとしては内容であり、他方自己へ反省しないものとしては内容に無関係な、外的な現存在である。ここには潜在的に内容と形式との絶対的相関、すなわち両者の相互転化があり、したがって内容と
は、内容への形式の転化にほかならず、形式とは、形式への内容の転化にほかならない。この転化はきわめて重要な法則の一つである。しかしそれは絶対的相関においてはじめて顕在するようになる。 



§133 ▼補遺


§133 ▼補遺 形式と内容という規定は、反省的悟性が非常にしばしば使用する一対の規定であるが、その際悟性は主として、内容を本質的で独立的のものとみ、これに反して形式を非本質的で独立的でないものと考えている。しかし、実際は両者ともに同様に本質的なものであって、形式を持たない質料が存在しないと同じように、形式を持たない内容も存在しないのである。内容と質料とがどうちがうかと言えば、質料は潜在的には無形式ではないけれども、その定有においては形式に無関心なものとしてあらわれているに反して、内容は、内容である以上、完全な形式を自己のうちに含んでいなければならない。もっとも、内容に無関係で外的な現存在であるような形式もまた存在する。こうしたことは、現象が一般にまだ外面性を脱しないところから起るのである。例えば、本について言えば、それが書かれたものであるか、印刷されたものであるか、あるいはまた、紙表紙であるか、皮表紙であるかは、確かにその内容には無関係である。しかし、このような外的でどうでもいいような形式を別とすれば、本の内容そのものが没形式だということはけっしてない。もちろん、内容から言っても当然無形式と言いうるような本がたくさんありはする。しかしこの場合、無形式というのと同じ意床であって、形式一般がないのではなく、正しい形式がないのである。正しい形式は、内容に無関係であるどころか、むしろ内容そのものである。したがって正しい形式を欠く芸術作品は、正しいすなわち真の芸術作品ではない。或る芸術家について、かれの作品の内容はいいが(否、すばらしくさえあるが)、ただ形式が欠けていると言われるとすれば、それは弁護になっていない。真の芸術作品は、その内容と形式が全き同一を示しているようなものである。・・・以下、省略・・・


§134  しかし、直接的な現存在は、形式の規定性でもあれば、存立性そのものの規定性でもある。したがってそれは内容の規定性にたいして外的でもあるが、しかし他方内容がその存立性というモメントによって持つところのこの外面性は、内容にとって同じく本質的でもある。このようなものとして定立された現象が相関(Verhältnis)であって、ここでは同一のもの、すなわち内容が、発展した形式として、外的で対立した独立の現存在としてあると同時に、また同一的な関係としても存在し、異った二つのものは、こうした同一関係のうちでのみそれらがあるところのものである。


c 相  関 (Verhältnis)


§135 (イ) 直接的な相関は、全体と部分(das Ganze und die Teile)とのそれである。内容は全体であり、自己の対立者である諸部分(形式)から成っている。諸部分は相互に異っていて、独立的なものである。しかしそれらは相互の同一関係においてのみ、すなわち、それらが総括されて全体を形成するかぎりにおいてのみ、諸部分である。しかし総括は部分の反対であり否定である。


§135  ▼補遺 本質的な相関ということは、規定された、全く普遍的な現象の仕方である。現存在するものは、すべて相関をなしており、この相関があらゆる現存在の真理である。したがって現存在するものは、単に独立的に存在するものではなく、他のもののうちにのみあるものである。しかしそれは他のもののうちで自己へ関係するから、相関は自己への関係と他者への関係との統一である。
 全体と諸部分という相関は、その概念と実在とが一致していないかぎりにおいて、真実でないものである。全体という概念は、諸部分を含むということである。しかし、全体がその概念上あるところのものとして定立されると、すなわち、それが分割されると、それは全体でなくなる。全体と部分という相関に対応しているような事物もあるにはあるが、しかしそれはまさにそれゆえに低い、真実でない存在である。この場合、一般に注意すべきことは、哲学において真実でないもの(das Unwahre)と言われるとき、そうしたものが現存しないという意味に解されてはならないということである。悪い国家とか病気の肉体というようなものはあくまで存在するであろう。が、これらは、その概念と実在とが一致していないから、真実でないものである。―全体と諸部分という相関は、直接的な相関であるから、反省的な悟性にはきわめてわかりやすい。そのために反省的悟性は、その実一層深い関係が問題である場合でも、この関係で満足していることが多い。例えば、生きた肉体の肢体や器官は、単に部分とのみみるべきものではない。なぜなら、それらは、それらの統一のうちにおいてのみ、肢体や器官であって、けっして統一に無関係なものではないからである。それらは、解剖学者の手にかかるとき、はじめて単なる諸部分となるのであり、解剖学者が取扱うのは、もはや生きた肉体ではなくて、死体にすぎない。こう言ったからといって、一般にこうした分解を行ってはならないと言うのではないが、しかし全体と諸部分というような外部的で機械的な関係は、有機的生命の真の姿を認識するには不十分なものである。

-全体と部分というような関係を、精神および精神の世界の諸形態に適用すれば、その不十分ははるかに著しいものとなる。心理学者は、心あるいは精神の諸部分というような言葉こそ使っていないが、しかし精神の活動の諸形態をそれぞれ独立させ、いわゆる特別の力及び能力として枚挙し記述している。このかぎりにおいて、人々が心理学を単に悟性の立場から研究する場合には、人々は同じく全体と部分という有限な相関関係の観念を根抵においているのである。


§136 (ロ) したがってこの相関のうちにある同一なもの、すなわち自己関係は、直接に否定的な自己関係である。すなわち、それは媒介ではあるが、しかしこの媒介は、同一的なものが区別にたいして無関心でありながら、しかも否定的な自己関係であるというような媒介である。そしてこの否定的な自己関係は、自己への反省としての自分自身をつきはなして区別となり、他者への反省として現存在するようになるが、逆にまたこの他者への反省を自己への反省および無関心性へ復帰させる。こうした相関がすなわち力(Kraft)とその発現(Ӓusserung)である。
  全体と諸部分との相関は、直接的な、したがって無思想な相関であり、自己同一の差別への無思想な転化である。われわれは全体から諸部分へ、諸部分から全体へ移っていく。そして一方のうちで、それがもう一つのものへ対立したものだということを忘れ、各々をそれだけで、すなわち或るときは全体を、或るときは諸部分を、独立の存在と考える。別の言葉で言えば、われわれは、諸部分は全体のうちに存立し、全体は諸部分から成立すると考えているから、或るときは全体を本質的で諸部分を非本質的と考え、或るときは諸部分を本質的で全体を非本質的と考えているのである。機械的関係の表面的な形式は、諸部分が相互にたいしてもまた全体にたいしても独立的なものとして存在することにある。
 物質の可分性にかんする無限進行は、この相関を利用することもできる。すると、その無限進行は、この相関の二つの側面の無思想な交替となる。すなわち、或る物がまず全体的なものととられ、次にわれわれは部分の規定へ移っていく。今度はこの規定を忘れ、以前部分であったものを全体と考える。するとまた部分の規定が考えられてくる、という風にして無限に進むのである。われわれがしかしこの無限を、それが実際そうであるように、否定的なものと解すると、この無限は、全体と部分という相関の否定的な自己関係である。すなわち、自己内にあるものとして自己同一的全体でありながら、しかもこの自己内有を揚棄して発現するところの力であり、また逆に、消滅して力のうちへ帰っていくところの発現である。

 力は、このように無限であるにもかかわらず、また有限でもある。なぜなら、内容すなわち力と発現とのうちにある同一なものは、潜在的にのみ同一であるにすぎず、相関の二つの側面の各々は、まだそれ自身顕在的には相関の具体的な同一でなく、まだ統体性でないからである。したがって二つの側面は、相互にたいして異ったものであり、相関は有限な相関である。力はしたがって外からの誘発を必要とし、盲目的に作用する。そしてその形式がそうした欠陥を持っているために、内容もまた制限され偶然的である。その内容はまだ形式と真に同一でなく、絶対的に規定されている概念や目的ではない。―この区別はきわめて根本的なものであるが、その理解は容易でない。それは目的概念のところではじめて詳しく規定されるであろう。この区別をみのがすと、特にヘルダーにみられるように、神と力と混同するというようなことがおこってくる。
 人々はよく、力の本性そのものは認識できないものであって、認識できるのはその発現だけであると言う。しかし一方、力の内容規定の全体はまさに発現のそれと同じものであり、したがって現象を力から説明するのは、空虚な同語反復である。だから、人々があくまで認識できないと考えているものは、その実自己への反省という空虚な形式にすぎない。力はこうした形式によってのみ発現と区別されているのであって、それはよく知られているものでもある。こうした形式は、現象からのみ認識さるべき内容および法則に、何一つ新しいものをつけ加えはしないのである。また人々はよく、自分は力という言葉を使うが、力とはどういうものかについては何も主張しない、というようなことを言う。それでは、なぜ力という形式を諸科学に導き入れたのか理解に苦しまざるをえない。―他方、力の本性は認識できないものでもある。なぜなら、力の内容が制限されたものであり、したがってその規定性を自己以外のものによって持っているものであるかぎり、力の内容にはまだその内容の必然性も、内容のそれ自身のうちにおける連関の必然性も欠けているからである。


§136  ▼補遺1 ・・・略・・・
     ▼補遺2 ・・・略・・・

§137  力は、自分自身に即して自己へ否定的に関係する全体であるから、自己を自己から反撥し、そして発現するものである。しかしこのような他者への反省、すなわち諸部分の区別は、同様に自己への反省でもあるから、発現は、自己のうちへ帰る力が、それによって力として存在するところの媒介である。力の発現はそれ自身、この相関のうちにあるこつの項の差別の揚棄であり、潜在的に内容をなしている同一性の定立である。力と発現との真理はしたがって、その二つの項が内的なものと外的なものとしてのみ区別されているような相関である。


§138 (ハ) 内的なもの(das Innere)は、現象および相関の一側面という単なる形式としてあるような根拠であり、自己内反省という空虚な形式である。そしてそれには、他者への反省という空虚な規定を持ち、同じく相関のもう一つの側面という形式としての現存在が、外的なもの(das Ӓussere)として対立している。内的なものと外的なものとの同一は、実現された同一であり、内容であり、自己への反省と他者への反省との統一が力の運動のうちで定立されたものである。両者は同じ一つの総体であり、この統一が両者を内容とするのである。


§139
 したがってまず第一に、外的なものは内的なものと同じ内容である。内にあるものは外にもあり、外にあるものは内にもある。現象が示すものはすべて本質のうちにあり、本質のうちにあるものはすべて顕現されている。

§140 第二に、内的なものと外的なものとは、形式規定としてはまた対立しあってもいる。しかも、一方は自己同一という抽象物であり、他方は単なる多様性あるいは実在性という抽象物であるから、全く正反対のものである。しかし両者は、一つの形式のモメントとして、本質的に同一なものであるから、一方の抽象物のうちに定立されているにすぎないものは、直接にまた他方のうちに定立されているにすぎない。したがって内的なものにすぎないものは、また外的なものにすぎず、外的なものにすぎないものは、また内的なものにすぎない。
  反省は普通本質を単に内的なものと思い誤っている。本質を単にそうしたものとみる場合、その見方もまた全く外面的であって、その場合考えられている本質は、空虚な外面的抽象にぎない。
  或る詩人はこう言っている― 
いかなる創られた精神も
自然の内部へ透入することはできない
その外殻だけでも示しうれば
この上もない幸と言わねばならぬ(*原注)

この言葉はむしろ、自然の本質を内的なものと規定するとき、人は外殻しか知りえない、と言わるべきであったろう。―有一般あるいはまた単に感覚的な知覚のうちでは、概念はまだ内的なものにすぎないから、それは有や感覚的知覚にたいして外的なものであり、主観的な、真理を持たない存在および思惟である。―精神におけると同じく、自然においても、概念、目的、法則がまだ内的な素質、全くの可能性にすぎないかぎり、それらはまだ外的な無機的自然、第三者の知識、外的な強力、等々にすぎない。―人間は外的に、すなわち行為においてあるとおりに(もちろん単に肉体的な外面をさすのではないが)、内的にある。内的にのみ、すなわち意図や心情においてのみ有徳、道徳的、等々であって、外が内と同じでない人があるとすれば、その人の内部も外部と同じようにからっぽなのである。
(*原註)。ゲーテの不満にたえかねた叫び「自然科学へ」第1巻、第3篇、を参照せよ。
  私はこうした言葉を60十年間幾度となく聞いた
  そしてひそかにそれを呪ってきた―
  自然には心もなければ殼もない
  それは同時にその両者なのだ、云々。
 ▼補遺 ・・・略・・


§141 同一の内容をなお相関のうちにひきとどめようとする二つの空虚な抽象物は、互のうちでの直接的な移行のうちで自己を揚棄する。内容はそれ自身両者の同一性にほかならず(138節)、両者は本質の仮象仮象として定立されたものである。力の発現によって内的なものは現存在のうちへ定立される。しかしこの定立は空虚な抽象物による媒介であり、それはそれ自身のうちで消滅して直接態となる。そしてこの直接態においては内的なものと外的なものとは即自かつ対自的に同一であって、両者の区別は単に被措定有(Gesetztsein)として規定されているにすぎない。このような同一性がすなわち現実性である。


§142 現実性とは、本質と現存在との統一あるいは内的なものと外的なものとの統一が、直接的な統一となったものである。現実的なものの発現は、現実そのものである。したがって現実的なものは、発現のうちにあっても、依然として本質的なものであるのみならず、直接的な外的現存在のうちにあるかぎりにおいてのみ本質的なものである。
 前には直接的なものの形式として有および現存在があらわれた。有は一般に無反省の直接態であり、他者への移行である。現存在は有と反省との直接的な統一、したがって現象であって、根拠から出て根拠へ帰る。現実的なものは、この統一の定立されたものであり、自己と同一となった相関である。したがってそれはもはや移行することなく、その外面性はその顕在態である。それは外面性のうちで自分自身に反省しており、その定有は自分自身の顕現であって、他のもののそれではない。

 ▼補遺 ・・・略・・・


C 現 実 性 (Die Wirklichkeit)


§143 現実性はこのような具体的なものであるから、それは上に述べた諸規定およびそれらの区別を含んでいる。したがってまた現実はそれらの展開であり、それらは現実においては同時に仮象、すなわち単に措定されたものとして規定されている(141節)。 (イ) 同一性一般としては現実性はまず可能性(Mӧglichkeit)、すなわち現実の具体的な統一に対峙するものとして、抽象的で非本質的な本質性として定立されている自己内反省である。可能性は現実性にとって本質的なものであるが、しかし同時に単に可能性であるような仕方でそうなのである。
  カントは「これらの規定は客観としての概念を少しも増すものではなく、ただ認識能力への関係を表現するにすぎない」と言って、可能性と必然とを様態(Modalität)とみたが、カントがそういうことをなしえたのは、おそらく可能性の規定によってである。実際可能性は自己反省という空虚な抽象であり、前に内的なものと呼ばれていたものであるが、ただそれがここでは、揚棄された、単に定立されているにすぎぬ、外在的な、内的なものとして規定されているのである。したがってそれは単なる様態、不十分な抽象物、もっと具体的に言えば、単に主観に属するにすぎないものとして定立されてもいる。

現実性と必然性とはこれに反して、他のものにたいする様態であるどころか、まさにその正反対のものであり、単に他によって定立されているのではなく、自己のうちで完結した具体的なものとして定立されている。―可能性はまず、現実的なものとしての具体的なものにたいして、自己同一という単なる形式であるから、可能性の基準はただ、或るものが自己矛盾を含まないということにすぎない。かくしてすべてのものは可能である。というのは、われわれは、抽象によって、どんな内容にでもこうした同一性を与えることができるからである。しかしすべてのものは同様に不可能でもある。
というのは、あらゆる内容は具体的なものであるから、われわれはどんな内容においても、その規定性を特定の対立、したがって矛盾と考えることができるからである。―だからこのような可能、不可能の議論ほど空虚なものはない。特に哲学においては、或ることが可能であるとか、また他のことが可能であるとか、あるいはまたよく言われるように、或ることが考えられるとかいうような指摘に言葉を費すべきではない。以上から歴史家もまた、それ自身としてすでに真実でないことが明かになったこのカテゴリーを用うべきではないことがわかるであろう。しかし空虚な悟性の慧眼というものは、可能なこと、しかも実に多くの可能性を、役にも立たないのに、考え出して得々としているものである。
 ▼補遺 ・・・略・・・


§144 (ロ) しかし、自己内反省としての可能性から区別された現実性は、それ自身外的な具体物、非本質的な直接的なものにすぎない。あるいは直接的に言えば、現実性がまず(142節)内的なものと外的なものとの、単純な、直接的でさえある統一として存在するかぎり、それは非本質的な外的なものとして存在しており、かくして同時に(140節)単に内的なもの、自己内反省という抽象である。したがって現実性自身が単に可能なものとして規定されている。このように単なる可能性という価値しか持たぬ現実的なものは、一つの偶然的なものである、そして逆に、可能性は単なる偶然そのものである。


§145 可能性と偶然性とは現実性のモメント、すなわち、現実的なものの外面性をなす単なる形式として定立されている、内的なものと外的なものである。この二つのものは、それらの自己内反省を、自己のうちで規定されている現実的なもの、すなわち、本質的な規定根拠としての内容において持っている。したがってもっとはっきり言えば、偶然と可能との有限性は、形式規定が内容から区別されていることにあり、或ることが偶然であり可能であるかどうかは、内容にかかっている。
 ▼補遺 ・・・略・・・


§146
 現実性の外面は、より立ち入って考えてみると、次のことを含んでいる。すなわち、偶然性は、直接的な現実性であるから、本質的に被措定有としてのみ自己同一なものであるが、しかしこの被措定有も同様に揚棄されており、定有的な外面性である。かくして偶然性は前提されているものであるが、同時にその直接的な定有は一つの可能性であり、揚棄されるという定め、他のものの可能性であるという定めを持っている。すなわちそれは条件(Bedingung)である。

§146 ▼補遺 偶然的なものは、直接的な現実性として、同時に他のものの可能性でもあるが、しかしそれはすでに、われわれが最初に持っていたような抽象的な可能性ではなく、有るものとしての可能性であり、かくしてそれは条件である。われわれが或る事柄の条件と言うとき、そこには二つのことが含まれている。一つは定有、現存在、一般的に言えば直接的なものであり、もう一つは、この直接的なものが揚棄されて他のものの実現に役立つという定めである。―直接的な現実性は真の現実性ではなく、自己のうちで分裂した、有限な現実性であり、消耗されるということがその定めである。しかし現実性のもう一つの側面は本質性である。これはまず内的なものであるが、内的なものは単なる可能性にすぎないから、同じく揚棄される定めを持っている。揚棄された可能性としては、それは一つの新しい現実の出現であって、この現実は最初の直接的な現実を前提として持っている。これが条件の概念のうちに含まれている交替関係である。われわれが或る事柄の条件を考えてみるとき、それはただそれだけのもののようにみえる。その実はしかし、こうした直接的な現実は、自分とは全く別な或るものへの萌芽をそのうちに含んでいるのである。この別なものは、最初は単に可能なものにすぎないが、やがてこの可能性という形式は自己を揚棄して現実となる。かくして出現するこの新しい現実は、それが消費する直接的な現実自身の内面である。したがってそこには全く別な姿を持った事物が生じるが、しかしそれは最初の現実の本質が定立されたものにすぎないのであるから、なんら別なものは生じないのである。自己を犠牲にし、亡びさり、消耗される諸条件は、他の現実のうちでただ自分自身とのみ合一するのである。― 現実性の過程はこうしたものである。現実は単に直接的な存在ではなく、本質的存在として自分自身の直接性を揚棄し、それによって自己を自己自らへ媒介するものである。


§147(ハ) 現実性の外面性がこのように可能性および直接的現実性という二つの規定からなる円、すなわち両者の相互的媒介として展開されるとき、それは実在的可能性(die reale Mӧglichkeit)一般である。このような円としてそれはさらに統体性であり、したがって内容、即自かつ対自的に規定されている事柄(Sache)である。そしてそれはまた、このような統一のうちにある二つの規定の区別から見れば、対自的な形式の具体的な総体であり、内的なものの外的なものへの、および外的なものの内的なものへの直接的な転化である。形式がこのように動いていくということが活動(Tätigkeit)、すなわち自己を揚棄して現実となる実在的根拠としての事柄の働きであり、また偶然的な現実、諸条件の働きである。諸条件の働きとはすなわち、諸条件の自己内反省、諸条件が自己を揚棄して一つの異った現実、事柄の現実となることである。あらゆる条件が現存すれば、事柄は現実的にならざるをえない。そして、事柄はそれ自身諸条件の一つである。なぜなら、それは最初は内的なものとして、それ自身単に前提されたものにすぎないからである。展開された現実性は、内的なものと外的なものとが一つのものとなる交互的な転化、一つの運動へと合一されているところの両者の対立的な運動の交替であって、これがすなわち必然性(Notwendigkeit)である。
  必然性が可能性と現実性との統一と定義されるのは正しい。しかし単にそう言いあらわしただけでは、この規定は表面的であり、したがって理解しがたいものである。必然性という概念は非常に難解な概念である。というのは、必然性はその実概念そのものなのであるが、その諸契機はまだ現実的なものとして存在しており、しかもこれら現実的なものは同時に単なる形式、自己のうちで崩壊し移行するところの形式としてとらえられなければならないからである。で 私は次の2節において、必然性を構成する諸モメントをもっと詳細に述べなければならない。
  ▼補遺 或ることが必然だと言われるとき、われわれはまず最初に、なぜそうなのかと問う。これによってわれわれは必然性が措定されたもの、媒介されたものとして示されることを要求するのである。しかしわれわれが単なる媒介に立ちどまるならば、それはまだ本当の意味における必然性ではない。単に媒介されたものは、自分自身によってそれが現にあるところのものであるのではなく、他のものにそうなのであるから、やはり偶然的なものにすぎない。われわれが必然的なものに要求することは、これに反して、自分自身によってそれが現にあるところのものとして
 ▼補遺 ・・・略・・・


§148 条件(Bedingung)、事柄(Sache)、活動(Tätigkeit)という三つのモメントのうち、
 a 条件は(イ) あらかじめ措定されているものである。それは、単に措定されたもの(Gesetztes)としては、事柄にたいして相関的なものにすぎない。しかし先行するもの(Voraus)としては、それは独立的なもの―事柄と無関係に存在する偶然的な、外的な事情である。しかし偶然的であるとはいえ、このあらかじめ措定されているものは、統体的なものである事柄と関係させてみれば、諸条件の完全な円である。
(ロ) 諸条件は受動的であり、事柄のために材料として使用され、かくして事柄の内容へはいっていく。それらはまたこの内容に適合しており、内容の規定全体をすでにそのうちに含んでいる。

 b 事柄も同じく(イ) あらかじめ措定されているものである。措定されたものとしては、まだ内的なものであり、可能なものにすぎないが、先行するものとしては、それだけで独立の内容である。
(ロ) 事柄は諸条件を使用することによって外へあらわれる、すなわち諸条件と対応しあう内容諸規定を実現する。したがって事柄は内容諸規定によって自己を事柄として示すとともに、また諸条件から出現するものである。

 c 活動 (Tätigkeit)も(イ) 同じく独立に存在するが(例えば人間、人物のように)しかもまた諸

条件および事柄のうちにその可能性を持っている。
(ロ) それは諸条件を事柄へ移し、また事柄を諸条件(これは現存在に属する)へ移す運動である。否むしろ、そのうちに事柄が即自的に存在している諸条件から事柄のみを取り出し、そして諸条件が持っている存在を揚棄することによって、事柄に存在を与える運動である。
   これら三つのモメントが相互に独立した存在という形を持つかぎり、上の過程は外的必然として存在する。― 外的必然は限られた内容を事柄として持つ。なぜなら、事柄は単純な規定態における全体であるが、しかしこの全体的なものは、形式上、自己に外的であるから、自分自身においても、また自己の内容においても、自己に外的であり、そして事柄におけるこの外面性が、事柄の内容の制限をなすからである。


§149 必然性はしたがって即自的には、自己のうちで反照しその諸区別が独立の諸現実という形式を持っているところの、自己同一的でありながらも、内容にみちた一つの本質である。そしてこの同一的なものは、同時に絶対的な形式として、直接的なものを揚棄して媒介されたものとし、媒介を揚棄して直接的なものとする活動である。―必然的であるものは、他のものによってそうなのである。そしてこの他のものは、媒介する根拠(事柄と活動)と直接的な現実、すなわち、同時に条件でもある偶然的なものとにわかれる。他のものによるものとしての必然は、絶対的でなく、措定されたものにすぎない。しかしこの媒介はまた直接に自分自身の揚棄である。というのは、根拠と偶然的な条件は、直接態へ移され、そしてこのことによって、措定されたものは揚棄されて現実となり、事柄は自分自身と合一するからである。このように自己のうちへ帰ったものとしての必然的なものは、無条件的な現実性として端的に存在する。―必然的なものは、一群の諸事情に媒介されて必然的なのである。すなわち、必然的なものは、諸事情が必然的であるから、必然的なのである。と同時に、必然的なものは、媒介されないで必然的である。すなわち、必然的であるから、必然的なのである。

§150
 必然的なものは自己のうちで絶対的な相関である。すなわち、(上の諸節に述べたように)相関が同時に自己を揚棄して絶対的な同一となる過程である。
 その直接的な形態は実体性(Substantialität)と偶有性(Akzidentalität)との相関である。この相関の絶対的自己同一は実体そのものである。実体は必然性であるから、こうした内面性の形式の否定であり、したがって自己を現実性として定立する。しかしそれは同時にまたこうした外面性の否定であって、この面からすれば、直接的なものとしての現実は偶有的なものにすぎない。そして偶有的なものは、こうした単なる可能性であるために、他の現実へ移っていく。この推移が形式活動(148節および149節)としての実体的同一性である。

§151 したがって実体は偶有の全体であり、偶有のうちで実体は、それが偶有の絶対的否的、すなわち絶対の力であること、しかも同時にあらゆる豊かな内容であることを顕示する。この内容はしかしこうした顕示そのものにすぎない。というのは、自己へ反省して内容となった規定性そのものは、実体の力のうちで移り変っていく、形式の一モメントにすぎないからである。実体性は絶対的な形式活動であり、必然性の力である。そしてあらゆる内容は、ひたすらこうした過程に属するモメントにすぎず、形式と内容との絶対的な交互転化である。


§151 ▼補遺 哲学の歴史においては、われわれは実体にスピノザの哲学の原理として出あう。名声と悪評の並び行われているこの哲学の意義および価値については、すでにスピノザの生時から大きな誤解があって、それ以来も多くの議論の的となっている。スピノザの体系にたいして普通なされている主な非難は、無神論という非難、さらにまた汎神論という非難である。そしてその理由は、それが神を実体として、しかもただ実体としてのみ理解しているというのである。こうした非難をどう考えたらいいかは、まず第一に、論理的理念の体系のうちで実体が占めている位置をみればわかる。実体は理念の発展過程における一つの本質的な段階であるが、しかしそれは理念そのもの、絶対的理念ではなく、必然性というまだ限られた形式のうちにある理念である。もちろん、神は必然性であり、われわれはそれを絶対的な事物ということもできるが、しかしそれは同時に絶対の人格でもある。この点がスピノザの到達していない点であり、そしてこの点でスピノザの哲学は、キリスト教的意識の内容をなしている真の神の概念より劣っているのである。・・・略・・・


§152 実体は絶対的な力であるから、単なる内的可能性としての自己に関係することによって自己を偶有性へ規定する力であり、かくして措定された外面性はこの力から区別されている。この点からみるとき、実体は、必然性の最初の形式において実体であったように、本来の相関、すなわち因果性の相関である。



b 因果性の相関 (Kausalitäts-Verhältnis)


§153 実体は一方では、偶有性への移行とは反対に、自己へ反省し、かくして本源的な事柄であるが、しかし他方それは、自己内反省あるいは単なる可能態を揚棄して、自己を自己そのものの否定として定立し、かくして結果(Wirkung)、すなわち、単に定立されたものではあるが、同時に作用の過程によって必然的なものでもあるところの、現実を産出する。このかぎりにおいて実体は原因(Ursache)である。

 原因は、本源的な事柄として、絶対的な独立性と、結果にたいして自己を保持する存立性とを持っているが、その同一性は、原因の本源性そのものをなしている必然性のうちで、全く結果へ移行している。特定の内容がここでも問題となりうるかぎり、結果のうちには原因のうちにないようないかなる内容も存在しない。右に述べた同一性が絶対的な内容そのものである。しかしこの同一性はまた形式規定でもあって、原因の本源性は、そのうちでそれが自己を措定された存在とするところの結果のうちで揚棄される。しかし原因はこれによって消失するのではなく、結果のみが現実的なものとして残るのではない。というのは、この措定された存在も同様に直接的に揚棄されており、それはむしろ原因の自己すなわちその本源性への反省だからである。原因は、結果のうちではじめて現実的であり、原因なのである。したがって原因は、即時かつ対自的には自己原因(causa sui)である。―ヤコービは媒介をあくまで一面的に考えたために、原因の絶対的真理である自己原因(自己結果effectus suiも同じものである)を単に形式主義と考えた(「スピノザにかんする手紙」第2版、416ページ)。かれはまた、神は根拠と規定すべきものではなく、本質的に原因と規定されなければならないと述べているが、かれの意図したことがこれによって達成されないということは、原因の本性をもっと根本的に反省してみればわかったであろう。有限な原因およびその表象においてさえ、内容の同一は存在している。原因である雨と結果である湿りとは、同一の現在する水である。形式からすれば、原因(雨)は結果(湿り)のうちで消失する。しかしそれとともにまた結果という規定も失われてしまうのであって、結果は原因なしには無であり、そしてこの場合無関係な湿りが残るにすぎない。
 普通考えられているような因果関係の意味では、原因は有限である。というのは、その内容が有限であり(有限な実体におけるように)、また原因と結果が二つの別々の独立な存在と考えられている―これは因果関係が捨象されているからにすぎない―からである。有限の領域においては、われわれは関連のある二つの形式規定の区別ということに立ちどまっているから、一度原因とされたものが、今度は措定されたもの、すなわち結果と規定されるようになる。するとこれはまた他の原因を持つことになり、かくしてここでもまた結果から原因への無限進行が生じる。同様に下降的な無限進行も生じる。なぜなら、結果が原因そのものと同一であるという面からみれば、それは原因として、しかも同時にはじめの原因とは別の原因として規定され、そしてこの原因は再び他の結果を持つ、という風に無限に進んでいくからである。


§153 ▼補遺 悟性は、実体性というものは容易に受け入れようとしないが、それに反して因果性、すなわち原因と結果との関係はよく知っている。或る内容を必然的なものとみようとする場合、悟性的な反省が努力するのは、主としてそれを因果関係に還元することである。もちろん、因果関係は、必然性に属してはいるが、しかしそれは必然性の過程における一側面にすぎず、必然性の
過程は、因果性のうちに含まれている媒介を揚棄して、自分が全くの自己関係であることを示すものである。われわれが因果性そのものに立ちどまるならば、われわれは真の因果性ではなく、有限な因果性を持つにすぎない。この関係の有限性は、原因と結果とがあくまで区別されている点にある。ところが、この二つのものは、単に異っているだけでなく、また同一でもある。この
同一性は普通の意識のうちにも見出される。われわれは、原因について、それが結果を持つかぎりにおいてのみ原因であると言い、結果については、それが原因を持つかぎりにおいてのみ結果であると言う。したがって原因と結果とは同一の内容であり、両者の相違はまず措定と被措定との相違にすぎない。しかもこの形式上の相違も同じくまた揚棄される。すなわち、原因は単に他のものの原因であるにとどまらず、また自分自身の原因であり、結果は単に他のものの結果であるにとどまらず、また自分自身の結果である。したがって事物の有限性がどこにあるかと言えば、それは、原因と結果は概念上同一であるのに、この二つの形態が分離されていることにある。すなわち原因は結果であり、結果は原因であるが、しかし原因はそれが原因であると同じ関係において結果ではなく、結果はそれが結果であると同じ関係において原因ではないのである。このことは再び原因の果しない系列―これは同時に、結果の果しない系列でもある―という形をとる無限進行を出現させる。


§154 結果は原因とは別なものである。結果はこの意味では措定されたものである。しかし被措定有もまた自己反省であり、直接なものである。そして原因の作用、すなわちその措定作用は、結果があくまで原因と異るものとされているかぎり、同時に結果を前提する作用である。したがって結果がそこで起るところの他の実体が存在する。この実体は直接的なものであるから、自己へ関係する否定性でもなければ能動的でもなく、受動的なものである。しかしそれはまた実体であるから能動的でもあって、前提された直接性と自己のうちへ措定された結果とを揚棄し、反作用する。言いかえれば、それは最初の実体―これもまたその直接性あるいはそのうちへ措定された結果を揚棄するものなのであるが―の能動性を揚棄し、そして反作用する。かくして因果性は交互作用(Wechselwirkung)へ移っていく。
  交互作用において、因果関係はまだその真の規定において定立されてはいないけれども、原因から結果への、および結果から原因への直線的な運動が、自己のうちへ曲り戻らされていることによって、原因と結果との無限進行は真の仕方で揚棄されている。このように無限進行を自己完結的な関係へ曲り戻らせるものは、常にそうであるように、ここでもまた、無思想的な反復のうちには、同じもの、すなわち或る原因ともう一つの原因および両者相互の関係があるにすぎないという単純な反省である。しかしこうした関係の発展である交互作用は、それ自身区別の交替ではあるが、しかしそれは原因の区別の交替ではなくて、因果関係を構成する二つのモメントの区別の交替であり、そしてこれら二つのモメントの各々において再び、原因は結果のうちで原因であり、結果は原因のうちで結果であるという同一性、不可分性にしたがって、同じくもう一つのモメントも定立されるのである。


§155 交互作用のうちであくまで区別されている二つの規定は(イ) 即自的には同じものである。すなわち、一方の側面は他の側面と同じように原因であり、本源的であり、能動的であり、受動的である、等々。同様に、他の側面を前提することとそれへ働きかけること、直接の本源性と交替によって措定されることとは、同一である。最初のものと考えられた原因は、その直接性によって受動的であり、措定されたものであり、結果である。したがって二つと言われた原因の区別は空
虚であって、即自的にはただ一つの原因、すなわち、結果のうちで実体としての自己を揚棄するとともに、またこの働きのうちではじめて自己を独立化する原因が存在するにすぎない。


c 交互作用 (Wechselwirkung)


§156 ▼補遺 交互作用は完全に展開された因果関係であり、実際また反省は、因果性の見地の下に事物を考察することが、前に述べたような無限進行のために不十分であることがわかると、普通それへ逃路を求めるものである。例えば、人々が歴史を考察する場合、人々はまず或る国民の性格および風習はその政体および法律の原因であるか、それとも逆に結果であるかというように問題を論じていき、それから性格と風習および政体と法律を交互作用の見地の下にすなわち、原因はそれが原因であるのと同じ関係において同時に結果であり、結果はそれが結果であるのと同じ関係において同時に原因でもある、という風に理解するにいたる。同じことはまた自然を考察する場合、特に生物を考察する場合にも行われ、生物の諸器官および諸機能は同じく交互作用の関係にあるものとして示される。交互作用は原因と結果の関係の最も近接した真理であって、言わば概念の入口に立っているが、しかしまさにそれゆえに、概念的認識が必要である場合、われわれはこの関係の適用で満足してはならないのである。われわれが与えられた内容を単に交互作用の見地の下にみるにとどまるならば、それは全く没概念的な態度である。というのは、その場合われわれは単なる事実を取扱うにすぎず、因果関係を適用する際まず問題になっている媒介の要求は、再び満足されないままに残るからである。交互作用という関係の適用がなぜ不十分であるかをよく考えてみると、それは、この関係が概念に等しいものでなく、まず概念的に把握されなければならないものである、という点にある。そしてこのことは、この相関の二つの側面を直接に与えられたものとして放置せず、前の二節で示したように、それらをより高い第三のもののモメントとして認識することによって行われる。そしてこの第三のものこそまさに概念なのである。・・・略・・・


§156 (ロ) しかしこの同一性はまた対自的でもある。なぜなら、上に述べたような交替の全体は、原因自身の措定作用であり、原因のこうした措定作用のみが原因の有をなしているからである。区別は即自的にのみ、あるいはわれわれの反省によってのみ空無であるのでなく(前節を見よ)、交互作用そのものが、措定された二つの規定の各々を再び揚棄して、反対の規定へ逆転させるものなのであり、したがって二つのモメントの即自的に存在する空無性を措定するものなのである。結果は本源性のうちへ定立される、すなわち本源性が揚棄される、原因の作用は反作用となる、等々。


§157 ・・・略・・・
§158 ・・・略・・・
§158 ▼補遺 ・・・略・・・
§159 ・・・略・・・
・・・以上で、第2部本質論 終わり・・・


 第3部 概念論 ・・・略・・・
 D. 『資本論』-「小論理学」
■目次
 Ⅰ 『資本論』 
    第1篇 商品と貨幣
    第2篇 貨幣の資本への転化

 Ⅱ 「小論理学」 
    第1部 有論
    第2部 本質論
    第3部 概念論

 Ⅰ 『資本論』 
 第1篇 商品と貨幣
  第1章 商品 ERSTES KAPITEL Die Ware
   第1節 商品の2要素 Die zwei Faktoren der Ware :
         Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgröße)
   第2節 商品に表わされた労働の二重性
          Doppelcharakter der in den Waren dargestellten Arbeit
   第3節 価値形態または交換価値
         Die Wertform oder der Tauschwert
   第4節 商品の物神的性格とその秘密
         Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis
  第2章 交換過程 Der Austauschprozeß
  第3章 貨幣または商品流通 Das Geld und die Warenzirkulation
   第1節 価値の尺度 Maß der Werte
   第2節 流通手段  Zirkulationsmittel
   第3節 貨幣 Geld
 第2篇 貨幣の資本への転化

   ***  ***
 
 Ⅱ 「小論理学」 
  第1部 有論 Erste Abteilung der Logik. Die Lehre vom Sein 
        §84-§111
   A 質 Qualität §86-§98
   B 量 Quantität §99-§106
   C 限度 Das Maß §107-§111
  第2部 本質論 Zweite Abteilung der Logik. Die Lehre vom Wesen
        §112-§159
   A 現存在の根拠としての本質 A. Das Wesen als Grund der Existenz
        §115-§130
   B 現象 B. Die Erscheinung  §131-§141
   C 現実性 C. Die Wirklichkeit §142-§149
  第3部 概念論 Dritte Abteilung der Logik. Die Lehre vom Begriff
        §160-§244

D.『資本論』第1章-第3章

 D. ヘーゲル「小論理学」

Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse